米沢藩の甘糟継成とシュネルNo.1

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米沢藩:甘糟継成とシュネル

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<シュネルを紐解く資料編SERIES下行【解説】
(現在頁) 米沢藩:甘糟継成とシュネル No.1 No.2

【解説】:シュネルに係る資料編もご一緒にご覧下さい。本件関係は主に 資料編No.2 ですが、
前後して「 資料編No.1 資料編No.2 <・・・とあります。

米沢藩:甘糟継成とシュネル考察_No.1
惜しいところで、惜しい男(シュネルのキーマンの一人)が死んでしまった!の巻
甘糟継成(あまかす,つぐしげ):天保3年3月12日(1832/4/12)~ 明治2年11月29日(1869/12/31)
米沢藩士

シュネル兄弟にとって重要な男は、会津藩主「松平容保」以上に、実質キーマンとして、
米沢藩の色部久長と、甘粕継成だったのではないかと思っています。
■シュネル(兄)は会津の軍事顧問。米沢藩軍事顧問兼務。

色部久長は戊辰で命を落としましたが、 シュネルの要、新潟港の守備隊長
また、甘粕継成は生きて、一応明治士官した形ですが、すぐ死亡。
若松コロニーに危機が迫り、日本へ金策に駆けつけたシュネル、その時、甘粕継成は死亡してます。
カリフォルニアで、はたして、シュネルは、甘粕継成の死亡情報をキャッチしていたでしょうか?

現在シリーズの展開
No.1 (現在頁)< No.2

■No.1現在頁■

◆シュネルの日本脱出(若松コロニー創設の際)を応援した他藩士
  • シュネルが若松コロニーを創設すべく、日本脱出の際、密かに応援した謎の他藩士の痕跡。
    (他藩士とは、会津藩士は身動きできない為他藩)
  1. 甘糟継成について序章(シュネルについて文章を残した人物)
  2. シュネル情報(◆B_1)甘糟継成の日記より、(◆B_2)色部久長の日記
  3. 色部久長について
  4. 各国条約提携の順番と状況
  5. シュネルに絡む国名
  6. 奥州の殉教史と、末裔に漂うらしき影
  7. 庄内藩:酒田のキリシタンの痕跡
  8. 米沢藩のキリシタンの痕跡
  9. 宣教師ペドロ=モレホンについて
  10. 江戸初期に於ける切支丹禁制発布と取り締まり、弾圧、殉教に絡んだ藩主2代について
    • (後半におすすめ本)米沢藩と庄内藩のその昔藩主達と事情、潜入した宣教師と殉教者達
  11. 甘粕継成:「本人について」及び「先祖の殉教」&「キリスト教の関連を感じさせる点」について
    • Kの1_甘粕と、甘糟
    • Kの2_甘粕継成:本人について:戊辰時と明治早々の死亡について
      • 地位の上で降格になっているものの、重臣の座にあった甘糟家の訳
      • 甘糟継成についておまとめ、及び、生き残りの直系:語学に秀でる甘糟家
    • Kの3_甘粕継成:先祖の殉教、及び、キリスト教の関連を感じさせる点について
      • 甘糟継成の遠い昔のご先祖:(切支丹)甘粕右衛門信綱(右衛門:洗礼名ルイス)
      • 死後歳月が流れても、やはり漂う気配:新島襄(キリスト教)が訪問した甘糟家遺族
        No.1 (現在頁)、▼ No.2

  12. 米沢藩の戦後処分(事前探索活動、戦犯犠牲者の抽出と懊悩、結果発生した事態)
    • 戊辰戦争に係る「米沢藩の戦犯処理」と維新後の展開と、他関連人物
    • 生き延びたはずが、息苦しい偽名のまま、早々に死を迎える甘糟継成
    • 明治新政府の待詔院下局に勤め続けるはずだった三人の宿命
  13. 米沢の洋学熱心さと、ルーツ&実績
    • 絡み絡みまくる謎の人脈迷路
      米沢の早期洋学導入と纏わる代々人物から、絡まる人脈、各関連人物(他藩との接点)
    • 米沢藩校「興譲館」:{好生堂(医学+蘭学)、洋学校(語学他部門が明治期プラス)}
    • 明治以前に外国人の謎の形跡を考察
    • (後半におすすめ本)米沢藩と庄内藩のその昔藩主達と事情、潜入した宣教師と殉教者達

1868年に於いて、日付のことで、頭こんがらがる時: 【慶応と明治】,【江戸と東京】,【4月と閏4月】:

もしも、字が小さすぎてバンザイ!の方いらっしゃいましたら:◆(Ctrl)+(+)=文字サイズ拡大。
繰り返すといくらでも大きくなります。◆元のサイズに戻すには(Ctrl)+(-)をお好みサイズまで反復
シュネルの日本脱出(若松コロニー創設の際)を応援した他藩士考察

