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米沢藩の甘糟継成とシュネルNo.2
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幕末_WITH_LOVE玄関
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シュネルと若松コロニー:アカバネシュネルの謎
<シュネルを紐解く資料編SERIES下行【解説】
<米沢藩:甘糟継成とシュネル
No.1
<
(現在頁)
No.2
【解説】:シュネルに係る資料編もご一緒にご覧下さい。本件関係は主に
資料編No.2
ですが、
前後して「
資料編No.1
<
資料編No.2
<
資料編No.3
<
資料編No.4
<
資料編No.5
」・・・とあります。
米沢藩:甘糟継成とシュネル考察_No.2
惜しいところで、惜しい男(シュネルのキーマンの一人)が死んでしまった!の巻
甘糟継成(あまかす,つぐしげ):天保3年3月12日(1832/4/12)~ 明治2年11月29日(1869/12/31)
米沢藩士
現在シリーズの展開
No.1
<
No.2
(現在頁)
現在頁の「資料編直接関係するのは」資料編No.2
■
No.1
■
◆シュネルの日本脱出(若松コロニー創設の際)を応援した他藩士
シュネルが若松コロニーを創設すべく、日本脱出の際、密かに応援した謎の他藩士の痕跡。
(他藩士とは、会津藩士は身動きできない為他藩)
甘糟継成について序章(シュネルについて文章を残した人物)
シュネル情報(◆B_1)甘糟継成の日記より、(◆B_2)色部久長の日記
色部久長について
各国条約提携の順番と状況
シュネルに絡む国名
奥州の殉教史と、末裔に漂うらしき影
庄内藩:酒田のキリシタンの痕跡
米沢藩のキリシタンの痕跡
宣教師ペドロ=モレホンについて
江戸初期に於ける切支丹禁制発布と取り締まり、弾圧、殉教に絡んだ藩主2代について
(後半におすすめ本)米沢藩と庄内藩のその昔藩主達と事情、潜入した宣教師と殉教者達
甘粕継成:「本人について」及び「先祖の殉教」&「キリスト教の関連を感じさせる点」について
Kの1_甘粕と、甘糟
Kの2_甘粕継成:本人について:戊辰時と明治早々の死亡について
地位の上で降格になっているものの、重臣の座にあった甘糟家の訳
甘糟継成についておまとめ、及び、生き残りの直系:語学に秀でる甘糟家
Kの3_甘粕継成:先祖の殉教、及び、キリスト教の関連を感じさせる点について
甘糟継成の遠い昔のご先祖:(切支丹)甘粕右衛門信綱(右衛門:洗礼名ルイス)
死後歳月が流れても、やはり漂う気配:新島襄(キリスト教)が訪問した甘糟家遺族
▲
No.1
(前の頁)、▼
No.2
(現在頁)▼
米沢藩の戦後処分(事前探索活動、戦犯犠牲者の抽出と懊悩、結果発生した事態)
戊辰戦争に係る「米沢藩の戦犯処理」と維新後の展開と、他関連人物
生き延びたはずが、息苦しい偽名のまま、早々に死を迎える甘糟継成
明治新政府の待詔院下局に勤め続けるはずだった三人の宿命
米沢の洋学熱心さと、ルーツ&実績
絡み絡みまくる謎の人脈迷路
米沢の早期洋学導入と纏わる代々人物から、絡まる人脈、各関連人物(他藩との接点)
米沢藩校「興譲館」:{好生堂(医学+蘭学)、洋学校(語学他部門が明治期プラス)}
明治以前に外国人の謎の形跡を考察
(後半におすすめ本)米沢藩と庄内藩のその昔藩主達と事情、潜入した宣教師と殉教者達
1868年に於いて、日付のことで、頭こんがらがる時:
【慶応と明治】,【江戸と東京】,【4月と閏4月】:
★
もしも、字が小さすぎてバンザイ!の方いらっしゃいましたら:◆(Ctrl)+(+)=文字サイズ拡大。
繰り返すといくらでも大きくなります。◆元のサイズに戻すには(Ctrl)+(-)をお好みサイズまで反復
L_米沢藩の戦後処分
Lの1
■結果として、米沢藩の恭順は戦闘の途中で転んだ形。
■参考:米沢藩に同情的で画策してくれた藩:
高鍋藩(岩村虎雄)、土佐藩(毛利恭助他:尚結果として手遅れだったが北越戦突入前に
血を流さず恭順の為の建白書を宮島誠一郎が画策した段階で、土佐:山之内容堂自ら動いた。)
高鍋藩と米沢藩は遠縁。米沢9代藩主の上杉治憲【鷹山】(1751~1822年 )は日向高鍋藩主、秋月種実の次男。
救い主として活躍した岩村虎雄は、高鍋藩士。高鍋藩は日向。日向国はモンスター薩摩のお隣。
Lの2
文字
サイ
ズ
拡大
(Ctrl)
+
(+)
連続
■
米沢藩の事前探索活動:
米沢藩は幕軍として戦闘突入していますが、その一方で実は、もしも恭順したとしたら
どうなるかについて、有能な藩士を持っています。担当者は「
宮島誠一郎
」
等
。
宮島誠一郎
:勝海舟に面識有り。また、この人物は戊辰の展開予想に於いて、謝罪降伏路線説が
懸命である旨を早期に主張していた。鳥羽伏見の後についても、会津の謝罪が安全説提唱で、
長州の広沢真臣と面会して好感を得ており、数少ない長州に接触できる人物だった。
その為、彼の画策により、結果として、米沢藩の罰度合いは随分低い。
減封石数も4万石の削封と、実に軽度。また、藩主斉憲は無論隠居ですが、無事、嫡子茂憲は、
家督相続が認められています。(実際は、蓋を開けると見事、美味しい所取り。
肥沃な土地、下長井地方が全滅:少々揉めたが被るしかない。不満分子は内部で説得吸収。)
ところが、やはり、これだけでは済まされない結果になります。
どの藩も皆、同じですが、藩の存続と藩主の存命嘆願の引き換え条件は、
戦犯責任者の処刑。名前を届け出て、切腹させて首を提出しなければなりません。
■
戦犯犠牲者の抽出と懊悩
明治元年12月7日(1869/01/19)、米沢藩は、新政府より正式に通告された。
上記のとおり、藩主斉憲の隠居と4万石の削封は仕方ないとして、
「反乱首謀者一名の処刑」
を通告されました。
こればかりは逃げるに逃げ切れず、なりゆき、
千坂高雅
が危ないところでした。
彼は、北越戦争時、全権総督。ここで、救ったのは、
高鍋藩士の「岩村虎雄」
。
高鍋藩と米沢藩は遠縁。米沢9代藩主の上杉治憲【鷹山】(1751~1822年 )は
日向高鍋藩主、秋月種実の次男。その為、米沢藩の恭順を勧める為に派遣されていたのが、
上記岩村虎雄と阪田潔。
彼の働きで、既に故人ながら、新潟攻防戦で戦死した
色部長門
を反乱首謀者として報告。
新政府への回答は、明治元年12月22日(1869/02/03):「該当者は既に死亡」
これが受理されたのですから、他藩としては、実に羨ましい限り。
ところが、故人は冥土で恐らく納得ながら、遺族は大変。家名断絶、お家取り潰し。
その為、藩主は、遺族を気遣い、
色部の遺子を米沢藩の名家、山浦家の養子
段取り。
■生き延びたはずが、息苦しい偽名のまま、早々に死を迎える甘糟継成
上記のとおり、
千坂高雅
が危ないところだったわけですが、実は、もうひとり危ない人物が
居ます。それは、甘糟継成。甘糟継成は、冥土の色部長門の部下であり、北越戦で、米沢藩参謀。
斉藤篤信(主計ともいう)も危ない。この人物は、仮参謀でしたが、やはり危険。
彼らは藩命で、江戸の上杉屋敷に移動します。
その際、甘糟継成は、まさか本名では動けません。ここに彼の息苦しい変名時代到来。
彼の
変名は、「新保勘左衛門」
■明治新政府の待詔院下局に勤め続けるはずだった三人の宿命
(下枠学問項と甘糟継成項ご参照)
三人とは:■甘糟継成と■斉藤篤信(主計ともいう)■宮島誠一郎
上記3人は、明治2年7~8月
、待詔院出仕決定、甘糟のみ7月、他二人は8月決定
甘糟継成が、明治2年11月29日
死去
。享年38歳。
甘糟の死後、斉藤篤信は辞職して郷里で教師としてひっそり暮らす。
甘糟継成は戊辰時、参謀であり、変名の「新保勘左衛門」の姿。
一方、斉藤篤信は戊辰時、仮参謀。画策業務が中心で主戦派と見なされないのは宮島誠一郎だけ。
史実として、そこに何が発生したか、詳しい文章は存じません。甘糟継成は病死とされています。
