会津藩_梶原平馬と山川家親族迷路,資料編3

梶原平馬と山川浩兄弟姉妹家について,親族迷路,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES補足頁_No.3,

梶原平馬根室の妻とその倅
会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_補足頁_No.3
梶原平馬SERIES: No.1 No.2 No.3
・・・< 考察おまとめ表 考察おまとめ表2 考察おまとめ表3 (現在頁)
■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)
親戚兄弟の親族とのさらなる血縁、養子関係、親族血縁絡み糸

山川兵衛重英:人物について 【会津藩,山川浩の祖父】
▼「 祖父の重英」による建白「種痘」 が絡みます。 (下側の「山川兄弟表」内に追記有り)
松平容保の亡き正妻「敏姫」とは

山川家のルーツ&家系について
この家系の医学、衛生&栄養、生物への関心と能力

会津山川浩家系の生物学と祖父&養子
・・▲ 山川浩の本各種コーナー有

■「山川戈登(山川浩の養子:天才)」の素因が歴代血族の素因に由来。
・・(真上バナーからご覧いただけます。戈登については、SERIES後半側に集中)

山川浩の妻について
・●前妻: 旧姓北原登勢(=山川登勢) :会津戦争時、篭城中、砲弾に被爆死。享年19歳。
・・ この時、砲弾を撃ち込んでいた張本人が、後に末妹、咲子(大山捨松)の夫となる大山巌(薩摩藩)
・●後妻:旧姓池谷仲(=山川 仲:ナカとも表記される。)

山川浩の養子について
・● 山川戈登 (ゴルドンと読む):妹の常盤が産んだ子。養子として貰い受ける。
・・生物学の能力を十代にして開花させた大天才だったが、若くして死亡。
・・( 山川戈登その1 その3おまとめ表
・・この頁内にその実父= 山川徳治の「徳力徳治」 =常盤の婿)についても略表有り。
・● :(この人物謎)
・・桜井懋による「山川浩」によると、「子、洸、不肖なり。」
  • ちなみに、桜井懋とは、山川浩の姉の「三和」と夫「桜井弥一右衛門政衛」の四男。
    桜井弥一右衛門政衛は、根室の未開地在住の中死亡。後、生活が苦しい未亡人の「三和」
    は子を山川兄弟に分散して養育依頼しており、その内の一人、三男の胖(=懋の兄)は、
    ▼真下項目の桜井胖。
  • (関連:桜井弥一右衛門政衛についてはこちらもご参照。
    ・・ 考察おまとめ表 考察おまとめ表2
    桜井弥一右衛門政衛桜井弥一右衛門政衛の子については、
    ▼現在項目下側の三和欄、操欄にも表記有り
  • 桜井胖:上記桜井懋の兄。病死。(懋は四男、胖は三男)
    【注】:桜井胖は養子ではないが、自宅で暫し育てたが、死亡した。姉「三和」の子。
    ・・ 桜井胖は根室時代の梶原平馬を知っていたはず。小学校は平馬の子「文雄」と同じ花咲小学校。


