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会津藩_梶原平馬のもう一人の妻と倅資料編2
梶原平馬の梶原家について,実家の内藤家について,内藤家に纏わる寺と僧の活躍,梶原平馬二人の妻と二つの家庭,明治根室の教育者母子,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES補足頁No.2,明治初期の端境期:慣習と法の狭間,本妻と妾に係る戸籍各事情,明治初期の離縁,学制発布と女子教育
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(犬猫サイト)<
幕末WITH_LOVE玄関
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幕末引き摺る明治大正昭和の話
会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_補足頁
梶原平馬SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
・・・<
考察おまとめ表
<
考察おまとめ表2
(現在頁)<
考察おまとめ表3
考察おまとめ表
:■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)
現在頁=シリーズ内の「各ソース」解説専用補足頁
ソースとは・・・
梶原平馬が築いた二つの家庭。そこには、双方教育者家系であることと、戸籍の
不思議が延々絡みます。
前妻も後妻も教育者。しかも明治初期の「初に女子の教育」に貢献した人物。
そこで、「女子に係る教育」の件と、「戸籍」に係るソースが文章内発生しています。
「戸籍」に関しては、両家間、随分「戸籍」の行ったり来たりが延々。
・(文雄:水野姓→梶原姓→水野姓。水野貞:水野貞→梶原貞。
・シツエ:水野姓→梶原姓→?【シツエの場合は嫁いだ段階でこの問題は無縁につき追求してません】)
そこで、
ソースその1
_学制発布と、女性解放(
関連頁:No.2
)と、女子教育
・・・このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.3
ソースその2
_婚姻と戸籍、明治初期の端境期:慣習と法の狭間
★一夫一婦制は、明治31年から!!:本妻と妾に係る戸籍各事情
・・・このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.4
ソースその3
_明治初期の離縁について:「三行り半」と、「返り一札」:戸籍と慣習と法
・・・このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.6
戸籍の移動と、死者発生の絡み
ウィンドウを二つ立てて、
考察おまとめ表
と比較しながらご覧下さい。
明治
翌
年
絡
み
翌
々
年
絡
み
死亡に係る事象他
平馬死亡時、前妻(戸籍上本妻)
の二葉は
夫の死に目に会えなかった。
文雄死亡時、産みの母貞にとっての
実倅、文雄は東京の病院で死亡の
為、貞は倅の死に際に会えなかった。
重要人物の死亡の後、必ず戸籍上、
何かが動いているのが解る。
梶原平馬本人死亡の一周忌が過ぎた
途端、文雄の籍は梶原へ。
二葉が死亡した後、既に死人の文雄の
籍が水野に戻される。死者の籍帰還。
.
戸籍に係る事象
【事象MEMO】
22年(1889)
.
.
梶原平馬、根室にて死亡▼
23年(1890)
.
「水野シツエ」&「水野文雄」共に
水野姓除籍。梶原姓に改姓。
31年(1898)
.
.
一夫一婦制制定
▼
32年(1899)
水野貞は、梶原姓を名乗る
41年(1908)
.
▼
▼
→
水野文雄、東京にて死亡。
42年(1909)
二葉死亡1909(明治42)11/14)▼
44年(1911)
.
.