・後に、千坂高雅は明治政府に出仕。内務省勤務。
M_米沢の洋学熱心さと、ルーツ&実績
基本は、米沢藩校「興譲館」:{好生堂(医学+蘭学)、洋学校(語学他部門が明治期プラス)}
■右枠、人物名については、米沢の洋学、英語導入のルーツを発掘するための略MEMOにつき、
明治以降後時代の活躍などは略しています。(絡みまくる人脈パズル発掘用
米沢藩内の者は
◆青字太字
、藩外の者は
◆黒字太字
■
【蘭学と、蘭医の養成】
寛政5(1794)年11月:藩学校医学館『好生堂』を創設
【蘭学と、蘭医の養成】
この時代の藩主は、上杉治憲。「和蘭は窮理に精しき国なれば
必ず採るべきものあらん」発言。
■
杉田玄白
の元へ修行に藩士派遣。メンバーは侍医と藩内
選抜の優秀な者。■蘭法外科機械を購入の上、
好生堂
に据え置き、
西洋医学を尊重奨励。■その結果育まれた有名な人物として
「
堀内素堂
(右枠1)」登場。
■米沢は、
「東北の長崎」
と呼ばれた時期有り。評判を聞き、
江戸から、逆に修行に来た者有り。(
坪井信道
(江戸の蘭方
三大家の1人)は我が子を米沢に遊学させている。
■下行の明治2年段階の
平田東助(右枠7)
も医者家系、英語修学もある
が、彼は主として西洋医学を学ぶ為に渡辺洪基に学ぶ。
★【英語教育】+【西洋医学】:明治2年から
・目に見えるのは明治2年。ところが誰か指導者居た形跡有り。
【第一の段階】
:戊辰で戦い新政府から主戦派とみなされる
恐れのある者などが藩命でまずは江戸へ、その際就学も
◆明治2年3月:戊辰で参謀の地位にあり身の危険度が高い
甘糟
継成
は、江戸の上杉屋敷に潜伏の上、
変名「新保勘左衛門」
となる。
この時、一覧に名前を発見できないが、同じく、仮参謀であり、
その後の流れから甘糟と同じルートを動く
斉藤篤信(上項L_3)
も居たはず。彼の変名不詳。
◆彼らは、同屋敷内で、早速、英語を学ぶ。師匠は、
福澤諭吉、
小幡篤次郎(右枠6)、吉田賢輔(右枠5)
とされる。
◆尚、キーマンが吉田賢輔であることから、福澤、小幡より
先に、吉田による教示開始が時期的に多少早い。
尚、これが、彼ら及び、その次のグループ(甘糟継成の子、
甘糟鷲郎
【右枠10】を除く主に若手。鷲郎は14歳ながら、
他若手グループよりも、父の縁で、一足早く、明治2年4月に
慶應義塾入学)他慶應義塾修学の始点となる。結び付のキーマ
ンは吉田賢輔。その上、吉田本人と米沢藩の縁は、漠然と右枠
のとおり蘭学ルートながら、人物名及び経緯不詳。
この時、上記、江戸屋敷で、福澤、小幡、吉田に学んだ第一
グループ=
平田東助(右枠7:医学と英語),内村良蔵(右枠8),
曽根俊虎(右枠11),甘糟継成(現在シリーズ全部関連)
他。
彼らの共通点は、戊辰で戦っていることと、後藩に戻り指導的
立場。次世代教育の要係。(但し、甘糟は死亡)
◆甘糟の子鷲郎が特例的に4月。
◆甘糟の江戸入りは明治2年3月、平田、内村は5月。
◆(この時、外国人とのキーマンとして登場する者▼)
池田成章
:当時上杉茂憲の側役として麻布邸に居た。
彼は甘糟の弟子。イギリス公使館付通訳官
A.G.G.シーボルト
を初め外国人との知己確保している。 学んだ者一覧に名前発見
できないが恐らく彼も英語をこの時学んでいる。
◆甘糟継成が、明治2年11月29日死去。享年38歳。
(明治2年7月待詔院出仕決定だったのだが死亡)
【第ニの段階】
:江戸でなくて米沢に修学施設を
明治2年
、米沢藩は、「
渡辺洪基
(右枠3)」を
講師として招く。
米沢藩命で「
渡辺洪基
」に修学した者
平田東助(右枠7:医学と英語),内村良蔵(右枠8),
他:「三潴謙三(右枠9),有壁精一郎,堀内亮之輔,
三潴謙三,高橋秀松,草刈義哉,海瀬敏行ら」約10数人
尚、上記平田と内村は明治2年5月上京の上、江戸の
江戸藩邸(麻布飯倉の上杉屋敷)で既に学んでいる者。
次世代育成係として送り込まれた人物。藩内施設設立
に着手しながら、自ら再び学ぶ。
