赤い靴の女の子時代背景と考察2

赤い靴履いてた女の子_時代背景と考察2,野口雨情,『赤い靴』と『しゃぼんだま』事象はひとつづきだった,岩崎きみ,夢破れたユートピア農場,幕末明治&箱館戦争&明治の北海道開発<幕末昂じて次世代に引き摺った戊辰の影

「赤い靴」と「しゃぼんだま」は事象ひと続き



赤い靴履いてた女の子_時代背景と考察_No.2
人物ネットワークと、行動範囲から考察
野口雨情の童謡「赤い靴」


赤い靴履いてた女の子
異人さんに連れられて行っちゃった・・・

初めに:現頁シリーズ内容は、「定説」を覆す為のものでもなければ、異説否定でもありません。
想像以上に広範囲だった人間ネットワーク領域を素人の一人として、知りえた範囲。
ふと気になった事のMEMOと、加味考察にすぎません。

SERIES_No.1~No.3の頁内概要

★本表のMENU大脈_ No.2 (現在頁)
『赤い靴』考察_No.1 (前頁)

■キリスト者達の『夢農場』終焉:「赤い靴」がなぜか今だに曳き摺る暗い戊辰の影_蝦夷開発
■0_野口雨情,■1_岩崎きみ,■2_岩崎かよ,■3_鈴木志郎,■Y_岩崎かよと鈴木志郎の軌跡,
■4_岡その,■5_佐野安吉,
■X_岩崎かよが何故函館を目指したか?幾つか考察_病弱な子と未婚の母
(キリスト者としての縁,児童福祉施設充実の街=函館への開眼
■6_岩崎辰蔵,■7_チャールス・ヒュエット夫妻,■8_篠崎清次,■a_篠崎清次ネットワークの力,
■b_ドレーパー宣教師,日本基督教団函館教会,東奥義塾(青森)との太いパイプライン,
_鈴木志郎のレイアウト模索,■C_脇山義保,


『赤い靴』考察_No.2(現在頁)
■重要キーワード
  • ◇A_平民社:幸徳秋水,◇B_函館平民新聞読者会,◇C_北海道国有未開地処分法,
    ◇D_平民社農場:(原子基,深尾韶,■佐野安吉),
■その時、誰はどこに居た?何を思った?誰に合った?接点模索,■みんなの行動考察表
■野口雨情が、どうして他人の子に、そんなに祈っていたか
■なぜ?きみちゃんの身上を、書面上「佐野安吉」の名にしたか?

『赤い靴』考察_No.3(次頁)
■なるほど、野口雨情の心に残った訳,
■『赤い靴』と『しゃぼんだま』・・・事象はひとつづきだった。
■開墾の精神は、どんな人々に、どのように発生するか?(ジャパニーズフロンティア
・士族の志と平和への祈り:ユートピア農場

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No.1の『篠崎清次枠』と、『篠崎清次ネット網枠』も交互にご覧下さい。
A
平民社
TOPは、幸徳秋水ら
「平民社」による「平民新聞」:明治36年刊行。「平民主義・社会主義・平和主義」
日露戦争は明治37年2月勃発。不戦論を唱える彼らは弾圧され屈する。
この後の段階で、 幸徳秋水 (明治4/9/23(1871/11/5) - 44(1911)1/24)ら
24名処分。この内 幸徳 ら12名は死刑。明治43(1910)年6月、幸徳事件(大逆事件)
B
函館平民新聞読者会
主力は:篠崎清次
函館に「平民新聞読者会」というものが別途存在。他地域にも存在。
彼らは過激な社会主義者ではなく、「平和主義、平民主義、不戦主義」で
あることから、キリスト教徒も多い。1904(明治37)年、
北海道農場経営の発想を為す。その直因は下欄の北海道国有未開地処分法。
平民社農場実現の際、株は東京、横浜、横須賀、富士南、函館、小樽の同志。
ネットは道内ならず関東に及ぶ。 詳しくはNo.1の篠崎清次ネットワークの力枠 及び
前後数段ご覧下さい。
C
北海道国有未開地処分法
法内容:5年間に無事開墾を終了完了できたら、11町歩の開墾地を無償で付与。
但し、検査が有り、それに合格した場合に限る。
D
平民社農場
(明38(1905)~40(1907)

