幕末二本松少年隊悲劇_1

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二本松少年隊の悲劇
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二本松少年隊 の悲劇と霞ヶ城(悲劇と敵の懊悩)<No.1(現在の頁)<・・・ ★ 少年の名前で個別編直撃検索
二本松少年隊 の悲劇_皆の悲劇と敵の懊悩_No.1
どうしてこんなことになった!? :慶応4年7/29落城と共に死す
二本松戦SERIES: No.1 (現在の頁)< No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 No.7 No.8
シリーズ:■1~2:大脈,木村銃太郎先生,大壇口のニ勇士,野津道貫他,■3~6少年達の悲劇、各個人編,
■7~8:大人の犠牲者と活躍、おまとめ
霞ヶ城の太刀風
これは青年兵の描写ではない。12~15歳の少年達なのだ。


少年達の生き残りが書き残した。

霞ヶ城の太刀風

霞ヶ城の天地は忽ち叫喚修羅の様に化す。

地を迸しらせて叫ぶ者有り、負傷して呻く者あり。

ときの声と銃砲の声相和して、山野に轟く。

互いの目は血走り、口は噤み、
物言う事も意の如くならず、
火薬で、両の手は墨もて染めたが如く。

さらに、同様に汚れた手で目を拭うからさらに。
少年達の顔は、目ばかり光る海坊主のごとし。



木村少年隊に属していた 上田孫三郎14歳 が、書き残した。後:佐倉孫三とも。
皆の悲劇と、心に落とし込まれた深い影


二本松戦争は、あっけなかった。慶応4年7/29落城。

攻め込まれて、たった一日で滅ぼされた。子供と老人以外、兵は居残っていなかった。
しかし、幼年の少年とて、今にも崩れ落ちそうな老人とて、
最期の瞬間まで、皆兵だった。皆、戦って死んだ。

政務の都合で僅かに残っていた青年の数は、一握りにも満たない。
官軍にとっては、赤子の手をひねるも同然だ。

それは、悲しきかな、数値が物を言う。
二本松藩死者は340名前後 。対する官軍死者は数十人。



しかし、後にこう語られた。

二本松は「戊辰戦争中第一の激戦」であった。

それが何を意味するか、
人はその重みを背負って尚生き続ける宿命。

二本松側の被害を思えば全く桁違いに、
僅かな官軍死者の内、
その一人は、確実に、背負い込んで死んでしまった。
この人物もまた、哀れである。

地球のどこかで繰り返される戦争。もしも皆、
二本松を知ってくれたなら・・・そう思う。


二本松の霞ヶ城は、
人の心に、深い影を落として、消え去った。



少年達、皆それぞれの物語:涙の結末



史実を知って、登場人物を読むと、人は皆、たいていその中の誰か、一人に己が同化してしまう
のだといいます。ちなみに、箱館戦争で一番最後まで戦い、壮烈な死を遂げた男、中島三郎助は、
三浦義明(=衣笠城主:源頼朝に殉じて、孤軍奮闘して戦死した人物)の話に心奪われたといいます。

また、新撰組の近藤勇は幼少の折、父に『三国志』をよく読み聞かされて、中でも、
義に生きた男『関羽』の悲壮に涙した少年だったといいます。今の時代、こうして客観的に見ると、やはり似ています。

皆様は、どの人物に心奪われることでしょうか?

私は、この二本松に於いて、どうゆうわけか、 成田外記右衛門 という人物に同化してしまいました。
二本松の悲劇をご存知の皆様にとっても、比較的マイナーな存在で、悲劇のヒーロー張本人ではありません。
しかし、彼こそ生きて影を背負い込んだ悲劇の主と感じます。

少年達の悲劇、どうして発生した?!