死者文雄の霊は水野姓に戻る。
■最大のキーワードは明治31年の法改正。「一夫一婦制」の確定。明治32年、水野貞は「梶原姓」を
初に名乗る。今日にして今だ、二葉の離婚確定が不明なのは、そのせいではないかと考えられる。
二葉は離婚したのではなく、法改正によって、自動的に婚姻を失効したと判断される。
■後述するが、理由は、平馬が死亡する最終段階で、永らく同居していなかったこと。永らく同居して
いた側の水野貞が正式な妻としての座を得たものだろう。尚、この法改正では、婚姻の事実は過去に
遡って撤回されるものではない。その為、法改正以前に於いては全て正妻。その上、子については、
姓の変動は一切生じない性質の改正である。その為、この家の継承は以降も梶原で存続される。
■その一方で、水野貞側は、夫が死亡して10年後に、天上の夫と初に正式婚姻の座を得たことになる。
■水野貞側は、二葉が存命のうちには、さすがに倅文雄の籍を奪い返すことはしなかったが、
明治42年、二葉が死亡すると、その三周忌経過の途端、明治44年、死者(既に明治41年死亡)文雄の籍
を、水野に帰還させている。
こうして見ると、二葉は己が存命中に、悔しながら、法改正によって、正妻の座を奪い取られたこと
になるが、夫はずっと前に死亡している上、己は山川の姓で世に浸透活躍、その上、子に影響無し。
その為、なんら世間体に影響はなかったはずだ。
また、これは偶然ながら、二葉にすれば妾腹の子「文雄」が死亡した明治41年の翌年の42年、あたかも
力尽きたがごとく、二葉本人が死亡してしまう。
平馬が築いたふたつの家系に於いて、摩擦はいうまでもないが、それにせよ、
二人の妻は、共通して、梶原の為に必死だったのがわかる。平馬は己が死んでも、永久に二人の妻に
愛され続けていたことになる。
▼
後妻の水野貞が、子(※長女:シツエ)を産んだ時、一夫一婦制は存在していない。
上記のとおり、一夫一婦制は明治31年からの話!
史実として、この二つの教育者家系では、流石教育者。
上記に係るトラブルやスキャンダルは見事一切発生させてない。
しかし、水野側の家族に係る戸籍の行ったり来たりは、調べてみた結果、
張本人の梶原平馬死後まで延々続いているのが解る。
■これが何を物語るか?
考察おまとめ表
から、事象発生タイミングと、その直前の「死者発生」
タイミングを比較凝視すると、レイアウトが見えてきます。
故人となった人物と、生き残った親族。そして、手探りでやっとこすっとこ改正されてくる明治の法律。
もたもた遅い明治の法改正。法改正と名乗れど、矛盾だらけで何度も改め。
後妻の水野貞は、その「刃境期」の犠牲者だろう。かったるい法の改正。
しかしながら、皮肉にも、裏を返せば、法に守護されたといえる点も、客観的に見るなれば多々ある。
子は、戸籍上、宙に浮かずにすんでいる。妾は妾として堂々戸籍に入る。違法でなかった。
だからといって、堂々と大きな顔して、大きなお腹で、元の職場に粘れるわけはない。
彼女は、明治初期の端境期:まさに、慣習と法の狭間の犠牲者。
しかし、調べた結果、夫の死後約10年後、ついに戸籍に係る不思議な動きは、
万事止んでいることが解った。終わった訳についても、両家の資料には、前述のとおり、
一切それに係る事柄は残されてないが、全体の事象と、法改正時期を比較することによって、
ほぼ納得のゆく原因を突き止めることができました。
シリーズ全体で、上記事柄全てを書き著してみました。
私は専門家ではありませんから、書き著すならずや、「書き表す」程度ですが、
宜しかったら、是非ご覧下さい。明治の法律推移に詳しい方なれば、もっとボリュームある要素多々
の軌跡を描く夫婦です。私はその点素人につき誤記せぬ為に、素人が知りえた範囲で書きます。
人の子を導く教育者の立場、けっして見苦しく争うことなく、されど屈することなく、
最後に、堂々、法の名をもって、初に「梶原」の姓を得た一人の女性の姿。
時代に苦した理知的女性の姿を、梶原平馬の存在を反射板にしながら、書いてみました。
梶原平馬SERIES:No.1
~(少々長いですがご覧下さい。)
尚、現在の頁では、本文内の各所に書ききれなかった「各ソース」の補足要綱を下欄に追記。
ソースその1_学制発布と、女性解放と、女子教育
■このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.3
【明治女子教育】 :
1872(明治5)年「学制」発布。女子就学率上昇は、同24年の手直しで初にやっと一般にも
開花。24~37年の段階で、30~約100%直前迄急成長。当初誰しも学ぶべし!と
義務教育もどきを発布しても、無料でないし、国が学校建ててくれたわけでなかった。
