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桜が咲き匂い、春爛漫です。 桜に誘われ銀輪花遍路と洒落てみました。と言っても、近隣をぐるり回っただけです。それでも結構な坂道を登り下りしますので、それなりの運動にはなるのであります。(枚岡公園への坂道も桜のトンネルである。)(枚岡公園の桜) 枚岡公園は、読書会の皆さんと去年お花見をした場所である。もう満開に近くなっている。しばし、花の風情を楽しみ、登って来た坂を下って、石切方面へと向かう。桜を求めて。桜花 今そ盛りと 人は云へど われはさぶしも 君としあらねば (巻18-4074 大伴池主) <桜は今こそ花盛りだとひとは云うけれど、私は寂しい。あなたと一緒ではないので> この歌は越前国掾であった大伴池主が越中国守であった大伴家持に贈った歌である。池主は、大伴祖父麻呂または大伴牛養の庶子と言われている。 両者は、壬申の乱で活躍した大伴吹負の子であり、吹負は安麻呂(家持の祖父)の父、長徳の弟に当たるから、家持から見れば曾祖父の弟の孫に当たる。 池主は、757年の橘奈良麻呂の乱に連座して捉えられ、獄死している。 橘奈良麻呂は橘諸兄の子で、諸兄亡き後、光明皇后を後ろ盾に政権を掌握した藤原仲麻呂の専横に不満を持ち、仲麻呂を暗殺し、孝謙天皇を廃し、塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王の中から天皇を推戴しようと、クーデター計画を企てるが、事前に露見し、失敗する。 この事件で、反仲麻呂派が一掃され、仲麻呂の権力を一層強固なものにしてしまうという皮肉な結果になるのであるが、NHKのTVドラマ「大仏開眼」でも、この事件取り上げられているのだろうか?(近鉄額田駅と石切駅の中間にある公園の桜)(旧くさえざか駅) 新しい生駒トンネルが開通して、廃線となった線路と駅の跡。奥に古いトンネルの入口が見える。駅跡の傍らに「白龍大王」という小さな祠があった。(白龍大王) 駅跡から少し坂を下った処に池があって、堤に桜並木があって、毎年花見に訪れるのであるが、ここは未だ五分咲き位であり、この週末位が見頃かも。 桜もいいが、楓の若葉もいい。足元に目をやると、すみれや野苺の花も咲いている。(若楓)(野苺)(すみれ)(アオキの花) アオキの花は意識して見たのは初めてでしょうな。ネットで調べると、雌雄異株で、どうやら、これは雄花のようです。(4月1日追記)(石切桜坂) 桜坂をひたすら下ると、やがて恩智川に出る。恩智川は菜の花が咲き匂っています。岸辺の道を行くと、ユキヤナギの青葉とカナメモチの赤い若葉が美しい帯をなしている。(恩智川) (ユキヤナギ) (カナメモチ) ヒイラギナンテン(柊南天)の花は目立たないが、近付いてよく見ると、なかなか美しい。(ヒイラギナンテンの花)
2010.03.31
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第55回智麻呂絵画展 智麻呂画ファンの皆さまお待ちかねの第55回回智麻呂絵画展を開催いたします。多数のご来場お待ち申し上げます。 この時期はやはり桜の絵ですね。 桜の絵と言えば、智麻呂氏の処女作でもあります。 脳梗塞で倒れられての入院。少し回復されて来た時に描かれたのが桜の花の絵(咲き匂う桜の大木を下から見上げた絵)でありました。 <参考>第12回絵画展(桜・処女作) 第31回絵画展(ここにも桜の絵があります。)(桜-1)(桜-2)(桜-3) 下の「タケノコ」は、恒郎女様が「傑作」と折り紙をお付けになった作品であります。恒郎女様は偐家持よりもずっと辛口で厳しい批評をされるのですが、その彼女が「傑作」とされたのですから、もうそれだけでこの絵は「傑作」の資格があるのであります。 実に力強い素敵な絵です。たけのこの どんと命の 強きあり も少し我も 生きむとぞ思ふ (偐家持)(タケノコ) 智麻呂邸に時々来られるケア・マネのTさんは、この絵の素晴らしさに感心したほか、もう一つのことにも感心されました。 さて、それは何でしょうか?Tさん 「わーっ、素敵な絵ですね。」恒郎女「これは市場で買って来たものなんだけれど、皮を剥こ うとしたら、ストップがかかってしまって、絵が完成する まで料理もお預け。」Tさん「??」恒郎女「どうかしたの?」Tさん「智麻呂さんの処でもお買いになることがあるのですね。 みんな戴き物で足りるのかと思っていました(笑)。」恒郎女「??」 どうやら、智麻呂氏の絵が「戴き物」が多い所為で、このケア・マネさんにとっては、奥様の恒郎女様が市場で野菜や果物などの食材をお買いになっている姿がイメージしにくくなっていたようだ。 この誤解については、偐家持によるこの絵画展もその責任の一端を担わなければなりませぬかな(笑)。 そう言っている尻から、また I さんからのケーキが届きました。( I さんのケーキ) そう言えば、いつぞやの読書会ではこのケーキ皆でご馳走になりましたですな。第46回絵画展にもこのケーキ登場しています。(タンポポ)(ラン) 上のランの花の絵は、智麻呂氏が行って居られるデイサービスで描かれたものです。ランの名は覚えにくいのでハナから覚える気のない偐家持でありますれば、花の名は記すすべもありませぬ(乱家持)。(百合) <参考> 過去の絵画展入口 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第49回以前は第50回のページからお入り下さい。 日記ページのカテゴリー「智麻呂絵画展」からも入る ことが出来ます。
