若松コロニーとシュネル資料編_No.12

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シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎





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シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.12
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■各人物、資料編_No.4(=若松コロニーSERIES_No.12)
The Wakamatsu Colony: Gold Hill (会津人のカリフォルニア)

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■現在頁から、各人物、資料編です。
流れ&解説は Sec.1 から順番にどうぞ。

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プロシア系アメリカ人と、シュネルを紐解く

  1. サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃のプロシア人とスイス人考察序章
  2. ビアカンプ家メンバー :カリフォルニア三代家族詳細
  3. ビアカンプ家の子孫の手紙から蘇った世界
    ■82_1:ビアカンプ家:プロシア系の人々とカリフォルニア開拓時代
    ■82_2:手紙の発信者と受領者の関係と、veerkamp家の先祖
    ■82_3:手紙を鍵に、発掘したVeerkamp家の「そのまた昔世代」
    ■82_4:【注】複数のデータを並行考慮材料に
    ・プロシア系の人々と
    カリフォルニア開拓時代
  4. サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃のプロシア人とスイス人
    _サクラメント:カリフォルニアのプロシア人とスイス人
80_サンフランシスコが、イエナ・ブエナだった頃の
プロシア人とスイス人考察_序章

★!ビアカンプ家は、シュネル縁のドイツ系(当時のプロシア系)家族です。
  1. シュネルは今だ謎多き人で国名も確定されていませんが、プロシア系またはオランダと
    いわれています。遠い親戚かどうかは今のところ、探し出せませんが、ことによると、
    思想的にシュネルの父の代以前に、誰かと誰かが、深い契りを持っていた可能性もあります。
    徹底した隣人愛は、信心深いカトリックの繋がりを感じています。
    シュネル絶望、暗殺説浮上の中、甲斐性のない若松コロニーメンバーを救い、土地を買い取り、
    彼らを従業員として雇ったビアカンプさんも、日本人同士の戦争、戊辰戦争の際、命をかけて
    会津、長岡、米沢、庄内など幕軍側の各藩を応援したシュネルも、並大抵ではありません。

    どうして、他人の為に、そこまで頑張ったかについて、模索してゆこうと思っています
    まずは、カトリックと彼らプロシア系の人々の動きから、掘っている最中です。
    仮に方角がズレたとしても、途中で拾ったジグソーパズルの欠片は史実ですから、今後、
    もしかしたら、役に立つかもしれません。

  2. 尚、ビアカンプ家のご子孫の一通の手紙から、ビアカンプ家は、カリフォルニア初期開拓一族の
    可能性は絶大。カリフォルニアがアメリカになったのは、米墨戦争の結果。米墨戦争は1847年。
    この近郊にプロシア系移民団として、まずは、開拓を開始したプロシア系とスイス人は、第一軍団
    なれば、1839年。このグループが上陸した時、ここは、まだメキシコ。サンフランシスコと呼ばず、
    イエナ・ブエナと呼ばれていました。このグループは、アメリカ市民権を得る前のその期間は、
    メキシコに籍を置く形でした。
    サッターの軌跡とシュネルを紐解く
  3. 但し、ビアカンプ家の移住は、今のところゲットできた情報範囲では、それよりやや遅いようです
    から、次のグループの可能性のほうが大きいようですが、少なくとも、カリフォルニア移住は、
    1845年位のようです。

  4. 実際、長男のヘンリーさんの奇跡から、生まれたのはこの地でなく、Mississippi
    (ミシシッピー)。そして、次の項目に順次示してゆきますが、親戚の居住地が
    カリフォルニアよりも北側のMissouri(ミズーリ)など各地。それは、 初代ピアカンプさんの
    お父さんの代に、兄弟達は父に連れられてアメリカに移ってきたことを示唆します。


