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本日は、久しぶりに二上山の麓の町、太子町を銀輪散歩して来ました。何度目かの訪問ですが、ブログを始めてからでは多分初めての訪問になるので、道中日記をアップすることとします。 朝9時半にMTBで自宅を出発。柏原市役所前で大和川を渡り、石川に入り、河南橋で左折して東に向い、竹内街道を行き、叡福寺・用明天皇陵・孝徳天皇陵・竹内街道資料館・小野妹子墓・推古天皇陵・敏達天皇陵を廻る予定である。 大抵は花園中央公園から恩智川沿いの道を行くのであるが、今回は山麓コースの旧道を行くことに。このコースは山側に登ったり、下ったりとアップ・ダウンが多く、タイムロスになるのだが、たまにはそれも良かろうと。 20分も走った頃だろうか、道を行く一人のご婦人から声を掛けられた。 「八戸の里クリニックはご存じでしょうか?」 小生「??(八戸の里はずっと西、電車で四つも先の駅だろうに、この人は何を言っているのだろう。)」 しばらく話を聞くと、要は「200円欲しい。」ということのようである。こういう手口で人に金を無心する手合いがよく居るのだが、そのような下手くそな話しぶりでは、引っかかる人間もいまいと、ちょっと哀れを催し、ポケットからコインをつまみ出すと500円硬貨が出て来たので、それを差し上げることとした。 小生これでこの種の人物に声を掛けられるのは5回目であるが、今回も騙されることとした。小生は人の良さそうな風に見えるのだろうか。それとも、みなさん、この程度には出くわしているのでしょうか(笑)。5回のうち2回は同じ人物で場所も同じ地下鉄梅田駅の切符売り場の前で、2回目の時に「あんたはこの前も同じこと言っていたじゃない。」と言うと、金も受け取らずに一目散に逃げてしまったのではあるが。女性でこういう人は初めてでありました。 閑話休題。 最初の立ち寄り先は心合寺山(しおんじやま)古墳。(これは以前にアップしているので説明は省略。2009年8月22日の記事をご参照下さい。)(心合寺山古墳<八尾市>) やがて、近鉄信貴(しぎ)線(山本~信貴山口(しぎさんぐち))に出くわす。服部川駅前の踏み切りを渡って、坂を下る。道の辺に白とピンクの枝垂れ梅が並んでいるのが可愛らしく、1枚、パチリ。(服部川駅)(梅の花) しばらく行くと善光寺がありました。信濃の善光寺につながる小さな寺である。 立ち寄ってみることに。(善光寺参道、府天然記念物のクスノキの大木)(善光寺・本堂) 境内の石碑には、「本田善光が難波・堀江で仏像を感得し、信濃へ持ち帰る途中に、ここに一泊し、その分身を祀って、庵を作った。翌年に再訪し本寺を建立した。それで、元善光寺とも言う。」(要約)とある。境内には「本田善光像」と銘打った台座があるが、像はない。信濃へご出張でござるか? 八尾市にお別れし柏原市に入る。鐸比古・鐸比賣神社に立ち寄る。祭神の鐸比古(ぬでひこ)命は垂仁天皇の子、沼滞別命のことである。成務天皇21年に創建と伝えられる式内社であり、本殿は元禄時代に再建されたものであるとのこと。なかなか風格がある。(詳しくはコチラをご参照下さい。)(鐸比古( ぬでひこ)鐸比賣(ぬでひめ)神社)(境内からは河内平野一望である。) 大和川を渡り、石川に入る。石川に沿って南に走る。河南橋から東に入るのであるが、見過ごして通り過ぎてしまい、実際に渡ったのは一つ南に架かる喜志大橋でした。喜志大橋から東に少し走ったところにカフェ・レストランがあり、時計を見ると12時少し前。ひとまず腹ごしらえとする。 太子町・叡福寺には未だ到着しませんが、疲れましたので、本日はここまでといたします。続きは明日に。銀輪行よりもブログアップの方が時間が掛かる(笑)。(玉手橋)(河南橋) この橋は行きは通り過ぎてしまったので、帰りに撮影したものです。奥に見えている、双こぶの山が二上山。この山の麓が目指す太子町・王陵の谷である。まだ少しかかる。どうぞ明日の記事にご期待下さい(笑)。
2010.02.28
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第53回智麻呂絵画展 昨日、銀輪散歩の途中で智麻呂邸を訪問。新作を仕入れて参りましたので、本日は智麻呂絵画展を開催いたします。 (ガマの穂) (チューリップとヒヤシンス) 上のガマの穂、チューリップとヒヤシンス、下の蝋梅、青麦とスイートピーは、小万知さんが読書会の折にお持ち下さったものです。蒲(がま)の穂の 水際(みぎは)の道の 夕暮れを 児らの駆け行く 遠き日もがも (偐家持)チューリップ あどけなく咲き ヒヤシンス 少し気取れる 春にしあれり (偐家持)(蝋梅)蝋梅の 香りほのかに 春の日の やや暮れゆきぬ 妹とゆく道 (偐家持)青麦の 頃なつかしき 初恋の 色に咲きたる 花スイートピー (偐家持)(青麦とスイートピー)(軽井沢 追分御影用水) これは、智麻呂氏の今は亡きご友人、K牧師を偲びて描かれたものでもあるのでしょうか。