運営&開始
■原子基、■深尾韶、
佐野安吉

構想企画発案株主連絡
発端:上のB枠:篠崎清次
明治38年開設~同40(1907)年解散
○創設者:原子基(下級武士家系)
○場所:現代の留寿都村内。真狩村ノボリエンコロ地区(現留寿都村字泉川)
○農場準備隊=草分け
■下級武士の原子基、旗本出身の深尾韶、 佐野安吉 の3人
入植者が開墾する以前に、とんでもない原生林。道路が無いどころか
獣道すら無い。まずは皆が入植できる獣道を作り、小屋を建てた。
▲見てください!岩崎かよの父さん、佐野安吉がここに居ます!
彼はやはり尊い人物らしき。士分の志。開墾=北辺の守り=蝦夷開発

・北辺の守り=蝦夷開発ジャパニーズフロンティアについては No.3 頁ぐっと下側枠
○平民社農場への応募とシステム
_平和主義、キリスト者などが多いことから営利主義でない。
_設立資金:一株五円。五年間無利子。
○応募者内訳:東京、横浜、横須賀、富士南、函館、小樽の同志。
結果45株を得てスタート。
佐野安吉は、ならず者ではないです! 資料乏しく詳細目下草の根分けて発掘中。身分は農業となっています。
しかし、維新で賊軍となった徳川家臣や加担明確な近隣譜代等の二男三男は、士分でありながら、背に腹かえられず、
婿養子として民に下る例も。また断固ニ君に仕えずの意地、官職を一蹴、職に『農』を選択した者も。それらの雲を掴む
ような変!な私的推測の山の中、少しだけ進展しました。彼の魂を救うべく、もう少し手掛かり掴もうと足掻いています。
みんなの行動考察表
岩崎きみ(赤い靴の女の子)_その2
病弱な子(=きみちゃん)を、異人さんの養女に出した母(=岩崎かよ)に係る考察関連表



■岩崎きみ=きみ,■岩崎かよ=かよ,■鈴木志郎=志郎,■佐野安吉=佐野,
■野口雨情=雨情,■G・F・ドレーパー宣教師=ド宣,■ヒュエット夫妻=ヒュ,■正満又七=正満,
■C・Pドレーパー=ド母(GFド宣の母だから),■篠崎清次=篠崎;
●印は当該人物、及び、その期間その地域で会えた可能性のある人物
○印は、A欄表記の地名に、当時居たと想定される人物、◇明治=明、大正=大、昭和=昭
■最上段の×印は生まれていない意。
■野口雨情などについては、本件に関係ある地名だけ。他略。
■氏名行下鼠色列内の地名は、基本在住地、■表中身枠内グレイアウト部分は本件無関係期間を略した。
*印は意味無=予備余白
表で見ると、あらゆるMETが。推理考察にご覧下さい。ここに登場する以外、 前側 文章内の人物も
もっと重要なキーマンかもしれません。
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■黄色い縦枠は、G・F・ドレーパー宣教師の長い横浜滞在期間(1898年(明治31)に横浜在住開始。ここを拠点に、
東海、関東地区を伝道 。小川教会の主任牧師を務める。(1898~1929:明治,大正,昭和:永く在日))
■注:西暦と和暦:月と日を現代の季節感上、いちいち頭で変換しなくてもよくなる切り分けは、
明治5年12月2日(1872/12/31)。この年は調整の為、その翌日の12月3日を明治6年(1873年)1月1日に改 。
■佐野安吉について:一般に居住は静岡のままと考えられることが多いですが、上記のとおり、私的には
その後も開拓農場同行ラインで行方捜査中。(これ難解。教会内部資料見れないから)年齢からしてここか倶知安
界隈で没でしょう。
■このような『かもしれない考察』材料をご自由に意識の中プラスアルファしながら、視野を広げて色々考察どうぞ。

略式名前の下「M35」とかは生年、Mは明治
*
*
*
特記地名と年


M35
1902


M17
1884


M13
1880


嘉3
1850


M15
1882


安5
1858



1864


M14


天3
1832


M14
正満又七とは、 No.1の 「篠崎枠」参照。
道内絶えず移動。情報の源。ド宣枠
ド宣:安=安政5,ド母:天=天保3
ヒュ:===1864
基本地名1~4種類→

各人物の基本的居住地
滞在地他
?



















