戊辰と「陽明学の浸透ルーツ」考察,幕末

戊辰と「陽明学の浸透のルーツ」考察,幕末の人々に影響を齎した「陽明学」浸透のルーツ,中江藤樹,熊沢蕃山と吉田松陰、藤田東湖,奥州への波及:淵岡山,熊坂台州,菅野和蔵,山田方谷,佐藤一斎,「陽明学」と隠れ切支丹,

戊辰と「陽明学の浸透のルーツ」

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戊辰と「陽明学の浸透のルーツ」考察
現在頁下側に 「幕末陽明学浸透のルーツ表」 有り
会津の山川浩と陽明学:讃岐の水野某とは誰

幕府にとって都合の悪い学問「陽明学」


陽明学の根底には自由と平等がある。その一方で、朱子学は、幕府にとって、
秩序維持に、便利であった。武士の美徳に忠義を真っ先に謳うは、下克上、反覆離反防止に
功を奏する。幕府は、朱子学を、官学とする。

案の定、密かに浸透していった陽明学は、幕末の志士に影響多大。革命運動の原動力となる。
戊辰は、ある意味で、朱子学信望者と、幕府時代に於ける異端児「陽明学」派との争いともいえる。
官軍に徴収された民の他、まさに自主的に参加した民に「陽明学派」が居る。

迫害された側の「陽明学」と、一目置かれた側の「陽明学」

陽明学は、官学ではないことから、迫害、排斥された悲劇の学者も多い。
自由と平等が根底にあることから、中江藤樹は、隠れ切支丹とさえ言われた。
その弟子の「熊沢蕃山」の人生は、批判と排斥、流浪、幽閉の連発。当然、露骨に幕政批判となる。
その教え子の代表的な存在として、 藤田東湖、吉田松陰 他。何れも倒幕か、現況幕政批判型に、
結局繋がってゆくのが特徴。弾圧されると、その弟子階層から、明らかに過激派が生じる。

その一方で、異学も含めて、学問全般を知識と知っていなければならぬ専門セクションの一部の
幕臣教育者「(例)佐藤一斎」他は別扱いながら、無論彼らは露骨に信望してはいない。
ところが、異色の存在が一人。山田方谷は、排斥された側でない。
彼は「陽明学」を学びつつ、その危険性を強く痛感したが故、教え子の性格を見分け、
ごく一部にしか、この学問を教えなかった。「山田方谷」については、下表専用枠内に記載。

「陽明学」と隠れ切支丹

前者と後者はイコールではない。ところが、全国至るところで、永年どの段階世代に於いても、
どうも切支丹が絡む人物は、あまりにも多すぎる。自由と平等に加えて、開墾の精神。
中江藤樹の切支丹説は、まるごと嘘ではなさそうだ。彼が宗教を信望していたようではないが、
親族にそれと言われる人物が処刑されている。又、彼の行動軌跡の中、大洲は切支丹が絡む地域。

また東北方面での信望者が多い地域、信達地方(福島藩)も、かつて近郊に切支丹が絡む。
加えて、会津もご存知のとおり、隠れ切支丹は絡み絶大。

らしき人物、臭う人物をいくら掘っても、墓は普通に仏式ながら、明治の禁教解禁の年と同時に、
キリスト者へ変身した者が実に多いのは、陽明学を学んでいたから、受け入れやすかったからと
解釈するよりも、その反対に、宗教儀式は行わないものの、心の中に先祖代々キリスト教的な
発想が潜んでいたからではないだろうか。
こう考えると、 陽明学が隠れ切支丹の隠れ蓑 であった家系も確実に存在する。
因みに、解禁前だというのに、当時の北海道が孤島につき、キリスト教の盲点だと聞き知り、
何十人もの旧仙台藩の男がどっと沸いて出て集団御用事件の際、発狂寸前爆裂したのは、
薩摩の黒田清隆。しかし、この頃、世界は冷ややかに日本を監視している。江戸時代ならずや、
明治の切支丹大弾圧は大問題。(※)。下手な動きをとれば、攻め滅ぼされる余計な引き金を作ってしまう。