2010.03.28
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本日は銀輪散歩のついでに、花園公園の桜の咲き具合のチェックと新作絵画を仕入れるための智麻呂邸訪問をして参りました。 花園中央公園の桜は一部の品種が見頃を迎えていますが、染井吉野はチラホラ咲きで、どうやら来月4日の若草読書会のお花見が丁度見頃になるのではないかと見込まれる状況であります。 智麻呂さんはお元気にて、新しい絵画8点が完成して居りました。近々に皆さまに公開いたす所存にてありますれば、乞うご期待であります。(花園中央公園桜広場)(同桜広場・白い花の桜はもう八分咲きで見頃です。)春雨に 争ひかねて わが屋前(には)の 桜の花は 咲き始(そ)めにけり (巻10-1869)恋ひ恋ひて 待てば咲きたる 桜花 散らずあり待て わが行く日まで (偐家持)恋ひ恋ひて 待ちにし桜 花園に どちと行く日に 咲きてぞ匂へ (偐家持) 春は梅、桃、桜の花に目を奪われますが、柳の芽吹くさ緑も亦捨て難い春の景色であります。(青柳)わが背子が 見らむ佐保道(さほぢ)の 青柳(あをやぎ)を 手折(たを)りてだにも 見むよしもがも (巻8ー1432 坂上郎女)うちのぼる 佐保の川原の 青柳(あをやぎ)は 今は春べと なりにけるかも (巻8ー1433 坂上郎女)霜枯れの 冬の柳は 見る人の 蘰(かづら)にすべく 萌えにけるかも (巻10-1846)春の日に 張れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路(おほぢ)思ほゆ (巻19-4142 大伴家持) (水仙) (鈴蘭水仙・スノーフレーク) 銀輪の道の辺には、水仙の花と共に、早や鈴蘭水仙もあどけなく咲き始めていました。水仙の 花咲く道は 春の道 妹と寄り添ひ たぐひて行かめ (偐家持)さ緑の 波立つ北の 春風の 恋あどけなき スズランの花 (偐家持)
2010.03.27
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偐万葉・ 真澄篇(その6) 本日も雨にしあれば、偐万葉・真澄篇(その6)といたします。ユニークで楽しい真澄さんの絵と偐家持の歌をお楽しみ戴ければ幸甚に存じます。 <参考>真澄さんのブログ<入口> 偐万葉・真澄篇入口 (1) (2) (3) (4) (5) 偐家持(にせやかもち)が真澄郎女(ますみのいらつめ)に贈りて詠める歌24首恵方より 来たるや春の 風なれば よしなし事も 花と咲くらむ 春の雪 天(あめ)より花と 流れ来(く)は をとめの深き ため息ならめ青龍の いづち去り行く モンゴルの 朝の草原 白虎も涙 (不起訴の家持) オレンジの 色の夕陽の 沈む街 ぼくら集ひて 明日をや歌ふ (偐ひろやす)色匂へ 花ももみぢも 散りぬるを などてこころの 去りかねつるや (迷妄家持) 酔(ゑ)ひもせで こころ真澄(ますみ)に いざ行かな 雲立つ退(そ)きへ 清き彼方へ (雲水家持)生まるるも 滅ぶもなきや 世間(せけん)虚仮(こけ) 散るるも散らぬも 風がまにまに (虚空(こくう)家持) さらさらと 微塵の砂の 光降り 自他もなきなり 慈愛の原は (解脱家持)いづちより 来たりていづち 行く風や 知りてここまで 来たるにあらず (風狂家持) ひとのため いのりてひとに とらはれず なほしぞともに ゆくひともがも (羯諦家持)みほとけの たまへるしるべ いっさいく とりやはらへる ことのあるなり (般若家持) さとりとは あすわづらはず きそくいず いまひたすらの むしんなりけり (波羅僧家持)寒梅の 酒は身にしむ 春の夜の まだ覚めやらぬ 夢にしあらし いざ行かな さやけき道の 春の風 今し吹き来る 時は来にけり (臨終家持)ふり返り 見上ぐるひとの まなざしの さきの大空 花の散るらむ 二胡の音(ね)の 澄みゆく春の さ夜更けて かなしけ妹の ひとり泣くらむ 真澄絵の 五人囃子の 馬鹿騒ぎ 雛の祭の これぞ楽しき (無礼講雛) 銀色の 水底(みなそこ)深き 思ひ出は ワイングラスの 影と映さめ いづち行く 蝶の目覚めの 春の空 アサギマダラの はるけき旅か (偐蝶麻呂) 佐保姫の ひらり舞ひ来て 青柳の 糸染め流す 大空の海 一億年 変らぬ花の ハクモクレン 空高々の 無垢の炎よ うすべにの 無垢にぞ咲くも はちす花 歌にはならで 時計になりぬ (笑家持) 我妹子に 手折(たをり)り贈らむ 金宝樹 赤きブラシの 花にて梳(す)けや (節介家持)シャカラカと 舞ひて恋せよ 愛(は)しき兒よ 短き春の 宵にしあれば (注)絵画は全て真澄さんのブログからの転載であります。
2010.03.24