道内

東&
近郊
◇静岡=静,◇青森=青,◇札幌=札,
◇函館=函,◇横浜=横,◇東京=東
&近郊,◇札小=札幌&小樽の略
◇留寿都の農場=農,
◇留=留寿都の農場開始前準備
◇信州(広域)=信
■最上行の「静岡キリスト教」とは、佐野安吉とキリスト教接点を江戸時代迄遡って考察用:詳しくは、
No.1 の佐野安吉枠と、 No.3 の「禄を失った士族達とその二世達」枠、■上側グレイアウトは生まれてない人印、






1850年(嘉永3)佐野安吉誕生
.
.
.

.
.
.
.





.
ちなみに浦賀にペリーは1853年
1871年(明治4)来日の宣教師:
(E.W.クラーク):静岡伝道











クラーク静岡学問所で洋学教授。
1873(明治6) 年:クラーク静岡去る。
1874(明治7)年、
D.マクドナルド宣教師静岡伝道
教会も創立
同年9月27日、11名が受洗礼。
教会創立は、明治6年禁教解令の為
この頃佐野安吉は24歳、就学適齢
接点模索中
*





1880年(明治13):ド宣来日。



ド宣とはG・F・ドレーパー宣教師
鈴木志郎誕生
1881年(明治14)ド母:
函館到着





















子のG・F・ドレーパー宣教師は日本国内
移動布教 中、母は一足早く函館来着
篠崎、正満又七誕生
1884年(明17)~1887
(明20)ド宣:青森滞在


M17




























期&



寿


1884年(明治17)に、 東奥義塾(青森)
志郎誕生異説有:大体1880(明治13)
△印は、居るが幼少につき、当時青森
に居たド宣との結び付はあまり関係無
。されど父兄等に縁発生確率は否定
できない。かよ誕生
1888年(明21)~1892
(明25)ド宣:横浜在住





細?

1888年横浜住。 京浜東海地区伝道
横浜教区長老司(教区長)期間
1892年(明25)ド宣:函訪

ド宣:函館で伝道:短期在住か
否かは不明
1893年(明26)信州
ド宣:信州で伝道
1895年(明28)ド宣:函訪

ド宣:1895年(明治28)函館訓盲会設立
ド宣教師函訪:設立はド母と共に
1897年(明治30)篠崎函館へ
篠崎函館へ来る





















志郎活
動可能
年齢
1898年(明治31)





































ド宣:1898年(明治31)に横浜に腰据
1899年(明32)
ド母:明32死亡
1902年(明35)きみ誕
●静
きみ、静岡に誕生。
かよ
志郎
出会
1903年(明36)
かよ来函
篠崎:東京在後
函館へ戻る











●静
~函?
●静
~函







静~函とは、移動年につき双方。
かよ:子連れ状態のかよ来函説多い。
篠崎:36年東京で半年間聾唖教育習
得。この間に、かよまたは佐野との
接触確率有
1904年(明37)
日露戦争

札?






佐野安吉 の子扱いとして書面体裁
整え、きみちゃんをヒュエット夫妻
養女手続き年
留寿都の農場開始準備隊の一人と
して佐野安吉が赴いている





明38
~40
かよ

志郎
農場
1905(明38)
かよ&志郎:
農場IN












●農場




寿




調




一般












亡迄



不明
×

明治38(1905)かよ志郎:農場IN
ヒュ夫妻:暫し欧州。×は日本に
居ないの意( 追記有
佐野安吉 の農場IN説については、
他に誰か立派な専門家が提唱する
ものではなく 私のONLY私論 です。
調査中。
1906年(明39)