追分の 御影の水の 変らねば すがしき君の 影映さまし (偐家持)上野(かみつけの) 松井田の空 立つ雲に 君やあやあの 声ぞ聞かまし (偐家持)(桃の花)徒然(つれづれ)に 訪ね来よかし 春うらら 吾家(わぎへ)の桃の はや咲きたれば (偐家持)(果物) この果物は偐家持が先日の読書会の折に智麻呂邸に持参したもののようですな。恒郎女様がそのように仰っていました。(紅梅)(椿) 上の椿は、現物は白い椿でありましたが、筆の成り行きで赤い椿になってしまったようです。<参考>過去の絵画展入口 第50回 第51回 第52回 第49回以前は第50回のページからお入り下さい。 日記ページのカテゴリー「智麻呂絵画展」からも入る ことが出来ます。
2010.02.24
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枚岡神社の北西、国道308号沿いに史蹟「中村代官屋敷跡」というのがある。と言っても、屋敷がのこっている訳ではなく、今は小さな公園と民家が立ち並ぶ住宅街となっていて、公園の一画にその跡地であることを示す石碑があるに過ぎないのであるが・・。 この一帯は「豊浦町」という地名であるが、小生が子供の頃、大人達は「といら」と呼んでいました。とようら→とゆら→といら、と変化したのでしょうな。最近は「といら」というゆかしき名で呼ばれる方は居られぬようで、皆さん「とようら」と仰います。 さて、この地がまだ豊浦村であった頃、近江の佐々木源氏の支族が室町時代後半にここに移り住んで中村氏と称したそうです。 大坂夏の陣では、徳川家康がこの中村氏の屋敷に本陣を構えたそうです。そのことを顕彰する碑が、子供達が遊ぶ公園にあります。(大阪夏の陣・徳川家康本陣之碑) 大阪夏の陣 徳川家康本陣跡之碑 全文 天下分け目の戦いとなった関ヶ原合戦から十四年後の慶長十九年の冬、徳川家康は大坂城を攻め、翌年の元和元年(一六一五年)の夏、再び攻撃し大坂城を落城させた。世に有名な大坂冬・夏の陣である。冬の陣では家康の三男秀忠が京都から生駒山西麓を南下し十一月十六日豊浦村の中村正教宅に宿陣した。 翌年の夏の陣では五月六日八尾・若江の激戦により豊臣方に大打撃を与え、この夜家康一行は冬の陣にならって同じく豊浦村の中村家に宿陣した。この時正教は菖蒲の節句にちなんで木綿を献上し家康は"勝布"として大いに喜んだという。 家康が宿陣した中村氏は佐々木源氏の流れをくむ。もと近江鯰江城に住し鯰江氏と呼ばれていたが、室町時代後半に唯正がこの地に移り中村氏を名のった。豊浦村は徳川時代に入って幕府直轄領となり中村代官とも通称され庄屋として力をもった。家康が宿陣した中村氏屋敷跡は現在の枚岡中央公園から南側の一画にあって、まわりに濠をめぐらした豪壮な屋敷であった。(中村四郎右衛門正教屋敷跡碑) 家康本陣之碑の隣の石碑を拡大してみました。(中村代官屋敷跡の公園-正面奥に家康本陣之碑が見える。) この公園から数十メートル西に「権現塚」というのがある。これも家康と関係のある史蹟なんだろうと思うが調べていないので、コメントは「なし」です(笑)。写真だけ掲載して置きます。石碑の隣には「権現塚地蔵」という地蔵堂が建っています。(権現塚)<参考>東大阪市権現塚 以上、本日の銀輪散歩。超近隣散歩のお土産であります。 余りにも近過ぎて、今までその存在に気が付かずに居ました。
2010.02.23
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銀輪散歩の途中、枚岡梅林に立ち寄ると、もう梅の花がかなり咲いていた。しかし、満開はまだ少し先のようではある。 去年のブログを見ると、2月21日に枚岡梅林を紹介しているのだが、その写真の方が花は賑やかである。今年は去年よりも満開が少し遅いようだ。(枚岡梅林) <参考>過去の関連記事 2009年2月21日「枚岡梅林・花園中央公園」 2009年2月5日「梅の花 あれやこれやのおらが春」 梅は万葉集に登場する花としては、萩に次いで第2位の座(100余首)を占める。後世は桜に押されてしまうこととなるが、万葉集に限れば桜(40首程度)よりもはるかに多く歌われている。 これは、梅が中国から伝来した木であり、中国の詩人達が梅を盛んに詩に詠んでいるというようなことから、その風雅を愛した、当時の貴族達が梅を歌に詠むことが多かった、ということによるのでしょう。 万葉集から梅の歌8首をご紹介して置きます。ぬばたまの その夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを (大伴百代 巻3-392)吾妹子(わぎもこ)が 植ゑし梅の樹 見るごとに こころ咽(む)せつつ 涙し流る(大伴旅人 巻3-453)春されば まづ咲く宿の 梅の花 独り見つつや 春(はる)日(ひ)暮らさむ(山上憶良 巻5-818)わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも(大伴旅人 巻5-822)梅の花 今盛りなり 百(もも)鳥(どり)の 声の恋(こほ)しき 春来たるらし(田氏肥人(でんしのうまひと) 巻5-834)わが背子に 見せむと思ひし 梅の花 それとも見えず 雪の降れれば (山部赤人 巻8ー1426)酒坏(さかづき)に 梅の花浮(う)け 思ふどち 飲みての後は 散りぬともよし(坂上郎女 巻8ー1656)雪の上に 照れる月夜(つくよ)に 梅の花 折りて贈らむ 愛(は)しき児(こ)もがも (大伴家持 巻18-4134)(枚岡梅林)