山川浩の兄弟姉妹について

山川浩の兄弟姉妹について
■父:山川重英尚江:勘定奉行:1200石:万延元年(1860)死亡,■母:山川唐衣(=艶、勝聖院):【1817-1889】,
■父方祖父:山川兵衛重英:天明3or4年(1783)~明治2年(1869):享年86歳(倅の尚江既死亡につき会津戦争時活躍)
祖父
山川兵衛重英
上記のとおり、父の尚江既死亡につき、祖父ながらこの人物が山川兄弟への影響多大。
特に浩は祖父に育てられ期間長い。尚、この重英は、会津降伏の翌年明治2年まで
存命。斗南ベビー藩主に任命された容大(明治2年6月3日生)の補導役を任命されるが、
斗南行きを前に重英は、死亡。重英は、1868年会津戦争時、既に86歳の為当然隠居して
いたが、藩命で復職。隠居組といえど要。建白したり、積極的に動いている。
補導役を任命された訳も、藩主家存続に係る先見の目が今頃評価されたともいえる。
かつて彼は、藩主のお家に種を絶やすことなく円滑に運ぶ為には、正室の健康な体と
早期出産を第一と考え、容保の亡き妻に種痘建白していた。種痘の安全性を立証する為に、
自分の孫「操」に種痘を。しかしこの建白は、一蹴されて、案の定、敏姫は疱瘡に罹り
後遺症、そして1861年死亡。側室にも子ができる様子もない。その為、滑り込みセーフで
容大が生まれなければ存続させるに相応しい子は居なかった。よって、重英は、老齢
ながら、戊辰のキーマンの一人。 この話と人物については、まずは こちらの頁 から。
山川兄弟
1
二葉
1844~ 1909
明治6(1873)年上京。明治10(1877)年から教師として教鞭を執る。
現在のシリーズ初めから最後まで全部関連。とりあえず 考察おまとめ表1
(1844/9/30(弘化元年)8/19)~ 1909(明治42)11/14)
2
本人
山川浩
1845~ 1898
上のバナーからどうぞ。略。
(1845/12/4日(弘化2/11/6) - 1898/(明治31)2/4)
3
ミワ:三和
夫の方針が異なる。函館の軌跡の後、同じ北海道といえ、極み付けの道東。
未開の地、草深い山中)に暮らす。しかし、夫も教育者としてのその姿をやがて
表現化。実は北海道根室に居る。梶原平馬の新夫婦と根室でこのとおり交渉有り

■ミワの夫:桜井弥一右衛門政衛は表向きは長男に家督を譲り、この名は暫し
長男の厄介その一人に扮して表に出ないが、暫し後、教育者として本人の名も出現
する。(私的には今後、平馬情報発掘のキーマンになるだろうと期待。)
それでも、ミワ自身も、夫が開始した学校で女子に対して、裁縫など指導する教師。
4


1868年17歳
1851年生位
小出光照に嫁ぐ。夫の小出光照とは、梶原平馬(姉の二葉の夫)と共に、戊辰時、
江戸残留組 。その上、会津が降伏した後、謹慎中密かに脱走して藩主助命嘆願に
動いた男。この時、その第二グループに活躍したのは、山川健次郎。
この話 この頁 から、または下の図リンク先からご参照下さい。)
その後、光照は佐賀の乱にて戦死。操は夫死亡後も活躍。ロシア留学。露語、
仏語習得。昭憲皇太后(明治天皇の皇后)通訳勤務。
■操は幾つかの談話を残しています。例えば、実は二葉の子「景清」は篭城して
なかったなど、謎紐解く題材ヒントを与えてくれてます。
(下側の六角形図の真下バナーから色々読み取れます。)
■操は同じ未亡人でも、姉のミワより生活力があったため、姉の子を養育。
・姉ミワ&その夫桜井の二女「八重」を養女とする。
・姉ミワ&その夫桜井の三女「松枝」は、操宅から小学校へ通う。(←正式養女か否か?
■1853年、祖父の重英による「種痘の安全性」立証題材の一人として種痘投与されている。
5
健次郎
1854~ 1931
いち早く留学した経緯
●戊辰時は少年ながら、斬首覚悟の謹慎場脱走の上、藩主助命嘆願。詳しくは
上の図 リンク先。僧の善順に導かれ、奥平謙輔(長州藩士)に預けられる。
そのまま、奥平の指示で佐渡、及び新発田に滞在。(恰も雲隠れ状態)
●明治2年5月、長州藩の屋敷に移動して、扱いは奥平の書生となる。
●明治4(1871)年:アメリカへの国費留学生として、開拓使の黒田清隆に
追従して渡米。▼
これは、第一に奥平謙輔の助力。第二は北海道開拓使の黒田清隆。
会津はかつて北方蝦夷警備経験有りの藩にて、兄の浩も露西亜渡航暦も
知られ、適任である旨も認められたようだ。そして第三、 上記図面 に名が
見える善順も重要キーマン。善順は、かつて、長州藩が窮地の時、追い詰め
られた藩士達の命を救った「長州にとって命の恩人」。奥平謙輔に対する戊辰時
上記一連の健次郎脱走劇は、そもそも善順によって、導かれている。長州は、
これを疎かにするわけにはいかない。尚、善順も翌年明治5年、北海道へ移住。