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偐万葉・カマトポチ篇(その3) 本日は雨模様。銀輪散歩もお休み。晴走雨読のヤカモチなれば、偐万葉・カマトポチ篇をお楽しみ下さいませ。 <参考> カマトポチさんのブログ入口 偐万葉・カマトポチ篇入口 (1) (2) 偐家持がカマト朝臣ポチ麻呂に贈りて詠める歌28首大空に 今し飛び立つ 鳳の ごとや祈りの 堂の大屋根 噴水の 水に遊べる 子らのあり いづこも同じ 夏昼下がり (パンツは穿け)さみどりの 葉うらの光 やはらみて みかん熟れゆく 夏の日の午後 未草(ひつじぐさ) 影なす清き 水底(みなそこ)の 青き空へと 真白にぞ咲くちはやぶる 神代は知らじ 深大寺 鬼太郎茶屋の そば売らぬとは (水木原業平) 鶏頭の 花にや惑ふ 口違(たが)へ 頭掻きつつ 牛後に落つる (軽口重誤) 熱帯の 蝶は花ほど 派手さなし 雨林の奥の 陰に潜めば (知ったかぶり蝶)黒豹の 舞ひ来て去りぬ 九蓋草(くがいさう) 花薄青き 秋よかなしけ わすれ草 しみみに咲けど 吾が恋ふる 面影立ちぬ 秋の夕暮秋海棠 今咲きぬれば 吾妹子の かなしけ笑みの なほしかなしけ日枝(ひえ)の杜(もり) 在りし昔に 変らねば 見し管弦(くわんげん)の 月ぞゆかしき (鸚鵡家持) 浪花では 噂の豹も 影薄く すべり逆爪(さかづめ) おいたはしきや (人間豹だらけ) 雀には イクラ丼なり ピラカンサ 食べども飽かず 秋行きぬれど冬立つも 空高々に 咲きたれば 日もあたたかき 皇帝ダリア 武蔵野に 燃えてやあらむ もみつ葉の 色には出(だ)さじ 恋ひ死ぬるとも (武蔵野夫人の恋)人はみな やさしくなれる キャンドルの 火のゆらめきの ともりてゆけば 風きよみ もみぢ踏みわけ 妹と行く 高尾の奥の 秋のさやけし 木々の影 散り敷く庭の もみつ葉に 落として長き 師走なりけり 童女(わらはめ)の 抱(いだ)ける薔薇の 花束は たれにしもある やさしさならむ 虹の橋 渡り行きける 我が背子の 年の暮なり 明日もよかれと振り返り 振り返り行く 銀輪の 愛(は)しき我妹(わぎも)の 道にありけり寒梅の 咲きほころびて 銀座には はやうすべにの 春来たるらし 菜の花は 風に咲きたり 真澄鏡(まそかがみ) 堀の水面(みなも)に 春は光れり銀輪の 道は冬枯れ 空青く メタセコイアに 弓張の月 背子の部屋 海底(うなそこ)青き 光して 珊瑚と咲ける 火祭の花貴婦人の 花の衣や 胡蝶蘭 競(きほ)ひ咲くなれ 色の妖しき (幻家持) クレーン立つ 道はしばしの 歩行天(ほこてん)に 交野(かたの)が原の 緑立つ道幾千の 祈り聴きしや 絵ガラスの 窓に見が欲し み神の光 (耶蘇家持) (注)掲載の写真は全てカマトポチさんのブログからの転載です。
2010.03.23
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本日は軽く近隣を銀輪花散歩して参りました。 気になるのは花園中央公園の桜広場の桜であるが、まだ枝先で一輪、二輪とわずかに開花しているのみである。ここで4月4日に若草読書会のお花見を予定しているので、丁度その時期に満開になって欲しいものと願っているのであるが、はてさて、染井吉野はんのご機嫌はこの後、如何なものでありましょうか(笑)。 という訳で、同公園のその他の花を2~3ご紹介して、お茶を濁すことといたします。(水仙) 水仙の花は結構長く咲くもののようですな。未だ一杯咲いています。水仙の 白きさざ波 立つ風の 愛(は)しき吾妹(わぎも)の 声ぞ聞かまし(偐家持) (レンギョウ) レンギョウは日に映えて黄金色に輝いていました。後にチラリ我が愛車のMTBが見えています。連翹(れんぎやう)の 花は黄金(こがね)の 色に染み 生駒の山に 恋ひて燃えける (偐家持)(オトメツバキ) (我が家の庭のヤブツバキと比べると・・) 大輪の花を咲かせているのが「オトメツバキ」。ヤブツバキの園芸品種ということですが、派手に咲き過ぎですな。とても強い木らしいですから、龍馬のお姉さんの「乙女さん」も顔負けかも。我が庭のヤブツバキのつましきことよ。木(こ)の暗(くれ)に 秘めや咲くべき やぶ椿 乙女(をとめ)の恋に あらなくあれど (偐家持)(海棠) 海棠が早くも咲き始めていました。河南町の弘川寺にある海棠の老大木はもう花を咲かせているのだろうか。海棠(かいだう)の 花し咲くらむ 葛城(かづらき)の 山路の春を 行くひともがも (偐家持) (ハナニラ) 水仙の隣には、「星の花」、ハナニラが群れ咲いていました。星々の こぼれ咲くらし ハナニラの 薄き紫 叶はぬ夢の (偐家持)
2010.03.22
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偐万葉・松風篇(その8) 本日は、偐万葉・松風篇(その8)であります。松風さんの素晴らしい絵とそれに誘われての偐家持の和歌とのコラボをお楽しみ下さい。 <参考>松風氏のブログ入口 過去の偐万葉・松風篇入口 (1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7) 偐家持が松風朝臣麻呂に贈りて詠める歌24首水ぬるむ わんどの春の さはさはと 風も明るき 色にしあれり たなぐもり 雨も降り来や 鶴見道(つるみぢ)は 三本(さんぼん)楓(かへで) 笠さし行かせ軽トラと 自転車ありて 水仙の 丘あたたかき 景色となりぬ 風さやに 鶴見の丘辺 陽の照れば 木々も芽吹きの ときや待つらむ草原の 色まとひてや をとめはも 夢の広野を 駆け行くらむか 荒海の 風強からし 二本松 かしぐもたぐひ 夕映えに立つ唐寺(からでら)も なすことなきや 春節の 寒き岡辺に ふるへて居りぬ (寒梅和尚) 木(こ)の暗(くれ)を 娘子(をとめ)の行きて 日の照れば メタセコイアも 目覚むるならし (鶴見虫麻呂)いくととせ としやへにける はねはしの いまなほしろき ひとのおもひも 古(いにしへ)の 南の島の 置き土産 樹は高々に 春の日照れり朝の日の 光は風と 吹くならむ 