結局豊かな家系以外無縁。また、初期の私学塾の内、男女同一科目方針の学校が不振。
女子専用科目構想のほうが、受け入れ安かった時代背景。男女別就学がここに定着。
ソースその2_婚姻と戸籍、明治初期の端境期:慣習と法の狭間
★一夫一婦制は、明治31年から!!:本妻と妾に係る戸籍各事情
■このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.4
詳細は本文側からどうぞ。現在頁は補足。
明治31年の「一夫一婦制」成立まで、妾は堂々、妾として戸籍に入った。
妾は、二等親族枠に入った。糾し、正式な法改正以前の明治15年、以降登録廃止。
・この明治15年段階では、徹底整理改正はしないが、これ以上、戸籍のトラブルを防止
する為に打ち止め。糾し、過去にそうなってる分についてはそのまま。
この時、発布前の段階、ちょっと可笑しい内部でドタバタ劇が。
皆、困った。政界の大物、コモノ、金持ち・・・みんなまずい。しかし、これは金で丸めて
なんとかなる。法的書面上を整理すればよい。実質なんかは、誰しもお互いさん、目瞑る。
ところが困った!天皇はどうする!!ドタバタ。
これはまずい。特例条項設定。天皇は皆と全然違う。当たり前だ。堂々当たり前だ。
側室様は大切だ。ごっちゃにするな。これで、とりあえずマル。漕ぎ出し。
しかしながら、やはり、大正天皇には、側室様はけっして、いらっしゃいません。
特例条項あれど、ピリオドはきっちり。
妾と、その子供以外にも戸籍に入った者達
上記31年以前、戸籍には、妾とその子供の他、使用人なども戸籍に入っていた。
■使用人&家来等もその家で養育してる限り、「附籍」枠有り。
この「附籍」は当時のお役所も頭痛の元で困っただろうが、現代に於ける歴史発掘の
大弊害。隠れ蓑。出元不明の一原因になってることも多いだろう。
■糾し、これも上記妾と同様、法の暫定措置と完全廃止の軌跡は同じ年度。
・明治15年登載禁止。明治31年廃止。
明治民法に於ける結婚 :婚姻の成立条件
(本件に関係ある件のみ抜粋)
男:満17歳以上。女:満15歳以上。
現に配偶者をもっていないこと。
・・・▲現代感覚で当たり前ですが、この段階では画期的重要事項。
糾し、女性について
■女性は、前婚の解消を完結していること。取消の日から6か月を経過している事。
・(これでもマシになっている。昔の慣習では、下枠の「三行り半」持参してなければ無効)
■女性は、姦通によって離婚または刑の宣告を受けた者は相姦者と婚姻が出来ない。
・(状況がなんであれ、前夫に権力と知力&スピードがあれば、先に法的措置で
・・訴えられて確証されるわけだから、この場合は、つまり第二の結婚はアウト。
血族間の婚姻について
■直系血族間、三親等内の傍系血族相互間の婚姻でない事。
直系尊属の同意について
■男:満30歳未満、女:満25歳未満の場合、父母の同意必須。
同居の戸主権限との絡み:
戸主の同意を得ること
・(両親に限らず、兄なども戸主である場合、その人物が猛反対なれば婚姻成立に至らない
市町村への届出義務:市町村長に届出必須
この他、明治31年の法改正について
これによって、水野貞が得ることができたものについては、
現在頁の下欄、「ソースその4」の枠に記載しています。
ソースその3_:明治初期の離縁について」
「「三行り半」と、「返り一札」:戸籍と慣習と法
・・・このソース関連事象発生の頁=
SEIRES_No.6
■江戸時代から明治初期まで引き継がれていた慣習的離縁について
現代に於ける離婚に値する言葉は、主に「離別状」といわれるケースが多い。
これは、取り扱いのお役所の書類に値するものが、公事方御定書。
しかし、一般的には、去(さり)状、暇(いとま)状、
「三行り半(みぐだりはん)」と
と呼ぶことが多い。【なぜ、
三行り半
かというと、形態が三行と半分で仕上げる習いだった。】
これは、現代に於ける「離婚届」とは全く異なる。
離縁に係る権限者は男だけ。男が出て行け!と言えば、妻は出て行かねばならない。
しかし、本質的な効力意義は、その後の事象の為。別れる妻に与える再婚許可証の役目。
これがなければ、その女性は再婚できないどころか、たとえ何年経過してても、誰かと恋に
陥るなれば姦通罪。詳しくは
SEIRES_No.6
ソースその4_:明治31年の法改正に救われ獲得したと判断される「梶原姓」
梶原家に係る前妻に関する婚姻の無効及び取消しの要因考察
婚姻の無効と、適用範囲、約束事
「明治31年の法改正」に於ける
・「水野家に貢献した要素」と判断される関連項目のみ抜書き
明治32年、水野貞は、明らかに梶原姓を名乗り出した背景として、調べた結果、
結びついた事象は、おそらくこれだろう。
前年の「明治31年の法改正」!!