生没:嘉永7年閏7月17日(1854/9/9) - 1931(昭和6)6/26)
6
常盤
山川徳治(旧姓徳力徳治)を養子婿として結婚。
山川徳治は暦年司法省に活躍。各地で検事正を経て検事長。晩年は 教育会長及
学務委員
。戈登(ゴルドンと読む。浩の養子になるが若くして死亡)の実父。
7
咲子
1860~1919
咲子(山川捨松=大山捨松)
■会津降伏後、幼少であることから、斗南へ行かず、箱館のフランス人の家に
預けられる。その段取りに 沢辺琢磨(土佐藩士。坂本龍馬の親戚) が関わったといわれる。
■明治6(1873)年、岩倉使節女子留学にてアメリカ在住10年。
■帰国後、大山巌(元薩摩藩士)の妻となる。
(関連: 山川捨松が語った悲壮:究極兄嫁の「斬首の依頼」

生没:安政7/2/24(1860/3/16)- 大正8(1919)2/18

健次郎と小出光照:行動とその後の人生に影響

善順の活躍詳細頁へgo!
二葉と操に係る件

梶原平馬と二葉篭城秘話:人形が紐解く



山川浩の母「唐衣」から見る「西郷家」系絡み糸
関連: 戊辰会津総自刃等に係る頁 :西郷頼母近悳一家21人事件と、西郷刑部一家&芥川家9人事件

「山川唐衣(勝聖院)」西郷一族の血
・◇山川唐衣は、西郷十郎右衛門近登之の長女。飯沼貞吉の母(文子)は唐衣の妹。
・◇西郷寧太郎の父「重治」も唐衣の兄弟(近登之の長男・のはずだが。)



(考察その1) _関連: No.8(「梶原平馬」根室の墓石SERIES)
  • 山川兄弟と白虎隊の飯沼貞吉、及び、一族自刃死亡の西郷頼母家近悳の子達は従兄弟、及び親族。
    ・◇ 飯沼貞吉 の母(文子)は西郷十郎右衛門近登之の子
    ・◇山川兄弟の母(唐衣)は西郷十郎右衛門近登之の子・・・(文子)と(唐衣)は西郷姉妹
    ・◇一族自刃で死亡した西郷頼母の妻(千重子は)は、飯沼家の娘飯沼粂之進(450石)の二女
    ・飯沼貞吉の父(飯沼時衛)は飯沼一正・・・(千重子)と(時衛)は飯沼家の子
(考察その2)
「西郷寧太郎の一家の諏訪神社前一家総自刃惨事」▼
  • <犠牲者>
    ◇西郷なほ子(祖母:60歳)、◇西郷みね子(母:44歳)、◇西郷うら子(姉:21歳)、◇西郷やほ子(妻:16歳)

    <この時偶然難を逃れた老婆の存在:名前と続柄不明>
    自刃の為に、神社へ向う時、老婆は下男に背負われていた(老齢につき足不自由)が、死に送る事に
    躊躇したらしき下男は、老婆を道端に捨てて逃走。その老婆は、這って山川唐衣の元へやってきた。
    その為、これは小ミステリー。一般に、上記の西郷なほ子は寧太郎の祖母と言われるが、
    こうなると、この謎の老婆の続柄如何で、変動が生じる。唐衣の母なのか、叔母なのか?
    唐衣は一般的には長女と言われるが、こうなると、なほ子が実は長女か?の確率も一応考慮の対象。

