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(承前)明日香小旅行2日目です。 朝9時少し前に祝戸荘を出発。智麻呂さんの車椅子は小生が押すことに。持参の折りたたみ自転車・トレンクルは謙麻呂さんに預ける。飛鳥川沿いに下って行くグループと稲渕宮跡の方を回って石舞台公園の最上部から入るコースを行くグループに別れて、石舞台の下での待ち合わせとする。遠回りとなるが、車椅子で行くには最上部から入る方が楽だし、眺望もその方が良かろうという偐家持の判断。車椅子を押しながら、トレンクルの謙麻呂さんと恒郎女さん、小万知さんらと行く。凡鬼さんは車で先回り。 空は青く晴れ渡り、朝日のさやけき光がススキの白き穂と木々の黄葉を照らし、吹き来る朝の明日香風も澄んだ気に満ちて、冷んやりと頬に心地良い。智麻呂氏が明日香のこの風景を心から楽しんで居られる気配が伝わって来て、こちらも楽しくなる。公園に入ると更に紅葉・黄葉が間近くなり、あれやこれやと指さしながら行く。風舞台・夢の市茶屋の辺りで皆と合流。ここで、香代女さんが所用で帰途につかれ、他の12名で犬養万葉記念館に向う。 (犬養万葉記念館) 犬養万葉記念館では、犬養先生と歩く大和路などのビデオをたっぷり見せて戴き、館内の展示などを見学、暫し、犬養万葉ワールドに心遊ばせる楽しさを味わうことを得ました。 記念館を出て、板葺宮跡遺跡から飛鳥寺を経て飛鳥坐神社まで散策することに。 (万葉歌碑・平山郁夫氏揮毫) 犬養万葉歌碑第1号がこれと同じ歌で、それは、向いの甘樫丘にあるのだが、車椅子では行くことが出来ぬ(前ページ参照)。そこで、この歌碑を代用にすることとし(おっと失礼、平山画伯様。)、この前で全員の記念撮影。 (注)昨日12月2日平山画伯がご逝去されました。(享年79歳) 衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。(12月3日追記) (板葺宮跡遺跡から飛鳥寺への周遊道) 遠くに見える人影は読書会の面々である。この辺りは万葉で「(大口の)真神の原」と呼ばれた原野にて、「いたくな降りそ家もあらなくに」という寂しい場所であったようだが・・。大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原に 降る雪は いたくな降りそ 家(いへ)もあらなくに (巻8ー1636舎人娘子) 大口能 眞神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國(<大口の>真神の原に降る雪は、ひどくは降らないで欲しい。その辺りには家も無いので。) (甘樫丘) 甘樫丘を左に見つつ、蘇我入鹿殿の首塚にお参り(墓には花が飾られ、草餅が2個お供えしてありました)。付近にはピンクのコスモスの花が咲いて、蝶(ツマグロヒョウモン?)が1頭舞い遊んでいる。恵郎女様が携帯でそれを写真に撮ろうとなさるが、写そうとすると、飛び立ち、不首尾でありました。 飛鳥寺を過ぎ、飛鳥坐神社に到着したら、丁度正午。石階段を上って境内を見学する人の帰って来るのを待ちつつ、待機組は神社脇の運河遺構「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」<説明板の英訳ではwildheart canalとなっていましたな。>や小さな実を沢山付けた柚子の木やらを眺めながらの四方山話。 全員戻って来たので、引き返すこととし、サイクリング組が自転車を楽しんでいる間、智麻呂氏ご夫妻と凡鬼さんが過ごされた県立奈良万葉文化館の前まで戻って来て、隣にあるレストラン「酒船亭」で昼食に。槇麻呂殿と祥麻呂殿は亀型石造物遺跡の見学に行かれたが、後方を歩いていた、謙麻呂殿、恵郎女様、恒郎女様の姿が見えない。和郎女様が探しに行って下さったが、見当たらない。槇麻呂・祥麻呂ご両人の姿を見て、彼らも亀さんの方へ入場されたもののようでした。ユー・アー・ウェル亀でした。 昼食後、凡鬼さんの車が停めたままの犬養万葉記念館駐車場に戻り、ここで解散。凡鬼さん・景郎女さんご夫妻と智麻呂さん・恒郎女さんご夫妻の4人は凡鬼さんの車で一足早い帰途に。残った謙麻呂、恵郎女、小万知、祥麻呂、和麻呂、槇麻呂、和郎女、偐家持の8人は飛鳥駅まで歩くつもりでいた処、バス停があり、時刻表を見ると午後1時58分発橿原神宮前駅行きバスがすぐに来ることが分り、皆、バスに乗ることとなる。 かくて、偐家持もお役ご免となったので、そこで皆と別れて、自転車で帰ることにする。自宅までとも思ったが、途中で気が変り、奈良までにする。 (唐古・鍵遺跡) (唐古池の東側から復元高楼を望む。) 近鉄八木駅付近まで飛鳥川辺を走り、そこからは、国道24号やこれにに平行する道を北上する。 唐古・鍵遺跡が目に入ったので、立ち寄ってみた。この遺跡はかつて高楼の描かれた土器片(1世紀頃のもの)が出土して注目を浴びたものだが、今は訪れる人も余りなくて、復元された高楼の建物も寂しそうである。 (唐古・鍵遺跡から東方の山を望む。後方の山並の麓に、 山辺の道が続いている。右手に形のいい三輪山が見え ている。) (唐古八坂神社) この神社の脇に「田中荘」の説明看板がある。それによると唐古池の東に小字田中という地があり、その辺り一帯が田中荘と考えられるとのこと。田中荘は、紫式部の夫となった藤原宣孝が所有していた荘園である。彼と式部との結婚生活は2年に過ぎないから、式部がこの地に立った可能性は低いように思うが、この地に紫式部の姿を重ね合わせて眺めると、その風景も何やらゆかしいものに見えて来るから面白い。 (田中荘付近のススキ原) (帰仁橋から大和川下流を望む。) 大和川もこの辺りまで上流になると、小川である。更に上流に行くと、万葉では、三輪川とか初瀬(泊瀬)川と呼ばれる川となる。 (佐保川) 天理市、大和郡山市を経て奈良市となる。佐保川の近くまで来たので、もみぢや如何にと佐保川の川辺の道を走ることに。桜並木の紅葉が、もう盛りが過ぎている気もするが、実に美しい。 (佐保川畔の道) 近鉄奈良線の新大宮駅に4時半頃に到着。約2時間半のオマケ銀輪散歩でありました。距離としては20数キロ。脇道に入ったりの寄り道もしているが、30キロは走っていないだろう。自転車を折りたたんでバッグに入れて、電車で帰途に。帰宅したら、もう暗くなっていました。 (佐保の桜の秋もよかりき)
2009.11.30
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一昨日、27日の夜は大学同期の友人達と一足早い忘年会。半年ぶりの再会でありました。 (心斎橋の中華料理店で同期の忘年会) そして、昨日28日~今日29日は若草読書会の仲間との明日香一泊小旅行でありました。お天気の方が予報では傘マークが出ていたりと心配だったが、両日とも好いお天気で楽しい旅行となりました。初日のオプショナル・ツアー・サイクリングは先に(24日の日記参照)下見をしたコースを、ほぼ3時間で回り、予定通りでした。途中でそれぞれゆっくり時間も取れ、(一部の登り坂は別として)、皆さん快適なサイクリングを楽しんで戴けたようです。参加者全員が初めて訪れる処ばかりというコース設定が良かったか(笑)。土曜日なのに、斉明天皇陵で上から降りて来る男性一人、暫くして後から登って来る女性一人に行き遇っただけ。東地区とは大いに違う「マイナーさ」が味なのだ。 (飛鳥駅前の案山子) 駅前の案山子に迎えられて、サイクリング参加者全員が12時5分には集合。駅前でレンタルサイクルを借り、出発。高取川に出たところで、「これが万葉の檜隈川だ。」と説明しながら、檜隈川に因む万葉歌などを紹介していると、前のうどん屋さんのご主人が笑いながら我々を見て居られた。小生が下見の時に、昼食の場所と心づもりしていたレストランへと進む。ところが、そこは一杯のお客様で、席についてオーダーを始めると「客が多勢なので、40分位待って戴かないと・・」という話。とてもそんなには待てないので、先程の人なつっこい感じのご主人の「うどん屋さん」(注)に引き返すことに。ご主人も我々を覚えて居られて、「あの時に入らはったら良かったのに」とご主人に冷やかされる。そんなことで、出発は午後1時ちょっと前となったが、まあ、予定通りの出発時間であったから、文句はない。 (注)11月24日の記事の高取川の写真に写っている「ちゃんこ鍋」の旗の揚 がっている店である。 (もみぢ) (大田皇女墓の紅葉) コースのご紹介は既に済んでいるので、詳細は省略。 与楽鑵子塚古墳の近くで目にし「ナンキンハゼ?」(注)かとご紹介した木についての後日談を紹介して置きます。 この古墳の近くで「セニア・カー」に乗った80いくつとか仰っていた「おばあちゃん」にお会いした。