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織田信長最期に手繰っていたもの_しのび草,人生五十年のフレーズ,織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,織田信長の限界_弦が散切れる時No.25,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.25暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_21信長流、「信じる、信じない!」の原点織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その6織田信長最期に手繰っていたもの_しのび草,人生五十年のフレーズ織田信長の限界series目次初めから読む=No.1<前頁から読む=No.24手繰るは「安らぎの境地」と「自ら与う」信長という男、万事、力尽くで奪うのみ。人の命も奪うのみ。誠の愛を知らぬ男は、万事奪うのみ。自ら、愛を与える事を知らず終いに終わるはず。しかし、不幸中の幸い、残虐男の代名詞「織田信長」なれど、前述のとおり、養徳院を媒体に、愛の形だけは、知っていた。「安らぎの境地」なるを、手繰れど、それは、限りなく遠い。いくら勝てど、いくら奪えど、永久に、己の手に届かぬ。死期が迫る晩年の織田信長は、虫の知らせか、なぜか、手繰っている。「安らぎの境地」を。49歳にして殺害された彼の場合、晩年という表現を用いるには適切ではないが、用心深く、各行動を見ると、その前年位から、確かに様子が妙なのである。宣教師オルガンチノの特効薬は、ほんの僅かながら、じわじわ浸透してきている。安土セミナリヨの建造を許したのも、布教を許したのも、本来なれば、全て政略の為。しかし、オルガンチノの語った「地球は丸い!」の話に頷いた瞬間、既に、薬が体内に投入されている。政策上の狡猾さから公認したキリスト教は、99,9999・・パーセントの狡猾さながら、残り、0.0000・・1パーセントは、知らずして、マリア様に傾斜している。「聖母の愛、無償の愛・・・とやら、なんぞや?・・・馬鹿馬鹿しいのう!」▼そんな信長の嫡男「織田信忠」に、天正8年(1580)秀信が生まれた。秀信は、初孫ではないが、嫡男の子なれば、信長の喜びは、他に、たとえようがない。▼明らかに、信長は、変わった。第三者の目には解り難いが、確かに、体内変動が訪れている。暦年、万事奪い続けた男が、なぜか、「与える」の行為を開始している。身辺整理して、権威を倅「信忠」に移行して、家宝の名茶器も倅に与える・・まあ、それだけなれば、親子間につき、力説できる説得材料にはならないが、津田宗及に返してあげた「名茶器_文琳」の一件だけは、明らかに、注目すべき事柄だろう。これだけは、赤の他人に対して、全くの無償。津田宗及にとっては、耳にタコができたワンパターンの信長の「敦盛」の詠い。毎度のことだから、「ああ、また始まった!」その程度だった、敦盛の舞。▼人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか、滅せぬ者のあるべきか ・・・死のうは一定、しのび草には何をしようぞ。(手繰っている!)それが、なんと!「しのび草」に、しかもお盆の8月、「名茶器_文琳」が、手元に返された!「しのび草には何をしようぞ。」の答えは、★「無償で、人に与える幸」だったのだ!!津田にとって、有り難い話だが、途端に不吉な予感。案の定、翌年天正10年(1582)6月、織田信長は、あっけなく死んだ!!母の愛に欠乏して育った怪獣は、やがて、ひとつ悟る。愛は奪うものならず、愛は与えるもの。与えて、初に、「安らぎの境地」らしきを体感できた。本能寺の変の前夜、彼は倅に笑顔で、昔話を聞かせている。これが、織田信長、対聖母(マリア様)、 0.0000・・1パーセントの傾斜。辿り着いたら、本人は、死んでいる!!・・が!彼の死後、織田ファミリーの入信が、それを物語る。判然とする者だけでも、信長の三男「信孝」、及び、娘「冬姫」の夫「蒲生氏郷」、秀信(=信長の孫)らが居る。彼らは、オルガンチノによって、受洗している。中でも、秀信は、敬謙なる信者。清い若者は、関ヶ原の後、数年後、死んでしまった!鬼の織田信長が目尻を下げて、その出生を喜んだ嫡男「信忠」の子は、あっけなく天昇。(織田秀信)織田信長、対聖母の愛、0.0000・・1パーセントの傾斜。辿り着いたら冥土だった! 右絵画:ブグローの絵画現在頁下側緑色枠にバナーあります。絵画が紐解くギリシャ神話の魅惑ブグロー絵画サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.23<No.24<No.25(現在頁)
2013.09.08
織田信長の屈折幼少体験,母と乳母と愛と歪,織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,織田信長の限界_弦が散切れる時No.24,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.24暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_20信長流、「信じる、信じない!」の原点織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その5最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察初めから読む=No.1<前頁から読む=No.23信長流、「信じる、信じない!」の原点:幼少体験■ 彼流の異なる聖母像<幼少体験と母>転じて、織田信長、対マリア様、99,9999・・パーセントの狡猾さと、0.0000・・1パーセントの傾斜。 織田信長の幼少体験:母と乳母:母の愛(その続き)乳母「養徳院」と、臣なれど、乳兄弟「池田恒興」_その2養徳院の存在たるや、「信長」にとっては、恰も聖母のごとく。人を信じることができぬ男「信長」にとって、乳兄弟の「池田恒興」前述のとおり、色々、「信長」は、ぐらぐら揺れに揺れてるが、人を信じることができない男「信長」にとって、乳兄弟の「池田恒興」だけは別格。信長流確かめ算(=今回SERIES全体から解ります。No.1)をせずして、無条件で、手放しに全面信用&信頼の関係が、ここにだけは、ちゃんと生じている。「信長」にとって、養徳院は、実の産み母以上のホンモノの母。愛の母。いうなれば、聖母マリア様みたいな!!乳兄弟の存在とは、今日の感覚で実に解り難いが、実に絶大なものであった。その原因は、まさに、共通の乳の母。これは、実に不思議。乳兄弟とは、なぜか、無条件で、心の絆。何者にも動じることはない。普遍の法則。これは、織田信長に限った話ではない。歴史上の多くの人物に共通。乳兄弟考察まるで脱線話みたいで恐縮ながら、これは、動物の例で考えると、解り易い。■犬が猫の子に乳を与え育てると、猫は犬の兄弟と一緒に堂々犬!として育つ。■猫が犬の子を同様に育てると、同様現象だが、この犬は、他犬が来ると怯える犬になる事がある!(サイトTOP=犬猫サイト)共通の母の胸を知る二人は、なぜか、秘密を共有できるとくるから、不思議だ!!養徳院から注がれた愛は、なんら駆け引き条件を伴わない。無償の愛が無限に泉のごとく。実の弟「信行」の謀反を恐れた段階の織田信長は、いかに天下安定の為なれど、卑劣にも、実の弟を、騙して暗殺する策謀なんぞ、他の者には、なかなか腹を割れない。しかも、戦場で堂々討ち取るなれば話は別だが、完全に騙まし討ち。いかに天下人とて、これで、男を落とす。臣が散るか否かの瀬戸際である。ところが、その気持ちを解してくれたのが「池田恒興」であった。恒興は、自ら「卑怯者の役」を名乗り出た。病床見舞いに現れた「信行」。襖の影に潜むは、この池田であった。突如、池田恒興が、白刀翳し、躍り出る。一瞬だった。忽ち、「信行」は刃に斃れ死ぬ。池田恒興は、その手で、信行を殺したのだ。「卑怯者の汚名は私一人が背負います。」池田恒興は、事が拗れた場合、「己一人の独断」と称して、切腹するつもりだった。「されど、その時来たれば、どうか、私の一生で、たった一回だけ、我儘をお許し下さい。今生の別れなれば、どうぞ、願い事を叶えて下さい。心の中で、貴方様を、たった一度だけ、「兄上」と呼ばせて下さい。」己は臣の立場なれど、「心は兄として慕う。」それを立証する為なれば、己は死んでもいいと思った。乳兄弟の威力愛に歪んで育った「信長」は、幾つになっても、誰一人、手放しで信じることができない男。そんな男、信長の幼年時代、生まれて初めて、たったひとつだけ、特定のイキモノを可愛いと感じた。・・・それが、赤子時代の「池田恒興」だったのだ。その赤ん坊は、信長にとって唯一の安らぎ境地=「養徳院の胸」に抱かれて、乳を吸っていた。・・・悪童信長が、生まれて初めて、「愛しい!」そう感じた。成長するに及び、あくまで、この男「池田恒興」は臣である。されど、信長は、兄上と呼ばせてやれない己が、心に罪の呵責を感じる。その為、精一杯、優遇してやった。もしも地上に乳兄弟の「池田恒興」が居なければ、「信長」は、人の愛し方が解らぬ超欠陥品に育っていたことだろう。手繰るは「安らぎの境地」と「自ら与う」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.23<No.24(現在頁)<No.25
2013.09.08
織田信長の屈折幼少体験,母と乳母と愛と歪,大勢の乳母を次から次へと首に追い込んだ鬼の赤ん坊_その訳,織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,織田信長の限界_弦が散切れる時No.23,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.23暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_19信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その4最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察初めから読む=No.1<前頁から読む=No.22信長流、「信じる、信じない!」の原点:幼少体験■ 彼流の異なる聖母像<幼少体験と母>転じて、織田信長、対マリア様、99,9999・・パーセントの狡猾さと、0.0000・・1パーセントの傾斜。 織田信長の幼少体験:母と乳母:母の愛(その続き)乳母「養徳院」と、臣なれど、乳兄弟「池田恒興」_その1不遇の幼児「信長」が、初に愛する事ができた乳母・・・養徳院養徳院とは、初め、「信長」の乳母。次から次と乳母の乳首に噛み付く凶暴性の赤ん坊「信長」は、初に、ここで、しっくりと収まった。初に、この乳母を乳母として認めたらしい。論より証拠は、以降、噛み付き事件は、ピタリ止んだ。(上記のとおり3歳時の話:三歳児の授乳)養徳院は、池田政秀の娘。初め、池田恒利(※▼)の妻。池田恒利(?~天文7年(1538)3月or天文17年(1548)):生年不明。死没期日他説もあり、情報不足の人物ながら。■池田恒利とは、滝川貞勝の次男。池田政秀が娘の養徳院に、婿養子として迎え入れた。天文5(1536)年、彼女は、夫有りの身ながら、問題児の御曹司赤ん坊「信長」の乳母として仕える。彼女を推薦したのは、森寺秀勝と、滝川一益ら。滝川一益の話■その1「戦国侍と茶の湯裏話」。■その2=現在シリーズのNo.12:哀れ滝川!荒木村重事件のトバッチリ!)おそらく、夫の恒利にとっては有り難迷惑。彼の情報は不思議なほどに不足。されど、いずれにせよ、その後、若くして死んでしまった。妻のご出仕を否とは言えない身。一族の滝川一益までが嫁を推薦するから仕方ない。養徳院は、夫の恒利との間、生まれたばかりの赤ん坊倅「恒興」付きの身、お子様ワンセットで奉公開始。これが、どうしたものか、なぜか、鬼の幼児「信長」は、しっくり!ピタッ!とフィットする。その為、この池田恒興(つねおき)とは、仲の良い乳兄弟。三歳年上の「信長」も一緒に、この養徳院の乳にしゃぶりついて、仲良し!(具体的には、身分が違う為、一緒に授乳は、ありえないが)恒興、14歳の時、正式に「信長」専属の遊び相手係を皮切りに、ご本人も正式奉公開始。信長は、この池田恒興(天文5(1536)~天正(1584))を臣として優遇。優遇ながら、犠牲的追従ともいえる。乳兄弟の「信長」の命令に背く要素ゼロパーセント。たとえば、上記の「信行(=信長の実弟)暗殺計画」実行の際、直接手を下した殺害係が彼。この後がお気の毒。これまた信長命令。信行の妻を、そのまんま妻として娶らされるが文句言わない。池田恒興は、最終、信長の死後、天正12(1584)年の4月、小牧・長久手の戦いに於ける長久手戦にて戦死するが、これも故人「信長」への忠義であった。その一方、養徳院&池田恒利夫婦側には、途中から、不幸が生じる・・その苦悩行程を踏まされている。赤ん坊の時から「問題児の信長」を初にしっくり愛で仕留めたお手柄の養徳院は、やがて乳母の地位から別畑に転じる。途中から・・・「織田信秀(=信長の父)」の側室に引き上げられた。前述のとおり、池田恒利(養徳院の夫)は、なんだか知らない間(1538_or_1548年)に死んでいる。死亡期日説は複数あり、定かでないが、少なくとも、離縁を必然となされた確率は否定できない。養徳院が、夫の「恒利」死後、形式的&書面上のみで、「織田信秀(=信長の父)」の側室に引き上げられた旨の解説は存じません。いずれにせよ、お家の為なれば、栄誉なのだが、恒利個人的には、お気の毒の領域。信秀の側室に引き上げられた養徳院は、「大御乳様」と呼ばれ、極めて尊重される地位につく。しかし、恒利が亡くなった後は、養徳院は、剃髪している。言い換えると、従前の夫の為に、剃髪するを許可されたともいえる。▼(尚、織田信秀の死は1551年の為、上記の話、裏付が存在せぬだけであって、実はホントに、形式的&書面上のみの側室引き上げ(=優遇の為に)であった?!の確率も一応、考察題材の片隅に、要キープ。ややっこしいが。)▼もしもコレが史実であった場合の仮定だが、そーなると、養徳院は、織田信秀(=信長の父)に対して、貞操のままに子「信長」を育てた聖母!!みたいな!<処女マリア様がキリストを産んだみたいな!!>上記は、もちろん飛躍話にすぎないが、いずれにせよ、養徳院の存在たるや、「信長」にとっては、恰も聖母のごとく。人を信じることができぬ男「信長」にとって、乳兄弟の「池田恒興」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.22<No.23(現在頁)<No.24
2013.09.08
織田信長の屈折幼少体験,母と乳母と愛と歪,大勢の乳母を次から次へと首に追い込んだ鬼の赤ん坊_その訳,織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,織田信長の限界_弦が散切れる時No.22,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.22暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_18信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その3最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察信長流、「信じる、信じない!」の原点:幼少体験99,9999・・パーセントの狡猾さと、0.0000・・1パーセントの傾斜。 彼流の異なる聖母像<幼少体験と母>織田信長の幼少体験:母と乳母:母の愛(その続き)織田信長にとって、「狂わされた愛の形」と、「母なる人の偶像」初めから読む=No.1<前頁から読む=No.21(考察MINI表有り)全ての原因は、父「織田信秀」の離婚にある。(その続き)信長を生んだ母は、土田御前である。彼女は、継室ながら、その実は、正室同然であった。ところが、なぜ故か原因は定かでないが、戦国侍の世界なれば、よくある話。彼女は離縁されている。その後、彼女は、信長と同様、自分が生んだ子の「信行」の居城に住んでいる。そのプロセスについて、「信行」を連れて去った暁なのやら、後で呼び寄せられたのやらは判然としないが、いずれにせよ、同居しており、彼女は、「信行」を溺愛している。一般説では、気性の荒い信長を嫌い、信行を溺愛したと言われるが、もっと複雑事情が潜んでいることだろう。この一族は、他人と戦う以前に、大勢の各ブレーン、一族内に抗争&殺し合いの歴史。そしてまた、この「信行」とは、その少年時代、信長と正反対で、お行儀が宜しく、賢い。「尾張の大うつけ!=信長」と大違い。父親「信秀」の葬式の際にも、へんてこりんな山賊みたいなボロ衣装で、ぶてぶてしく登場した信長と正反対に、「信行」の品行の良さが皆の評判になった。この時、信長は、おチビ少年ならずや、17歳であり、史実の順番から察するに、嫁に「濃姫(斉藤道三の娘)」も娶った後のはずだというのに、このザマ!その態度といい、服装といい、正真正銘の「尾張の大うつけ!=信長」であった。跡取りは、「大うつけ!=信長」なんぞで大丈夫か?お家の為なれば、「信行」にすべきではないか?と、臣達が二分する騒ぎ。案の定、この「信行」は、その母「土田御前」に尻を叩かれてか、アンチ信長に化ける。反旗を翻したが、鎮圧された。されど、信長の怒りは消えない。その後、信長は仮病を使って、見舞いに呼び寄せ、なんと!殺害する。実の弟、同じ腹から生まれた弟を惨殺。9割型、謀反の種抹殺の政略上の判断だろうが、残りの1割は、幼少時から引き摺ってきた生身の人間としての嫉妬。信長にしてみれば、次から次へと乳母の乳首を食い散切りらねばならぬ不遇の己に対して、この弟は実母の愛を一身に受けて育った憎い弟。その母は、父への恨み、お家同士の恨みから、信長潰しの火元。されど、鬼の信長といえど、懊悩した暁だったのだ。疑心暗鬼なれど、母は母。「信行」の謀反の後、その母が泣いて嘆願に現れた。「血を分けた兄弟ですぞ。信長殿、この老母を救う為と念じて、どうか、弟の信行の命だけは、許してやってたもれ・・!二人共、この母の、この腹から生まれた子じゃ・・。」本来なら、この段階で、「信行」は八つ裂きにされている。ところが、困ったことに母は母。母だから。老いた母の皺枯れた手。その両手で縋りついて、ゴツゴツとした信長の手を、そっと握った。その手の上に、ポタリ、母の涙の雫。信長は、この日まで、母の手の温もりを、知らなかったのだ。途端に心臓に穴があいた。ところが、母の言葉に、母の涙に、判断がぐらついた。▼しかし、信長の性格。寝ても覚めても、生かしてやった「信行」の存在が気になる。謹慎を装うも、それは偽りにきまっている。必ず、再発する!・・・こうなると、もう眠れない。ここにも、神経質な信長固有の習性が露出。母は母だから、母を悪魔だと思いたくない。だが、どう考えたところで、弟なんぞは所詮、操り人形。火元は母。されど母・・・。ぐらぐら~~、心が揺れる。▼されど、振り切れ!雑念を払え!信長は、己に審判を下した。仮病を装い、「信行」を呼び寄せ、襖の裏、刺客を!!「兄上、お加減はいかがでござりましょうか。血を分けた兄弟故と、母上が・・。」言い切る前に、一刀のもとに、「信行」は、斬り伏せられた。この憎い弟に、これ以上、母のハの音さえ語るは許せぬ!こやつから永久に母を奪い取れ!!即ち、織田信長は、母の愛に呪われて育った!!されば、誰も信じない!信じさえしなければ、なにひとつ期待することもない。振り切れ!己を立て直せ!アレは母でない!!期待さえしなければ、裏切られて、絶望のどん底に陥ることもない。▼愛の形に歪みを生じたままに育った織田信長!愛情コンプレックス!乳母「養徳院」と、臣なれど、乳兄弟「池田恒興」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.21<No.22(現在頁)<No.23
2013.09.08
織田信長の屈折幼少体験,母と乳母と愛と歪,前科者の赤ん坊伝説,大勢の乳母を次から次へと首に追い込んだ鬼の赤ん坊_その訳,織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,織田信長の限界_弦が散切れる時No.21,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.21暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_17信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その2最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察初めから読む=No.1<前頁から読む=No.20織田信長の屈折幼少体験_母と乳母と愛と歪鬼の赤ん坊伝説の訳、大勢の乳母を次から次へと首!に追い込んだ鬼の赤ん坊乳母の乳首を食い散切った前科者の赤ん坊!!織田信長の幼少体験:母と乳母:母の愛織田信長の幼少時を知るに、それは、まさに「母の愛に欠乏して育った怪獣」である。幼年期の悪行なら、まだ解りやすいが、彼の場合、赤ん坊の頃から、前科一犯、二犯、三犯!彼は、とんでもない赤ん坊!乳母の乳首に噛み付くこと限り無し。中には、食い散切られた犠牲者まで居る。単純には癇癪持ちの赤ん坊と言われるが、それだけではなさそうである。後述しますが、昔は、離乳期が遅い為、幼いなりに本人の意思、拒絶が絡むはずだ。その為、乳母が次から次と、入れ替わり、その度に、皆、被害者。とんでもない「妖怪赤ん坊」である。赤ん坊につき、さすがに殺人まではやってないが、残虐男「信長」の異名は、この段階にして、早々に開花している。裏切り者は許せない!嘘つきは裏切り者と同じ!抹殺してやる!・・の信長思想が、なぜか、既に鎌首を擡げている。▼愛情コンプレックス。信用コンプレックス。安らぎコンプレックス。実に変!な赤ん坊。▼信用できるか否か!乳母の己に対する心服が、偽りなれば、容赦なく制裁処置。制裁処置とは、乳首に噛み付く!のである。噛み付くだけならまだいいが、中には、食い散切られた犠牲者も居る。おっそろしい赤ん坊。乳を与える者とは、自分より身分が低い事を、まさか、判断できるわけはないが、自分のほうが優位にある事だけは、早期に気づいている。(離乳期が遅い為、赤ん坊ではなく初期幼児期も授乳を受けている為)ところで、なぜ、赤ん坊のくせに、乳首を食い散切る歯があるか?について。▼これは、殆ど伝説混じりだが、一応、それによると、「生まれた時から歯が生えていた!」ということになっている。これは、織田信長に限らず、昔の妙に強い男に、この伝説がつっくいている人物は、他にも居る。因みに弁慶も、そう言われている。・・いかに強い男か!その証としての逸話にすぎないが。しかし、これを冷静に考察するなれば、離乳期の違いである。現代と異なり、離乳食が発達してない為、昔の人は、随分、長い間、母乳のお世話になっている。バブー!以外の日本語、今日なれば、パパやママ、お水、だっこなどに匹敵する初歩的日本語の破片を、幾つか喋れる年齢になっても、母乳。▼即ち、赤ん坊から幼児に育つ過程の信長は、各々の乳母が、皆、気に入らないのである。偶然ならず、明らかに、幼児なりに、彼の意思。偽りの母、偽りの愛に拒絶反応。▼新規雇用の乳母達は、皆、齧られて、痛い目にあわされる事実を知っている為、当然、警戒。こうなってくると、彼女達の本音としては、心底可愛いわけはない。(偽りの愛)仕事だから、義務だから・・仕方ない。お家の為に。乳母の地位を確固とすれば、実家の一族に光が刺す。その為、本来なれば、彼女達も必死なのである。とはいえ、この場合だけは特異。大抵の女性なれば、皆お手上げ!!すると、展開はこうなる。▼いかに偉人の子といえど、所詮赤ん坊から幼児に育つ過程の子供。日本語をもって、実の親に直訴できまい・・・と考え、対応するはず。そこで、必然的に、冷たさが、滲み出る。案外、人間とは、この年齢でも、本能的に、ニセモノの愛が解るかもしれない。おそらく、抱き方に変な力、加重を体が感じることだろう。ことあらば、引き離そうと、構えているような・・。これは、安堵感の境地に程遠い。理屈抜きで、本能的に感じるはず。赤ん坊は、自分を育てた者の拒絶感が、体感として漠然と体に染み込むと言う。▼この段階の信長は、赤ん坊に毛が生えた程度といえど、早速、暴君振り発揮!!気に入らん者には体罰。それが、乳首食い散切り行為。おっそろしい限りである。上記だけ読むと、半分以上、ピンとこないと思うのですが、ヒントは、初に彼が乳母として認めた養徳院殿にありました。この養徳院殿が、彼の乳母になった時、信長の年齢は三歳である。三歳であれば、自主性、及び、選択の意思は十分にある。全ての原因は、父「織田信秀」の離婚にある。信長を生んだ母は、土田御前である。ところが、彼女は、離縁されている。本文の前に、以下にご参考用に、簡単な表を添付します。織田信長「幼少時の屈折」:キーワードを母に絞り小MEMO■織田信長:【天文3(1534)/5/12or28or~天正10/6/2(1582)】■織田信秀(=信長の父):【永正7(約1510※1)~天文20/3/3(1551※2)】【※1】生年多説有り:◇永正5年(1508)、◇永正8年(1511)他【※2】没年多説有り:◇天文18年(1549)、天文21年(1552)他信秀の妻達◇正室:織田達勝の娘 ◇継室:土田御前(信長と、信行【=信長の弟】の母):【?~ 文禄3/1/7(1594)】その実、正室同然だが離縁。以降、信行と共に末森城に住む。一般説では、気性の荒い信長を嫌い、信行を溺愛したと言われる。◇側室:・■織田敏信の娘,・■池田政秀の娘(養徳院殿【=モト信長の乳母】:後で側室に。(永正12(1515)~慶長13(1608))・■岩室殿(岩室孫三郎次盛の娘)・・他織田信長にとって、「狂わされた愛の形」と、「母なる人の偶像」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.20<No.21(現在頁)<No.22
2013.09.08
織田信長純情反面鏡_純情裏返しの残虐,信じる信じない!の原点,最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察,織田信長の限界_弦が散切れる時No.20,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.20暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_16信長流、「信じる、信じない!」の原点99,9999・・パーセントの狡猾さと、0.0000・・1パーセントの傾斜。織田信長:純情反面鏡「純情裏返し」_その1最期に手繰っていたモノと、幼少体験と母の偶像考察「」初めから読む=No.1<前頁から読む=No.19以上、前述各頁:No.1~No.19にかけて、織田信長のあまりにも激しすぎる「彼の所業」の様子をご案内しました。No.1~No.4にかけては「浅井長政」のラストの様子を反面鏡にして、浅井長政の首級と、信長に於ける「裏切り者の定義」と残酷処置の様子を書きました。それは、敵将の首級を、髑髏盃に加工して、臣に見せ付ける残忍の極み、異常な行為。滲み出るこの「憎悪感」は、一体、何に由来するか?それは、彼流の「屈折した正義感」。彼流には、これが「裏切り者」の定義であり、それに対する当然の仕打ちであり、次なる者への見せしめ。恐怖で人を君臨する。第三者には理解できぬ彼流の極端な行動は、彼の内面に潜む「固有の悲しみ」の裏返し。それが、幼少体験。(後述)恐怖で人を君臨する彼のキャラが自身の磨耗を招く彼は、生きてる限り、ただの一度も油断できぬ人生だった。瞬きもせず、周囲を睨み続けて、一人の人間が、疲れないわけはない。明らかに消耗している。隙を見せぬ為に、酒も、まともに飲まず、いつも肩に力入れて・・・。彼は、優れた臣を登用するが、側には置かない。助言できる能力を有する者が側に居ると楽なはずが、彼はそれを欲しない。すぐ側に置くのは小姓ばかり。一時は小姓が100人近く居た時期さえある。これは、単に男色だけの目的ではない。(少しはあるようだが)・・・しんどいのだ!!役には立つがしんどい曲者よりは、たかが小姓とて、そのほうがマシ。小姓なら肩が凝らない。相手の腹を読む透視眼も不要だ。それが、彼の生き様に見える。助けて貰う事よりも、しんどい苦痛を回避したい。誰も信用できぬままだから。そのかわり、解決も判断も全て、己一人で賄わねばならぬ。されど・・・たかが一人の人間、一人の力。一人の体力限界。その信長のお気に入りは、敦盛の舞。口癖のフレーズは、そこに由来する。人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり ・・・死のうは一定、★しのび草には何をしようぞ。まさに、これは、「信長の神経限界線」を物語る。案の定、死期の前兆には、不思議な行動を見せている。その話は、No.5から順次、ご案内しました。そのひとつが、死の前年のお盆、なぜか、政商「津田宗及」に、引き換え条件無しで、彼に返してやったお宝の「名茶器_文琳」。▼この茶器を押収した訳は、暗黙に人質同然価値の担保であった。政商として優遇するその引き換え条件は、無理難題の押し付け。そして、担保の意義は、他の有力者にけっして靡かぬように、人質同然の価値。信長は、彼から、店一番の家宝を奪った。故に、商人は屈服追従。それが発端。それだというのに、なぜか知らないが、天正9年(1581)8月2日、無条件で返してやっている。張本人の津田宗及が腰を抜かしている!!どーゆー風の吹き回し?なんとなく不吉!!▼案の定、翌年、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変。・・・あっけなく、この日、織田信長は、明智光秀の刃に斃れ、死んだ!死のうは一定、★しのび草には何をしようぞ。まさに、死の前年の盆、しのび草に返してくれた「名茶器_文琳」であった。人生50年の詠いが口癖の男は、偶然、まさに人生50年で幕を引いた。時に織田信長49歳。鬼のごとく、限りなく人から奪い続け、人の命も何万人単位の驚異的数値で奪い続けた男が、なぜか、こうして、人に幸を与えている!!安堵感を返してやっている。信長は、人を信じない。戦国侍は皆そうだが、彼の場合、極端。No.5から順次、「仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長」の様子をご案内しました。17歳の少年織田信長の怒り!後で射殺されたお坊さんの例(フロイスが語る秘事件:年表にない秘事件宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!聖職者に対する「理念上の踏み絵」▼神だの、仏だの、居るのか居ないのか、白黒つけてみろ!!・・といった形。「実は神も仏も居ませぬ。私は嘘つきです。私は民を騙しました!」・・と自白させたい。それが、信長が行った二事象であった。上記の二つの例、なんちゅう無茶苦茶は、信じる事ができる者への嫉妬に発する、信じさせようとする職業の者、即ち、僧や伴天連への憎悪の仕打ち。この憎悪感の内訳は、 99,9999・・パーセントが、政策上不都合な宗教への怒り。されど、残りの0.0000・・1パーセントは、私的な嫌悪感。 屈折した彼流の嫉妬と言える。▼信じる者に嘔吐感を覚える。破壊してやりたくなる。彼の内面に潜む心の鏡。何を根拠に、そんなに信じ切ることができるのだ?何故に、救われる?!・・・なんぞと、軽薄に口走るのじゃ?その幸せそうな顔はなんじゃ!その満たされたごとく安らかな眼差しは、何物よ?極楽浄土だの、ハライソだのどこに有る!!あるわけない!!救われてなんぞいない事、貴様自身に、思い知らせてやる!宗教なんぞ、所詮、坊主も伴天連も、貴様らは皆、まやかしじゃ!ペテン師目!詐欺師目!神を持たぬ男が、「0.0000・・1パーセントの私的嫌悪感」で、怒り、嫉妬している。己の宿命は、酒もまともに飲まず、瞬きもせずに、始終周囲を睨みまわせねばならぬ。対して、この連中は一体なんだ!妙に満たされ、妙に安らかな眼差し、幸せそうな顔!その彼は、死期が近い頃、不気味な変遷。彼自身、気付かずして、魂が浮遊している。気付かずして、心の叫びは、きっとコレだろう。極楽浄土だの、ハライソだの、所詮、有るわけないが、その妙に安らかな境地は、何処から出やる?!嘘でもいい、幻でもかまわない!安らかな境地は、何処に?・・・<その為、詠い舞うは、いつも「敦盛」>人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり ・・・死のうは一定、★しのび草には何をしようぞ。(魂の浮遊!!誰も信じない男の由来は、恐らく、遠い昔、幼少体験!!本気で何かを信じて、何かを期待して、裏切られた悲しい体験と無関係ではあるまい。信じさえしなければ、なにひとつ期待することはない。期待さえしなければ、裏切られて、絶望のどん底に陥ることもない。彼は、そんな「悲しい呪文」を自分自身にかけた・・そんな過去を背負っていまいか? どうやら、それを紐解くキーは、幼少体験:母と乳母:母の愛にあるようだ。幼少体験:母と乳母:母の愛サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.19<No.20(現在頁)<真上NEXTボタン=No.21