    (関連: No.2(山川二葉紐解く思い出人形SERIES)

(考察その3)
「西郷刑部(勇左衛門近潔の長男)一家の自刃と、後日本人の死亡」
  • 西郷刑部(700石)家族5人+北原老女+芥川家3人=総合9人。 8月23日自邸総自刃:墓_泉福寺
    • 母は西郷刑部の家族(母,妻,娘,倅,妹)
    • 同時に:北原采女(2800石)の母,芥川家女性3人も血族にて当時自刃
  • 尚、西郷勇左衛門(1812~1896):85歳まで生きた人物)の名は各種。
    ・源之助,文吾,元治元年(1864)初に勇左衛門と称される。
  • 西郷刑部本人(勇左衛門伜:朱雀寄合二番隊:700石:朱雀寄合二番中隊頭)は遅れて戦死。
    9月15日一ノ堰で負傷の上、同17日花坂村で死亡。30歳。 (関連: 戊辰会津:総自刃等について

▲以上は会津内西郷絡み一例(支族含む)

会津以外の遠方「西郷」昔のルーツ遠縁絡み

戦国時代のそのまた昔まで遡ると、九州の鹿児島西郷も、会津西郷も、延々遠い血族。
実力はあれど、鹿児島で家格が低い西郷と、会津ではプレミアムクラスの会津西郷。
西郷頼母が、西郷隆盛に大分保護されたのは、どうみてもほとんど明確。明治の頼母の動きには、
いちいち、隆盛の煙。

ところで、山川浩の母、唐衣は、西郷一族の娘。

会津山川浩と薩摩西郷&大山の絡み糸資料表

大山捨松嫁入り騒動:西郷従道の大風呂敷

戊辰と「陽明学の浸透のルーツ」

梶原平馬の実家「内藤」家側から見る絡み糸


梶原平馬景武(悌彦)の実家は「内藤」。梶原に養子IN。
現在頁下側枠の「内藤三兄弟」もご覧下さい。
■はっきりしている内藤の親族一族 :(内藤、上田、武川、手代木)

■山川と梶原とその婚姻絡み
■「内藤迷路」 :並ならぬ大協力態勢を示してくれた僧&お寺があります。
そのうち二人の僧は内藤と名乗ります。なんと、僧籍を捨てて会津の為に戦う僧も居れば、
僧籍のまま密偵をこなしてくれた人、苗字は内藤ではないですが、強烈に頑張ってくれた僧も。
最低でも3人居ます。もう一人、はっきり見えませんが、やはり居ます。会津の為なら戦う!
現在立証されていませんが、なんらかの「内藤迷路」
・・・<この話、頭こんがらがりますから、まずは、こちらの頁>

内藤が絡むながら判然としない「内藤迷路ミステリー」
梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.21 ,(表示先頁前後頁も)


梶原平馬は、梶原の養子。実家は内藤。
一番上の兄は、内藤を継承している為、内藤介右衛門近之助信節という。その下が梶原家に
養子に出た梶原平馬 景武 (悌彦)。弟は、武川信臣、23歳。つまり、この三兄弟は内藤兄弟。
会津落城に至る慶応4(1868)年の段階で、年齢は、順に、内藤介右衛門近之助信節:29歳、
梶原平馬:26歳、武川信臣、23歳=享年。 (兄と平馬は生きるが、1868年信臣は官軍に捕縛され斬首され、死亡。)
内藤源助信周:尚、源助は皆に歴代ついている。後半の二人だけ、介右衛門。
  • 内藤家について
    ■内藤家の親戚は:内藤一族は内藤家・武川家・上田家・手代木家
    ■内藤家は、「内藤修理」の子孫▼
    内藤源助修理が会津藩に召し抱えられた。子孫は皆「源助」を名乗り、会津藩の家老にも就任。
    但し幕末後半の二人((梶原平馬 景武 (悌彦))の父と兄は、介右衛門がつく。
    内藤家の菩提寺は泰雲寺 総自刃情報からさらに詳しくはこちら
  • 梶原平馬 景武 (悌彦)の幼名は悌彦
    (内藤にはよく彦がつく。梶原にはよく、悌がつく。内藤の直系長男だけは信がつく。)