激戦。苦戦。官軍多勢に、二本松には、ほとんどの精兵(大人の青年男子)が
居ない状態だった。奥州列藩、他藩の危機に際して、援軍に行っている。
・・・(もう少し詳しくは下枠)

少年達が志願。12歳から17歳までの子が参戦、犠牲となった。
比べてみると、16歳と17歳の子合計よりも、13~15歳が圧倒的に多い。

理由のひとつに、この藩には「入れ年」制度があった。少年であっても保護者が
同じ隊に居る場合や、特別な理由が有る場合、16歳、17歳は出動可能なのだ。
非常事態であることから、その年齢層は、当然のごとく大人達の隊に分散混入している。
つきつめると、16、17の犠牲者は、一般に言われているより、
はるかに多い可能性がある。


そのため、残っている者は、15歳以下の子供と老人。及び極僅かに残っていた16~17歳。
この非常事態において、少年達の為に、砲術塾を営む木村銃太郎先生が立ち上がった。
少年達、自らの志願だったからだ。出動許可が降りた時、少年達は歓声をあげて喜んだという。
指を咥えて、己の藩が官軍ごときに屈するを見過ごすのが、我慢できなかったのだろう。



いよいよ、戦闘が開始された。

多勢に、立ち向うは、子供ばかりの僅か20余人の集団だった。
激戦の中、少年砲隊を率いる木村隊長が戦死。
怪我を負った二階堂副隊長も、少年達も疲労困憊で限界。
弾薬も尽きた。もはや絶望。

こうなると、やはり少年だ。途端に皆、泣き出した。それでも、
尊敬する先生の首を敵に取られまいと、満身の力をこめて必死で、
重い首を抱えた。撤退が開始された。
皆疲れ果てて、喋る力すら失せていた。

首が重くて、一人ではとても持てない。二人の少年が、心で先生に
謝って、髪の毛を掴んで、二人繋りで、ぶら提げて、
足を引き摺りながら、やっと歩いた。



どうも様子が変だ。
官軍は、完全に抵抗が止んだ敵の様子を察知した。
この機を逃すまいと、ぐいぐいと接近した。即ち、二本松降伏の合図と見た。

薩摩の将は、初めてこの時、異常事態に気が付いたのである。

「なんと!子供しかいないではないか!」

それは、一目瞭然子供と解る小さな子の集団だった。
もう少し、近づくと、少年達がすすり泣いている声まで聞こえてきた。
隊長らしき人物の首を抱えて、うな垂れて歩いてくる。重い首を、今にも
転びそうになりながら、必死で抱えて、坂道を降りてくるのだった。

「なんちゅうこっちゃ!!」

薩摩弁の大将は、途端に胸が痛んだ。一人大人がいるものの、見逃した。

戦場を一人で歩かせるには危なっかしい。十代の少年達というより、大人の丈の
半分にも満たない幼い子が大半なのだ。この段階で17歳が一人いただけ。
もともと16歳は居ない。当時の15歳は現代と異なり、圧倒的に小さい。

軍団は12歳から15歳の子供集団だったのだ。



一難去って、再び。まさに悪夢の瞬間!

次に遭遇した相手は、いきなり砲撃してきた。
なんと、副隊長が殺されてしまった。少年も撃たれ血に染まった。

敵は、撃った後、俄かに焦り始めた。
撃ってしまってから初に気がついたのだ。
相手が子供の隊であったとは!あわてて、子供達を見逃した。

またしても慌てた。副隊長の他、もう一人、銃撃に倒れた者は、なんと子供だった。
副隊長は即死だが、少年は虫の息。
隊長は、途端に血の気が引いた。兵に命じて、 連れ帰った 。)



少年達の本格的悲劇は、ここからはじまった。

激戦の最中、数名の少年は確かに死亡したが、この段階では、ほとんど生きていた。
しかし、今はもう、指揮官がいない。大人がいない!

疲労困憊で限界なのだが、武士の教えが彼らを支配している。
なんら手柄も挙げずに手ぶらで、帰るに帰れぬ少年の意地もある。

彼らは、朦朧とした意識のまま彷徨った。

度々の砲撃から逃げつつ、やがて離ればなれになった。
結局、一人、また一人と、命を落としていった。


戦争は、大勢の少年達、彼らの尊い命を奪った。
少年達のあどけない笑顔は、天に消え去った。



二本松に少年が出動した訳


慶応4年(1868)閏4月25日、いよいよ、奥州は凄惨な戦場の嵐にのみこまれた。
ここに白河城攻防戦が転回された。

官軍大将は、薩摩の伊知地正治。一気に1700人が押し寄せた。
しかし、奥州列藩とて、負けるものか!
会津兵を中心に東軍は、白河城の守りを固めた。
東軍の大将は、会津の西郷頼母と、仙台の瀬上主膳以下、2000人だった。
取ったり、取り返したり、激戦の嵐となる。結局負けた。