上の木は何という名かと尋ねると、「鉄砲の木」だと仰る。戦時中に銃の木の部分の材料に使うべく軍に供出されたらしい。だから、この辺りでは「鉄砲の木」で通っているらしい。 (注)11月26日の記事の冒頭の写真の木 益々、何の木か分らない。大きな葉が繁ると仰っていたから、アオギリ(梧)かな、と思ったりしたが、それにしては幹が緑っぽくなく、白っぽいのが気になる。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると、色んな木を思い浮かべるがどれもしっくり来ない。「鉄砲の木」という答がでてしまっては、この大先輩のご意見に従うしかない。 (「鉄砲の木」説のおばあちゃん) (槇麻呂さん) (和麻呂さんと3人の郎女) 宿は石舞台から少し行った祝戸地区にある「祝戸荘」。明日香村で一泊されるなら、どうぞ祝戸荘をご検討してみて下さいませ(笑)。我々の部屋は男性が「間人」、女性が「額田」、智麻呂ご夫妻はバリアフリー部屋の「大津」。どの部屋も万葉集に登場する人物の名が付けられていて趣がある。「家持」の部屋は何処なんだ(笑)?食事は「古代食膳」(注)、万葉の貴族の食事はこのようなものではなかったかと考察して、考案復元されたもの。我々の今回の旅に似合いの食事である。 (注)古代食膳「万葉あすか葉盛御膳」の献立 酒<にごり酒> 飯(いい)<赤米(赤米・白米混)黒米(黒米・白米混)> 炙(あぶりもの)<鴨肉、あまごの塩焼き、茄子煮びたし鰹かけ> 韲(あえもの)<帆立貝柱の雲丹あえ> 羹(あつもの)<赤米麺、山菜、ショウガ、稚鮎の甘露煮> 膾(なます)<もずく・甘海老・ずいきの酢物・酢蓮根> 煮(にもの)<とこ鮑、八幡巻き、銀杏、戻し椎茸の甘煮> 茹(ゆでもの)<高菜の胡麻油いため、枝豆、里芋> 果子(かし)<蘇(古代のチーズ)、焼栗、山桃、白いちじく、果物> (すずほり)<大根の梅風味> 「すずほり」の漢字は、草カンムリにサンズイと且ですが、このブ ログでは使えない文字なので省いています。 (古代食膳) ちょっと箸をつけてしまってからの撮影なので、一部しか紹介できません。 夕食後は、智麻呂さんの部屋「大津」に全員集合して、持参のビール、日本酒、ワインなどを飲みながら、明日香村にある犬養万葉歌碑の歌、全16首の観賞と各自が用意して来た和歌を掲出して観賞する歌会。サイクリング中に作った即興歌などもあってワイワイ、ガヤガヤ。若草も もみつやいつし 草黄葉(もみぢ) 日をや重ぬる それぞれの秋 (偐家持) かくして、第一日目のさ夜は更けてゆくのでありました。歌会終了後、男どもは「間人」の部屋にて飲み直し。凡鬼さんと謙麻呂さんが先ず眠りに付き、次に祥麻呂、槇麻呂、和麻呂と続いて、夜更かし家持一人では眠るほかなく、。煙草を一服して床へ。zzzzZZZZ。続き2日目は、またページをあらためて。 <参考> 祝戸荘ホームページ 祝戸荘ブログ
2009.11.29
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先の24日の明日香小旅行下見の番外篇です。24日のブログ記事は午後2時過ぎに近鉄飛鳥駅まで帰って来た処で終わっていますが、それは字数制限(10000字)にかかったからでありまして、実はそのあと、軽く東地区を一回りして橿原神宮前駅まで走ったのでした。途中で撮った写真などを番外篇としてご紹介しておきます。 <関連記事> 明日香小旅行下見(ナンキンハゼ?) これは与楽鑵子塚古墳の奥の竹林の前にあった高木ですが、ナンキンハゼの木でしょうか。ちょっと印象に残る木の佇まいであったので写真に。(佐檜乃熊 檜隈川之 瀬乎早 君之手取者 將縁言毳) これは、先の記事で冒頭に挙げた万葉歌「さ檜隈檜隈川の瀬を速み君が手取らば言寄せむかも」の歌碑(犬養先生揮毫)である。(鬼の雪隠付近から東南東方向を望む。)(上の写真をずっと手前にカメラを引くと、こんな風景です。手前のキャベツ畑にせり出すようにある石造物が「鬼の雪隠」である。古墳の石室<底石・蓋石・扉石>の一部で蓋石に当たる。道を挟んだ反対側の高みにある「鬼の俎」が底石で、そこから転げ落ちて来た状態にある。説明板には、「この周辺は霧ヶ峰と呼ばれ、鬼が住み、通行人に霧を降らせ、迷ったところをとらえて、俎の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説があった。」とある。)(同じ場所から西を見ると。右手の森は欽明天皇陵。奥の山が金剛・葛城の山々であり、その手前に見える丘陵が真弓の丘、佐田の丘で、先程自転車で走って来た処である。)(ムラサキシキブ)(柿)(柿の黄葉)(天武・持統天皇合葬陵) この御陵の脇でおばあちゃんが大きな富有柿を並べて売っていらっしゃいました。6個1盛で300円。こんな処で客が来るんだろうか?1盛買い求めました。そしたら、おまけだと言って後方の大きな袋から1個の柿を取り出して7個にして下さいました(笑)。背中のザックが重くなる。(亀石) 明日香と言えば、この亀石が昔から有名ですな。今はやりの「ゆるキャラ」はこの亀石に始まると言ってもいいのではないかな。万葉のゆるキャラだ(笑)。今は、亀型石遺跡が発掘されて、北東にもう一匹、亀が登場しているのだが、キャラクターが全然違う。向こうは素性正しき「王室の亀」なのに対し、こちらは何処の馬の骨とも分らぬ、いや、亀の骨とも分らぬ、庶民的或いは落語的「亀」なのである。(カラスウリ)(ハゼとカラスウリ)(犬養万葉記念館の前庭にある犬養万葉歌碑・・山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴 巻2-158) この歌は十市皇女(天武と額田王の間の娘、大友皇子妃)が亡くなった時に、高市皇子が悲傷んで作った歌3首のうちの1首である。山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく(山吹が咲いている山の清水を汲みに行きたいけれど、そこへの道が分らない。)(水落遺跡の近くに美しい紅葉が・・)(采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久)采女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (巻1-51 志貴皇子)(采女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠くなったので、ただ空しく吹いている。) この歌碑は甘樫丘の中腹にある。犬養万葉歌碑第1号である。一昨年の4月に犬養先生生誕百年記念行事の一つとして、犬養万葉顕彰会の手で、副碑が建立されたが、その除幕式に、友人の和麻呂氏と一緒に参加したことを懐かしく思い出す。下の写真は碑の前から丘の頂上への道を眺めたもの。(甘樫丘展望台への道) 脈絡のない記事になりましたが、24日の下見で掲載しなかった写真を2~3ご紹介するというだけのものにてありますれば、ご容赦を(笑)。
2009.11.26
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偐万葉・大和はまほろば篇(その7) 本日は偐万葉といたします。大和はまほろば氏のブログにお邪魔し、同氏の俳句に下二句を勝手付けして和歌にするという、押しかけコラボ歌集です。(上の句<色字>が、まほろば氏の俳句。下の句が偐家持の作。 括弧内の作者名は、偐家持が適当に付けてみました。 写真は全てまほろば氏のブログからの転載です。) 