■婚姻の取消に係る条件
婚姻の取消適用範囲は、「将来に向う範囲」のみ。
従って、効力は過去に適用されない。
過去年に於ける「妻」は、その段階に於ける「妻」
婚姻が解消されても、子があれば、その子は依然「嫡出子」。
■婚姻状態にあると認定される条件とは
夫婦間に配偶者としての親族関係を生じること
夫婦は互いに同居の義務
夫は扶養の義務を。夫は配偶者の財産を使用収益する権利を有する。
妻が重要な法律行為を行う場合、夫の許可を得なければならない。
平馬は、長い間、山川二葉と同居していない。その上、遠方、別生計である以上、
財産にも当然ノータッチ。そもそも、そんな権利は実質ない。別家庭に暮らす身につき、放棄同然。
活動的な女性、山川二葉は、多額の金額書面が発生する場合、
その名義は弟の浩や母を用いることもあるにせよ、財産の動きに夫無関係で動いた軌跡は
当然いくらでも出てくることだろう。
前妻に関する婚姻の無効及び取消しの要因が揃えば 、手続きが法的に承諾された段階以降に限り、
実質的に長年同居していた第二の妻は、やっと晴れて、以降未来に限り、夫の姓を得て、
正当な妻の座を獲得できた・・・ということになる。
水野貞が、突如、その姓を「梶原」と名乗り始めたのは、明治32年だった。
この段階で、法的に効力を発揮したと思われる主たる項は、
「夫婦の同居義務」。
ここに勝訴の軌跡があるか否かは不明。(今後、役所資料や、法律事務所などの証拠発見が
期待されるが・・・。)
この段階で、夫の前妻:山川二葉(※)は健在。ことによれば、敗れて以降の梶原姓を
失っているのかもしれない。ところが、法に保護されている。適用は過去に遡らない。
子の姓にも一切影響しない。その為、この家系は、ちゃんと梶原姓を継続してゆく。
しかも、世には山川二葉の名乗りが定着しているから、表向き不都合はあまり生じない。
ひっかかるのは、心とプライド、あとは、水野貞が産んだ二人の子に係る姓の所在。
この段階、既に文雄は故人。22歳で他界。生存のはずのシツエは情報得られないが、嫁いでいれば、
姓を梶原にするか、水野にするかについては論外。おそらく梶原姓から、そのまま夫の姓に移行。
となると、この段階残る問題は、故人の文雄の姓。故人の姓は梶原。
※二葉は、書面上正妻。書類上はそれまで梶原二葉。夫婦別姓名乗りも、慣習的に他にも例多い。
通称は恐らく山川で定着していたことだろう。梶原平馬の名は戊辰でいえば、明治の世、
いうなればA級戦犯並。会津藩の家老。しかも最後まで徹底抗戦派。
その子世代は別ながら、戊辰現役世代は、明治の世、マイナス要因は否定できない。
対して山川家は皆揃って、明治の世貢献の家。
その為、誰もが錯覚する事象として、二葉は平馬に離縁を叩きつけたのだろう・・・という旨。
子の姓は梶原ながら、山川二葉は、明治の資料、何見ても、山川二葉しかない。
梶原二葉先生・・・とは見たことがない。
実は離婚に係る期日は一切、この家に存在していない。なぜか不明なのだ。
二葉は、ひとたび嫁いだ以上、侍の妻の義務は完璧に全うしている。
子は、初めから梶原姓。子孫の代まで代々継承してゆく。
二葉も涙ぐましい。去った夫ながら、梶原家の家名はきっちり守り抜いたのだ。
侍の妻だからだ。嫁いだ家の名は子孫に死守する。
上記のとおり、水野貞が、突如、その姓を「梶原」と名乗り始めたのは、明治32年。
法に則って、明治31年、もしくは貞が名乗り出した32年に、二葉は、きっちり梶原の妻の座を奪われて
いたかもしれないが、まず第一に、山川家には「離婚届」に値するものは全く存在していない。
仮にこうして座を奪われていたとしても、肝心要の張本人「梶原平馬」は明治22年に他界。