翌日、閏4/26に二本松はそれを知り、さらにその翌日27日には援兵を送り込んだ。
二本松の精兵は、この後、退路を絶たれ、二本松に帰藩できない状態に陥ったのである。
二本松は、最も剛健なる年齢層、その大半を失った。

ところが、これだけならば、まだましだった。思わぬアクシデントが起きたのである。

7月、僅か二万石の弱小藩、守山藩が転んだ。
大軍勢の下敷きになって、この小藩は、とても、持ちこたえることなどできなかった。

近隣の三春藩が危ない!!
二本松藩は、歯を食いしばり、最後の精鋭部隊を
救済に送り込んだのだった。
しかし、ここに、とんでもない事態が発生した。

■三春と二本松

1_二本松の銃士隊長:太谷与兵衛率いる小隊は、
三春を救済するために走った。
2_続いて、二本松の樽井弥五左衛門の隊も、
三春境の糠沢村上之内に応援に、向かった。

しかし、なんと!三春は既に、官軍に転んでいたのだ!!

史実は、7/16三春藩は官軍に化したことになるが、彼らはそれを知る由もない。
既に恭順した三春は官軍を誘導の上、砲撃してきた。
三春救済に赴いた二本松は、張本人の三春に銃撃を受け、大勢の精兵を失った。

この時の犠牲者は説が幾つもあり判然としないが、最低でも60人は死んだという。
そのうち15~16歳の少年の死者は判明しているだけで3人。武器を持てぬ少年鼓手まで犠牲になった。
生き残り少年は、武藤定助15歳だった。
  • そのため当時は、怨恨深く、狂歌に謳い込まれた。

    会津イノシシ、仙台ムジナ、三春狸にだまされた
    二本松、まるで了見ちがい棒

    ・・・・・二本松の家紋は、丸に違い棒・直違紋(すじかいもん)
なんといっても戦争なのだ。しかも勝ち目のない戦争。
誰がどう悪い。そんな話は、皆立場かわれば、明日は我が身。
また、官軍側の資料では、三春にかかるこの史実は見当たらないのだそうだ。
さりとて、二本松は、被害の張本人である。やはり怨恨が長引いた。




こうして二本松は、強い大人達、勇ましい青年兵士達を、全て失ったも同然の境地であった。

当然藩論は割れた。恭順か、徹底抗戦か。
この時、主戦派家老:丹羽一学は、意を決して、こう語った。

「今降るもまた亡び、降らざるも亡びん。亡びは一なり。
むしろ死を徹して、節を守るに如くは無し。」


この藩は、恭順した大垣藩と親戚筋にあたる。
官軍側は、そうした縁から、当初、簡単に転ぶであろうと見込んだところ、
以外なことに、こうして予想が外れた。






丹羽一学の思想、 「死を徹して、節を守る」 は、
皆の魂に息づいた。

さりとて、兵と呼べる兵の数など、雀の涙。
青年は、ほんの一握りにも満たなかった。
本来なら少年と呼べぬ程に幼い子供と、老人しかいなかった。


落城の時


慶応4年7/29、ついに、麗しの霞ヶ城、
二本松は落城の火に包まれた。

家老以下、18名の重臣達は、全て悲壮な最期を遂げた。
藩主:丹羽長国は一部の決死隊に導かれ、
米沢へ脱出を果たした。

二本松藩死者は340名前後 。この内、少年は約20余名。

といっても、これは、13歳から17歳迄の子、
その数値である。18歳以上は大人同様に、
少年としてカウントできる状態でなかった。
また、後述に重複するが、足軽や下僕の子達、
及び農民に関して、その詳細が解り難い。
きっともっとたくさん居たはずだ。

そして、実際もっと居た。城が落ちて、獣に化した勝軍。

彼らは己の浴を満たす為、女性に暴行を。陵辱に屈する前に、自ら自刃した者。
獣の餌食になり、屈辱の涙に濡れつつ命を落とした者。絶望の境地、後に自刃した者。
この数値は、もっとも不明の分野である。