2010.02.22
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昨日、友人の一人、枚方、交野の地で、万葉や歴史に関心を持ち、色々と幅広く活動をされている、茨田童子さんからメールがあった。 長らく工事中であった第二京阪道路が漸く完成し、3月20日に開通するらしいが、これに先だって、地元住民に開放されるというイベントが2月14日(日)にあったらしい。 茨田童子さんもこれにご参加されたとのことで、メールにその時に撮られたお写真が添付されて居りました。追伸に「貴兄のブログに紹介記事を掲載してくれませんか。」とありました(笑)。という訳で同氏から戴いた写真で簡単にご紹介申し上げます。 第二京阪道路は、京都と門真(京滋バイパスと近畿自動車道)を結ぶ延長28.3kmの自動車道で、国道1号のバイパスとして整備されたものである。詳しくは下記をご覧下さい。 <「緑立つ道」と愛称される第二京阪道路>(第二京阪道路・クレーン車の上からの撮影)(クレーン車の人々)(第二京阪道路を歩く住民の皆さん) 以下、茨田童子さんからの写真を全て掲載して置きます。 交野が原周辺の第二京阪道路は 高速部分 3+3=6車線 有料 国道1号バイパス部分 1+1=2車線 無料 (門真辺は 2+2=4車線 無料) 側道(この部分は開通は少し遅れる) 1+1=2車線 無料 交野北IC 京都行きの入口と京都からの出口 交野南IC 大阪行きの入口と大阪からの出口 <参考>茨田童子さんのホームページ「歴史散策のガイド」の入口は、コチラ 枚方、交野は生駒山地が淀川に落ち込む地、河内の北端である。淀川の対岸、高槻市は摂津の国となる。従って、小生の銀輪による「近隣散歩」の範囲は、この枚方、交野までということになる。 交野市には星田という地名があるが、星にまつわる伝説が色々ある。交野から枚方を通って淀川に流れ込む川の名も天野川(天の川)であり、七夕伝説が今に生きている。(参照 「七夕」2008.7.7.の記事)
2010.02.16
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偐万葉・大和まほろば篇(その9) 今日は、昼間に少し近隣を自転車散歩しましたが、さしたるネタもなければ、偐万葉・大和まほろば篇(その9)とします。 偐家持が大和の国まほろばの麻呂に贈りたる歌27首 並びに俳句7句松の香が 鼻に突き刺す どんど焼 燃えて今年も よきことあれと冬の森 乾燥注意 火炊鳥(ひたきどり) 焚火の始末 人こそなされ (鸚鵡返し) つむじ風 びんずいの群 吹きとばす 厚き落ち葉の セイフティーネット (森の社会福祉)水音が しばらく残る 鳰(にほ)の湖(うみ) 枯れにし葦の 寒き夕暮 久しぶり お元気ですね 四十雀(しじゅうから) いやなにわれは まだ不惑なり (鳥越九郎)奥山の 頬白が来る ビオトープ 赤提灯の オヤジの如か (鼻赤焼酎)街中の 鼻赤が来る 赤提灯(筆蕪蕉)団栗を 眺めるだけの 花鶏(あとり)かな 花ばかりにて 実なき鳥とや (見栄張鳥)野に咲ける 茶の花を摘む 寒の入 うすべに色に 咲くを愛(いと)しみ 寒咲きの 菜花が咲ける 野辺の道 吾が恋ひ待てる 春し来らしも菜の花に ぶらさがりたり 二日月 (筆蕪蕉)大寒や 昼間の気温 13度 寝ても居れぬと 躑躅花咲く枯(かれ)欅(けやき) 目印に立つ 高麗(こま)の里 清き山川 かけて思(しの)はめ鷲の棲む 湖北の町や 山眠る かづく布団は 薄雪の色竹筒の 燗の酒酌む 光仁会 今は時節を 待つべかりける (偐酒呑み)厳冬に 青竹を伐る 光仁会 酒温めよ 竹林の賢 (偐桓武)冬たけて 竹の燗酒 光仁会 (酒蕪蕉)霞立つ 春待つ山の 大欠伸 (筆蕪蕉) 冬晴れや 焼け跡の濃き 三笠山 鹿とや待たむ 若草の春街の灯が ぽつりぽつりと 寒茜 生駒の山を 見つつ帰らむ生駒嶺に いさよふ雲の 影しるく 寒き夕べは 妹し思はゆ (偐志貴皇子)大根を 洗うや井戸の 白き水 冬の晴れ間の いよよ明るく青首を 洗い直して 日は昇る (筆蕪蕉) サッカーに 集まる子等の 返事良し 晴れて日も良し 冬木立良し (俳句良し)痩犬の やたら吼えたる 夜の雪 人のぬくもり 犬も恋ふらし縁側の 隅に置かれし 古火鉢 かこつ余寒(よかん)の 春の夜の夢 春隣(はるとなり) 赤き蕾の 二三輪 生きとし生ける ものみな愛(は)しき電柱に 登る鴉(からす)の 凍てゝをり 春まだ浅き 大和国原 (偐はぐれ鴉)からす鳴き 余寒(よかん)の空の 暮れかかる (蕪蕉鴉)婚活の 瑠璃びたき来る ベンチかな やくや藻塩の 身にはあらねど (はよ添ひたき)婚活も 就活も辛(から)き 若ひたき (偐一茶)鳩山で 頻りに鳴くや 春の百舌 脱税脱税 喚問と鳴き (自民鳥) 春近し 平城京址 旗の波 風も遷都を 思(しの)ひ吹くらしせんとさい ちとせあまれる みももとせの ならのいにしへ ひとみなしのへ<注>1.色字の上3句はまほろば氏の俳句です。下2句を付けて 偐家持が和歌仕立てにしています。 2・まほろば氏のブログ入口は、コチラ 3.過去の「まほろば篇」は下記から、ご覧下さい。 5、6、7、8 (4.以前は5.のページに入口あります。) 4.写真は全てまほろば氏ブログからの転載です。
2010.02.13
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「あれか、これか」は、学生の頃に読んだ、キルケゴールの作品群のタイトルですが、偐家持は頭脳曖昧につき、「あれか、これか」と明確に射程を定めることも叶わず、さりとて、さしたる欲もなければ、能力もないので、「あれも、これも」でなく、やはり、「あれや、これや」と取りとめもないタイトルが似合いのようです(笑)。 さればとて、以下、取りとめもなき、よしなし事を、そこはかとなく書きつくれば・・といった処のものにてあれば、適当に読み飛ばして下されませ。 先日、大学の同級生のT君からメールを戴いた。彼は東京在住でもあり、卒業以来顔を合わせたこともないのであるが、久々に連絡を頂戴し、とても懐かしく、嬉しきことにてありました。 本日、友人の偐山頭火氏からのメールによると、先日の若草読書会の新年会の歌会(?)の時の歌集が、河内温泉大学図書館に収蔵されたらしい。 この若草での「歌会」は、小生が冗談半分で言い出して始まったものであるが、今ではそれなりに定着して来て、同図書館に収蔵された若草歌壇の歌集も数冊を数えるに至っています。次回は4月4日(日)に花園中央公園の桜広場で花見をしながらの歌会が計画されていますので、また、新しい歌集が1冊増えることでしょう。 河内温泉大学図書館は下記からどなたでも入れますので、興味を持たれた方はどうぞ。 <河内温泉大学図書館入口> 因みに、同図書館を運営している河内温泉大学教授こと偐山頭火氏のブログの入口は下記です。入学は随時どなたでもご自由、授業料の徴収もありませんが、卒業証書もありません。 <河内温泉大学キャンパス> 立松和平さんが先日亡くなられました。かなり以前のことになりますが、旅先のホテルで朝食を取って居る時に、たまたま斜め向かいの席でひとり朝食を取って居られたのが立松さんで、少し言葉を交わす機会がありました。植樹祭か何か緑化に関するイベントに参加されるための旅行のようなことを仰っていたように記憶していますが、62歳という若さでのご逝去は、本当に残念なことです。小学校・中学校と同窓のK君が早稲田大学在学中に彼と同じ同人誌で活動していたというようなことを、小生への手紙の中で言っていたこともあって、いささかの親近感も覚えていましたので、ここに哀悼の意を表して置きます(合掌)。 本日で本ブログ「偐万葉田舎家持歌集」へのアクセス件数が60000件を超えました。皆さまのご愛読、心より感謝申し上げます。 因みに、60000件目のアクセスを戴いた方は下記の通りです。600012010-02-12 14:17:53*.ocn.ne.jp 600002010-02-12 14:15:18***.google.com 599992010-02-12 13:49:50目標1日1000アクセス!さん 今回も、楽天ブログの方ではなく、どなたとも確定できません。<追記> このブログ記事をご覧になって、小万知さんが60000アクセス突破のお祝いとして、Eメールで花の写真を送って下さいましたので、下に掲載して置きます(原画を縮小していますが。)。 (オオイヌノフグリ) (フクジュソウ)
2010.02.12