とっくの昔に天の人。しかも、法は、婚姻の取り消を、過去に遡らないのだ。
長年夫の顔さえ見れず、たとえ遠くで、死亡したとて、ずっと妻の座は揺ぎ無い。
法改正の明治31年から翌年32年にかけて、静かに書面上で法的抗争があったかどうかは上記の
とおり、現状では不明。
しかし、
明治44年までには確実に立証措置が完了されていたと判断される
。
その訳は、下記事象。
記:<若くして死亡した貞の子、文雄の戸籍事象から考察>
明治44年、故人文雄(明治18~41)の改姓がなされている。
【この段階、文雄は故人につき、彼の改姓に係る軌跡を、以下に、
生存時代から遡りながら書きます。】
文雄は当初、水野姓。ところが、明治23年、梶原姓に。改姓に係る理由が迫力。
詳しくは
No.7
。正妻パワーを感じる。うちの子です。梶原の子です。水野の子では
ありません!妻の怒りが滲み出ているのが、短い文節ながら、かなり鮮明に解る。
(尚、この時代の本妻と妾の法的措置実行に係る権限の相違うんぬんまでは、
深入りして調べてません。ご興味のある方ご研究どうぞ!)
明治23年とは、夫の梶原平馬が死亡(=22年)した翌年です!
二葉にとって、明治22年ほど辛い年は、おそらくなかったことだろう。ことによると
会津戦争慶応4年(1868年=この年は途中で明治元年)以上かもしれない。
3/23:夫の平馬は異郷の彼方、根室で死亡。妻が夫の死に目に会えなかったわけだ。
引き続き、4/22:母の山川唐衣(本名はえんor艶と書かれる)が死亡。
明治44年、なぜか戸籍に係る不思議現象。
故人文雄は、梶原姓を脱して、水野姓に戻される。(詳しくは
No.7
。)
これは、まさに、
確実に立証措置が完了されていたのだと判断される
事象だ。
明治44年、明らかに貞は、梶原の妻としての法的措置実行権限を得ていることになる。
実は、この前々の年、明治42年、前妻、山川二葉は、65歳で他界した。
・・・
これにて、少なくとも、二葉は二度心傷つくことはなかった。
文雄が水野に戻ったのは、二葉の死後だった。
故人文雄の水野改姓は、おそらく残された親族と協議納得の上の平和措置だろうと想定される。
どちらも妻である以上、無論、心の葛藤は言うまでもない。
しかしながら、子の就学は東京で、前妻の山川家に世話になっている。
時代柄なのか、二人の妻同士の関係は、たとえ心は耐えて堪えて抑えつつとて、
今日の感覚で想定されるものとは相当異なるようだ。
また、実は根室に、重要キーマンと思われる夫婦の所在も調べた結果、結びついた。
・
山川二葉の実妹、三和(ミワ)が、夫、桜井弥一右衛門政衛と子と共に、比較的近距離に居る。
キーマン:二葉の妹夫婦
山川二葉の妹三和(ミワ)とその夫、桜井弥一右衛門政衛
上記のとおり、この夫婦と子は、根室(下の【注ご参照】)に居る。
しかも、子のうち、 三男の桜井胖は明らかに明治22年花咲小学校尋常科を卒業している軌跡が残った。
ちなみに、桜井夫婦は確かに当時の根室圏内在住なのだが、かなり辺鄙なところに居る。
これは何を物語るか、
胖は花咲に居る梶原平馬と水野貞夫婦が預かっていた可能性大だ。
【注】:桜井夫婦の入植は根室にはかわりないのですが、現代の感覚で漠然と感じる根室とは
少々異なります。根室半島の中だろう?とふと思われる方が多いと思いますが、釧路、厚岸方面から
根室半島に向う途中。半島に至る前の位置。この頃、北海道の行政区画切訳は、細々変遷します。
開拓使廃止後、廃使置県、三県時代」&「その後の変遷」・・・。
詳しくは現在頁下側水色枠のガルトネルバナーからご覧いただけます。