偐家持が大和国まほろばの麻呂に贈りて詠める歌32首堰に来て 悲鳴を上げる 秋出水 流していたに 流されにけり (主客転倒)鶏頭の 老いの一輪 倒れけり 寒き人の世 秋の夕暮夜が明けて 落穂を拾ふ 鳩雀 和朝食かも 鳥も大和は (朝食バイキング) 朝寒や みち行く人の 背の丸さ 衣貸すべき 妹は朝寝か (偐長屋王)昼飯は 激辛カレー 鷹の爪 いづち隠(こも)れる ハゲタカファンド (今昔物語) 柿日和 ひとり歩きの 心地よさ 雲にまかせて 長堤の道 (与謝柿村)糸菊の 髪のほどよき カールかな ピアスはいづこ ブロンド娘 (クリサンサモン) 公園に 人の気失せて 夕紅葉 内なる秋の 風の音(と)聞くや (ヴィオロン)媛眠る 陵とは知らぬ 浮寝鳥 水沼(みぬま)はなべて 集(すだ)く宿なり (安眠鳥害) 冬立つや 野山を走る 千の風 吹く青空に 白き穂の立つ 煙立ち 秋の終(しま)ふや 高麗(こま)の里 行く人もなく 日は照りにけり 桂川 飛び越えてゆく 尉鶲(ひたき)かな 言痛(こちた)き人の 世にもあらねば (偐但馬皇女)不況下に 背高泡立草の 良く伸びて せいたらいかん あわててもいかん (馴化・セイタラアワテル草) 時雨るゝや 木立の向ふ こちら側 されど明るき 遠き山の端 (明日香晴待(あすかのはれまち))踏み込めば 踏み込むほどに 草紅葉 わがみぢのぐの 秋にしあれば (晩年でん年)踏み込めば 踏み込むほどに 草紅葉 事業仕分けの 山の秋かな (民主しぐれ)踏み込めば 踏み込むほどに 草紅葉 オバマと談判 するほかなきか (普天間由紀夫) 孫文の 庭に咲きたる 石蕗(つは)の花 天が下知る み代遠そけど肌寒や 「熱いですよ」と 明石焼 蛸名月の 冬の十五や (明石焼持) 明石へと 戻る船追ふ 秋の浪 千々に砕けて 恋ひて死なまし (松帆夫人)きずしにと 書かれてありぬ 秋の鯖 よみあかしたる うへの魚店(うをだな)(さばよみすぎて) 肌寒し 薄日射しくる 瀬戸の海 船呼び返す すべの知らなく山茶花や 夜べの雨粒 載せゐたり 哭(ね)のみし泣ける 涙の干(ひ)なく 四国へと 続く橋桁 冬霞 阿波道(あはぢ)の山に 落つる日かなし風の向き 教へてくれる 花芒(はなすすき) 今立つ時と 我に言ふらし (明智光秀の誤算)雨の朝 衰(おとろ)ひ目立つ 秋薔薇(さうび) 熟女の艶(つや)は なほしぞ残る (大野大町)山里の 荒ぶる風や 一茶の忌 なれど今宵は ボジョレーヌーヴォー (大林一酒) 廃校の 裏の山々 紅葉せり 坂の上なる 雲のいづこに (まほろ馬遼太郎)青首を 一本貰ふ 新嘗祭 逝きにし父の ことぞ思ほゆ 廃屋の 屋根にごろごろ 烏瓜 玉章(たまづさ)の使 絶えしこの頃 (倦怠期)冬の日を 受けてまぶしき 丸窓亭 寄ればもみつ葉 音もなく散る (午後三時) 次郎長が 先頭を行く 鴨の陣 尻の石鴨 大鴨小鴨 脇固めてむ (向う水鴨) (注)575777の仏足石歌形式の歌です。<参考>大和はまほろば氏のブログ入口
2009.11.26
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本日は、明日香を銀輪散歩。 この週末に若草読書会の仲間と明日香一泊旅行をする。希望者はレンタルサイクルでサイクリングするので、その下見である。 例によって、折りたたみ自転車トレンクル持参である。 飛鳥駅から見て東側は皆よく行くが西側は余り行くこともないので、今回は草壁皇子の墓かと言われている束明神古墳、草壁皇子(岡宮天皇)陵、斉明天皇陵などを回り、鑵子塚古墳や牽牛子塚古墳などをついでに回ってみるという計画だが、果たして参加メンバー諸氏が自転車で回れるコースであるや否やをチェックするのが今日の目的。 朝11時飛鳥駅前出発。高取川沿いを南へ。途中で近鉄吉野線を渡り、最初の分かれ道で右に入る。少し登り坂。「この辺りからは自転車を押して歩いて貰うことになるかなあ」など考えながら行く。トレンクルのペダルをこぐ足にも知らず力が入る。(高取川) 高取川は万葉の檜隈川である。西側には真弓、佐田、越智など万葉の丘が広がっている。これらの丘を挟んでその西を流れる曽我川と平行して北上しJR桜井線を越えた辺りで合流する。さ檜隈(ひのくま) 檜隈川(ひのくまがは)の 瀬を速み 君が手取らば 言寄せむかも (万葉集巻7-1109)(檜隈川の瀬が速いので、あなたの手を取ったなら噂されるでしょうか。)(春日神社) 春日神社の境内脇に束明神古墳がある。(束明神古墳) この古墳は昭和59年の発掘調査で、7世紀後半から末頃の築造とされ、被葬者は、歯の鑑定から性別は不明だが、青年期から壮年期の人物と推定されている。終末期古墳としては大規模である等から草壁皇子の墓ではないかと言われている。 草壁皇子は天武天皇と鵜野讃良皇女(持統天皇)のとの間の子。阿閉皇女(元明天皇)を妻とし、その間に生まれた軽皇子が文武天皇、氷高皇女が元正天皇、吉備皇女が長屋王妃となっている。皇太子となるが28歳で夭逝する。心やさしい青年で、異母兄弟の大津皇子を謀反の罪で母の持統が死に追いやったことを思い悩んだことも死を早めた一因、と考える説もある。後に岡宮天皇と追尊されているが、志貴皇子の春日宮天皇追尊の先例となったのではないだろうか。 束明神古墳への登り口に柿ともみぢがいい風情。 (春日神社・束明神への入口) 束明神古墳から約100m下った処に草壁皇子の墓(岡宮天皇陵)がある。隣に小さな村の神社があり、境内に入ると、「ここだも騒ぐ鳥の声かも」である。(岡宮天皇真弓丘陵)(岡宮天皇陵から吉野方面を眺める。) 草壁皇子陵から坂を下って突き当りを右に、斉明天皇陵を目指す。(岡宮天皇陵付近から金剛・葛城山を望む。) 曽我川に注ぐ小川、吉備川に沿って西に走る。曽我川に合流する辺りで道は北にカーブし、曽我川沿いに北上するが、車を避けて旧道を行く。2.5km位で斉明天皇陵の標識のある辻に着く。辻から200m程右に入ると斉明天皇陵の入口である。角の家からご老人が出て来られた。「この上が御陵ですね。」と声を掛けると、肯きながら「270段あるよ。」と目の前の階段の数を教えて下さった。せっせと登る。 やっと着いたかと思ったら、それは大田皇女の墓であった。昔一回来た筈なのだが、大田皇女の墓がここにあることは記憶から消えていたので、何やら嬉しい発見。彼女は天智天皇の娘。持統天皇の姉。大海人皇子との間に大津皇子、大伯皇女を産むが早くに病死。(大田皇女墓) もみぢが美しい。足元にも散り敷いた葉が。更に登ると斉明天皇陵に到着。いかにも女性の天皇の御陵という感じだ。(もみぢ踏みつつ誰とてもなき道を・・)(もみつ葉の照れる下道わが行けば・・)(斉明天皇陵) 斉明天皇こと、宝皇女は舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子、大海人皇子、間人皇女を産むが、子供達が小さいうちに舒明天皇が崩御し、天皇位に即く(皇極天皇)。大化改新、入鹿暗殺の時の天皇である。改新後弟の軽皇子が即位し孝徳天皇となるが孝徳亡き後、重祚して斉明天皇となる。百済救援のための援兵を送るべく自らも乗船して瀬戸内海を西航、筑紫の朝倉で崩御するという、女傑天皇である。有名な「熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな(巻1-8)」の歌は、斉明天皇に代って額田王が詠んだ歌とされている。 娘の間人皇女(孝徳の皇后)、建王(たけるのみこ、天智の子、8歳で死亡。)も合葬されている。孫の建王をとても可愛がっていたと見られ、日本書紀斉明4年5月条に建王の死を悲傷んだ彼女の歌が出ている。今城(いまき)なる 小丘(をむれ)が上(うへ)に 雲だにも 著(しる)くし立たば 何か嘆かむ (紀116)(今木の小丘の上に、せめて雲だけでも、はっきり立つなら、何を嘆くことがあろう。)射ゆ鹿猪(しし)を 認(つな)ぐ川上(かはへ)の 若草の 若くありきと 吾(あ)が思(も)はなくに (紀117)(射られた鹿猪のあとをつけて行くと行きあたる川辺の若草のように若く<幼少で>あったとは、私は思わないのに。)飛鳥川 漲(みなぎ)らひつつ 行く水の 間(あひだ)も無くも 思ほゆるかも (紀118)(飛鳥川を水しぶき立てて流れる水の絶え間のないように、<建王のことが>絶え間なく思い出されることだ。) 後はオマケ。越智バス停前で左折し農免道路を東に。古墳が目に入り近寄ると。 (カンジョ古墳) (与楽鑵子塚古墳) ここで貝吹山城址という標識に誘われて登って行くと、これが何とも結構な距離の上、ケモノ道まがいの細い急登。登り切ったら、一人の男性の先客。この方、西宮ご在住にて、碁がアマチュア6段とのこと、驚かされました。まあ、自転車を持って登って来た小生も彼を驚かせたようだが(笑)。 (貝吹山頂への道) (貝吹山城址碑) 牽牛子塚古墳などは紹介済みなので省略。飛鳥駅前に戻って来ると午後2時17分。途中、斉明陵でのお弁当タイムで15分、貝吹山での45分程のロスをを差し引くと2時間余の行程になる。これを当日は3時間位の予定で回れば、午後1時出発でも4時には飛鳥駅前に帰って来れる計算に。(飛鳥駅)
2009.11.24