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第6回和郎女作品展 本日は建国記念の日。旧紀元節の日ですな。紀元節が軍国日本に果たした役割などへの反省もないままに、この歴史的には根拠薄弱な日を「建国の日」とすることに違和感と気味の悪さを覚えた多くの人が反対したのであるが、1966年祝日法が改正され、1967年2月11日から、建国記念の日となり、今日に至っている。 紀元節が2月11日となった経緯は、日本書紀の神武紀に「辛酉年(かのととりのとし)の春(はる)正月(むつき) の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち) に、天皇、橿原宮(かしはらのみや)に即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。」という記載あるにより、明治政府が1872年(明治5年)に、旧暦の1月1日を新暦に置き換えて、定めたものである。折しも、旧暦1872年12月3日を新暦1873年1月1日として、新暦が施行されることとなっていたことから、旧暦1873年1月1日を単純に新暦に置き換えた1873年1月29日を紀元節の日としたのであった。 その後、日本書紀の神武即位年は紀元前660年に当たる処から、その年の立春に最も近い庚辰の日を探すとその日は新暦では2月11日に当たると計算し直され、翌年の1874年からは2月11日が紀元節の日となったのである。 さて、閑話休題。 本日は第6回和郎女作品展と致します。和郎女さんの作品は智麻呂邸にて撮影させて戴いたものでありますが、掲載するタイミングを逸して、徒に時日を経てしまい掲載するのが遅れてしまいました。よって、いささか時節外れの気味もありますが、ご容赦のほど。 こういうのは何と言う名前ですかね。飛び出す絵本と同じ要領で、開くと写真のように立体的になり、二つに折りたたむと、ペッタンコの平面になります。 作品は、ケーキ?それとも、雪山?去年のクリスマスの作品です。 ちんちろりん 知る人ぞ知る 高砂の 松もサンタの 友にしあらむ (ちろりん村のサンタ) 以下の3枚虎は、今年が寅年ということで、昨年の明日香での読書会旅行の時に、和郎女さんが参加者へのプレゼントとして作って来て下さった3種類の虎です。小生が戴いたのは「虎1.」のタイプのものでした(笑)。 (虎1.) (虎2.) (虎3.) 皆さんは、どの虎がお好みでしょうか? さて、虎は虎でも、阪神タイガース。今年はやってくれるのでしょうか。上の虎はどれも、可愛らし過ぎて、いささか頼りないのでありますが・・。 今年の阪神はちょっと手強いですぞ(そうあって欲しい)。 (虎の親子) この親子の虎は、智麻呂邸に鎮座して居りますが、既に、先日の智麻呂絵画展にて「絵画」で登場済みですから、ご記憶の方も居られることでしょう。 現物の写真、遅ればせながらの登場であります。<関連記事> 過去の和郎女作品展 (その1)、(その2)、(その3)、 (その4)、(その5)
2010.02.11
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本日は囲碁の会の日。 本来なら、銀輪散歩も兼ねて、自宅から会場の梅田スカイビルまで自転車で行く処なのであるが、朝から雨で、自宅を出る時は雨は止んでいたのだが、まだ降りそうな雲行きであったので、電車で行くことに。 今日の参加者はT氏、F氏、H氏、A氏、I氏と小生の6名。最初T氏とお手合わせ。前回に続き敗北。大事な処で初歩的な勘違いが序盤にあったのと終盤で早とちりでセキとなる処を三目中手で死んだものと勘違いし、早々と見切ってしまう過ちとがあっての中押し負けであった。まだまだ未熟です。この後、A氏、F氏、H氏と各1局打ってそれぞれ勝ち、3勝1敗。 ということで、本日は写真もないので、先日、お墓参りの際に撮ったロウバイの写真をアップして置きます。 なんでロウバイなんだ? いや、本日のT氏との碁で生きている石なのに打ち込みにロウバイして「死んだ」ものと誤解してしまったという駄洒落であります(笑)。(蝋梅)蝋梅(ろうばい)の 花咲くならむ 梅田なる 碁の一石(いっせき)に 狼狽(ろうばい)家持 (迂闊家持)
2010.02.10
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偐万葉・木の花桜篇(その3) 本日は、偐万葉・木の花桜篇(その3)です。偐家持の歌への木花桜姫様の返しの歌も併せお楽しみ下さいませ。 <参考>1.木の花桜さんのブログ入口は、コチラ。 2.過去の偐万葉・木の花桜篇入口、 (1) 、(2) 偐家持が木花桜姫(このはなさくらひめ)に贈れる歌18首併せて返歌11首空青く 白雲流る 樹の下に 群れ咲く水仙 金色(こんじき)の風 (偐わーずわーす) 木花桜姫の返しける歌冴えわたる 月の光に 憧(あ)くがるる ナルシスの花 清く香(かぐは)し (似非ナルシスト) 精米機 つまみ無いきに 龍馬はん ちっくと怒る そらいかんぜよ (アマゾン・ドット・冷や汗) 木花桜姫の返しける歌うつせみの わが身なりせば 龍の旗 たてましものを 今ぞくやしき (草葉からの便り)かにかくに かにのいのちを いただきて けふもいかされ ありがたきかな (蟹道楽) 木花桜姫の返しける歌かにかくに 境港ぞ 恋しけれ 波に華さく ふるさとの海 さみどりの 