どっぷりと日の落ちた城下には、乙女達の泣き叫ぶ声が響き渡っていた。
戦の鉄則。負け人の宿命。その側面は、いつの日も・・・

悪霊の仕業か・・・ 何者かに取り憑かれ、生身の人が、たちまち邪鬼に化した。
闇の掟は、人を支配して、同じ人に生まれながら、人が、人を貪り卑しめる。


二本松藩死者は340名前後。

対して、官軍側死者は数十名だった。



消えた!二本松は、幻の霞。
この瞬間、全て消え去った。

やげて、日が落ちて、二本松は、
・・・真っ暗闇に閉ざされた。



二本松藩の問題点


普通なら、どんなに偉大な人物だろうが、どんなに悲しい最期を遂げた人物だろうが、
銅像を見て泣けてくる人は少ないと思う。
つい、似てるとか似てないとか、どうも発想が、そっちにいくからだ。

ところが、この二本松少年隊の銅像は、違う。泣けてしまう!
瞼の裏側に、少年達、みんなのドラマが映し出されて、辛い。


武谷剛介君の出陣姿は、後の世、ご子孫によって、同年代の子供さんが再現&写真撮影した。
つまり、写真の人物は現代っ子。それだというのに、泣けてしまった。


一部の上層階級を除くと、この藩の場合、家臣達は皆、非常に貧しい。
稽古用の刀しかなくて、土壇場でご隠居さん達、老人に頼んで、実戦に使える刀を
借り出してきた少年がたくさん居る。

阿武隈川の美景、麗しの霞ヶ城。素晴らしい古都。
しかしながら、藩政はあまり、はかばかしくなかったのが実態だ。皆が豊かでない。

近代的な武器もなければ、西洋に関する情報を得て習得している者も少ない。
そんな中、木村銃太郎先生(後述)は、江戸で西洋砲術を学び帰藩した者だった。
徳川の頭脳畑、江川の韮山塾である。砲術に限らず、海防、西洋に係る諸知識も、
きっと習得してきたことだろう。この惜しい人物は22歳。悲壮な最期を遂げた。

彼は、その知識を惜しげなく、少年達に継ぎ込んでいた。
犠牲になった少年達は、いわば貴重な新知識を得た初々しい若葉。皆散った。

また、こんな男も居た。
藩の政情が宜しくない。倹約を心がけ、立て直しを図るべきだと建白。しまいに投獄された。
この人物、三浦権太夫義彰については、後述。阿武隈川のほとり、彼もまた散華を遂げた。

そんな訳で、この藩は、とても勝てる見込みは、もとから無かった。


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しかし、それらは、全て、武士としての誇り。
尊い魂を先行となして、義に殉ずる。

そして悲劇が起きた。

それは、結果として非現実的ではあったものの、
果てしなく美しかった。

文字どおり、霞に消えた霞ヶ城と同時に、
尊い魂も天に飛び去った。


新撰組の土方歳三ファンの皆様なら、一度は聞いたことのあるこの名前
「安部井清介=盤根」 ・・・この人物ご存知でしょうか?

榎本武揚が、奥州列藩の面々に土方歳三を紹介した時、土方の発言。

「長として統率指揮に依存はないが、隊規の尊厳を徹底するために、
生殺与奪権を一任して頂かねばならぬ。」


ざっとこんな内容の発言だった。
各藩の家老は皆、内心躊躇するものの、皆黙り込んでいた。
ところが、その沈黙を破ったのが、上記、 「安部井清介=盤根」 である。

ストレートに、こんな発言を吐いた。

「生殺与奪の権とは、我ら家臣にとっては、それは藩主様に有り、
藩主以外にそれを与えるは家臣の心得に相反する。」


土方が怒ってその場を立ち去った事件とはこのこと。
いわば、 「安部井清介=盤根」 は、土方歳三を怒らせた男なのだ。
その男は、まさに、この二本松。

といっても、それが原因で、土方歳三が意地悪で助けに来なかったわけでない。
土方は4月に宇都宮で怪我を負っている。

安部井清介=盤根の父、勘定奉行の安部井又之丞は霞ヶ城と共に、
切腹して果てた。当時15歳の可愛い弟、安部井荘蔵は、
この時生き延びたが、西南戦争の際、24歳で死んだ。