木々も仰ぎて 神待つらむか うらうらの 春にしあれり 鶴見なる ポプラ並木も 芽吹くにあらし春霞 青める生駒の 山遠み 待てど鶯 いまだ来鳴かずうらうらの 春に誘はれ たもとほり 来ればひとすじ 白き細道 白銀(しろがね)の 風車(ふうしゃ)の丘の いかにかと 恋ひて我来(こ)し 鶴見の雪野そこかしこ 春にしあれば 野つ鳥の 声の繁けく 鶴見の丘は モロッコは 砂塵の彼方 年ふりて いや常(とこ)の葉の 繁き館(やかた)の日は照れど 朽木(くちき)の白き 柵(さく)の道 いづち風花(かざはな) 流れ来るらむ 思ひつつ たもとほり来ぬ 風の丘 先の景色の 見たくもありぬ 夏青葉 秋もみたひて 冬は枯れ また咲く春の 花ぞ見が欲しさ百合花 後(ゆり)も逢はめや 愛(は)しき兒の 窓に小さき 影にぞ見えて 如何にかも 去りゆく冬の 後影 とどむすべなき 鶴見はや春茫洋と して立ちつくす 木々もまた 内に芽吹きの 春やあるらむ 遠山の 雲にぞ母の 面影の 立ちて吉備道(きびぢ)は 春にしあれり (注)絵画は全て松風さんのブログからの転載です。
2010.03.21
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昨日(19日)は、八尾市、柏原市と南へ走ったので、今日は北へ走ることに。北に向うと大東市、四条畷市、交野市、枚方市などとなるのだが、今日は四条畷神社の先の坂道を室池園地へと登り、かなりの高みまで行ったので、そこでギブアップ。昼食は家でという予定での朝の銀輪散歩ゆえ、帰途に着きました。では道すがらの風景などをご紹介申し上げます。お暇なお方は最後までお付き合い下さいませ(笑)。 まずは、花から。(ハクモクレン) 自宅を朝9時に出て、恩智川沿いに北へ。大東市に入って川が西へと蛇行して行く処で、川にお別れして東へ。大阪桐蔭高校の処で外環状道路に出て再び北へ。寺川交差点で東に入り、阪奈道路を行き、大阪府立野崎高校の前を過ぎて、東高野街道の旧道に入る。野崎観音の手前でハクモクレンが目に入ったので写真に。道を挟んで梅も「な忘れそ」と咲いていました。 野崎観音への坂道を過ぎた処にある、野崎まいり公園で休憩。ここの庭でミツマタの花とクリスマスローズの花を目にしました。(ミツマタ)(ミツマタの花) ミツマタは、その樹皮の繊維から和紙を作る。万葉では「サキクサ」である。先端で三つに枝分れする形から「さき(割く)くさ」と名付けられたのである。春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも) (巻10-1895)<春になると真っ先に咲く三枝のように、さきく(無事で)いたら、後にまた逢いましょう。恋に苦しみなさるな、吾妹よ。>(クリスマスローズ)(サンシュユ)<これは、帰途脇道の住宅街に迷いこんで見つけたもの。> 四条畷神社の参道を過ぎて暫くゆくと、和田賢秀の墓がありました。 <参考>和田賢秀 和田賢秀は楠正行の従兄。四条畷の戦<正平3年(1348年)1月5日>で高師直の大軍と戦い討ち死にする。その時、敵の首に噛みつき放さず、それがもとで敵が死んだということで、以来、地元の人は彼の霊を「歯噛(神)様」として祀っているという。(和田賢秀の墓) 墓の前の手水鉢には花が浮かび、背後の楠の大木の影を映していた。むらさきの 花に映せる もののふの 果てぬうらみの 楠の葉の風 (偐家持)(クスノキ) 和田賢秀の墓の裏道から山の方へと走るうちに府民の森の「室池園地」への登山道に出る。初めての道ゆえ、ともかくも登ってゆく。延々と続く登り坂。道端でお話しているオバサンに息を喘がせながら、「この坂道キツイですね。」と声を掛けると、「これ位でネをあげていて、どうすんの。この先もっとキツイよ。」と叱咤激励される。更にも登ると「みつくえ橋」という碑の立っている橋がありその先に神社がある。休憩を兼ねて自転車を橋の上に停めて、覗いてみる。 (みつくえ橋の架かる川、権現川)(御机神社)(拝殿) 御机神社を出て元の道に出ると、向いに「龍尾寺」の石碑。石段を登ってみる。これがまた結構上にある。(龍尾寺登り口)(左に行くと本堂。右に行くとご住職のお住まい) (お住まいへのアプローチも風情ある雰囲気である。<写真右>)(本堂と鐘楼ーと言っても境内にあるのはこの二つだけ。) 境内の説明板には「元禄11年(1689年)に当地を旅行した貝原益軒は、『飯盛の東北、龍鼻山に観音有。里民はなはだ尊信す』と記し、龍尾寺住職慶道は寛文3年(1663年)8月22日付記録で『観音山の旧地は人煙遠く距るにより、現在地に移し、禅宗に転じた』と書きしるす。御机神社と相対する懸崖上に建つ龍尾寺は、桜、紅葉の名所としても著名。縁起書の語る観音山旧地は、現在地より更に500m程山系へ踏み分けた地を指すが、人煙遠く距るにより、江戸初期に現在地に転じたもの。」とある。京都府相楽郡加茂の海住山寺の大般若波羅密多経600巻のうちの大半はこの龍尾寺の経典を1090年代に筆写したものとされているから、平安末期には大寺院でもあったようだ。 更に坂を登った処に寶蔵寺滝霊園というのがあった。この「滝・瀧」の名の三水偏が取れて、龍尾寺の「龍」になったのだろう。 霊園の高みから交野・枚方方面を眺め、今日から開通という第2京阪道路・緑立つ道を遠く眼下に眺めて、今朝の銀輪散歩は終了ということに。 「はよ、帰ろ。ハラ減ったァ」(笑)<参考> 恩智川銀輪散歩 (3月19日の散歩・・3.20.の日記前編)
2010.03.20