桜井弥一右衛門政衛本人が自ら学校を開始するまで、この入植先とは、とんでもない山の中。
教育どころでなかった。それを思えば、子の未来の為に、花咲の学校に入れたのだろう。
こうなると、ますます、前妻の家、山川家と根室に住む水野貞+梶原平馬家とは、
まるごと険悪状態に至っていない証拠だ。
二葉の妹夫婦が、平馬の第二の妻側家庭とも交渉がある。
桜井夫婦に係る話はここ
にあります。少なくとも良き理解者であり、両家の吸収バンパーの
役目はきっと為してくれたことでしょう。
水野貞は、やっと獲得した妻の座と梶原の姓。
されど、それは、愛する夫「梶原平馬」死亡の約10年後だった。
尚、これは、おそらく単なる偶然なのだろうが、故人梶原平馬の血を分けた兄弟、実の兄、
内藤信節介右衛門は、明治32年、故弟の平馬の後妻、貞が初に梶原姓を名乗り出した同年
死亡してる点が印象的だ。あたかも、一安心して死んでいったような錯覚に陥ってしまう。
一安心したのか、実はその正反対に、戸籍騒動で疲れて摩滅したのか知らないが・・・。
会津戦争の最中、山川家は、勿論親族には犠牲多々ながら、二葉の母も兄弟も皆生き残った。
唯一の
犠牲は浩(大蔵)の妻トセ
。
対して、内藤家は、この二人を除き全滅悲壮状態。【注】平馬は養子につき、血族は内藤。
内藤信節介右衛門は子孫に一切、平馬のことを語ることなく死んでいった人物。
根室に於ける平馬軌跡が偶然発見されたのは、昭和63年。ご子孫が、内藤信節介右衛門のメモを
今頃、現代の世、初にこの時発見したからだった。
賊軍の烙印を背負った者の宿命は相当重い。
内藤信節介右衛門も黙して冥土に飛び去っているが、
白虎隊の
酒井峰治
の手記も、発見されたのは平成2年。こちらもご子孫が偶然、
仏壇の奥の奥から発見。それまで、白虎隊であったことは、代々一切言い伝えられていなかった。
やはり、本人は黙って冥土へ。
賊軍側歴史は否定されてきた
だけでなく、本人が飲み込んで冥土に持ち去っている例が多い。
悲しみを継承せぬために・・・。やはり、相当重い。(
賊軍側家系の明治はこの頁から
)
■
先祖の北方警備の経歴と北海道移住への絡み
尚、余談ですが、当時の人々にとって、最果ての最果て、同じ北海道でも、函館や札幌近郊と
異なり、本来なれば移住はなかなか勇気が必要。
ところが、
会津藩の場合、幕府時代、根室、野付、この辺はかつて、藩の者が在住した軌跡が
あります。
函館から根室に移住した梶原平馬と、其の段階では水野姓を名乗っていた貞夫婦。
現在はっきりしてるのは、貞の明治14年もしくは15年の学校勤務軌跡ですが、本来の目的は、
本当にこれだったか。
案外、平馬本人、なんらかの目的、もしくは夢を架けた移住だったかもしれない。
内藤も梶原も1808年(文化5年)の北方警備で樺太出兵チームの家系 。
当時会津藩家老の
田中玄宰
、幕府に会津藩の樺太出兵を建白の上、率先実行。
内藤家の先祖
(1808年時の蝦夷出兵組)
平馬本人(梶原平馬
景武
(悌彦))の実家側=内藤家の先祖も出兵している。
1808年(文化5年)、内藤信周(内藤源助)隊長指揮。内藤の組は、宗谷(稚内市)に本陣。
(源助は皆に歴代ついている。内藤信周は 平馬本人(梶原平馬
景武
(悌彦))の父でなく祖父側。
梶原家の先祖その1
(1808年時の蝦夷出兵組)
梶原景保は利尻島本泊に出兵。この時の出陣隊に於ける彼の役名は番頭。
他に、北原家では、北原采女(北原光裕)指揮。北原の組は樺太上陸。
梶原家の先祖蝦夷出兵その2
(1822年時の蝦夷出兵組)
平馬本人(梶原平馬
景武
(悌彦))の養父「梶原健之助景範」は、かつて
蝦夷地警備の為利尻へ出兵。(文化5年(1822)正月10日から同年7月まで帰国まで)