2013.09.08
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.19,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.19暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_15信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長オルガンチノのご受難(その8)夢の城「安土セミナリヨ(神学校)」は、脆くも「砂の城」・・束の間の夢「砂の城」=織田信長の突然死!(その続き)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.18その一方、オルガンチノ、ご本人さんのその後天正15(1587)年、秀吉による禁教令のおかげで、悲壮なことに。とりあえずは、小西行長の機転で小豆島に暫し潜伏。されど、天正18(1590)には、どうにか許され、京都に戻り、秀吉にも会っている・・・が。この背景には、以外な人物が活躍している。▼秀吉の耳元、根気良く、じわじわ作戦を展開していたのは、前田玄似であった。前田は元、織田信忠(信長の倅:本能寺の変の日、戦って無念の自刃。この頁:No.3)のお抱え茶坊主。前田は、信忠の倅、赤ん坊の「秀信」を抱いて大脱走。その後、生き延びて、ちゃんと秀吉のお側に仕える身。話上手で、図体はでかいが、物腰柔らかく、おもろいキャラ。秀吉のお気に入り。その彼が、それとなく、ボソボソ、根気よく、じわじわ秀吉のお耳に入れ続ける。「ああ、あの異人どんも、今や、すっかり年老いて、ただの老人ですワ。」「だいぶ、耄碌して、あの体じゃ、祖国に帰るも、もう無理でしょうな。・・らしいですヨ。」秀吉は、すっかりこの戦法にひっかかった。「さようか、耄碌した伴天連か・・。しゃあないのう。確かに、そーなると、哀れじゃのう。そうじゃのう、たかが、老人よのう。まあ、ええわ!」オルガンチノ耄碌説をアピールしたのは、前田玄似であった。秀吉の同情を誘う作戦成功。▼その後、年老いた元伴天連「オルガンチノ」は、京都にひっそり?と・・・老後を暮らす!?・・・否!これぞ、世紀の大芝居!実は、ひっそりと老後!・・・とはフェイント。「老いて、人畜無害!の蓑」を被って、その実、ここから先が彼の正念場。老いて尚、禁教下、密かに洗礼を授ける。その数、京都近郊だけで、約500人と言われる。▼その後、彼の死は、慶長14(1609)年。死没は長崎。この地、日本に、骨を埋めた。オルガンチノ:(1533~1609:76才。)イタリア生まれ宣教師。▼彼を支えた男「高山右近(1552~1614)」は、慶長19(1614)年の徳川家康の禁教令によってマカオに追放される身。現地到着まもなく、死亡の悲劇。彼は、オルガンチノと同様に、暫し、小豆島に潜伏した仲間でもある。不幸中の幸い、オルガンチノのほうが先に天昇した為、この高山右近の終焉悲劇を知らずして、天に昇っていった。今日、それらしい要素が臭うのに、尻尾を出さない不思議な「切支丹臭い侍&商人&民」の多くを、晩年の彼が、水面下で、抽出していたことになる。そーゆー侍は、いくら掘っ繰り返しても尻尾を出さない。何を調べても、一度も本人はそうだと言っていない。勿論洗礼ネームも不明。こうなると、オルガンチノとは、歴史を混迷させてくれた人物!ともいえるが。それにしても、よくぞ、頑張った。彼の命は消えても、彼が浸透させた教えは、潜み隠れつつ、人の心の中、ご健在。以外な人物が、心にマリア様を。また、隠れキリシタンという程でなく、なんら宗教儀式も痕跡も見せないわりには、状況判断の基準が、どうにも、キリスト教を齧ってはいまいか?と感じさせる一族を生み出している。因みに、上記の前田玄似が抱いて脱走した赤ん坊の「秀信」は、完全に切支丹大名。可愛そうに清い彼は、関ヶ原の際、20台前半、若くして天昇。石田三成の西軍だったから。斬首は免れたが、そのわりには、早々、なにやら変!にぴったり「病死!」。「変な病死ピリオド」は、家康流。(彼の話は、石田三成特集「石田三成と「狂言袴」」前半に、主にあります。)また、森蘭丸が、実は切支丹ではないか否かと現世、論争があるようだが、彼本人は尻尾出してないが・・・彼の傍系子孫の一部が、幕末会津に居り、案の定。親族の一部が、徳川時代前期、ひっかかって処刑された者が居る。その傍ら、温情にて許された近親達の子孫の行動基準が、ハテ?、キリスト教を齧ってはいまいか?状態の人物が幕末に見える。(この系統の話:「幕末玄関口」に色々あります。)これは、彼の子孫に限定した話ではなく、全般的な話ですが、どうも臭う!怪しい!不思議だな!と感じた人物の子孫が、アレレ!明治の禁教高札取り下げの途端、キリスト教の人になっている例は、多数ある。神父さんになった人も居る。不思議なことに、彼らの語りに、実はうちのご先祖さんは、実はうちの家系では歴代、このように密かに・・テンテンテン!とそのノウハウを語ってくれている本は、私は今だ見たことありませんが。永年、徳川の禄を食んだ一族の身として、早々に語るは問題あったのでしょうか?さて、前述各頁の展開のとおり、織田信長は、死期に至る頃、用心深く見ると、やや不気味。彼らしくない、鬼の織田信長にしては妙な行動を多少見せている。それが、織田信長、対マリア様、99,9999・・パーセントの狡猾さと、0.0000・・1パーセントの傾斜。次のページには、純情反面鏡「純情裏返し」・・・最期に手繰っていたモノと、幼少体験考察。その話に繋ぎます。サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.18<No.19(現在頁)<No.20
2013.09.06
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.18,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.18暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_14信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長オルガンチノのご受難(その7)安土セミナリヨ(神学校)建造(その続き)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.17ここで、ダメモト!オルガンチノは、織田信長に打診した。・・・ここにセミナリオを建造したい!・・・と。驚いたことに、信長は、即答だった。OK!!(無論、水面下で、高山右近がせっせと動いた結果だが)織田信長は言った。ジャストここではなく、琵琶湖湖畔、埋立地の最良地を与えると。そこも安土城下の地であると言う。▼嘘じゃなかった。信長の行動は早い。まず、ご当地の管理に、専用奉行が任命された。菅谷九右衛門達、三人がまずは到着。埋め立て地の工事と、オルガンチノの意思を最も解せる男「高山右近」も、やってきて、彼ら関係者の当面住居の手配も進んだ。オルガンチノは、当初、京都にセミナリヨを建てようと、チマチマ、材料を集めていたのだが、その材料は、全て、上記の予定地に運ばれた。資金は高山右近がドガン!と出した。善は急げ!高山右近は「信長の心変わりが発生する前に、やっちまえ!」とばかり、凄いスピード。工事の人夫1500人を雇い、即効で動かした。まるで夢の城。あっちゅう間。落成まで、なんと約1ヶ月の猛烈スピードであった。天正9年(1581)、安土の地に、セミナリオが完成し、創建されたのだった。思えば、実に不思議だ。荒木村重事件は、同天正6(1578)年末に始まり、終焉は天正8(1580)年の夏。後始末と、当該親族の処刑パレードの渦の中、同一年の天正8年秋から、強烈スピードで、この学校は創設されてゆく。しかも、荒木事件は、人事でなく、前述のとおり、オルガンチノはトバッチリで、散々脅迫されて滅入った張本人。荒木村重事件:■謀反開始=天正6(1578)年10月~■謀反終焉=天正8(1580)年7月▼こしてみると、高山右近の行動力は凄い!!オルガンチノも絶句。さっそく学生募集。このセミナリヨに寮生として住み込んだ者は、約30人と言われる。他にも影響多大の人物が、大勢居る。彼らはここで学んで、おおいに吸収していった。されど、運命は「砂の城」=織田信長の突然死!夢の城「安土セミナリヨ(神学校)」は、脆くも「砂の城」・・束の間の夢「砂の城」=織田信長の突然死!オルガンチノの夢は、「夢は夢」で終わった!・・・織田信長の突然死!万事水の泡天正10(1582)年6月2日、本能寺の変にて、織田信長は明智光秀に討たれ、あっけなく世を去る。信長の財産、「安土城」は炎に焼き尽くされて、跡形もなく崩れ去った。それに伴い、オルガンチノの安土セミナリヨ神学校も、同時の宿命。炎に飲み込まれて消えた。(場所は現在、推定地に公園有り)まるで夢幻。束の間。極めて短命のセミナリヨだった。天正9年(1581)に完成したばかりの当学校は、翌年天正10(1582)年には、燃えて灰に化す。信長の死後、オルガンチノの活躍は、豊臣秀吉時代も、暫し続くが、天正15(1587)年、禁教令が降って沸く。この間、安土の地から消えたセミナリヨは、九州に逃れるようにして転々。初めは高槻に移転してたが、上記のとおり、天正15年の禁教令には太刀打ちできない。その痕跡は、長崎、有馬、加津佐、天草などに見えるが、これも、慶長19(1614)年の徳川家康が発した禁教令によって、完全にお陀仏。日本史上から完全に抹殺された。その一方、オルガンチノ、ご本人さんのその後サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.17<No.18(現在頁)<No.19
2013.09.06
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.17,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.17暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_13信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長オルガンチノのご受難(その6)安土セミナリヨ(神学校)建造初めから読む=No.1<前頁から読む=No.16織田信長は、高山右近を、信じた。無論、本人の宗教観念は、ストッパーだが、彼には、珍しく、一人の男「高山右近」を信じた。(この段階)そして、その高山が賞賛する宣教師、オルガンチノを見る目も改めた。無論、政治上、うまく利用したい目的が大半を占めるわけだが。彼にとって煩い宗教勢力を制する、都合の良い別の「カミサマ」が便利だから。毒には毒をもって制する。己が押さえつけて屈した男、オルガンチノと、高山右近が広める「カミサマ」は、都合の良く使えるはずだから。居ないけど、居ることにしてやろう。そのカミサマを。キリスト教布教を公認した。因みに、オルガンチノは、織田信長没(=1582)後だが、彼は、天正13(1585)年、信長の三男「信孝」、及び、娘「冬姫」の夫「蒲生氏郷」に。その後、文禄元(1595)年、秀信(=信長の孫)に受洗させている。他人は別問題としても、織田ファミリーに、こうして浸透してさせてゆく点は、かなり重要キー。それはさておき、キリスト教布教公認の際、お邪魔虫登場。それは、法華僧の「朝山日乗」。信長は、政策上も便宜上も、この法華宗を重宝している。潰すと不便。これには、前述のフロイスの語る「信長17歳時秘事件」のとおり、信長は、早期に、懲りて頭打っている為、二の轍を踏むわけにはゆかない。法華宗は必要なのだ。ところが、この「朝山日乗」の猛反対が煩い。「伴天連登用とは何事ぞ!」両者に、会わせて宗論させたりしてるが、結果、面倒臭い。時間の無駄。織田信長流。「朝山日乗」は罰せられて、追放処分で、事片付けた。キリスト教公認政策=99.999・・%は、織田信長流の作戦。ところが、不思議だ。目をこらしてみると、残りの0.0000・・1%は、信長の心理に影響を齎してしまった点が存在する!こと、一般的に見落とされている。これについては、後述します。まずは、その後の「オルガンチノ」と、夢の城「安土セミナリヨ」の展開概要を、ざっくり流します。▼天正8(1580)年、ゴキゲンの信長は、オルガンチノと、穏やかなる談話タイムを設けた。この時の様子は、ほんの少しだけ不思議。だいぶ、リラックスしているのが解る。信長は、従前のフロイス時代も、対談しているが、その際の状況と比較すると、違いが解る。フロイスとの初対談の際、信長は、まず、フロイスと親しい「和田惟政」らと彼が食事する様を、物陰から観察している。様子を確認してから、或る程度、友好的を装いつつ、嘗められてたまるものか!とばかり、随分力んだ形で接し、必要以上に、威厳をばらまき倒して、「俺様に、謁見させてやる!」・・・の形をキープした。ところが、今度は違う。オルガンチノが持ってきた地球儀を見て、彼の話す世界の話を、猜疑心無しで、熱心に聞き入る。「地球が丸い!」という事実も、信長は、なんら抵抗なく、即座に理解を示した。これが、「0.0000・・1%の信長心理傾斜」の序曲。当時のキリスト教布教作戦の一環として、ひとつの特色がある。「信じなさい!信じなさい!救われる!祈ると救われる!神は居る!」・・・と言えば、いきなりアレルギー&拒絶を示す層に対する特効薬を保持している。 ▼それが、科学や、世界情報の供給。▼無知文盲の貧しい民や、哀れな老人達と異なり、権力者や、インテリは性質が悪い。彼らは警戒路線100%。猜疑心も同様。これじゃ、浸透するわけない。「異国のカミサマなんぞに、いちいち救っていらんわい!!」一蹴して、露骨に拒絶する。ところが、上記、特効薬の効能は著しい。科学の話は、インテリ層の吸着剤。「なるほど、それだけは、大切な真実じゃ!こりゃ、役に立つ話じゃ。もっと学びたい!!神様がどうした、こうしたの話は、適当に喋りたいなら喋らせておけばよい。それで、気が済むなら、お安いこっちゃ!・・・聞きたい分野だけ、聞き取って、その知識を奪い取ってやろうじゃないか!」▼実は、この時、織田信長もそうだった。ところが、「地球が丸い!」の話を、斜に構え、ホーホケキョ!と嘗めて聞いていた彼の反応が、途中で変わった。彼は、解説を深く聞き入って、最後にこう言った。「なるほど、理に叶う。」「ふ~む、こいつら、役に立つ知識も兼ね備えておるのう。ふむ、おもろいではないか。とことん、都合良く使ってやろうじゃないか・・・。・・・俺は料理されるわけはないが、丁度いい。万民、民共が、あの煩わしい旧来の宗教から離脱してくれるなら、こりゃ便利じゃ!雑草駆除に、こりゃ、最適じゃ!居るわけないが、居ることにしてやろうじゃないか!そのカミサマを!」信長は勝ってるつもりで、「0.0000・・1%!」だけ、既に料理されている。▼この話は、こちらの頁▼をご参照下さいますと解ります。▼布教の効率上、神父達が、科学を教えた話と、その効能。【参考頁】=松永弾正久秀特集No.33の下側補足枠=「天主教と、侍精神の自己葛藤」の枠国民性の違い、儒教思想の国に、独特のブレンド。儒教思想のみでは、受け入れ難った要素、たとえば、自然科学など、宣教師は、これを、伝え、直接教えた。科学の話は、インテリ層の吸着剤、効果抜群。宣教師の知識は、かなり高度。科学や歴史の話は、聞き入る価値絶大。なぜなれば、その話の中には、もれなく、造船、海戦術、武器弾薬知識も、てんこもり。▼ふむ、役に立つ分野だけ、いいだけ喋らせて、知識を奪い取れ!!・・信長の魂胆。ところが、魂胆のつもりが、ここに「聞く耳を持ってしまった!」ことになる。学びに向かわせた臣の心に、知らず知らず・・・密かに浸透してくる。▼尚、セミナリヨでは、科学や西洋史の他、専門家を呼び寄せ、芸術として油絵なども指導している。因みに織田信長の肖像画を描いた画家は、「ジョヴァンニ・ニッコロ」と言う。この絵は、皆様にご存知信長の日本画よりもだいぶ信長は二枚目。鋭い印象は同じく強いが、神経質そうでイヤな印象が弱いのが特徴。かなり精悍そうなイメージです。さて、だいぶ、お話が、脱線しましたが、地球儀持参でやってきた「オルガンチノ」と「信長」ご対談のその後の運びを、以下に。▼この後、信長は、「オルガンチノ」を、自ら、安土城と、その城下町見学に連れ出した。ここで、ダメモト!オルガンチノは打診した。・・・ここにセミナリオを建造したい!・・・と。 サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長の限界series目次<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.15<No.16<No.17(現在頁)<No.18
2013.09.06
信長:信じる信じない!,屈折の温情と憎悪,織田信長の限界_弦が散切れる時No.16,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.16暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_12信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!オルガンチノのご受難(その5)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.15ここに、荒木ネットワーク&包囲網に大穴が開いた。高山右近は、一人だけ降らずに、茨木城を守る「中川清秀」を説得して、共に降った。中川は、荒木の従兄弟である。荒木にしてみれば、まさか!の瞬間である。因みに、中川は、今回の戦で、鎮圧軍の「和田惟政」を殺した張本人。和田とは、オルガンチノ時代の前、フロイスの代からこの地に於けるキリスト教支援を徹した男である。それでも、敬謙なる信者である高山に説得されて降った。これは、荒木にとって、予想外の大ダメージ。▼おかげで、この後、荒木の陣は、恰もドミノ倒し。信長勢に押され、押され、本人は、足出纏いの女子供をその城に置いて、次の城「尼崎城(嫡子の村次の城)」、次の城「花隅城(荒木元清が守る城)」と移動して、立て直そうと謀るが、全然ダメ。そのたびに、女子供が捕らえられては殺される。それは、何百人の単位である。・・(荒木村重の謀反経緯(荒木特集(No.5)ご参照:荒木村重の謀反の経緯と動機それでも、荒木村重本人は逃げ切った。本人が毛利の里に逃走した後も、惨状は、まだまだ続いた。捕縛された親族郎党の悲劇。この惨状描写は、史実に残る。女子供だから、皆泣き叫ぶ。悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかり。見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。MORE=荒木特集(No.3)こうして全て、終わった。鬼の織田信長「オルガンチノ神父」を脅迫事件!が。■結果として、「オルガンチノ」の決断は、大勢の民、彼らの命を救った。■結果として、「高山右近」の決断は、勇敢であり、正しかった。しかし、いかに、民達に感謝されど、オルガンチノも、高山も心中は真っ暗闇。清い信仰心と裏腹、現実には、黒い駆け引きを飲んだのだ。心は晴れない。ギリギリの精一杯だったのだ。信者は救えど、荒木の遺族を黙殺した己が苦しい。また、高山は侍だから、理由がなんであれ、直属の上司を売った男のレッテルを自ら背負う。考えたくもないのに、ふと「ユダ」の名が、脳裏に浮かんでは消える。苦しい。ところが、ギッチョン!!・・鬼の織田信長は、その別名は、なんと「正直者の信長!」だった!?えっ!!えっ?有言実行!?・・って何?まさか、一匹憑いたか?超ゴキゲン!の織田信長えっ!何のことやら!「オルガンチノ」も「高山右近」も、「ロレンソ」も、目が点になった。確かに苦汁を嘗めたが、まずは大勢の信者の命を救ったのだから・・それだけが、彼らの心の救い。利害も駆け引きもなかった。ところが、不気味だ!薄気味悪い!織田信長は、満面笑顔。大いに喜び、彼らを褒め倒す。そして言う。「俺は有言実行じゃ。武士に二言は無いぞ!!」▼なんのこっちゃ!!▼そういえば、確かに、言っていたかもしれない。「約束は約束」だと・・。「結果で示した者には、それを認める」と。客観的に見ると、不気味だが、織田信長とは、正直者!!???・・・でもある。純心!!???・・・でもある。織田信長とは、人を人と思わない。人を恐怖で君臨する。しかしながら、それは、紙一重!!彼流「裏切り者」と、「嘘つき」の定義:No.8:ご参照裏切り者は許せない。「嘘つき」は八つ裂きに!それだけなら、まあ解らぬでもないが、・・できるわけのない無理難題を押し付け、強制的に約束させてしまう。相手は、にっちもさっちもいかない。YESと言おうが、NOと言おうが、どっちに転んでも殺される。必然的に、嘘をつく。怖さあまって、震えながらYES。にもかかわらず、裁定は容赦無し。結果が凶と出れば、問答無用。それは、もれなく、「裏切り者」であり、努力したが力及ばず、約束を果たせなかった者も、正真正銘の「嘘つき」に断定されてしまう。・・もれなく、斬首台か、磔台が待っている。尋常じゃない!▼ところが、その裏表紙は、イコール、恰も無邪気な要素もある!!無理難題を押し付け、人を恐怖で縛り上げて、強制するわりには、その裏返しは、▼常識的に考えて、多分、不可能だろう!の困難事象を、奇跡的に、見事クリアした者には、惜しげなく与える。喜びを隠さない。鬼の織田信長とて、奇跡的に、夢をかなえてくれた者には、惜しまない!!▼丁度、小姓の森蘭丸「刻み鞘刀の授与」事象(=No.9)と、原理は同じである。あの時も、そうだった。あの時の様子を傍で目撃した茶坊主は、開いた口が塞がらなかった。あの・・信長が!鬼の信長が、微笑んでいたのだ。茶坊主は、後にも先にも、信長のこんな顔を見たことがない。信長の微笑みは、彼の胸中をそのまま語っていた。俺は、今、お前を信じたい。蘭丸よ、信じた結果を裏切るなよ!!・・・おう!蘭丸よ!・・・そなたは我の夢を叶えてくれたのじゃなァ!信じてよかったぞよ!良い子じゃ!正直な子じゃ。そなたに、この刀を授けよう!いつも眉間に皺を寄せて、神経質丸わかりの青筋立てて、ギリギリ、歯軋りすることさえある男。その男が微笑んだ。この時の状況も、なぜか、それに似ていた。「オルガンチノ」も「高山右近」も、「ロレンソ」も、面食らった!!嬉しいが、面食らった!!・・・狐に摘ままれたような!薄気味悪い。下心やら、悪魔のような引き換え条件が潜んでいるのやら、否や、夢のような世界が始まった!安土セミナリヨ!建造サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.15<No.16(現在頁)<No.17
2013.09.03
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.15,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.15暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_11信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!オルガンチノのご受難(その4)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.14オルガンチノは、窓を開けて外を見るなり・・・もう、限界だった。▼目下には、十字架そっくりの形、磔台が既に50台ばかり完成して、立ち並んでいる。「犠牲は己のみでないのだ!!・・・罪のない女子供達、可愛い神の子、信者達が無差別で捕らえられて、次から次と殺されてゆく!!」・・・懊悩のオルガンチノは、ついに唸った。「神よ、神よ、なぜに、貴方様は黙っておられるのですか?どうか、今こそ、お声を聞かせて下さいませ!」昨日まで一緒に祈ってくれた信者が全員、逃げ去ってくれたなら、この苦しみは、いっそ、マシだったかもしれない。こんな悲惨な状態だというのに、今だ、この場を去らず、一生懸命に祈る信者達の姿がここにある。50台以上の磔台が目の毒だ。このままでは、彼らは、もれなく、そこに血を見ることになる。今、目の前に居る可愛い子供まで!!日本人修道士:ロレンソ彼の側には、ロレンソと言う名の修道士が居る。彼は日本人。フロイスが、この地に居た頃、日本語の語学力がいまひとつ不足なフロイスは、このロレンソを山口から呼び寄せた。オルガンチノも同様に、日本語ペラペラではない。まして、政治が絡むから、複雑な日本語はちんぷんかんぷん。そこで、ロレンソは、通訳兼、補佐である。彼は、この地に留まり、オルガンチノを支えてくれている。言うなれば、全部、ロレンソの犠牲的忠義に頼っている形と言える。懊悩のオルガンチノ。それだというのに、またしても、あの音が始まった。「トンチン、カンチン、~~~!」・・・朝から晩まで、トンチン、カンチン!ふと、音が止む時、必ず、またしても、ひとつ、ふたつ磔台が増えてゆく。この音響効果は、織田信長流の「大脳ハンマー打ち」、心理作戦である。オルガンチノの脳は破裂寸前だ。一睡もできない。音が止んだ瞬間のほうが怖いのだ。見たくなくても、その度、窓を開けて見ずにはいられない。不気味な磔台がいくつ増えようと勝手じゃ!と我に鞭打ち凄んでみるが、だが、もしも、そこに、たとえ一人といえど、はり付けられていたらどうしよう!!情けないが、神父様といえど人は人。ノイローゼ状態に陥る。「犠牲は己のみでない!!・・・罪のない信者達、女子供達!」・・・懊悩のオルガンチノは、もう限界だった。悪魔の織田信長から、ラストカードが降ってきた。「この警告が最後じゃ。万事、あんたしだいだ。俺は、どっちでもかまわぬ。俺は、あんたを信じたいと思っているところじゃがのう・・。信者を生かすも殺すも・・万事、あんた!の決断じゃ!!信者共の血を見るも、見ぬも、あんたの自由じゃ!!」早い話=イコール、高山右近を崩し落とせ!!荒木村重を裏切って、今すぐ降伏すべく命令せよ!・・・それが信長の脅迫状!!そして、後で思うと、確かに、こうも言われていたようだ。「もしも、無事、ヤツをくどき落としたら、約束は約束だ。武士に二言は無い。」されど、そこらのニュアンスは、オルガンチノの語学力では、パーフェクトではない。破滅寸前だったのは、オルガンチノだけじゃない。仲介のロレンソは、より一層悲惨かもしれない。もうダメだった。オルガンチノは、ロレンソと相談の上、高山右近を呼び出した。丁度、高山右近も、切望の境地。神父様にお会いしたい。いつも祈っていたところだった。両者の対談場面が無事、成り立った背景は、言うまでも無い。信長がツラッと、右近の動きを見て見ぬふり。暫し、放し飼い。▼効果有り!ロレンソは言った。「いくら説得しても、荒木さんが、解ってくれないのなら、仕方ありません。勇気を出して、貴方は、彼と離れ、織田信長に降伏しなさい。」▼ここに、高山右近は、信長に転んで降った。▼それは、あまりにも哀れな姿。彼は剃髪していた。武士の誇り、髷を切り捨て、甲冑も脱ぎ捨て、惨めな丸腰。刀も捨てて、紙衣ひとつの姿であった。家臣も所領も家族も全て捨てるつもりだった。勿論、己の命を引き換え条件にして、彼らの命のみを守るために。ここに、荒木ネットワーク&包囲網に大穴が開いた。サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.14<No.15(現在頁)<No.16
2013.09.03
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.14,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と「織田信長の神経限界線」_No.14暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_10信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に「踏み絵」させた信長【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。一種の目に見えぬ「踏み絵」を!オルガンチノのご受難(その3)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.13般若面に豹変した信長が、オルガンチノを睨みつけて、こう言う。「正念場じゃ!白黒つけんかい!!あんたの神様とやらが、居るのか居ないのか!!・・・所詮、どっちでもいいがのう、結果で示さんかい!!」オルガンチノは、一言も喋る暇がなかった。そして、信長は不気味な笑みを浮かべ、今度は薄気味悪い猫撫で声で、こう言う。▼「誰しも、罪のない女子供の呻き声は、聞きとうないわのう。生きながらにして焼かれ、呻き泣くらしいわ。あんたの可愛い信者達、さあ、どうする!」▼その途端、今度は、音声効果の心理作戦。信長は、音声の低い、高い、小さい、巨大!をぐらぐら揺す振る。脳にスクリュー攻撃。小さくなれば、聞き漏らすまいと、つい、耳を傾ける。うっかりYESと言えば一大事だから。その隙に付け込んで、途端に、鼓膜が爆発寸前の爆音で喚く。▼動転するが、開き直ろうとすると、またしても不気味な小声に切り替わる。▼小声の部分にこそ、一大事の重要キーワードを忍ばせ、途端に、鉄扇を叩き、即時決断を迫る。YESか、NOか、即座に返答せよと喚くのだ。聞こえもしないのに、答えるわけにいかない。尚、このぐらぐらスクリュー攻撃は、現世でも、宜しくないお方がお使いになるそうです。皆様、火の用心。▼・・こうして織田信長は、あの手、この手で、オルガンチノの心理を撹乱させてくれる。「貴様のばらまいた「神さん」とやらは、皆殺しの神さんだったのか?!・・否!と申すなれば、立証せよ!『神よ、救いたまえ!』だの、へちまとぬかすなれば、実際、「救いたまえ!」とやらを実現させてみろよ!!」また、始まった。信長流!お坊さん&神父さん相手のおっそろしい「踏み絵」▼<神様とやらが、居るか居ないか?誠か否か?立証せよ!=精神的「踏み絵」>=■実は不可能なれば、今すぐ己の嘘つきを自白せよ!神様を踏んで蹴れ!=■それを拒否するということは「絶対に神は居る!」と申すのだな。立証せよ!架空が許せない。無いのに有ると言う。ハライソだか、天国だか、へちまだか!居ないのに居ると言う。神様だか、なんじゃらほいだか!救えもせぬくせに、「救われる!」と、のたまう!その虚勢が許せない!(・・・もしも、事実なら、寧ろ、盲目的に信じたいもんじゃ!)されど、コレをお坊さんに処したあの頃(17歳の少年時代:結果、銃殺)・・昔の信長と、今は異なる。政治上の天秤、十分、老獪男に化けている。<これについては、No.5、No.8からご覧下さい。>即ち、織田信長は、白黒つけろ!と言っている。神が居るのか、居ないのか?教えとやらは、出鱈目か否か!とはいえ、凶暴の裏返しが純情だった頃の少年時代と違う。今や、冷静悪魔。仮に居ることにしておいて、役に立つ神なら、居ることにしてやろう!・・・といった魂胆。いつの間にか、般若そっくりの信長の顔が、オルガンチノの目の前。こんなもんは、直近距離で見たくない。身がすくむ。その上、ドデカい声で大恐喝!今にも、鼓膜が破れそう。大脳が破裂しそうだ!!それでも、オルガンチノは、この晩、与えられた住居に戻るなり、神に祈った。事情を察した信者も密かに集まり、一緒に祈ってくれた。「祈りましょう!祈りましょう!皆で祈りましょう!・・どうか神父様!我らも、神の子です。一緒に祈らせて下さい。」・・・一人、二人、皆がやってきた。ところが、織田信長とは執念深い。おちおち、祈ってられなくなった。昼も夜も、不気味な音が響く。それは、捕縛された荒木の親族郎党の犠牲者達の叫び声ではない。彼の居る高槻の住居、その近くで、なにやら、変!な大工事が始まったようだ。「トンチン、カンチン、~~~ッ!」・・・朝から晩まで、トンチン、カンチン!すると、どうでしょう。窓の外は、とんでもない景色。▼ひとつ、ふたつ、三つ、四っつ・・・な、なんと、変!な物質が立てられて、並んでいる。▼案の定、使者がやってきて、おっそろしい文が届いた。脅迫状以外の何ものでもない。「高山右近を、くどき落とせ!さもなくば、まずは、事始めに、高槻領内の切支丹を全員磔に処す。・・見るがよい!あんたらの大好きなアレ!を、たっぷり製作してやるからのう。安堵せよ!あんたは、まだ大丈夫じゃ。あんたには、その姿を、たっぷりと見せてやる。信者達の呻き叫ぶ声を、聞かせてやろうじゃないか。彼ら切支丹共は、高槻城の前、集団処刑じゃ!!」これは、信長が信長である以上、口先の脅し文句じゃない!オルガンチノは、ロレンソから、比叡山の焼き討ち事件他、あらゆる信長の野蛮を聞かされた。知ってはいても、語学力の限度から、今、こうして詳しく噛み砕いて通訳してもらわないと、解らなかった内面が多すぎたのだ。今になって、初めて、その底恐ろしさが幾つも見えてきた。 信長は、まだまだ、しつこい。・・・毎日、毎日、わざと時間をかけて、あの工事。朝から晩まで、あの音が鳴り響く。信者も腰を抜かして、一人、二人、逃げ去ってゆく。▼窓を開けて外を見るなり・・・もう、限界だった。▼目下には、十字架そっくりの形、磔台が既に50台ばかり完成して、立ち並んでいる。・・懊悩のオルガンチノ。「犠牲は己のみでないのだ!!・・・罪のない女子供達、可愛い神の子、信者達が!」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.13<No.14(現在頁)<No.15