  • (※)
    ◆明治の切支丹弾圧と、それを非難する世界の強烈攻撃。それが原因で土俵に登れずタジタジ岩倉具視。
    ◆前半部は哀れな「明治初期切支丹」に於ける個人的内容から始まりますが、中間部から、
    切支丹弾圧と世界のプレッシャーに至るまでの考察、後半に添付資料有り。

    乙女峠の坂道「雀の涙」
その為、黒田清隆はカンカンに怒るも、世界の監視の中、明治5年段階で捕縛して牢に入れた
隠れ切支丹を、結局、なんにもできずに、無意味と知りつつ、自宅謹慎などの名目に緩めて、
全員解放せざるをえぬ宿命。イライラの連続。

折角一息ついたのに、黒田の受難はまだ続く。この後、開拓使のお雇い外国人クラーク先生登場
時点で再びひともんちゃく。この段階は明治9年につき、一応禁教高札は降ろされているが、
けっしてオープンOK自由!・・・じゃない。世界が煩いから、しぶしぶ日本政府が折れただけのこと。
できるだけ止めて欲しいが日本の本音。
黒田は頭を捻って、道民に神社のお札を全員持つべき対策をゴソゴソ。これは、万民にどこかの
神社に籍を置いてもらう意義。ヒントは昔の宗門帳みたいなもんかな。何の役にも立たなかったけど。
どんだけ空振りかというと、そもそもそんな御沙汰があったこと自体、知らぬ人のほうが多い。

黒田は辛い。頭痛の元は、なんといっても自分が連れ込んだ大先生。先生とはクラーク。
農学を学び、北海道の未来を担う学生の指導にクラークを呼んだは黒田。ところが、クラークは、
堂々と布教する。黒田は頭に来てクラークと一発。「農学を教示してくれと頼んだが、誰も
布教してくれと頼んでないぞ!」しかし、軍配はクラーク。「開拓の精神、農学の基本は、
キリスト教だ。これ無しで教えろと言われても無理な話じゃ!文句あるなら、俺は帰国するぞ!」

結局、黒田はクラークだけには、頭があがらない。論破されて、惚けて見ぬふり。
これは致命傷。いやいや惚けた結果がどんどん悪化する。北海道がまるで、キリスト教パラダイス。
黒田の立場表現でいえば、集団で湧いて出てくる!!状態。

これは、函館中心に全道のキリスト教会建設&拡大の際に、それぞれの国の教会組織が、召集するから、
長い徳川時代に潜ってその行動軌跡を隠しきっていた子孫が、突如浮上する。
地元北海道の地において、宣教師達が諭した結果、新規に入信した者だけなら知れている(※)が、
上記のとおり、不思議と地下から湧いて出る。本州から舟に乗ってやってくる。
  • ※:知れているとは:
    上記のとおり、日本政府の腹の底は見えているから、大抵みんな慎重。自分は良くても、親族に
    迷惑がかかるを懸念している状態。長い江戸時代、流された血の量は半端でないから。

黒田は大爆裂。なんで俺のところに!!わざわざ舟に乗って来るな!集まるな!

それもそのはず。この頃、開拓使は、派閥争いならずや、旧藩閥大喧嘩の毎日。余計なところで
足を引っ張られるは迷惑。 クラーク先生と黒田清隆
  • 尚、後日別編でご案内しますが、黒田とクラーク達の縁は素晴らしい。クラークやケプロンは、
    帰国後も、黒田との縁は延々続く。けっして、不仲になったのではない。