しかし、安部井清介=盤根本人は明治を生きた。なかなか立身出世。
政界に陣取り、史談会にも登場する。
土方の風貌についても語っている。

「土方は、顔色はやや青く・・・髪は漆のごとく
・・・まあ、美男子と申すべきところでしょう。」



しかし、この悲惨な二本松をなんとか奪還しようと動いた男がいた。

登場したのは、 小笠原長行 。結果は負けだが、
この人物、あいかわらず正義の味方。ここでも頑張っていた。
6月24日 縁戚関係の有る棚倉藩が敗れた後である。
それでも必死だった。


もしも、字が小さすぎてバンザイ!の方いらっしゃいましたら・・
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(少年コーナーについて)
  • 赤い字=明らかに死亡、
    (括弧)付は多分絶望

    青い字=明らかに生存
    途中まで青 い字=多分生存
  • 多くは木村銃太郎の銃砲術塾の子
    但し、それ以外の子もいる。
  • 木村隊はもと23人でスタート。
    しかし、途中から父貫治の教え子や、その他の少年が合流。壊滅した隊等から木村隊長の元へ駆け込んできた。
  • ■印:塾外の子、
    ●印:塾の子だが、参戦現場が別場所だった子。
  • A~Cの識別番号がついている
    人物は、ここに多少MEMOが
    あるか、別途個人コーナー有
  • 識別番号の入っていない子
    可愛そうで仕方ない。何も
    わからないから書けない。
    悲しい。きっと勇敢に戦った
    はずなのに。合掌。

_雑記MEMO

■判明しているだけで参戦少年約70人
実際の死亡は一体どれだけいるのか?
行方不明も多い。特に、下僕や足軽ランクの子情報は解り難いため、もっと多いと思えわれる。

■少年の中、名は不明だが、木村先生の首を敵に取られまいと、最期は、石垣の中に突っ込んだ。

■藩主:丹羽長国:米沢へ脱出:明治元年7/29落城

■二本松の城:霞ヶ城

■二本松は大垣藩と親戚筋。しかし恭順しなかった。

■少年達がどれほど、小さかったか。
7/28、木村先生の母は、集まった子の小ささに嘆いた。本来なら馬3匹で運ぶ量の砲や弾薬箱を、大人も居なければ、馬もない。子らに運ばせるしかなかった。途中で、大八車がひっくり返る事件もあった。




■犠牲以外の大人達=関連人物
  1. B 3_安部井清介
    土方歳三を怒らせた男
    生奪権は藩主以外には与えない
    のが家臣の心得だと言った。
    (A22_安部井荘蔵)の兄
    勘定奉行の安部井又之丞の子
  2. B8_大谷鳴海隊長
    二本松の強者=奥州の土方歳三
    といわれた。明治の世、官職
    に誘われるが拒否した。
    明治8年死亡
  3. 黒田伝太
    上記大谷鳴海隊所属の一人
    「黒田伝太回顧記」著す。
  4. 町人「加茂石松」
    二本松兵と仙台兵他、幕軍兵
    の屍を己の斬首覚悟で葬った。
    (賊を葬ると官軍に斬首される)
  5. 小笠原長行
    この悲惨な二本松をなんとか
    奪還しようと動いた。結果は
    負けだったが、この人物、あ
    いかわらず正義の味方。ここ
    でも頑張っていた。棚倉に縁
    戚関係有。


何で、そんなに解らない?不明が多い?