色部久長と、甘粕継成の二人は、たまたま、シュネルの情報を日記に書き残しただけの
人物とされていますが、どうもそれ以上の関係があったと予測されます。
シュネルが、 日本脱出を図る際に、他藩の藩士が護衛でバックアップ してくれています。
港に下りるには、最上川のポイントから川を川舟で下り、酒田に下ります。
鶴岡を初め、上流側は米沢藩に絡み、河口側は、庄内藩 です。

シュネルと米沢藩を掘ると、どうしても、なぜかキリスト教が絡んできます。
鶴岡、米沢、酒田、全て、江戸初期の切支丹殉教に絡む地。甘粕継成の先祖は
この時殉教者を出しています。また、シュネルは熱心なカトリック。

シュネルが若松コロニーを創設するにあたって、サクラメントには、プロシア系のカトリック宣教師も
関係大です。シュネル亡き後、残されたコロニーのメンバーを救済した隣家ビアカンプ家も
プロシア系カトリック。

単純に考えると外国人だから、カトリックは当たり前とふと、匙を投げ出してしまいそうですが、
掘ると、なにやら随分絡みます。

また、戊辰そのものに夢中になって、歴史の上で二の次扱いになっている、明治早々の浦上四番崩れ、
切支丹弾圧事件に関して、日本人意識は官軍か幕軍かに追われて、意識の上埋もれていますが、
外国人の怒りは半端ではありません。
シュネルの行動根拠に信仰心が影響していたとしたら、在日のシュネルは、こうした動きも敏感に捉え、
当時のキリスト教にとって親密な関係にあった「開墾と理想郷」の発想も、若松コロニー発想に繋がります。

異国人シュネルが、他人の国、日本人の為に命を架けたのは、武器収入・・・ではなく、
根底は信仰心で、裏切らず追従または応援した人々にもそれが影響していた者が存在するのでは
ないかという角度で、この各シリーズを掘っている最中です。

A_甘糟継成について序章(シュネルについて文章を残した人物)


米沢藩の甘粕継成とは、シュネル情報を残してくれた有り難い人物。
ところが、この人物、明治2年11月29日、病死・・・とある。

この人物は、米沢藩参謀として、藩が恭順してしまう前は、積極的にシュネルの砲術指導を受けて、
近郊諸藩と連絡を取り、幕軍側として、徹底的に新政府に楯突いた者の一人。

この藩の場合、甘粕継成の上司にあたる「 色部長門(慶応4年7月29日(1868/9/15)戦闘の最中
重症を負い自刃死亡済み)
」が戦犯首謀者として扱われ、他の者は命を取り留めた。
一応、これで、米沢藩に於ける「首提出(=さらなる死罪=切腹申し付犠牲者の提出)」だけは、
許してもらったのだが・・・。

甘粕継成は、学識が認められ、明治2年7月、待詔院出仕が決まる。
無事新政府で活躍できそうな状態に漕ぎ着けてはいるものの、「新保勘左衛門」の変名のまま。
しかし、 明治2年11月29日(1869年12月31日)死去してしまった 。享年38歳。

甘粕継成とシュネルのつきあいは長い。金銭的パイプラインではないが、カリフォルニアに
渡ったシュネルとなんらかの連絡手段は互いに継続していたはずと予測される。
それが、死んでしまった。実に惜しい。


はたして、この情報は、カリフォルニアに居るシュネルは事前にキャッチできただろうか。
甘粕継成死亡は病死(一般死)になるため、事の真意を情報として得られぬまま日本再上陸だった
可能性は否定できない。連絡の途絶えた甘粕継成の訳が、やはり不吉な予感のとおり「死」
だったと知ったのは、再日本上陸の際ではなかろうか。

■シュネルが、若松コロニーの運営資金に詰まって、意を決して、コロニーのメンバーを
アメリカの大地に置いたままに、自分と家族だけで再度、
日本に来た時期とは 、複数説があるが、まあまあ、 明治4年の4月位
・◇説1_1871/05/19(明治に換算:明治4/04/01),
・◇説2_1871年4月【明治に換算:明治4/2/12~3/11】

・(説2は括弧内のとおり、明治和暦に換算すると、2~3月になるが、ABOUT春。)

左本:維新前後の外交問題
■米沢藩の武器購入問題と平松武兵衛
(=これ、シュネルの和名)などの項目も含まれて充実


下行に、甘粕継成の日記に書き残された
「シュネル描写」を記載します。
シュネルに対して、好意を持っていた者だろうとは、
自然に推測できる。
B_米沢藩参謀、甘粕継成の日記より、シュネル情報の一例

【解説】:シュネルに係る資料編もご一緒にご覧下さい。本件関係は主に 資料編No.2 ですが、
前後して「 資料編No.1 資料編No.2 資料編No.3 資料編No.4 資料編No.5 」・・・とあります。
■(全注):シュネルは兄弟で奥州応援。弟はエドワード。若松コロニーに係る本人側は、ジョン・ヘンリー。
年齢も近く、どっちか判然としない話多い。
シュネルと、米沢藩{「色部久長」&「甘粕継成」}