色もまだ濃き 秋山の 木(こ)の間(ま)に遠く 那智の大滝 木花桜姫の返しける歌み熊野の 通ふ道のべ 佐野あたり 雪の夕暮れ みたくあらまし桜子の 家に咲く花 冬ごもり 今は春べと 咲くや水仙 (偐水仙) 木花桜姫の返しける歌北風に 草木も眠り 色もなし 春を待つ花 水仙ぞ香る夢(いめ)にだに 吾(あ)を呼びけるは 誰(た)が声ぞ 美空すずめに ありにけらしも (夢野桜児) 木花桜姫の返しける歌蝉とんぼ 蝶や雀に 身を変えて 母と呼ぶかや 遠き日の夢 恥じらひの 色にあらずや 桃色の 椿の吐息 いまだ含(ふふ)めり知らんぷり つれなきものか 白椿 今年の春は 咲かずやあらむデジカメを 持ちて桜子 いづち行く すみれ待つ間の 小春日の道 (ほっと鶏頭)石上(いそのかみ) 布(ふ)都(つ)のみ魂に あくがれて 山道(やまぢ)ものかは 妹の行くらむ 木花桜姫の返しける歌2首石切の 神の命(みこと)の みちびきか 布(ふ)都(つ)の命(みこと)に めぐり逢ひたりさはさはと 吹く山風か みやしろの 空すみわたり 神のこゑ聴く 妹が家(や)の 椿の花の 咲く見れば わが待つ春の 近付くらしも (偐憶良) 木花桜姫の返しける歌我が庭の すみれ咲くのは いつならむ 如月の雨 音もなく降る豆まきの いじめいかんと 鬼の言ひ 福は内のみ して恵方巻 (やさしき豆)龍馬はんも 応援しちょるきに 土佐文旦 (土佐菱商事) 文旦を 買ひはぐれてや 節分の 日にて桜子 豆の花買ひ (桃太郎)きざはしの 隈廻(くまみ)にませる 翁(おきな)とや 往き来(く)かたらふ 妹はもをかし 春日(はるひ)照る 白き椿の 花陰に 爺も昼寝の 午後にしあれり幾歳(いくとせ)を 経たるや色は 褪せぬれど のちもありませ 朱儒(しゅじゅ)のわざびと 木花桜姫の追和せる歌2首薄紅( うすべに)の 色は褪せなむ 花椿 わが身にも似た 花の愛(いと)しき我が夫(つま)も 色の褪せたる 爺に似て しばしこの庭 ゆるりと過ごせ月の船 いづち宿るや 松風の さ夜更けぬれば 哭(ね)のみし泣かゆムスカリの むづかるなかれ 春されば 青き紫 鈴にぞ咲けや(注)上記の写真は全て木の花桜さんのブログからの転載です。
2010.02.09
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偐万葉・松風篇(その7) 松風さんのお母様が昨日ご逝去されました。 松風さんのお悲しみ、いかばかりかとお察し申し上げます。 本日はその哀悼を表すため、 偐万葉・松風篇(その7)をアップさせて戴きます。 お母様のご冥福、心よりお祈り申し上げます(合掌)。 偐家持が松風朝臣麻呂(まつかぜのあそんまろ)に贈りて詠める歌26首ほか水仙の 眠れる禁野(しめの) 年極(は)つや 真白き布の 風に揺れてし 鶴見野は 冬こそよけれ 寂しさの 色にぞかれぬ 木立も草も見渡せば 花ももみぢも なかりけり 鶴見の丘の 冬の朝寒 (偐定家) たれもなき 冬野の朝の 枯れ木立 これぞ松風の 景色なりけり (松風ファン)うすべにの 咲きてつましき 薔薇の花 鶴見の丘に 逢へる兒やたれ (偐海石榴市(つばいち)) 人知れず 咲ける薔薇にも 名はあれど 問ふ人誰や 風には告(の)らじ (偐海石榴市(つばいち))をのこやは 悲しかるべき ながらへば 鶴見の池の 身のつれもなき 冬枯れの 白き曲道(まがりぢ) 日の照れば 今朝はも少し 先まで行かむ散りのこる 葉の少しあり つるばみは むらさきだちて 朝の気に立つ 水仙の 花も咲くらむ 春さらば 鶴見の苑の 風は寒くも白き標(しめ) 結(ゆ)ひて春待つ 鶴見野の 丘にぞ芽吹く 春の水仙をとめらの 声のこだまし 鶴見野の 空高々に 日も昇るらし あづま屋の 柱に映る 木の影も 近付く春の 色やあるらむ動かざる 母の左手 掻き撫でつ 余りの細きに 言の葉もなき 手の皺の 問はず語りや 吾が母の 大和をみなの 凛と来し道動かざる 母の手に泣く 枯れ木立 (筆蕪蕉)水仙の 春待つ丘の 道白く 犬と連れ行く をみなの一人 光澄む 朝にしあれば 木々もまた 影さし交はす 小春日の道組み合へる 梢の影の 青めるは 晴れたる冬の 朝にしあれり ひたすらに 来しやこの道 ひな菊の花 (筆蕪蕉)若き日の 思ひは遠く 来し道に なほしぞ咲ける ひな菊の花 鈴懸けの 木のしゃんしゃんと 風ややに お馬もしゃんしゃん 並の足なりくらはんか 声の行き来(く)の 古(いにしへ)も 思(しの)へと小舟(おぶね) 梶の音(と)絶えて たなぐもる 空串刺しに せむとかや メタセコイアの 冬の並木は水仙の 芽吹き濃くなり 春立てば 添ひてたぐひて ふたりし行かむ 霜ふりて 水面(みなも)の影も こほれるや 人目も離(か)れぬ 枯れ草の池春立てば 今は火群(ほむら)と 立つらむか 冬の枯れ草 日の照る丘に 白梅の ひとつ咲きたる 花ありて 余寒(よざむ)の朝に 母は逝きける <注>上の絵画は全て松風さんのブログからの転載です。 松風さんのブログ入口はコチラです。 過去の偐万葉・松風篇は以下をクリックしてご覧下さい。 (1)、 (2)、 (3)、 (4)、 (5)、 (6)