2013.09.03
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.13,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.13暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_9信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!オルガンチノのご受難(その2)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.12:こーした第二、第三の犠牲者の一人に、な、なんと、オルガンチノ!!ところで、肝心要のオルガンチノ、彼に振ってきたトバッチリは、信長流「脅迫作戦}!!オルガンチノは、キャラとして、威圧感のない男。身長まで存知ませんが、多分、ギョッ!とするような異人さん特有のドデカいタイプではないはず。その上、いつも笑顔で、ソフト。怖い外国人が、初めは笑って、やがて日本を食い殺す!といった当時の皆さんのイメージに全然結びつかない。その為、皆の評判宜しく、親しまれた。ところが、これが禍した。▼怖くない男とは、裏を返すと、いつの世も!・・・イヤなヤツに狙われる。イヤなヤツ!とは、この場合、悲しきかな、織田信長であった!!織田信長は、このおとなしいタイプの異人さんに脅迫作戦を!!布教の為なる威圧なれば、身を犠牲にしても戦い貫くが宣教師の掟。ところが、この場合、ちょっと違う。完全に、お騒がせ男「荒木村重」のトバッチリであった!!結果は、高山右近の活躍で、幸い、ギリギリセーフ、命拾いだったが、仮にここで死んでいたら、これは洒落にならない。聖なる殉教・・・と言える程、カッコイイ死に方でなくなってしまう!!実は、信長に脅迫されて、屈して、手を汚した・・・ともいえる。荒木村重の謀反,事の経緯(荒木特集(No.5)ご参照:荒木村重の謀反の経緯と動機■謀反開始=天正6(1578)年10月■謀反終焉=天正8(1580)年7月最期の砦=花隅城【荒木元清が守る城】が、天正8(1580)年7月2日に落城にてEND。■但し、本人は、脱走。■但し、この後も、捉えられた罪の無い親族=女子供、脱走者、匿った者達の処刑パレード。■MOREは▼まず、荒木ブレーンの城は以下のとおり。即ち、その配下に、高山右近が居る。荒木ブレーンの城■高山右近(高槻城)、■中川清秀(茨木城)<親族&身内系>■有岡城(本人居城)、■尼崎城(嫡子の村次の城)、■花隅城(荒木元清が守る城)高山はキリスト教徒。荒木がついにキレた訳も解らぬでもないが、ここで反旗を翻すはあまりにも危険だと、必死で諭すが、受け入れられず、仕方なく、従う形で謀反ブレーンの一人となった。ところが、悩む。そこで、神父にご相談。それが、オルガンチノ。神父は言った。「荒木さんに、貴方が、いくら説得してもわかってくれないのなら、仕方ありません。勇気を出して、貴方は、彼と離れ、織田信長に降伏しなさい。」▼さて、上記だけ読むと、カッコイイ神父さん。▼ところが、ギッチョン!コレには裏事情があった!!・・鬼の織田信長「オルガンチノ神父」を脅迫事件!!オルガンチノは、信長に呼び出しを食らった。「おい、そこの異人さんよ、俺様が誰だか知っちょるのう。あんたさんの宗教とやら、信者とやら、俺の決断如何で、どうなるか?・・・解っているじゃろうのう。」この頃、既に、次から次へと、荒木の親族達が、磔犠牲、血が流されている。この背景下での脅迫。この一件、全然関係ないのに、信長は、オルガンチノを利用しようと考えた。オルガンチノは、「お門違いじゃ!」叫びたいが、つべこべ言える状態ではない。信長の顔は、般若そっくり!!その顔で、再び、信長が言う。「あの高山右近っちゅう男、あれは、確か、あんたが仕込んだ切支丹じゃったのう。」▼「えっ!・・それと、あれが、一体どんな関係が・・・。」・・・オルガンチノ絶句。すると、信長は、ガンガン攻めてくる。「よいか、俺に、同じ事を、二度言わせるなよ。ご忠告までじゃがのう、俺に二度言わせて、首が胴に繋がった男は、今だかつて、一人も居ない・・からのう。それは、そうと、あんたの宗教とやら、この国に害を齎すなれば、どうなるか?・・・確か、言ったよなあ。あの男、高山はあんたの子分・・・っちゅうこっちゃ。そして今、その子分が、謀反人の手伝いをやっちょるのじゃぞ!!★されば、おぬしは、今すぐ、何をすべきか!!」信長は、目玉をギラギラさせて、睨みつけてくる。オルガンチノが、震えていると、突如、語勢が変わった。大音響!大渇が降ってきた。「やい!そこの伴天連よ!磔台の連中、その姿を見たじゃろうが・・。次は、貴様の番じゃ!」されど、こうなると、宣教師の血が燃える!殉教なんぞ怖くない!!されば、我を殺すが良い!・・・日頃、おとなしくても、いざ、この場面にくれば、宣教師は強い。黙って、信長を睨みつける。すると、どうだろう。またしても、大音響!大渇!「俺を嘗めるなよ!磔台の世話になるのは、貴様一人じゃないぞ!▼あんたが仕込んだ連中、全員、女子供の果ても全て同罪じゃ!草の根分けてでも、全員掘り出して、殺してやる!・・・よいか、耳の穴、かっ穿って聞くが良いぞ!貴様が、ばらまいた下らん宗教のせいで、そうなるのじゃ!!・・・即ち、殺すのは俺じゃないぞ!罪の無い女子供の果てまで、皆殺しにするのは、貴様自身じゃ!!正念場じゃ!白黒つけんかい!!あんたの神様とやらが、居るのか居ないのか!!・所詮、どっちでもいいがのう、結果で示さんかい!!」 そして、信長は、またしても声のトーンを変えて、不気味な笑みさえ浮かべ、囁く。「俺は、こう見えても、優しい男じゃ。結果で見てやる。武士に二言は無い。」途端に、彼特有、甲高い笑い声。まるで悪魔!!サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.11<No.13(現在頁)<No.14
2013.09.03
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.12,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.12暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_8信長流、「信じる、信じない!」の原点■屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち、■仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長初めから読む=No.1<前頁から読む=No.11前頁迄の項:【1】_17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんの例現在頁以降の項:【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!今度はフロイスの後釜「オルガンチノ」がご受難!!フロイスは、慎重に動いて織田信長に接近作戦。なかなかの実績を。協力者として、和田惟政や高山右近などもゲットして事旨く運んだ。しかし、和田が戦死した時は嘆いている。「これで終りだ。私は彼を失った。」それはさておき、天正4年(1576)7月、彼は九州に去る。後釜は、オルガンチノ。フロイス:(1532~1597)ポルトガル生まれ宣教師。オルガンチノ:(1533~1609)イタリア生まれ宣教師。フロイスは、いい時に去ったものだ。とはいえ、けっして楽して遊んだわけじゃありませんから、こう言うと、語弊ながら。少なくとも、この一件、不幸中の幸い。彼は畿内に発生した竜巻に飲み込まれずに済んだ。▼というのは、天正6年(1578)、畿内一円は、荒木村重の謀反事件の渦に!!荒木については、真下バナーからどうぞ。荒木ご本人は死ななかったが、彼の巻き起こした事件のおかげで、巻き込まれた人々の領域は果てしない。無抵抗の女子供親族&家臣の同様女子供家族、&彼ら女子供の管理係の侍。これは、侍といえど、事務係、庶務係タイプだから、侍にしては、線の細いタイプと少年小姓等。戦にも、謀反にも全然無関係タイプの者が500人以上、大量虐殺された。▼犯人は、勿論、織田信長。謀反人の親族郎党なれば、見せしめ!!竜巻の外周で、飲み込まれた他の犠牲者ところが、これだけでない。匿った者、同情した僧侶など、犠牲者の円周の輪は、さらに広がる。問答無用。彼らも火あぶりに、磔に、斬首・・・と残酷オンパレード。謀反人に対する織田信長の姿は、まさに妖怪オバケ!!残虐の帝王。▼黒田如水:説得係が、獄に放り込まれた!この時、他に大迷惑を食らった者の一人に、黒田如水が居る。荒木のおかげで、身障者になってしまった。説得の為に派遣された彼は、心にキリスト教を秘める者。親切心だというのに、荒木によって、檻に放り込まれた。狭く身動きできず、その上、不潔な環境。彼の足は、動かなくなってしまった。その後生きるが、影で皆に「黒田のチンバ」と呼ばれた。滝川一益:処刑係の白羽の矢!イヤな仕事!大迷惑!トバッチリ関係ないのにトバッチリの犠牲者は、ここにも一人。その名は「滝川一益」。彼は鎮圧軍として、信長に派遣された。戦は仕方ないが、この後イヤな仕事。▼彼の隊は、荒木の親族郎党処刑係に回された!「えっ!?ちょっと待って下さいよ。それは、畑が違うでしょ。本来の担当へどうぞ!」とは言えない。なんといっても、処刑当該は、大量人数だから、臨時に、こんな災難まで降ってくる。兵の処刑なら、戦の延長戦なのだと、己に言い聞かせ、腹を括って頑張るが、相手は、泣き叫ぶ女子供。これは辛い。信長の命令に従うなれば、人数が多い為、一人づつ斬首してたら日が暮れる。信長の得意技命令が降ってきた。「公開処刑、斬首用の主流親族、及び重臣の女房共36人を除き、他の連中は、生きたまんま、小屋ごと火炙り、丸焼きにせい!」・・・彼の隊は、こんな仕事まで、やらされた。(一回で終わればいいが、荒木本人が次の城、さらに次の城と逃走する為、その度に、現場に置き去りにされた親族が発生。伴って、この迷惑仕事も、再びやってくる!施工係の下っ派侍は、耳が散切れそうだ。罪悪感で発狂寸前。赤ん坊の泣き声まで聞こえてくる。耳栓が欲しい!・・許されるなれば、この場を逃げたい!!仮病を使いたい!▼されど、仕方ない。私情を堪えて、タッタカタッタカ、小屋に薪を積み上げる。火をかける!途端に、大絶叫と、悲嘆の声!!、か細い女の泣き声。思わず、両手で耳を塞ぐ。▼そして、あえて冷静を装い、現場監督:ふんばり構える隊長「滝川一益」・・・(可愛そうに、滝川という男、人生、ついてない男)どっからともなく聞こえてくる。「なんて残虐!」「あんまりだ!」「酷すぎる!」・・・「俺じゃないぞ!俺も犠牲者だ!」叫びたいが、まさか言えない。滝川一益について: ■戦国侍と茶の湯:裏話特集No.2:織田信長と「珠光小茄子」と滝川一益■シリーズ目次は、頁下バナーところで、肝心要のオルガンチノ、彼に振ってきたトバッチリは、信長流「脅迫作戦}!!サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.11<No.12(現在頁)<No.13
2013.09.03
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.11,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.11暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_7信長流、「信じる、信じない!」の原点屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長補足:織田信長の爺や「平手政秀(1493~1553)」の自刃の訳:再考察<前頁から読む=No.10【1】_17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんの例(前頁の続き)平手政秀は謎の自刃。信長の教育係。小説の世界では、信秀葬儀(1551年)の際、阿呆みたいな振る舞いの信長(前述)に手を焼いて、更正を遺言に自刃。そこで信長反省のストーリー。これは、今日、事実無根とされており、実は重臣達の派閥争いに負けての結果であるか、または別の説、平手の倅「汎秀」が迂闊にも打倒信長派のチームの密会議に出席、それが露見して、倅のミステイクを侘びて、自刃で落とし前つけた・・などの説が有力。しかし、こうしてみると、先祖代々、織田家の寺、その寺の坊さんを射殺してしまった信長の不始末とは、そう簡単な事では、すまなかったはず。結果、信長が相続すれど、「信行(信長の弟)」擁立派が、黙っているわけない。▼平手が腹を切って、終わらせ、この事件を隠蔽!!に持ち込んだかも?▼その為に、この一件、真相不明なのかもしれない・・・と、ふと感じられぬでもない。他言無用のお家の秘密!!和田惟政は、徹底的にフロイスに協力していた人物の為、こうした他言無用のお家の秘密とて、密かに明かした可能性は否定できない。<時期的要素の各事象見比べ検討>■平手政秀死亡の1553年とは、信秀葬儀の1551年から一周忌無事通過後。平手らは苦心して、信行擁立派を抑え切った。その為、無事、信長が実権。稼動している。僧侶射殺事件が、仮にこの頃と仮定して考察すると、確かに、信長は、20歳と若いながらも、17歳の小僧ならずや、権限を確固とした頃合。信長が兵を動かし、射殺命令を下すは可能である。■射殺の方法が、本来の信長にしては姑息。外から兵に数名銃撃させて終り。即ち、権利は得たものの、中途半端な年齢=若い&青い=経験不足の証。堂々開き直ってる壮年時なら、こんな手段使わない。堂々、彼得意の全員丸焼き!作戦踏み切るはずだから。戦には出てますが、戦では経験豊かな家臣がリードしてくれる。私的に兵を動かす経験がまだ乏しいのが丸見え。▼となると、この考察値は、ますます解りやすい。■因みに、信行は、弘治3(1557)年、兄の信長に殺される。■信長とは非常に執念深い。過去の恨みに、ぐんと後に、実行する習性がある。たとえば、1556年の恨みを、1580年に晴らしている例がある。弘治2(1556)年、「林通勝」は、「信行擁立騒動」の主犯格。その時剃髪で許されたものの、なんと!天正8(1580)年8月、追放処分されている。弘治2(1556)年の謀反時、信長は、怒り狂い、自らその手で、林通勝の弟「林美作光春(通具)」の首を、林通勝の目の前で掻き切って見せ付けている。弟は、あくまで付録。兄のせいで、こうなった。通勝の自責は言うまでも無い。失意の彼は、おとなしく、屈服して、剃髪した。されど、それで終わっていなかった!!忘れた頃に降ってきたのが追放処分。こうした例も含め考察すると、僧侶射殺事件は、ジャスト17歳の時ならず、数年後の確率は非常に高い。となると・・・ますます、平手政秀に係る謎の自刃が気になる!!それはさておき、フロイスは、賢い!(この宣教師さん、冷静。危ない橋渡るを回避!!フロイスは、この話を冷静に聞き取って、心中、分析。せっせとメモる。危険度が高すぎるから、彼の動きは慎重。ダイレクトに「神を信じなさい!」という形では一度も信長に迫っていない。(賢い!)それだというのに、運命は!ぐんと後の時期、欲せざるタイミング、宣教師仲間のオルガンチノが信長に呼び出されて、「危ない橋渡る」を強制される!!殆ど脅迫!!(後述)今度はフロイスの後釜「オルガンチノ」がご受難!!【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を! _ _ _サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.10<No.11(現在頁)<★NEXT:No.12
2013.09.01
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.10,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.10暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_6信長流、「信じる、信じない!」の原点神仏相手!に、「踏み絵」させた信長:無神論者の自己葛藤屈折の信長流正義感無理難題と、強制的約束:対して、憎悪と温情:両極端!初めから読む=No.1<前頁から読む=No.9【1】_仏相手に踏み絵をさせて、案の定、惨殺した信長・・・17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さん仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長(前頁の続き)屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち【1】_17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんの例前頁から読む=No.9たかが17歳の少年。しかも、見た目は他兄弟に劣る。噂どおりの「大うつけ!」。はて、お坊さんは、「大うつけ!」と侮ったからなのか、それとも、その場の殺気を回避する為、震えながらYESと答えたか?そのいずれかは不明ながら、この凶暴性に満ちた少年が、真剣勝負であった事を見落とした様子。結果、僧は射殺された。それは、極めて短い会話。「父は助かるか?祈祷の結果、父は助かるのか?」「きっと、助かりましょう。御仏のご慈愛なれば・・。」▼これが、まさか、少年「信長」の真剣勝負とは!!「大うつけ!」風の少年が発した言語の真意は、大体、以下の意味合いだったと思われる。▼<仏とやらが、居るか居ないか?誠か否か?立証せよ!=精神的「踏み絵」>=■実は不可能なれば、今すぐ己の嘘つきを自白せよ!仏を踏んで蹴れ!=■それを拒否するということは、「絶対に仏は居る!」と申すのだな。立証せよ!信長の父「織田信秀」死亡時の話(織田信秀の死について、死亡年月日には諸説有りながら、とりあえず。)天文20年3月3日、信長の父、織田信秀が死んだ。死因は疫病とされる。この時、信長は、約17歳。この期の彼といえば、「尾張の大うつけ」で有名。葬儀の場に於いても、目を覆うような「大うつけ振り」をやらかす。これは、小説などの描写も各種あって、定かでないが、一般的に有名な話を先に。■織田信秀(=信長の父):【永正7(約1510)~天文20/3/3(1551)】・・・生年も、没年も他他説有りながら、一般的に言われる期日を記載しました。▼一般的に有名な話葬儀の場だというのに、彼は、気恥ずかしいへんてこりんな山賊みたいな狩用着物のまんま、腰には帯ならずやボロ縄巻いてやってきて、焼香の砂を祭壇にぶっかけた!・・と。その際、信長の到着が遅い為、代理としていち早く駆けつけた弟の「信行(※)」が、品行旺盛に、着付け正しく葬儀の衣装を着て、かしこまって座っていた・・と。(※)尚、この信行は、弘治3(1557)年に、実の兄、信長に殺される宿命の人物。母の土田御前は、実母でありながら、素行の忌まわしい信長を嫌い、いつも良い子の弟「信行」を可愛がっていた。(利害もあるはずですが、一般説)ところが、この話よりも、気になる話=フロイスの語りこの話:信長が、ペラペラ自分でフロイスに語るわけはないから、出所は、おそらく、高山右近か、和田惟政あたりと想定される。和田は、無念ながら洗礼の日迄決定していたが、1571年戦死。荒木村重と共に謀反の反旗を翻した中川清秀に首を討たれた。和田は、信長より4歳上。フロイスと親しいのは、高山も同様ながら、古い話を漏らす率としては、情報不足の和田側が確率高い。フロイスが聞き知った昔の「信長(17歳時)とその前後」エピソード織田信長は、父「織田信秀」が死ぬ時、僧侶を呼び、父の存命を祈祷せよと命じた。その後、信長は、僧侶に尋ねた。「父は回復するか?それともダメか?」▼すると、僧侶は、こう答えた。「きっと、回復なされます。御仏のご慈愛なれば。」▼しかし、数日後、父は死んでしまった。▼【ここから先が凄い。】怒った信長は、祈祷を行った当該の僧を全員引きずり出して、寺に押し込め、家来に命じて、寺の外から、数人を射殺させた。▼(怒りの概要はおそらく、こんなかんじ)▼「 仏なんて居ないじゃないか!嘘つき坊主め!どうせ、『極楽浄土』なんて、出鱈目じゃろう!あるわけない!インチキ坊主め!」▼17歳にしては、幼稚なのか?よく言えば、純心だったのか?・・従来より、死後の世界や信仰に懐疑していたか・・?射殺事件の詳細は不明。フロイスの語りが唯一。即ち、織田内部側は必死の隠蔽であろう。その為、射殺事件期日が不明だが、この段階信長に実権は無い為、数年後と考えられる。そこで、次頁に考察枠設定しました。確かに気になる点有り。補足:織田信長の教育係「平手政秀(1493~1553)」謎の自刃の訳:再考察サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<・・<No.9<No.10(現在頁)<★NEXT=No.11
2013.09.01
信長屈折の正義感,憎悪と温情,信じる信じない!の原点,織田信長の限界_弦が散切れる時No.9,無神論者の自己葛藤戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と「織田信長の神経限界線」_No.9暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_5信長流、「信じる、信じない!」の原点神仏相手!に、「踏み絵」させた信長:無神論者の自己葛藤屈折の信長流正義感無理難題と、強制的約束:対して、憎悪と温情:両極端!初めから読む=No.1<前頁から読む=No.8「正直」と「嘘つき」:森蘭丸「刻鞘の刀」授与の挿話・・悲しからずや、誰をも信じない男「信長」の「ほんの一瞬夢遊び」森蘭丸が小姓になって間もない十代前半の少年時代のこと。おそらく13歳か14歳。織田信長は、数人の小姓を集めて、自慢の刀を見せて問う。ゴキゲン時でありましょう。「この刀に、刻みの数は幾つあると思うかのう?見事言い当てたら、その者にくれてやるぞ!」皆は、それぞれ、山勘で回答していた。ところが、森蘭丸だけは、うつむいて答えない。そこで、信長が、蘭丸に問う。「なぜ、そなたは答えぬ?」すると、蘭丸が言った。「なぜなれば、私は存じております。数えたことがありますから、知っております。知っていながら、申すは卑怯と思ったからです。」信長は驚いた。すると、再び、蘭丸が言った。「殿が、厠(=おトイレ)に入られた時、殿は、私にその刀を渡されました。その間、私は・・・数えて、答えを知ってしまったのです。」▼上機嫌の信長は、この刀を森蘭丸に与えた。「そなたは正直者じゃ。その正直が良い。されば、そなたに授けよう。」▼信長の内面に、柄にもなく潜む「純情場面」一例であります。▼但し、これも、おそらく信長流の「確かめ算」。信長は知っていたと思います。おトイレの間、蘭丸は暇だから、多分数えたであろうと、蘭丸を試したのでありましょう。好感の持てる子だから、信じたい。何事も無用心に信じたりしない男が、信じたい!の場面。本音は、信じたいのだ!「手放しで信じる事ができる境地が夢」なのだ!人だから。案の定、蘭丸はその夢をかなえてくれた。信じてやりたい男「蘭丸」は、ホントは人を信じてみたい信長の夢を裏切らなかった!!信長は、自覚せずして彷徨える人。無意識に手繰っている。無条件で信じていい「モノ」を夢見て、「架空」を条件に敷きこんだ領域内に限り、心遊んでいる。即ち、森蘭丸「刻鞘の刀」授与実話とは、孤独な男「信長」のままごと遊びにすぎない。・・ほんとは知っていたくせに。ほんの一瞬、夢浮遊。架空が許せない。無いのに有ると言う。居ないのに居ると言う。救えもせぬくせに、救われる!と、のたまう!その虚勢が許せない!・・・もしも、事実なら、寧ろ、盲目的に信じたい!後述しますが、彼には、コンプレックスが。適切な言語がみつかりませんが、愛コンプレックス、信じる?信じない!コンプレックス。・・・幼少体験に由来するような気がします。(後述)ここで言う「信じる」とは、宗教とか信仰とか具体的な存在を示唆するでなく、もっと原始的。日常的。恐らく、遠い昔、恐らく、幼少体験、本気で何かを信じて、何かを期待して、裏切られた悲しい体験があるのだろうと思われる。ターゲットは、人なのか、物なのか、事象なのか・・・そのへんは解らないが、何かある。今日の社会犯罪の中、異常なほどに、極度の純情派が、突如、凶悪犯に。そのケースも有る。私は、織田信長を、異常者とは、全く思っていないのですが、彼の残虐は、▼彼の残虐性は、政治的効率上のモノになる以前の段階、遠い昔、心に傷を負ったことが由縁ではなかろうか?・・・と感じています。上記のとおり、根本は、おそらく幼少体験と推定されるが、それが入ると、話が複雑化しますから、まずは、上記の「2つの事象」、白羽の矢、犠牲の「お坊さん」と「伴天連」の例を、以下にご案内します。それでは【1】_17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんの例。引き続き、【2】_宣教師オルガンチノに無理難題。言うなれば一種の目に見えぬ「踏み絵」を!仏と異国の神相手!に、「踏み絵」させた信長屈折の信長:無理難題と、強制的約束:憎悪の仕打ち【1】_17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんの例ずっと後、壮年時代の話だが、信長はフロイス(宣教師)に語っている。「死んだら、その先は無い。それまでだ。」▼フロイスは記に残した。・・「信長という名の男は、死後の世界を完璧に否定した」・・と。なるほど、彼の行動すべて、まるで無神論者の代名詞。理にかなう。しかし、この思想は、一体、年齢何歳の時、それを悟ったのだろうか?てっきり、これは、科学的発想で、現実先行!ドライに割り切り、あるわけ無い!の典型的な無神論者なのだろうと、私は、昔思っていましたが、どうやら、そうではなさそうなのです。▼どこかの段階、彼は心に傷を背負っている!もしかして、父「信秀」の死亡の段階、微かに期待してしまったのだろうか?悔しながらも、密かに祈ってしまったか?そんな自分が、耐えられなくなったか?_仏相手に踏み絵をさせて、案の定、僧を惨殺した信長・・・17歳の少年の怒り!後で射殺されたお坊さんサイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<No.1<・・<No.8<No.9(現在頁)<No.10
2013.09.01
信長,屈折の正義感,憎悪と温情,信長の限界_弦が散切れる時No.8,無神論者の自己葛藤,織田信長流、「信じる、信じない!」の原点戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.8暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_4信長流、「信じる、信じない!」の原点神仏相手!に、「踏み絵」させた信長:無神論者の自己葛藤屈折の信長流正義感無理難題と、強制的約束:対して、憎悪と温情:両極端!初めから読む=No.1<前頁から読む=No.7織田信長は、恐怖で人を君臨するキャラから、彼が謀反恐怖症である点は、前述延々のとおり。残虐は恐怖の裏返し。しかし、現在頁で取り上げる話は、それと異なる角度の残虐ぶりについて。解りやすいように、白羽の矢、犠牲の主例を「2つの事象」に絞って以下にご案内します。犠牲は坊さんと伴天連(外国人宣教師)。この内、後者は虎口を脱したが、お坊さんは射殺されている。政治的見解レベル以前の・・心的宗教懐疑と嫌悪これは、信長壮年時の政治上見解で、宗教団体が邪魔になった結果の有名なあの事象、比叡山焼き討ちやら、一向宗団体の集団殺戮を指す話ではない。怒りは怒りでも、政治的レベルのものでなく、もっと原始的レベル。生の人間感情が主体となったケースの例を取り上げます。両者の共通点は宗教。それは言うまでも無いが、キーワードは、「信じる、信じない。」、「祈れば救われる!」・・「目に見えぬモノがあると言う。」・・・しかも堂々と言う。団体として成り立っている以上、問答無用で、それと見なす。▼彼流の「確かめ算」。彼流「裏切り者」と、「嘘つき」の定義裏切り者は許せない。「嘘つき」は八つ裂きに!それだけなら、まあ解らんでもないが、・・できるわけのない無理難題を押し付け、強制的に約束させてしまう。相手は、にっちもさっちもいかない。YESと言おうが、NOと言おうが、どっちに転んでも殺される。必然的に、嘘をつく。怖さあまって、震えながらYES。にもかかわらず、裁定は容赦無し。結果が凶と出れば、問答無用。それは、もれなく、「裏切り者」であり、努力したが力及ばず、約束を果たせなかった者も、正真正銘の「嘘つき」に断定されてしまう。・・もれなく、斬首台か、磔台が待っている。尋常じゃない!普通なら、達成できなかった者は、過酷な判定ケースとて「能無し」のレッテル程度。解雇とか追放とか。ところが、信長の場合は、上記のとおり、それで済まないから、恐っそろしい。しかしながら、こうした彼の残酷性には、なにやら、法則性があるようだ。矛盾なれど、彼流には、ジャスト、一直線。歪んでいない。(一般尺度では、異常だが!)前述しましたが、彼は猛烈に神経が細かい。悪い側でばかり目立ちますが、稀に良い側もありまして、これは、超敏感。万民なれば感じ落とす小さな点も、この人物は感じ取ることができる。また、自身に相当厳しい。異常な程に有言実行を死守している。とはいえ、彼はガンガン嘘をつく。されど、それは政治と戦。政治の嘘は、方便であり、策であり。戦の嘘は、戦略であり、戦国侍として、上に立つ者として、正当の領域。「許す!」と称して、信じて降伏した者を、平気でその場で斬り殺すわ、銃殺するわ、・・・その残虐ぶりは手に負えない。被害者は侍のみならず、一揆に参加していた民も、彼らお百姓の母親にくっついてきた幼子も!!▼しかし、信長にとっては正当の領域。戦だから。民とて子供とて、戦に参加した以上同罪。そして、もうひとつ、勝つためには、見殺しも正当。物理的に、不可能な状態において、信長は「助ける!救う!」とは言わない。割り切って、切り捨ててもよい人物をクールに扱う場合もあるが、弟「信興」の例は、それでない。彼流には、「嘘つき」より、見殺しのほうが「正直」の定義に叶う。極端な判断を己に下してるようだ。彼にとって可愛くない弟も居たが、可愛い弟「信興」をまるごと見殺しにしている。元亀元年11月21日(1570 )、「信興」は伊勢長島一向一揆の際、小木江城にて、無念の自刃。この時、信長は、援兵を送っていない。申し訳、言い訳の捨て兵すら送っていない。救えもせぬくせに、恰も救うがごとく偽りの行為が己自身、許せないのだろう。信長は、神仏の存在うんぬんの以前に、軽々しくも、「救われる!」の言語を吐く事が許せない!「救う!」の言語アレルギー&過敏症!そこには寸分の弛みキャパは無い。ビンビンに張り詰めた弓の弦状態。これじゃ、いずれにせよ、遅かれ早かれ、彼の弦は限界を招く。必ず散切れる!異常な程に有言実行を死守している。・・・だから、有言実行せぬ「救われる!」言語は敵なのだ!!猛烈に憎い。結果として、天正2年(1574)9月29日伊勢長島一向一揆は、信長による大虐殺(一般には、犠牲者数、約二万人と言われる)をもって、壊滅するが、元亀元年(1570)の段階、信長は、可愛い弟「信興▼」を見殺しにした。※織田信興(のぶとも)( ?~元亀元年11月21日(1570 )一般的に信長は父「信秀」の二男とされている。対して、この信興は7男。相当若いはず。因みに、信長は1534生であることから、この時36歳。最終的勝利の為、兵数の損失を避けるのは手腕というが、それのみならず、これは、信長の意地。己に偽るまいとしての意地。なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズを異常に好んで詠い舞った彼ながら、己自身を極限まで、追い詰めている。(「敦盛」の舞うんぬんは、No.5~)「正直」と「嘘つき」:森蘭丸「刻鞘の刀」授与の挿話サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」・・<No.7<No.8(現在頁)<真上nextボタン=No.9