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(承前) 偐山頭火氏との「銀輪万葉・藤井寺界隈」の続編です。 野中寺を後にして辛国神社へ。(辛国神社) 辛国神社は、その名が唐国、韓国とも表記されるように、渡来系氏族が大陸系の神を祀ったことから始まったのでしょう。この地が百済からの渡来系氏族の船氏・葛井氏の地であってみれば当然のことですな。この地は石川の西岸にあるが、前回輪行した東岸の地は藤原不比等を養育した氏族としても有名な田辺氏の地であり、田辺氏も百済系渡来人ですから、この辺り一帯は古くから百済系渡来人の支配する地であったということですな。 辛国神社のすぐ北にあるのが葛井寺。葛井氏の氏寺といわれている。この寺は西国三十三番札所の五番札所となっているように、千手観音坐像(国宝)が本尊である。何でも大手42本、小手1001本あり、我が国仏像では手の本数が最多であるというのが売りらしい。こんなに手が多くては、時に仏像をモチーフに絵をお描きになる、真澄さんもお手上げではないだろうか(笑)。(葛井寺本堂)(葛井寺山門) この山門も神さびて堂々とした力強さのある美しい門である。門前の土産物店にご老人が一人つくねんと店番をして居られたので、「葛井餅」(くず餅)を家づとに買い求めることにしました。 葛井餅を買った訳でもなかろうが、空腹を覚える。12時20分になっていた。そばの商店街に進入し食事の出来る処は・・と探し、最初に出会った食堂に入る。昔懐かしい「町の大衆食堂」でした。二人とも早食いなのか、済ませて、さあ出発とお勘定をしたら、店のオバサンが「早いですね。」と笑って居られた。滞在時間10分~15分位だったでしょう(笑)。 店を出て、再びMTBの人に。雄略天皇陵を目指す。 途中に城山古墳というのに出会ったので立ち寄る。とにかくこの辺りは古市古墳群と言って、大小様々の古墳が至る処にあり、出鱈目に走っていても必ずなにがしかには出くわしてしまうのである。(城山古墳) 古墳の濠にあたる部分が菖蒲園になっているほか、睡蓮の池にもなっていたり、市民が植樹(誰かさんの結婚5周年記念とか成人式記念などが目に入りました。)した梅林になっていたりしているが、古墳は現在発掘調査中にて、墳丘への立ち入りは禁止となっていました。上の写真の反対側の墳丘部分は津堂八幡神社の境内地となっていました。 (雄略天皇丹比高鷲原陵) 宮内庁指定のこの雄略天皇陵は円墳である。雄略は古代天皇の中でもひと際存在感のある天皇であるが、それにしては規模が小さい。1km程西方にある大塚山古墳が雄略陵だという説もあるようだが、定かではない。 雄略天皇は古事記、日本書紀でも話題の多い天皇であるが、万葉に引きつけて言えば、ご存じ、あの「こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち・・」の万葉の巻頭を飾る歌の作者とされている天皇である。 この歌にちなんで、我が住む里に近い日下(草香)を雄略に無理にも関連づけてみると、こんなエピソードが古事記に出て来る。 或る時雄略天皇は、三輪川(現、大和川の上流、三輪山麓を流れるあたりのこと)の畔で洗濯をしている美少女に出会い、「汝は誰が子ぞ。」(雄略)「己が名は引田部赤猪子といふ。」(美少女) とのやり取りをする。 そして「汝、嫁がずあれ。今に召してむ。」と約束をする。 ところが、雄略はそのことを忘れてしまう。 80年たって老女になってしまった赤猪子は、「待ちわびた積年の思いを一言云わないと腹の虫が収まらないわ」 とて、雄略に会いに行く。 「お前は誰じゃ?」と雄略。 そこで彼女は経緯や自身の思いを述べる。これを聞いて雄略が詠った歌は、引田(ひけた)の 若栗栖原(わかくるすばら) 若くへに ゐ寝てましもの 老いにけるかも(引田の若い栗の木立よ。若いうちに一緒に寝ればよかったのに。老いたもんだ。) そんな言い草はないだろうと思うが、これに対して、赤猪子は、日下江の 入り江の蓮(はちす) 花蓮(はなはちす) 身の盛り人 羨(とも)しきろかも(日下の入り江に咲いている蓮の花のように、今が一生の盛りの若い人が羨ましいことです。) と、答える。 私の青春を返して、なんぞと言わないのが古事記の世界だ(笑)。 で、この日下は現在の東大阪市日下町なのである。我田引水は疲れる。河内の蓮根畑に水をやっと引くことが出来た、という次第(笑)。<参考> 雄略天皇(吉村家住宅・長屋門) 吉村家住宅(公開は春秋の特定日とあって、この日は固く門が閉ざされていました。)の広大な敷地の周りをひと巡りするうちに、雨がぽつり、ぽつり。帰途につくこととする。 大和川に出た処で偐山頭火氏とは西と東に別れ、小生は東に。大和川沿いの道を遡上し、出発点の柏原市役所前あたりに来た頃から雨がポツリポツリを過ぎて、パラパラになって来た。上衣は既に雨具に着換えていたが、雨具のズボンを上から穿き、帽子を被り、雨用フル装備にして、恩智川沿いをゆっくり走って自宅に帰りました。(大和川畔。奥に見えるのは二上山。手前が近鉄道明寺線)
2009.11.23
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本日は、友人偐山頭火氏との銀輪万葉(漫遥かな?)散歩にて、藤井寺、羽曳野界隈をサイクリングして参りました。前回同様、朝10時半、大和川畔の高橋虫麻呂歌碑前にて待ち合わせ、出発。天気予報が昼過ぎから雨とのことで、雨合羽をザックに忍ばせての輪行である。 出だしは石川畔から東高野街道を進み、国府八幡神社、潮音寺。以前、立ち寄った時は門前でお暇して境内のお墓は見ていなかったので、今回は衣縫孝女のお墓参り。(衣縫孝女の墓) 孝女の話は先の記事「古市古墳群めぐり」(2009年7月31日)に掲載しているのでそれをご参照戴くとして、衣縫氏の名は日本書紀に登場している。「百済の王(こきし)、縫衣工女(きぬぬひをみな)を貢(たてまつ)る。真(ま)毛(け)津(つ)と曰ふ。是、今の来目衣縫(くめのきぬぬひ)の始祖(はじめのおや)なり。」(応神天皇14年春2月条) 他にも、応神天皇37年2月条・同41年2月是月条(呉衣縫・蚊屋衣縫の祖)、雄略天皇14年正月条・同3月条(漢衣縫部・飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の祖の来朝)に衣縫氏が登場するが、渡来系氏族である。 潮音寺に隣接の国府八幡神社の裏から允恭天皇陵に出て、この陵をぐるり一周して、再び東高野街道を進むと道明寺を経て、応神天皇陵・誉田八幡宮である。道明寺山門脇の銀杏が美しく黄葉していました。(道明寺の銀杏)(誉田八幡宮) 誉田八幡の祭神は応神天皇である。応神天皇は、日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐の後、筑紫の蚊田(宇瀰の旧名。)にて出産するのであるが、生まれた時に腕に「宍」(コブ)があって、その形が鞆(弓を射る時に着ける巴型の籠手)に似ていて、鞆は昔はホムタと呼ばれた処から、ホムタ天皇と呼ばれるようになった、とある。ホムタ-誉田-コンダと変化したのだろう。(放生橋) 放生橋は鎌倉時代に造られた花崗岩製の反り橋。説明板によると、「毎年9月15日の秋の大祭の夜には、神輿がこの橋を渡って応神陵古墳の濠のほとりまで運ばれ、祝詞の奏上や神楽の奉納などの神事が行われる。かつては陵の頂上まで渡御していたといい、誉田別命(応神天皇)を祭神とする誉田八幡宮と応神陵古墳との、古くからの深いつながりがうかがわれる。」とのこと。 更に、東高野街道を南下。古市駅裏の白鳥神社に立ち寄る。(白鳥神社)白鳥(しらとり)神社は、寛永年間(1624~43)末期、軽墓(かるはか)(軽里)の伊岐谷(いきだに)にあった伊岐宮(いきのみや)を、古市村の産土神(うぶすながみ)として現在の地に移築したとのこと。伊岐宮には日本武尊が祀られていたが、南北朝や戦国時代の兵火で焼失。峯ヶ塚古墳にある小さな祠として存在していたが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し、放置されていたとのこと。 さて、その峯ヶ塚古墳であるが、古市駅から31号線を西へ、日本武尊白鳥陵を左に見て1km程行った処にある。周辺は公園に整備されている。(峯ヶ塚古墳) 峯ヶ塚古墳から野中寺へ。途中に仁賢天皇陵(埴生坂本陵)の前を通ったので、ちょっと立ち寄る。(仁賢天皇陵)(野中寺) 野中寺は「中の太子」と呼ばれる聖徳太子ゆかりの寺とされるが、これを船氏の氏寺とするのが有力説である(創建者は万葉歌人の葛井連広成といわれる)。応神天皇の時代に来朝した百済王族の子孫、王辰爾が船史(ふねのふひと)の姓を賜っているが、その子孫が船氏、白猪(葛井)氏、津氏などである。 葛井広成は旧姓白猪史、葛井氏の中心人物であり、天平20年(748)8月に聖武天皇一行が広成邸に行幸し、宴飲一泊、翌日広成に正五位上を授けて帰っているから、財力も相当なものであったのだろうが、万葉集での広成は宴席で即興の洒落た歌を作って、いいところを見せている。奥山の 岩に苔生(こけむ)し 畏(かしこ)くも 問ひたまふかも 思ひあへなくに (巻6-962 葛井連広成(ふぢゐのむらじひろなり))(奥山の岩に苔が生えて神々しいように、恐れ多くもお求めになることでありますな。<歌を作るなど>思いもよりませぬことです。) この歌は大伴旅人の家で勅使をもてなす宴会が持たれた際に、一座の人が広成に歌を作るようリクエストしたのに対して、即座に答えて広成がくちずさんだ歌であると左注にある。衆人が広成が即興の歌を作る芸当に秀でていることを認めていたのでしょうな。この歌を覚えて置くと、即興で歌を求められた場合で、直ぐに思い浮かばない時は、これを朗唱、広成のお話をして、お茶を濁すことできますよ(笑)。(野中寺本堂)(野中寺塔跡)(野中寺金堂跡)(ヒチンジョ池西古墳石棺)(お染・久松墓) 野中寺には何故かお染・久松の墓があります。 お染・久松の塚なるものは大東市の野崎観音にありますが、先日、偐山頭火君と野崎観音方面を銀輪行しているので、彼曰く「これで完結したことになる。」と(笑)。 <参考>お染久松塚(「朝は北へ、夕は南へ」2009.5.30.) この後、辛国神社、葛井寺、雄略天皇陵、吉村家住宅とめぐるのであるが、それは続編に譲ることとし、ここで一先ずアップします。