  5. そして、ご子孫は、カリフォルニアの開拓実行に踏み切ったカリフォルニア初代、
    Francis・J・A・Veerkamp さんを讃えていることが、手紙で解りました。
    Francis・J・A・Veerkampさんとは、若松コロニーのメンバーを救ったビアカンプ家の
    カリフォルニア初代のことです。

  6. 以下は推測、まるで推理小説みたいな領域にも近まりますが、偶然かもしれませんが、
    どうも上記の(2番)に示した内容、第一号カリフォルニア上陸プロシア系の人々の軌跡に、
    非常に似ている気がします。もし、そうだとすれば・・の話ですが、彼らは、もの凄い冒険家
    の集合体であると同時に、実に熱心な布教活動を展開したチームでもあります。

    人間本来の姿、たとえ貧しくても農を営み恵みに感謝して、開拓の精神を失わずに・・。
    (この時代、どこの地域でも、開墾の精神+キリスト教の形態は多くみられます。日本の
    蝦夷開拓もです。【全然別!SERIES:■ もっと悲しかったしゃぼんだま 、■ ガルトネル七重条約 】)
    ところが、とんでもない事件が。それは、あのゴールドラッシュに繋がります。
    欲に目がくらんで、人は本来の美しいものを全て失ってしまう。多大なる犠牲も発生した。
    それは、とても恐ろしい事。とても悲しい事(真下バナー)。この時代を漠然とイメージする為に、脳裏に
    マカロニウェスタン(西部劇)の光景を思い描いて頂いても、さほど大きくずれるものでは
    ないと思います。
    ゴールドラッシュ,失われた民族の悲しみ
    尚、この文章に係る内容は、今までの内容から突然飛躍するため、切り分けてご案内します。
    現在シリーズのSec.1からこの頁すべてが「なんだ!SFだったのか!!」になると困るので、
    印を入れようと思います。

  7. シュネルを紐解くジグソーパズルの破片だけでも、パラパラ掻き集めていこうと考えてます。

ビアカンプ家_Veerkamp (プラサーヴィル、エルドラド郡、カリフォルニア州)
1
1





Francis・J・A
Veerkamp

1822/10/02~
1905/03/22
死亡約83歳
(birthは1823とも
■カリフォルニアのビアカンプ家の一代目
■名前:フランシスJ・A・Veerkamp= フランクフランシスVeerkamp
・フランクともいうようだ。 (即ち、またの表記:Frank Francis Veerkamp )
■シュネル絶望説浮上後、若松コロニーメンバーを救った人
・残金の残る若松コロニーを買収して、メンバーを救った時、彼は 47歳 となる。
■出身:Meppen, Hannover,Preussen(メッペン、ハノーバー、プロイセン
_妻のルイーズ(ルイーザ)も、同じくハノーバーから来ている。
■1849年に移住して来たデータも有。アメリカに来た時、 26~27歳と いうことになる。
■また、下枠の長男はミシシッピーで生まれていることから、 プロシアからいきなり、
_アメリカ国内のこの町直行でないのがわかる。

■下枠の手紙からすると、カリフォルニア移住は、1845年位。
82_2:手紙の発信者と受領者の関係と、veerkamp家の先祖欄 もご参照。
妻=ルイーザ
Louisa VEERKAMP
Louisa M Tobener:1825/06/10~1899/01/22;出身: Walsrode, Kingdomof, Hanover
参考
Bartholomew・
Lewis・Ignatius・
Veerkamp
上記のFrancis・J・Aの弟。時期的には多少遅れるが、同じくカリフォルニア開拓に入った様子。
W.E.Veerkampの父親。こちらの人物に関しては次項No.82にて、ご案内。
子1
2