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本日もいつもの通り、花園中央公園から恩智川沿いに大和川方面まで銀輪散歩して来ました。このコースを走る時によく立ち寄る喫茶店がありますが、例によって店の名は今まで知らなかったのですが、今日は偶然にもその名が目に入り、すっと覚えてしまいました。それは何故か。もう少しお読み戴くとお分りになりますので、どうぞ最後までお読み下さい(笑)。 では、道中、目にしたものなど、と言っても大したものではありませぬが、ご紹介申し上げましょう。(花園中央公園のユキヤナギ)(モクレン) 背後に見えるのは生駒山系の山です。(鷺) 鷺が魚を追っかけていました。じっと待って一撃で仕留めるというのが鷺の漁法かと思っていたのに、この鷺はやたら動き回って無駄骨を折っているようにも見えましたが、未だ新米ですかね。そう言えば、人間様の世界も新入生の季節でもありますな。(生駒山系の山麓風景) 大阪府立八尾翠翔高校の裏から山側を眺めた風景です。今日は空気も澄んで春にしては少し冷たい風が銀輪散歩には丁度良い。(喫茶店 「 nana 」) 喫茶店nana、本ブログによくご訪問戴く、シンガポールご在住のnanasuguさんを連想させる名前なので、すっと頭に入りましたが、これまで何度となくこの前を走っているし、少なくとも5~6回は店でコーヒーを戴いているのに、今日までその名を記憶にとどめなかったのは、迂闊にも店の名は全然見ていなかったということですな。 今日、店を出て恩智川にかかる橋の上から、ふと思いついて写真に撮ってみたら、店の名が写っていたという次第でありました(笑)。
2010.03.20
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偐万葉・木の花桜篇(その4) 本日は偐万葉・木の花桜篇であります。偐家持の歌と木の花桜さんの返歌をお楽しみ下さいませ。 <参考>木の花桜さんのブログ入口 偐万葉・木の花桜篇 (その1) (その2) (その3) 偐家持が木花桜姫に贈りて詠める歌21首、俳句1句 併せて木花桜姫の返しける歌9首さ夜更けて さへぐパソコン 何すれぞ 吾が意のままに ならずありける (べそコン) 木花桜姫の返しける歌 パソコンや なのたまひそ 言(こと)さへぐ 言の葉われに さやぐ芦原(あしはら) 老い果てて 金も力も なかりけり もとより色の なき身なりけり (四苦八苦家持) 木花桜姫の返しける歌2首 銀輪を 駆けて家持 いづち行く 追いつけぬぞと 年神はしる (老いの果て年神) 花は散り 紅葉も絶えし 山里に 女人(をみな)は生きて またの春待つ (したたか桜)宇都宮の 空に春立ち 松の風 音もやさしみ 君しかなしけ義理チョコも 絶えて久しく なりぬれば 在りし昔も 恋ひしかるらむ (チョコっと家持)本命は いささか重し 義理でよし (チョコ茶) 木花桜姫の返しける歌 背の君と 言ひてわたせる チョコ饅は 昔の恋の 味はなけれど 経済と 経世済民 なり果てて いつし済民 みな忘れつる (経世迷民)春寒や 経済不況で なお寒い 党首討論 なほしぞ寒き (国会中継) (注)上3句は木花桜姫の俳句。下2句は偐家持作。我もまた 日の臣(おみ)の子に アランかな ドロンほどには あらなくあれど 木花桜姫の返しける歌 日の臣の 子はたくましく アランかな 銀輪遊行 天駆け行きゃれ老いの身を 鞭打つ銀輪 家持に 生駒の山も 笑ふほかなし (冷水家持)木苺の 未だ咲かなくも 薔薇の花 うすべに色に 咲きて添ひたり 木花桜姫の返しける歌 冬薔薇の 香りかそけく 木苺の 茂れる夏を 恋て待つらし 春風の ごとや咲きたる オキザリス 美日(うちひ)のさせる 野に遊ばまし 木花桜姫の返しける歌 鄙の野の 小川の岸の ひだまりに 忘れられつつ かたばみの花み吉野の 桜はまだし プリムラの 早や咲く吉備の 春ぞゆかしき プリムラの 花に競(きほ)ひて アイリスの 花も咲くとふ 吾妹(わぎも)の屋前(には)は春すみれ 桜たんぽぽ 夏は百合 秋こすもすに 冬の風花 (道偐) さくら子に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも (日帰り旅人)はらはらと 散りゆく花の ゆかしけど 散り敷く花の なほしゆかしき (前田けん好) 遠き空 海越え来たる 言の葉に 雨も桜に めぐみと降りき 空海と 同行二人 雨に読む 言のあれこれ 来(こ)し方思(も)ひつ (居間遍路) 木花桜姫の返しける歌2首 大空と 海の間(はざま)に 一人居て 求聞持法(ぐもんじほふ)を 修(しゅ)せるや君は 雨の夜に 書を読み居たり 荒海の 東のはての 民の末(すゑ)草(くさ) 梅の花 散りのまがひの 春の雪 庭の千草(ちぐさ)も 戸惑ひにけりはたらくを やめてしあれば はたらくに せむと銀輪 駆けて遊ばめ (留守家持) カトレアの 色に染むとも シロツメの もとな忘れそ 花と咲く日ももの思(も)へば 花の盛りも 悲しかり 置きて来にける ことのあれこれ (注)写真は全て木の花桜さんのブログからの転載です。
2010.03.19