2013.09.01
明智光秀の「笹ちまき」と本能寺の変No.1,姉妹編:戦国侍ご当地戦弁当シリーズ,毛利秀元の居留守弁当,家康桃配山他明智光秀のエピソードと、「本能寺の変」考察本ご紹介,【楽天市場】明智光秀の「笹ちまき」_No.1▼【姉妹編=関ヶ原の合戦チームの「ご当地戦弁当」】【1】一柳直盛(尾張黒田藩主)の気配り弁当、【2】毛利秀元の「居留守弁当」、【3】家康ニンマリ!大垣の大柿、【4】桃配山の家康、関ヶ原の合戦&戦国侍ご当地戦弁当シリーズ■明智光秀の「笹ちまき」・★皮のまんま噛み付いたのに、気づかない!★理想主義者の夢中!■明智光秀の「汁講フォーラム」・★皆で持ち寄り飲み食いパーティー風の討論会?!!明智光秀に係るマジメな本は現在ページ下側に、他数冊あります。今回は、お気軽グルメ頁にて、軽~い話。.【彼に係るエピソードと食べ物談話】◇「汁講」フォーラム、◇連歌会と笹ちまき事件!明智光秀(享禄元年(1528)~天正10年6月13日(1582))■山崎の合戦(上記の天正10年6月13日END)で、秀吉に討たれ死亡した時、55歳と伝わる。生年は、そこからの逆算値が一般説。■尚、彼のメインイベント「本能寺の変」は、天正10年6月2日(1582)。この日、彼は織田信長を討った。明智光秀オリジナルの「汁講」★皆で持ち寄り飲み食いパーティー風の討論会教養人の「明智」の周囲には、同様に知識人が集まる。皆、風流を愛し、世を憂い、世を語る。「歌会」と称して、勿論、歌もやるが、大抵は、フォーラム状態。ところが、明智、浪人時代は、金がない。妻は、人様の前、亭主に恥をかかせまいと、密かに自分の黒髪を切り捨て、それを売って、膳のお材料費にあてた。明智、深く反省!!というわけで、結局は、客人の膳にかかる費用は、明智家負担になってしまったのだが、当初の志は、大層、宜しかった。面白い。▼「汁講」とは?当初のポリシーは、「見栄を張らず、互いに無礼講でいこう!格好よりも中身が肝心!」その為、主催者である明智家では、酒も肴も出さない。そのかわり、「汁」だけは用意しておく。そこで、この集会形態を「汁講」と称した。▼「飲み食いするモノは、皆が、それぞれ、持ち寄ろうじゃないか!」つまらんモノでも、皆が色々運んでくれば、ちょいとしたご馳走並だぞ!!当家では、味噌汁だか、雑葉汁だか知らんが、汁モノだけは、ご提供致そう!飲み食いしながら世を語ろうぞ。」▼そーゆー話だったのだが、結果は、悲惨。女房が泣く泣く、惣菜費用の為、黒髪を売るハメに。理想と現実:明智君!どうも、明智、★理想論に夢中★になって、ウカッ!と現実的要素に盲点・・その習性ありそうだ。それは、そうと、この「汁講システム」現世も、どこぞで、実行したら面白いですね。女房は迷惑に至る危険度100%ながら!織田信長討ち取り計画:決意と、連歌会凝り性の彼は、いよいよ決断すると、まずは、愛宕山に登り・・・!その際、なぜか、コレ(左画像:ちまき)が登場いたします!!明智光秀と本能寺の変実は死んでない!徳川幕府を、謎の僧姿でウロウロ!・・の説も興味深い。 _ _ _サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<【お気軽版歴史】<歴史の偉人と食べ物絡みの話題<明智光秀の「笹ちまき」<No.1(現在頁)<No.2
2013.09.01
織田信長「敦盛」の舞_人生50年のフレーズと己の反射板,浅井長政と信長神経限界No.7,信長の限界_弦が散切れる時戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.7暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_3鬼の信長、なぜか?償い_驚愕の「津田宗及」(その続き)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.6するとどうでしょう!!箱は箱でも、どこぞで見覚えのあるあの箱!!「なんだこりゃ!どういうこっちゃ?」津田宗及は、ポカンとする間もなく、信長が、ポツンと言った。「ふむ、宗及よ、これを、そなたに返すぞ。」・・それは、彼の天王寺屋家伝来の貴重な宝物まさに「名物茶器_文琳」!永い間、信長に担保として押収されたままの宝物。 ・・信長の言葉は、なんの抑揚もなく、「そなたに返す。」ただそれだけだった。ここで言う担保とは、裏切り防止の担保。これを抑えられた以上、他の権力者からいかなる誘惑を受けど、靡きたくても、靡けない。即ち、隷属だった。夢か現か?幻か?極めて、初期の段階、信長は、これを宗及から奪い取った。宗及は、威圧されて、押収された。これが無い天王寺屋家なれば、天王寺屋家とは言えない。看板あれど、そのステータスを立証できる題材が、無い。あの時、宗及は、畳に這い蹲って泣いた。ご先祖さんに向ける顔がない。侍同士の世界、同盟する時、身内の誰かを人質として差し出す。当然、ことあらば殺される。それと、意味合いは、全く変わらない。担保として取られたままだった。▼「織田以外に、けっして靡きませぬ!」・・選択肢はそれしかなかった。▼「織田信長とは、こーゆー男なのだ!こーゆー卑劣な手口の男なのだ。」ぼやいても、家宝は返って来ない。宗及は、男泣きに泣いたのだった。それだというのに、一体、これは、どーゆー意味だ?何が起きたのだ?さすがの宗及も、この時ばかりは焦った。「どーゆー意味だろうか?おぬしは、もう要らん!消え失せよ!」・・・・即ち、死ね!?の意味か??まさか!そんなわけない!身に覚えない!頭がぐらぐら、言葉も出ない。すると、もう一度だけ、信長が、言った。「宗及よ、そなたの「文琳」なれば、そなたに返す。」 それだけだった。それは盆のことだった。天正9年(1581)8月2日。翌年、天正10年(1582)6月2日、本能寺の変。・・・あっけなく、この日、織田信長は、明智光秀の刃に斃れ、死んた!宗及は、後でそれ思うと、背筋が寒くなった。織田信長の口癖。しのび草に、何をしようぞ!・・・しのび草に、返してくれた家宝「名茶器_文琳」織田信長が好んで舞った「敦盛」の舞。そのフレーズ。そして彼の口癖。人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり ・・・死のうは一定、★しのび草には何をしようぞ信長の有言実行!お盆の「しのび草」彼の魂は、去年の盆、既に、肉体を離れ、死んでいた!有言実行だった!しのび草には何をしようぞ織田信長が死ぬ前年の盆、8月2日、引き換え条件無しで、なぜか、家宝「文琳」が手元に戻されたのだった。去年の盆の入り、既に、信長は、生きながらにして、仏に化していたのだ!!残虐の帝王の異名を持つ織田信長ながら、人知れずして、懊悩していたのだ。数々の所業、それに、一人苦しんでいたのだ。神仏を嘲笑う彼ながら、やはり地獄は怖かったか?精霊流しと、精霊馬:小さいのになぜか広い!日本列島■七夕とお盆と精霊馬(日本地域毎に異なる七夕の形,考察とオムニバス次は、神仏相手!に、「踏み絵」させた信長屈折の彼流正義感無理難題と、強制的約束:対して、憎悪と温情:両極端!サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<No.1<・・<No.6<No.7(現在頁)<No.8ガンバレ命!飼い主さんもガンバ!▼
2013.08.29
織田信長「敦盛」の舞_人生50年のフレーズと己の反射板,浅井長政と信長神経限界No.6,信長の限界_弦が散切れる時戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.6暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_2鬼の信長、なぜか?償い驚愕の「津田宗及」初めから読む=No.1<前頁から読む=No.5堺の会合(えごう)衆の一人、津田宗及(?~天正19(1591))が、腰を抜かしている。当時、堺は、権力者にとっては金源。この地を握らぬことには話にならない。そこで、織田信長流、強烈威圧。永録11年(1568)、信長は、二万貫の矢銭(=軍事費)を、堺に脅迫的にかけた。「今すぐ、よこせ!」これは、言わずと知れたこと。NO!なれば、どうなるか?死にたいなら、払わんでいいぞ。と言われたのと同じ。信長が信長である以上、これは口先だけじゃない。残虐イコール信長、この法則は、誰しも知っている。皆は血の気が引いた。堺の会合衆、メインメンバー大者36人が、血相かえて臨時会議。鳩首して相談対策。二万貫とは、今日でいえば、6億円とも7億円とも!!とんでもない金額。しかし、いかに堺に富が溢れようが、もう、こうなると、会合衆はキレた。「冗談じゃねえ!!・・・仕方ない!戦うべし!」さっそく、浪人を集め、町内に塀や堀の工事を急ぎ、戦闘態勢に。その時だった、ストップをかけた男が居た。その筆頭は、今井宗久(永正17【1520】~文録【1593】)という男。彼は言った。「たかが、二万貫でしょうが!たかがじゃなくても、堺の壊滅を思えば、たかが二万貫でしょうが!・・・集団自殺して何になる!!」彼らは、もれなく豪商であり、茶人でもある。この時、その右肩として、真っ先に賛同、応援したのが、上記の津田宗及である。結果として、彼ら知恵者の機知をもって、堺は危機を脱した。この功績をもって、今井宗久、津田宗及らは、織田信長の政商として、特権を与えられ、幅を利かすことになる。この二人は、千利休(大永2【1523】~天正19【1591】)とあわせて、「天下三宗匠」と呼ばれる。暗黙に人質同然価値の担保とはいえ、織田信長流。飴と鞭どころか、鞭と鞭。磔台か、斬首台は背中合わせ。いかにも風流に茶の湯をたしなみ、笑顔をもって接しつつ、その実は、命掛け。優遇の引き換え条件は、無理難題の押し付けと、暗黙に人質同然価値の担保である。津田宗及は、家宝の「名茶器_文琳」を押収されてしまった。これは、津田宗及にとって、家宝どころの騒ぎでない。彼の看板「天王寺屋」。そのお家伝来の貴重な宝物、それが、「名茶器_文琳」。万が一、これを喪失するなれば、天王寺屋の看板は忽ち、地に落ちる。有る意味で、命よりも大切な宝であった。人質よりも痛い!!されど、一流の政商ともなれば、くじけない。信長のせいで、莫大な借金を被るが、倍にして儲けて取り返す根性は、屈しない。恐れず、自ら、さらに、どんどん献上。彼ら特権階級を得た茶人は、度々、信長に召集されては、茶会もやれば、褒美も貰えば、城の特別見学にも招待される。安土城の特別見学の際には、信長自ら、案内してくれる。その際、ありとあらゆる宝を見せ付けられるのが、殆ど通常化。津田宗及は、慢性化していた。顔で笑って、お上品に、宝物の趣味の良さを褒めつつ、実は、心で思っている。▼「ハイハイ、解りましたよ。貴方様は、お強うござんす!逆らいませぬ!・・・身にしみて解っておりまんがな。」ところが、ギッチョン!津田宗及は、腰が抜けた!津田宗及は、幾度も城内特別見学のご招待を受けている。毎度のこっちゃ。▼天正7年(1579)正月は、信長は自ら、安土城の天守閣を、案内してくれた。▼こんな事が幾度かあった。通常コースでいけば、この後は、お宝拝見、そして、もれなくお世辞を。されど、油断禁物。なんだかんだと無理難題が降ってくる。だいたい、このパターン。津田宗及は、腹を括って、今日も、そのつもりでいた。それは、天正9年(1581)8月2日のことであった。案の定、信長は、小姓に命じて、なにやら、お宝の箱を運ばせてきた。ありとあらゆるお世辞の台詞は、もう在庫が尽きそうだが、頑張って、またしても、何か褒め言葉を編み出して、言わねばならぬ。そんな程度で、構えていた。するとどうでしょう!!箱は箱でも、どこぞで見覚えのあるあの箱!!「なんだこりゃ!どういうこっちゃ?」サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」<No.1<・・<No.4<No.5<No.6(現在頁)<No.7
2013.08.29
織田信長、なぜか「敦盛」の舞_人生五十年のフレーズ,浅井長政と信長神経限界No.5,信長の限界_弦が散切れる時戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.5暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」暗示:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズ_1初めから読む=No.1<前頁から読む=No.4前頁のとおり、いずれにせよ、織田信長は、魂の限界だったようだ。恰も、虫の知らせのような。★49歳にして、目一杯に張り詰めた弓の弦が突如、音を立てて、散切れるごとく、刃に斃れ、天昇した信長。恰も、己の最期を予知したがごとくの不思議事象は他にも、幾つも出てくる。まずは、その中のひとつ、信長が好んで舞ったいう「敦盛」のフレーズ。それは、まさに、「★人間五十年、 夢幻のごとくなり」織田信長の舞「敦盛」:人生五十年思えば此の世は 常の住処にあらず草の葉におく白露、水に宿る月より猶あやし金谷に花を詠じ、栄華はさきを立って 無常の風にさそはるる 南楼の月を弄ぶ輩も、月に先だって 有為の雲に隠れり 人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか、滅せぬ者のあるべきか「天沢」という名の和尚が、武田信玄に齎した情報ご存知のとおり、戦国の世、武田信玄と、織田信長は睨み合い。互いに探る。「天沢」という名の和尚は、天台宗「天永寺」の僧。この天永寺とは、尾張春日井であり、味鏡(あじま)村である。まさに、織田信長側の領域人。それが、なぜか!甲斐の国「武田信玄」に会っている。信玄は、しきりに信長情報を掘る。語らせる。些細な事柄も、日頃の習性も。敵を読む為なれば、まずは情報。そこで、「天沢」は、色々他にも伝えているが、趣味の分野の話として、信長が「幸若舞と、小唄」を好む点を語った。師匠として、清洲の町人ながら、なかなか一枚二枚噛んていそうな人物として「松井友閑」の名も伝えた。ところが、不思議な事を言っている。▼織田信長の「幸若舞」とは、ワンパターンなのだそうだ。「敦盛」以外、舞うのは、一度も見たことがないと言う。しかも、続けざまに、二度も三度も詠い舞う。・・奇行!なのである。一匹憑いたがごとく、同じフレーズを繰り返し、詠い舞う。そして、以下二つのフレーズは、彼流のいわば口癖。耳にタコができそうだったという。織田信長の口癖人間五十年、下天の中をくらぶれば、 夢幻のごとくなり ・・・死のうは一定、しのび草には何をしようぞ信長の有言実行!しのび草には何をしようぞ人生50年を口癖にしていた男が、丁度50歳(49歳)で死んだ程度なれば、そんなものは、偶然の一致であり、どってことない!・・と考えることもできる。倅に昔話を笑顔で聞かせた晩に殺された・・それもまた、偶然といえば、そうかもしれない。ところが、ひとつ、薄気味悪い!!確実に、信長は、身辺整理をしている。「しのび草には、なにをしようぞ」と語る張本人「信長」は、有言実行していた!鬼の信長が、なんと!柄にもなく、償いをやっている!!サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集前半=姉妹編】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」<【現在特集(No.5以降)】:「織田信長の神経限界線_暗示:信長「敦盛」の舞:人生五十年フレーズ」No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)<No.6
2013.08.29
心に封印した過去の十字架,田中吉政に授けた名刀「切刃貞宗」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成の関ヶ原,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.13No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その13)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.13<石田三成の遺品について、小コラム>【1】織田秀信に贈った「狂言袴」、【2】一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その6追い詰められた「田中吉政」の立場前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.12このケースも、おそらく、答えは、★マリア様が知っている!!田中吉政の宿命はこれだった。イヤな仕事、死ぬほどイヤな仕事!それは悪魔のなせる業!かつての恩人「石田三成」を自ら捕縛して、縄打って、斬首に追い込む!・・・俺は、恰も、まるで「ユダ」!▲ユダとは:キリストを売った男田中吉政編:その直前=No.9に、このフレーズを書きました。▼されど、それを乗り切った田中の心を、石田三成は、黙って解ってくれたようだ。石田は繰言、ひとつ言ってない。▼現在頁では、その訳を解き明かしてまいります。捕手の「田中吉政」も、その立場は「囚われ人」同然徳川の足枷(腹を読まれる、お試し使用&監視の目)=障子に目、壁に耳捕縛された石田三成は、己に縄打った男「田中吉政」に自ら、名刀「切刃貞宗」を授けた。そして、猛烈に言葉少なながら、確実に礼の言葉を添えた。▼「この刀は礼のつもりじゃ。貴殿に授けよう。」(その刀については、上のリンク先No.9にあります。)この後、田中は多大なる懊悩を背負いつつ、徳川の世、生きてゆく。救いたいのに、救えなかった!それどころか、率先して、斬首に追い込む悪魔の係を演じたのだから、苦しみは半端でない。弁解一つせず黙って生きてゆく。関ヶ原の合戦後、「負将_石田三成」は、哀れ、かつての自領「古橋村」へ逃亡関ヶ原の合戦は、慶長1(1600)年9月15日。結果、石田三成率いる西軍の惨敗。負将_石田三成は、身も心も、傷ついた獣のごとく、這うようにして、かつての自領「古橋村」まで、逃れてきた。それは、恰も、死地を求めるがごとく。▼この領域は、現在の自領「佐和山」同様、真っ先に、追求の手が入るのは、解っている。それでいながら、あえて、彼は、己の最期に、この地を求めやってきた。石田三成は、デスクワーク。頭脳先行派。伴って、体は頑強ではない。小柄で細い体系。小柄といえど、骨から現代の学者が検証したところ、大体156センチ近くはあったことから、当時として、ダントツに小さいわけではないのだが、第一声に「まさか!女か?」。即ち、極度に華奢なのだ。人物の体系を想定する時の手掛かり:頭蓋骨のサイズと体の比率絵画は、あくまで絵画。けっして正確にはキャッチできませんが、ひとつの手掛かりとして。★頭蓋骨が、座高に何個縦に並ぶか?の目算すると、身長迄不明でも、小柄か否かはすぐ解る。すると、石田が小柄であるのは一目瞭然。背筋もシャキッとしてるとは言えない風。石田は40歳(※)死亡というのに、随分老け顔。確かに病弱タイプだったかもしれませんね。持病のある歴史人物は、この人に限らず、年齢不相応に老けてます。加藤とおんなじような年齢(2歳違い)なのですが老けてます。・・(※:石田の生年月不明の為詳細解らないが、事によると満年齢は39歳の可能性有り)_ _■【右】石田三成(1560~1600):骨から約156cm■【左】加藤清正(1562~1611):6尺3寸(約190cm):馬に跨ると爪先引き摺るか?と言われた:厳密には兜付の高さ描写であることから、190mc?!そこまで、大きかったかどうかは怪しいが、いずれにせよ大柄には違いない。大柄描写は複数存在。・・(余談ながら、正真正銘妙に大きい人=▼:コレ、お気軽駄話編ながら!)■美濃の蝮「斉藤道三」と下克上:・◇「戦国の超長身姫!187cmとその倅_義龍197cmの侍▼石田三成は:体は頑強ではない。:案の定!案の定、合戦の最中、体調を壊し、腹痛と闘いつつ、精神力だけで繋いできた。ただでさえ、体力消耗著しい中、単身、山中の逃亡。徒歩である。飢えのあまり、途中、民の田で稲穂を毟り、生米を食す。ますます悪化!尚、生米が、いかに体に悪いかについて:皮肉な事に、怨敵「家康」がこのとおり発言と実行エピソード!「生米食うな!の早馬」関ヶ原の合戦:「侍達のご当地戦弁当」石田三成が、ようやく、「古橋村」に辿り着いた時、・・・それは、恰も、生ける屍同然の体だった!NEXT【準備中:暫しお待ち下さい】は「韮粥と、善民「与次郎太夫」の決断・・・恰も・「ご一緒に、背中にアレを、背負わせて頂きましょう。」サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.12<No.13(現在頁)<★NEXT=真上NEXTボタン_No.14
2013.08.28
浅井長政の第二の無念と信長神経限界No.4,信長に於ける裏切り者の定義と残酷処置,織田信長,父としての側面戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.4暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」そんな織田信長_THE_END「本能寺の変」の前夜祭暗示:一人の人間が、笑顔で昔を語る時初めから読む=No.1<前頁から読む=No.3誰しも、親馬鹿。それは解るが、信長の場合、少し、いやな予感がする。ギンギンに張り詰めた弓の弦が、ついに、悲鳴を発しているような・・・!6/1の夜、信長は、村井貞勝と、倅の信忠の三人で穏やかに歓談している。随分古い話を持ち出しては、倅に遠い昔を言い聞かせている。すっかりゴキゲンの信長であった。あんまり、信長が喋るから、すっかり夜、遅くなったが、信忠は、信長の今宵の宿「本能寺」を去る。この時、信忠は、妙覚寺に宿泊している。妙覚寺に到着したら、すっかり深夜だった。まさか!そんな馬鹿な!あれは、夢か、幻か!遠い昔の話を聞かされた信忠は、うとうと・・・明け方、やっと、眠りに。まさか!の報を聞いたのは、午前6時頃であった。昨日の「村井貞勝」が血相変えて飛び込んできた。「あの後、父の信長が、明智光秀に討たれた!」・・・信忠は、我が耳を疑った。されど、直ちに手勢を率い、二条の御所に移動した。この寺は戦闘に不利と判断した為。案の定、敵が押し寄せた。精一杯に戦ったが、結果は虚しい。御所は火の海。明智勢に火を放たれた。「己の屍は敵に渡すな。縁の板を剥ぎ取り、そこに隠せ!」割腹前に、彼は、臣にそう言っている。介錯は、鎌田新介。ここで、もうひとつ、名場面がある。「この子を頼む。三法師を頼む!」・・そう語っている。それは、まだ赤ん坊の倅「秀信」である。それを聞きとめた臣とは、茶坊主の「前田玄似」。▼この茶坊主は、主君の切望の意を解するが故の最大の忠義の為に、最大の冒涜を。主君の最期を見届ける間もなく、床の間を蹴り跨ぎ、燃え盛る火の海を飛び越え、一目散に走り去る。赤ん坊を抱いて、大脱走劇を演じる。▼それが、後の世、岐阜城主となる「麗しの若殿、秀信」。(この人、ホントに美しいらしい。さて、ここで、イチャモンつけるわけではないが、歴史とは、多少片目瞑らないとならぬ要素があるようだが・・・。信忠の居城は安土城。但し、この事件は、出張先、京都であり、戦闘現場は、二条の御所。はて、ホントに、赤ん坊の「秀信」は、父に連れられて、ここに来ていたのだろうか?(案外実際そうかもしれないが?。デモンストレーションと割り切りお子様同伴だったかも?か?とはいえ、上記は、歴史の美談にイチャモンつける悪趣味で書いたのではありません。大局がそれであれば、詳細は仕方ないし、掘っても解らない。まあ、いずれにせよ、「秀信」は、茶坊主の「前田玄似」の胸に抱かれて、本来の住まい「安土城」ではなく、「清洲城」に脱出を遂げている。上記2名はどちらも実在人物。こちらのリンク先、ご覧のとおり。▼美しい若様は、関ヶ原の合戦の時、石田三成の言葉に感動して、西軍として戦う悲劇突入。▼■石田三成の「狂言袴」が悲しい!特集(戦国侍と茶の湯:裏話特集series・・・石田三成が織田秀信(=織田信長の孫)に贈った名茶器「狂言袴」魂の限界「天から拒絶された余生」悪魔のような所業、それが織田信長。されど、事件の前夜、なぜか、虫の知らせか?我が倅に、笑顔で昔話を言い聞かせていた。・・・張り詰めた弓の弦は散切れた。やはり、長くはなかった。織田信長、時に、享年49才。実は、信長、身内に限らず、第三者に対しても随分優しい側面が見える場面有り。この件は、後日、また別編でご案内しますが、彼の場合、良きにも、悪しきにも、人並み外れた神経の細やかさが見える。極度の過敏。明智に殺されなくても、きっと、このタイプの人間は、そんなに長生きできなかったことだろう・・・ふと思う。因みに、いかなるスポーツマンとて、余程気を使ってチューンナップを持続しない限り、49歳にもなれば、多少は、中年体系、少しはブヨッ!が襲い来るのが通常だが、信長の体系は、引き締まったままであったという。末期には、一生懸命に、倅をてんぷら加工。小さい器が大きく見えように、倅に必死の衣付け。されど、天命は、ご本人の願望とは裏腹。安心の余生を、神は彼、織田信長に与えなかったようだ。張り詰めたままに散切れてしまった。事件の前夜、なぜか、虫の知らせか?我が倅に、笑顔で昔話を言い聞かせていた。・・・天正10年(1582)6月2日、張り詰めた弓の弦は散切れた。やはり、長くはなかった。織田信長、享年49才。外国の半伝説上の人物ながら、織田信長によく似た人物がここに居ます。やってる事まで、同じ!▼■覇者の恋と敵将首級の杯!!(乱世の覇者の孤独、臣の塗り分:外国の物語と織田信長の共通点他次頁は補足:織田信長、なぜか、「敦盛」の舞:人生五十年のフレーズサイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<★NEXT:真上NEXTボタン=No.5
2013.08.27
浅井長政の第二の無念と信長神経限界No.3,信長に於ける裏切り者の定義と残酷処置,織田信長,父としての側面戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.3暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」この「信長の異常な執念」の由縁はなにものか?初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2信長にとって、長政があっけなく自刃してしまった事から、込み上げる憎しみのぶつけ所を、喪失してしまった。そこで、こんな事になる。▼なんと!、事はすでに終わっているというのに、異常な行為に踏み切る。それが、お市達と同様に手元に届いた「長政の母(=上記の安古)」の惨殺。▼だてに殺してもらえない。数日に渡って、指を、一本、二本。順次、切り落とす。嬲り殺しである。落命は9月17日であった。長政の母は、生きながらにして、地獄の苦しみに!数値から、その期間は、二週間以上となる。こーゆーところに、やはり、信長に病的要素を感じる。恨みをぶつけたい当該者、張本人「長政」はとっくの昔に死んでいるのに、その後もこのとおり。この行為を分析してみたところ、なかなか「長政」が降伏しない為、その督促題材として、切断した指を順次送り付ける脅迫作戦か?とも、検討してみたが、時期的に全然合致しない。▼ 即ち、明らかに、長政本人死亡済みと知った上での「残虐異常行為」なのである。つまり、精神的拷問のターゲットは、他の全ての人物、臣達である。裏切り者は、皆、こうなる宿命じゃ!!謀反恐怖症・・・ともいえるか。目一杯に張り詰めた弓の弦が、ある日、ブチッ!と散切れる瞬間の危機を、織田信長は、いつも抱えている。知らずして、精神の壊滅を自ら呼び寄せているような危うさを感じさせる。上記、母の「安古」惨殺に係る補足これは、初め、彼女はどこかに逃亡しており、捕縛されたのだろうと思っていました。その為、信長は、「たとえ女とて姑息にも逃亡した!卑劣也!」と怒ったのだろう・・・と。実際、捕縛の表現がある資料も多い。ところが、調べてみると、重要フレーズが見つかった。それは、「老臣の藤掛三河守と相談の上」の部分である。これは紛れもなく、引渡しの証。引渡し時期について、当初、降伏勧告を全て拒否していたことから、妻子と同日の8/29以外、考え難い。だとすれば、とんでもないことだ。信長は、妹と姪子から、彼女のみ引き離し即拷問ということになる。まさかと思いたいが・・。<他、長政の家族:信長による残酷>■長政の長男「万福丸(10歳)」この子は、お市の腹子でない。前妻か、側室の腹。この万福丸は、朝倉との提携の証に、朝倉に対する人質として預けておいた子。彼は敦賀で捕縛され、大本にて、串刺しの刑。唯一、心の救いは、幾丸という名前の男児。生まれたばかり。家臣の手で匿われ、福田寺(近江坂田郡)に逃れ、命拾いしている。出家させられるが、命だけは取り留めた。もう一人、赤ん坊か幼児の男児が同様に免れている。(女児の無事は複数居る。)暗示される「信長の限界_弦が散切れる時」そんな織田信長_THE_END「本能寺の変」の前夜祭悲しきかな、嗚呼、父!父としての側面ご存知のとおり、信長は、天正10年(1582)6月2日の超早朝(朝6時未満位)本能寺の変で、あっけなく命を落とす。あまりにあっけなくて、歴史のトリックではないか?と半信半疑になるようなTHE_END。ところが、この日6/1の昼間、信長は、大茶会を開催している。名物茶器を30数点取り寄せ、公家や僧侶など40余人を集め、超豪華版の大茶会。【そして、茶会の後、穏やかなる微笑み、語らいの場】それは、京都所司代の村井貞勝と、倅の信忠の三人。★始終笑顔★の信長であった。この頃、信長は、倅の信忠を盛り立てようと、デキる家臣を大勢抜粋して信忠に追従させて、既に家督は信忠に譲っている。史実の上で殆ど意味はないが、一応ながら、形式は隠居なのである。信長は、倅の信忠が、正親町天皇から「三位中将」を賜った事が、心の誇り。無論、これは、引き換え、黄金30枚のご献上。また、彼は、信長自慢の名茶器の多くをこの倅に譲っている。これは、今日の感覚で、普通に考えると、だからどうした?程度のことながら、当時に於ける名茶器の譲渡とは、たとえ親子といえど、大事。▼名茶器の保持とは、第三者に対する権威象徴の見せ付け。その証拠。茶人のステータスについて:こちらの特集から解ります。:戦国侍と茶人の素顔特集織田信長は、己の臣に対して、「自称茶人」を称してもかまわぬ状態にある者を限定。許可なく、「茶人面!」は、一切許していない。▼倅に衣をつけて、「てんぷら」にしている。我が倅「信忠」が、諸大名に、より一層尊敬されるように、家宝の茶器の殆どを倅に譲った。鬼か、悪魔にしか見えない信長の所業ながら、この倅「信忠」に対する数々の心配りは、なんともやるせない。中身が、まだ薄っぺらい若い倅に、一生懸命、なんだかんだと衣を付けている。この現象、織田信長本人は、知らずして、「魂の限界、壊滅寸前」の暗示かもしれない。暗示:一人の人間が、笑顔で昔を語る時サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」No.1<No.2<No.3(現在頁)<No.4■各人編、■【No.5&6】:豊臣秀吉と少年時代の石田三成「真夏の緑茶三杯!」