賊の汚名を被って、明治を生きた彼ら。
苗字を変え、押し黙り、口を噤み、
語らずして身を守った実態が潜んでいた。

語ることによって肩身が狭いどころか、
親族一同に迷惑がかかる。

参戦した少年(18~19除く)は、
今日70名位ではないかと言われつつ、
それは私です! そう名乗り出る人物が
猛烈に少なかった。

文章を残した人々は、それらの苦悩を
覚悟の上でなければならなかった。

緊迫の極貧状態の人なら、
とても語ることなどできない。


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木村銃太郎の銃砲術塾によって
臨時編成された少年砲隊。この隊は
大壇口で戦った。
■隊長:木村銃太郎隊長:22歳
■副隊長:二階堂衛守:33歳
木村銃砲術塾少年砲隊

  1. ●A1_小沢幾弥_17歳
    江戸で学習、新式銃を持
    つ。父が江戸勤務の為江戸っ
    子。木村塾の子だが、行動
    は別だった。
  2. A4_武谷剛介(=後今村)
    出陣姿を子孫の同年代の子
    供が再現&写真撮影した。
  3. A5_ 岡山篤次郎_13歳
    全身に名札を沢山つけた。
  4. A6_1_久保豊三郎_12歳
  5. A6_2_久保鉄次郎_15歳
  6. A9_水野進14歳(借り刀
    「二本松戊辰少年記」著
    明治期二本松町役場助役
  7. A10_徳田鉄吉13歳
    自宅近くで切り殺された
  8. A11_成田才次郎14歳
  9. ★別人、 成田虎治14歳
    副長とかわって首をもった。
  10. 大島七郎13歳
  11. A12_高橋辰治13歳
  12. ■A13_奥田午之助15歳
    自隊壊滅後、木村隊に
    合流。決戦初期に、即死
  13. 1_A15_武谷剛介 14歳
    最初に逃がしてくれたのは
    薩摩弁だったと思うと語る
  14. 2_A15_三浦行蔵
    ひとまず逃亡成功だったが
    行方不明
  15. 後藤鈔(庄)太13歳
  16. 小川安次郎13歳
  17. A18_遊佐辰弥=辰治13歳
    数日後、自宅まで、もう一
    歩の処に遺体発見された。
    (借り刀
  18. A19_大樋勝十郎17歳
    鳥目の子、新町で戦死
  19. A20_木村丈太郎14歳
    新町で腐乱死体となって発
    見される。木村五右衛門
    の子
  20. A21_上田孫三郎14歳
    後:佐倉孫三とも。 「霞ヶ城の太刀風」 を著す。
  21. 渡辺駒之助 14歳
  22. 鈴木松之助14歳
  23. 馬場定治14歳
  24. 宗形幸吉14歳(=松本英才
  25. 全田熊吉14歳



木村塾以外の子



  1. B1_武藤定助15歳
    (樽井隊)
  2. ■B2_松井官治17歳
    (大谷鳴海隊
  3. ■B7_木滝幸三郎 (良行)
    15歳(日野隊)
  4. ■A17_清野正親_?歳
    大谷鳴海隊長の下僕清野倅
  5. ■A3_1_丹羽五郎_13歳
    三春出身の女中やすを斬ろう
    として母に咎められる。
  6. ■A3_2_丹羽四郎_15歳
  7. ■A7_上崎鉄蔵16歳
    (大谷志摩隊)
  8. ■A14_高根源十郎13歳
    全身火達磨状態で走ってくる
    姿の目撃者がいたが生き残
    った様子。高根正誼
  9. ■A16_上崎鉄蔵16歳
    (大谷志摩隊)
  10. ■A17_根来梶之助16歳
  11. A22_安部井荘蔵_15歳
    A14_高根と共に、丹羽右近隊
    荘蔵は 生きたが、西南戦争で
    死享年24歳。

    勘定奉行の安部井又之丞の
    3男。B3_安部井清介(=
    盤根)の弟



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敵ながら人情場面を残した人物
◆伊藤仙太夫【薩摩】(小沢幾弥介錯 ◆野津道貫【薩摩】(二勇士讃えた
◆辺見十郎太【薩摩】(少年達を見逃
◆白井小四郎【長州】
(成田才次郎を救おうとしたが故落命
◆他に、敵ながら哀れと感じた場面を
比較的語っている人物として、
土佐の中島信行が居る。