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第54回智麻呂絵画展 智麻呂絵画のファンの皆さま長らくお待たせ致しました。本日第54回絵画展を開催させて戴きます。皆さまのご来場お待ち申し上げます。(黄色の花) この花の名、分りません。ご存じの方、ご教示下さい。 「天理さんの花」は恒郎女説ですが、「近くの天理教の教会の庭に咲いている花」がその根拠とあっては、如何にいい加減な偐家持でも、これは採用いたしかねますな(笑)。 (追補) 小万知さんから、この花は黄花オキザリス(オオキバナカタバミ)で あるとご教示いただきましたので、追記して置きます。(3月19日)(マンリョウ)赤き実は 冬を耐へたる 色にして 今し笑むらし 万両の春 (偐家持) (福寿草)土の香は 春の香ならむ 福寿草 ひとつ咲きたり 木間(こま)の日だまり (偐家持)(ミモザ) ミモザは小万知さんが智麻呂さんにお持ち下さったもので、その少し前に智麻呂さんはミモザの花が欲しいと恒郎女様に仰って居られたらしいですから、小万知さんのそれは、まことにタイムリーな贈り物となったのでありました。大和にも いつしミモザの 日のありて 一枝(ひとよ)手(た)折(を)らむ 贈る兒(こ)もがも (偐家持)(チョコボール) 上の「チョコレート」と下の「いかなご」は智麻呂様ご夫妻のお嬢様からの贈り物だとうかがいましたが、先日ご訪問した際に、智麻呂氏が「一つ食べろ」と仰るので戴きました。チョコの中身は乾燥させた苺でありました。(いかなごのくぎ煮) (雲南黄梅・ウンナンオウバイ) この花は、けん家持が調べた結果、雲南黄梅と判定したものでありますが、もし違っていましたらご教示下さい。(プリムラポリアンサ) 小万知さん撮影の花の写真は智麻呂さんの宝物のようでもあります。飽かず眺めていらっしゃるので紙製のファイルがバラバラになってしまっていました。小生の書斎にたまたまチョット洒落た和風の布カバー装丁の写真ファイルが未使用でありましたので、お届けして置きましたが、上の万両、プリムラポリアンサ、下の菜の花の絵は、その写真を基に、描かれたものです。(菜の花)(土佐の文旦) これは土佐からの贈り物。上の絵は裏面にお礼の言葉が記載された絵手紙であります。投函前に取材が出来てよかったです(笑)。龍馬から 土佐の文旦 土産ぜよ 味も香りも ちっくとええきに (坂本牛馬)(名張の手焼きおかき) これは三重県名張の手焼きの「おかき」。小生も少しつまませて戴きましたが、素朴な味でなかなかグ~ッでした。どういう経緯かは存じませぬが、偐山頭火さんがお持ちになったとか。色んな絵に挑戦させようとする「親切」でもありますかな(笑)。 「おかき」を「お描き」では見え見えではありませぬか。
2010.03.18
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本日は謡曲の稽古日にて、自宅から大阪城公園・梅田経由江坂まで自転車で往復して来ました。片道2時間20分位の行程になります。淀川と神崎川を渡らなくてはならないのがちょっと大変です。 先日、友人の偐山頭火氏からのメールで、NHK大阪の前庭に、近く放映されるドラマ「大仏開眼」の大仏の実物大撮影セットが展示されているとの情報を得たので、途中立ち寄り写真を撮って来ました。 けん家持の銀輪散歩コースでもある柏原市の石神社辺りにあったとされる智識寺の盧舎那仏を見て、聖武天皇は大仏造立を思い立ったとされていることや、大仏造立に大いに貢献した陸奥の国での黄金出土に対し大伴家持がこれを言祝ぐ歌を詠んでいることなどもありますので、大仏と家持(偐家持も)は、大いに関連があるのであります。 大仏開眼会は天平勝宝4年(752年)4月9日ですから、大伴家持が35歳の時になります。聖武天皇は既に退位し太上天皇となり、娘の阿倍皇女が即位し孝謙天皇となっています。中西進先生は「家持は、聖武天皇の命を受け、墾田開発のため越中に行った。」とされていますが、越中の豪族達に東大寺大仏造立のための巨額の寄付をさせていることや、開眼会の前年751年7月に少納言に任ぜられ、8月に越中から京へと帰任の旅に立っていることなども、それに符合している。 この頃までが家持が最も張り切っていた時期かも知れません。その後、橘諸兄が自身への讒言を潔しとせず右大臣を辞職し(756年2月)、聖武太上天皇が崩御(756年5月)するなどがあり、光明皇后を後ろ盾に藤原仲麻呂が権力を掌握し、大伴氏の影は薄くなって行く。 753年(天平勝宝5年)2月23、25日に家持が作っている春愁絶唱3首がそのことを予見させる。春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも (巻19-4290)わが屋戸(やど)の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも (巻19-4291)うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 情(こころ)悲しも 独りしおもへば (巻19-4292)(大仏開眼の撮影セット) 発泡スチロールを強化樹脂で固めて化粧仕上げしてあるそうです。 奈良の大仏の実寸大とのことですから、まことに巨大。(正面から) ドラマは4月3日と10日に放映されるようでありますが、家持が登場するのかどうか、興味があります。吉備真備が主人公のようですが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専制、仲麻呂の乱などで展開されて行くのであるのでしょう。 先日、11日の銀輪行で取り止めた五条市の栄山寺は藤原仲麻呂が父、武智麻呂の菩提を弔うために創建したものらしいから、予定通り行っていれば、タイムリーであったのですが。 仲麻呂の父親の武智麻呂は、藤原鎌足の息子、藤原不比等の4人の息子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)のうちの長男に当たる人物である。(淀川) 写真は、地下鉄御堂筋線と並走する新淀川大橋の上から、上流のJR東海道(京都)線の鉄橋を眺めたものです。 謡曲の稽古は、時々このようにして自転車で通ったりもしていましたが、本日を最後とし、謡曲の稽古は休止としました。未だ半人前にもなっていないのですが、ちょっと「やる気」が衰えて来ましたので、またその気になるまで、休止という訳です。師匠から破門された訳ではありません(笑)。