Henry B.
1の長男で跡取

Bに続くスペルわからず

1851/01/27~1934/2/28:
死亡83歳
■上記父親枠のとおり、彼はこの地で生まれたのではない。
・出生地: Mississippi
・生活居住履歴に関係する地名
:Coloma, Greenwood, and Kelsey Townships, El Dorado, California
■1871年に崩壊の若松コロニーメンバをビアカンプ家が救済の時、20~21歳。
■桜井松之助(1834年生まれ位)はこの次世代にも、
侍社会風の道徳観でいう家臣のごとく忠実に仕えた。ヘンリーは、農業経営の大半を
桜井に任せた程、深く信用していた。
ところが桜井は1901年死亡。Francis.J.Aの死亡は1905だから、それより早く桜井死亡。
■尚、名前に関して、ミドルの「B」 :正式には、なんというのか解らず。
子2

子9
2




子2

子9
Veerkamp家の
2代目の内、


1853~1867の間の
計8名

第2子~第9子

第2子~第9子(※印は早世夭折)
  1. Francis.Joseph.Arnold.Veerkamp:1853/01/11~1928/10/14
  2. ※Joseph W. Egbert.Veerkamp:1856/03/1~1862/07/23(6歳で死亡)
  3. Sophia.Louise.Veerkamp:1859/08/04~0866/01/19:女性
  4. William.B.Veerkamp: 1861/11/23~1933/7/24(Bの続きわからず)
  5. Joseph.Egbert.Veerkamp:1864/06/08~1954/11/06:女性
    ( 第3子と名前似てるが、早世の第3子側には W付
  6. Louis.Berthold.Veerkamp:1866/08/04~1929/10/17
  7. ※Charles.F.Veerkamp:1866/08/04~1866/09/24(生後一ヶ月で夭折)
  8. Bulhald.VEERKAMP.Bartholomew.Veerkamp:
    (性別男児:詳細不明:1867/?/?生まれの様子)

10
2





Louis Philip
Veerkamp

1871/04/15~
1958/9/23
(性別男性)

(Louisは、
Linisとも)
ルイフィリップ

下枠「マルコム」
の父親
  • 世に若松コロニーの真相を伝えてくれた下枠マルコムさんの父
  • ご覧のとおり末っ子。誕生は1871年。シュネル軍団カリフォルニア到着の1869年には
    まだ生まれていない。若松コロニーが崩壊して、おけいと桜井他が、この家に保護され
    たと想定される1871年に生まれている。シュネルが再度日本へ旅立ったのが4月。
    ルイが生まれたのも、まさにその4月。
    【その為】
  • 下枠のマルカムさんの話の中、父から聞き知った事とは、主に、ルイさんにとって、
    長兄のヘンリーさんから聞いた話が多い。
  • しかし、桜井松之助は、ビアカンプ家に長く奉公した為、桜井が死亡した1901年の頃、
    ルイさんは、約30歳。桜井の晩年の姿記憶にあっても良さそうなところだが、跡取は、
    長兄のヘンリーさんだったことから、桜井氏についての話は沢山無い。残念!

  • 但し、フルーツ倉庫建造建築に関して、父親のフランシスさんがとても褒めていたこと、
    また、桜井氏が実に優秀な従業員だった事など、息子のマルカムさんに語り継いでいる。



3





Malcolm Veerkamp

マルコム

1912~1992
(死は1989:
1999節ものはず):


妻はヘレン

■最後まで、おけいさんの墓を守ってくれた現代の人(但し1989年に故人となった)
■父親のルイさん発言記憶から、先祖より伝わる若松コロニーに係る稀少な情報を現代に
提供してくれた人物
■この第三世代に於ける農場主だったが、彼=マルコム氏の死後、家族は農場を手放した。
奥さんのヘレンも死亡。
  • マルカムさんが語ってくれた話(父のルイさんの昔話。父のルイさんは、
    末っ子だから、ルイさん自体も、長兄のヘンリーさんから聞いた話を含む。)
    • おけいさんは英語だめ。きもの着てる。料理つくってくれた事がある。
    • ルイの長兄、ヘンリーさんは、おけいさんよりひとつ年上。
    • フルーツ倉庫の建造に実際着手した人物名は、残念ながら上記桜井氏のニック
      ネームの「MATSU」なのか、他誰か「MATSU」類似名人物なのか、はっきり
      解らないと言う。【その為、優秀大工のMASUMIZU=増水国之助=通称KUNI
      などの人物にも、可能性が残る。】