2013.08.27
浅井長政の第二の無念と信長神経限界No.2,浅井長政の首級と信長に於ける裏切り者の定義と残酷処置,織田信長,父としての側面戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.2■戦国侍と茶人の素顔特集現在頁、浅井長政編は、織田信長に叛いた男series「松永弾正久秀」編の<No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃」頁の補足。浅井長政の首級と、信長に於ける「裏切り者の定義」と残酷処置浅井長政の第二の無念「母の事」_その続き浅井長政【天文14年(1545)~天正元年9月1日(1573)】初めから読む=No.1それは、彼の母の結末から、逆算して弾き出される。浅井長政の自刃の時、父の久政と共に、仲良く並んで、自刃したわけでない。残念ながら、土壇場まで、父が自刃してしまったこと、知らされずに居た。実のところ、父の久政は、前日の天正元年(1573年)8月28日自刃済み。織田信長が、長政に降伏勧告に使いとして「不破道貞」を送ったのは、8月29日。長政が、妻のお市と、娘(茶々、初、小督)を信長に送ってやったのもこの日。この時、長政は、「不破道貞」に父の生死を問う。すると、答えは「生きている」であった。これは、「不破」独断の嘘ではなく、信長の命令どおりの嘘。長政は、悲しきかな、この嘘を信じてしまった。ここに、第二の無念を自ら発してしまった!▼お市親子だけの引渡しだけでは降伏の人質の価値がない。織田の要請に屈して、そこで、彼は、老臣の藤掛三河守と相談の上、母の「安古(小野氏)」を、同時に引き渡してしまった。父が既に自刃済みだと知ったのは、その後。家臣が走り知らせに来た。「不破道貞」曰く「父の久政は生きている。」とは、真っ赤な嘘だったのだ!!なんの為に、母を人質として、送ったのだろうか!!・・・悔いたところで、後の祭り。怒りに震え、悲嘆の長政は、臣の「赤尾清綱」の邸に入り、ここで自刃を。浅井長政の人生、悲哀は、父に始まり、父に終わった。そして、悲しみは母に飛び火した。母に対する罪悪感を蒙りつつ果てる宿命の長政。祖父の亮政は勇猛果敢で聞こえ高い男だが、父の久政は、弱かった。京の雅が似合う男。乱世向きの男ではない。家臣達が心配して、子の長政に対して、幼少より、武門教育を徹して育てた。案の定、これならイケる!皆の期待に答える勇ましい若武者ぶりに育った。そこで、家臣は、早くも、少年の長政を擁立して、久政に隠居を承諾させ、奥に押しやった。長政は、父を隠居に追いやった身。けっして自ら、でしゃばったわけでないが、結果は同じ。絶えず、その事実を我が身に重く受け止めて生きている。父への罪悪感を感じつつ、家臣達の言う旨もよく解る。今は乱世なのだ。お家を守らねばならぬ。勇戦を続けつつ、父への不義を、これ以上は、けっして発っするまいと、孝行に心がけ・・・生きる。それが、結果として、いつも、足枷であった。それでも、彼自身は父を邪魔には思ってないが、成果としては、マイナスを必ず被っている。今回も、それだった。朝倉に義を立てた。_ _ そこで、母の身柄送検はそこで、母の身柄送検は、おそらく父、もしくは他親族の命乞い打診であろう。母を人質に送ろうが、所詮は女。長政自身が、出頭して自ら、首を捧げるなれば、女ごときは、命だけは許されるだろうと・・・。それが誤算!まるで誤算!・・・後悔先立たず。父を救わんとして、母を生贄に捧げてしまった。とはいえ、ここで怒りに震えた長政は、自刃してしまった為、母より先に冥土入り。事の結果を見ずして、冥土入り。もう、こうなると、母の処刑の予感は感知したことだろう。・・・しかしながら、実際は、「単なる処刑!」ですまされなかった。織田信長の定義に於ける「裏切り者」の処置とは、極めて残忍。提携を裏切った「浅井」への憎しみは、上記のとおり、その首級が髑髏杯に化ける程。煮ても焼いても、八つ裂きにしても、まだ、収まらない。「裏切り者」と言うなれば、「朝倉攻めは一切しない。」のあの条件はどこへ行った?浅井の裏切りは罪でも、織田信長、ご本人側の裏切り行為は、己の中、どう解釈しているのだろうか?第三者の立場で見ると、非常に悩むが、彼には、彼流の定義があるのだろう。いずれにせよ、この後、信長は異常な姿を露出する。サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」No.1<No.2(現在頁)<No.3猫ちゃん系記事総合玄関(洋服、用品、真剣介護
2013.08.27
戦国侍_浅井長政の第二の無念と信長の限界No.1,浅井長政の首級と信長に於ける裏切り者の定義と残酷処置,織田信長,父としての側面戦国侍_「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」_No.1■戦国侍と茶人の素顔特集現在頁、浅井長政編は、織田信長に叛いた男series「松永弾正久秀」編の<No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃」頁の補足。浅井長政の首級と、信長に於ける「裏切り者の定義」と残酷処置今回の特集は、【1】「浅井長政の第二の無念」と、【2】「信長の神経限界線」:二本立てです。信長の残酷描写が出てきますが、実は、それ自体をアピールするのが目的ではなく、一人の人間が、張り詰めたままに、訪れる限界の時・・・そのテーマでまいります。人は人だから。いくら頑張っても、マシーンにはなれない。織田信長とは、想像を絶するとんでもない残酷をやらかす。されど、それは、皆さんご存知のとおり。多すぎて、いちいち、書いていたらキリがない。しかし、彼には、彼流ながら、一応筋はあるようなのだが。それにしても、これは、かなり猛烈。天正2年正月、大広間に集合した臣達は、正月早々、絶句する。とんでもないモノを見せ付けられた。それは、なんと、人間の首級を加工して作られた盃。まさに、頭蓋骨の髑髏盃だった!!しかも、豪勢に漆を塗り重ね、金粉を塗し、頭蓋骨の一部を切り取り、「杯」となした特製品!!▼この被害者(頭蓋骨の主)は、浅井長政(29歳)、浅井久政(47歳)、朝倉義景(40歳)の三名。皆は、窒息寸前。だが、信長が言いたいのはコレだ!・・と、吐き気がする程、皆には解った。裏切り者は、皆、こうなる宿命じゃ!!浅井長政の第二の無念「母の事」浅井長政【天文14年(1545)~天正元年9月1日(1573)】今回は、浅井長政自刃時の補足=「浅井長政の第二の無念」ここで、本文は、No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃」からどうぞ。信じる者は救われる?!否!・・悲しきかな、浅井長政の場合、信じたが故に、魂は、救われなかった。無念なるは、父と母。誤算_母の犠牲無念の自刃とて、死ぬのは仕方ない。それが戦国侍の掟。されど、これじゃ、死んで尚、魂が浮かばれない。さぞや、その霊魂は彷徨ったことだろう。浅井長政が、織田信長に敗れ、自刃するのは、天正元年(1573年)9月1日。長政が、妻の「お市(=信長の妹)」を、信長の元、即ち、実家に送ってやった美談は有名。「お前は生きよ!兄の元に帰るのじゃ!」そう言って、彼は、潔く、切腹して武士の最期を遂げた29歳の青年。▼確かに泣けるが、ここまでならば、大体皆さん、ご存知の内容。ところが、別の意味で悲しかったことがひとつ。それは、母の事。そして根本が父。武士のあっぱれを飾って散った男、それが、浅井長政・・・なのだが、実際は、「親族の為なれば、人とは脆い。」お市さんのストーリーが重視されて、歴史上、ほとんど無視されてる事がある。どうやら、この段階、長政は、潔く、格好良く、ソク!自刃・・・のつもりではなかったのが解る。不快なれど、屈辱なれど、親族の為に・・・降伏を決意した経緯が解るだけに悲しい。それは、彼の母の結末から、逆算して弾き出される。サイトTOPは犬猫サイト<歴史<戦国侍<織田信長と「松永弾正久秀と平蜘蛛」No.24:織田信長が臣に見せつけた「頭蓋骨の髑髏杯=盃<【現在特集】「浅井長政の第二の無念」と、「織田信長の神経限界線」No.1(現在頁)<No.2
2013.08.27
愛と直江兼続の貞宗と石田三成の切刃貞宗と,田中吉政に授けた名刀「切刃貞宗」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成の関ヶ原,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.12No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その12)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.12<石田三成の遺品について、小コラム>【1】織田秀信に贈った「狂言袴」、【2】一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その5直江兼続の「愛」に係るちょい別発想の考察_その3影響多大は、大陸滞在期間<その時発生した「仲間割れ現象」:その渦の中、直江は!>前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.11それはさておき、大陸滞在期間の「小西派」と「加藤派」の対立時、さて、肝心の「直江兼続」は?■小西行長(1555~1600)、■直江兼続(1559~1620)_ _小西行長(1555~1600)と、加藤清正(1562~1611)の喧嘩は、先行争い、手柄争いのみならず、宗教観念由来の道徳観念の相違も影響多大。敬謙なるキリスト教徒の小西にとっての「悪」の定義と、加藤らの定義が異なる。結果から見ると、案の定、直江は、西軍、石田派ですよね。直江が、はたして、キリスト教に入信したか否かは別として、大陸の書物から、自分の頭脳に、「隣人愛」のテーマだけ、抜書きして、インプットした確率なら、さほど低くない。全面的に傾倒して、忽ち入信するか否かは別として、「好感持てる部分」を、自分流に、一種の道理として、自分流の新しい一つの道徳観念として、自分の体内に書き加える・・・その形を選択する人物とは、案外多いのです。▼そーゆータイプ、入信はNO!されど、よく、人の話を聞く。好感を示し、応援もする。No.8:ご参照。そーゆー人物の一例として、高台院(秀吉の正妻=寧々)も、その一人。彼女は入信してませんが、行動的には、近場で随分、漸近線。高台院の場合、当時の宣教師達は、初め、頭を抱えた。「ごっつぁんでっさあ!大者の入信者ゲット!」と思いき、答えは「ノーサンキュー!」。ところが、彼女は、非常に応援してくれる。入信はNO!でも、中身が好感持てる部分なれば、徹底応援。そこで、宣教師達は方針変更。信者としてゲットするよりも、フリーパス係で活躍してもらおう。なんといっても、秀吉にタイアップするより、何事も手っ取り早い。実際、こう言っている。「彼女に通した案件の内、無事パスできなかった件はひとつもない!」そして、肝心の「直江兼続」ご本人さんは?というと、非常に研究熱心の枠を超え、お勉強に関して、かなりせっかち。夢中!邁進型。凄い読書家。石田三成に密かに会った時、ついでに学者「藤原惺窩」にご対面。あたかも、勉強熱心な子供が先生に質問するみたいなかんじ。読み知ったはいいが、意味が解らないと我慢できない性質。藤原惺窩(せいか)1561~1619:学者。:陽明学にも通じる。■彼は、変り種。フリー学者。誰か権力者のお雇いでない。秀吉による「文禄・慶長の役」の際、日本に捕虜として連れ込まれた朝鮮の捕虜「姜坑(※)」に会い、尋問のふりして、色々学ぶ。それ以来、「私は、日本に生まれたのが間違いだった!大陸に生まれたかった。」とボヤき、密航を謀るが、失敗の前科有り。(※)姜坑の「坑」字:正解はサンズイですが機種依存文字=入力できません。ブログで弾き返されました。■この人物に関して、売国奴の悪口がある訳は、上記の発想から、「姜坑(※)」に言っている。「いっそ、日本を征服してくれ。そのほうが、民は寧ろ幸せだろう。」と。当時の日本を憂うあまり、その発想に。戦だらけ、権力主義、重い年貢、民の困窮だったから。根源は、皆の幸せ、民への「愛」というところ。■尚、時代や場所、その学者や学派によって一概には言えないが、陽明学が、キリスト教の隠れ蓑、或るいは導火線のケースも実在する。(現在頁一番下、緑色枠に「戊辰と陽明学の浸透のルーツ」バナー有り。)となれば、直江兼続が大陸滞在中、「愛の定義って何?隣人愛って何?」・・・尋ねて、忽ちスカッ!と教えてくれる人物は、案外多い。佐竹義宣あたりも自分でYESと言ってないが、多分。(佐竹:No.8あたりで解ります。)しかし、明確なのは、おそらく小西行長あたりでしょう。案の定、直江は、関ヶ原の時、西軍、石田派ですよね。西軍には小西行長が居ますよね!!というわけで、私が思うに、『直江兼続に係る「愛」』キーワードとは、▼■発端が大陸滞在時。読書知識で従前より燻っていた(※)思いが、滞在仲間の影響で完全に開花。燻っていた(※)日本伝来は表数値1549年とされてますが、唐への伝来はぐんと早期。彼を育てた「上杉謙信:1530~1578」ですら、まさかキリスト教か否か?と現世論争されている位だから、唐経由の伝来や、書物なれば、その存在や漠然とした定義は早期に、知る事ができる。■されど、タイプは、上記の高台院タイプではなかろうか?自分流に、一種の道理として、自分流の新しい一つの道徳観念として、自分の体内に書き加える。入信の否応は後回し。寧ろストッパー。直江の話は以上にて、とりあえず離脱しまして、次頁(No.12)では、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その6へまいります。恩人「石田三成」を自ら捕縛して、斬首に追い込む宿命を背負った男と、黙って、それを解ってくれた石田の姿。サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.11<No.12(現在頁)<★NEXT_No.13=真上NEXTボタン
2013.08.21
愛と直江兼続の貞宗と石田三成の切刃貞宗と,田中吉政に授けた名刀「切刃貞宗」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成の関ヶ原,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.11No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その11)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.11<石田三成の遺品について、小コラム>【1】織田秀信に贈った「狂言袴」、【2】一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その4直江兼続の「愛」に係るちょい別発想の考察_その2影響多大は、大陸滞在期間<その時発生した「仲間割れ現象」:その渦の中、直江は!>前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.10大男_加藤ら「武功」派に散々苛められてきた石田三成は・・・超小柄な男加藤ら「武功」派は、文官の石田を苛めまくり。「近江商人根性。お道具は刀でなくて算盤」と。加藤はデカい。馬に跨ると爪先が、今にも地面に摺るんでないか!?と当時言われた。その一方、石田は細くて小さい。遺骨を確認した現世の学者が一瞬焦った。まさか女性か?それほど華奢。ということは、熊みたいな大男が小柄な男を、威嚇程度にちょいと、ドン付いたらどうなるか?▼石田も加藤も10代の少年時代から睨みあい。石田のストレスは言うまでもない。「今に見ておれ!頭脳で勝ってやる!」暦年、石田は耐えてきた。▼秀吉に罰を与えられた加藤達の激怒は半端でない。大陸では、飢えに耐え(※)ながら、それでも、豊臣の為、戦場で血まみれになって戦う男。それが彼ら。飢えに耐え(※)■加藤の部下や、仲間が涙した事件有り。上記のとおり、加藤はデカい。それが、或る日、上半身裸になった時、見ると、アバラだらけ。みんな泣いた。大陸での生活は戦以前に、飢えとの戦い。■加藤らの帰参時、迎えた石田発言。「お疲れ様。まずはご休養を。後日、お茶でも差し上げましょう。」加藤、またしても激怒。この時、秀吉死亡後の喪中にて、抜刀は堪えたが、皮肉100%罵倒。<加藤の心情を含め、意訳アレンジ文章で書きます。>「なにが茶だと!!この優男め!貴様は戦場を知らぬ男!たかが、口先、算盤野郎め!(よくも俺をチクったな!嘗めんなよ!)我らは、茶どころか、米の一粒さえまともに食わずして戦ってきたんだぞ!貴様の茶なんぞ、口が腐るわい!」▼それだというのに、加藤の感情表現を借りますと、「デスクワーク専門の優男!」の口先ひとつで、信用を失った被害者が、まさに張本人の加藤達。そりゃ、怒る。加藤も、福島正則らも、すんごい事言ってます。「石田の肉を食ってやる!!」▼そもそも、こーしたところに「石田憎し!」の構図が、関ヶ原の導火線に。家康、ニタリとほくそえむ!噛ませ犬、猟犬確保!!・・・そして、ぐ~んと後、「狡兎死して走狗烹らる」!!の宿命を!家康にとって、秀吉ご臨終(没1598)にてブラボー!前田利家(没1599)も、ご臨終。いよいよ、家康天下!と思いき、ところが、石田三成が、豊臣の番犬みたいに煩い。ちっちゃいが煩い。頭脳がキレる。理論が、やたら立つ。性質悪い。家康にとって、「コヤツめ!小型犬のくせに煩いぞ!!」足首に噛み付きまくって行動の邪魔する。石田が邪魔な家康は、上記の「石田憎し!」チームを旨く利用して「噛ませ犬係」に調教して手懐ける。そもそも、そーでなければ、彼ら根っからの豊臣派の加藤達が、東軍にくっつく事はない。家康は、彼ら猟犬チームの仇討ちをまずはやってあげて、エサを与える。大陸での素行の悪さを指摘された恨み。されば、石田と仲の良いチーム(=加藤らと対立チーム)の小西や、その仲間の落ち度を、根こそぎ口上させる。今度は、ソレをネタに突っついてやった。▼この段階で、加藤達は、全員揃って、家康の猟犬として飼い慣らされてしまった。▼しかし、またしても始まるぞ!家康流!・・・用が済んだらサヨウナラ!後で、ジワジワ、加藤はじめ、豊臣派は、一人二人と順次、怪しい死を遂げる形で始末されてゆくことになるのだが、そんなことは、天のみぞ知る。(変!な死ばっかりだが、史実の上では一応病死!妙に丁度宜しいタイミングで、ちゃんと死ぬ。)■歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会:徳川家康_漁夫の利に至る迄:加藤達が、家康にうまく利用されるワナに填まる・・・漁夫の利▲真上のリンク先中「漁夫の利」も故事ですが、この場合、別の故事、「狡兎死して走狗烹らる」というのも、マッチする。▼獲物の兎を捕らえるには猟犬が必要。だが、いざ獲物が手に入ると、猟犬の食い扶持が勿体無いし、ワンワン煩い。そこで猟師は、鍋に湯をぐらぐら沸かし、ワンコ鍋。・・・<当サイトTOPは犬猫サイトにつき、けしからん!>■大型犬猟犬(ガルガル戦場で強い)代表:加藤清正(1562~1611)■小型犬(小型の座敷犬だが、優れた番犬)代表:石田三成(1560~1600):どっちも豊臣忠犬なのだが対立_ _それはさておき、大陸滞在期間の「小西派」と「加藤派」の対立時、さて、肝心の「直江兼続」は?サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.10<No.11(現在頁)<★NEXT_No.12・・・我が家では、上記の皆さんと異なり、大型犬と小型犬、&猫迄、皆さん仲良しですが・・▼
2013.08.21
石田三成の切刃貞宗と直江兼続の貞宗,田中吉政に授けた名刀「切刃貞宗」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成の関ヶ原,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.10No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その10)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.10<石田三成の遺品について、小コラム>【1】織田秀信に贈った「狂言袴」、【2】一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その2■石田三成(1560~1600)、■直江兼続(1559~1620)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.9石田三成が田中吉政に授けた刀「切刃貞宗」と、「直江兼続」の「貞宗」石田三成が田中吉政に授けた刀は、「切刃貞宗」といいます。下に添付した画像は、ジャストそのタイプではありませんが、同じく、「貞宗」の刀。「貞宗」の刀:柄に彫られた「愛」の文字▼ しかも、ご覧のとおり、かの有名人、「直江兼続」の愛刀。彼のキャッチフレーズどおり、直江は、柄の部分に「愛」の文字を刻んで用いていました。「貞宗」の作品は、偶然か否か、「石田三成」と、「直江兼続」の共通ブランド。そもそも、この二人が、関ヶ原プランの立役者。東の「直江」が主君「上杉」を励まし、暴挙して家康を東に曳き付け、その間に間髪入れず、西の「石田」が事起こす!=遠隔地操作。「石田三成」と、「直江兼続」の絆と、合議&大決断「関ヶ原プラン」石田三成と、「直江兼続」は深い絆。そもそも、関ヶ原の合戦の仕掛けはここにある。この二人が、感動の意見合致。手を握り、一大決心プランを実行。尚この二人は、年齢も約同じ。■石田三成(1560~1600)、■直江兼続(1559~1620)二人が26歳、27歳位から、妙にハート呼応している。秀吉が、突如、遠出して、わざわざ上杉の門を自ら叩き、景勝にタイアップしたのが、この時。その時、二人はそれぞれの主の付随家来としてご対面。二人とも、妙~っ!に不義を嫌う。誰でもそうだが、とにかくこの二人の正義漢ぶりは特異。悪の抹殺の為なれば猛突進!・・いちいち呼応する要素多大。この「握る!」の表現この「握る」の表現ですが、政治家特有の腹黒い「握る」と随分ニュアンスが違いまして、まるで純心な少年のように、深く深く感動して、握手しております。妙~っ!に清いのであります。・・・これまた、目に見えない透明のマリア様の仕業か?と思えぬこともないのですが。残念ながら、コレ▲に関しては、証拠物件拾えません。史実上の二人の会話に、天とか摩利とかの文字列は探せず無念。唯一、痒いのは、直江の「愛」キーワード程度ながら。「直江兼続」の「愛」に係るちょい別発想の考察については、下側の枠。・・(▲一般によく言われる「愛宕神社の「愛」説」のみならずと思える節有り。)尚、直江も、太閤秀吉の厚情から、特別に優遇され、上杉の臣でありながら、直江専用に米沢を与えられた身。然るに当然、豊臣報恩派に他ならないが、それだけではなさそうです。お二人さんの合議作戦シナリオまずは、直江が、主君の上杉景勝(当時は、会津の領主)を説得して、東でわざと不穏な動きを見せて、家康を挑発。すると、家康は、必ず各大名を己の味方に引き入れ、続々と会津の上杉討伐に立ち上がるだろう。▼家康が関西から立ち去ったら、チャンス。すかさず、その間に、石田三成が、家康の横暴ぶり、豊臣下の法律に照らし合わせ、家康という男の行いが、いかに違反だらけかを明確に、解りやすい箇条書き項目化。『家康イコール、正真正銘の謀反人である旨』を立証。それを、文章化して諸大名に通知。家康討伐を呼びかける。▼無論、二分することだろう。呼びかけに答えず、家康派は当然発生する。だが、当該は予測済み。それらの妻子を人質にしてしまおう。本人達は、その頃、家康に従って、会津方面に居るから、手も足も出ない。中には、妻子可愛いさに、転んで帰順する者も出るだろう・・・以下略。いずれにせよ、「直江兼続」が主君「上杉」を励まし、極力、時間稼ぎに頑張ることが秘訣。そして、石田が皆を率い、立ち上がり、悪を滅ぼす!石田と直江にとって「家康」は完全に悪。正々堂々と戦場で戦って、悪の根源「家康」を撲滅しよう!!二人は誓い合った。というわけで、「石田」と、「直江」の絆たるや、なぜか?単なる同盟レベルじゃない!・・・心底硬い!誠の絆・・・お約束どおり、東と西で、同時進行形で、二人の英雄が立ち上がった・・・わけだが。結果は、ご存知のとおり。それでは、只今、「石田三成が田中吉政に授けた切刃貞宗について」の項目の最中ながら、上記の「直江兼続の「愛」に係るちょい別発想の考察」について、下枠に少々。直江兼続の「愛」に係るちょい別発想の考察_その1影響多大は、大陸滞在期間<その時発生した「仲間割れ現象」:その渦の中、直江は!>一般に、直江の「愛」キーワードの基点は、彼に縁のある愛宕神社の「愛」説が有力であり、実際、キリシタン絡みの証拠&尻尾は、専門家も本人資料から拾えないようです。但し、私的に気になるのは、直江の大陸滞在期間。秀吉時代の朝鮮出兵「文禄・慶長の役 」の際、彼は部下にこんな事言ってます。▼「敵の首を幾つとってもおんなじだ。そんな事より、貴重な文書を押収せよ。」▼その後、彼は、それらの貴重な大陸や、西洋の資料&文献読みまくり。時代的に、九州や関西近辺と異なり、この段階(この後広がるが)、奥州方面の人物が、キリスト教に傾倒できる程、その教義に係る知識が豊かな率は低いのですが、私的には、これで、彼は「愛の定義」を読み知り、影響を受けたのではないか?と、少々気になるところ。大陸滞在チームの仲間割れ、二分事件と、その影に「宗教観念」また、文禄・慶長の役の際、大陸に陣取る彼ら派遣組は、見解割れして、二分します。加藤清正、福島正則達チームと、小西行長らチームの対立の構図発生。小西は、敬謙なる信者。その彼が激怒。左記チームの末端兵、一部でしょうが、誰か、本来の戦そのものではなくて、狼藉やその他(ご想像お任せ)があったようです。そこで、小西は、武士としてけしからん!!と怒る。▼それを、日本に居る石田三成に通知。▼丁度、石田は、加藤ら「武功」派に散々苛められた(※)後だけに、ガンガン、秀吉に通知。石田は頑固者だが、正直者。嘘の申請はしない事、秀吉は知っている。その為、信用多大。秀吉は、我が子同然に少年の頃から可愛がって育てた加藤でさえ、罰を与えます。大男_加藤ら「武功」派に散々苛められてきた石田はサイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.9<No.10(現在頁)<★NEXT_No.11・・・
2013.08.21
心に封印した過去の十字架,田中吉政に授けた名刀「切刃貞宗」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成の関ヶ原,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.9No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その9)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.9<石田三成の遺品について、小コラム>【1】織田秀信に贈った「狂言袴」、【2】一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、【3】田中吉政に授けた「切刃貞宗」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【3】石田三成が田中吉政に授けた「切刃貞宗」_その1■石田三成(1560~1600)、■田中吉政(1548~1609)初めから読む=No.1<前頁から読む=No.8このケースも、おそらく、答えは、★マリア様が知っている!!田中吉政の宿命はこれだった。イヤな仕事、死ぬほどイヤな仕事!それは悪魔のなせる業!かつての恩人「石田三成」を自ら捕縛して、縄打って、斬首に追い込む!・・・俺は、恰も、まるで「ユダ」!▲ユダとは:キリストを売った男されど、それを乗り切った田中の心を、石田三成は、黙って解ってくれたようだ。▼詳しくは後述ながら、石田は繰言、ひとつ言ってない。論より証拠、この刀(下側添付)が、その証。捕縛された石田三成は、自ら、田中吉政に名刀「切刃貞宗」を授けた。猛烈に言葉少なながら、確実に礼の言葉を添えた。▼これは、田中にとって、どんだけ重い言葉だったことだろう。「田兵(※)よ、これは礼のつもりじゃ。貴殿に授けよう。」「貞宗」の刀として、石田三成タイプではないですが、「直江兼続」持参タイプ。柄に彫られた「愛」の文字が「直江兼続」さんのご自慢オリジナルマーク▼田兵(※):田中吉政=田中兵部大輔。田中兵部大輔を略して、「田兵」。前頁No.8もご参照:「心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網」の項目にも、親子揃ってご登場の人物です。■尚、「田兵!」などという呼び方は、身分的に横や下の者は、けっしてしない。三成は、かつて、田中を救ったことがある。三成は、特有の横柄キャラの上、五奉行の一人としてのプライドもあるが、この二人の関係は、田中のほうが12歳も年上だが、田中にとって、三成は恩人の為、田中が目下のごとき立場にある。この刀は、かつて秀吉が石田に授けた。だからこそ、石田の宝物。豊臣の忠臣として知られる田中は、おそらく、その事を知っていたと想定される。さぞ、ズシーンときたに違いない。無言の手渡しの中、その意味合いが全部含まれている。▼【A枠=三成の心の内を想定】「俺が没しても、尊い豊臣の魂は不滅だ。豊臣忠臣の田中よ、俺は、お前を信じる。世は変転する羽目になったようだが、形異なれど、お前は、永久に豊臣忠義を、心に引き継いでくれ。その証に、太閤様のこの刀を、今、俺はお前に譲る。これは、太閤様の魂だ!引き継いでくれ!」他に、田中の前で、三成が発した台詞・・・恰も「死に際の屁理屈」に聞こえる部分を再検討以下の発言の他、別場面、別人物に対しても、三成は「死に際の屁理屈」に聞こえる発言を幾つも吐いています。しかしながら!、この三成という人物、横柄者の鉄面皮をあえてお面のごとく、被っているだけで、実は、中身の「妙に純粋すぎる要素」を必死で隠している。・・「意地でも、人に語れぬ生身の己」を彼は抱えている。いつも、鉄面皮芝居。【B枠=三成の発言略意】「はからずして、無念にも事破れたといえど、万事、秀頼様の御身を案じて、豊臣の御為に、禍の因果、悪しき者を滅却して、万事、太閤様のご厚情に報わんとしたのだが・・。しかし、天運は、我になぜか巡り恵むに至らず、敗北に至った。それらは、万事、単に、運というものであろう。我自身、我が身が果てるには、なんら悔いはない。(他略)」この【B枠】内容を、真上の【A枠】と比較してみてください。【B枠】だけ見ると、なんと理屈っぽい人だろう。どうせ今死ぬというのに、なんで?また、こんなところで、説教するのかな?未練がましいヤツめ!・・に見えてしまいますし、おそらく、徳川の東軍の人達は、そう解釈して、嘲笑っていた人も、悲しきかな、きっと居たことでしょう。しかし、本来の気持ちは、きっと、【A枠】だったのではないかと思います。ぐんと縮めて言うと、「田中よ!頼む!豊臣を頼む!俺は死ぬ!されば、貴殿が頼りだ!」・・・殆ど哀願にも等しいような。(強がりでもなければ、見栄でもない。心底、豊臣報恩。)「この人は下手糞。屁理屈ばっかり言っているけど、皮を剥いたら、悲しいほどに純粋。」・・・田中は、きっと、そう感じたのではなかろうか。おそらく、三成は、周囲の人物を警戒しているのです。田中と二人きりなら、もっとストレートに言えるが、周囲の人間の耳が危ない。田中という人間、半分怪しいぞ!とばかり、家康に報告されては困るから。現に、この場面の描写が残っていること自体、その証。田中本人が喜んで後日喋ったわけはないのに、こうして残る。田中吉政は、黙って、「三成の死に際の屁理屈」の真意を聞き取っていたことでしょう。この後、田中は多大なる懊悩を背負いつつ、徳川の世、生きてゆく。救いたいのに、救えなかった!それどころか、率先して、斬首に追い込む悪魔の係を演じたのだから、苦しみは半端でない。弁解一つせず黙って生きてゆく。その姿については、後続頁No.13に書きます。次頁には、折角なので、名刀「切刃貞宗」に因んで、関ヶ原の立役者のお二人さん「石田三成」と「直江兼続」。なぜか?お揃いブランド「貞宗」。▼石田三成が田中吉政に授けた刀「切刃貞宗」と、「直江兼続」の「貞宗」サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.8<No.9(現在頁)<★NEXT_No.10=真上NEXTボタン
