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林忠崇,幕末戊辰,脱藩大名_林忠崇(5編
幕末,戊辰,箱館戦争,林忠崇資料編,脱藩大名,上総請西藩事情,林家&人物,林忠崇の参戦前の流れ,参戦から降伏年表,遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎との繋り,随従請西藩士の宿命,ブラックリストの藩と代官所:自刃&首犠牲,大政奉還の段階で反発を示した藩と人,降伏後の人生,旧暦に於ける閏月の見解概略,【楽天市場】
林忠崇,林忠崇資料編
幕末の・・・若き純情_上総請西藩主_
林忠崇
_No.5(資料編)
脱藩大名_
林忠崇
_No.5(資料編)
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幕末玄関
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林忠崇
SEIRES:
No.1
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No.2
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No.3
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No.4
<
No.5
(現在の頁)
林忠崇
の参戦前の流れ~参戦までの経緯
※
月日
参戦前の世の流れと、請西藩及び林忠崇のメモ書き出し
参
戦
前
の
世
の
流
れ
と
、
請
西
藩
及
び
林
忠
崇
慶応2(1866)年
■7月:第二次長州征伐は将軍徳川家茂死去で撤退。■12月:孝明天皇死去。■12月5日:15代将軍慶喜が立つ。
慶応3(1867)年
■6月:前藩主_忠交が、伏見奉行在職中の急死、■6月:20歳で忠崇が藩主。
■10月14日:大政奉還。
明らかに抵抗を示した6藩と3人の老中
_忠崇が藩主になって、わずか4ヶ月で、大政奉還。徳川慶喜は、政権を捨て、総理を辞した。
■12月9日:王政復古の大号令:「天皇親政」宣言=慶喜には辞官のみならず、納地(全幕領の返上)が
命ぜられた。■藩論は結果として、恭順姿勢を示す。
慶応4年(1868年) →明治元年
1月3日:鳥羽・伏見の戦い勃発
2月3日慶喜を朝敵とする追討令が正式に下った。 新政府は徳川慶喜親征の詔を発布。
2月12日:徳川慶喜、江戸城を出て上野寛永寺大慈院へ移り謹慎。
2月23日:彰義隊が上野山占拠。
3月20日:朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。
3月29日:徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲る
4月11日:江戸開城:新政府軍に江戸城を引き渡して、徳川慶喜は水戸へ移る。
林忠崇
の参戦経緯
*脱藩大名の
シナリオと、
崩壊の現実
藩主自ら脱藩&
賊軍参加では
都合が悪い。
藩主自ら脱藩&賊軍参加では都合が悪い。:隠蔽の作
■隠蔽の作として、藩士59人が撤兵隊に拉致され、藩主は病気で倒れたということにした。
途中で自主参加した11人も含め、70人は、拉致説を流布する作戦。
■藩主を忠弘に譲り、藩主は病気再起不能のため、忠弘が存続すべく請願予定だった。
■がしかし!情報が漏れた。(林忠崇が近郊で参戦中のこと)
■忠弘の藩主案は完全に破棄されて、藩は取り潰しとなる。
■5月17日:林忠崇が沼津藩から箱根へ進撃する2日前に、請西藩は、全領地没収された。
(後々、家臣の運動で、どうにか、忠弘は、東京府士族として、家名存続が認められたが、
家禄は35石に減らされ、極度の困窮はかわらない。)
忠弘について
弟なのか、甥
なのかについて
忠弘について:
前藩主忠交(=忠崇の父、忠旭の弟)の子だから、実質上は、忠崇の甥。
■だが、忠旭は弟の忠交を自分の養子にした。その為、忠崇は忠交を兄上と称した時期もある。
■一方、若くして死亡した忠交の子、忠弘は早速、忠崇の養子に組み入れたかったが、
忠崇は生憎独身。その為、書面上、忠旭の養子にした。
■その為明治政府資料等では弟と記載されたし、本人も便宜上、弟と語る。
※
月日
林忠崇の参戦経緯(参戦中=ALL慶応4(1868)年:途中降伏の為、1869年は当該無)
残数
増減
*
遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎出現、藩主突然、参戦決断
1
4月17日
遊撃隊、人見勝太郎と伊庭八郎、請西藩城中に突如現れる!