2009.11.22
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第48回智麻呂絵画展 智麻呂ファンの皆さまにはながらくお待たせいたしました。本日は銀輪散歩のついでに智麻呂邸を訪問。新作を仕入れて参りましたので、先日の分と併せて全11作品一挙公開であります。相変りませず多数のご来場お待ち申し上げます。(風船唐綿・フウセントウワタ) 風船唐綿は第21回絵画展でもその作品がありますが、今年もご近所の奥様が絵の題材にとお届け下さったものです。冬近み はや綿入れの 支度らし 風船唐綿 膨らみゆけば (偐家持)(ホトトギス)冬春は 知らず夏鳴く ホトトギス 花もよかりき 秋にぞ咲ける (偐家持)(オンシジウム)四季問はず 黄金に咲くや オンシジウム よき脇役の ゆかしその花 (偐家持)(柿ー1) この柿は先日の偐家持・偐山頭火の銀輪散歩の際に河内飛鳥川の畔にて手土産にと買い求めたもので、次郎柿ですな。次郎柿は富有柿、平核無柿に次いで生産量第3位の柿らしいです。生産量で言うなら三郎柿というべきでしょうかな(笑)。その約8割が愛知・静岡両県で生産されており、豊橋市が日本一の生産量です。もっとも、これは河内飛鳥の次郎ちゃんですが・・。富裕でも 平氏でもなき 次郎柿 苦労すもよし つねにもなくば (偐次郎物語)(虎) 来年は寅年ということで智麻呂氏も虎に挑戦。来年のタイガースはこの虎の如く強く荒々しくあれ。トラぬ狸となるなかれ。虎吼えよ 燃えよ明日(あした)の 六甲(むこ)の山 熱き男(をのこ)の 打ちてし止まむ (明日のジョー島)(アケビ) このアケビは例によって小万知さんの手土産ですな。智麻呂氏の絵心を刺戟するすべを一等心得て居られるは小万知殿とお見受けいたしましてござりまする。三人(さんにん)の をみなが笑ふ 木通(あけび)の実 (筆蕪蕉)(アロエ) フィリピンの大統領ではありませぬ。アロエであります。効能は 様々なりて 医者いらず アロエをまねて みたくもアロヨ (フィリピーノ )(サンドマメ・サヤインゲン) 関西ではフジマメ(藤豆)をインゲンマメ(隠元豆)、隠元豆を藤豆といい、サヤインゲン(莢隠元)はサンドマメ(三度豆)といいますな。隠元豆というは隠元禅師が明から我が国に伝えたということからと言われていますな。(山菜のり) これは、智麻呂絵画の熱烈ファンでもいらっしゃるF夫人のお土産です。丁度お礼の絵手紙が投函される前に撮影できました。(桜葉もみぢ) 上のもみぢ葉と下の柿は屋外にての写生であります。車椅子から枝を見上げながらの写生はさぞ首が疲れたのでは、と推量いたしますが、桜の枝は、恒郎女様曰く「手折れ」と智麻呂氏が要求されたとか。きっと首がだるくなったのでしょうな。でもそのままにて写生は完了いたしました。(柿ー2)柿三つ 食はぬさきから 首痛し 一茶もせずて 描きや尽くせり (中林三柿)
2009.11.21
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伯母の通夜から帰って来ました。昨日、入院先の病院で安らかに永遠の眠りにつきました。明日が告別式です。夜になって雨は上がりましたが、今日は泣けと如くに朝からずっと冷たい雨が降り続きました。 伯母は美しくお化粧をして貰って、優しい静かな寝顔のようにも見えて・・。幼い頃から何かと可愛がってくれた伯母。もう一人の母のようでもあった伯母を偲びて・・。 偐家持の詠める悲傷歌5首うち日さす 秋のみ園の もみつ日に 母とも思ひし 人の逝きけるやがて来る 別れの日とは 思へども もみぢしぐれて 心ぞ痛き今はもや 泣けと降るらし 夕寒の 山茶花時雨 間なくしあれば (脚注)参照泣く涙 冷雨(ひさめ)に降れど 伯母上の 終(つひ)の船出の とどめやかねつうな坂を 一人し行くの かなしけど 船呼び返す すべの知らなく 筆蕪蕉が傷みて作る1句 殯舟 行きやとどめむ 初時雨 (注)上の白い山茶花の写真は小万知さんが送って下さったものです。山茶花しぐれの歌に添えさせて戴きます。(11月18日深更追記す。)
2009.11.17
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昨日の府民の森散歩の続編です。万葉植物展示園ほかで目にした木々と万葉歌を並べてみましょう。 ところで、府民の森というのは、生駒山を中央に、南は高安山、信貴山、北は竜王山、交野山、国見山までの生駒山系の山を縦走する道に沿って設けられた7つの園地を含む公園のことであるが、この縦走路を「竜の道」とも呼ぶらしい。大阪府と奈良県の境界をなす南北に長い生駒山地の稜線が竜に見えるという処からの呼称とか。(小生には竜に見えたことはありませぬが。)まあ、古来から行基や役小角などが修行した山であり、今も様々な信仰の寺院、神社などが無数に山中に在るのであってみれば、竜の道という名も成程である。 (こなら) (クヌギ・つるばみ)下毛野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の 小楢(こなら)のす ま妙(ぐは)し兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (巻14-3424)(下野国の神の山に生えるコナラのように美しい娘は誰の笥<食器>を持つのだろう。)紅(くれなゐ)は 移ろふものぞ 橡(つるばみ)の 馴れにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも (巻18-4109 大伴家持)(紅の色は移ろいやすいものだ。つるばみで染めた着なれた衣に及ぶものではない。)橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は人皆 こと無しと いひし時より 着欲しく思ほゆ (巻7-1311)(つるばみで染めた衣は目立たなくて無難であると人が皆言うので、それ以来その衣を着たいと思うようになったよ。) (ヒノキ) (サネカズラ・さなかづら)巻(まき)向(むく)の 桧原(ひはら)に立てる 春霞 おほにし思はば なづみ来(こ)めやも (巻10-1813)(巻向の桧原に立ちこめる春霞のように、ぼんやりと思っているのであったなら、苦労してここまでやって来たりしません。)あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹に逢はずや わが恋ひ居(を)らむ (巻10-2296)(山のサネカズラが赤くなる時まで、私は妻に逢わずに恋うているのだろう。)さね葛 のちも逢はむと 夢(いめ)のみに 祈誓(うけ)ひわたりて 年は経(へ)につつ (巻11-2479)(サネカズラのように後にも逢おうと、夢の中ばかりでうけいをしながら、年を過ごしています。)(カラタチ)枳(からたち)の 棘原(うばら)刈り除(そ)け 倉立てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛造る刀(と)自(じ) (巻16-3832)(棘のあるカラタチの原を刈り払って倉を建てよう。糞は遠くになされよ、櫛作りのおかみさん。)(スモモ)わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る はだれのいまだ 残りたるかも (巻19-4140 大伴家持)(わが庭のスモモの花だろうか、それとも庭に降った、まだら雪がまだ消え残っているのだろうか。) (タチバナ) (ツゲ)わが屋前(やど)の 花橘の いつしかも 珠に貫(ぬ)くべく その実なりなむ (巻8ー1478 大伴家持)(わが家の花橘は、いつになったら玉に貫けるように、その実がなるのだろう。)橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の樹 (巻6-1009 聖武天皇)(橘は実も花も輝いて、その葉さえ、枝に霜が降っても、ますます常緑の樹であることよ。)君なくは なぞ身装餝(よそ)はむ 匣(くしげ)なる 黄楊(つげ)の小櫛(をくし)も 取らむとも思はず (巻9-1777 播磨娘子)(あなたがいらっしゃらないならどうして身など装いましょう。櫛笥にしまってある黄楊の櫛も手に取ろうとは思いません。)(枯れ萩) 萩は万葉集に140余首、最多登場の花であるが、かくも枯れ果てては歌にもなりませぬかな。ならば、偐家持に立ち枯れの萩を詠わせてもみましょう(笑)。夕づけば 寒くなりゆく 山風の 悲しからずや 萩立ち枯れぬ (偐家持)