2010.02.07
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朝10時半頃に自宅を出て自転車近隣散歩。昨夜まではトレンクルを持って田原本を起点に銀輪散歩する予定でいましたが、朝になって気が変わり、MTBで大和川方面へ走ることに。 花園中央公園から恩智川沿いのいつもの道をとって、11時40分大和川に臨む柏原市役所前に到着。隣の文化ホール1階の喫茶店で昼食。この後の予定を立てていなかったので、取り敢えず大和川に沿って上流へ。国道伝いで奈良県に入るのは芸がないので、金山彦神社まで行ってみるかと、地図の持参もなければカンを頼りに、坂道にとりかかる。府道本堂・高井田線をひたすら登る。 先ず出くわしたのは青谷西バス停の急登の曲がり道の脇にある小さな地蔵堂。(谷尻地蔵堂)(谷尻地蔵尊) 青谷集落の入口にあり、道の辺の巨石に地蔵菩薩像を浮き彫りにした磨崖仏である。「元亀三年壬申十一月吉日」(1572年)の銘があり、室町時代末期の作である。 この地蔵堂の手前から青谷集落、雁多尾畑(かりんどばた)へと、ひたすら登り坂である。振り返ると高所まで登って来たことが眼下の景色で分る。(青谷集落)(青谷寺) 青谷集落に入って、坂を登り切った処に大きな池がある。青谷池である。その池を挟んで向き合うようにして、青谷寺と金山彦神社がある。 青谷寺(せいこくじ)は古くは金山彦神社の東側にあったらしい。融通念仏宗北峰山青谷寺といい、鎌倉時代作の木造阿弥陀如来立像を本尊とする。 青谷寺を出てみると角のお宅の庭の南天が実をたわわに付けて、青空に美しく映えていた。(南天の実がたわわに美しく)(青谷大池。池の対岸に青谷寺が見える。) 金山彦神社の前で暫し休憩。この神社から先が更にも険しい登り坂となるのである。(金山彦神社)(金山彦神社拝殿) 金山彦神社は金山毘古神(かなやまひこのかみ)を祀る神社であるが、製鉄を生業とする集団がその守護神として祀ったものであるのだろう。詳しくは下の説明板の写真をご参照下さい。 金山彦神社から更に延々と登って行くと金山媛神社がある。ゆっくりとペダルをこぐが、それでもすぐに足がきつくなり、はあーはあーと息が切れる。途中、池の畔で休憩。水鳥が一羽飛び立って行った。(山の池)(金山媛神社) 金山媛神社の祭神は金山毘売神(かなやまひめのかみ)である。由緒は金山彦神社と同じ。媛の方が高所にあるので、嬶天下ですな。 これで、目的達成なのだが、もう少し登って、奈良盆地を一望してみようと。まあ、ヤカモチ流泥縄式銀輪散歩です。(竜田山から奈良盆地を一望) 頂まで来ると、信貴山と表示があったので、事のついでと信貴山まで足を伸ばすことに。奈良側の山腹を少し下って、再び登ると信貴山である。国宝信貴山縁起絵巻で有名な信貴山朝護孫子寺がある。 しかし、自転車でこの山上の寺にお参りする奴はいないだろうな、と思いつつ行くと、何と寺の参道で一人のMTBの男性とすれ違った。どうやら変人は二人は居るようだ(笑)。(信貴山へと向かう途中の坂で南を見やると・・)(センダンの実。何故か、この実の風景が好きな偐家持。)(竹林寺。信貴山が近くなると、人家やお堂が目につくように。)(開運橋から、下の橋を眺める。) 山中を走って来た小生には、いきなりという感じで、住宅の立ち並ぶ街が現前する。信貴山観光ホテルの前を下って行くと、赤い鉄の橋が見えて来る。開運橋である。この橋を渡ると朝護孫子寺の参道である。(朝護孫子寺山門前の大トラ・世界一福寅)(奥の高みに見えるのが本堂である。)(朝護孫子寺山門)<参考>信貴山・朝護孫子寺 自転車ゆゑ、山門前でUターン。帰路に着く。ここで、右手の手袋が無いことに気付く。上衣のポケットに入れていたのだが、何処かで落としたらしい。かくて、帰路は来た道を忠実に引き返すことにし、心当りの場所など注意して見てみるが、見つかりませんでした。山陰の寒い風の吹く道に差し掛かると、左手は温かいが右手は冷たい(笑)。しかし、往路ハアーハアー言って登って来た道を一気に走り下る爽快さは格別である。たちまちに大和川沿いに出る。(大和川・青谷橋付近から。左側の山が芝山。) 大和川に出た頃は日もやや西に傾き、川面が眩しく光る。柏原市役所前で、大和川とお別れし、恩智川沿いの道を帰る。途中、道の辺に梅が咲き匂っていたので写真に。近寄ると馥郁たる香りに包まれる。梅の花の向こうには西日が当たる生駒山系の山並がのんびり休んでいる。(梅) もう深夜、歌を作る時間ありませぬ。どちら様もおやすみなさい。眠くなりました。
2010.02.05