ヒュ夫妻:39年再来日。函館,札幌
と教会転々伝道。旭川設立に多忙。
かよ志郎夫妻と漸近状態ながら、
ニアミスか?
1907年(明40)


1907年(明40)~

札?
●札幌
小樽




かよ志郎夫婦は札幌、小樽、倶知安
志郎は記者目指すも転々。札幌小樽
間に野口雨情と交友
1908年(明41)



ヒュ夫妻:日本を去る
同年、野口雨情は子を失う。長女
みどりの死亡。(小樽)
札幌
~小樽
~倶知安
~小樽
1909年(明42)~
1910年(明43)
記者
期間

再出発
期間

札幌
~小樽
~倶知安
きみ:最後の生存期間
1911年(明44)
きみ:死亡
×

きみ:明44(1911):死亡満9歳
死亡の頃、かよ志郎夫妻は倶知安
確率高い。他軌跡不明。
篠崎:死亡
1917(大正6)
篠崎:死亡
1918~1921
*中間経緯略
1922(大正11)
野口雨情
「しゃぼんだま」「赤い靴の女の子
」ニ曲共同年発表
1923~1934
*中間経緯略
1935ヒュ死亡
ヒュエット米国で死亡
1936~1938
*中間経緯略

ド宣帰国
1939(昭和14)

ド宣教師:昭4日本を去る。
1940(昭和15)
志郎かよ小樽
小樽
志郎かよ夫妻再度小樽へ
1945(昭和20)
1945(昭20)1/27:野口雨情死亡
1948(昭23)かよ死

1948(昭23)かよ死亡
1951(昭26)ド宣死
ド宣アメリカで死亡
:1951(昭26)/1/24
1953(昭28)志郎死
1953(昭28)11/23志郎死亡
1962(昭37)正満死
正満又七(1881~1962)は昭和
37年迄長寿完。彼は篠崎ブレーン
時代、薬の行商と称して絶えず動き
情報の源だった。

全員無情の灰色に染まった。佐野の
み色彩が異なるが、この人物は江戸
時代生まれにつき、とっくに死亡
してる。農場時代か倶知安時代には
死亡するはず。










佐野安吉の死亡情報が得られないの
は、静岡在住の観念に捕われ、その
地で情報が無いからかも。農場近郊
調査中

名前の略型表記について :例「ド宣」って何?_答え:G・F・ドレーパー宣教師他記載有
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■かよ志郎夫婦:札幌,小樽,倶知安を得てから最終再小樽に永眠。
▼上表内の明治38年ヒュ夫妻の暫し欧州への枠追記:
  • この時、単身なれば妻が義子と北海道内に残るも理論的には成立するが考え難い。妻はオルガン演奏者。
    オルガン購入目的もある旅に妻無単身説考えるには苦しい。
  • きみちゃんは、この時欧州へ同行したか否かが各派説の源。初めから北海道無縁に東京に居たまま説、
    この頃は夫妻と居た説等様々。発病がいつなのかが不明の為判然としないが、異父姉妹の「岡その」さんの
    数少ない記憶発言の中、「母は天涯、外人さんと一緒に外国へ行っちゃった・・と思ってた」からすると
    手放した頃から病弱だったかは疑問符。或るいは小さすぎて弱々しい子という程度であったかもしれないが。
    ・・・となれば、
    • 仮説1_夫妻が一時欧州へ行く際、既に病弱なれば、一時の事と諭して東京の施設へ。そのつもりが
      たった半年のことながら、戻ると、とても施設から出せない状態だった。この場合明治39年再来日
      の際函館、札幌にきみちゃんは無縁・・・となる。
    • 仮説2_否、この頃は連れ歩いていた。きみちゃんを手放したのは夫妻が永久に日本を去る明治41年
      ・・・とも考えられる。
    • 仮説3_実際にヒュ夫妻が手放した年が、明治38年は1905年の一時欧州+アメリカの旅の
      際なのか、永遠の帰国明治41(1908)年なのかは上記のとおり判然としないが、それはさて
      おき、この何れにせよ
      実は、 アメリカ、この頃とんでもないことになっている 。とても米国で暮らせまい!状態。
      ・この場合、ポイントは38年側。その背景は真下枠。