戊辰時の梶原平馬といえば、いうまでもなく、今回の主人公の梶原平馬景武(悌彦)を指すが、
「梶原平馬」の名前は歴代。梶原平馬 景武 (悌彦)の他、かつての祖先にも 「梶原平馬景保」 有り。
その為、一般的に、明治以降、平馬は「 景雄 」と改名されたと言われるが、これは解りやすいから、
そういわれるだけであって、厳密には、平馬に関係なく、 「景武」が「景雄」と改名されたが正解
  • 梶原平馬 景武 (悌彦)に係る「平馬」の名が彼本人に称されるまでの行程

    ■1862年(文久2年12月):京都へ京都守護職就任の容保に追従の上京都へ。
    ■1865年5月:江戸常詰若年寄就任、
    ■1866年:家老拝命。この時初に、梶原家の10代目として正式に「平馬」を襲名。
    以降、平馬が通称化。 この時、平馬 景武 本人にとっての実家側「内藤」の兄は病床お役御免中だが、
    幸い、遅れて兄も家老の座に。




以下準備中



小出光照について

詳しくは:準備中

このバナーは「操」の談話がベース。その為、小出についても、戊辰時から明治の死亡まで、
多少、彼の役割と行動概略は見えます。

梶原平馬と二葉篭城秘話:人形が紐解く

(関連は No.23 前後からご覧下さい。現在枠内下側に「内藤三兄弟」表有り)
武川信臣について


武川信臣 は、梶原平馬景武(悌彦)の実弟。父の内藤介右衛門信順(可隠)の三男。
梶原平馬景武(悌彦)は、梶原家の養子である為、旧姓は内藤。
武川信臣処刑日は、明治元年10月9日。会津降伏は9月22日。降伏の後にこの様、平馬の怒りは、
明治に尾を引く。なぜか、彼の処刑の後、僅か3日後の10月12日には、大赦が下され、他の捕縛人は、
場を許され、皆と同じく謹慎に逃された者も居る。

降伏後の斬首及び曝し首の原因は、勿論判然と官軍側で表記してはいないが、皆の情報から、
まずは、薩長非難と、「桑名藩士の川村兼四郎」と偽名を使い、とことん、梶原平馬景武の弟で
ある旨認めなかった点が指摘されている。正体を見破られているにもかかわらず、
連日拷問に耐えて、最期まで認めない。尚最終は屈辱の曝し首。悲劇の犠牲者。
性格:温厚。和歌に秀でる。享年24歳。

<拷問の日々、その最中詠んだとされる詩>
君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは

<辞世の句とされる詩>

暫し世に亦き心を見すれども 散るにはもろき風のもみじ葉

  • 上記詩は、同獄にあり、生き残った者の内、書家の香溪山内昇らにより伝えられる。
    当初は獄内ながら、不屈の精神で、寄せ書きをしたり、詩を詠んだりの時期もあった様子。
    獄中には別件捕縛の上記山内の他、覚王院義観や、成川尚義、広沢安宅らの名が確認できる。
    この獄とは、和田倉門の糺問局。皮肉なことに、本来これは会津藩の上屋敷施設。
    • 尚、平馬は、第二の妻、貞の倅「文雄」が4歳の時、本人が死亡してしまう為、倅の将来を
      知らずに冥土だが、心優しい文才家という点で、上記弟の信臣に、「文雄」は非常に似ている。
      「文雄」も若くして22歳の天昇。