■色部久長(=長門:受領名が長門守;米沢藩家老)、
■甘粕継成:北越戦争の際、活躍した彼らは、シュネル(弟エドワード)から砲を買い入れ、
砲術を学び、軍指導を依頼しているわけですが、 接点は古く、横浜時代の少年時代のシュネルです。

B_1







日記(黒い字が日記)
解説
■甘粕継成の日記
  1. ■(注1):シュネルは横浜着いて
    間もない頃、15歳位。
  2. ■(注2):この頃、外国人居留地は、
    まだ数十人。
    ■(注3)その外国人相手に牛乳を
    搾って売る少年だった。
    ・・・(▲初期の話、▼奥州戦乱後期の話)

  3. ■(注4):平松武兵衛(シュネルの
    和名)、年の頃、三十歳前後、眉目清秀、
    日本製の羽織襠高を着、会老侯の松平容保
    より賜りし小脇差を、帯し来たる。
    実に一個の美男子なり。
甘粕継成について、及び、先祖の殉教と、
キリスト教の関連を感じさせる点について
は、
(下枠K項) をご参照。
■(注1):これは、弟、エドワードの話。必然的にジョンは
+1歳位で16歳位になるが、兄は遅れて日本到着かもしれない。
■(注2):外国人居留地は、まだ数十人とは:
条約提携が、遅れてる国があったから。
・・ D枠_「各国条約提携の順番と状況」ご参照

■(注3):これは、弟、エドワードの話。
■(注4):これは、兄、ジョンの話。
平松武兵衛=ジョン・ヘンリー・シュネル
後に、会津で活躍始めた頃1867年前後の話
■ (注5)「エドワード・スネル」は、
安政5 (1858)年 に自称オランダ人として来日

・日本に、いち早く、入り込みやすかったのは、力で圧したアメ
リカの他、長年のつきあいもあれば、長崎伝習所や、松本良順
による長崎医学書でもお世話になってきたオランダ。
・また、実際、日本に来る直前は、オランダの植民バタピア
に居た。
■シュネル(兄)は会津の軍事顧問。米沢藩軍事顧問兼務。

何故、甘粕継成が、何かと記録を残しているか
学者:「御記録頭取」に就任。業務は研究&歴史書の編纂。
侍としての地位は低いが、学者として認められている。その為
著書も複数。
何故、甘粕継成が、江戸、横浜事情に詳しいかについて
藩主、上杉斉憲にお供して、 文久2年(1862年)から京都・
江戸
に行き、諸大名や公卿、及び藩士との交渉を担当。
B_2



■色部久長の日記
  1. ■(注5):“エドワード・スネル”は、
    四十四番館(オランダ 四番館)在住。
C
C_色部久長について

色部久長
について:【文政8年12月14日(1826/1/21)~ 慶応4年7月29日( 1868/9/15)】
享年44歳。戊辰に戦死。 米沢藩に於ける戦争首謀者扱いとなされた人物。
  • ■米沢藩家老。 色部長門 とも呼ばれる。
    ■戊辰時:
    • 奥羽越列藩同盟軍の総督、新潟港を守備。
    • 新政府による「新潟湾港攻撃」によって自刃に至り死亡。
    ■新政府軍は、まずシュネルをマークした。
    外国商人から武器・弾薬を入手できる新潟を潰そうと行動に出ます。
    (この時、シュネルは全ての施設と武器弾薬を奪われてしまいます。弟エドワード・
    シュネルの拠点がこの 新潟港の勝楽寺 だったが奪われる。)
    ■新政府軍「新潟湾港攻撃」
    新政府軍は、背後の松ヶ崎・太夫浜に上陸、新潟へ進撃。新潟沖、関屋沖から新潟を砲撃。
    古町・西堀・東堀が炎上。対抗した色部久長は寄居浜から加茂方面へ脱出を諮るが、
    新政府軍が関屋金鉢山も陣取る。
    敗走しながら戦う色部隊だったが、ここで砲撃を受けて重傷。(現在の新潟高校前:色部長門君追念碑有り)
    関屋下川原新田の茄子畑を死に場所に決意して、そこで自刃。
  • 米沢藩に於ける戦争首謀者扱いとなされた件について
    ■上記のとおり、彼は既に戦死。しかし、戦争が終結した後の、「 戦争首謀者 」提出に際して、
    この藩は、死亡済みの彼を挙げて、犠牲首は免れたとされる。これについては、米沢藩を同情して、
    真剣に助言した他藩の力が影響。
    ■とはいえ、色部家は、お家取り潰し。その為、藩主は、犠牲家系保護の為に、 色部の遺子を
    山浦家の養子(米沢藩の名家)
    と為す段取りを組みます。