■「陽明学」の問題点

中途半端な者が学ぶと、自由も平等も、自己満足的に勝手な解釈で、暴走してしまう。


幕末の人々に影響を齎した「陽明学」浸透のルーツ

■「陽明学影響」が顕著な幕末維新志士と、他に重要な学者
  • 吉田松陰、高杉晋作、(熊沢蕃山の流れを汲む系
  • 西郷隆盛、
  • 大塩平八郎 (大塩平八郎の乱の人物 )
  • 佐藤一斎と、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠他(佐藤一斎の流れを汲む系
    <佐藤一斎は、昌平黌の塾頭。その教え子が、上記3名。必然的に学問の中身を知りえるも、倒幕思想に
    結びつくことはない。
■幕末世代へ直接影響した発端ルーツの元祖人物とは:◇中江藤樹、及び、◇熊沢蕃山(中江藤樹の弟子)
■奥州への浸透元祖人物とは:◇淵岡山(中江藤樹の弟子)
※尚、下枠に「中江藤樹=元祖」と記載した訳は、幕末影響に係る元祖。陽明学自体は中国古来。
武家社会、特に徳川時代、この思想は危険が多い為、この学問を退け、秩序の維持に便利な「朱子学」を用いた。
危険とは「自由と平等」。反体制思想の元となる恐れがある為。
江戸時代の「陽明学定礎の二本柱」:中江藤樹と弟子の熊沢蕃山
1
中江藤樹=元祖
2

熊沢蕃山

弟子: 藤田東湖、吉田松陰他
淵岡山
今回は奥州注目につき、熊沢弟子系と、中川弟子系は略
奥州影響多大の人物 「淵岡山」中心に下行「第三階層」▼
中川謙叔
3
(奥州編)
孫弟子階層から
幕末まで延々階層
淵岡山
▼(岡山を含め全7世代の弟子の弟子系図)
淵惟直(=淵伯養)→淵惟伝(=淵葭卿)→熊坂覇陵→熊坂台州→菅野和蔵→菅野八郎
1_日本国内に於いて、江戸時代浸透の第一階層
1
中江藤樹

1608年
(慶長13/3/7) ~
1648年
(慶安元年8/25)

享年41歳

■流浪のごとく転居連続の人生■
  • 生まれ:近江国(滋賀県)
  • 米子時代:9歳時、祖父の徳左衛門(米子藩主加藤家家臣)の養子となり、
    米子移住。
  • 伊予大洲藩時代(1617年(元和2年)~):
    米子藩主の国替えに伴い、養父に連れられ、伊予大洲藩(愛媛)に移住。
    1622年(元和8年)、祖父死去にて、家督100石相続。
  • 脱藩して、京に潜伏時代:1634年(寛永11年)27歳時
  • 出身地の近江へ戻った最終期=「藤樹書院」を開塾。
■妻:久(伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘)死亡後→布里(近江大溝藩士・別所友武の娘)
■塾の名:藤樹書院: 1648年(慶安元年)開設),
_所在は、彼の郷里の小川村(現在の滋賀県高島市)
■「近江聖人」と呼ばれた。:平等思想が基本精神。学んだ者は武士に限らず民も就学。
■代表的な門人:熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔など。

大洲の三穂神社に存在する「隠れ切支丹処刑の碑」三人組の一人の「来島徳右衛門」
は定かでないが、藤樹の叔父だといわれる。但し同じ場所に祖父も奉られている。
2_浸透の第ニ階層(上記第一階層の子、後継弟子階層の人物)
2A





熊沢蕃山
1619年(元和5)
~1691年
(元禄4/8/17)
享年73歳

批難排斥だらけ
の人生

教え子

藤田東湖、
吉田松陰他

諱:伯継(しげつぐ)、字:了介(一説には良介)、通称は次郎八、後に助右衛門。
号:蕃山、息遊軒。出身は京都。
8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗る。
■寛永19年(1642年)伊予国大洲藩を致仕。
■近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)に住む祖父の家に戻った。その段階で、
上記の中江藤樹の弟子となる。
■その後、岡山藩に出仕。■藩主に従い、江戸へ出府。■岡山へ戻り藩政改革に貢献。
この頃、、保科正之、林羅山らの批判を受け、 岡山城下を追われる形で、和気郡蕃山村
(岡山県備前市蕃山)に隠棲。原因は異学の陽明学信望者であること他、各種。
■藩を去り、万治元年(1658年)京都に移り私塾を開くが忽ち追放される。
■大和国吉野山に逃れ、その後山城国鹿背山(現京都府)に隠棲。
■寛文9年(1669年)幕命により播磨国明石藩主松平信之の預かりとなる。
このとき太山寺(現神戸市西区)に幽閉される。
■延宝7年(1679)藩主信之の大和郡山藩転封に伴い、大和国矢田山(現大和郡山市)に
移住。■幕府批判。■下総国古河藩主松平忠之(松平信之の嫡子)に預け替。
古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎。ここで永眠。
2B
淵岡山