2009.11.15
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本日は自転車を家に置いて、小生としては久々の里山散歩に出かけました。自転車ばかりでは、歩く能力が低下してしまうだろうと、久しぶりの山登りにしました(笑)。自宅近くの枚岡梅林から枚岡山展望台-神津嶽-府民の森というコースを紅葉散策して参りましたので、本日は、その風景などをご紹介することと致します。(枚岡梅林) 梅林を登り切った処に登山口がある。昨夜から今朝にかけての雨で落ち葉の降り敷く道も濡れていて、谷筋の薄暗い木間道に入ると空気もヒンヤリ湿っている。それも束の間、九十九折りの急坂を登って行くにつれ、息が荒くなり、汗が吹き出す。上着を脱いで腰に巻く。これで丁度よい具合だ。(枚岡山展望台への道)(枚岡山展望台)(枚岡山展望台からの眺望) 展望台から神津嶽へと登る途中に、小生が「腰掛石」と名付けている石のある小丘がある。山登りの時には決まってこの石に腰を降ろして休憩するというのが、かつての習い、今日もここで暫し休憩。(腰掛石) 腰掛石から神津嶽頂上へ。頂上は枚岡神社創祀の地とされている。(神津嶽頂上への道) その云われは、下の碑の写真に刻まれているので、説明は省略です。 神津嶽を降りて再び登ると「らくらく登山道」という舗装された道に出る。府民の森へは、この舗装された道を行くコースもあるが、遠回りになるので、急登となるが、昔ながらの登山道を行く。登り口に山茶花が今を盛りと咲いている。(サザンカ) 登り切ると府民の森の管理事務所(今は単なる休憩所になっている。)であり、そこから、もうひと頑張り登ると万葉植物展示園と眺望の開けた「ぼくらの広場」がある。(府民の森・万葉植物展示園への道)(万葉植物展示園)(生駒山上) ここまで登って来ると、生駒山上はもう目と鼻の先である。ススキの穂の向こうに見える生駒山上の眺めも何やら愛しい(笑)。森のレストハウスに立ち寄るべく、少し山を下る。大阪側(西側)を見やると「押し照る難波」の眺めである。直越えの この道にして 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも (巻6-977 神社忌寸老麻呂)(府民の森からの眺望ー大阪湾が日に輝いている。)(南方向の眺望ー高安山、信貴山へと続く。)(森のレストハウスの入口) レストハウスの敷地内にもサザンカが咲いていました。石蕗の花も。そして、楓などのもみぢも美しく色づいていました。(サザンカとツワブキ) もみぢ散歩と言いながら、今まで余りもみぢが登場しませんでした。以下、府民の森の紅葉・黄葉をお楽しみ下さい。けん家持も影にて登場です。(ニシキギ)(楓)(右はユリノキ、松風さんの絵を思い出します。)(府民の森の紅葉・黄葉)(偐家持の影、影持君の登場です。)(落葉の道)(木の間に見える大阪平野) 万葉歌に詠われた木の写真とその万葉歌もご紹介しようと思って居りましたが、今夜はこれ位で、また明日とします。おやすみなさいませ。
2009.11.14
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本日は囲碁の会にて午後から梅田へ。本日の参加者はT氏、f氏、A氏の常連組に、午前中の将棋クラブから飛び入り参加のI 氏に小生の5名。小生はI氏と2局、F氏と1局打って、3戦3勝。これで前回から6連勝。好調でありますな(笑)。 さて、それはさて置き、本日は「偐万葉・るるら篇」といたします。偐万葉・るるら篇(その3) 偐家持がるるらの郎女に贈りて詠める歌24首並びに返歌3首筑紫女(つくしめ)の るるらなりせば 福岡の 街もや人も 空もや愛(いと)し筑紫女(つくしめ)の 身をやつくして 筑紫なる 国にも人にも 恋渡らなむ (偐水鏡) 七夕の 夜の明けぬれば 天の川 隔(へな)りまたもや 恋ふるわれかも わが歌は みなこのたぐひ しかもへた それ猿真似と 人はいふなり (杜撰法師)朝床に 聞けばはるけし 玄海の 浦行く船の 霧笛のかなし 黄金なす 筑紫の空の 夕照の 光届かぬ 浪速ぞくやし (夕陽丘3丁目の焼け持君) ルイ・ヴィトン 見ずにゆるりと ゆきまひょか 祇園祭の 山鉾どすえ (北観音山)いづかたゆ 畳に来たる 光る蝶 ゆらぎつなれも 日食待つや 雨の間を ゆく豹紋の 翅の蝶 やすめやしばし こすもす咲けりうすべにの 蓮の花咲き 幾千の 笑みたたへたる 羅漢のおはす 宗象の 風はやさしも 護国寺の 祈りの道を 踏みてぞ来しか るるらの郎女の返しける歌2首 宗像の 地に溢れたる 慈愛の気 戴き想う ありがたきこと ほのかにも 色こぼれ落ち 蓮の花 微笑み集う 人の絶えなく蓮華なき 蓮華坂なり 妹が坂 我が松の馬場 松なきがごと 今日もまた よき日なるらむ 赤々と 昇る朝日に 雲のたなびくもみつ間も なくや散りける 桜木の ほつ枝に空の 雲のかなしき年々(としどし)の 花に思ひは 歳々(としどし)に ありて咲くなれ 咲きて散るなれ わたつみの みかみのこらは 声高く 船を連ねて いま漕ぎ出(づ)らし 宗像(むなかた)の 神はかしこみ をのこらは 波切り海を 渡りてゆける 月待ちて 野にコスモスの 花や咲く とんぼとかへる 秋風の道しんしんと 微塵(みじん)の光 降りも来て さらえ壮士(をとこ)の 夜渡るらし月讀(つくよみ)の さ夜の光の 音深み 水澄みゆける 余呉の湖(うみ)かな赤旗の 熱き情(おもひ)も 冷(さ)めぬれど 白旗あぐる ものにもあらじ(紅旗征戎非吾事)わたつみの くすしき神の おはします 三苫の浦は 見るにさやけし 夕されば 朱(あけ)にぞ染むる 真澄鏡(まそかがみ) 三苫の浦に 潮満ち来らむ 三苫の海(み) 千鳥しば鳴く 夕波の いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ (三苫偐麻呂) るるらの郎女の返しける歌1首 さや風に 吹かれし波の とめどなく わたつみの声 浜に寄せ来る<関連記事> 偐万葉・るるら篇(その1)、(その2) るるらさんのブログ入口 (注)上記の写真は全てるるらさんのブログからの転載です。
2009.11.11
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本日は銀輪散歩のついでに智麻呂邸を訪問。新作絵画5点を撮影して来ました。あと1~2点入手したら、また智麻呂絵画展を開催させていただきますので、智麻呂ファンの皆さまはもう少しお待ち下さい(笑)。 智麻呂邸からの帰り、道端にランタナが美しく咲いていましたので、掲載して置きます。 (ランタナ) もうひとつ、面白い物を見つけました。 (二宮金次郎像) 二宮金次郎の石像である。昔は小学校の校門脇に決まってあったが、最近はとんと見かけない。全国的には未だ沢山の学校にこの像が残っているらしいですが、小生の住むこの町では殆ど見ることはない。 この像は路傍の地蔵堂の裏にちょこんとあった。どうも民家の庭先のような気がするので、個人の持ち物なのかも知れません。写真を撮っていたら、そのお家の奥さんとおぼしきお方が顔を出されて、「珍しいでしょ。」と笑いながら声を掛けて来られたけれど、「そうですね。」と背中を向けたまま答えつつ、写真を撮り終わって首を廻らすと、もうお家の中に入ってしまわれたのか姿が見えない。かくて、何故この像がここにあるのかはお聞きすることができませんでした。 この像が戦後姿を消していったのは、GHQの占領政策とは関係なく、薪を背負って本を読みながら歩いている姿は、子供が真似ると交通安全上、危険であるなどの理由で、校舎の建て替えや増改築の際に順次撤去されることが多くなったということであるらしい。 高校野球の報徳学園の名は知っていても、二宮尊徳の報徳記やその思想のことはよくは知らない小生でありました。 <参考>二宮尊徳
2009.11.10