2010.03.17
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偐万葉・カコちゃん08篇(その3) 本日は偐万葉・カコちゃん08篇(その3)であります。 <参考> (その1) (その2) カコちゃん08さんのブログ入口 偐家持がカコの郎女に贈りて詠める歌19首並びに1句青き実に さ緑うすき 葉の流れ 澄みゆく朝の すがし秋の気 あくがれて 秘めや置くべき 恋の火の 焦がれ燃ゆらし 夕焼けの空何しかも 人や恋(こほ)しき 秋暮れて なほしぞ燃ゆる 夕焼けの空花衣 色移ろへど なほ凛と 君子の蘭は 立ちてやあらむ 白雲や 岩根踏みつつ われ来れば みさきの白き かなしとぞ見ゆ吾が恋は 知らえぬ恋ぞ 燈明(みあかし)の 浦賀の崎に 寄する白波立つ冬の 明け行く朝の 初霜に 鳥にのこせし 柿熟れゆける 落つる日の 照りや残せる もの思(も)ひの 象の鼻かも 秋暮れゆきぬ火(ほ)明(あ)かりの ともりてゆけば 立つ風の 誰(た)そ彼横浜 人恋ふらしも 人麻呂も 憶良赤人 家持も 詠まずありけり カラタチの花雨に濡れ 咲く恋の花 カラタチを などて詠まずや 万葉歌人割れ石榴 笑みのこぼれて ふたつみつ 秋の香ほのか 部屋に満つらし 水清み 名残(なご)れる秋の もみつ葉の 色や流して 吾(われ)も散らなむ春朝寝 夏夜ふかしの 秋は喰(く)ひ 冬は太りて 寒けくもなし (道偐(どうげん))ふるさとや シクラメン咲く 年の暮 (筆蕪蕉) かぎろひの 色にも咲ける チューリップ 窓辺に浅き 春の立つらし黄色なる チューリップの花 咲く朝は 大空駆けて みたくもありぬ (偐カコ女) 軽井沢 春となるらし 雪青み 雲場の池の 朝明けゆきぬイタめしは くらへど大和 をのこらは ミモザを贈る すべの知らなく (ジャポリタン) 一輪の 光の春や 我が屋前(には)に 白き椿は 咲きにけるかも(注)掲載の写真、絵画は全てカコちゃん08さんのブログからの転載です。
2010.03.16
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本日は雨。銀輪散歩もお休み。家でゴロゴロ。読書と居眠り。何と言ってネタもないので、一昨日(13日)、大学の同窓会の囲碁サークル例会に出席すべく、中之島まで例によって銀輪散歩して参りましたので、その風景などをアップして置きます。 囲碁の方は調子が悪かったのか、それが実力なのか5局して5戦全敗でありました。K氏と1局、T氏と3局、O氏と1局。何れも、ちょっとポンポン打ち過ぎて自滅した嫌いがありますな(笑)。(桃の花) 一瞬、桜かと思いましたが、桃の花でした。大阪城公園の環状線森の宮駅側の入口付近は、桃の花が満開でした。 大阪城公園からビジネスパークへと渡る橋にさしかかったら、丁度、水上バスが橋の下を潜って行きました。(水上バス) 以上は往路に撮った写真。 以下の2枚は復路に撮った写真です。(緋寒桜?) 自転車を停めて、上の桜の写真を撮っていると、大阪城公園内を周回する、ロードトレインが通りがかりました。(ロードトレイン)
2010.03.15
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(承前) 極楽(寺)に身はやうなきものと坂下り。道の辺に咲く黄色の水仙に目を楽しませ、振り仰ぐと金剛・葛城の山々。ここにも極楽がありました。(西方浄土の光ならむか。金剛・葛城の山々)(高鴨神社) <参考> 高鴨神社 高鴨神社を出るともう午後4時半。山々は傾いた日を隠し、早や夕支度の気配である。国道24号へと続く道は軽快な下り。風の森峠バス停から24号線を走り下る。(金剛・葛城の山々)(風の森) 風の森峠は奈良盆地の風の通り道、年中風が吹いて居り、丘の上には風神を祀る祠もあるのだが、本日は風もなく穏やかな春景色。風の無い風の森峠、見渡せど「森」もない。風も森もない「風の森峠」とはこれ如何に(笑)。しかし、いい風情であるから、これでいいのだ。 御所駅から登って来た国道24号は風の森峠からJR北宇智駅、五条駅へと一気に下る。五条市は吉野川に開けた町。吉野川は和歌山県に入ると「紀ノ川」と名を変えるので、五条市は吉野川としては最下流の町ということになる。万葉人も吉野川・紀ノ川伝いに白浜へと通ったのである。 予定では、藤原武智麻呂墓、栄山寺を久々に訪ねるつもりでいましたが、暗くなってしまう惧れもあるため、ひとつ手前の駅、北宇智駅で本日の銀輪散歩は打ち止めといたします。(宇智の大野) 宇智の大野の所在は諸説あるようですが、一般的には北宇智駅西方の丘陵地帯とされている。古代の狩猟地であった。