1905(明治38)年一時帰国のヒュエット夫妻
驚愕の現実!アメリカ国内、受難時代到来、日本人の立場

日系アメリカ人、受難の時代が到来。

■1905(明治38)年5月14日:サンフランシスコに於いて 『アジア人排斥同盟』結成
もとより燻っていた反日感情が露骨化。目下日本は日露戦争真っ最中のこと。

これよりずっと前の時代から煙は出っぱなしだったのだが・・・。
維新を迎えた日本人にとって、アメリカは先進国。学んで盗んで追い越せ!引っこ抜け・・・はいいが、
ご存知のとおり、いやな話だが、「自由な白人」という状態。帰化法には、煩い制限が一杯。
「アフリカ生まれ及びその子孫に係る・・・」という特記項目は1873年に出たが、これも言うまでもない。
ところが、アジア人はもっと忌み嫌われている。

1882年(明治15)年、中国人の移民が禁止される。
続いて、1885年(明治18)年暴徒による在米中国人の惨殺ともいうべく
「ロック・スプリング虐殺」事件発生。大規模事件はこの頃だが、実は中国人の哀れ
原因不明死亡事件は、これよりも遥か前から複数発生している。
日本人は、受難は近隣の他所の国の人とばかり、対岸の火を見てる場合でなくなってきた。

そして悪夢の1905(明治38)年。これがまさに、ヒュ夫妻の一時帰国の年。
サンフランシスコ・クロニカル紙面を発端に次から次へと、帝国主義日本は徹底的に排斥される。
黄色い移民の脅威! 黄色い人種達の神はキリストじゃない!
たちまち、『アジア人排斥同盟』結成。どんどんエスカレートしてゆく兆し。暗雲が漂う。

参考までにこの段階の後、1913(明46)年には、日本人を含むアジア系移民(=帰化不可能外国人)に
対して一切の土地所有が禁じられ、アジア系移民の市民権は剥奪されており、
そして年次と共に、終いには強制収容所と発展してゆく悪夢。


これでは、きみちゃんの病状が軽いか重いか、この段階、全くわからないが、
とてもアメリカに連れて永住させてやることなどできない。愛するが故。


明治39年、40年、41年、志郎かよ夫妻と、ヒュエット夫妻は、地理上漸近線の位置関係で
共にうろうろ彷徨っていながら、 微妙に滑っている 。(上表ご参照)ひとたび貰った子を、
犬猫の子のように返品するといった軽薄なものでなく、上記状態なれば、たとえ尊い神父夫妻とて
懊悩して、多忙のスケジュールを縫いながら、志郎かよ夫妻所在を追ったかもしれない。
この場合、志郎夫妻が小樽に行ったから、消息の細い糸が完全に切れた。

事実はもちろんわからない。最初っから、北海道なんか無縁のままに死んだ子といえば、
まあ確率はあるわけで・・・しかしながら、それじゃ、実もふたもない。

■ところで何故ヒュエット?似たような外人一杯居るじゃないか!等について
この話は、岡その(きみちゃんの異父妹:かよと鈴木志郎の間に生まれた子)が、後の世、
「私の姉が「赤い靴の女の子」です。」発言が生じた時、母から聞かせられていた宣教師の名前が、
ヒュエットだったからです。外人さんの名前ですから、読みに多少曖昧&差異があったようですが、
それで調べてみると実在したから、定説となったという経緯。

ビルの立ち並ぶ札幌の町のど真ん中。北一条教会と親しまれる古い建物がひとつ。
これが、かつて明治の世、日本美似教会札幌教会 。ヒュエット夫妻縁の古い教会。
昔々、ここにあの子が居たのかな?車の音が轟々と煩いけれど、佇んでふと考える。それも浪漫。

onpuOpt.gif 赤い靴見るたび考える~っ/。 異人さんに逢うたび、考える~っ_。
・・・このあたりなぜか調度、異人さんに何回か会った。
・・・なんでか知らないけど、何度も似たような質問。「スミマセン!トケイダイ(時計台)、トオイですカ?」