D









D_各国条約提携の順番と状況

■1853年■浦賀にペリー:嘉永6年6月3日(1853/7/8)浦賀沖に来航。
・6月9日(7/14)に開国を求めるアメリカ大統領国書を提出
■1854年■開国: 日米和親条約 :嘉永7年3月3日(1854/3/31)締結
■1858年■ 日米修好通商条約 :安政5年6月19日(1858/7/29)締結
・日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約≒不平等条約。
  • 安政五ヶ国条約: 1858年アメリカに引き続き同年同様他4国=計5国
    (アメリカ:日米修好通商条約
    イギリス:日英修好通商条約、フランス:日仏修好通商条約、
    オランダ:日蘭修好通商条約、ロシア:日露修好通商条約)
  • ■その後まだまだ続く!
    1860年_対ポルトガル。1861年_対プロシア、1864年_対スイス、
    1866年_対ベルギー、対イタリア、対デンマーク、
    ・・・▲ここまでは幕府。▼以下は明治政府
    1868年_対スペイン、スウェーデン・ノルウェー、
    1869年_対オーストリア、対ハンガリー

E







E_ シュネルに絡む国名

・ 一般的には、プロシアの○○生まれではないかという説が3つ位あります。

■オランダ及び、■オランダの植民地バタビア(現在のジャカルタ)、■プロシア、■スイス、
  1. オランダ :下記バタビアに居たからなのか、他の由縁かは定かでないが、この兄弟はオランダ語可能
    • 上枠C_「各国条約提携の順番と状況」ご参照
      プロシアは、1861年。スイスは1864年。一呼吸遅れて、国は焦っている。そんな中、早期より
      日本に入り、しかも、 オランダ語楽勝のシュネル兄弟は、実に重宝された
      というのは、当時日本人幕僚の多くが、通詞達のような専門家と異なり、語学といっても、
      オランダ語少々程度の者が圧倒的に多かったことから、条約提携時には、オランダ語翻訳版を
      あわせて提出が鉄則だった。
  2. オランダの植民地バタビア :日本に来る直前、バタビアに居た
    • 実際、シュネルはオランダ語流暢。この直前の段階で、彼の父は、当時オランダの植民地
      であるバタビア(現在のジャワ島)に居た。また、こちらのとおり、国政調査を調べてみたところ、
      確かに、それらしき痕跡として、 「Darnoslul」 と見える当時の文字列発見。
      【これは私の仮説】▼
      「 Darnoslul(=現在のJakarta=当時のBatavia)のHenna」で生まれた!
      もしくは、生まれは別でも、籍は当時のバタビアのままだったかのいずれか。

      • 国籍または出生か否かは別として、確かにバタビアに居た事がある事だけは、事実と
        判明してます。Hennaという旧地名らしきとの縁は他の手段で関連付けることはできませんが、
        【この頁準備中】
  3. プロシア :兄、ジョンヘンリーは、プロシアの書記官に席を置いた。
  4. スイス
    1. 弟エドワードは、スイスの書記官
    2. 弟エドワードは、武器商人になる前、横浜で時計屋さんの共同経営などでスイス人と縁有り
      • このブレーンの中に、名前にエドワードの付く人物が複数居ます。シュネルの墓も、父の
        墓も判然とされていませんが、らしき人物は幾つか候補有。しかし、それらを遡り、父を
        手繰ると、不思議とエドワードという男子が関連付けられていません。
    3. 兄ジョンが若松コロニーに入った時、同時にスイスの Diebolがメンバーに同伴 してアメリカ入国
  5. 国名の百面相状態の兄弟:使い分け(自称:プロシア、スイス、オランダ、時にはフランス)
    • 弟:エドワルト(エドワード)
      ■各種商売の他、スイス領事館勤務:同国書記官
      ■戊辰時:オランダ領事と自称
      ■戊辰時拠点: 新潟港の勝楽寺 (この港拠点を守ろうと奮戦の暁死亡が色部久長)
      ・軍艦の購入、サイゴンの外人部隊の招聘を奥羽越列藩同盟軍の要路に説く
      (これが原因で、会津藩と庄内藩は幕府時代より持っていた蝦夷の分領地をプロシアに
      売却打診の裏実績有。結果は没だが。)
      ■兄:ジョンは、時には「フランス人」とも語っている。古記録の中、
      仏人シュネル表記も有。