平田東助は明治政府の「貢進生」制度に着目して、
旧藩主:上杉茂憲に米沢からも学生大学送り込を献言。
【第三の段階】明治3年
~
:米沢藩内で修学した者がさらに江戸で大学へ
この後、内村良蔵と平田東助は開成学校入学。卒業と同時に
大学の職員になる。
三潴謙三,北村精一郎,甘粕鷲郎
も
開成学校入学。
▲一度江戸修学組、▼米沢で(渡辺洪基)に修学組
有壁精一郎,堀内亮之輔,三潴謙三,高橋秀松,草刈義哉,
海瀬敏行、他
★藩内【英語教育】施設設立
米沢藩は、
明治4年(1871)1月
,興譲館内に「
洋学校
」を創設。
明治4年2月18日開講
当初の英語教師として米沢に指導に招かれた講師:
慶応義塾福沢諭吉門人の
木村道之助,宮内赫介,滝川喜六の 3人
英国人 チャールズ・ヘンリー・ダラス氏
米沢には、随分古い段階で英語可能者、又は、
外国人が入った?かと思われる影有。それら
の考察材料としての人物
(絡みまくる人脈パズル状態ですがご参考
0_
福澤諭吉
(有名につき詳細略)
・単にキーマンとしてここに記載
1_堀内素堂
:(1801~1854)
西洋医学の大家。
諱:忠寛、幼名:忠公、素堂は号。
米沢藩医者家系。米沢藩医,
■江戸で蘭学医
杉田立卿
(
杉田玄白
の
子)らに学ぶ。(左枠のとおり、それ以前の
藩士の中、直接杉田玄白に学んだ者も有。
■長崎遊学。 ここで、
高野長英
と面識有り
とされる。
■蘭語達者▼
フフェランド(C. W. Hufeland)著の
医学書を訳し、日本で最初の小児科医
学書『幼幼精義』出版。■天然痘に
係る種痘の必要性も説く。
2_佐藤舜海
:=佐藤尚中
佐倉の「
佐藤泰然
」の養嗣子。
(山口甫僊の次男、舜海と称す)
また、「佐藤泰然」の実子で松本家に
養子に出してあるのが、下枠の松本良順
3_松本良順
:(有名詳細略)
キーワードは、長崎医学所、蘭学、医学、
蘭人と接点大いに有り
。下4番項、渡辺洪基
も長崎で彼の配下。
4_渡辺洪基
:(1848~1901)
福井藩士。福井藩医者の
渡辺静庵
の長男。
1864年( 18歳時)江戸に出て佐倉の佐藤舜海
に医学を師事。◆長崎の松本良順(上項3番)
の配下で蘭法医術学ぶ。
蘭人と接点大いに有り
◆その後、福澤諭吉に学び、さらに
慶應義塾を卒業後、◆会津藩で英学校開く。
◆戊辰戦争時は幕府側で参戦しているが、
許されている。
養嗣子 尚中(山口甫僊の次男、舜海と称す)
5_吉田賢輔
:(1838~ 1893)
武蔵国江戸生まれとあり、出元身分&親?。
学問の師匠:田辺石庵、
古賀茶渓
その後、福澤諭吉に知り合い、最終的には
儒者、幕臣、慶應義塾長として知られる。
福澤にすぐ認められ、真下4番項の
小幡篤
次郎
と共に、早期に補佐的立場に昇る。
6_
小幡篤次郎
(とくじろう):中津藩士
1842年~1905年(明治38年):英学者
中津であることから、福澤諭吉縁は明確
7_平田東助
(1849~1925)
米沢藩医・伊東昇廸の子、兄は祐順
1856年:同藩医師・平田亮伯の養子となり、
◆江戸へ行き古賀謹堂に学ぶ。
東京へ上り、明治2年(1869年5月、慶應義塾
に入り、◆吉田賢輔に英学を学び、◆大学
南校入学。◆明治4年(1871年)には旧藩
校・興譲館に
「洋学舎」
設置の際主力。
(この人物は本来医学方向なはずの家系
だが、英語学方向へ進んだ様子)
◆慶應義塾出身の
木村道之助,宮内赫助・,
滝川喜六
ら3名を招いた。
8_内村良蔵
内村良蔵は、平田東助と共に開成学校入学
(時期によって開成≒南:下段ご参照)
平田東助の義弟。 (この人物も本来医学
方向のはずの家系だが、英語学方向へ進ん
だ様子)
9_三潴謙三
:(1852-1894)
医師。 米沢藩医「三潴白圭」の子。
明治3年:東京医学校入学。後に東京病院で
シュルツェの助手,明治8年ジフテリア治療に
係る原因として細菌説を主張。
10_甘糟鷲郎
(竹太郎)
甘糟継成の長男。明治2年4月慶応義塾入学。この時14歳。
さらに「大学南校」へ。
翻訳など各活躍