意気投合。藩主自ら脱藩&自ら参戦決意表明。
59
2
閏4月3日
閏4月3日
、明け6つ時、午前6時過ぎ、請西藩主_林忠崇は59人の藩士を連れて、
遊撃隊長と合体、出陣。途中で聞きつけた11名の藩士が加わり、計70人。
心得10項目を掲げ、藩士は全員禁酒。
(閏4月とは、この年は、4月の次の月。4月,閏4月,5月と続く
旧和暦の特徴:詳しくはこちら
70
+11
*
出陣から、近郊戦部門:慶応4年(1868)閏4月~5月25日
3
この期間総論:伊豆、相模に航海し、小田原藩(韮山代官所)に助力を得ようと順次小藩を経て動く。
前橋藩,館山藩,小田原藩,韮山代官所他。この時に経由したルート、及び影響を与えてしまった人物に
ついては、下記欄、
ブラックリストに挙がり、自刃&首犠牲の生じた小さい藩と代官所等
と大体一致。
◇影響する事の辛さを経験する。責任&抗議切腹が出た。例)前橋藩にて
小河原左宮
は切腹。
70
■5月17日:沼津藩から箱根へ進撃する2日前に、請西藩は、全領地没収された。
忠崇が病気の為に、忠弘が家督継承とは、偽りであり、賊軍に藩主自ら参戦している
事の真実がバレた。
■同時期:小田原から三枚橋付近で、同行の遊撃隊の伊庭が左手を切ら、片腕の男に。
*
小田原を出た時、請西藩士は本人除く58人。全70-{戦死、逃亡不明、自刃:12人}=58人
58
-12
惨敗敗走から長崎丸に救援を得る迄脱落,死亡:
諏訪数馬自刃
=病を押して参戦。皆の迷惑を懸念自刃。
全58-{小田原残留:1人、帰郷:14人、不明○人、諏訪の自刃:1人}=残り約30人。
30
-28
5/25長崎丸に乗った皆は、6/3小名浜(福島県いわき市)に入った。
5/25乗船段階で、家来二人脱落。
大野尚貞、木村隼人
。
■長崎丸艦長は柴弘吉=松岡正平(:江川代官の元筆頭手代:徹底抗戦派)の長男であり
蟠龍艦長、松岡磐吉
の兄。(
韮山についてはまずはこちらをどうぞ
)
28
-2
*
奥州参戦部門・・6/3小名浜(福島県いわき市)に入った。
4
磐城平*
会津他
6/3~
6/4日、忠崇は榎本に会い、輸送船の礼を述べる。
?
奥州で闘い、その際、奥州兵皆逃げて、遊撃隊しか踏み留まらず、林死の覚悟。
「ああ情けなき奥州、徳川の運これまでか!」
忠崇は馬にまたがり、抜刀、孤騎、敵陣突入憤死を諮るが家臣に引き止められる。
65歳の家老
北爪貢
が馬の轡を捕らえて離さない。引き止めようと必死。
これを見ていた
檜山省吾
が己が身代りに突貫しようとした。涙の中忠崇は撤退命令。
会津へ行くことになる。しかし途中でだめ。手記より概略
「山の中、蔦を掴んで峰に登り、木の根を頼りに谷に下り、5人3人、散り々になって
磐城平の城に帰る。」
この時、失ったのが、
大野禧十郎、大野静、重症は小幡直次郎、水田万吉
。
?
-2
5
6月
相馬中村城
応援へ向けて
相馬中村城下
7/7到着
■6月29日:
徳川の処置決定新情報を耳にする。参戦中、遅れてこの日に知る。
田安亀之助(後の徳川家達)が閏4/29存続決定、同年5月24日付、僅かながら、
駿府藩主として70万石を与えられた旨
■戦死などで、藩士は19人に減った。
■相馬中村城応援。林藩主自ら参戦と聞き、相馬中村城下7/7到着の際、藩主相馬誠胤
16歳は歓迎。しかし老獪な家老達は林に無理やり酒を飲ます。負けてなるものかと呑ん
だ。後世、ぼやいてる。「遊撃隊にせよ、奥州にせよ、剣客なんて、酒をのまないと
つきあえない連中とは・・・」
19
-?
6
会津
~
仙台白石他
7月~9月
■中村滞在中に、旧幕府若年寄並の竹中重固は会津亡命。会津へ来いという。
忠崇は、
北爪貢
、
吉田柳助、広部周助
をつれて会津へ。
■会津も絶望。8/5会津を後にする。
■中村へ戻ろうとすると、仙台藩主伊達慶邦の使いが来る。
吉田を中村へ使いに出す、
北爪と広部は会津に残し
、
本人は
檜山省吾
と
木村嘉八郎
をつれて仙台へ。
■白石城について、で輪王寺宮能久親王に謁見。慶邦と共に会津へ向かおうという
ことになるが、
■米沢へ行き、なぜか知らないが米沢の為に戦う気だけはしなかったようだ。
(助けを求められると断れないタイプなのだが・・)
■輪王寺に使いを送り、護衛を申し出るが断られる。断ったのは、
部下側近の覚王院義観。
(皆のいいように使われて気も、ついにしてきたか・・・)糸の切れた凧状態。
■
広部周助
と北爪は会津篭城には巻き込まれずひとまず生きた。広部は南総に帰れた。
■
北爪貢
は、9月2日、上野利根郡戸倉関門にて惨殺される。
政府へ降伏謝罪に出向く途中で殺されたことになる。
18?