__

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■_奥州地方浸透のへの経路

奥州浸透の第一人者は「淵岡山」。淵岡山は、上記のとおり、中江藤樹の弟子。
盛んになった地域のひとつに、信達地方(福島藩)。
奥州では、「藤樹学」と呼ぶ。 会津にも伝播されている。判然としてるのは、山川浩、山川健次郎、他。
有名な学者の一人である「淵惟伝」の実父は、 東条貞蔵(=東条長五郎の孫)であり、会津人。
山川浩が学んだ師とは「讃岐の水野某」と記載されていて、当該が判然としないが、上記のとおり、
もとより、会津に「藤樹学」は一部に浸透していた。
「藤樹学」と呼ばれた訳は、中江藤樹の名前に起因するだけでなく、従来より推奨されていた学問「 石田梅岩の心学
ときっちり分けて認識する必要性があった為。どっちも一種の「心学」であることから。


州1
淵岡山(1617-1686)
(ふちこうざん)と読む。
読:オカヤマでない!
淵岡山 は、伊達家に仕えた。その後、江戸に出て幕臣「一尾伊織」に仕えた。
その後、 中江藤樹 に学ぶ。おそらく、中江藤樹が京都潜伏時のこと。
その後、1674年、京都で学舎を開き藤樹の学
【▼その実子=弟子兼後継者】



2_奥州浸透の第ニ&第三階層(上記第一階層の子&後継弟子階層と更なる第三階層(=弟子の弟子)の人物)

州2





淵惟直(のぶなお)
=淵伯養
?~1736 (元文元年
11月13日)
淵岡山の長男。名は惟直。通称は半平。 京都学館を継承,陽明学を教導。
京都出身と伝わるのは、おそらく、父の岡山が京都在住時代に生まれた為だろう。
【▼その養子=弟子兼後継者】

州3A
淵惟伝
=淵葭卿(かけい)
1715(正徳5年)

1782(天明2年
2月4日)
享年68歳。
淵惟伝の実父は、 東条貞蔵(=東条長五郎の孫):会津人。
その為、出身は会津。本姓は東条。名:惟伝。字:貞蔵。
京都で、上記の淵伯養に師事。師の没後,養子となり淵氏を継承。
京都学館で陽明学を指導。門人には、公卿も多い。
【その弟子】
4_奥州浸透の第四階層以降の人物
信達地方(福島藩) で盛んになった藤樹学は、武士ならずや民にも浸透。豪農なども多く学ぶ。
そのうち有名なのは、 熊坂覇陵、息子台州親子。 彼らは農業を営みつつ、就学してやがて伝播教示する立場。
民衆教育と、貧者救済に力を注ぐ。( 信達地方(福島藩)=伊達郡とも呼ばれる地域)

州4








熊坂覇陵
熊坂覇陵 は、 代々高子村の名主。



奥州5
熊坂台州
1739
(元文4年4月23日)
~1803
(享和3年3月21日)
享年65歳。
名:定邦。字:子彦。通称:宇右衛門。
学んだ師匠は父のみならず、 入江南溟(なんめい),松崎観海に弟子入りして学ぶ。
郷里に戻り、学舎海左園を開塾して民に教示する。
教育のみならず、窮民救済と、開墾推奨を徹する。
奥州6
菅野和蔵(名主)
岩代原田村名主。上記、熊坂台州の弟子。農業。原田村は金原田村と
記載された資料もある。