82_ビアカンプ家の子孫の手紙から見えた世界
82_1:ビアカンプ家:プロシア系の人々とカリフォルニア開拓時代


真上の項_No.80の「Bartholomew・Lewis・Ignatius・Veerkamp」氏ご参照。
この人物は、若松コロニーのメンバーを救済した「Francis・J・A」さんの弟。

その息子さん(=上記「Bartholomew・Lewis・Ignatius・Veerkamp」氏の息子さん)が、
ある日、気が付いた。思わず手紙を書いた。手紙のデフォルトはこんなかんじです。

「私は今朝初に気がつきました。なんと!貴方のお爺さんと私の父は兄弟です!
貴方のお爺さんは、私の父にとって、一番下の弟です。」


これは、遠くに住んでいる同姓(Veerkamp)姓の人に、私達は親戚なのです!!とお手紙を
送ったところから始まります。

そして、文章の中に、カリフォルニア初期の開拓者としてのプロシア系アメリカ人の
話が出てきます。手紙の受信者は、発信者よりも二世代若いわけですから、古い話は風化して、
知らない事が、この場合に限らずよくある話。

そこで、この発信者は、65年前の話を若い世代に伝えるべく、手紙に書き足しています。
その内容は、略意、下記のとおり。

「今から、65年前に、貴方のお爺さんの兄弟、ぐっと上のお兄さんは、なんと、
カリフォルニアの早期開拓者として、初めてその地に開拓の鍬を下ろしました。
この人物は、私の父にとっても兄です。」


上記の文章ですが、漠然と読むと、だからどうした?とうっかり読み流してしまいそうな話ですが、
実は、危険と背中あわせ、それでも臆することなく、勇気を持って開拓の精神を貫いた英雄である
ことを讃えています。誇り高く、勇敢なプロシア人の血をとても誇りに思っているのが伝わります。

そして、その英雄と呼ばれる人物とは、まさに、若松コロニーのメンバーを救った
若松コロニーのメンバーを救済した「Francis・J・A」さんのことです。

実のところ、手紙のやりとりは複数回有り、発信と受信の関係が反対の発端手紙などもありますが、それらを含めると
複雑になるので、略しています。大意、世代異なる同族。遠くに住んで、互いに親戚と知らずに居た者同士が、
あらためて、共通の先祖の時代、彼らの勇気と志に敬服している姿にかわりはありません。




■発信者本人■ W. E. Veerkamp(1859/09/19~1927/06/17) :「W」は多分「William」
◇縁の地:Clark Township, Lincoln 、◇この時の居住地:Neosho, Missouri(ミズーリ)
◇発信時の発信者他情報:ニュートンカントリーの公立学校の監督者的存在TOP。校長か理事か?
◇手紙の発信期日:1919/06/02

国政調査で調べると、この人物の縁の地は、Newton, Missouri
つまり、この人物は転勤などで遠隔地からやってきた者がここで就任していたのではなくて、地元出身者。
★即ち、ビアカンプ家の親戚は、まちがいなく、このミズーリ近辺にも居ることになる。

この人物の父は 、下枠7人兄弟の中、第3目の「 Bartholomew Ludwig Ignatius VEERKAMP」であり、
上記、「W. E. Veerkamp」氏は、その長男として生まれている。



■受領者■ Lewis F. Veerkamp(1896~1930)
◇出身&生まれ:Missouri 、◇手紙を受け取った時の居住地:Wynona, Oklahoma

この人物の祖父は :Egbert (William) Veerkamp,(約 1834~1871):プロシア人、プロシアから入国
この人物の父は :William Robert Veerkamp(1853or1856~1947)or(1865~?):ミズーリ州
(父の部分が、当該と推定される人物レイアウトが、どうも判然としないが)