-1
慶喜は藩校弘道館の一室にて引き続き謹慎した後、
7月
には徳川家は駿府に移された。
*
参戦中恭順の兆し
7
仙台、白石
松島、塩釜
9月
■忠崇は、
伊能矢柄、大野友弥、長谷川源右衛門、中村三十郎、檜山省吾
を
仙台に残し、松島、塩釜へ、このままだと蝦夷へ・・・。悩む。
■庄内に派遣された
吉田柳助
は原因不明の死。
輪王寺も折れていた。そこで、ついに恭順決心。
徳川に身を捨て忠義の全うが目的だったが、引くに引けない状態になっていた。
やっと決心。屈辱の降伏時詠んだ句。
「真心のあるかなきかは、ほふり出す腹の血しをの色にこそ知れ」
最終
19人
8
9月11日
■9月11日
:9/9、仙台藩は一変して、伊達慶邦が恭順に転じた旨を聞き知る。
■仙台藩士氏家晋からの手紙。降伏謝罪すべし!
(降伏した仙台に勧められ、田安亀之助に領地が僅か与えられた事から決断)
「これで、己は徳川にお役目果たし申した。」
9
10月3日
仙台で恭順、自首。
■最期に共に林香院に謹慎したのは藩士19人だった。
10
11月7日
仙台から東京へ護送された。刀を取られて家臣を引き離され一人。
謹慎先は当初、江戸唐津藩邸。後数箇所。
11
晩年概略
詳細は下欄「経緯」のとおり。捕縛、謹慎。やがて釈放されたが、極度の困窮の上、
己の決断で、林忠弘(藩主を引き継ぐ予定だった)他、皆に思わぬ転落の人生を
歩ませ、責任苦渋の人生。臣達の奔走で、晩年、やっと本人も遅れて華族地位に。
*
経緯で追うと人数が若干合致しないが、最終は19人
ブラックリストに挙がり、自刃&首犠牲の生じた小さい藩と代官所等、左幕ムードの譜代等
◆必ずしも林忠崇のせいではないのだが、藩主自ら脱藩参加は皆の心を打った。遊撃隊と林の影響は大きい。
◆彼らに協力した藩、一部の藩士による加担、強引に追い出せなった力不足の藩等がブラックとして責任を追及された。
青字は死を伴う犠牲
茶の太字は、藩主以
外の家臣達が追放等
の犠牲発生ケース
援助金が解っている藩
◇前橋藩:500両、
◇左貫藩:300両、
◇近江三上藩:200両
◇小田原藩:3000両。
3000両=
現代の感覚では
約5000万円。
◇韮山代官所:1000両
◇佐貫藩にて:同藩の兵の他、別途一部の撤兵隊も遊撃隊に合流
請西藩(新藩主_林忠弘)林忠崇本人だけでなく、家督を譲ったつもりだった
林忠弘は、同年慶応4年5月17日付、全領地没収されて、路頭に迷う運命。
飯野藩_藩主_保科正益
左貫藩_藩主_安部正恒
300両を応援資金として遊撃隊へ渡している。
同藩脱藩士ら合流。彼らの中には、フランス式調練を受けた兵も居る。
勝山藩_藩主_主酒井忠美
小田原藩_藩主_大久保忠礼
僅かな間だが、遊撃隊と手を結んだ為処罰。
◇藩主大久保忠礼は永蟄居。◇石の11万3千29石から、75000石。
◇家老の
岩瀬大江進
は自ら謝罪切腹。
◇
小泉彦蔵、山田龍兵衛
は新政府と戦ったため、斬首の上、曝し首にされた。
3000両を応援資金として遊撃隊へ渡している。
沼津藩_:追放しなかった罪で、
家老_吉田喜左衛門
が追放された。
前橋藩:遊撃隊から離脱して帰藩した
白井宣左衛門
の首を新政府へ提出。
遊撃隊に富津陣屋を皆で取り囲まれる。人見と伊庭が陣屋に入り、
前橋藩家老、小河原左宮
と交渉。回答はNO。しかし、この最中、一瞬席を
外した
小河原左宮
は、たちまち切腹
してしまった。軍資金と兵糧、歩兵押収。
歩兵20人+500両を応援資金として遊撃隊へ渡している。
勝山藩:
福井小左衛門
、
楯石作之丞
の首を新政府へ提出。
飯野藩:
樋口弥一郎、野間銀次郎
を処分。首を新政府へ提出。
家老の樋口弥一郎61歳の辞世の句。
大幹や松の恵みの露受けて死も草の木も育ちぬるかな
大幹とは徳川。松とは松平の意。悔いはないといっている。
遊撃隊同盟として、隊長、大出【金辰】之助、同藩、脱藩19人が参加。
・・・【金辰】は一文字:機種依存文字につき
近江三上藩_200両を応援資金として遊撃隊へ渡している。
駿府藩:脱藩25人+小者?人が遊撃隊同盟に参加参戦
岡崎藩:隊長_和多田貢(奥州で死)+同藩脱藩22+小者2人が遊撃隊同盟に参加参戦
館山藩:隊長_山田市郎右衛門+同藩脱藩14人が遊撃隊同盟に参加参戦,兵糧与える
韮山代官所:
(武蔵、相模、伊豆、駿河、甲斐の五各国幕領のうち、26万石所有)
反射炉を有する。農兵を有する。この頃、力をもっていたのは、柏木総蔵。
左幕派でない。答えはNO。しかし、領内には応援派がいた。
1000両を応援資金として遊撃隊へ渡している。
遊撃隊同盟
:
◇駿府藩:脱藩25人+小者?人
◇岡崎藩:隊長_和多田貢(奥州で死)+同藩脱藩22+小者2人
◇館山藩:隊長_山田市郎右衛門+同藩脱藩14人
_この中に「高龍寺分院の惨劇」時の病院掛
木下晦蔵
もいる。
◇飯野藩:隊長_大出【金辰】之助+同藩脱藩19人,【金辰】は一文字:機種依存文字につき
◇左貫藩:フランス式調練を受けたアスリートを送り込んでいる。
大政奉還の段階で明らかに反発を示した藩と人
慶応3(1867)年
10月14日:大政奉還
同年、朝廷は270藩全ての藩主に京都への呼び出し。徳川家と存亡をともにするか、
朝廷に仕えるか二者択一。しかし、この段階では、すんなり応じる者はさほど多くなかったが、
たちまち総崩れに追い込まれた。
明らかに抵抗を示した6藩
◇庄内藩主:酒井忠篤、◇姫路藩主:酒井忠惇、◇忍藩主:松平忠誠、
◇三河吉田藩主:大河内信古、◇浜松藩主:井上正直、
◇岡崎藩主:本田忠民=6人
明らかに抵抗を示した3人の老中
◇淀藩_藩主_稲葉正邦、◇川越藩_藩主_松平康英、◇
唐津藩主世子_小笠原長行
、
(唐津藩自体は恭順、長行の単独)
林忠崇が教えてくれた遊撃隊の事&追記
林忠崇が描いた絵
▼
英雄_伊庭八郎
小田原から三枚橋へ。伊庭八郎が左手を切られた瞬間の絵有り。林忠崇本人の絵。
一般に目にしやすい絵は、世情を加味して、あえて八郎でなく七郎、時代も江戸時代
でない風に工夫されたあの絵だと思います。林忠崇は絵のプロではありませんから、
あのように格好良い美青年に描き出すことはできませんが、現場にいた者特有の
リアルタッチ。シンプルな絵の中、勇敢な伊庭への賛美が満ち溢れています。
腰にも被弾。地面に切れた腕。それでも、寄って集る敵兵を仁王立ちで木っ端微塵。
阿修羅状態。リアルです。
伊庭の百人斬り、一太刀で斬るは当時の江戸っ子も魅了された。
林忠崇の手記
▼
英雄_岡田斧吉
の銘スピーチ
こんなに頑張っても、箱根戦は、結局襤褸負け状態になった。皆、死を決心。
その時の英雄=岡田斧吉【(遊撃隊頭取改役)=明治2/4/17箱館戦争中、折戸で死亡 】
箱根で窮地に陥った時、皆の切腹を阻止した岡田斧吉の銘スピーチ
「我らの志は、徳川の回復のみ。悪戯に憤死するは愚か。海に出て再挙を諮るべき。
房総に敗れんか、奥州に敗れんか、蝦夷に往いかん。」
藩主_
林忠崇
に随行して帰還した藩士、&殉死した藩士
・
主な人名
死明確=
×
藩を出陣する時、計70人(城から同行59人+聞き知り駆けつけ11人)+本人:林忠崇
右列について:生きた明確=
●
,多分生きた=
◎
,死亡明確=
×
●
◎
×
1
北爪貢
×
65歳の家老。
林忠崇は、北爪と広部は会津に残し
、己と他藩士は仙台へ。
北爪貢
は著者不明の「戦亡殉難者志士人名禄」にある。
請西藩家老:藩情嘆願の為、上野利根郡戸倉関門(群馬県)に至る。
警備兵(前橋、吉井藩)の為、とらわれて、明治元年9月2日、同処にて惨殺される。
政府へ降伏謝罪に出向く途中で殺されたことになる。
×
2
広部与惣治
(=広部周助)
広部精
の父
必死の藩主説得に係るが、諦め同行。といっても、心中は藩主に賛同。
清い心の藩主に惚れていた。藩の為に、己の生の感情に逆らって説得にかかったが負けた。奥州参戦の中、途中で、
北爪と広部は会津に残され
、林忠崇は仙台方面へ。
※本人手記に、周助が度々登場。おそらく与惣治と周助は同一人物。
●
3
檜山省吾
留守居役だったが随行。降伏決心時点で仙台方面に居た事から多分生存
4
諏訪数馬
(30歳)
×
同行に際して、逃亡するもの、仮病の者がある中、結核で三年間寝たきりの諏訪数馬
が床から跳ね起きて同行。しかし5/25乗船段階で皆の迷惑を懸念して自刃。
この経緯は
No.2
にあります。
×
5
大野尚貞
5/25乗船段階で、家来二人脱落の一人。医者。(~明治10年(1877)3/15)
明治には、従軍医軌跡有り。在住地:市原市畑木村(旧請西藩領地)
●
6
木村隼人
5/25乗船段階で、家来二人脱落の一人。
.