奥州7
菅野八郎
(1813-1888)
上記菅野和蔵の子。父に学ぶ。
慶応二年(1866)に起きた「信達世直し騒動」の一揆首謀者扱いされるが、
無事存命。上記の父「菅野和蔵」の教育を受ける。
「信達世直し騒動」とは 、15万人の大スケール百姓一揆。
<それ以前の活動>
水戸藩士に「秘書後の鑑」、「異人征伐海岸防備」の書状を送る。
1859年:安政の大獄連座、幕府に捕縛されて八丈島流罪。獄中で吉田松陰に会う。
1864年、許されて帰郷。早速、武術鍛錬の農民組織「誠心講」結成。
1866年:信達世直し大一揆を首謀。1868年:新政府によって放免される。
1874年:再び収監暦発生。1888年:死亡。


他にも重要な全国の学者
1
山田方谷
(備中松山藩)
1805(文化2/2/21)
~ 1877(明治10)
6月26日
上記のとおり、自由と平等が根底にある陽明学を指導するにあたって、
彼は、陽明学の持つ危険性を予期して、この学問については、伝播する弟子を厳選した。
己の私欲で勝手に暴走して、偏狭な解釈で都合の良い平等と考えるは、即ち倒幕に
繋がるからであった。何はともあれ、熟生には、先に朱子学を指導した上で、
ごく一部の者にしか、陽明学を教えなかった。
尚、この人物に係るエピソードとして、鳥羽伏見の責任を負い被り、犠牲の切腹となった
熊田恰 の死報に、思わず耐え切れず号泣。死ぬべきは我であったと泣き崩れたという。

2
佐藤一斎
昌平黌の塾頭、
1772年
(安永元年10/20)
~ 1859年
(安政6/9/24))
美濃国岩村藩出身。昌平黌教授に就任。
佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌の教え子として、彼が陽明学を教えた者に、
弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠他。
佐藤一斎は昌平黌の儒官。立場上、まずは朱子学を指導。学者の立場上、知識として、
陽明学も把握しているが、信望傾倒していない。倒幕思想の危険制を配慮しており、
ここで学んだ者の特徴は、幕末大暴れの志士達のように燃え上がってしまうことはない。



山川浩(会津藩)と陽明学考察


広沢安宅(会津藩士)による「幕末会津志士伝」によると、
「平素藩教たる朱子学を好まず王陽明を慕うの志あり。
故に陽明派の碩学 讃岐今治藩士水野某 を京都の寓居に聘し、其の教を受けたり。 」の節が存在する。

上記の「讃岐今治藩士水野某」たるや、実際誰なのだろうかと随分調べたが、残念降参。
しかしながら、陽明学を信望する山川浩は、同じく陽明学を信望する土佐の谷干城に
明治の世、応援されている。この陽明学を仲介とする土佐ラインは偶然だろうか?

また、土佐藩の特徴として、新撰組絡みなれば、やたらに過激処分決行賛成派(記3)の様子ながら、
その反面、外語知識優秀な者に対しては、仏のように許し、匿っている例が複数存在している。(記2)
山川浩は、慶応2年(1866)、ロシア渡航歴有りの人物。(記1)

因みに、山本覚馬(山本覚馬関連:■ 新島襄と山本八重子頁内 )は、京都で斬首された噂が
巻き立つ中、救われて、明治を生きる。原因は、山本が他藩士に対しても寛大に砲学他学問を幅広く、
京都で教えていた経緯。恩師の為に動いた者が居る。
また、 秋月悌次郎はこのとおり、長州にとっての大恩人



戊辰時大活躍の山川浩(大蔵)は、無事許されている。
・・・山川に差し伸べられた「ストッパー」考察


無論年齢的にも若いし、主要家老だったわけでもないが、戦闘場面の首謀者扱いされても仕方ない場面を
演じている。散々官軍を泣かせた将。これについて、一般的によく言われるのが、
土佐の谷干城。戊辰時の「敵ながらあっぱれな活躍を賞賛して、陸軍出仕を推薦。」・・・と。
だが、世の中、そんなに爽やかな話ばかりでない。上記の外国語知識や、外交経験も無関係では
なさそうだ。救済の手を差し伸べられている様子として、まずはこちらの事象。