11_ 曽根俊虎
(1847~ 1910年)
米沢藩儒者:曽根敬一郎の子。米沢で渡辺
洪基に英学学ぶ。さらに江戸で慶應義塾入学。
古資料によって表記が複数有り混乱する
当時の大学関係表現について参考▼
◆1877年に開成学校+東京医学校
=旧東京大学(統合)
◆明治2年8月、「大学校」が発足。
「開成学校」と「医学校」が各分局。
◆開成学校:明治2年8月~スタート
旧幕府直轄の開成所(文久3年に発足)は、
慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により
閉鎖。それを明治新政府が接収し同年9月に
「開成学校」として復興。
その後、明治2年12月改称「大学南校」となる
★南といえば外語その他
◆東京医学校:明治2年8月~スタート
慶応4年4月(1868年5月)、明治政府が、
旧江戸幕府の
医学所
を接収。それを、
「医学校」と改称し設立。その後、「大学
東校」と改編。さらに、1874年(明治7年)
に東京医学校と改称された。
その後、明治2年12月改称「犬学東校」と
なる。★東といえば医学
*
■米沢の英語学習について、判然とするのは明治2年。ところがそれ以前になにやら外国人が出入り
指導した形跡はないか気になっています。■シュネルが若松コロニーに脱走したメンバーの中に、
スイスの
Diebol
が居ます。彼はワイン生産で成功。日本から果樹を持ち込んだ。葡萄ですから米沢は
関係ないでしょうか?当初彼のルートは、シュネルの横浜時代のスイス人仲間だろうと楽観的に考えて
いましたが、気になります。また、米沢と会津に姻戚関係があるのは当然予測されますが、シュネルメンバー
の中、どうも二世風の少年が一人居ることと、英語がもとから可能だった人物が居ます。
■現代なれば山形方面の果樹はGOODですが、幕末明治初期に、葡萄が西洋から入るならまだしも、
わざわざ日本から運び出す程優れていたか?少し悩みますが、農試まで今のところ調べていません。
興味のある方はどうぞ掘ってみて下さい。もしも西洋葡萄と掛け合わせた優れた葡萄がその段階で
あったとしたら、またしてもバテレンさん絡むかもしれませんね。
米沢藩他奥州おすすめ本
▼左端:サムライたちの殉教、(ココが知りたい!かなり内容的に揃ってます。
■家康のキリシタン禁令と歴史的弾圧,■東北全般切支丹,■会津編,■米沢の殉教,
■津軽流刑と東北キリシタン時代,■仙台・広瀬川の殉教,■宣教師と鶴岡の信者,■直江兼続他
_
_
_
_
_
【注】
1868年に於いて、日付のことで、頭こんがらがる時:
【
慶応と明治】
:■慶応4年(1868年)は、途中で明治に化ける。■同年、7月22日(1868/9/8)より、元号は明治。
・・但し、資料によって、この年の件に関しては、双方の表記がある。仮に明治元年3月という表記があったとしても、
間違いではない。明治政府は、同年1月から遡って全部明治に一括一貫方針を希望していた。
【江戸と東京】
:■同年、8月17日( 1868/10/2)より、江戸は東京に改称。
【4月と閏4月】
:■尚、慶応4年は、4月と5月の間に、閏4月が別途ある。13ヶ月ある。
No.1
<
No.2
(現在頁)
(A~K項)■シュネルと米沢藩のからみ、■甘糟継成と色部久長,
■甘糟継成の祖先と米沢藩過去に遡って、さらに、甘糟継成を考察
■過去に切支丹殉教した先祖他各種
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材については頁下表示
甘糟継成,色部久長,米沢藩の戊辰戦後処理と結末,米沢藩の蘭法医学、洋語学問に絡む人物と人脈,米沢藩校興譲館,好生堂,洋学校,平田東助,斉藤篤信,内村良蔵,曽根俊虎,三潴謙三,北村精一郎甘粕鷲郎・・他,影響多大な他藩士,教育に貢献した他藩士,幕末WITH_LOVE,幕末明治,
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