キリスト教に絡んだ江戸初期の「庄内藩の酒田」と「米沢藩」
F_奥州の殉教史と、末裔に漂うらしき影
F

【初めに】
  • 米沢藩の「甘粕継成」は明らかに、江戸時代初期の禁教段階で殉教した先祖を持つ家系です。
  • 一方、江戸時代は260余年と実に長い為、昔の先祖の信仰が関係ないように思えますが、
    実は、こんな例があります。▼これは、遠く長崎の実例ですが・・・
    • 「浦上四番崩れ」1867年7月14日捕縛騒動 (左側リンク先資料頁から、各関連へリンク)
      :牢中の彼らを幕府時代から引き継いだ明治新政府が断行した弾圧と殉教
    • 捕縛騒動に繋がる直前:1865年:大浦天主堂で、仏人宣教師が隠れ切支丹発見
      • この宣教師は1864年の日仏修好通商条約によって日本上陸。現れた隠れ切支丹は、
        1614年の禁教以来密かに信仰を守り続けていた家の末裔。江戸初期に殉教した先祖
        を持つ家が多い。また、その時 先祖と一緒に殉教した宣教師の遺言 「7代信仰を保て!
        必ず宣教師が救いに来るから」が代々言い継がれてきたところ、事実上記のとおり、
        1864年に仏人宣教師が出現。家々で奇跡到来と湧いている。)
        1867年:事件は、彼らの仏式葬儀拒否で明るみ(密告)。1867年7月14日捕縛
  • 上記実例から、密かなる信仰心は実に長い年月保たれたことが解ります。上記は長崎の一般民。
    その為、伝説どおり宣教師が出現したことから迂闊に行動が明確になってしまったわけですが、
    米沢の場合、昔の殉教の中、多数の士族が居て藩に迷惑をかけた事を懸念しており、
    その実、藩主もかなり懊悩( 下枠H項とJ項ご参照 )したことから、士族の場合、一切の
    行動を明るみにしないはずです。心の中に信仰心または、信仰そのものではなくとも、
    発想はそれに影響されたものを抱いている家系があったとしても不自然ではありません。

    少々脱線しますが、明治初期、キリスト教の取り締まりが一番曖昧で弱かった地域は箱館。
    箱館に続々と、それらしき士族家系が活躍し始めます。また、静岡のように明治政府が招いた
    指導者達は、講師として招かれた以上かなり強気で布教します。邪魔をするなれば、教えず、
    帰国するぞ!の姿勢。箱館も同様、新技術と知識導入の為にお雇い外国人。静岡は勝海舟が
    見て見ぬふり。尚、禁教の高札取り外しは明治6年ですが、これは「自由自在!」の美談ならず。
    世界の圧力に負けただけで、日本政府としては、できればやめて欲しいが本音。この後、
    北海道は明治9年、黒田清隆がクラークとひともんちゃくやりますが、屈して惚けています。

■イエズス会宣教師ペドロ=モレホンらが、奥州の切支丹と殉教について、書き残しています。

G
G_庄内藩:酒田のキリシタンの痕跡

  • 1626年(寛永3年6月)、フランシスコ会のパァデレ・ディエゴ・サンフランシスコ管区長が、
    酒田に着き、伝道した。信者は鶴岡に約50人、酒田に約30人居たらしい。
  • そこで、幕末に於いても、何やら臭う▼
    シュネルと庄内藩『本間光美&本間耕曹』
H
H_米沢藩:のキリシタンの痕跡

  • 藩主上杉景勝の代:【生没:弘治元年11月27日(1556/1/8)~元和9年3月20日(1623/4/19)】
    • 「会津若松の宣教師からイエズス会総長に送られた報告書」から、『日本切支丹宗門史』
      に記載されている内容
      • この藩主は、 キリスト教に寛容であり、幕府が禁教令を出し、幕府から領内での
        取り締まりを命じられても、 「当領内には一人のキリシタンも御座無く候」
        答えて、領内のキリシタンを護った。
      • 【実際の様子解説】
        確かに、キリシタン禁制の高札を領内に立ててはいる。但し、取り締及び、弾圧を行った
        記録はない。藩主自ら信仰の可能性は低いが、本音は取締りに賛同していない。
        (有能な家臣の多くがその段階で、それらしき状態に陥っている。

        尚、この頃、近隣諸藩では幕命に恐れ、それまで寛大だった近隣諸藩が一挙に大弾圧に
        変身している矢先のこと。藩主が、いかに腹を括っていたかが解る。
        ちなみに寛大どころか使者(支倉使節)を自ら派遣していた仙台藩ですら、元和6年(1620年)
        を皮切りに大弾圧を開始。
    • イエズス会宣教師ペドロ=モレホンの『日本殉教録』 によると:
      藩主上杉景勝は、 「異教徒中の異教徒(大いなる異教徒)」 ・・・とボロカス状態表記有。
大弾圧を行ったわけでない藩主上杉景勝を、「ペドロ=モレホンが非難している訳」について考察
  • 【考えられる理由その1】
    藩主上杉景勝は、実質家臣を庇いつつ、藩の存続の為に、安全を諮るために口頭では幕府賛同。
  • 【考えられる理由その2】
    ついに、幕府に目をつけられた米沢藩では、景勝の代ではなく、その子、上杉定勝の代で、
    大弾圧を決行している。これが即ち、米沢藩に於ける殉教史。その為、ペドロ=モレホンは、
    藩主が代替わりしてることを知らなかったか、もしくは、上記のとおり、口頭では非難している為、
    そう判断したかの何れかと考えられる。