2013.08.21
心に封印した過去の十字架,人助け連絡網,以外な人物と不思議な連鎖,石田三成が一咄斎に託した「肩衝茶入_芳野」涙の結末(その3),茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その8,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.8No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その7)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.7<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種戦国侍、心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網(その2)■明石全登、■田中忠政、■田中吉政、■「佐竹義宣」と「津軽信枚と石田三成の娘」、■「佐竹義宣」と、「津軽信枚と明石全登(宇喜多秀家の客将)の遺児」、■伊達政宗、■黒田如水津軽の地、藩主になった「石田三成」の孫前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.7心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網(その2)関ヶ原の後、降伏したり、捕縛されたりの西軍の者。その中、心にキリスト教を抱いていた者達が、敵方の特定の者を指名している。死は免れぬにせよ、ラストは、せめて、同じ信仰心を抱く者に、己の首を授けたい。これは、幾つも例が見えます。大抵のケース、願い叶わずの結果ながら。彼らは、宗教観念上、武士として、潔く切腹できない最期の苦しみを背負っている。こりゃ、苦しい!自ら命を絶つが許されぬ事とは・・・こうなると、確かに辛い。それはさておき、以外な人物と、不思議な人助け連絡網の一例。【以下について、あらかじめ】人間ネット網が、複雑に絡み絡んで、ややっこしいですが。できるだけ短めにまとめました。■明石全登明石全登とは、関ヶ原の時、西軍の「宇喜多秀家」の家来。純粋な家来というより客将であり、かなり優遇された身。抜群の将であり、戦上手。関ヶ原時の戦略は、彼が一任されて、実質、兵を率いたのは彼である。その彼は、幸い、生き延びる。(宇喜多秀家本人は逃亡潜伏→八丈島流罪)・・(戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内)宇喜多は、キリスト教丸見えの人物だが、明石も敬謙なる信者。秀吉による禁教令が降ろうと、これほど強い信念の者なれば、世間体は別とて、心の中は、絶対に棄教しない。彼は特殊な存在であり、敵側にも顔がある。情報は薄く、完璧ではないが、まずは、関ヶ原の後、密かに彼を庇った者として、名が浮上するのは、黒田孝高(=如水)と、田中忠政(柳川藩:この人物、生まれは近江)。またしても、黒田ご登場。黒田如水と、その倅「長政」に係る棄教話は、前述No.4~No.6あたりからどうぞ。そして、田中忠政とは、田中吉政の倅である。田中吉政については、次頁でご案内ながら。この親子もキリスト教無縁ではない。YESと言わずながら、信者に実に寛大。暗黙に保護している。父側の吉政は、洗礼名を保持しており、その名は、パルトロメヨと言う。明石全登存命の証に、大阪の陣存命の証に、1614&1615の大阪の陣に、明石全登は、確実に、大阪側豊臣側として参戦している。ところが、この後、行方不明。今度こそ、まるで謎。大阪の陣後、明石全登の家族ところが、不思議なことに、子孫は、北の果て、津軽に痕跡を明確化する。これは、本人ならずや、家族のみだが、初め、彼らを保護したのは、「伊達政宗(仙台)」。しかし、その後、津軽信枚(弘前)。さらに、明石全登の男子は、比内町扇田に逃れ、子孫を残す。比内町扇田は、秋田県大館市 比内町扇田。関ヶ原の戦後、この地の藩主は、佐竹義宣。久保田藩(=秋田藩):藩主= 佐竹義宣ここに、再び「不思議な人間ネット網」:「佐竹義宣」と、「津軽信枚と明石全登(宇喜多秀家の客将)の遺児」津軽信枚(1586~1631)上記(上枠表記)の佐竹義宣とも親しい。棄教改宗しているがキリスト教の経緯有り。この家は、石田三成の遺児(石田重成&辰姫(三成の三女))を匿っている。信枚の側室は、上記の辰姫。尚、徳川の世、関ヶ原の賊将呼ばわりの三成の娘のままでは、問題多々の中、彼女の存在肯定に、高台院(秀吉の正妻=寧々)が、一旦、自分の養女としてトンネル渡ししている。(ここにも人助け、但し、高台院は入信してない。)辰姫は、初め正室だったが、後で、徳川家康の養女「満天姫」を娶ることになり、なりゆき、側室に。ところが、信枚の跡取りとして本人が希望した子とは、辰姫が生んだ「信義」である。幸い、信義は長男であることから、無事次期藩主となった。故に、信枚の倅「信義」=イコール=石田三成の孫。ここに、再び「不思議な人間ネット網」:「佐竹義宣」と、「津軽信枚と石田三成の娘」&娘の産んだ子=次期藩主▲津軽の地、藩主になった「石田三成」の孫ここで、非常に不思議なのは、伊達政宗。伊達政宗は、当然のごとく、「心に封印した過去の十字架」絡みの人物ながら、面白いと言っては恐縮ですが、大阪の陣では、露骨に「明石全登」の軍と死闘をやっている。可愛い部下を大勢殺した憎い敵将「明石」ながら、心に十字架を秘める者同士としてなのか?罪の無い子らを哀れんで匿ったことになる。以上、心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網、ほんの一例ご紹介しました。次は、今回の特集本題の「石田三成の遺品について、小コラム」に戻りまして、石田三成の遺品パート3.『田中吉政に授けた「切刃貞宗」』へGO!サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.7<No.8(現在頁)<★NEXT_No.9・・・
2013.08.19
戦国侍,心に封印した過去の十字架,以外な人物と不思議な人助け連絡網,石田三成が一咄斎に託した「肩衝茶入_芳野」涙の結末(その3),黒田長政が救った「一咄斎」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その7,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.7,No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その7)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.7<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種戦国侍の「心に封印した過去の十字架」以外な人物と、不思議な人助け連絡網(その1)【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」_の補足編心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網(その1)前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.6前述のとおり、黒田長政が、一咄斎を救っている。さて、こうした不思議な人助けケース(前頁No.6)は、全国、色んな大名の中、他にもあります。この特徴は、血縁が無縁、遠隔地も多いこと。まるで、国境を超えた隣人愛みたいな・・・。この時代、あってはならぬ事ゆえ、誰一人、YESと言わないだけであって、答えは、おそらく、マリア様が知っている!!マリア様も大層、お忙しい。馬頭観音にされてしまったり、切支丹灯篭の下側に怪しい観音さん風に変装させられてくっつけられたり。人の心の中、いらっしゃるのだが、いらっしゃらない事に、なってるから・・。忙しい。たとえば、前頁の「一咄斎」が堺でご健在の昔、彼が主催した茶会(天正18年(1590))には、石田三成と、佐竹義宣が仲良く、並んで出席している。・・・どうも、この三人、「堺」を、円の中心点として、繋がるネットの中、透明色で塗り潰されて、人の目に見えない『透明のマリア様』が!!「一咄斎」が、鵙屋」としての商人看板を掲げる町は堺。堺といえば、これより前の時代から、栄えた一等級の貿易港。この町が世界を掌握していた。そこは、かつて、マリア様の本拠地。それが、情勢一変。早々にして、誰一人、YESと言わない時代に突入。仮に聞かれりゃ、必ず、こう言う。「知らん!関係ない!捨てた!やめた!=無関係!!」<秀吉による禁教発令>■天正15年(1587):バテレン追放令、■文禄5年(1596)12月8日:再び禁教令。戦国侍とキリスト教入信と抗いと棄教,侍精神の自己葛藤特集佐竹義宣は、関ヶ原戦後、左遷組!関ヶ原戦後、常陸国の男「佐竹義宣」は、秋田に左遷された。原因は、西軍加担がバレたから。彼としては、どーしても石田三成を裏切れなかった。滋賀近江の男と、常陸国の男が、遠隔地で、きっちり繋がっている。無論、秀吉による朝鮮出兵時の絡みやら、京都や大阪に彼ら大名族は滞在させられる期間があるから、その間の接触は、あるわけだが、この場合、それだけじゃない。このお二人さん、大層、連結が固い。表向き、目立たないのだが、目に見えない細い糸で、しっかり繋がっている。ちょい昔、石田が助けた佐竹なぜ、石田を助けたかについて、一般的には、かつて、佐竹親族が引き起こした事件の際、佐竹本人も連座のところ、石田が助けたから。・・・と言われているが、それだけじゃなさそうです。なぜなれば、その恩だけなれば、とっくの昔に佐竹は、返礼している。▼そのちょい後、今度はその逆に、佐竹が助けた石田それは、かつて、石田が、加藤清正らに暗殺されそうになった時、佐竹が担ぎ出して、家康に談判して、わざと、御大将「家康」の懐に突っ込んで守った。この時、宇喜多秀家も絡む。皆にこの事実を知られている以上、家康としては、石田を、内心始末してしまいたいが、そーゆーわけにいかない。故に、佐竹は、体を張って、石田を救っている。▼つまり、佐竹と石田の縁とは、「恩」と「義」じゃなくて・・・ここにも、語らずして、心の奥、遠い昔に封印したはずの、マリア様が、いらっしゃるように思えます。尚、佐竹は、秋田に左遷された後、夢枕、不思議な夢を見ています。その後、彼は、関ヶ原の負け軍側加担の過去をハンディとして背負う者も、惚けて採用している。哀れな遺族の逃走、匿いにも、密かに活躍している。(次頁)夢の話:「常陸国_佐竹氏と、頭白上人:佐竹家の謎紐解く」特集のNo.5あたり前後から話、関連してます。佐竹義宣に関しては、次頁にも、登場。「佐竹義宣」と「津軽信枚と石田三成の娘」尚、石田三成に係る「目に見えない透明のマリア様」に係る話・・は!薀蓄が、ゴチャゴチャありまして、相当長くなりそうなので、今回の特集とは別編にて、後日、別件アップしようと思っています。(お気長に・・お待ち下されませ!暫し時間かかります!!)次頁は、「心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な人助け連絡網(その2)■明石全登、■田中忠政、■田中吉政、■「佐竹義宣」と「津軽信枚と石田三成の娘」、■「佐竹義宣」と、「津軽信枚と明石全登(宇喜多秀家の客将)の遺児」、■伊達政宗、■黒田如水津軽の地、藩主になった「石田三成」の孫サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内<戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.6<No.7(現在頁)<★NEXT_No.8・・・
2013.08.19
石田三成が一咄斎に託した「肩衝茶入_芳野」涙の結末(その3),茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その6,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.6,織田秀信に贈った「狂言袴」他各種、三成の所持品と、その心No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その6)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.6<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」(その3)前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.5【2】_石田三成が一咄斎に託した肩衝茶入芳野_その3・・■黒田長政の正解と、家康黒田は見事な演出効果も怠らなかった。恐れおののくがごとく、仰々しく、この茶器を、畳の上、静々と滑らせて、家康に献上するなり、己はササッと後ろに下がって、ぺったんこに這い蹲ってみせる。中途半端に頭をあげない。中間姿勢のまま、再び言う。「はっ、はあ~っ、誠、おそれながら・・・!まっ、幻の名茶器・・はあ~っ!」 黒田の正解結果として、黒田の判断は正解だった。恐れず、敵の懐に飛び込むの原理。家康としては、スゴいプレミア、超高級品をタダで貰ってしまった形!!▼さっそく、徳川家の宝物蔵に収納。なにやら知らんが、「はっ、はあ~っ、誠、おそれながら・・・!」という程のシロモノらしい。家康は、織田信長や、豊臣秀吉と異なり、「茶の湯」は初心者。対して、黒田は上級。セミプロクラス。その黒田が、目玉、真ん丸くして、「幻の名茶器」と申すなれば、誠であろう。その上、黒田のお見事、吃音(=ドモリ)の役者ぶりも、功を奏した。「まっ、誠の!」と言うし、「まっ、幻の!」・・と言うし。茶人としての家康とは、そんなレベルにすぎない。されど、家康なればこそ、腹を読む。暫し、考えてみた。なんといっても、この男、黒田長政とは、あの「黒田如水」の倅。如水は、関ヶ原の時、己は哀れな隠居爺と称して、参加せず、実は、九州で、タッタカタッタカ、猛烈に動きまくる。怪しいから、探りを入れるなれば、ツラッと回答してくる。「万事、貴方様の為でござりまする。悪者が、西の果てで暴挙せぬよう、この老いぼれなれど、一生懸命、お手伝いを。・・・ひとえに我が愚倅を宜しくお願い致しまする。」家康にしてみれば、「この野郎!!やり手爺い!成るほど、秀吉が黒田のチンバと一目置いた訳だ!」されど、抜かりない。尻尾を出さない。▼さればこそ、家康は、そう簡単に、黒田の倅ごときの作戦に乗るまいと、暫し考えた。とはいえ、引き換え条件を考えるなれば、どってことない。・・今や、落ちぶれて乞食同然になったという商人の一人や二人、いまさら!!黒田は、繰り返し、『商人』を強調していた。茶人といえば、かなり重要キーを握る。また、千利休の娘が妻ともなれば、これまた、ややっこしい。それらを総括して、言葉上、「たかが、没落の商人」の表現戦法で語ったのかもしれない。商人と言おうが、茶人と言おうが、家康は、この男の情報を全て把握している為、同じなのだが、神経を刺激しない動作発言論法、それに関しては、昔から、なかなかのテクニッシャン。それが黒田。いずれにせよ、「一咄斎」の首は繋がった。黒田が使用人として身元に置くも許された。というわけで、結果、お得!をゲットしたのは、またしても家康であった。名茶器「肩衝茶入_芳野」は、家康のモノになってしまった!!家康とは、ご存知のとおりケチであり、現実主義。当時のならわし上、茶の湯は、偉人の必修科目みたいなものだから、ある程度は、彼もたしなむが、織田信長や、豊臣秀吉達に比べものにならない。全然執着無し!・・と言い切っても間違いではないはずだ。彼という男は、そんな贅沢、そんな高額、勿体無い!!主義。とはいえ、今や、日本一の男として、名茶器を保持せぬでは、超お粗末!!・・・そんな中、「肩衝茶入_芳野」の存在ひとつで、突如、ぐ~んと家康の格を上げたことになる。尚、黒田が、「一咄斎を街で、偶然見かけた!」とは、・・多分、黒田の方便!!おそらく、密かなる人脈網をもって、黒田に泣きついてこられたのだろう。また、別の見方で勘ぐるなれば、こんな事も想定の範囲。▼プレミアの茶入れは、喉から手が出るほど欲しかったはずだから、危険覚悟で入手を自ら欲したかもしれない。・・・つまり、グレー要素も否定できないわけで、土壇場で、案外、ぐっと堪えて理性が蘇ったのかもしれない。・・・しかし、まさか、家康に、それは言えない。心に封印した過去の十字架、以外な人物と、不思議な「人助け連絡網」サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.5<No.6(現在頁)<★NEXT_No.7<・・・ここに記事が一番たくさんあります!▼
2013.08.19
石田三成が一咄斎に託した「肩衝茶入_芳野」涙の結末(その2),茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その5,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.5,織田秀信に贈った「狂言袴」他各種、三成の所持品と、その心No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その5)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.5<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」(その2)前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.4【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」_の続き・・■彷徨った「一咄斎」を収納したのは、黒田長政だった。徳川の世ゆえ、お届けの形は、こーゆーことになっている。▼或る春の日、場所は、筑前博多。たまたま、黒田長政は、偶然!(=白々しいが)、首に紐をかけた乞食坊主を見かけた。それを、よく見ると、「一咄斎」であった。城に連れ帰り、事情を聞いた。首の紐が妙だから尋ねると、堰を切ったがごとく「一咄斎」が告白。それは、「肩衝茶入_芳野」という名の名茶器。それを袋に入れて、紐で首から吊るしていた。ところが、問題は、石田三成の形見であること。黒田は、頭を抱えた。黒田長政(1568~1623)「一咄斎」は、涙ながら言う。「今の私は、このとおり、落ちぶれて、明日はどうなるやら。されば、あのお人を弔ってやりたくとも、なんら、できかねます。黒田様、ここは、どうか、お心広く、天のご慈愛のお心を!どうか、この茶器を、貴方様の、お手元に置いて下さいませ・・・。それだけでいいのです。・・・茶器とは不思議なものでござりまする。お持ちになられるお方が、貴方様程の茶人であれば、願ってもないこと。いきもののごとく、きっと、喜びまする。・・・それだけで、私は幸せです。それさえ夢叶えば、私自身は、天の裁きも怖くはありませぬ。」黒田は胸が痛い。心に封印した過去の十字架!黒田は胸が痛い。関ヶ原では、敵味方、憎い敵「石田」。そして今の黒田とは、とっくの昔に「アレ!」は捨て去った男。徳川の世に生きる限り、摩利支天は、無縁!ましてや、秀吉の時代に初に発令された禁教令以来、一切捨て去った・・・はずのアレである。黒田長政(1568~1623):筑前福岡藩主一応!完全棄教。とはいえ零名はダミアン。父も同じく棄教組。父の黒田如水は色々と有名人。この親子は処世術のプロながら、心の奥には、秘めて、封印されたアレ!がある。(秀吉がマークしていた黒田如水の話:「わしが冥土入りなれば、怪しいのは黒田のチンバよ!・・この話=歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会」心が揺れる!目が眩む!名茶器「肩衝茶入_芳野」の魅惑因みに、この茶器は、欲しい者にとっては、金を積んででも、是非入手したいシロモノ。現に、この黒田がその張本人。茶人の顔を持つ黒田。ぐらぐらと心が一瞬揺れた。欲しい!!高く買い取ってやろうか・・・?・・・されど、待てよ!それには危険すぎる。必死で堪えた。今や、日々の糧にも窮する身の「一咄斎」は、どこぞで売り飛ばすなれば、忽ち、相当の金になる。無論、売ったが故、石田絡みが露見して、その瞬間、御用!の確率も高いが、上手く、バイヤーを使えば、手数料を差っ引かれたとしても、半端な金じゃない。即刻、遠方への逃走資金に十分だ。それだというのに・・・断じて手放すことなく守り続けてきた訳に・・・黒田は胸が痛かった。とっくの昔に捨てたはずのアレ!が心の中、己を威圧してくる。まして、今や、あの憎い石田とて、仏。黒田の決断悩み悩んだ黒田は、結論を出した。これは、腹を括って、つつみ隠さず、家康様に届け出よう。そう、決心した。家康の前、陳述をした。内容は、おそらく、こんな形であろう。『街で偶然、一咄斎を見た。彼は、肩衝茶入_芳野を持っていた。これは、確かに、あの人物!(=石田三成)に絡む故、問題ながら、一咄斎は、たかが商人でござりましょう。願わくは、お咎めをお許し下されれば幸いです。尚、これほどのシロモノ、私ごときが、お預かりするなれば、バチがあたりましょう。幻の名茶器でござりまする。さればこそ、家康様、どうか、高貴な貴方様が、お手元にお収め下されませ!』黒田は見事な演出効果も怠らない。恐れおののくがごとく、仰々しく、この茶器を、畳の上、静々と滑らせて、家康に献上するなり、己はササッと後ろに下がって、ぺったんこに這い蹲ってみせる。中途半端に頭をあげない。中間姿勢のまま、再び言う。「はっ、はあ~っ、誠、おそれながら・・・!ま、幻の名茶器・・はあ~っ!」黒田の正解と、家康「一咄斎」=■鵙屋宗安、■鵙屋宗庵)、■万代屋、彼の名に由来する茶釜:現世のアート作品No.4に添付した商品【肩衝茶入&「万代屋緞子(=宗安緞子【どんす】)」柄の袋】も価値あり _サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<・・<No.4<No.5(現在頁)<★NEXT_No.6<・・
2013.08.19
石田三成が一咄斎に託した「肩衝茶入_芳野」涙の結末,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その4,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.4,織田秀信に贈った「狂言袴」他各種、三成の所持品と、その心No.35=石田三成の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その4)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.4<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」前頁から読む=No.1<前頁から読む=No.3【2】_石田三成が「一咄斎」に手渡した肩衝茶入「芳野」実は、石田三成のもう一つの名茶器「肩衝茶入_芳野」は、「一咄斎」という名の茶人が、しっかと受け取ったのだが・・な、涙!!現在頁は、その話。現代のアート作品:肩衝茶入&「万代屋緞子(=宗安緞子【どんす】)」柄の袋 __時は同じく1600年、関ヶ原の年。大垣城を占領して、ここに篭る石田三成ながら、いよいよ、雲行きは、宜しくない。味方に、内通者、裏切り者が多発。しかも、それが明確なればまだよいが、居るには、居るが、答えはグレー!・・そのタイプが山盛り混入している。・・・(戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種)三成が発した飛脚は、ことごとく、家康の手の者に捕縛されて、先方にちっとも届かないどころか、秘密がガンガン、敵に漏れて、丸見え!!どんどん、奈落の底。そんな中、昔ながらの長いつきあい、商人がひとり居た。彼の名は、「鵙屋宗安(庵)」という。またの呼び名は「万代屋」、「一咄斎」。堺の一流商人であり、茶人でもある。妻は千利休の娘。(茶の湯と戦国侍series目次)茶の湯好きの秀吉にも気に入られ、城に出入りした一流の男だ。この男は義理堅い。商人とは、皆、誰よりも敏感。シフト切り替えも妙に早い。ところがこの男は義理堅い。鵙屋と同じく、堺の豪商といえば、「今井宗薫」が有名だが、こちらは、いち早く、家康に靡いている。それだというのに、宗安は、全く心変わりしない。密かに三成を支えてくれる。「この男に会えるも、これが最期かもしれぬ。」決意した三成は、お気に入りの茶器「肩衝茶入_芳野」を、宗安(=一咄斎)に手渡した。これは、厳密に言うと、手渡したというよりも、返してやった・・・に等しい。茶人としての側面も持つ三成は、昔、この男に懇願して、金を叩き、無理やり、売って貰った。しかし、ここまで戦況が悪ければ、このままでは、戦で木っ端微塵が関の山。名茶器には、魂が篭ると一般に言われるが、まさに、そんな気もしてくる。▼欲しくて、欲しくて、やっと手に入れた茶器は我が子のように可愛い。愛着の深い宝物は、宝物の領域を超え、恰もイキモノ。今日の感覚でいえば、愛犬や愛猫みたいな特有の感情を覚えるようだ。勿体無いというよりも・・可愛そうで仕方ない。されば、心から愛してくれる人に譲りたい。この時、三成の思いは、まさにそれと思われる。そこで、三成の意を解した一咄斎は、これを大切に抱え、脱出してゆく。▼とはいえ、宗安(=一咄斎)の運命も悲壮だ。関ヶ原の戦後関ヶ原の戦後、案の定、石田三成は、戦犯首謀者として斬首された。▼今や、徳川の世。当然、西軍、石田三成側を応援した商人も、生きてゆけぬ。単に、高額の献金を強制的に毟り取られる程度ならよいが、秘密を握っている状態にあれば、お尋ね者である。どうやら、一咄斎は、後者側のようだ。以降、彼は、一咄斎。「鵙屋」も「宗安」も「万代屋」も・・それらは、全て捨てた。彼は、身ひとつで堺を出奔。薄汚い乞食坊主のごとく襤褸を纏い、西へ落ちていった。脳裏を過ぎるあの時の記憶。三成は、言った。三成は、あの時、こう言った。「私に、もしものことがあれば、その後、そなたは、時折、茶をたてて、ふと思い出してくれたら、幸いじゃ。一流の茶人のそなたの手元に帰れるのだから、この茶器は、さぞや幸せだろう。」一咄斎は、その場面を思い出す度に涙が出る。今や、己は落ちぶれて、優雅に茶をたてるなど夢物語。懐には、肌身離さず、袋に入れた「肩衝茶入_芳野」を抱えている。首から紐をかけて、落とさないように、大切に持ち歩く。今や、この茶器は、三成の形見。行くあてもない惨めな旅道中、一咄斎は、三成の思い出が心を過ぎる。「人は皆、彼のことを、横柄者と言うが、あんなに純な男は、他にいまい!」天に向かって叫びたいくらいだ。心に共通のモノを秘めて、温める者同士とは、特有の連帯感がある。横柄者のレッテルを背負う三成は、一咄斎の前では、いつも少年のように純だった。最期に、手渡された時、一咄斎が涙するから、三成が下手な冗談を言ってくれた。「いや、この茶器はのう、そなたに、今、手渡しただけじゃ。もしかすると、後で、買い戻すことになるかもしれんぞ!」笑わそうとしたのだろうが、全然笑えなかった。「あのお人は・・・下手糞なお人。」歩きながら、涙が、こぼれてくる。彷徨った「一咄斎」を収納したのは、黒田長政だった。サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<★NEXT_No.5<・・
2013.08.19
石田三成が織田秀信に贈った茶器「狂言袴」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その3,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.3No.35=石田の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その3)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.3<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種高貴なお坊ちゃま「織田秀信」(※)できるだけ、早めに降伏・・のつもりが、アララ!のエピソード初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2超お洒落な習性が運命を変えてしまった「織田秀信」の偶然そもそも、石田三成に、「狂言袴」を貰った頃、今だ、居城の岐阜城に居たことすら、完全に偶然。上記のとおり、「織田秀信」とは純心ボーイ。疑う事を知らない。上杉討伐に参加してなかった訳早くから、家康によるお手紙が届いていた。▼「会津で、上杉が謀反でござる。豊臣に謀反ですぞ。それ故、私、家康は、豊臣忠義の為に、この悪者をやっつけようと、東征にまいります。殿も、いち早く駆けつけてご参戦下され!」織田秀信の場合は、他の大名と異なり、家康には珍しく、高圧的態度を少しオブラート。▼秀信はスレてないから、「なにが、『私、家康は、豊臣の忠義の為』・・じゃ!」「なんで、上杉の挙兵が、豊臣への謀反じゃ!・・家康よ、それは正反対じゃろうが!お前こそ謀反人じゃ!豊臣の為とのたまうが、それは、お前の私戦じゃないか!!」・・★だなんて、少しも思わない。万事、素直!★▼「それは、大変じゃ。されば、我自ら、行かねばならぬのう!」そう語るなり、早速、戦の衣装をフルセット、商人に注文したのでありました。▼ところが、お洒落さんだから、好みが煩い。あーでもない、こーでもない。その上、「そんなダサい衣装では、亡き祖父、信長公のお顔に泥を塗るも同然じゃ!」・・などと、言って、衣装の準備に、大層、余計な時間がかかっていた。★故に、今だ、岐阜に居た!!・・そうでなければ、今頃、既に関東の道を急ぎ駆け行くのはず!!超お洒落な習性がまたしても、第二の災いに!!家来達の反対を押し切り、ついに、西軍として、堂々、敵を迎え撃つことに。重臣は、しきりに、篭城を薦める。うまくいけば、無傷で万歳!降伏も可能。予定でゆくと、攻め手は、既に内通済みの「福島正則」のはずだから・・・。ところが、段取りどおり、福島が攻め手・・だったら良かったが、とんでもない番狂わせ発生。ところが、この若い殿様は、篭城を拒む。せっかく特注した最上級の戦衣装。これを着て、外に出ると言って、引かない。無論、まさか、彼がそう言ったわけではなくて、実際は、「篭城とは、臆病者の為す事。亡き祖父、信長公の御名に恥じぬよう、我は、討って出る。」の意を語ったのだが、後で思うと、そうとしか思えぬ状態。しかし、家来としては、殿の命令なれば仕方ない。▼殆ど、意味はないのだが、新品の戦衣装に身を飾った美しい若殿は、四方を皆に守られながら、ちゃんと、城外に暫し突っ立って、敵を睨んでいる。(危ないから、すぐ、ひっこめられるが・・。)コレは、敵がちゃんと目撃している。しかもびっくりしている。なんちゅう美しい若殿っ!・・・・(そりゃそうだ!特注の新品!高級衣装!)しかし、これが原因で、犠牲が出てしまった。しかも攻め手は次から次とやって来るし、上記のとおり、「予想外の番狂わせ」のおかげで、福島の手の者の前に、池田輝政が!!これは、たまらん!池田が本気の猛攻撃!もうダメだ。池田輝政が先に来ちゃった!その訳と、その絡みの話:後日別件でご案内します。いずれにせよ、被害絶大。池田の攻撃は半端でない。犠牲者多発。「殿っ!もう、なりませぬ。これ以上の犠牲はなりませぬ!」・・・家来が叫び嘆願。密かに内通している重臣まで、予定外の傷を負ってしまった。(まさか、殿には言えないが)されど、この犠牲は痛かった。純心な若者にとって、生まれて初めて、戦による臣の死。しかも、己の決断故の犠牲。あまりにもダメージだった。これには、すっかり、心を痛めた。深く反省した。もう、これまでだ。降伏を決意。敵が城に雪崩れ込んで、開城を強要された。この時、若様は、家来が、内緒で、福島に内通していた事を知らない。本気で、己の最期を覚悟している。己の首ひとつを引き換えに、家来の助命を願う決断に揺ぎ無し。この人物は、お上品すぎて、皆と次元が違う不思議な行動をやらかすわりには、勇ましい侍精神そのものは、全く狂っていない。やはり、信長の孫である。▼ところが、土壇場で、いきなり、紙と筆を要求した。「ちょいと待て!逃げも隠れもせぬ!」さらり、サラサラ、書き始めた書類は、何かと言うと、なんと、家来達の証明書であった。今、自分は冥土へ旅立つ。されば、家来達は、助命されど、皆、失業して浪人になる。それは、可愛そうだ。個別に、各人の実力証明を、細々と書く。技能、功績、人物評価!!▼こうして、な、涙!の落城場面・・・に、世にも珍しい光景が展開された。・・・サラリ、サラサラ、筆の音!!色々と、拍子抜けする場面を抽出してくれる彼ながら、その根底は「隣人愛」であった。▼この不思議な光景の中、その傍らでは、もうひとつの不思議な光景が。人知れず、涙を必死で堪えているのは、福島正則であった。・・・お救いせねば!なんとしても、この清い御人を、我が楯になって、お救いせねば!我こそ正義じゃ!我こそ、豊臣報恩じゃ!おのれ、三成!貴様に、豊臣報恩面をさせてたまるものか!福島のこの発想は、織田秀信と異なり、「THE_隣人愛」には全く関係ないのだが、豊臣マイラブ。その強い信念は、一種宗教にも近い。おかげで、後に、受難が降って沸く。家康による「豊臣恩顧派」潰しの嵐。彼の死亡は、1624年にて、大阪の陣(1614&1615)も乗り切っている為、数値だけ見ると一見、自然死に見えてしまうが、そうではない。家康流「用が済んだらサヨナラ!」は、ご本人が死んでも、ちゃんと徳川次世代に伝播!完全に悪意の改易。己は隠居して倅世代にかけたが、その倅も若くして死亡。消耗失意の死亡。まさに、ボロボロ。 尚、上記の「織田秀信」家の家来のその後。▼この家に於ける家来衆の、トラバーユは、なかなか効率的に運んだ。殿直筆の実力証明書は、ちゃんと威力を発揮したことになる。次頁は、石田三成の、もうひとつの名茶器の話題。これは、「一咄斎」という名の人物が受け取っている。サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<No.2<No.3(現在頁)<★NEXT=上のNEXTボタン=No.4<こちらも・・お救いせねば!なんとしても、我が楯になって、お救いせねば!▼