■発信者の父親は兄弟の中、上から3番目、受信者の祖父は、7番目。発信者が受信者に伝えた讃えるべき
そのもっと上の兄「 Francis J. A 」とは、上から2番目。
(詳しくは、下枠の手紙を鍵に、発掘したVeerkamp家の「そのまた昔世代」ご参照。

■この手紙の発信は1919年。文章中、その段階から考察。
「今から65年前に、Francis J. A.がカリフォルニアに開拓入植した。」の内容がある。
つまり、 1845年位に、Francis J. A.が入植。
ということは、「Francis J. A」は調べてみると、1822生まれだから、入植は彼が26~27歳位の時の話。
■尚、この手紙が発せられた時、話題の主人公の「Francis J. A」は1905年に死亡している為、
死後14年後に於いて、一族の子孫達が、先祖の功績、カリフォルニア開拓について語り合っていることになる。
  • 子孫に於ける「日本の北海道開拓」意識と、アメリカのカリフォルニア開拓が、なんだか少し似ている。
    新天地の開墾とキリスト教という点で、関係ない日本の事だけど、非常に重なる要素がある一件
    宜しければご覧下さい。 明治の北海道開墾「赤い靴」と「しゃぼんだま」

先祖
Bartholomew Veerkamp, :オランダ語表記は、Bartholdus VEERKAMP
夫:Bartholdus VEERKAMP(1789年生まれ) 、妻:Aloysia VOELCKER



次世代兄弟一覧

■若松コロニーの人を
救ったピアカンプさん
(Frank Veerkamp
=「Francis J. A」)


■発信者
(W. E. Veerkamp)
の父
と、

■受信者
(Lewis F. Veerkamp)
の祖父


=兄弟

彼らはプロシアからの
移住家族
  1. Francisca Veerkamp(1820?~?)

    (注)2番目のディアカンプさんの名前が色々表記あるようながら、どうも、
    一番上の謎の長男と混合視されている点も否めない。この場合、どっちの考え方も
    できるので、参考迄。或いは、下記2番が元宣教師だった事による名前だった
    など少々飛躍した考え方も可。(尚ご子孫情報には、そんな事読んだ事ないですが)
  2. Frank Veerkamp (1822/10/02~1905/03/22)
    ■若松コロニーの人々を救った人
    ■名前:Francis J. A.Veerkamp= フランクフランシスVeerkamp
    ・フランクともいうようだ。 (即ち、またの表記:Frank Francis Veerkamp )
    ・・らしいが、上記のとおり、考え方は複数持っておいたほうがいいかもしれない。
    81_veerkamp家カリフォルニアファミリーの枠 もご参照。
  3. Bartholomew Lewis Ignatius Veerkamp ,(1826/05/18~1904)
    ※「Lewis」は「Louis」、「Ludwig 」表記も有り。
    • 【子の内、長男を抜粋: 手紙発信者 】▼(上枠の「発信者枠」ご参照)
      W. E. Veerkamp ,1859/09/19~1927/06/17:Wは多分「William」
  4. Antonia Veerkamp,(約1828~?)
  5. Mary Veerkamp,( 約1830~?)
  6. Anna Veerkamp, (約1832~?)
  7. Egbert (William) Veerkamp,(約 1834~1871)
    ▲この人物が、【 受信者: Lewis F. Veerkamp 】のお爺さん

一見、やや脱線後、再び、話は「サンフランシスコとプロシア系&スイスの人々」へ続きます。

(頭こんがらがるかもしれませんが、一応参考追加情報)

「Francis J. A」 のカリフォルニア移住は、
■一族の手紙情報から、1845年位になる。■その一方で、1849年に移住して来たデータも有。
■また、一族の中、アメリカへの移住が1858年位とされる人のデータもある。
  • これは、上記、W. E. Veerkampの情報からサーチ: プロシアのMeppenから1858年に移住とある。
    これに関しては、一族全員が揃ってやって来たのではなく、その分派によっては遅れて
    やってきた事は当然考えられる範囲ですが・・・。
こうなると、上記枠「 82_3:手紙を鍵に、発掘したVeerkamp家の「そのまた昔世代」
に於ける、謎の長男、「Francisca Veerkamp(1820?~?)」がいち早く先陣隊であった
可能性なども考察の対象から除外できなくなります。