【信臣の霊魂弔いについて】

<墓について>
■墓:福島県会津若松市門田町面川泰雲寺。
これは、恐らく後日、長男の信節が建てた墓石のみの墓と言われる。
当初、中島屋忠次郎が小塚原回向院(千住海向院)に葬り石碑を建てたと聞き知り、
兄の信節が赴くが、この段階で既に発見できず。もちろん現在でも回向院には現存しない。

<信臣の霊魂弔いに貢献してくれた忠義の男_中島屋忠治郎>

その名は、「中島屋忠治郎」と言う。中島は侍ではない。会津藩御用達商人。鉄砲&武器商人。
会津藩にお抱えされて潤った時期も勿論あるだろうが、この人物は実に忠義の男。
鳥羽伏見敗れて、いよいよ、幕軍不利が目に見えても、裏切らなかった。
命を惜しまず奔走。潜伏する同藩の者を匿うなどにも貢献。
その為、武川信臣らが捕縛された時、彼も連座で獄中に繋がれる。幸い、商人であることから、
後に釈放される。しかし、この後、賊人の弔いは発覚するなれば、斬首だが、上記のとおり、
小塚原回向院(千住海向院)に葬り石碑を建てたという。
弔いは、空墓なのか、なんらかの伝をもって、廃棄された遺体の一部を入手できたのかは不明ながら、
(恐らく前者側)、とにかく命がけで、どうにか弔いを成し遂げてくれた男。
内藤信節や、梶原平馬は、暫し謹慎捕われ人の身につき、身動きできない。その間、
早くも、一人で弔いをしてくれた。


内藤三兄弟(続柄は武川信臣から見た続柄)
内藤介右衛門信順(可隠)
(2200石)
父の父
=祖父
内藤源助信周
「源助」は歴代つく。幕末の二人(三兄弟の父と、長男信節)だけ、
介右衛門がつく。1808年 蝦夷警備 出兵はこの源助信周。
内藤
介右
衛門
信順


長兄
内藤介右衛門近之助信節
(信順の長男)
約1839年(約天保10年)~
1899年(明治32)享年60歳
・生年は墓の享年からの為「約」
(1868年会津戦争時:29歳)
内藤を継承。戊辰の際、上記一族自刃にて妻と子を失う。斗南で再婚。
昭和63年平馬=「梶原景雄」の墓が根室にあるMEMOを発見したのは
この人物のご子孫。 考察おまとめ表1 ご参照。
下の弟「武川信臣」の弔いにも活躍。
明治9年、倉沢平次右衛門達と共に、復禄運動行うが結果虚しい。
次兄
梶原平馬景武(悌彦)
明治以降改名は「梶原景雄」
(信順の二男:梶原家養子)
約1842年(約天保13年)~
1889年(明治22)3月24日
・生年は墓の享年からの為「約」
(1868年会津戦争時:26歳)
明治以降に改名した際、平馬を景雄に改めたでなく、景武を景雄に
改めたのが正解。平馬は幕末の有名人「景武」に限らず歴代他も
「平馬」と名乗る。
本人
武川信臣(むかわのぶおみ)
(幼名:三彦かずひこ)
(信順の三男:武川家養子)
(1845年(弘化2)
~1868年(明治元)10月9日
(1868年会津戦争時:23歳)この年死亡につき享年24歳。
■別働隊幡随院分屯「信意隊」の隊長。この隊は約80名。生き残りは
上野戦争で敗れた後、江戸の佐々木源四郎宅に潜伏するが発覚、捕縛。
捕り手は鳥取藩だが直接的な拷問の主は不明。信臣は連日拷問。
最終は明治元年10月9日、斬首の上、曝し首となる。
薩長の手口の汚さを非難していた。梶原平馬の弟である旨、断固、
口を割らなかった。(関連は No.23 前後からご覧下さい。)
処刑期日の不義問題
会津が降伏した9月22日よりもずっと後の酷刑につき、平馬の怒りは
後々尾を引く。下枠の「曝し首の屈辱」枠ご参照。
内藤、上田、武川、手代木は一族
1
一族篭城時の様子
一斉自刃犠牲者は内藤+上田の19人。
手代木と、武川は篭城に間に合った。雑踏の中、
一族全家族合流できなかった経緯有り。
<内藤一族>
:内藤介右衛門信順_63歳他一族【信順=可隠】:享年63歳
<上田一族>
:上田八郎右衛門氏彬_61歳他一族【氏彬=伊閑】:享年61歳
2_ 手代木と佐々木三兄弟
・・・実父は、佐々木源八
手代木は内藤の一族。会津戦争時、梶原平馬景武と共に活躍したのが、
手代木勝任。勝任は、佐々木からの養子。
源八の次男
手代木勝任(旧姓が佐々木)
佐々木からの養子。秋月と共に会津戦争末期降伏交渉にも活躍
源八の三男
佐々木只三郎
幕命による「清川八郎斬殺」実行者。「京都見廻組」の隊長。
坂本龍馬暗殺時、実行者。鳥羽伏見の戦闘により落命。
江戸に住む親戚の「佐々木矢太夫」の養子となり、幕府講武所の剣術師範と伝わる。「京都見廻組」
入隊は、これで辻褄が合うが、矢太夫が、旗本か直参未満の幕臣なのか、江戸近郊湾岸警備に係る
房総在住会津人に絡む家系なのか、要再確認。
源八の四男
佐々木源四郎