2013.08.18
石田三成が織田秀信に贈った茶器「狂言袴」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その2,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.2No.35=石田の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その2)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.2<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種高貴なお坊ちゃま「織田秀信」(※)できるだけ、早めに降伏・・のつもりが、アララ!のエピソード前頁から読む=No.1【1】_狂言袴と、織田秀信:の続き・・・織田秀信とは、織田信長の孫。高貴なお坊ちゃま。MOREは、前頁No.1の「織田秀信MEMO」ご参照高貴なお坊ちゃま「織田秀信」(※)できるだけ、早めに降伏・・のつもりが、アララ!のエピソード前頁のとおり、家来達は、できるだけ早く、降伏してしまう予定でいた。極力、篭城作戦をこの若い殿に薦め、その隙に、密かに開錠して、福島の手の者を招き入れ、願わくは、全員無傷を狙っていたわけだが・・・。困った事に、大層、手を焼いた。(結論は、降伏以外の何モノでもないのだが!)まず、このお坊ちゃまについて。本能寺の変にて、織田信長が明智光秀に討たれ、その倅の織田信忠も絶体絶命。もはや、これまで!と自刃に至ったわけだが、その時、最期の遺言が、「この子を頼む。三法師を頼む!」であった。聞き届けた家来とは、前田玄似(1539~1602:関ヶ原非参戦&内通)という名前のお茶坊主。家来としては、殉死のつもりだったが、殿の生々しい懇願ともなれば、一大決心。燃え盛る炎の中、赤ん坊の三法師(=織田秀信)を抱きかかえて、大脱走劇を演じた。・・・(▲不謹慎ながら、この場面は、ドラマとしては、最高の華が取れる場面)前田は、その後、この功績から、豊臣秀吉のお側に控え、このとおり▼、大出世。豊臣五大老&五奉行システム下の、五奉行の一人になっている。(関ヶ原突入の要因考察と、構図:表示先頁下側一覧)彼の場合、一時の勇敢のみならず、なかなか、おもろいキャラでもある。お話上手。すっかり、秀吉のお気に入り。(こんな場面でも、活躍している。歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会)それはそうと、即ち、織田秀信にとって、前田玄似は命の恩人。その為、幼い頃から、よく懐いた。玄似の言う事なれば、なんでも言う事を素直に聞く。前田玄似は、処世術巧み。長いものには、巻かれるべし!・・の原則を解している。よく考えるなれば、こんなふざけた話はない。秀吉は、織田信長の臣として、忠義の証に、明智を討ったまでは宜しいが、孫の秀信を、一人の大名として岐阜城に入れるということは、言うなれば、下克上である。だが、この幼子が成長するに及んで、それに気が付くなれば、謀反を起こし、必ず、討たれてしまうだろう。そこで、前田は、時勢を読んだ暁、徹して、「秀吉はいい人なのだ!」のストーリーを、暦年、言い聞かせて育ててきた。その効果抜群。織田秀信は、全く僻むことなく、素直に、このふざけた上下関係を悩む様子無し。寧ろ、彼は、ロマンに酔っている・・・ともいえる。断末魔の父が、最期の瞬間迄、注いでくれた愛。前田玄似の勇気で、奇跡的に救われた己の命。そして、支えてくれたのは秀吉なのだ・・・と、頭の中、すっかり、できあがっている。▼当然のごとく、こうして彼はマリア様の世界に突入してゆく。とはいえ、こーなると、ちょいとばかり薬が効きすぎた!!1600年、関ヶ原の時点、家来達は、必死になって、「目を覚ませ!豊臣報恩なんて、実は関係ないぞ!」の旨を語って聞かせようと、あの手この手。ところが、いまさら手遅れ。染まっている。特に、石田三成に、「狂言袴」を貰った後は、さらに、強固なる豊臣報恩思想が!!石田のトークは、さぞ、この純心な若者のハートを掴んだのだろう。「お世継ぎ、秀頼様は、僅か7歳ですぞ。幼いのをいいことに、家康は腹黒い策謀を!哀れな幼子の為に、どうぞ、勇気を!一緒に、豊臣を救いましょうよ!」これ、多分、石田も、方便でなくて、純心と思うんですね。だからこそ、ハートが呼応した。乳飲み子の時、炎の中、奇跡的に救われた己。そして、今、大阪に居るのは、悲劇の幼子「秀頼」。こりゃ、織田秀信が、まっしぐら!になるのが、よく解る。完全に彼の過去と折り重なるから。織田秀信の一大決心、その発言には、家来一同、腰が抜けた!「世(=私の意)は、死んでもいい!この命に代えても、秀頼様をお救いするのじゃ!」あわてて、大阪に居る前田玄似から、助言が届く。「・・されど、殿っ!どうか、お心をしっかり!!私も立場上、表向きは、西軍ながら、その私だからこそ、真理が見えております。西軍は勝てはしませぬ。必ず、家康が勝ちます。さればこそ、今すぐ、東軍にお入りなされ!!」・・前田玄似は、家康に内通していた。されど、万事、手遅れでありました。運命は、西軍として、関ヶ原、突入!!超お洒落な習性が運命を変えてしまった「織田秀信」の偶然サイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1<No.2(現在頁)<★NEXT_No.3<・・
2013.08.18
石田三成が織田秀信に贈った茶器「狂言袴」,茶の湯と戦国侍No.35=石田三成編_その1,石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.1No.35=石田の「狂言袴」編茶の湯と戦国侍_No.35=(石田編_その1)石田三成の「狂言袴」が悲しい_No.1<石田三成の遺品について、小コラム>■織田秀信に贈った「狂言袴」、■一咄斎に手渡した肩衝茶入「芳野」、■田中吉政に授けた「切刃貞宗」少年時代の可愛い石田三成、豊臣秀吉との出会い話はこちら「秀吉と、少年:真夏の緑茶三杯!=series_No.5」・◇真夏の滋賀の里、山寺、秀吉は緑茶三杯!少年三成(佐吉)の機転。一目で、少年の聡明を見抜いた秀吉。■戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次、■戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種1600年の関ヶ原で敗れた「石田三成」は、歴史上の悪者のレッテル貼られたまんまで、実に胸が痛い。それでも、今日、三成ファンクラブも密かに発足のご様子にて、内心嬉しい。勝てば官軍。負ければ賊軍。古今東西、共通。負けたから、悪のレッテル。彼に関して書こうとすると、言いたい事が山盛り。ちょっとや、そっとじゃ終わりそうもないので、今回は、彼の「茶人の姿」にスポットを絞って、三成のコレクションを少々、ご紹介します。【1】_狂言袴と、織田秀信これは、「石田三成」が、織田秀信(※下側メモご参照)に、贈った品物。秀信とは、織田信長の孫。三成は、関ヶ原の合戦への運び工程の中、この高貴な若者を是非、我が西軍に引き入れたい。そこで、居城の佐和山城にご招待。関ヶ原突入の1600年の段階、織田秀信は20歳。この人物は、爺ちゃん「信長」のおっそろしい血を引いているわりには、性格は、全然穏やかで、ひたすら、お上品。その上、スレてない。狂言袴(茶入):現世のアート作品▼丸っぽい模様と、ズン胴が特徴。丸っぽい模様は、狂言師の袴模様を連想するから、この名前の由来。悪く言えば、現実離れした貴族的優雅のタイプ。しかし、こーゆー高貴なタイプには珍しく、非常にピュア。純心ボーイ。実は、心の中、マリアさんが住んでいる。キリシタン大名である。当時、名茶器というと、プライスは、だいたい、城一つ建つぐらい高価。しかし値段よりも入手が困難。まさに家宝。「石田」の接待で、憧れの名茶器「狂言袴」を見せて貰って、大感激。見ただけでも満足なのに、突如、石田が語る。▼「宜しければ、差し上げましょう。私のような者が持っているより、貴方様程のご身分の方に、貰われてゆくのは、きっと、この茶器も大喜びでありましょうから・・・。」▼「えっ!?・・良いのか?本当に良いのか?」どことなく今だ少年の面影を残したこの若者は、頬を赤らめ、喜んで、持ち帰っていった。すっかりゴキゲン。ニコニコしながら、繰り返し礼を言う。▼「治部少(※)、すまんのう。恩に着るぞ!」(※)治部少:フルは、治部少輔。当時、三成は、仕事の役職柄、皆に、こう呼ばれていた。というわけで、悪く言うと、三成に買収されてしまったみたい!な形ではあるが、▼しかし、こーゆータイプは、騙されたケースは別として、基本的に腹黒いタイプには靡かない。三成の中に「ピュア」を見なければ、本能的に懐かない。この話、ややっこしい為、現在頁では詳細割愛ながら、実は、三成も、人知れずして、「オーガスチン」の洗礼名を持つ男でありました。さて、織田秀信の家来はびっくり仰天!関ヶ原の構図上、賢い家来達は、この若殿を説得して、当然のごとく家康側東軍に参加させるつもりでいた矢先、若っ!が勝手に三成応援団西軍にくっついてしまった。▼そこで、なんと、この織田秀信は、正真正銘「西軍」として関ヶ原突入の宿命。とはいえ、賢い家来は、手回し。東軍の「福島正則」に必死の嘆願書を事前に送って内通。「若殿は、三成に騙されて、迂闊にも西に付いてしまいましたが、できるだけ、早めに、素直に降伏します(※)から、どうか、命を助けて下さい。」(※)できるだけ、早めに降伏・・のつもりが、エピソード有り:次頁に追記▼「福島正則」とは、武勇の男。血の気豊富でガルガル。ところが、案外人情脆い。案の定、秀信の城「岐阜城」が落ちた時、皆が自刃を強制する中、一人、体を張って、それを阻止。▼「他の大名とごっちゃにするな。この御人は、尊いお方。信長公のお孫様じゃ!文句あるなら、俺が勝負する!内府様(=家康のこと)には、俺が談判する。俺は、全ての手柄を剥奪されてもかまわない!命に代えても、この尊い御人をお助けしてみせるぞ!」「福島」は、少年の頃から、豊臣家の台所で育てられた身であり、親戚筋。根っからの秀吉報恩派。ところが、石田憎し!のあまり、今、己が居るのは東軍。「豊臣報恩!お世継ぎ_豊臣秀頼(1593~1615:この時7歳)様の為に!」の美しいシナリオは、石田側に独占されてしまっている。自分にも、美学に陶酔できる題材が欲しい。秀頼を石田に奪われた以上、こうなりゃ、今は亡き秀吉が、信長への忠義の証に、大切に育てたと聞き知る織田秀信(=信長の孫)を救ったのは、この俺だ!・・・そう思いたい。なんとも、滑稽なほど、猛烈なセンチメンタルになっていた。というわけで、首は繋がった!「織田秀信」・・・のはずが、変な時期に変な形、変に!お病気死亡!!▼織田秀信_MEMO織田秀信【天正8年(1580)~慶長10/5/8(1605)】・◇秀信=「信長の孫」。織田信忠【=信長の倅】の長子。 幼名は三法師。 通称:岐阜中納言。・◇キリシタン大名。岐阜城主。官位:正三位中納言、・◇関ヶ原の戦後、裁きの結果、命は許されるが、出家して高野山。▼ところが、こんなに若いのに、僅か5年後、慶長10年、早々、お病気!?にて死亡。なぜか知らないが、あっちゅう間に、病死。なんだか、丁度宜しいタイミングで、お若いお方が、コロッ!(よくある話!。こーゆーケース、死因に、これまた、なぜか、痘瘡が多い。)嗚呼、「狂言袴」が泣いている!新しい飼い主さん?もご臨終!高貴なお坊ちゃま・・できるだけ、早めに降伏・・のつもりが、アララ!のエピソードサイトTOPは犬猫サイト<歴史 <戦国侍と茶の湯:裏話特集series目次石田三成の「狂言袴」が悲しい!:No.1(現在頁)<No.2<・・
2013.08.17
関ヶ原突入要因考察と構図,戦国侍の気持ち!ハートがメキメキ解る!,戦国侍と関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集No.4,【楽天市場】,本各種と各人コラムページへの導入,戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集_No.4(No.4)は、関ヶ原突入の要因考察と、構図関ヶ原&大阪の陣気になるのはジャスト結果よりも、その後の余波と不気味な変遷。そこで、大阪の陣迄■関ヶ原:慶長5年(1600)、■大阪の陣:慶長19&20年(1614&1615)___<東軍の顔一例>加藤清正:(加藤は関ヶ原現場には居ませんが起爆の重要キーマン。)、福島正則、この二人、石田三成憎し!の巨魁。「文禄・慶長の役(=朝鮮出兵政策)」に於ける現場の汚名を蒙り、素行悪し!として罰を受けた。原因は、石田が秀吉に提出した陳述書。ますます殺意に燃えるところに家康が付け入り、二人を「噛ませ犬係」で利用するところに、関ヶ原の起爆剤。_<西軍の顔一例>■石田三成(1560~1600:斬首), ■小西行長(1558~1600:斬首), ■安国寺恵瓊(1539?~1600:斬首),■大谷吉継(1559~1600:関ヶ原現場切腹死亡)、 _ _その時、助命されたはずが、いつの間にやら、変!な形で変!に死んでいる人山盛り!断絶、敗者 ___関ヶ原の東軍側立役者:一例御大将=徳川家康(1543~1616) ■細川忠興(1563~1646)、■黒田長政(1568~1623:黒田如水の倅)、■浅野長政(1547~1611)、■浅野幸長(1576~1613:左の長政の倅)■藤堂高虎(1556~1630)、■加藤嘉明(1563~1631)、■池田輝政(1565~1613)■福島正則(1561~1624)、■加藤清正(1562~1611):(加藤は関ヶ原現場に参加せず、九州に居るが重要キーマン)◎五大老&◎五奉行◎五大老■徳川家康(1543~1616:関ヶ原東軍御大将張本人)、■前田利家(1538~1599:関ヶ原時死亡済み)、■上杉景勝(1556~1623:関ヶ原西軍_出羽国戦担当:戦後減封)・・戦場は関ヶ原でなく、石田三成との約束上、この合戦の火付け役担当の為、出羽国。・・関ヶ原西軍側勢力の「慶長出羽合戦」側で参戦=これを「東の関ヶ原」とも言う。)■毛利輝元(1553~1625:) ・・・関ヶ原西軍側勢力ながら、自分は参戦せず、一部親族を西側として一応出陣させている為、戦後減封■宇喜多秀家(1572~1655:関ヶ原西軍_戦後逃亡捕縛流刑)◎五奉行石田三成(1560~1600:関ヶ原西軍=結果斬首)、長束正家(1562?~1600:関ヶ原西軍=自刃)、増田長盛(1545~1615:関ヶ原非参戦&内通)、前田玄以(1539~1602:関ヶ原非参戦&内通)、浅野長政(1547~1611:関ヶ原東軍)、サイトTOPは犬猫サイト<人の暮らし&趣味&読書<歴史の分野<戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビ頁」<【戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集】:No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)
2013.08.17
戦国侍の気持ち!ハートがメキメキ解る!,戦国侍と関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集No.3,【楽天市場】,本各種と各人コラムページへの導入,戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集_No.3戦国侍の気持ち!&ハートがメキメキ解る!(No.3)は、キャラ&顔!!から約3名ご紹介■宇喜多秀家、■小早川秀秋、■大谷吉継初めから読む=No.1<前頁から読む=No.2歴史への招待席は、発端は、たとえ、軽~いノリでも良し!キャラ&顔!!からスタートだってかまわない!!戦国侍といっても、ブサイクなおじさん?ばっかりじゃないよ現世、道歩いていても、全然不思議無い顔も居るヨ。■【1】_宇喜多秀家:170センチ:当時としては長身の好青年・・・【元亀3年(1572)~明暦元年11/20(1655):83歳「関ヶ原」の負け軍西軍=逃亡潜伏=流罪。生涯島流し流人の身。されど長寿を全っうした人現代人的顔してるでしょ。現世、道歩いていても、全然不思議無い顔。長寿を全っうしたパワーは、アシタバご飯!(宇喜多秀家と明日葉)勇ましいし、性格もいいし、いい男と評判。唯一玉の瑕は、お家騒動で、家来が二派に分裂。自分で解決しきれず、人に調停を泣き付いた。これを史実上の「宇喜多騒動」という。_ _■【2】_小早川秀秋(1577年~ 1602年12月1日:25歳没 )悔しいナ!必死で楽天中、掘っ繰り返したが、表紙に彼の肖像画添付された本、無い!!実は、びっくりするほど可愛い顔してます。まるで、漫画の「子ネズミ坊や!」が困ったような顔。昔、初め見た時、なんかの間違いか?と思いました。この時代の日本画だというのに、まるで、現世のイラストレータが描いた絵みたいな顔なんですよ。お目々の中に、お星様キラキラ!してやりたいような!!左の本では、「ボヤキ」の字の真下、ちっちゃいけど、垂れ目で、頬のふっくらした子が居るでしょ。コレが、かの有名な小早川秀秋20歳過ぎても、この顔。関ヶ原(1600)の合戦の際、真っ先に、裏切りを開始。西軍についていたはずが、突如、仲間の大谷吉継軍に襲い掛かって、殺し始めた!!・・・ということで、ワルモノにされてますが、非常に可愛そうな子!!翻弄されて、涙を堪え、裏切ったのに・・・典型的、家康流陰謀!!あっちゅう間に、悪者!ダメ男のレッテル貼られて、自刃に追い込まれる宿命。 ▼利用されて、用が済んだら始末されてしまった!!ドラマや映画では、男性のナレーターの低い声で重々しく、世紀の一瞬を語る。「この時、ついに、かの有名な瞬間到来!小早川秀秋による裏切りである!!」・・・テンテンテンと。この後、もれなく、効果音は津軽三味線の・・ジャジャカジャン!デデ、デンデン!馬の嘶き!軍勢の鬨の声!多分、画像はスローモーション効果。 ▼・・・されど、その大悪漢?たるや、「可愛そうな子ネズミ坊や!」の顔であります。子宝に恵まれぬ豊臣秀吉は、親戚から、この子を貰ってきた。その時のミニエピソード。秀吉は、一目で、この子が可愛くて、可愛くて、も~うダメ!犬の子か、猫の子みたいに、掴んで離さない。「コレにしような。この子にしような!こんな可愛い童は、初めてじゃ!!」▼ところが、子供が生まれてしまって、仕方ないから養子に出された。その為、苗字が小早川に。▼なるほど、確かに可愛い。20歳になっても、なかなかゴッツくならない。少年の顔のまま。25歳で死に追い込まれた時も、多分、同じような顔だったでしょうネ。▼陰謀に填められて、「仕事は無能の上、荒れて、酒に狂って乱暴者!」の噂!・・追い込まれて阻害されて、主な家来がどんどん離れてゆくから、一部事実だが、それが即ち、陰謀!!填められたら、誰でもこうなる!!(小早川の特集、そのうち、いつか・・考え中!)男の中の男!大谷吉継 大谷吉継(1559~1600:関ヶ原現場切腹死亡)石田三成を友として必死で説得したが、止めきれず。事態は引くに引けぬ状態に。義の為に、友の為に、関ヶ原に散った男。因みに、上記の「小早川秀秋」の裏切り時、まさにその犠牲になった隊が、この大谷吉継。彼は頼病に苛まれ、顔面をいつも覆っている。抜群の軍将だが、この頃、視覚も失っている。それでも戦場で自ら指揮を下す。小早川の攻撃襲来に、切腹を遂げた。彼について、サイト内、特集はまだですが、幸い、彼の本は比較的、出回っています。おそらく、彼に感動しない人は居ないはず。No.4:関ヶ原突入の要因考察と、構図サイトTOPは犬猫サイト<人の暮らし&趣味&読書<歴史の分野<戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビ頁」<【戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集】:No.1<No.2<No.3(現在頁)<★NEXT_No.4
2013.08.16
戦国侍の気持ち!ハートがメキメキ解る!,戦国侍と関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集No.2,【楽天市場】,本各種と各人コラムページへの導入,戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集_No.2戦国侍の気持ち!&ハートがメキメキ解る!【前頁】_おカタく考えない!好きな食べ物や、お気軽談話にスタート【現在頁】_導入コース、&、知ってるつもり!の「おさらい復習」に最適版前頁から読む=No.1読書の法則に、おカタイ掟なんて無いヨ!初めは、ホーホケキョ!あっ!そうかい!ヘぇ~っ!・・ヘケキョ!もOK!・・サクサクッ!と、気楽に読んでみる。個別談話中心構造の為、・・歴史背景、関連人物など、全然詳しくない!苦手分野があっても、紐解きに苦労しない。▼気になる人物が一人でも見つかったら、その後、関連編や、個人編へステップすれば良いのでありんす!伊達政宗、直江兼続、上杉謙信、北条早雲、今川義元、武田信玄、真田幸村、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、浅井長政、石田三成、足利義昭、明智光秀、毛利元就、毛利元就、長宗我部元親、黒田如水、加藤清正、大友宗麟、島津義弘・・・ご家系ごとに読んで、イチイチ納得!なるほど!■伊達政宗、■直江兼続■上杉謙信:戦国ながら、断固妻を娶らなかった男!■北条早雲:下剋上&出所不明の怪しい出自なんかでない!■今川義元:義元(五男)が家督相続できた訳は何?■武田信玄:盛んな姻戚構築、領国拡大の鍵■真田幸村:なぜ親兄弟で戦う運命を選んだのか?・・仲良く納得、涙の決断、関ヶ原で、東西に分裂参戦。■徳川家康、■織田信長、■豊臣秀吉:最大の悩みの種=「実子問題!」■石田三成:憎まれ役?んっ?、■足利義昭:策士、■明智光秀:有名人なのに謎だらけ!■毛利元就:山間の城主が戦国大名に、■長宗我部元親:晩年のラストミステイク、■大友宗麟:貴族化した名門大名の限界、■島津義弘:一族の内紛を制して九州統一へ、■浅井長政:覇者の夢は無念、破れた男の悲劇 当サイト特集内にも「浅井長政」絡み:信長に於ける「裏切り者の定義」と残酷処置、◇天正2年正月「頭蓋骨(髑髏杯)の杯」:被害者=(浅井長政、浅井久政、及び、朝倉義景)・・「織田信長と、松永弾正久秀と平蜘蛛特集内「No.24」■黒田如水:名軍師!戦国有数の猛将、当サイト特集内の「黒田如水」ちょい話(黒田のやり手!状態を秀吉が活写):■歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会:特集内の秀吉発言「黒田のチンバめ!!」■加藤清正:清正の輝かしき活躍と子孫の悲劇、当サイト特集内の「清正ファミリーの受難」を取り扱った編・・徳川幕府による「恐怖の加藤潰しの実態」が解ります。【榊原康政「superstition!」との戦い!IN館林藩特集】内の後半からその様子が解ります。清正の娘を娶っていたこの家「榊原家」まで、大騒動!、それを助けた「安部家」まで、飛び火大騒動!<関ヶ原を読んでみる> ___ .歴史への招待席は、軽~いノリ!やや軽薄?動機スタートだってかまわない!!キャラ&顔!!から、約3名ご紹介(No.3)サイトTOPは犬猫サイト<人の暮らし&趣味&読書<歴史の分野<戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビ頁」<【戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集】:No.1<No.2(現在頁)<★NEXT_No.3
2013.08.16
戦国侍の気持ち!ハートがメキメキ解る!,戦国侍と関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集No.1,【楽天市場】,本各種と各人コラムページへの導入,戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集_No.1戦国侍の気持ち!&ハートがメキメキ解る!大昔すぎて、人間感情がピンと来なかった戦国侍の気持ち!それが解ると、突然、楽しい!突然、な、涙!・・・全然、人事でない!!.妙~っ!に義理人情に泣けるタイプも居れば、苦虫、一匹、二匹、堪えまくりの「現世サラリーマン特有ストレス」に随分そっくりさん!も居る。★思わず、ブチ切れ!の瞬間、その気分って、全然、人事でない!!初心者コース、導入編から、各種突っ込み迄。関ヶ原に突入するに際し、皆の累積した「感情問題」他戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビの頁」:えとせとらNo.20内__..戦国侍を興味深く読み始めるには(その1)【現在頁】_おカタく考えない!好きな食べ物や、お気軽エピソードを軽く知るところにスタート【次頁】_導入コース、&、知ってるつもり!の「おさらい復習」に最適版【武士の飯】■戦国の有名人達の好きな食べ物と、その人物の結果から分類の項目別に、面白くご紹介してくれる本■天下人_豊臣秀吉「豆味噌の握り飯」他<メンバー>豊臣秀吉、前田利家夫妻、加藤清正、黒田長政、上杉謙信、武田信玄、織田信長、石田三成、明智光秀、徳川家康、宇喜多秀家、毛利元就、天海、鍋島直樹、伊達政宗、春日局、毛利輝元、大久保彦左衛門、高山右近・・・。■戦国侍に学ぶ元気パワー食生活特集実際そのままお買い物できる現世商品ビジュアルと一緒にご紹介してます。▼◇秀吉の「豆味噌」に因んで、お味噌の食品◇織田信長「あわびと焼き鳥ご飯」、◇108歳長寿の天海「たこ飯」、◇宇喜多秀家の「アシタバご飯:ビタミン他各成分優良食品」他実は、私的に、「偉人と食べ物」&「食べ物に係る以外な歴史」が大好き!!その為、当サイト内、各頁に、関連記事、一杯、飛び散っております。■グルメ玄関、【食と日本!お気軽文化歴史関係】■幕末背景を知る(文化、風刺、食・幕末現代アラカルト、■TEXT版ガイド(幕末話も覗き見■将軍と現代食考察SERIES小玄関、■幕軍&松前えとせとら「食と健康編」_Vol.12■武士の健康術<メンバー>北条早雲、武田信玄、上杉謙信、毛利元就、日野富子、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、山内一豊、伊達政宗、石田三成、前田利長、大友宗麟、佐竹義宣、古田織部、直江兼続、徳川家康、忍者編、番外編 まだまだ、一杯、おすすめ本!:No.2サイトTOPは犬猫サイト<人の暮らし&趣味&読書<歴史の分野<戦国侍達のエピソードを覗き見「ナビ頁」<【戦国侍と、関ヶ原突入の要因を軽く読むオススメ本各種特集】:No.1(現在頁)<★NEXT_No.2ここに記事が一番たくさんあります!▼
2013.08.16
徳川家康_漁夫の利に至る迄,歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会No.2,徳川家康苦渋の仮装園芸会,肥前名護屋城滞陣時エピソード,歴史の戯言!豊臣秀吉ご主催の「学芸会」_No.2「徳川家康」苦渋のおつきあい!!変装パーティーにご参加!!前頁から読む=No.1それは、さておき、只今、肥前名護屋城滞陣中ここに、ウジャウジャ、人が滞陣しているが、実は二分の構図。「行かされ役、死なされ役」と、「絶対、行かされない!座り込み専門係」と双方居る。徳川家康は、その御大将。絶対行かされない。後者の「座り込み専門係」は、他人の不幸を尻目に、ご本人の受難とは無縁だったはずが、ここに、下らない受難が降ってきた。退屈で仕方ない秀吉は、皆に学芸会をやらせた。変装させて、何某劇場風に登場させて見て遊ぶ。秀吉主催の学芸会(文禄元年(1592))の役柄一覧、ご紹介。馬鹿々しいが、台詞も言わされる!◆蒲生氏郷(1556~1595):「担い茶売り」:籠を担いで、「お茶、お茶っ葉は要らんかえ!!」◆織田有楽斉(1547~1622):「旅の僧」:この役柄、あんまり、おもろくないが・・。コレ、織田信長の弟:本名は長益。彼は、命拾いしただけならず、茶人の姿を呈し、ちゃんと豊臣も徳川も泳いでおります。シフトが早い。処世術なかなか。◆前田玄以(1539~1602):「尼さん」:因みに彼は縦横ともに大きい男。デカくて肥満気味の男が尼さん。これはウケた。笑いを取った。・・(この人、織田信長の孫「秀信」を、本能寺の変の最中、抱き上げて脱出した人。◆有馬則頼(1533~1602):「お宿の親父さん(有馬池ノ坊!の設定)」:台詞は不明ですが多分「いらっしゃいまし!」とか。◆豊臣秀保(1579~1595):「行商の漬物屋の小僧」:この時13歳のはず!!可愛そうに変な仕事!◆蒔田広定権左(1571~1636:秀吉の近習):「旅籠屋の親父」:この時21歳!少々背伸びの役柄。◆藤壷(?)(奥女中らしいが私は詳細存じませんが。):「旅籠屋の客引き姉ちゃん」:多分・・「寄ってらっしゃい、泊ってらっしゃい。イイお宿ヨ~ン!!」蒔田と奥女中は、多分、二人三脚で必死の芸でしょうね。蒔田は秀吉の小姓上がりだから。すると、ゴキゲンの秀吉は、自ら参加。自分もお手本をご披露。◆太閤豊臣秀吉:張本人!!(1537~1598):「瓜売りの親父」衣装は、柿色の帷子、黒い頭巾。首から背中にぶらさげているのは、管笠。腰には、藁の腰蓑。これは、なんのつもりか?・・・と言うと、「瓜売りの親父」になりきる。「瓜売り」は、「瓜売り」でも、田舎から出てきたキチャナイ「瓜売り親父」の演出。芸が細かい。これが、売れない瓜を売る姿。「売り、売り帰る瓜売りの声!」ああ虚しい!!の効果&脚色付き!!・・・等々、イヤでも馬鹿々しくても、こーゆーの参加しないと、秀吉は烈火のごとく怒る・・・だから、みんなが参加した・・はずだが!ところが、秀吉は、ゴキゲン斜め。それは、約一名が、仮病だか、急用の口実だか、知らんが、現れない。皆が、それぞれ、仮装して、一芸見せたというのに!!★その時だった。ついに現れた!!その約一名は、おデブさんであります!!なんだか、太った変!な商人風の仮装人が、向こう側からやってくる。台詞も、ノリが悪い。「ブツクサ、ブツクサ、~~」・・・何屋さんの真似なのか、よくわからん。この約一名、イヤでイヤで仕方なかったから、エンジンかかるのが遅かった。その為、皆さんのご注目の的になってしまった。このヘボ役者は、こうなると、仕方ない。随分大きめのガラクタ一杯背負って、その荷物を売る変!な商人・・・の役柄をシブシブ演じる。背中に背負うガラクタは、大きめのザル。これは、「あじか」といって、堤工事や、土塀工事などに使う大型のザル。おそらく、こーゆー特殊な商人は、築城工事現場などに、当時、突如出没したのだろう。それをヒントに、この大根役者は、ド下手な演技。彼は、格好悪いから、仮装だけで、ひととおり歩いて披露したら、さっさと引っ込むつもりだったのだろうが、こうなると、台詞無しで通過できない宿命に!▼シブシブ、台詞が始まった。「あじか、買わし~っ!あじか、買わし~っ!」・・・純粋な尾張弁でもないけど、どことなく訛りが。▼秀吉、曰く。「よっしゃあ!なかなかじゃ!」・・・手を打って笑う。忽ち、ゴキゲン回復!!このノリの悪いおデブさんによる「あじか(=ザル)売り商人」とは、まさに、徳川家康(1543~1616)でありました。わんこ&にゃんこの可愛学芸会! __サイトTOPは犬猫サイト<No.1<(現在頁)No.2