正味は3ヶ月程度だが、帰藩は7月。
こちらのシリーズ下側「雑賀」に係るコーナーで、かつての根室会津藩の話レイアウト少々見えます。
梶原平馬SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
・・・<
考察おまとめ表
<
考察おまとめ表2
(現在頁)<
考察おまとめ表3
梶原家、内藤家(=梶原平馬の実家)、山川家に係る各小MEMO
小MEMOその1_■『景』を継いだ倅と、『雄』を継いだ倅、二つの家系
<
考察おまとめ表3
の「内藤三兄弟」枠もご参照>
江戸時代の平馬と、明治に再起の新しい平馬の心。
梶原平馬は、梶原の養子。実家は内藤。
戊辰時の梶原平馬といえば、いうまでもなく、今回の主人公の梶原平馬景武(悌彦)を指すが、
「梶原平馬」の名前は歴代。梶原平馬
景武
(悌彦)の他、かつての祖先にも
「梶原平馬景保」
有り。
その為、一般的に、明治以降、平馬は「
景雄
」と改名されたと言われるが、これは解りやすいから、
そういわれるだけであって、厳密には、平馬に関係なく、
「景武」が「景雄」と改名されたが正解
。
梶原平馬
景武
(悌彦)に係る「平馬」の名が彼本人に称されるまでの行程
■1862年(文久2年12月):京都へ京都守護職就任の容保に追従の上京都へ。
■1865年5月:江戸常詰若年寄就任、
■1866年:家老拝命。この時初に、梶原家の10代目として正式に「平馬」を襲名。
以降、平馬が通称化。
この時、平馬
景武
本人にとっての実家側「内藤」の兄は病床お役御免中だが、
幸い、遅れて兄も家老の座に。
そこで、梶原平馬
景武
(悌彦)が築いた二つの家庭に於けるそれぞれの倅に係る名の違い。
「景」と「雄」
■山川二葉との間生まれた子「梶原景清」は「景」の字を継ぎ、この家柄は無事続く。
■その一方、後妻側「水野貞」の子「文雄」は「景雄」の「雄」の字を継いだが、若くして死亡。
明治に生まれ変わって、名を改めた梶原平馬
景武
ならずや、梶原景雄の新しい倅は、その志に
願いを込めて、梶原代々継承の「景」の字は引き継がずに、新規「雄」の字を継いだのだが、
上記のとおり、惜しくも、この倅「文雄」は若くして天昇してしまった。
「文雄」は、父親の梶原平馬
景武
が死亡した翌年、籍が入れ替えられ、
「水野」から「梶原」になるが、「文雄」本人死亡の後、死者ながら、籍の再入れ替えが
なされて、「水野」に戻る。【詳しくは、現在頁最上段の表ご参照】
小MEMOその2_なぜかスカッ!と全部解らないのは「梶原家」情報
梶原家の菩提寺は「実成寺」
・墓から考察すると、4代目:梶原伝蔵景儔、5代目:梶原平馬景保
梶原平馬
景武
が10代目だから、養父の梶原健之助景範は9代目になるのだが、
途中経過詳細判然としない。
梶原平馬
景武
(=戊辰の主人公)は梶原10代目として、1866に平馬を名乗る。(家老拝命時)
5代目:梶原平馬景保
梶原平馬景保
は、明和2年(1765)1月4日生、岩之助。左門・典膳。
天保10年(1839)6月6日死亡。享年75歳。
その後の死亡者からすると、天保12年(1841年)没の梶原景義(詳細不明)。
9代目:梶原平馬
景武
(=戊辰の主人公)の養父は「
梶原健之助景範
」
梶原健之助景範
文化5年(1822)蝦夷地警備の為利尻出兵。安政6年 (1859年)死去。
【他にも梶原姓参考】
建福寺の墓(悌蔵、豊記親子)
梶原悌蔵(100石,幌役,進撃小室隊,)
明治元年(1868)8月29日、若松長命寺戦にて戦死。享年55歳。
梶原豊記(悌蔵伜)(物頭席。進撃小室隊世話役)