「武川信臣」捕縛時キーマン
彰義隊に参加して戦った後、梶原平馬景武の弟「武川信臣」が捕縛
された時、江戸の彼らの潜伏宅が、この源四郎宅と伝わる。襲撃して
きた官軍と玄関先で戦い死亡。(尚、彼は実は上野戦争5/15で死亡と
の説も有

(注)後半、少々えぐい!です。ご用心下さい。

■曝し首の恥辱

曝し首の屈辱は、現代人には少々解り難いが、惨殺よりも、何百倍も悔しい。
例えようがないほどの最大の恥辱。

これは、受刑者に罪の罰としての苦痛を与える為だけでなくて、 「恥辱刑」の要素が高い。
主義や思想、及び藩の為、お家の為となれば、武士のプライド。皆、想像を絶するような
激痛にも耐える。刑を処するとは、そもそも、見せしめにして、同一思想の者や、
家族、及び万民に、再発を防止する為。

となれば、「勇敢に激痛に耐えた」と逆に英雄談になれば、意味がない。
そこで屈辱をぬったくる。これは、所詮仏になった本人には解らないが、直近に自分が
そうなるであろう恐怖は絶大。年齢や経験にもよるが、多かれ少なかれ、どこかで
かつて、誰かの曝し首を見たことがある人物が多い。あんなふうにだけはなりたくない。
誰しも、そう感じるはずだ。まさに、今自分がそうなるとは、強烈な精神的激痛。
その精神的ダメージを与えた後に、さらに命も奪い取る。
死なせた後にも、恥をかかせる。ニ重の刑といえる。

(また、本人には単なる斬首と宣告しておきながら、曝し首にされることも多いようだ。)

首級の横には、惨めな罪状の札がくっつけられて、それが風に靡く。
武士のプライド。それを致命的に損傷させる。 そのほうが効率が高いわけだ。
少なくとも、同一思想の者は、これで暫し沈下される。

これは、つまり、生き残った家族が、同時に受刑者同然。永久に「恥辱」を引き摺る。
なぜなれば、その首級を見た人物の全てが、実は不義の殺戮の犠牲者なんだと、
知ってるわけはない。大抵は、そのまま思い込む。曝し首にされる程、卑劣な輩、極悪人。
余計な事に、札に書かれた名前は、きっちり記憶に残る。