古い話は、重複と矛盾がつきものですが、学者じゃないですから、断言せずに、あえて
異種情報も、加えて書いてあります。実は、他にも幾つかジクソーパズルの欠片、拾っておいた
んですが、これは違うな!と早期に捨ててしまったデータあります。今、後悔してます。
捨てるのは、後でいつでも良かったのに・・・。

ご興味のある方、Aパターン、Bパターン、C、D・・・と独自に、意識の中、並行使用しながら、
ジクソー頑張ってくださいね。歴史って、どうして、こんなにすっきりしないんでしょうね。

日本の場合は、幕末の「官軍」と「賊軍にされてしまった幕軍」側の立場から、忘れたい世代と、
子孫を思うが故、あえて語り継がなかった世代が中間に挟まって、さらに無関心の世代が
繋がると、まるで情報壊滅の例も多い。世界大戦の強烈ダメージに、幕末どころでなくなって
しまった・・・というのもあるし。

幕末のことが謎だらけになるように、まさか平成情報が壊滅するとは思えませんが、
昭和の事なれば、そろそろ怖い。公共的紙面に残った事以外の些細な日常の史実、それらは、
そのうち埋もれて消えてしまうかも。些細な史実が、消えるから、わかんないことだらけ。
お爺ちゃんお婆ちゃんがお元気なうちに、色々聞いて書き残してくれる人が
一杯居てくれること、望んでいます。

サクラメント:カリフォルニアのプロシア人とスイス人
サクラメント創始者:ジョン・オーガスト・サッター(John August Sutter)
プロシア系スイス人(1803/2/23日~1880/6/18)

サクラメントのその昔は、スイス人のジョン・サッターによってコロニーが建設され、
都市発展の元となる。後に州がゴールドラッシュに湧くと、サクラメントは、1854年に州都が置かれ、
今に至る。ゴールドラッシュは終焉に至るが、肥沃な土地は、農に恵みを齎し、町は幸い栄えた。

さて、上記、結果略書きだと、「あっ、そう。」で終わってしまいそうな話ですが、
実は、悲劇の上に度重なる悲劇。サッターは失意の中、天の人となる宿命を・・・。

まずは、サッターについて。スイス人。ところが、プロシア系スイス人。続きはこちら! next_car



スイスとプロシア&バタビア!植民地時代
Sec.1 <・・・< Sec.9 Sec.10 Sec.11 Sec.12:各人物【資料編_No.4】(現在頁) Sec.13 ・・
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
幕末_WITH_LOVE玄関

【クラーク先生と黒田清隆】

開墾の精神とキリスト教のワンセット現象は、江戸末期から明治にかけて日本でも。
北海道開発の為に、黒田清隆が、自分でひっぱってきたお雇外人、 クラーク 先生(アメリカ人)も、ついに開き直った。
「農学の教育には、キリスト教が必須なんだ!」「だめと言ったら、だめだ!たとえ貴方でも、これだけは許さない!」
黒田と押し問答。日本で禁教が解けるは明治6年だから一応、この段階ではキリスト教は一応解禁。
しかし、黒田は大のキリスト教嫌いで有名。これが原因で、あまりにも多くの血が流れたこと、偽善者ぶらずにとにかく
頑固一徹のふりで頑張って闘った。「私は貴方に対して、学生達の学問指導を依頼したが、布教なんて頼んでないぞ!」
ところが、軍配はクラーク。黒田はクラークに押し潰された。仕方ないから見て見えぬふり。まさかYESとは言えない。


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ガルトネル兄弟と、『七重開墾場契約』破棄

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