会津降伏後、民の加担者が処刑された。 会津贋金職人呼ばわりで処刑された民
これは、妙な話。 この民を江戸からスカウトして会津に連れ込んで従事させた張本人が
山川浩
。民が処刑なれど、山川浩が大丈夫とは、明らかに誰か有力者が、山川浩に係る扱いストッパーを
かけている。上記民の処刑断行者は、後に会津の恨みを食らって天誅された 久保村文四郎 だが、
彼に民処罰権利はあっても、侍を直接処刑する権限がないのは解る話で、上の者に処罰を依頼するはずだ。
しかしながら、もしも、ここで民だけ処刑して、それを束ねた侍張本人の名前も調べず終いでは、
業務的に完全に手落ち。ありえない話。この時代、稟議書があったわけはないが、誰しも
上司の立場なら、手落ちを責めるはずだ。となれば、報告は済ましたものの、どこかの段階、上の者が、
ストッパーを降ろしたと判断される。

山川浩の弟、山川健次郎達の絡みで救済の力を有しているのは長州。
(この話:秋月と山川他人物の絡み事象: <会津藩主助命嘆願:謹慎中脱走部隊の構図>
しかし、これは、健次郎の兄だからという理由で、長州側から出されたストッパーとは別と思われる。

土佐から出されたストッパーとは、山川の外交手腕実績か、陽明学による人脈迷路「讃岐今治藩士
水野某」によるか、そのあたりは判然としないが、確かに土佐側からも保護されているのが解る。


■特記:1~3



【特記:1】山川の外交経験と手腕:ロシア渡航歴

慶応2年(1866)幕府の樺太境界協議時、外国奉行の小出大和守、及び、目付 石川利政らに
追従して若い山川大蔵は、「露国派遣使」として派遣されている。
この時、帰国後早々に、山川は、攘夷は不可及び、次元的に愚かである旨進言している。

【特記:2】語学力を有する者、または海外渡航経験者に対する土佐藩の姿勢

谷干城も、板垣退助も、土佐藩は、明治の世、語学力のある者と、外交経験ある者に、
どうも甘い傾向有り。(イイ事と言えば、イイ事なんですが、能力者第一主義・・・)
  • 田島金太郎編 :救いの手は谷干城: 田島金太郎の兵部省正式出仕前の小騒ぎ
    箱館戦争参戦。ブリュネの専属通訳。降伏せずに、いつのまにやら、土佐に抱えられて
    フランス語の教師として働くが、途中で周囲が騒ぐ。怪しいと。本人は罰せられるを覚悟するが、
    許されるだけでなく、周囲が体裁を整え、その後も無事明治で活躍。
    これは、リンク先からどうぞ。まるで「仏のような谷干城」であります!田島は少年だった
    せいもあるが・・・。断トツに語学能力優秀な田島は絶対に必要な存在。

  • 沼間慎次郎編:救いの手は板垣退助:
    沼間慎一郎(守一)について
    :幕府砲隊の分隊長として、戊辰転戦活躍。上記のとおり、会津に砲術指導した実績 にも
    拘わらず、会津にスパイと疑われ、兄の須藤時一郎を人質に置いて庄内へ。その庄内で降伏。
    この頃の名は「慎一郎」。板垣が糾問の結果許して、その後匿う。
    沼間は勤皇に不満は無いと言う。薩長のやり方が許せなかっただけだと言った。と板垣が
    書き残す。板垣は土佐。
    沼間慎一郎と、兄の須藤時一郎:戊辰戦争時の彼らの姿
    • ▲これ、表示先でケーキの話出てきますが、リンク間違いではありません。ご安心を。
      表示先中程に兄弟の戊辰時の様子表記
      須藤時一郎は、フランス留学。日本人の貧弱な体格と病弱な要素を解決すべく、西洋の
      食生活を研究。日本人の苦手な牛乳とバター等を手っ取り早く大量に摂取させる題材と
      して大真面目にケーキレシピ持ち帰る。
    • 尚、沼間慎一郎本人も英語を学んでいる人物。