野口雨情が、どうして他人の子に、そんなに祈っていたか

明治41年に子を死なせ失った野口雨情。一方、死んではいないが、永久に会えない世界へ子を
送った志郎かよ夫妻にとっても同じく41年。
(この段階で志郎かよ夫妻はそう思っており、再来日予定を知らずに居たかもしれない。)
この頃、野口雨情も鈴木志郎も、思想と夢に破れ
失意どん底。生きていてくれ、せめて生きていてくれ・・・他人の子とて、永久に野口雨情の祈り
の対象になるのは自然。

野口雨情が「しゃぼんだま」、「赤い靴の女の子」ニ曲共に発表したのは、
1922(大正11)年。この段階で、実は「赤い靴の女の子」の歌詞には、未発表に終わったラストの
歌詞があった。それは昭和に入り、昭和53(1978)年、発見された。

onpuOpt.gif 生まれた日本が恋しくば、青い海眺めているんだらう。
異人さんにたのんで、帰って来。

帰って来い!帰っておいで!・・・祈りの気持ち。天国の娘は帰れない。
せめて、あいつの子は、あの子だけは、帰って来い!帰っておいで!

・・・しかし、この時、発表前に知ってしまったのではあるまいか!
!!なんと!・・・帰ってこれない!我が子と同じ世界へ行ってしまったのか!

こんなにこんなに祈り続けたというのに・・・二人共、しゃぼんだま。
「しゃぼんだま」と、「赤い靴の女の子」
厳密には発表の月日に於ける前後関係矛盾があるとか、否、発表月日そのものよりも着稿月日が
重要だとか細かい事こだわったところで、心情の話は理路整然でなくても良いと考えます。
感じた、思ったと、実行は必ずしも同時じゃない。算数じゃないはず。

aj3.gif 他人の子に祈る気持ち・・・解り難い場合:「無意識なる祈りの対象代入行為」

失ったことありますか?人に限ると「解らん!」とおっしゃる率が高くなるので、
あえて、愛犬なども含めてお考え頂くと、感じて頂ける皆様の幅が少し広くなると
思います。人ならば、同年齢の子を見れば当然、愛犬などに於いても、同犬種
見た時、どんなお気持ちでしょうか?思わず心中呟いていませんか?
「沢山食べて、大きくなれよ。元気に育てよ!可愛い。可愛い。ずっと元気でいれよ。」
以来、この子が特別可愛いくなる。他の子よりも、ずっと可愛い。
いつもいつも気になってゆく。生き形見のごとく。

明治41年の段階では、かたや、天に子を送った親。その一方、天じゃないけど再会不可の外国に
送った親(現実は別だが、本人達は送ったと思い込んでる)。ところが、発表の1922(大正11)年の
野口雨情にとっては、長い歳月の中、
41年に天へ行った子も、生きてるとずっと信じていた子も44年には実は天上の人。
同じような時期に、同じように、しゃぼんだま。
若かりし日同じように夢を見て、夢に屈した若い親達の子。
若くて、蒼くて、熱かった頃の自分達

子も、夢も、あの頃の自分も、みんな、しゃぼんだま。
若くて、蒼くて、熱かった頃
No.3(次頁)
『赤い靴』と『しゃぼんだま』
事象はひとつづきだった。
上記、詩の解釈は、どこかの立派な専門家による学説ではありません。
本能的!に感じた私的駄見解。彼らは社会主義者だった。思想が弾圧されている。
どこの新聞社に行けど、筆を握る腕は半殺し生殺し。偽りの筆を滑らせるが
不可なれば宿命!
■未婚の母と、罪_宗教上『古来厳格主義対応策』_書面は慎重を要する

まずは、佐野安吉枠をご参照

佐野安吉は、きみちゃんにとって、本当は義理のおじいちゃん。
きみちゃんの母、岩崎かよは、実の母が離婚。その再婚相手が佐野安吉。
言い換えるなれば、佐野安吉は、岩崎かよの義理父。