I
I_宣教師ペドロ=モレホンについて

宣教師ペドロ=モレホンについて
【生年:1562~没年:1639.12.11】 イエズス会宣教師。

■オルガンティ-ノ神父の後継者=イエズス会日本管区の主要人物。
京の下京教会の院長。兼、「本州全域の長」の座。9年間京都に滞在したとされる。
■イスパニア人(スペインのメディナ・デル・カンポ誕生)、
■1578年イエズス会に入会。 生年からすると入会は、16歳となり少年の段階
■1586年、 天正遣欧使節 が日本へ戻る際同行,リスボンから日本に向かう。
  • 天正遣欧使節 とは:1582年出航、帰着1590年
    大村純忠や大友宗麟ら九州のキリシタン大名3人の名代として、
    伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン の4人の少年らが、
    1582(天正10)年に長崎港を出発。ポルトガル、スペインなどを経て1585年にローマ入りし、
    当時の法王グレゴリウス13世に謁見。1590年、宣教師ペドロ=モレホンらを伴い帰国(長崎入り)
■日本に到着後、ペドロ=モレホンは:
天正18(1590)年,長崎に到着。 オルガンティーノ の後継者として、京都で布教。
慶長19(1614)年の禁教令施行に際し ,マトス神父と共にローマ派遣の日本管区代表になり,
高山右近らとマニラに渡る。同地滞在中に右近の死に立ち会い,アビラ・ヒロンの『日本王国記』に
加筆して詳細を極める。晩年は再び東洋に戻り,マカオで『日本殉教録』を執筆する。最終死亡時はマカオ。

J
J_江戸初期に於ける切支丹禁制発布と取り締まり、弾圧、殉教に絡んだ藩主2代について

  • 上杉景勝 :出羽米沢藩第1代目藩主(上杉謙信の養子):長尾景勝も同一人物(長尾氏の生まれで養子IN)
    ■弘治元年11月27日(1556年1月8日)~ 元和9年3月20日(1623年4月19日)
    (織田信長時代、豊臣秀吉時代、徳川家康時代以降と生きた人物)
    ■長尾政景(上田長尾家)の次男として越後国魚沼郡上田庄の坂戸城下に生まれる。
    母は、謙信の姉であり、つまり、謙信の甥。そこで叔父、謙信の養子となる。謙信死亡後、血筋内抗争を
    経て、名実、謙信を次いで越後国の当主の座につく。
    ■関が原の合戦では石田光成側に加担。敗北後陳謝にて、減移封。北信越の大大名の地位は喪失。
    出羽半国の一大名(=米沢藩主の地位)へ没落。 出羽米沢藩第1代目藩主とは、左記の経緯。
    ■出羽米沢藩初代藩主
    ■弘治元年11月27日(1556年1月8日)~元和9年3月20日(1623年4月19日)
    ■慶長5年(1601年)8月16日、徳川家康命により出羽国米沢(30万石)への 移封
    ■慶長9年(1604年)、嫡子・上杉定勝が生まれる。
  • 上杉定勝:出羽米沢藩第2代目藩主
    生誕 1604年6月2日(慶長9年5月5日) 死没 1645年10月29日(正保2年9月10日)
  • 上杉定勝 :景勝は1623年死亡。 米沢殉教史はこの藩主の時代に発生している。
    ■江戸幕府の指令を受け、キリシタン取締強化
    米沢切支丹大弾圧と、殉教史実:
    • 1629年1月12日〈寛永5/12/18〉処刑決行
      甘粕信綱(右衛門)を処刑するなど、領内で藩士を含む多数のキリシタンを逮捕。死罪決行。
    • ▲上記甘粕らは家臣。侍達の殉教発生。但し、この処置については、捉えて惨殺したのでなく、
      藩主の説得に応じてず、自らの意思で殉教を選んだ 。実際、この事件を境に、甘粕家は、
      名目上左遷されて地位は落ちるが、滅んでいないことと、幕末迄いつも重要な位置に居る。
    ■1639年(寛永16年)に、吉利支丹横目を郷村に配置。

■甘糟継成が使えていた戊辰から明治期の藩主:上杉斉憲

米沢藩と庄内藩のおすすめ本はこちらにもあります。
▼左端:サムライたちの殉教、(ココが知りたい!かなり内容的に揃ってます。

■家康のキリシタン禁令と歴史的弾圧,
■東北全般切支丹,■会津編,■米沢の殉教,
■津軽流刑と東北キリシタン時代,
■仙台・広瀬川の殉教,■宣教師と鶴岡の信者,
■直江兼続・・・他
K_甘粕継成:「本人について」、及び、「先祖の殉教」&「キリスト教の関連を感じさせる点」について
Kの1_甘粕と、甘糟、
Kの1