【特記:3】新撰組と聞けば、いきなり鬼になる土佐藩の反面
・・谷干城は坂本龍馬を深く尊敬する人物。犯人は新撰組だと思い込んでいる。
  • 谷干城は、近藤勇処刑の時には、 こんな文章 を書いている。
    ・・注:直接手を下した側かどうかは要確認。リンク先に詳細記載。
  • また、 横倉甚五郎 の謎の獄中死の直前期間にも、土佐藩による糾問も実在しており、
    参与の高権限を持つ後藤象二郎の下に谷が居る。証拠はないが、結果として横倉は謎の獄死。
【特記:4】箱館のロシア正教の神父と、妹の咲子、及び、一枚噛んでる土佐の「沢辺琢磨」

会津藩士が北斗南へ行く際、山川浩は、幼い妹の「 山川捨松(=咲子) 」だけは、
箱館の沢辺琢磨 沢辺琢磨 (=この段階で宮司。元土佐藩士)を仲介として、ロシア正教の神父:ニコライを
頼り、その伝で妹は某フランス人に預けたとされる。
会津藩士は、幕末北方警備で蝦夷に派遣されていることから、一般藩士の子も、実際このニコライに
ロシア語を学んでいる者が居る。その為、必ずしも、根底に宗教が関連したか否かは別として、
山川浩は、ロシア渡航経験だけでなく、ニコライに縁があったも想定される。

【特記:5】山川家とキリスト教のミステリー要素

末娘の捨松は海外留学10年にて、当然洗礼も受けている。日本では、嫁ぎ先大山家の日本古来の
墓に入り、柔軟な姿勢ながら、関与は明確。
弟の健次郎は、その発言「留学中、不便を背負い込んでまで、露骨に拒絶姿勢を示すよりは、
ある程度は、柔軟に判断せよ。」と曖昧ながら、意味深な助言を留学生にアドバイス。
・・・とすれば、この兄弟は、信仰心はないが、否定せず、それなりに尊重する程度なのか。
そのわりには、しょっちゅう、色んな場面で、ふと臭うことが多いのは、キリスト教そのもの
ではなく、陽明学の姿勢かもしれないが・・・。

尚、浩本人に関しては、養子の 山川戈登(ゴルドンと読む) の名付において少々考察。
軍人のチャールズ・ジョージ・ゴードンに由来すると言われる。チャールズ・ジョージ・ゴードンは、
太平天国の乱の鎮圧した将校。太平天国の乱に於いて弾圧された反乱者とは敬謙なキリスト教徒。
故に、上記のゴードンを尊敬するなれば、明らかにキリスト教は関係ない。
ところが、藩主が京都守護職時代、追従して京都に行った際、山本覚馬(新島八重の兄)に、
学んでいる。この頃から既に、山本は外国の宣教師との縁が有り、明治には入信。その縁の一人に
ゴルドン夫妻もある。これは多分、山川浩に関係ないだろうと思いつつ、念のためMEMO。

■山川浩の「笛太鼓獅子舞軍団と一緒に入城成功劇」は有名で、高く評価されている。
お面かぶって、獅子舞群団の民のふりして、敵前突破したのだから素晴らしいが・・・、
それよりも、応援してくれた民の「心的」正体が気になる。寧ろ民を讃えたい。
松平報恩とて、彼らは殺されるを覚悟で応援したわけだから、その覚悟たるや半端ではない。
調べてみたが、この地域の為に、山川家が直接便宜をはかってやった過去は判然としない。
山川浩本人への恩返しに、命を捧げる原因は発見できず。
山川浩が特別に取り立ててやった 弥太 の親族でも居るのだろうか?と探してみたが、
彼らに係る情報は皆目解らない。

されば、何か共通の「思想」が根底にあったのではないかと、ふと感じる。

尚、上記の【特記1から5】について、【特記1】~【特記4】は解説メモで、それなりに調べまとめた
ものですが、この項目【特記5】だけは、「共通の思想」を断定できるような裏付資料を
得ていませんから、ミステリーと、記載させていただきました。



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