2013.08.15
徳川家康_漁夫の利に至る迄,歴史の戯言!豊臣秀吉主催の学芸会No.1,徳川家康苦渋の仮装園芸会,肥前名護屋城滞陣時エピソード,歴史の戯言!豊臣秀吉ご主催の「学芸会」_No.1「徳川家康」苦渋のおつきあい!!変装パーティーにご参加!!今回のミニ特集は、超ライト!歴史と言えない位、軽い話。あっちゅう間に読み終わる短編。時は、今は昔、太閤秀吉さんの時代の話。嘘みたいなホントの話!!明智光秀による本能寺の変(1582)にて、織田信長が撃たれ、忠義の臣「羽柴秀吉」が謀反の明智を退治。こうして、正義の味方の衣を着て、花のデビューを飾った羽柴秀吉は、今や、太閤豊臣秀吉さん。ひとまず、天下が安定したら、秀吉は、ご存知のとおり、歴史上、最も余計なヒトコマ、大陸ゲットの夢プラン、とんでもない事「朝鮮侵略」をおっ始める。文禄元年(1592)、「文禄の役、慶長の役」 スタート。大名泣かせも甚だしい。さてと、この壮大プランのスタートにあたって、ひとまず、御大将秀吉張本人が、朝鮮渡海の本営で「大渇!」入れんことにはシマらない。文禄元年、自ら、肥前名護屋城に暫し滞陣。侍達は、秀吉に尻を叩かれ、シブシブ?、否、否、勇ましく外征の戦陣を切る。「行ってらっしゃい!勝ってらっしゃい!! 又来るまでは、暫し別れの・・・テンテンテン!」・・・秀吉は、人の気も知らないで、ラバウル小唄!!最も余計な「秀吉ドリーム」行かされる側は悲惨。そして、そこで、仲間同士、恨みつらみの構図が発症して、関が原の内要因。豊臣応援団の二分。加藤清正(1562~1611:)、福島正則(1561~1624)らが、団結して、石田三成(1560~1600)派を恨むことになる。そこで、後に、漁夫の利は徳川家康。はまぐり「石田三成」を食わんと突っつきまわす暴れん坊「加藤」&「福島」らがシギ。そこに、漁夫「家康」がやってきて、まずは、石田憎し!の「加藤」&「福島」らを使って、ハマグリ食わせて、関が原(1600)年に運んで、石田を始末。シギの咥えたハマグリのお命を真っ先にご頂戴。されど、これで終わらない。一石二鳥。嘴にハマグリを咥えてきたお手柄のシギも、後で、焼き鳥の宿命。しかも、ジュッ!と一気に焼かず、シナリオ上手の家康は、ジワジワ煮込み料理開始。それが、徳川家康流。加藤清正は、1611年にご臨終。▼家康流。ちゃんと、彼らは死んでいる!!なんだか知らんが丁度良く、なぜか病死!!?の多いこと。他にも幾多の人々がちゃんと死ぬ。(現在頁では、ややっこしい話、割愛。)そして、1614&1615年、大阪冬&夏の陣。ここに徳川は、完全に豊臣を滅ぼす。「燕策の故事<漁夫の利>」後から漁夫がシギもハマグリもゲット。両者の争い(シギとハマグリの死闘)に、抜け目無く付込み、第三者が利益を横取り。_以下、非常~っ!に呆れますが、ホントの話。仮装園遊会上記のとおり、大陸に行かされた者の人生は、これにて渦の中。ところが、ギッチョン!以下は、太閤秀吉自ら、肥前名護屋城滞陣中の話。全国から大勢の大名達が兵を伴い、ここに集結してくるから、この地は大賑わい!忽ち町が栄える・・・だったらいいが、そうはいかない。仕掛け人が居ない限り、街とは発生しない。行商人はドサクサにまみれ、俄か商売で、やってくるが、ここは、当時、ド田舎。見渡す限り、瓜畑。余興大好き、お遊び大好きの秀吉は、やがて、退屈してしまう。(人の気も知らずに呆れるが!)▼そこで、嘘みたいなホントの話。ここで、彼は、な、なんと、仮装園遊会を開催。広大な瓜畑のド真ん中に、見た目だけでも雅を抽出。仮装の町を作らせた。旅籠やら、茶店やら。それだけだったら、まだいいが、今度は、正真正銘、学芸会。上の話、作り話か小説の世界だけか?と思うでしょう?ところが、このとおり。▼本件をズレ、別件事象時ですが、当初、日本に陣取っていた宣教師達も、秀吉ゴキゲン取りに、「一芸」やらされた人居ます。仕方ないから、歌ったり、踊ったり!!腹立つから、歌の歌詞はインチキ歌ったらしい。インチキでも、どーせ外国語解らんし!秀吉とは、芸事ご興味深々。茶道も大好き。・◆戦国侍と茶の湯各人編:裏話特集目次、◆豊臣秀吉と少年時代の石田三成「真夏の緑茶三杯!」だが、それは高尚なご趣味だからいいが、時折、オリジナル寄席か、なんだか笑点ゲームみたいな事もやっているし。例えば、こんなかんじ。「◎◎とかけて、何と解く?そのココロは?」のパターン。▼「これは、遊びじゃ。あくまで遊びじゃから、気軽に申せ!もしも、わしが、おっ死んだら、次の天下人は誰?と掛けて、ソレ、一言申してみよ!」▼皆が、ニーズにあわせ、戯れ事を。すると、秀吉曰く。「ほう、何某の何兵衛ときたか。そりゃ、おもろい。されば、そのココロは、なんぞや?」▼「はあ、天下人は誰?と掛けて、何某の何兵衛と解く。そのココロは・・・テンテンテン・・でござりまする!」▼「よっしゃ!おもろい。それ、一献授けよう!!ホレ、飲むがよいぞ。これは遊びじゃ。」オチがおもろければ、座布団一枚じゃなくて、杯の酒一杯、プレゼントのシステムで遊びが続く。この時のラストは、秀吉自ら発言で終幕。「次の天下人は誰?と掛けてじゃなァ、それは、「黒田のチンバ」よ!・・・そのココロは・・・う~む!・・・申すまでもないことよ!。」あんまり笑えないオチに終わる。黒田のチンバとは、黒田如水(=黒田孝高:1546~1604)のこと。彼は戦で片足が不自由。頭脳プレイでチマチマやっている。秀吉は、マークしていた。それは、さておき、肥前名護屋城滞陣中「学芸会」の続きサイトTOPは犬猫サイト<No.1(現在頁)<★NEXT_No.2
2013.08.15
戦国侍荒木村重と織田信長の饅頭串刺し事件,信長に叛いた男達series_荒木村重の巻No.4,戦国侍と饅頭と肝比べ戦国侍「荒木村重」について戦国侍「荒木村重」と織田信長と「饅頭」_No.4織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版暴君「織田信長」についにキレた男「荒木村重」の宿命前のページから読む=No.1<前頁から読む=No.3一般論でいくと・・・再起を謀り、必ず勝つ為には、血涙堪え、己は生き延びねばならぬ・・・ではあるが、どーも、荒木村重さんの場合、う~む、悩む。前述の「善兵衛」のほか、乳母が必死で抱え脱走して命拾いした子が居る。この人物は後に、絵師の岩佐又兵衛。即ち、2~3名は、難を逃れ生き延びていることにはなるが・・・犠牲が多すぎる。ましてや、一族ならずや、重臣達の幼子達の悲哀は、どうしてくれる!!前頁のとおり、私の試算では、犠牲者=(762人+X?人)・・・一人の為の犠牲としては凄くないか?▼上記の数字は、戦って死んだ臣や兵を含んでいない。処刑された者の数値である。こんな男の女房にはなりたくない!こんな男の臣にはなりたくない!!こんなに多くの犠牲なれば、家臣親族の生き残りの怨恨から、彼らからの天誅が降ってきても不思議無いパターンだが、何事も発生した史実は知らない。殆ど死に尽くして、それすら不可能だったのだろうか?あっけらかん!なのか否か?その後の荒木村重ご本人ご存知のとおり、織田信長は、天正10年(1582年)6月、本能寺の変にて、ご臨終。その途端、やれやれ!とばかり、堺に出没。逃亡時代、一時は毛利に逃げ込むなど転々としていたが、世は一変。豊臣の世なれば、涼しい顔してご登場。彼は茶の湯も一流。そこで、ツラッと千利休とも交際している。茶の湯の道では顔が利く。昔から、自分の居城「有岡城」に津田宗及を招いて茶会を行う程だった。そこで、茶の湯に秀でる彼は、以降、惚けて、茶人人生。茶人の力量はかなり!=利休七哲(千利休の高弟7人)には漏れるが、第二の見解「利休十哲」の一人である。利休七哲=・■蒲生氏郷(筆頭), 細川忠興(三斎), 古田重然(織部), 芝山宗綱(監物),・瀬田正忠(掃部), 高山長房(右近/南坊), 牧村利貞(兵部)利休十哲=上記の7人+、以下3名【説1】■織田長益(有楽斎)、■千道安(利休の実子)、■荒木村重(道薫)【説2】■織田長益(有楽斎)、■前田利長、■荒木村重(道薫)・・他にも「哲人」クラスとして名高い人物に、(■有馬豊氏、■金森長近・・他)ところが、荒木は、彼なりに、仇討ちを計画。仇討ちのターゲット「信長」はご臨終だというのに、矛先は、キリスト者に向いている。なぜなれば、「あの時、己を裏切った高山右近め!!万事、こやつのせいだ!」と思っている。高山右近は典型的キリスト者。また、秀吉の機転で、仲裁にやってきた男「黒田孝高」も、実は、キリスト教無縁ではない男。そこで、荒木村重は、キリスト者誅殺を企てる。狙い撃ちに、高山右近の他、小西行長まで!!だが、これは未遂にて発覚。失敗。「道糞!」が「道薫」に転じた訳潜伏のカモフラージュ&処刑回避の策として、頭を丸めてしまう。そして、自ら名乗る。我の名は「道糞也!」と。尾道潜伏期間、既に、自称、「筆庵道薫」の形跡があることから、「道糞」は、上記の未遂事件後、秀吉に一瞬睨まれた頃に名乗ったのではなかろうか。いかにも、己の過去を深く反省して、人間の屑と自覚して陰に篭るがごとく、自分の号に「糞」をくっつけて、「道糞」と名乗る。しおらしく自分は屑ですの振りをしつつ、 「道糞」とは、多分、「道草」のパロディー。天下を夢見て、果たせず、さんざん彷徨う様。単なる道草ならいいが、ろくでもないことばかり。そこで、「糞」言語発生と思うが、詳細は不明。<一説には▼>そこで、秀吉は、すっかり同情してしまった。「なにも、自ら「糞!」とは、あんまりじゃ!」かわいそうだから、罪を許し、その名前も「道糞」じゃなくて、 「道薫」に戻せとまで言ってくれた。秀吉は、上記未遂事件のみならず、自分の悪口まで言われた事、知っていますが、それも含め、許した。噂の男の終焉天正14年5月4日(1586)、噂の男、荒木村重は、堺にて、ついにその生涯を閉じる。享年52才。織田信長による「槍の串刺し饅頭」事件を、ツラッ!と回避できたデカいタマ!は彼しかいまい!とばかり、同時代の大名達に一目置かれた男ながら、結果として、彼が残せた偉業とは、ついに形にならなかった。数々の戦功をあげて、武名を馳せてはいるが、結果は、それで止まった。何百人もの親族や臣、及び匿った僧達の犠牲のわりには・・・それだけで、止まった。悲哀を込めて、鮮やかに散って果てるよりも・・・ある意味で虚しいかもしれない。所詮、途中で止まる。所詮、それだけで終わる。人の常。対して、同じく織田信長に謀反を展開した男ながら、こちらは、対照的。壮烈ドラマに散って果てる。・・★ハレー彗星の夜、爆破自殺した男の本音と実績次(No.5)は、資料解説=ところで、「荒木村重」の■戦功、■謀反の経緯と動機_概略MEMOサイトTOPは犬猫サイト<【歴史系頁】<織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版No.1<No.2<No.3<No.4(現在頁)<No.5
2013.08.10
戦国侍荒木村重と織田信長の饅頭串刺し事件,信長に叛いた男達series_荒木村重の巻No.3,戦国侍と饅頭と肝比べ戦国侍「荒木村重」について戦国侍「荒木村重」と織田信長と「饅頭」_No.3織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版同じく織田信長に叛いた男達シリーズ:「松永弾正久秀」版はこちら暴君「織田信長」についにキレた男「荒木村重」の宿命前のページから読む=No.1<前頁から読む=No.2とはいえ、この「荒木村重」も、ついに、ブチ切れの瞬間到来!・・天正6年(1578)10月、突如、信長に反旗を翻すことになる。 誰とて、まさか、槍の串刺し饅頭が嬉しいわけはない!!その場は流しても、ちゃんと蓄積している。荒木村重:【天文4年(1535)~天正14/5/4(1586):享年52才。死亡時場所は「堺」】◆名前:村重の他(十二郎、弥介(弥助)、道糞(号)、道薫(号))◆顔&肖像画:No.1頁に添付、◆生まれ:大阪摂津池田、◆主君: 池田勝正、織田信長、豊臣秀吉◆下克上:池田勝正を追放して、池田家の実験握る。・・因みに妻は池田長正の娘であり、苗字のとおり(長正と勝正は親子でないにせよ親族。◆織田信長の臣時代:茨木城主→伊丹城主(=有岡城城主)◆戦国の世、彼の名声が轟いた訳織田信長による槍衝き饅頭事件をクリアした剛勇は有名に。だが、それ以前に有名。幼少時より、非常に怪力&知勇盛ん豪胆&賢い・・エピソード有り。幼児の頃、その父が倅に問う。「わしを持てるか?」。すると、この幼児は、まず、父の尻の下に、碁盤を押入れ、父を台に乗せてから、片足を掴んで引き摺り、柱を三回転。「偶然ではないぞ、いくらでも動かせるぞ!」とばかり、三回転。◆謀反の経緯天正6年(1578)10月スタート。これは、今日の感覚で、謀反としては、期間的に不思議な長期戦。約1年間も、有岡城(=伊丹城)に篭城。この背景には、反織田勢力として、強豪の毛利が立つ噂があった。毛利と、本願寺、及び、紀伊雑賀衆などが応援のはずだった。謀反の動機については、詳細後述ながら、いずれにせよ、勝てる!との誤算。この人物「荒木」は、結構、荒い。羽柴秀吉が気を使って、説得の為、黒田孝高(=黒田如水)を派遣するが、その親切な人物「黒田」を牢屋に!過激派。(黒田は、後で救出されるが、この期間の拘束が原因で、片足が完全に不自由に。以降、秀吉は、影で、黒田のチンバと呼ぶことになる。)ところが、途中で戦況一変。その原因が、高山右近(高槻城)&中川清秀(茨木城)による裏切り。高山右近は、敬謙なキリスト者。懊悩の暁、神父に相談の上、和睦を試みた結果だが、村重にしてみれば、裏切りでしかない。黒田如水&高山右近については、こちらの特集・・・戦国侍とキリスト教入信と抗いと棄教,侍精神の自己葛藤▼そもそも、織田信長の場合、「条件提示に従うなれば助命いたそう!」・・と言いつつ、ホントに許してやったケースは、はてしなく少ない!真に受けて、その途端殺された者は数知れず。この時も、信長は言った。「尼崎城と華熊城を明け渡せ!されば、妻子の命を助けてやろうじゃないか!!」・・・因みに、この時、人質の女房衆は122人、及び隠れている親族や重臣とその家族は何十人も居る。▼さて、この結果、毎度のことながら、出た!織田信長オリジナル「残酷劇場」なのだが、こればかりは、悪いのは、信長だけじゃないナ。荒木村重ご本人の神経も悩む!最後は!一人出奔!!交戦の意思を緩めずはいいが、本人は、順次脱走を続け城を移動。【経緯】→【1】有岡城(1579/9/2に本人は脱走)→【2】尼崎城(嫡子の村次の城:また脱走)→【3】花隅城(荒木元清が守る城:天正8(1580)年7月2日に落城。但し、本人は、脱走。)しかし、最後は!さらなる妻子&臣の犠牲を当然、予測しつつ、見捨て、天正8年(1580)7月2日、荒木村重一人出奔!!▼そして、安芸の毛利氏に逃げ込む。剃髪してカモフラージュ。尾道界隈に匿われ潜伏。(この段階、自称、「筆庵道薫」の様子。)案の定、織田信長オリジナル「残酷劇場」は見せしめ!大人数の人質処刑!!【第1号の犠牲=122人=殆ど、女子供】天正7年(1579)12月13日。処刑場所は七松(尼崎近郊)。鉄砲&長刀にて処刑される。被害者は有岡城内に居た荒木村重の家臣の妻と娘達。【第2号の犠牲=(380人:下級武士の女子供)+(女房衆付きの若党ら124人)=504人】これは人数が多い為、処刑の手間がかかる。そこで、彼らを古家4軒に押し込め、薪を積み上げ、信長得意技の丸焼き作戦。生きたまま丸焼き。これは、もだえ苦しみ叫ぶ声が凄い。この惨状描写は、史実に残る。女子供だから、皆泣き叫ぶ。悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかり。見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。当時の、長刀の処刑とは、ザクッ!ワンタッチ処刑ではない。見せしめだから、繰り返し、執拗に突き刺しまくり。目撃者は、この後、半月以上も、食事がまともに喉に通らない。上記の描写文章の後続に、その表現も記載されている。【第3号の犠牲=36人=一族&重臣&重臣の家族の36人(女子供込み)】天正7年(1579)12月16日彼ら重要人質36人は、信長によって、京都の妙顕寺に閉じ込めキープされていたが、それでも、荒木は、降伏してこない。ついに、見せしめの強烈刑を。この処刑は、恥辱刑もワンセット。あっさり殺してもらえない。まずは、大八車に縛り付けられて、京都市中を引き回される。斬首はその後、六条河原。▲この段階、本人は、安芸の毛利氏に逃げ込んでいる。▼【第4号以降の犠牲=恐怖の残党狩(女子供込み)=X?人】例:天正9年(1581)今だ、手を緩めず。この後も、織田信長は、ポロポロ、残党狩。かなり執念深い。どこぞに潜伏していた親族を発見しては、随時処刑の徹底ぶり。その中で、特に目立ったのは、こちら。▼【第5号以降の犠牲=高野山の僧100人】天正9年(1581):草の根分けて、全国各地に離散していた高野山の僧を無差別100人殺害。そもそも、織田信長の坊主嫌いは有名ながら、実は、これまた、荒木村重逃亡によるトバッチリ。▼これは何かというと、天正9年(1581)8月17日、高野山金剛峯寺では、信長の家臣が殺害された。原因は、ここが臭い!と睨んだ信長の家臣が捜索に踏み込み、その実、匿っていた為、窮地の極み、殺害に及んだ。即ち、匿った者の宿命を見せしめ!!犠牲者【第1号~5号】=122+504+36+X?+100=犠牲者:762人+X?となる!!(これは、もっと居るかもしれない。拾える限り加算しましたが、まだありそう)そんな中、人情劇場を展開した人物が居る。その名は「細川忠興(関連)」である。匿って発覚すれば、上記の僧侶達と同じ宿命と知りつつ、忠興は体を張った。それは、荒木村重の子の一人「善兵衛」である。★忠興は幼子の命を哀れみ、隠れ連れ帰り、家で育てた。まさに命がけ!!物語などでは、よく、細川ガラシャさんを悲しませた嫉妬深い&悪い亭主のイメージで書かれていますが・・上記のとおり、そんなことありません。一般論でいくと・・・再起を謀り、必ず勝つ為には、血涙堪え、己はサイトTOPは犬猫サイト<【歴史系頁】<織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版No.1<No.2<No.3(現在頁)<★真上NEXTボタン=No.4
2013.08.10
戦国侍荒木村重と織田信長の饅頭串刺し事件No.2,信長に叛いた男達series_荒木村重の巻,戦国侍と饅頭と肝比べ戦国侍「荒木村重」と織田信長と「饅頭」_No.2織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版同じく織田信長に叛いた男達シリーズ:「松永弾正久秀」版はこちら軍配は、あっぱれ!「荒木村重」暴君「織田信長」は残虐男!・・臣たる男の正念場前のページから読む=No.1その結果、軍配は、なんと、ものの見事に「荒木村重」側にあがった。「荒木村重」の行動は、信長が想定した前述二種のいずれでもなかった。なんと、鼻先三寸、鋭い槍を尻目に、いきなり、饅頭に食らいついた。しかも、屈辱堪えるふうでもなければ、涙を呑むでもない。▼自発的に、大口開けて、パカパカと、3個だか5個だか知らないが、とにかく、沢山、まとめて食いついて、飲み込んでしまった。信長を刺激せぬように、手を使わず、犬のごとく、口で咥えて食らいついた。・・「殿っ!旨~あござりました。ごっつぁんでっさァ!!」現世人気のお饅頭!!紫芋のお饅頭これには、流石の信長も笑った。・・腹の中は、当然、真っ黒ケ!笑ってる場合じゃない。しかしながら、ここまでお見事なれば、それは、それなりに価値がある。いうなれば、真剣勝負で一本取られた!!目をギラつかせたままに、口元だけは笑って、心で思った。「ほう、一発やられたのう。おもろいやんけ!敵ながら、あっぱれじゃ!・・・使えるタマじゃ!!当面は、殺すには惜しいキレ者ぞ。」サラリーマンの皆様、荒木を見習いましょう。誠あっぱれ!!これって、なかなか、できそうで、できない技。咄嗟に頭に浮かばない。私的には、こーゆーケースの打開、あんまりお上手じゃない。明智光秀タイプかな!苦虫、一匹、二匹、テンテンテン!・・・時間の問題!!やがてプチッ!ところが、「荒木村重」のケース、これは実にお見事!◆まず、第一は、相手の挑発に乗らない。それでいて、◆これっっぽっちも卑屈を晒さず。◆鼻先三寸、人殺しのお道具「槍」を突きつけられても、◆顔色ひとつかえず。◆誰一人、笑えぬシーンを、恰もソレのごとく、ツラッ!と流す。◆ツワモノ!!の威厳はオブラート。・・・能ある鷹は爪隠す!!皆さん、爪隠して、饅頭食い付きましょう!・・じゃないですが 因みに、こーゆーシーン、何食わぬ顔して、ケロッ!と突破できるのは、他には豊臣秀吉しか居ない。豊臣秀吉は天才。本能的。彼には、先天的運動神経にも近い「凄い技」がある。突如、捨て身で、無用心にも、大者敵将の懐にわざわざ、飛び込んで、度肝抜かれて唖然とする間に、そのまま甘え込んでしまう。これは、古代中国の「人心収攪術」なのだが、秀吉の場合、理屈でなくて、本能。「人心収攪術」についてはこちらのミニ特集▼戦国侍と茶の湯シリーズ:No.5&6:豊臣秀吉と、少年「石田三成」真夏の緑茶三杯!織田信長は、こーゆーシーンで、次から次へと、「叛く男」を自ら創作してしまう星の下。ラストの極み付けは、皆さんおなじみの明智光秀。本能寺の変にて、信長、お陀仏。 __とはいえ、この「荒木村重」も、ついに、ブチ切れの瞬間到来!サイトTOPは犬猫サイト<【歴史系頁】<織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版No.1<No.2(現在頁)<No.3
2013.08.10
戦国侍荒木村重と織田信長による饅頭串刺し事件No.1,信長に叛いた男達series_荒木村重の巻,戦国侍と饅頭と肝比べ戦国侍「荒木村重」と織田信長と「饅頭」_No.1織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版同じく織田信長に叛いた男達シリーズ:「松永弾正久秀」版はこちらええ年したおっさんが、なぜに饅頭、口に咥える?!その訳左人物ご注目。荒木村重と申します。戦国の侍。絵が小さいですが、口の周り、白っぽいでしょ。よく見てね。これは、口が白いんじゃなくて、お饅頭まんまるいまんま、口にくわえております。とはいえ、いい年して、そんなに饅頭が好き?だからじゃなくて、彼流、必死の処世術。世紀の一瞬。因みに、この絵は『荒木村重錦絵図』の中、「荒木村重が餅を食らう」の巻であります。厳密には、餅でなくて、饅頭ですが・・・。よくぞ、キレずに堪えた!よくぞ、その場を切り抜けた!偉いぞ!荒木村重!!・・暴君対処処世術!サラリーマンの鑑!!?この時、荒木村重は、主君「織田信長」による残虐シーンの餌食。信長は、いきなり、槍をふりかざし、皿に盛られた饅頭をグサッ!3個まとめて串刺し!!・・この行為は何か?・・・即ち、歯向かうなれば、殺すぞ!!の意味である。<饅頭の数は、3個とも、5個とも言うから、数まで厳密には不明ながら>まさに、皆が目を覆う戦慄の一瞬!! 信長が信長である以上、これはポーズだけじゃない。相手の出方ひとつ、その実、平気で臣を殺す。そーゆー男の暴挙。次の瞬間、信長は、乱暴に、槍ごと、荒木の口元に突き付けて、「食らえ~っ!」。信長の口元には不気味な笑み。されど、その目はギラギラと残忍の光。いかに主君とて、この人権無視!残虐!野蛮!!織田信長とは、しょっちゅう、こーゆーことをやっては、人を突如、試す習性がある。突如やらねば、相手の本音が見えないから・・。尚、この事件がいつなのかについて諸説あるが、天正元年(1573)年、信長が将軍足利義昭の二条城を包囲。この時、荒木は、臣に降りたい意思を表明し、信長がOK。そこで、信長が陣取る大津に駆けつけている。その時ではなかろうか。荒木は、天文4年(1535)生れ。その為、この時なれば、38歳のはず。織田信長のやらかすこと!!暴君「織田信長」は残虐男!・・臣たる男の正念場この時、誰もが目を覆った。もはや、これまでか?荒木はキレるに違いと!!血飛沫飛びまくり、忽ち血の海と化すだろう・・と。暴君「織田信長」にとって、臣などというものは、臣でない。人でない。生かすも殺すも己の自由。臭い!と睨んだ男には容赦ない。忽ち、人を試す。腹を読む為なれば、残虐は、おきまりコース。挑発して、瞬時、相手の表情を読み取ろうと謀る。現在頁上側に書きました「松永弾正久秀」も、被害者の一人。「織田信長」流の残酷洗礼式の犠牲者。彼の場合、どうやら、敵将の首級で作られた髑髏杯を見せつけられたようだ。俺に謀反するなれば、貴様もこうなるぞ!!の脅迫である。敵将の首級で作られた髑髏杯うんぬんは、この頁前後数ページ■No.22~:怨念エスカレートのコンセプト「荒木村重」の場合は、それが、饅頭の串刺し!で作戦で試された。無残にも突き刺された饅頭の姿が物語るは、「貴様がコレだぞ!!」・・の示唆。これが、仮に荒木でなくて、他のタイプの男なれば、たとえ、何一つ、悪い事はやってなくても、床にへばりついて、卑屈にも謝り倒して、場を切り抜ける手段を使うことだろう。「殿、どうぞ、お許し下さりませ。平素、私は、きっと、迂闊にも、拙い面、気付かずして、それ故、今こうして、殿のお怒りに・・。迂闊でござりました!!」・・とかなんとか。おそらく、信長は、腹に一物含むと感じるこの男、荒木を試したのだろう。荒木は下克上やってのけてる男。その頭のキレ味の良さ、武功、名声高い。臣下に降りたいという本人、荒木のコールに応じた信長だが、ダテに使わない。このとおり、おっそろしい手段をもって、人を試す。腹を読む。わざと、挑発して、仮に暴挙は堪えるにせよ、怒りをかみ殺す表情が露骨に出る瞬間を読もうとしたのだろう。それとも、二枚舌で、心と裏腹、白々しく、床に這い蹲って謝罪のポーズを取るか・・。軍配は、あっぱれ!「荒木村重」饅頭話にて、現世人気お饅頭!「栗満タン!もみじ」もみじ饅頭の中、人気ブレイク!_ _ _サイトTOPは犬猫サイト<【歴史系頁】<織田信長に叛いた男達シリーズ:「荒木村重」版No.1(現在頁)<No.2
2013.08.10
戦国侍とキリスト教入信と抗いと棄教,侍精神の自己葛藤No.2_信じる?信じない!,高山右近,松永弾正久秀,蒲生氏郷,牧村政治,小西行長,黒田如水,細川忠興,前田利家戦国侍と、キリスト教概念と、入信と抗い_No.2◆高山右近、◆松永弾正久秀、◆蒲生氏郷、◆牧村政治、◆小西行長、◆黒田如水、◆細川忠興、◆前田利家侍精神の自己葛藤_信じる?信じない!棄教前頁から読む=No.1高山右近と、その父「高山友照」と松永久秀高山右近【天文21年(1552)~慶長20/1/8(1615)】 ◆他に名前「彦五郎」、◆生まれ:摂津、◆画期的にキリシタン活動支援。高槻周辺には、教会の他、関連学校など、各施設の建設が次々と。これによって、この周辺は、かなり異質。おかげで、周辺寺社が、殆ど壊滅。(弾圧したとか、焼き払ったわけじゃないが・・・お布施が貰えない・・自動的に干からびて消える)◆父「高山友照」この人物もキリシタン。母も同様。「高山友照」も「松永久秀」の部下時代有り。◆そもそも、父が熱狂的信者。右近は、その父の倅だから、12歳の時、洗礼を受けている。◆高山右近が仕えた主君 ・◇松永久秀(但し、松永は三好長慶の臣:三好>松永>高山右近)→◇和田惟政→◇荒木村重→◇織田信長 →◇豊臣秀吉→◇前田利家(※)→◇前田利長(※) )(※印について)前田利家&利長親子時代について◆高山右近がキリシタン追放の令を浴びた後、まずは、小西行長が小豆島&肥後に匿う。◆その後、表向き「監視&保護」の形態で身柄を預かるを許されたのが前田家。しかし、実際は、その立場でありながら、戦にも追従するし、政治の相談役もやっている。◆ここでご注目いただきたいのは、父の代から、二代に及んで「松永久秀=松永弾正久秀」に仕えている。即ち、これほど、信仰オープンにしている親子を松永は平気で抱えているし、宣教師とも縁多大。宣教師が、松永を賛美する記述、史実に複数残る。松永本人は、「私はそうです!」の発言、一切してませんが、もう、こうなると・・・少なくとも影響多大なのは、殆ど確定。<不幸中の幸い>松永のさらなる主人は三好長慶。ところが、松永本人は、上記の「松永特集」のとおり、渦に巻き込まれてゆくが、高山は、無事この渦を回避している。この親子に於ける他のケース(※)も照合するなれば、いかに正義のため、軌道修正の為といえど、暗殺によるクーデター系の話には乗らない。侍である以上、公式の「戦」なれば当然殺戮もやるが、極力回避を努めているのが解る。(そのケースとは:天正6年(1578)、右近の主君「荒木村重」による織田信長謀反の際、懊悩の暁、右近は、留まるように説得。結果は、決裂にて、村重は家族&臣の多大なる犠牲の上、本人は出奔に終わるが。◆居城:・◇沢城「大和国宇陀郡(現在の奈良県宇陀市榛原)」:松永久秀の臣時代・◇高槻城:織田信長の臣時代&豊臣秀吉の臣時代・◇船上城「播磨明石郡」:豊臣秀吉の臣時代▼<この後は、大名の地位も財産も捨てる=1587年「豊臣秀吉によるバテレン追放令」>真っ先に彼をかばったのが小西行長(小西に匿われて、小豆島&肥後に隠棲)秀吉は、永年功労者である「高山」に対して、命迄奪うつもりはない。小西にも嘆願された。前田利家(加賀金沢城主)の保護下、同地に移り住む。多少の扶持も貰う。<今度は、完全国外追放の宿命=慶長19年(1614)「徳川家康によるキリシタン国外追放令」>船で、マニラに身柄を送られる。マニラに到着すると、これまでの行動から、現地のキリスト教関係者には歓迎される。しかし心身とも疲労の極み、病気に。◆高山右近のラスト到着早々の病気は癒えぬままに、翌年の慶長20年(1615)1月8日死亡。享年64才。松永弾正久秀特集内に記載しましたとおり、松永と明智の縁可能性は多大。単に、織田信長の臣同士、しかも、主君「信長」憎し!の思想がご一致という程度ではない。結果として、両者共に、信長に叛いて滅亡した人物ながら。松永弾正久秀特集「no.33&34」に記載しました「細川ガラシャ」の話ですが、因みに、「細川ガラシャ」の父親は、明智光秀。ガラシャの入信は、その「小侍従【この場合、侍女の中で最も地位が高い女性】」の影響ながら、この小侍従とは、赤の他人ではなくて、親戚筋。細川忠興の母「沼田麝香(沼田光兼の娘) 」の「沼田」家一族の娘。細川忠興の父世代から、既にキリスト教の臭い!細川忠興の父「細川幽斎 」は、明智光秀と親しかった。明智光秀の謀反「天正10(1582)年:本能寺の変」加担の依頼を受けるが、心鬼にして断り、本件無縁のスタンズを死守するが、その後、即、剃髪して、隠居。この時に、家督を忠興に譲った。細川忠興の母「沼田麝香 」は、1601年(=ガラシャ死亡の翌年)、洗礼受け、洗礼名はマリア。尚、細川忠興の父「細川幽斎 」も、キリスト教の縁を明かしていないが、そのわりには、正室の「麝香(上記)」以外、生涯、誰一人、妾の一人すら寄せ付けていない。<▲まるで、キリスト教思想に於ける「一夫一婦」の原則のごとく!!>即ち、証拠物件が出ないだけであって、細川忠興ならずや、父の代からして、キリスト教は、この家に、もとから無縁ではなさそうなのである。 __サイトTOPは犬猫サイト<【歴史系頁】<戦国侍とキリスト教入信と抗いと棄教,侍精神の自己葛藤No.1<No.2(現在頁)犬猫の可愛服、用品、フード&人の暮らし◆各人編各種、◆No.5&6は「少年時代の石田三成と豊臣秀吉」出会い「真夏の緑茶三杯!」ハレー彗星の夜爆破自殺した男の本音と実績
2013.08.09
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