■「甘粕」と「甘糟」どっちも平侍:越後州、■祖_甘粕景持と、祖_甘糟景継は遠縁
  • 甘粕氏(席次4位、藩内250石) :祖_甘粕景持
  • 甘糟氏(席次81位、藩内200石):祖_甘糟景継(登坂清高長男)
    • ▲今回の本題=甘糟継成はこっち:下記の甘糟景継もこっち:故に甘粕右衛門信綱も・・・となるが
甘粕右衛門信綱(=右衛門)(洗礼名ルイス) 切支丹として死んだ昔の親族
=甘粕右衛門信綱(甘糟景継【1550~1611年】の次男)
・・・手繰ると、このルイスなる人物は、理屈の上で、本来なら「甘粕」でなくて、「甘糟」なはずなのだが、
養子かもしれないし、或るいは古資料によって表記混在、そのせいか?(納得満喫できる本今のところ未発見)

Kの2_甘粕継成:本人について
Kの2

甘糟継成

※甘糟家には、参考として「甘糟家先祖書」等がある。

甘糟継成(あまかすつぐしげ)【1832年4月12日(天保3年3月12日)~(1869年12月31日(明治2年11月29日)】
■米沢藩の重臣,■通常、備後守と呼ばれる,■幼名:半蔵・虎之助
■戊辰を経て、捕縛を逃れ生きて、明治初期用いていた 変名は、「新保勘左衛門」
■父:甘糟継善。(米沢藩侍講組:講師教師的仕事)■母:畠山義郷(外記)の娘。
甘糟継成の実際の仕事&役目:学者 。父親も米沢藩侍講組。
  • 実質的な彼の役職名:
    • 「学館典籍・・・という名の役職」
    • 慶応元年(1865年)、さらに「御記録頭取」に就任。業務は、研究&歴史書の編纂
      この時に、著書、 「西洋通記」・「亜米利加国史」 等を著す。
      その為、シュネル事情に明るく、書物に記載を残し、また接点もこの段階で確保されていた
      と想定される。
  • 甘糟継成は少年時代から聡明。藩校・興譲館の「神童」。藩主上杉斉憲は、彼を「学館典籍」に任命。
■他にも職務&実績:諸大名や公卿・藩士との交渉業務
・これは、藩主、上杉斉憲にお供して、
文久2年(1862年)から京都・江戸 に行き、諸大名や公卿、及び藩士との交渉を担当。

■家格:侍組平侍。:家格が低いわりには、重要な地位に居る理由
  • 優秀、名家、忠誠心も優秀:その反面、かつての失策と切支丹事件当該者を出した家系
  • 【優秀、名家】&【失策】
    甘粕氏は上杉謙信に仕えた重臣・甘糟景継(白石城(支城)城代を一任された重臣&名家)
    から代々上杉氏に仕えており、ルーツは越後だが、白石方面を治める。 6600万石 ・・だったが、
    (徳川家康時代の先祖の話)伊達政宗に白石城を奪われ【失策】、一回取り潰し。但し、1624年段階で、
    次の藩主定勝 に救われ、200万石だが復活。尚、幕末明治の甘粕継成本人は、侍としての
    地位は上記のとおり低いが、上記のとおり、 学者として活躍&仕えている。
  • 【失策】上記のとおり、甘糟景継時代に、伊達政宗に白石城を奪われていいる。甘糟景継は自害。
    しかし、自害が左記事象が直因かどうかは不明。
  • 【忠誠心】甘糟景継が白石城を奪われたのは、そもそも公務、会津出兵にて城守備が手薄だった為。
    藩主に冷遇されている状況を耳にした徳川家康が哀れみ、直接ヘッドハンティングの誘い。
    ところが、本人は、自らの失策故と、謙虚に辞退した。(これは甘糟家の伝え)
  • 【切支丹事件当該者を出した家系】:甘粕右衛門信綱が切支丹として処刑されている。
    (詳しくは真下の枠 項Kの3
■尚、 上記のとおり、甘粕継成は、完全に「隠れ切支丹家」の血をひいています
信仰していたとか、行動していたとかは、別としても、この家は、
まさに、江戸時代初期の殉教犠牲家系。(詳しくは真下の枠 項Kの3