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偐万葉・松風篇(その5) 本日は、偐万葉・松風篇(その5)であります。松風氏の絵と偐家持の和歌とのコラボをお楽しみくださいませ(笑)。 <松風6923氏のブログ入口> 偐家持が松風朝臣(まつかぜのあそん)麻呂(まろ)に贈りて詠める歌24首巡礼の 旅も終りて み光の 祈りの丘に 今し着きぬる (鶴見遍路) しゃんしゃんと 馬にも鈴を 掛けましや 秋プラタナス 実のなる径は ぬばたまの 黒きスカート たれや待つ 鶴見娘子(つるみをとめ)に 秋の日高し オヤジらも 寄れば子供と なるならむ 紙の飛行機 空飛ぶほどに雨もまた よきことなるか いにしへの 君しゑがける 絵にも逢へるや いさりぶね もやひていまは やすめるか 海士(あま)のいづこや 日の高々に野辺の草 鶴見の丘に 生ひければ 枯れてもなほし 見る人のあり われこそは 鶴見の神の 天降(あも)りつく 石にありけり おほろかにすな黒犬の 寅にもあるや 秋深み 白き襟巻 風の身にしむ (吾輩は犬である) ひとり行けば やさしくなりぬ 木漏れ日も 秋の山道(やまぢ)は もみぢ始(そ)めけりもみぢそむ はにそれぞれの いろありて おほきちひさき おのづと和せり 遊ぶ子の バベルの塔の 幼くて 天突くことも 今はなきなり秋たけし 日の照る岡辺 をのこらの 声もわらべの ごとくやなりぬ 来し方を 背中で語る 秋の日の うららに照れり をのこのひとりゆりのきの ほつ枝に見ゆる もみつ葉は 散りやのこせる 秋の色なり 青き裳の 若きをみなの 四人(よたり)居て 照る日もうらら 秋野の丘はもやひ綱 きしめる音の うら悲し いたくな吹きそ 秋の浦風 鶴見野の 道行き交へる 銀輪の 人それぞれに 秋の日や照る大池の 秋深むらし をとめらの もとほり行きぬ もみつ島山 百合の樹の 後(ゆり)にも逢はむ もみつ葉の 散りてののちも 実のなほあれば鶴見野は 白き景色と はやなりぬ 木枯らし吹きて 冬立つらむか 花筺(はながたみ) いつしか花も 散りぬれば 朝風寒く 冬の立つらし花筺(はながたみ) 花散りぬれど 葉を繁み なほしぞやあれ 朝寒の風たなぐもる 鶴見大池 立つ冬の 道ゆくをとめ ひとりぞかなし (関連記事)偐万葉・松風篇<その4><その3><その2><その1>
2009.11.07
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偐万葉・ひろろ篇(その2) 本日は偐万葉・ひろろ篇(その2)であります。ひろろさんの絵や写真と共に、偐家持の拙き和歌もお楽しみ下さいませ。 <ひろろさんのブログ入口> 偐家持がひろろの郎女に贈りて詠める歌22首光降り 瑠璃虎の尾の 穂先にも 我が待つ秋は 立つといふらし仙人掌(さぼてん)の 花ひとつ咲き 我が庭に 雨は降りつつ 秋立ちにけり ゴム長の をみなの立ちて いさな捕る 夫(つま)の舟影 近付くらしも この歌、正しくは次の如くにすべきものにてありき。ゴム長の をみなの立てば あはび捕る 夫(つま)の舟影 近付くらしも 船競(ふなぎほ)ふ 小樽の堀江 夏の日の 照りてぞ白き 眺めのかなし 心あてに をらばやをらむ 深酔ひの 酒マルガリタ 白菊の花 (菊花酒)端正に 白き花のごと 伯母上の 千代に在りませ 迅く帰りませ 船競(ふなぎほ)ひ 明けゆく泊り 海鳥の 声もや白き 朝の浦風 風吹けば たゆたふ小舟(おぶね) いや白く 潮路恋(こほ)しき 海士(あま)ならなくに コスモスの 花咲く朝の 風のごと 静かに逝きぬ ひとぞ悲しき萩の花 今を盛りと 咲きぬれど 見すべき伯母の もはら居まさじ指輪にも せむとや植ゑし 花水木 今しゆかしき 赤き実なればこっちゃんの 笑みの連れ来や 春風の そより日なたに 団欒の花 ふるさとは しずかにゆきの ふるならむ ゆきてかへらぬ おもひのひびに ためらひの Vにも見ゆる こっちゃんの 笑みのはにかみ 淡き春の日 木漏れ日の 揺らぎて夏の さみどりの 風吹きゆける すがしこの径 ヤカモチも 行きてみたくは あるなれど 会津はとほし 秋の空かな毘沙門も 尾花かざしに 秋風と ともにや眺む 会津磐梯 瑠璃色の 夢を紡ぎて 沼深く さ夜の月影 映してもがも やはらめる ひかり降り来て きざはしも ゆるり参れと 云へるに見ゆる にゃにゃにゃんと 飛行船にゃり 秋晴れの 水にゃき空に ふにゃでするにゃん (猫本にゃん麻呂) 葦辺ゆく かものめをとの 影にもや 君に寄りなむ たぐひて居らむ朝開き 海人(あま)のか黒き 影ふたつ 日の出待つらむ 沖つ辺(へ)の雲 <関連記事>偐万葉・ひろろ篇(その1) (注)上記の絵画やその他の写真は、全て「ひろろさん」のブログからの転載であ ります。
2009.11.05
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(花園中央公園から見た今朝の生駒山) 本日は、囲碁の会の日にて、銀輪散歩は朝のうちに軽く済ませて、昼少し前に家を出ました。朝の銀輪散歩の時は寒い位だったが、昼近くになるにつれて暖かくなり、丁度よい外出日和。 囲碁はいつものメンバーA氏、T氏、F氏に加えて、鳥取からTs氏も顔をお見せになり、小生を入れて5名の出席でした。小生は3局打ちましたが、本日は好調であったのか、相手の打ち損じであったのか、戦績は3戦全勝でした。 さて、本題に。若草読書会の中心メンバーである凡鬼さんの句が、お住まいの市が主催の俳句のコンクールで「教育委員会賞」を受賞されたということで、読書会の仲間内のメールで話題が盛り上がっている。 受賞の句は、 ○甚平を 着ても矜持を 失はずであったそうな。 凡鬼さんが甚平を着て家庭菜園の野良仕事をされている姿がほのぼのと目に浮かんで来る。そんな感じがする句であります。 本ブログでも同氏の句「寡黙なる友が差し出す割れ石榴」というのを以前ご紹介いたしましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかも知れませんが、同氏の俳句のひそかなるファンの一人として、本ブログにてご祝意を表させて戴きます。 おめでとうございます(笑)。 氏は藤沢周平みたいな時代小説など、小説を書いたりされていますが、最近はご熱心に句作に励んでおられます。氏のご許可は得ておりませぬが、今回の受賞の句と並べて、市の催しに展示されている凡鬼さんの句(これは一般公開済み故問題なかろうと思いますので)をご紹介申し上げます。本ブログをご覧の皆さまも、少しですが、凡鬼俳句を味わって下されば幸甚に存じます。 ○毛虫焼く 来世は毛虫に なる身かも ○虫の夜や 読み継ぐスペイン 内戦記 ○桜桃忌 青春の日の 苦き澱 ○藤棚に 妖精のくる 夕間暮れ
2009.11.04
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第47回智麻呂絵画展 第47回智麻呂絵画展の開催です。 多数のご来場とご感想をお待ち申し上げます。(アベリア1) アベリアは公園や街路の生け垣として、最近はよく見かける花である。 恒郎女様はこの花について、散歩の途次に出会ったオジサンから「卯の花」だと教えられた、と仰っていました。別名「ハナツクバネウツギ」とか「ハナゾノツクバネウツギ」というらしいから、「卯の花」というのもあながち間違いではないが、日本古来からの「ウツギ」とはやはり違うので、「卯の花」というのは正しくないでしょう。 <参考:アベリア>(アベリア2)朝露を 負ひて咲きたる アベリアの 花は光れり 恩智の川辺 (偐家持)(アベリア3)今日もかも 妹とし行けば アベリアの 花うすべにに さはにぞ咲ける (偐家持)(キンモクセイ)夕風は 金木犀の 甘き香に 染みてぞ秋の 風となるらむ (偐家持) (ツワブキ)つはふきの 咲ける山路の 岩陰に やすみ行かれよ 旅の長手を (偐家持) (ラン)
2009.11.02