7
木村嘉八郎
上記と別人の様子。この人物は奥羽参戦。(■中村へ戻ろうとすると、仙台藩主伊達
慶邦の使いが来る。 吉田を中村へ使いに出す、北爪と広部は会津に残し、林本人は
山省吾と木村嘉八郎をつれて仙台へとあるが、
6/28、新田峠にて戦死
。)
×
8
大野禧十郎
×
6月、磐城平~会津間にて死亡
×
9
大野静
×
6月、磐城平~会津間にて死亡
×
10
小幡直次郎
6月、磐城平~会津間にて重症
.
11
水田万吉
6月、磐城平~会津間にて重症
12
吉田柳助
×
北爪貢、広部周助と共に会津へ随行した者。会津に仙台藩主伊達慶邦の使いが来た際、
中村へ使いに出された。庄内に派遣された彼は原因不明の死。
×
13
伊能矢柄
降伏決心時点で仙台方面に居たことから多分生存
◎
14
大野友弥
〃・・大野姓は上記のとおり、死亡者も含め当初全4人居た。
15
長谷川源右衛門
〃
16
中村三十郎
〃
17
宮崎亀之助
6/28、新田峠にて行方不明
多分×
18~19
小倉由次郎、篠原愛之助
・
他に:名前?
生きて捕縛謹慎系だけでも、他数人居る。70人全名簿今のところ不明
生き残りは計19名、晩年、貧困の林を
助けた人、広部精
※
名前
藩主_林忠崇に随行して帰還した藩士、&殉死した藩士
×
は
死明確
★注★_慶応4年=1868年について:
■旧暦に於ける閏年。現在の閏感覚だと、4年に一度2月が長いとなるが、当時は異なる。閏年は1年が13ヶ月ある。
この年の場合は、
4月の後に「閏4月」が来る
。それから5,6,7月と続く。但し、この年がダブル4月であって、
どの元号に於ける何回目の閏もいつも4月×2回ではない。それぞれ異なる。
■慶応4年表記は=慶応4年9月8日(1868年10月23日)付で、明治元年となる。遡って同年1月1日からを明治元年と
称するべくが、新政府の方針。その為、同年内容を明治元年1月○日と記載された資料があってもそれは誤りでは
ない。例)鳥羽伏見の戦い=慶応4年1月3日が、明治元年1月3日と書かれていても同年の事。
■
慶応と明治を読む時「頭混乱の時!」
▼
・【慶応と明治】,【江戸と東京】、【慶応4年に於ける4月と閏4月】、【明治6年の新暦について】
■
林忠崇
の人物、林家、請西藩について、■
林忠崇
の謎の晩年
脱藩大名_上総請西藩主_
林忠崇
生と死
嘉永元(1848)年7月28日、請西藩主忠旭の五男として生まれる、幼名昌之助、20才で藩主、
昭和16(1941)年1月22日午前11時、93歳で生涯を閉じた。
次女ミツの経営するアパートにて病死。
著作
「おもひ出くさ」
人柄特徴教養
身長5尺6寸。面長、鼻筋通り、気品高く、瞳の光強く。
和歌、狩野派の画法、など文武両道の若きホープ。江戸城に登城。若年寄の評判良く太鼓判。
林家の伝統
徳川家歴代の伝統、林家からの正月の贈り物、徳川伝統の兎の吸い物用兎。兎狩り。兎の兜。
藩主になるまで、直前の藩内の流れ
本人(忠崇)
の父
忠旭:前々代藩主
前藩主=忠交
弘化2年(1845)~ 慶応3年6月24日(1867年7月25日)享年23。
伏見奉行在職中急死。【父、忠旭の弟。本人(忠崇)にとって叔父】
貝淵藩時代の初代藩主忠英の四男。幼名:武三郎。(35歳の急死と記載された資料もある)
兄忠旭の養嗣子となる。
◆本人(忠崇)にとって:実質叔父=父_忠旭の弟。
しかし、書面上、父が忠交を養嗣子にしているため(忠崇の兄が早世した為急ぎ養子とした。)、
忠崇は、兄上と口述することもある。
譜代大名の林家
(直近の代から
記載)
:家康8代の祖
松平親氏の代
からの家臣
・・・旧代略: (直近の代から記載)