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今日は節分。明日が立春。暦の上では明日から春になりますな。とは言え、寒さはまだまだ続きますので、皆さまどうぞ体調管理には十分お気をお付け下さいませ。 さて、本日は囲碁の会の日にて、梅田までまた自転車で出掛けて参りました。先般、昼食に偶然立ち寄ったら、マスターが小学校の後輩(笑)であったという、その店で今回も昼食ということにしました。昼食後、大阪城公園に立ち寄り、梅林などで暫く遊んだ後、会場の梅田スカイビルに向いました。 囲碁は、今回は、ビルの前で「下戸の会」の友人K氏と偶然バッタリ出会ったこともあって、彼と暫く談笑していたので、時間が食われてしまい、1局打っただけ。わが囲碁の師であるT氏と1時間半にも及ぶ熱戦でしたが、序盤の打ち損じが尾を引いて、終始劣勢の内に推移、敗れました。かくて、昨年から続いていた、囲碁の会での連勝記録は16でストップということになりました(笑)。 大阪城公園の梅林では、早咲きの梅が咲き始めていて、ほんのり漂って来るのは、まだ浅い春の香。風の冷たさも心地よくて、しばし・・・。とは言え、殆どの木はまだ蕾にて、見頃は10日位先からのことでしょうか。 では、その景色などを少しばかりご紹介申し上げましょう。(大阪城公園梅林全景)(梅林から天守閣を望む。)梅の花 咲きは始めたれ 風立ちて 春まだ浅き 大坂の城 (偐家持)梅の花 まだ咲き始めの 霞にて 天守彩る ほどにもあらず (偐家持)(白梅)(蝋梅)(蓮如上人の碑) 梅林から坂を上がった処に蓮如さんの顕彰碑があります。その傍らには「蓮如上人袈裟懸之松」の跡も。 大阪城の地は元々は石山本願寺であったのだから、こちらがむしろ本家というべきですかな。後に秀吉が大阪城をこの地に建てるものの、大阪夏の陣で家康によって焼かれてしまい、今度は徳川の城として再築される。その天守閣も江戸時代(1665年)に落雷で焼失。今ある天守閣は昭和初期に再築されたもの。太閤秀吉さんも、城内の豊国神社にて「居候」ですかな。諸行無常、栄枯盛衰は、世の習ひであります。(蓮如上人袈裟懸の松)(蓮如袈裟懸の松の根)(豊国神社と秀吉像)
2010.02.03
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偐万葉・真澄篇(その5) 本日は偐万葉・真澄篇(その5)です。その何とも不思議な魅力に誘われて、真澄さんのブログの絵に添えさせて戴いた和歌もその後22首となりましたので、この辺で纏めることとします。これで真澄篇の歌は通算110首となります(数だけは百人一首を超えましたね・笑)。 (注)真澄さんのブログ入口は、コチラ。 これまでの「偐万葉・真澄篇」その(1)・(2)・(3)・(4) 偐家持が真澄郎女に贈りて詠める歌22首今さらに 何か思はむ 吾が恋は 佐保の桜と 共にぞ散りぬ (偐笠郎女) あしひきの 山のしずくに ずぶ濡れの 大津手玉の をとめの媚か (媚郎女(こびのいらつめ))煩悩も 尻からげてや 逃げにけり 有無を言はさぬ 鐘つくをとめ (除夜の鐘つく女) 憂し<丑>ことも 今は忘れむと 思へども 背中の女(をみな) いささか重い (ぼやきのトラさん)寅年の 戸はギ―っと開き 真澄姫 雑煮は要らぬ パンにギー塗る (庭の中のギー) 描き初めは 思ふがままに くれなゐも ほとばしりける をとめなるらし (奔放初公開)香具山に かかれる月の 色冴えて 笛も真澄みの 音にしあれり 夕月の ほのかに淡し 初春の 野に白鷺は 飛び立ちにけり花の色 移ろふものに ありてこそ 身の盛りなる 娘子(をとめ)の愛(は)しき さざんかの さんざか咲いて 北風の 曲がり小道も いささかぬくし (垣根曲麻呂(かきねのまがりまろ))蜜柑色 したる光の 匂ひ立つ 日女(ひめ)にありけり 大和をみなは 森深く 芽吹きの春の 音のして ほつ枝ゆ淡き 光の降り来ヴィオロンの 天津み神の 楽(がく)の音(ね)の 色は茜に 春の夕暮 雪化粧 ほのかにあるの よかりきも 過ぎてはひとの 泥(なづ)みなりけり石の道 たどり聴かまし ブズーキの 音(ね)のうら悲し 海の青さよ 寄す波も 砕け花とや 咲くならむ 浮かれ太鼓ぞ 遊べやをとめ亜麻色の 髪の少女(をとめ)の 語らへば 吹きても来らし 春の風はも いざ行かな 有為(うい)の彼方の 山川の さやけき見つつ ひともやわれも古(いにし)への ことも悲しき ちゅらうみの 三味(しゃみ)の音(ね)青き 風となるらむ 蝋梅の 香りほのかに 春されば 手折り吾妹(わぎも)の 插頭(かざし)とやせむ槻の木の 下なる誓ひ 言の葉に 出さず阿吽(あうん)の 形なりけり (偐以心伝心) 花の名は 何とは知らね 我妹子(わぎもこ)の 如く咲きたり 愛妻の日に (恐妻家持)(注)掲載の絵画は全て真澄さんのブログからの転載です。
2010.02.01
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