未婚の母が、私生児として子を産んで、その子を養女に出すには・・・。しかも相手は外人さん。
国籍の関係も絡む。その上、この頃、日本は海外諸国と緊迫状態は上記のとおり。
しかしながら養女説は、かよが後に産んだ子「岡その」さんの話、母の記憶として入手された話。
書面上養女を裏付けるものの存在は不明。

まずは入所手続き段階のハードルとも考えられる。
しかしながら、国内での法的問題以前に、古いキリスト教の観念から、そうしたのではないかと思う。

この時代、 ドレーパー宣教師 の宗派は、前述延々記載させて頂きました各項目のとおり、
実に寛大で、福祉に力を入れて・・・、つまり雁字搦めのカタイ宗教ではありません。

とはいえ、遠い昔、宗派は色々ありましたが、やはり、やや厳格すぎる!程に身の行いを諭した
宗派もあるわけです。夫はいたけど死んでしまったならいいのですが、かよの場合、完全に私生児で、
けっして口に出せない事情があるのでしょう。認知なんて到底不可能。

遠い昔、どっかの国では、未婚のままに子を産んだ乙女が罰っせられた例もあります。
罪改めるべく保護されつつ、いわば監視状態。天涯遮断されて、自由を失い、実質は禁固同然。
そんな例が実在します。

皆を救う為の教えでありながら、融通の効かない問題点、それらに対して、宣教師達も
矛盾克服、色々改善されてきているわけですが、やはり『書面』なれば体裁確定を要する。
これは、安吉や、かよ一人の思案でなく、打ち明けられて、神父達が救った結果と思います。
安吉とかよは親子ですが、詰められたら、不幸中の幸い、安吉はかよの母の再婚相手。
血の繋がりはないとして、前夫の子にすれば良いわけですから、書面上パスしやすい苦肉の策。
(この場合は国内じゃなくて、向こう側:血縁無縁なれば冒涜じゃない!)
かよは安吉じゃなくて本当に前夫の子説有力だが、安吉の子でないと断言できる材にも乏しいながら、
いずれにせよ、解決策にはなる。

ドレーパー宣教師も、函館にガン!と腰を据えて頑張っていた彼の母、C・Pドレーパーも、
福祉にとても熱心です。(注:かよ親子の来函前に上記C・Pドレーパーは函館の地死亡の後)
さらにパイプラインとして頼もしい力とネットワークを保持しているのは、
篠崎清次です。( No.1 の篠崎清次枠をご参照。)平和と命、愛の為、命掛けで頑張ってる人物。
福祉に全力投球です。熱心なのは、その発端が、自分自身、極度の近眼。
今の時代と異なり克服できる便利材料はないわけですから、人の何倍も努力。医師を目指すも
この視力では全く無理と悟り、屈して後立ち上がった人。
誰よりも尊敬してやまぬC・Pドレーパーを失った後、悲しみを乗り越えて、彼女の志を力に替えて。

篠崎氏は当初、福祉は『視力』にのみ意識が向いていました。ところが、聾唖の児童の相談を受け、
一度断るも、同情心から、跳ね返すことができなくなって再び大勉強。
設立した自己の施設の中に、聾唖部を設けました。

鈴木志郎の津軽と、( No.1 全般ご参照。鈴木志郎枠よりも、篠崎枠&上下枠:)
函館のキリスト者の繋がりは実に太いパイプライン。

蝦夷開拓は、行き所を失ってやってきた者の集団ではなくて、士族の志・・・が実に多いです。
自ら労苦を背負い、自分の代はたとえ力尽きて大地の土と化すとて、この新天地に
末代の夢を架けて、決死の覚悟。大地に討ち死とて、末代の為なれば命惜しまず。
屈した幕末、彼らの生き残りとその二世達。明治の名も無き北海道開拓者。


■なるほど、野口雨情の心に残った訳,■『赤い靴』と『しゃぼんだま』事象はひとつづきだった。
■開墾の精神は、どんな人々に、どのように発生するか?(ジャパニーズフロンティア
文章解説(c)by rankten_@piyo、
20110614
写真等、素材については頁下表示


幕末_WITH_LOVE玄関

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