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偐山頭火さんとの「2009.10.31.銀輪万葉<安福寺~錦織公園>」の続編です。 錦織公園からの帰途は石川に出て来る時とは反対に右岸の自転車道を走ることとした。高速のロードバイクが我々を追いぬいてゆく。それは別にどうということはないのだが、我々を追い抜き既にかなり離れて遠く前を行くバイクに追いつこうという気にふとなって、ペダルをガムシャラに漕ぎ、速度を上げる。少しずつ後ろ姿が大きくなる。もう少しで追いつくという段になって、相手は坂を登り切った場所で一般道へコースアウト。抜き返すことを逸しました。 まあ、そんな子供じみたことをする気になるのも、好い天気と広々とした自転車道の所為でありますな。 途中で「西行絵巻」の標識板が目に入ったので、道から外れて休憩を兼ねて立ち寄ってみると、ちょっとした広場に西行の生涯を陶板絵にしたプレートがズラリ並んでいました。この東にある弘川寺に西行さんの墓があることから、このようなものが公園の一角を飾っているのでもあるんでしょう。 西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)である。鳥羽上皇の御所を警護する北面の武士であった。北面の武士はイケメン?いや、これは冗談ではなく、北面の武士に選ばれる条件は、武芸に優れていること、教養を身につけていることに加えて、美貌であることである。上皇の寵愛を受けるためには美貌が不可欠なのである。 今宵こそ 思ひ知らるれ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり これは、上皇崩御に際して西行が詠んだ歌である。西行23歳。この年に西行は出家する。出家の理由は諸説あって定かではない。そもそも人が何か行動を起こす時の心根は色んなものが複合してあるのだから、単純にこれだと決められないのが当たり前のこと。定説をみないということは正常なことだ。 西行が恋したのは鳥羽上皇の后、待賢門院璋子との説もあるが・・ 吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき「秋はまたのがれて、この暮れに出家障りなく遂げさせ給へと、三宝に祈請申して宿へ帰りゆく程に、年来さりがたくいとほしかりける女子、生年四歳になるが、縁に出でむかひて、父御前の来たれるがうれしといひて袖に取りつきたるを、いとほしさたぐひなく、目もくれて覚えけれども、これこそ煩悩の絆よと思ひとり、縁より下へ蹴おとしたりければ、泣き悲しみたることも耳にも聞き入れずして、うちに入りて、今夜ばかりの仮りの宿ぞかしと思ふに、涙にむせびてぞあはれに覚えける。」(「西行物語」より) さびしさに 堪へたる人の またもあれな 庵ならべむ 冬の山里 西行が出家したのは1140年。京都西山連峰の小塩山の麓、大原野にある勝持寺に於いてである。 世捨て人となっても、歌を作るということは、他者の目を意識し、表現者として他者と関わろうとする心の働きがあるということだろうから、「世を捨てきれぬ世捨て人」というのが西行であるのかも。 世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出にせむ こととなく 君恋ひわたる 橋の上(へ)に あらそふものは 月の影のみ あはれ知る 涙の露ぞ こぼれける 草の庵を 結ぶ契りは わがものと 秋の梢を おもふかな 小倉の里に 家居せしより あくがるる 心はさても 山桜 散りなむ後や 身にかへるべき 吉野山 花の散りにし 木の下に 留めし心は われを待つらん 松山の 波のけしきは 変らじを 形なく君は なりましにけり なげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かな 伊勢、熊野、みちのく、西国など諸国を巡歴して、後世の芭蕉もその跡を辿ることとなるが、晩年、西行はここ河内の弘川寺に庵を結び、この地で死を迎える。 願はくば 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば 石川河川敷公園の「西行絵巻」に西行の歌を添えてみました。西行さんのことはよくは存じませぬが、文覚を殴りつけるなどの逸話もあって、なかなかに面白い、一筋縄ではゆかぬ人物でありますな。
2009.11.01
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昨日は友人の偐山頭火氏と先週に続いての銀輪行。 柏原市の大和川畔、高橋虫麻呂歌碑の前で待ち合わせ。恩智川沿いのいつもの銀輪散歩道を走って1時間弱で到着。少し早く着き過ぎたので石(いわ)神社や大和川を渡った先の允恭天皇陵周辺を自転車で一回りしてから、待ち合わせ場所へ。 石神社は本ブログでも既に取り上げていますので、ご参照下さい。 2009.6.8.石神社写真(「高井田横穴公園」) 2009.8.23.石神社写真(「自宅ー小阪・・・」) (太鼓台格納庫) この神社も祭の時には太鼓台が出るようだが、そう言えば、山の向こう側、大和側の龍田大社も秋の祭には太鼓台が出る。枚岡神社のそれと同じような太鼓台なんだろうか。 さて、偐山頭火氏と合流。大和川を渡って安福寺へ。安福寺は行基創建と伝えられるが、中世には荒廃。江戸時代寛文年間(1661~1673)に浄土宗の珂憶(かおく)上人によって再興された。この再建に力を貸したのが尾張徳川家2代藩主徳川光友。光友の廟所が本寺にある。 <参考> 安福寺(柏原市)(本堂) この本堂は屋根を低くし、柱を太くした「珂憶建」と呼ばれる様式にて、建築史上も貴重なものであるとか。(変相殿)(珂憶上人墓?) 安福寺に隣接する小さな神社、伯太彦神社がある。祭神は伯太彦命である。伯太彦(はくたひこ)は渡来系氏族田辺氏の祖である。田辺氏一族はこの一帯に勢力を張っていたとされる。家持とも交流のあった万葉歌人、田辺福麻呂(たなべのさきまろ)のことなども思われる。西を流れる石川も伯太川とか博多川と呼ばれていたとか。(伯太彦神社) 安福寺を後にして、飛鳥川(河内飛鳥川)に沿って走り、小生のリクエストで杜本神社に立ち寄ることに。(河内の飛鳥川、逢坂橋上から) 河内飛鳥川は二上山の方から竹内街道に付かず離れず流れて西名阪自動車道のすぐ南側で石川に注ぐ小川である。次の歌の飛鳥川は大和のそれではなく、河内の飛鳥川のこととされる。明日香川 黄葉(もみぢば)流る 葛城の 山の木(こ)の葉は 今し散るらし(巻10-2210) 上の写真は逢坂橋の上から飛鳥川上流を眺めたものであるが、「逢坂」という名がつけられたのは、履中天皇に穴虫越は伏兵がいるから竹内越の道を行け、と忠告した少女の逸話から来ているのだろうか(笑)。 仁徳崩御後の政争で、皇太子(履中天皇)が弟の住吉仲皇子に襲われ、難波から大和へ逃れようとして、二上山の麓まで来た時、出会った少女に伏兵のこと知らされるのであるが、その時の履中天皇の歌が「大坂に 遇(あ)ふや少女(をとめ)を 道問へば 直(ただ)には告(の)らず 当摩径(たぎまち)を告(の)る (日本書紀・履中天皇即位前紀)」である。この辺りで少女に遭ったと考えてもおかしくはない、なんぞと橋の名から空想が広がる。(杜本神社) 杜本神社の祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)である。経津主命は枚岡神社でも天児屋根命とともに祀っていますが、春日大社の4神の一つ、香取神宮からお越しの神様、藤原氏の神様ですな。 境内に獣面が彫られた隼人石なるものが在ると何かで読んだのでそれを見てみようと来たのだが、何処に行ったのか存在しない。その代りと言っては語弊があるが、藤原永手(房前の息子)の墓があった。まあ、藤原系の神社だから永手の墓があってもおかしくはないが、光仁天皇、桓武天皇の即位を画策した奈良時代の大物政治家がこのような余り目立たない神社にひっそり眠っているというのも面白い。 <参考> 藤原永手 (藤原永手の墓) 飛鳥川にかかる逢坂橋を渡り、近鉄駒ヶ谷駅を越えて、コスモス畑、大黒寺を経て、石川自転車道へ。(コスモス園。一本10円とありました。)(曹洞宗・大黒寺) 石川べりに出た処で時計を見ると12時を回っている。急に空腹を覚え、昼食を提案。焼き肉レストランへ。昼食を済ませて店を出て来ると、足湯があった。レストランの隣が「延羽の湯」という温泉でありました。羽は延ばせられないが、せめて足でも「延ばす」かと二人でしばし足湯。(足湯で足も軽くなって。)(石川自転車道・南河内サイクルライン) 石川の自転車道は何度走っても爽快。富田林寺内町経由、錦織公園まで走ることに。(石川畔からPL教団の塔)(杉山家住宅) 石上露子の生家、杉山家の向かいの寺内町センターでしばし休憩。(寺内町・あてまげの道)<関連記事>富田林寺内町(2008.7.9.) 錦織公園・喫茶アキ(2008.10.19.) 寺内町を出て、富田林高校の前を通り、錦織公園へ。途中、久しぶりに「喫茶アキ」で珈琲と思ったが、シャッターが降りていてお休み。残念。錦織公園への最後の坂道をひたすら登る。結構キツイ。公園は土曜日とあって家族連れなど色んな人で賑わっていました。(錦織公園) 錦織公園でゆっくり一休みした後帰途に。前回同様、智麻呂氏邸を訪問、ご機嫌伺いを兼ねて、新作の絵2点を仕入れて来ました。智麻呂邸までで偐山頭火氏は本日の走行距離約70kmと言っておられましたが、小生もそれ位は走ったのだろうか?自宅へのいつもの坂道がいつもよりは疲れを感じましたですな。
2009.11.01
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