三浦権太夫 を靖国に入れた人物
内閣総理大臣、原敬


大人達の犠牲
一般的な精兵以外の分野にポイント
して書きます。
  1. 大勢の兵達+下記
    =340名前後の死亡数
    +女性達の犠牲+自刃数不明
  2. A2_三浦権太夫義彰
    (無抵抗を明確にして自刃。
    享年32歳。
  3. 木村銃太郎隊長・22歳
    木村銃太郎の銃砲術塾の師匠
  4. 二階堂衛守:33歳
    木村銃太郎の銃砲術塾によって
    臨時編成された少年砲隊の副隊
    長。家老_大谷信義の次男。
    大谷鳴海隊長の弟。
  5. 大壇口の二勇士
    ●青山助之丞21歳
    ●山岡栄治26歳
  6. 蓮華寺の「日勇」和尚
    官軍に抗議の壮烈死を遂げた。
    ご住職の大爆発。切腹。

  7. 老人隊(下記3名他沢山死んだ
    ■印幡似水_67歳=藩校敬学館
    助教授=佐倉定左衛門。剣の達
    人。【A21_上田孫三郎(=佐倉
    孫三)14歳=「霞ヶ城の太刀風
    」著】の祖父
    ■遠藤段七:( 徳田鉄吉 :木村銃
    太郎塾の子)の母の父
    ■大山大助:竹田門死守隊長

  8. 城内で自刃した偉い人老中他

    丹羽一学=主戦派家老
    その昔、織田信長の重臣家系
    「今降るもまた亡び、
    降らざるも亡びん。
    亡びは一なり。むしろ
    死を徹して、節を守るに
    如くは無し。」と語る。
    <要人他6人自刃▼>
  9. 丹羽新十郎
  10. 服部久左衛門
  11. 丹羽和左衛門
  12. 安部井又之丞
  13. 千賀孫右
  14. 内藤四郎兵衛
    この人物だけ経緯異なる 。
    伊達に自刃せずと、城門から
    飛び出し奮戦散華を。負傷して
    割腹自刃。52歳。
  15. 他重臣系は計18名自刃&戦死

戦争史文献を著した人
  1. 黒田伝太
    上記大谷鳴海隊所属の一人
    「黒田伝太回顧記」著
  2. A21_上田孫三郎14歳
    後:佐倉孫三とも。
    「霞ヶ城の太刀風」著
    木村少年隊に属していた。
  3. A9_水野進14歳(借り刀
    「二本松戊辰少年記」著
    明治期二本松町役場助役
    木村少年隊に属していた。

英雄達の悲話に限らず、
小さな戦士達、少年達一人一人、
情報の解る子の分は、全部
書こうと考えています。

少年達各個別編その1


人物: 木村銃太郎


◆1_ 木村銃太郎 人物
  • 木村銃太郎:二本松藩士。享年22歳。二本松戦で戦死。木村貫治の長男。
  • 二本松藩砲術師範。
  • 父:木村貫治:同じく砲術師範。
  • 兄弟:妹の他、弟も有り。年齢の離れた弟(腹違い)彦吉は、参戦していない。
    西南戦争で生還。福島県巡査となった。
  • 木村銃太郎は、藩校敬学館の秀才。その為、江戸派遣の話につながった。
  • ライバル:青山助之丞21歳(同じく二本松藩士)=剣の達人
    ・・・・この人物も、木村銃太郎と同じ日、7/29二本松落城の時、壮烈な死を遂げる。
  • 長身:約170センチ位。笑う時、えくぼが頬に出る。子供好き。22歳と若いが、子供達の心情を
    よく捕らえ、カッ!とせず寛大な教師。稽古は厳しいが、合間には菓子を与えて座談。
    勝負色=赤を好んだ。(肖像画を見ると、たしかに赤というより昔の人がよく言った臙脂色の
    袴を履いている。)
  • 少年達に慕われ、憧れの人
    • 上記のとおり、見た目がカッコいい。強い。何でも知っている。背が高い。優しい。若い。
      少年達にとっては、いわゆる師匠に対する尊敬の気持ちと、憧れが合い混じった特別の存在。
      皆、将来は、こんな人になりたいと願望していた。少年のヒーローだった。
◆2_ 木村銃太郎 と砲術知識