明治元年(1868)8月29日、若松長命寺戦にて重症。9月5日城内で死亡。享年25歳。
赤谷の墓(合同碑)
梶原悌三郎(半兵衛三男
8月12日越後赤谷で負傷。9月7日死亡。遊撃隊差図役。享年24歳。
生きて謹慎
梶原半蔵(100石) :高田神宮寺謹慎,朱雀隊士分,半右衛門組
梶原政之助(280石, 御家老付外様士)
:高田浄興寺内善福寺謹慎,朱雀寄合五番隊士分, 御家老付三番組
■梶原平馬
景武
(悌彦)の幼名は悌彦
(内藤にはよく彦がつく。梶原にはよく、悌がつく。内藤の直系長男だけは信がつく。)
小MEMOその3_内藤家と絡む寺について
■内藤家の菩提寺:
泰雲寺(曹洞宗
)、
総自刃情報からさらに詳しくはこちら
この寺で、総自刃した一族の亡骸を弔ってくれた僧は「得道」
彼はこの功績で、後に、平馬の兄が深く感謝して内藤姓を授ける。故に「内藤得道」。
但し、この戊辰時、彼はこの寺の住職ではなく、住職は彼にとっての兄弟子「=得英」。
「得道」は、なんと僧籍のままに、密偵をこなしてくれた男。
この人物の出身は定かでないが、越後といわれる。
泰雲寺
は、場所的に面川。元和7年(1621)に建立された寺。 雲嶺本龍和尚が開祖のはず。
泰雲寺が内藤家の菩提寺となった経緯について。
寛永20年(1643)保科正之の会津入封。当時、その家老だった内藤介右衛門自卓
が初に、菩提寺と定め、以来歴代ここに眠る。尚、上記のとおり、住職は雲嶺本龍和尚のはずだが、
内藤介右衛門自卓が建立したとの説もある。いずれにせよ、かなり密接な関係は確か。
尚、内藤自卓は隠れキリシタン。墓に十字マーク有り。この頃、転び切支丹は、改宗させ
られた後、一般的には曹洞宗に。(民の場合、三代目まで識別のマークとして、墓に漢数字の
一が入れられた地域もある。一代目は関係あってもなくても妻にも同じマーク。)
■内藤家となぜか密接に関わるもうひとつの寺:
真竜寺(浄土真宗本願寺派)
別件、別人ながら大活躍の僧は、「真竜寺の河井善順」
この人物は、兄の「貫道」が還俗して寺を出たため、当寺を継いでいるが、大活躍。
会津が滅びる時、藩主の存命嘆願の動きの
主幹となり、
秋月悌次郎、小出光照、
山川健次郎、小川亮(伝八郎)
らを導く。
その上、平馬の謹慎場所が東京に移されると、
僧では動き難い点が邪魔になると、思い切って
還俗してバックアップ。長州の要人にタイアップ。
実は修行時代の1864年、京都に於いて、
禁門の変で窮地の長州人の命を
救った経緯がある。
この話については、左の図をクリック。
表示先頁の前後数ページすべて絡みます。
姓は河井だが、並々ならぬ応援。
「善順」の兄は、「貫道」。戊辰の時、1868年の8月、いよいよ会津の運命の時、突然僧籍を捨て、
「内藤貫道」と名乗り、戦う。僧籍を捨てた以上、皆と同様謹慎。斗南送りを経て明治を生きる。
その際、断家を再興のフレーズも残されており、もともと内藤に絡む要素あったかもしれない。
この兄弟は会津の人。
梶原平馬目次
<梶原平馬SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
・・・
<
考察おまとめ表
<
考察おまとめ表2
(現在頁)<
考察おまとめ表3
文章解説(c)by rankten_@piyo、
写真等、素材当該有りの場合は頁下表示
(これ、廃藩置県でなくて、廃使置県(開拓使を廃するから))
上記本文内の
「開拓使廃止後、廃使置県、三県時代」&「その後の変遷」
について
こちらのバナーからご覧下さい。表示先頁ナビで当該頁が解ります。
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