戊辰時&明治早々に死亡に至った甘糟継成について
  • 戊辰戦争突入による役職:軍務参謀
  • 戊辰戦争時の主な実績と経過:
    • 越後長岡城奪還作戦参戦=敗れる
    • 米沢藩降伏と同時に、謹慎となる。
    • 明治2年3月 「新保勘左衛門」の変名のまま上京し、麻布の上杉邸に潜伏。
      この時、まだ500両の懸賞金がかかっていた。雲井龍雄が 土佐藩の毛利恭助 宛に
      書状を送り、新政府出仕内定。上記江戸の米沢屋敷に留まり、英学開始。
      • 【参考:雲井龍雄】
        ◆土佐藩の毛利恭助宛に接点があり行動できた訳:
        雲井龍雄は、戊辰時、探索方兼、貢士(藩代表の評議員)として京都に滞在して
        いた時期有。その為、親交があった。
        ◆しかし、 「新保勘左衛門」とは、戊辰時、軍務参謀で懸賞付きの男「甘糟継成」
        である旨を、どの段階のどの人物迄公認してくれたかについて、判然としない。
        ◆尚、この雲井は、明治3年12月26日に処刑されてしまいます。
        罪状は、 「政府転覆計画による謀反容疑」

    • 明治2年3月 、ひとまず、雲井の嘆願がパスした為、心新たに就学に専念:
      慶應義塾の教授・吉田賢輔がキーマンとなり、吉田賢輔の他、同塾の福澤諭吉、
      小幡篤次郎に学ぶ。
    • 明治2年4月 14歳の長男・ 甘粕鷲郎(竹太郎) を上京させ、慶應義塾に入学させた。
    • 明治2年7月 、待詔院出仕決定、
      L_2枠:明治新政府の待詔院下局に勤めるはずだった三人・・・語参照
    • 明治2年11月29日 死去 。享年38歳。
      • 上記、雲井の活躍による効果はどこまでだったか、多少気になる死。
        同時に出仕決定していた斉藤まで郷里に下がってしまった。但し史実は「病死」です。
■甘糟継成亡き後の遺族
遺子:◇長男:鷲郎、◇二男:千代吉(鈴木家へ養子に出している)、◇三男:三郎
妹:春子、◇長男:鷲郎の子(◇初子、◇のぶ子)
  • ■長男鷲郎:翻訳などで活躍、慶應義塾に入学
    当初、甘糟家を継ぐが死亡。死亡後、鷲郎の弟:三郎が継ぐ。この時、鷲郎の子(◇初子、◇のぶ子)を
    養女として引き受けている。
  • ■二男:千代吉が鈴木家へ養子
  • ■三男の三郎:鷲郎死亡後、上記鷲郎項目のとおり、本家を継ぐ。

Kの3
Kの3_甘粕継成:先祖の殉教、及び、キリスト教の関連を感じさせる点について

甘糟継成:先祖の殉教
切支丹として死んだ昔の親族
=甘粕右衛門信綱( 甘糟景継【1550~1611年】の次男とされているが、詳細は情報不足)
  • 【甘粕右衛門信綱(=右衛門)(洗礼名ルイス)】:殉教の日:寛永5年12月18日(1629/1/12)
    処刑に際し、上杉家重臣及び、当主 上杉定勝が改宗を勧めた が、本人は拒み、家族と共に斬首された。
    米沢北山原での殉教 犠牲者の一人。
  • この人物は確かに存在しており、殉教も明確ながら親族との関連付け資料が不足。
    妻と子3歳と1歳、及び下僕ら家の者計15名も、他全57人(別説70名前後)と共に殉教。
以降の世代に於いても、キリスト教の関連を感じさせる点について
  • 明治15年8月21日、新島嚢(ご存知のとおりキリスト者)が米沢の甘糟三郎家を訪問。
    これは、伝道とは無関係とされるが、新島嚢と甘糟家共通点自体がそもそもキリスト教と外語。
    ■尚、この時、新島嚢が対面したのは、甘糟継成の妹、春子。
    新島嚢は、米沢の歴史や風土等を聞き取り、『新島嚢全集五』:「遊奥記事」を著した。
  • 甘糟家は、外国語が達者な家系
    甘糟継成本人:明治2年江戸屋敷で福澤諭吉らに英語学ぶ。長男の鷲郎も同年同じく学び、
    慶応義塾入学。 (外国語と米沢藩参照) :両者共に蘭語はそれ以前から達者なはず。

No.1 (現在頁)< No.2
next_car ■L_米沢藩の戦後処分と各人物の結末
■M_米沢藩の蘭法医学、洋語学問に絡む人物と人脈
【注】
1868年に於いて、日付のことで、頭こんがらがる時:
慶応と明治】 :■慶応4年(1868年)は、途中で明治に化ける。■同年、7月22日(1868/9/8)より、元号は明治。
・・但し、資料によって、この年の件に関しては、双方の表記がある。仮に明治元年3月という表記があったとしても、
間違いではない。明治政府は、同年1月から遡って全部明治に一括一貫方針を希望していた。
【江戸と東京】 :■同年、8月17日( 1868/10/2)より、江戸は東京に改称。
【4月と閏4月】 :■尚、慶応4年は、4月と5月の間に、閏4月が別途ある。13ヶ月ある。
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
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