18歳の時、江戸へ行って3~4年程度砲術を学ぶ。具体的には、韮山の江川塾に赴き、
本格的西洋砲術を学んだ。この事については、期日と期間も詳細が欠き、残念なところだが、
慶応3年(1867)暮れ~4年(1868)年頭の間に帰藩。
そのため、木村銃太郎砲術塾は、開始してから、さほど年月が経っていない。
せいぜい、半年程度という計算になる。

帰藩して間もなく、自藩の二本松で、砲術塾を開始した。
さっそく、少年達が入塾してきた。スタートして、少年を育て、たちまち戦争にのみこまれた。
師匠である本人も、少年達も、皆散った。

木村銃太郎は、この時期に韮山で学んできたということは、
次頁の考察年表 のとおり、講師は大鳥圭介他。
時期的には、薩摩の黒田了介(清隆)も、同じく塾生として存在した時期であることから、
顔見知りであった可能性も多少ある。多忙の黒田、この頃、顔見せに来たかは不明。

徳川の頭脳畑、江川の塾なれば、砲術に限らず、海防知識や、西洋にかかる幅広い学習ができる。
実に惜しい人物を失ったことになる。

◆3_ 藩が木村銃太郎を、砲学習得させるべく、江戸に派遣した訳と背景

また、幕府は度々、その詳細や担当領域を変更しながらも、江戸湾広域、海防対策、
特別派遣部隊で固めていた。このシステムは、度々の黒船来航に伴い、脅かされる日本。
ペリーの黒船どころでない。もっと古くから、何度もいろんな黒船事件がある。
詳細は、このへんからどうぞ▼


表示先頁はその様子概略と入り口。添付されている各バナーから。▼
黒船騒動の裏庭

中島三郎助の父=中島清司永豊時代をよく読むと参考に▼
中島三郎助えとせとら

▼漂流民=外国船到来の軌跡(民変換=開国または交易を迫る)
幕末の悲しき漂流民

これ、絵が好きでない人にとっては、しゃーない金魚漫画かい?なんて、うっかり倦厭する
のですが、実は、外国の脅威と開国に係る 民間人の冷ややかな「幕府姿勢観察」

歌川国芳の(金魚づくし)裏事情考察

No.6_■史実上の事象と金魚づくし絵画一覧照合表_その1




幕府は取り急ぎ、各藩の兵を招集して、
江戸湾広域、海防対策の兵として、 お固め四藩 を中心に、各藩を交代制で派遣して対処させた。

文久元年(1861)には、いよいよ、二本松も、その当番として呼び寄せられた。
丁度この年、直前まで当番だった長州は、このポジションから完全に引かされた。
二本松の担当は、房総。それまで係だった岡山藩,柳川藩が撤退。入れ替わった。
この時派遣された者達の報告を得て、藩主の重い腰がやっとあがったのは、
つまり、木村銃太郎の派遣。近代的砲術の必要性を痛感した為である。


◆4_ 木村銃太郎の知識元、江川塾、大鳥圭介の教え
・・・・・間接的な絡み縁

敵ながらあっぱれと、後に二本松を褒めた男は、薩摩の野津道貫。
参戦当時は、野津七次と名乗っており、6番小隊長だった。
この野津七次=道貫は、江川塾で大鳥圭介から学んだ同じ薩摩の中原猶介に西洋兵術を学んだ 。

中原猶介は自藩に戻って、薩摩藩内で中原猶介塾をスタートした。
その生徒が、野津七次=道貫である。
然るに、木村銃太郎と事前面識はない。学びの宿が異なるからだ。

しかし、中原猶介は、大鳥を深く尊敬しており、また、野津七次=道貫を教育するにあたって
用いた教材が、大鳥圭介の翻訳本である。

場所異なれど、官軍と幕軍、敵味方とて、
皮肉なことに、学びの基本、日本を守ろうとするが故の志は、
本当は全部、同じ畑に生じていたことになる。
にもかかわらず、多大なる量の血が流され、尊い命が天に飛び去った。

野津七次=道貫の懊悩と、その心情が伺わ
れる行動の詳細については、次の頁。▼

◆5_ 木村銃太郎の最期概略 ・・・下記No.2へ!
二本松戦SERIES: No.1 (現在の頁)< No.2 No.3 No.4 No.5 No.6 No.7 No.8
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写真等、素材については頁下表示


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