◆忠英時代:天保10(1839)年、
11代将軍
家斉
の寵愛を受け、禄高3千石の旗本から1万8千の
貝淵藩の大名
に駆け上がる。
◆忠英時代:天保12(1841)年、
家斉死亡の後、老中水野忠邦の派閥整理にかかり、1万石の身代に転落。
忠英は水野に嫌われたいた。隠居に。
◆忠旭時代:
忠旭が相続。しかしこの段階で陣屋は、貝淵近郊の請西村間船台に移動したことから、
貝淵藩は消滅、請西となった。
忠旭が隠居→弟の忠交(ただかた)が相続。
◆忠交時代:安政元年(1854)年、藩主に。
伏見奉行在職中の慶応3(1867年の6月)、急死。
◆忠崇時代:慶応3年(1867)年、20歳で忠崇(忠旭の5男)が藩主。
鳥羽伏見に参戦が遅れた同藩の様子
鳥羽伏見に出遅れ。原因不明。慶喜が船で引き返す時、船で、向う途中であり、海上で
すれ違った為、確認に人を急派遣。その結果引き返し。
本人の記録
:口惜しさと憮然たる胸中。
この日、空かき曇り、北風もっとも烈しく、夜半に到り白雪粉々たり。
志と人間関係
彼の運命に
関わった男
■遊撃隊の伊庭八郎と人見勝太郎
:請西藩城中に現れ、影響を与える。その為、藩主自ら脱藩&参戦。
■榎本武挙:奥州へ向かう長崎丸に彼らを乗船させるべく配慮した。
★人見も榎本許されて出仕している頃、林は官位剥奪のどん底貧困。救済の手紙を送ったが無視。
(蝦夷へ行かず、仙台で恭順したことが許せなかったようだ。)
戊辰の行動
志のために藩主の座を捨てた。自ら脱藩して官軍と対決。
箱根、小田原官軍と激突。奥州各地転戦。仙台で恭順。
自首恭順後
明治1年10月3日(1868)仙台で恭順。
明治1年11月7日(1868)東京へ護送された。謹慎先は唐津藩邸に始まり、後忠弘家など盥回し。
亀裂と懊悩
忠弘との歪み
夢の代償、友情と亀裂、戻らぬ時計の針
■共に戦った遊撃隊出身者&榎本軍とのその後の関係
_榎本も人見も彼を無視した。:仙台で恭順したことが許せなかったようだ。
■林忠弘との関係:忠弘(=忠崇にとって、実質甥。忠交の子。)
_自分を転落させた忠崇とうまくゆくわけはない。しかし晩年
広部精
ら、家臣の計らいで
_再会一応和解。忠崇を恨む忠弘の気持ちを緩和する為に、忠弘の借金を広部精が肩代わりした。
<忠弘の経緯:忠崇を恨む気持ち>
慶応4年5月17日(1868)
忠崇が箱根進軍中、シナリオが暴かれ、藩主自ら脱藩参戦の事実が新政府がキャッチ。
その為、新藩主になる予定が崩れ、領地没収されて、どん底。
明治2年11月10日(1869)
前請西藩主忠崇の弟林忠弘「藤助」をして其先祀を嗣がしめ、禄300石を賜ひ、
士族と為す。 (細々極小領地だが与えられ、士族の肩書きも復活)
忠弘について:
前藩主忠交(=忠崇の父、忠旭の弟)の子だから、実質上は、忠崇の甥。
■だが、忠旭は弟の忠交を自分の養子にした。その為、忠崇は忠交を兄上と称した時期もある。
■一方、若くして死亡した忠交の子、忠弘は早速、忠崇の養子に組み入れたかったが、
忠崇は生憎独身。その為、書面上、忠旭の養子にした。
■その為明治政府資料等では弟と記載されたし、本人も便宜上、弟と語る。
結婚と女性
結婚と女性
参戦時は独身。謹慎後、結婚も女性も3~4回位。初期の入籍していない者も有る。
■初めの女性は、侍女または、正室を娶る前の側室的存在(お手付)ではないかといわれる。
(藩主時代、忠崇は20歳と若く、独身だった為)
■2人目の女性は、帰農していた頃の縁で平民。
■3人目女性の間に娘生まれるが早世。
■明治18年頃、第4の女性。チエ。埼玉県の小島弥作の次女。この時本人は38、知恵は32.