その為、不義なるその受刑を食らった家族の怒りは並でない。

己の屈辱だけならずや、仏となった本人が、死んで尚も「恥辱」を背負ったことを思えば、
祈れど、弔えど、鎮魂できない。

よく、いつのまにやら、曝し首が盗まれてしまうのは、その為。
首を奪い取っても仏は仏。今さら命は返らないが、耐え切れず、身内の誰かが奪い取る。
せめて、冥土の仏に、万民に曝される屈辱を早期に食い止めてやりたい。
一種の足掻きにすぎないのだが、その気持ちは、家族の立場になって考えると、よく解る。

因みに、近藤勇の首級も、途中で何者かに奪い去られたといわれている。


・・この屈辱感について・・

現代で、置き換えて例える例は困難だが、しいて少し前の時代昭和初期かなんかの学校の
例で説明しますと、イメージしやすいかもしれない。言うなれば、「立たされボンズ」か?
首に変な札をぶらさげられて、廊下に立たされたとしたら、どうなるか?
往復ビンタでも食らって痛い目にあわされたほうが余程マシ。曝される苦痛は恥辱で、
生きてる限り、ずっと尾を引く。

その上、本人だけではなくて、兄弟も家族も片身が狭い。「立たされボンズの家族め!」
ずっと、恥を背負って、縮みこむ。偉そうなこと言ったら、忘れていたのに、再び、
それを言われる。

■土饅頭

土饅頭とは、実際は、幅広く、単に盛り土、墓などもみんなそれ。
しかし、話が曝し首に纏わる時に出てくる土饅頭とは、曝し台の固定用枕を指していう。
斬首された首が台の上で転げないように、固定させる役目の粘度土。形は、大抵コの字形で、
現代の携帯用空気枕(乗り物の中などで座ったまま仮眠する時に使う)に少々似てる。

斬首掛とは、戦時や、地域や場所で様々。実際は、かなり下手くそも中には多い。
因みに近藤勇の斬首掛は横倉喜惣次(岡田藩:剣術指南役)。横倉は、赤報隊の相良総三の
斬首も担当させられてしまった。恭順藩の為。

横倉喜惣次、この人物は、剣の指南役。腕は一流。近藤も相良も無念の最期、不義の怒りに
堪えて最期ながら、両者共、不幸中の幸いは、横倉の腕が一流だったことだろう。
下手くそにかかった者は、本当に不幸。呻き苦しむは許せても、往生際が悪いと死んで
尚も笑いものにされるでは、武士のプライドが我慢できない。冥土で彷徨う。

一方、幕府お抱えの一流名家、山田家は専門家の世襲。
受刑者が最期によむ詩の意も解せる知識、されどそれに押し流されぬ不動の精神なども
きっちり学び、代々受け継ぐ。よく、興味本位に、山田家の状態が言われる。
夜は、霊魂避けに、灯りをガンガン燈して、真夜中ほど、皆で大騒ぎの酒宴・・・。
多分半分嘘だろうが、確かに辛い職業。
読み知った(齧り読み程度ですが)によれば、流石専門家。
同じ斬首でも、その後、曝し首にするか否かで、斬り方の手法や角度なども専門家ならではの
手法が伝播されていたという。見苦しい皮ぶらり状態にならないようにとか、しっかと安定
するようにとか、このあたりも、きちんと徹底していたらしい。土枕不要状態なほどに
しっかり安定していたという。

(随分、酷な表現続いてますが、ご了承下さい。)

確かに、京都で天誅が横行していた頃の被害者の絵、及び、後の時代に於ける当該写真を
見る限り、その点手法の不味さが露骨。
攘夷主義者は、仮に剣の殺傷能力が優秀な者とて、その点、猛烈に劣るのが解る。
BADな表現ながら、彼ら専門家によるといわれる或人物の首級は、確かに上記と比べて、
違いがはっきりと解った。(詳細は、残酷なので、略)安定の法則とやらは嘘ではないようだ。

よく、山田家の作は芸術的とか言われるのは、冷やかし半分ではなくて、それらを比較すると、
世襲がいかに、流石奥深いかがよく解る。されど、いかに禄の為といえど、辛い仕事だ。



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