ミツという名の娘生まれる。かつての家来広部の努力で、大阪に居た林が東京に移る時、
チエと離縁。嫌いで離縁したわけでない。離れて暮らし明治37年チエ死亡。
晩年は娘ミツに支えられ天昇の日まで共に暮らす。
屈辱の自首、恭順。彼を支えた人々
かつての自領地
の農民達
謹慎預け先が小笠原家から忠弘家に変更なされたが、当然お世話になれる身でない。
早々に帰農して農民に。その時、かつての自領だったことから、近隣の農民達が、心配して
妻を世話した。彼らは、かつて自ら藩主の座を捨て、出陣した勇敢な青年藩主を涙で
見送った人達。
豪商仲栄助
箱館の自店で番頭として雇う。
神奈川県座間市
の龍源院住職
生活に困窮、放浪状態だった頃、表向き寺男のような状態で寺に住まわせ保護した。
広部精
広部周助と、
倅:広部精
■奥州迄随行した広部周助(≒与惣治)の三男:安政元(1854)年7月11日~明治42(1909)年8月15日
■広部は、請西藩の林家家格復興運動。小笠原家にも声をかけ、助力を依頼。大阪に居た忠崇を
東京に引っ張り、忠崇の名誉復活の運動をする。借金も肩代わり。ついに華族。
しかし、チエと離縁せねばならない理由が、ここにあったようだ。
娘:次女のミツ
嫁ぎ先岡山へ父、忠崇を呼びいれ同居。チエ離婚後、別れた夫から移行された会社の権利を
有し、ミカド商会を経営。フランス人形とママー人形の製造&デパート等に卸す。
しかし戦争で、その外国品商売に圧力がかかり廃業。アパート経営に切り替え、父を養う。
死の瞬間は見とれなかったが娘と共に暮らしていた。
妹尾順平
娘:次女のミツの夫。娘が離婚するまで共に岡山で暮らす。この人物が東京で新たに
業務にTRYして失敗。離婚。
自首、恭順後の暮らし概略:詳細年表は現在の頁下枠
恭順後の暮らし
帰農、官吏、番頭、不明謎時代、神主・・・等々、職も転々、住居も転勤族以上の急ピッチ。
自藩内領、函館、岡山、神奈川、大阪、東京など。
恭順後から晩年、死亡迄
1
謹慎1
謹慎先は唐津藩小笠原家。林家の一門だから一応親類。朝8時から午後3時まで正座。
朝は鶏を飼って孤独感から回避。
夜、何度も死んだ母に呼ばれる夢を見て目が覚めた。
1年4ヶ月で忠弘に預け替。九段下に住んでいたらしい。
2
謹慎2
忠弘の元に、謹慎先が移行されるも、貧乏に陥れられた被害者である忠弘とうまく
いくわけがない。早期に離別。
3
自活帰農
昔の己の領地だったところで農民を試みる。
4
下級官員
明治6年
1873
12月東京府の十等属下級官員になる。学務課。大久保一翁の配慮らしい。
5
下級官員
明治8年
1875
上記学務課に於いて、当時楠本正隆と喧嘩辞職。楠本は遊撃隊と戦った経緯がある。
6
函館で
番頭
今度は商家の番頭になる。そこは函館。
豪商仲栄助
氏に世話になる。
函館を去ったのがはっきりしないが明治10年代のようだ。その頃、上記の仲氏は死亡。
7
明治13年
大阪府に
奉職
第三の女性と別れ、神奈川県座間市の龍源院に、寺男かなんかの名目で住む。
実際は、住職に保護されていた。
8
明治18年頃
第4の女性。チエ。埼玉県の小島弥作の次女。この時本人は38、知恵は32.
娘:次女ミツが生涯、彼=林忠崇を支える。
9
ついに
華族
助けた人:広部精:
藩主に従い参戦した広部周助の三男。
広部は、請西藩の林家家格復興運動。小笠原家にもはたらきかけて、大阪にいた本人を
東京に引っ張り運動。借金も肩代わり。ついに華族。しかし、チエと離縁。嫌いの離婚でなく、
便宜上、華族への申請にあたって離縁が必要となったようだ。
10
明治27年
宮内省
宮内省の東宮職出仕。庶務課。しかし病気退職。
11
明治37年
最期の妻=チエ死亡。日露戦争の兆し。
12
岡山で
暮らす
娘のミツは岡山県苫田郡津山町に妹尾銀行を経営する妹尾順平に嫁ぐ。第一次大戦の最中。
妹尾順平:明治13年生まれ、娘について岡山へ。
妹尾順平は富を得た。東京へ行って代議士をやってる間に経営暗転。
大正11年暗転。横浜に本拠を移して再度構築。横浜の大和商会と東京の帝商会。
83歳の林本人は東京へ。
13
83歳の時
東京へ
娘は離婚した。しかし、帝商会の経営権は取得の上離婚。帝商会でなくミカド商会に改名の上、
娘が経営。この会社で、娘は、東京内有名デパートにフランス人形を製造して収める。
身体を90度押し曲げるとママーとしゃべるママー人形もあったそうだ。
14
昭和15年5月
東京内で
引越し
卒寿90歳
戦争のせいでフランス人形の商売は傾く。娘はアパート経営に切り替える。
昭和15年5月、豊島区高田南町1丁目1番地の高田荘へ引越し。卒寿90歳の祝い。剣道で鍛えた体は
卒寿90歳の写真でも少しも腰が曲がっていない。
15
死亡
老齢になっても、絶対普通に仰臥しないで就寝する。刺客に襲われないように、やや横に向けて
、即座に立ち上がれる体勢&即座に刀を持てる体勢で寝るのだと本人が語った。
東条英機の生き恥曝さず散華すべし発言の後、風邪をひいた。その後、ついにいつもの寝方が
できなくなってきた。死期近し。娘が思う間もなく、逝った。
辞世の句
辞世の句は
二度ない。
律儀な家臣も、父から聞いて林の保護を決心したその子の世代も、そろそろ、自分が
いつまで生きれるか自身がない。その前に、事前に
林忠崇
に辞世の句を確認したことがある。
すると、こう言った。
「辞世はもうやったぞ。あれは明治元年9月21日、仙台でやった。辞世の句は二度ない。」
屈辱の恭順、死を覚悟した時のあの句。
「真心のあるかなきかははふり出す腹の血しをの色にこそ知れ」
「戊辰に戦った最後の男_
林忠崇
」と「一般に言われる最期の男達」見解別比較表
1
最期の大名
尾張徳川家の19代当主、徳川義親:明治19年(1886)~昭和51年(1976):享年90歳
■維新1868年時:全然生まれてない!
2
広島藩代12代当主、朝野長勲:天保13年(1842)~昭和12年(1937):享年95歳
■維新1868年時:26歳
3
最期の
戊辰参戦者
池田 七三郎:嘉永2年11月13日(1849年12月27日)~昭和13年(1938年)1月16日。享年90歳
新選組平隊士、新選組の最後の生き残り。本名稗田利八。
■維新1868年時:19歳?
4
永倉新八:天保10年4月11日(1839年5月23日)~大正4年(1915年)1月5日。享年77歳
※最期ではないが、少年隊士出身の上記池田と異なり、頻繁死闘経験者。
■維新1868年時:29歳
上記1~4と林忠崇を比較
5※
最期の
戊辰参戦者
林忠崇
嘉永元(1848)年7月28日~昭和16(1941)年1月22日午前11時、享年93歳
■維新1868年時:20歳
◇一般によく言われる最期の男:3の稗田利七より長く生きた。
◇最期の大名という点では、昭和51年(1976)まで生きた上記番号1番の徳川義親。
しかし、この人物は明治19年(1886)年生まれであり、戊辰に全然関係ない。全然生まれてない。
◇上記番号2番の浅野長勲は、維新時、26歳の人物が、昭和12年まで生きたからすごい。
しかし、自ら戦場を走り回ったかどうかは不明。
藩主自ら戦ったといわれるのは、桑名の松平定敬、備中松山板倉勝静。しかし、刀を振り回して、
野を駆け回ったり死闘経験はどの程度か不明。
■この点、林忠崇は、何人斬ったとか、斬られてこんな怪我をしたという話を探し出せないから、
やはり守られていた様子は否定できない。しかし、奥州苦戦の最中、丸一日、山中空腹の
まま隠れ、徒歩敗走。蔦につかまって、急な斜面をよじ登った。この逃走劇中、家臣の数名
を失っている。また、これも未然に家臣に取り押さえられたが、抜刀して単騎敵中突入憤死を
はかったこともある。馬ならずや、徒歩で延々何十キロも歩いて逃げた。
■それに、
なんといっても、唯一の脱藩大名
だった。
幕末玄関
<
林忠崇
SEIRES:
No.1
<
No.2
<
No.3
<
No.4
<
No.5
(現在の頁)
唯一の脱藩大名_
林忠崇
SEIRES:完!
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
薫風館
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