万葉の名歌の「宇智の大野」は今は、開墾された田畑、高速自動車道まで走っているが、背後の金剛山の姿は万葉人が目にしたままの姿であるのだろう。 天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時、中皇命(なかつすめらみこと)、間人連老(はしひとのむらじおゆ) をして献(たてまつ)らしめたまへる歌やすみしし わが大君の 朝(あした)には とり撫(な)でたまひ 夕(ゆふべ)には いより立たしし 御執(みと)らしの 梓(あづさ)弓(ゆみ)の なか弭(はず)の 音(おと)すなり 朝(あさ)狩(かり)に 今立たすらし 暮狩(ゆふかり)に 今立たすらし 御執(みと)らしの 梓(あづさ)弓(ゆみ)の なか弭(はず)の 音(おと)すなり (巻1-3) 反歌たまきはる 宇(う)智(ち)の大野(おほの)に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深(くさふか)野(の) (巻1-4) 五条駅までは行かないこととした故、日暮れまでは未だ間がある。藤岡家住宅まで1.3kmの標識に従い、行ってみることに。しかし、何と1.3kmずっと登り坂。それもその筈、金剛山登山口への道端にそれはありました。(登録有形文化財 藤岡家住宅)(一部が金剛山登山者の休憩所として開放されてもいる。)(中庭の長兵衛梅)(八幡神社、背後に金剛山が見える。) (道標) (宇智の影持) またも影持君の登場です。影持の影も長くなりぬれば、けん家持もそろそろ家路たどらむと・・JR北宇智駅へ。(JR北宇智駅) 以前来た時はこの駅で線路はスイッチバックになっていたが、今は改線工事され一直線になっている。無人駅である。 (完) (その1) (その2) を見る。
2010.03.14
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(承前) 駒形大重神社から九品寺(くほんじ)に入ろうとするが、寺の裏の墓地がブロック塀で囲まれていて入れない。前に偐山頭火氏と来た時はこの道から入れた筈なのだが?仕方がないので、自転車を塀の向こうに放り込み、身はブロック塀に飛びかかって、塀からの「不法侵入」。どう見ても怪しい(笑)。(九品寺・山門)(九品寺・本堂)(九品寺・千体仏) 寺の裏山への小径には和歌が記載された緑色の板札が沢山かかげられている。馴染みの名も見えるので、2,3ご紹介すると。 ありがたし 今日の一日も わが命 めぐみたまへり 天と地と人と (佐々木信綱) 住む土地の 恵みを想う 心あり そこに住むべき 道は開けむ (伊藤左千夫) ホロホロと なく山どりの 声きけば 父かとぞ思う 母かとぞ思う (行基)(九品寺山門脇の石仏)(九品寺境内からの眺望) 九品寺もかなり高い位置にあるので境内から御所の町並が一望できる。智麻呂様の夫人、恒郎女様はこの町の旧家のお嬢様でありました。ご実家はこの寺の下あたりだろうか。 九品寺から一言主神社へ向かう。細い野道を行くと、女性が草を摘んで居られる。「若菜摘みですか?」と声を掛けると、ヨモギを摘んでいるのだとのこと。彼女は「ヨゴミ」と言って居られました。 ハイカー用の休憩所があり、先客の男性が一人。小生も煙草休憩。この先は少し道が悪いよ、と教えて下さる。その「悪い道」を少し行くと綏靖天皇高丘宮趾の碑がある。日本書紀・綏靖天皇元年の条に「葛城に都つくる。是を高丘宮と謂ふ。」とあるのが、この辺りとされているのですな。 道の下の田で男性が「田起こし」をされている。高い場所なので、水はどうしているのかと尋ねると、高丘宮趾碑のある高みをさして「この丘の上に水源池がある。」という。 (高丘宮趾碑) 野道には土筆も顔を出していました。レンゲソウに続き、ツクシも今年初見である。 ぬかるんだ「悪路」を脱出すると、舗装された坂道を一気に下る。一言主神社である。 <参考> 一言主神社(葛城一言主神社)(拝殿) (乳銀杏)(万葉歌碑)葛城(かづらき)の 襲津彦(そつひこ)眞(ま)弓(ゆみ) 荒木にも たのめや君が わが名告(の)りけむ (万葉集巻11-2456)(蜘蛛塚) <参考> 謡曲「土蜘蛛」(亀石) 「一言さん」にお別れし、県道30号線に戻るが車が煩わしいので、脇道をゆく。(水越川・葛城川の支流)(龍王寺)(長柄<名柄>神社) <参考> 長柄神社 長柄神社から旧道を少し行くと「住吉神社・極楽寺」の道標があり、延々たる登り坂になる。(道の辺のアセビ)(住吉神社・極楽寺への坂道からの眺望)(住吉神社) 極楽寺は、住吉神社から更に坂を登り、県道30号線を渡ってまた更に上る。極楽への道は「地獄の道」でありました(笑)。(極楽寺・本堂)(極楽寺・天得堂)(極楽寺・山門) <参考> 極楽寺 極楽寺から高鴨神社、風の森峠へと下り、国道24号を五条市へと走ることにする。261号による峠越えの道は回避。極楽の道を選ぶ。後は下るのみである。1ページの文字制限内では最後まで掲載できませんので、ここまでで一区切りとします。(その3へつづく) (その1) (その2) (その3)
2010.03.12
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本日(3月11日)は、天気もよし。昨日に続きトレンクルを持って近鉄当麻寺駅下車。当麻寺から御所・葛城古道経由五条市(JR和歌山線、北宇智駅)まで銀輪散歩して来ました。葛城古道は2007年4月15日に偐山頭火氏と銀輪散歩して以来の訪問である。この時は車で近鉄御所駅近くまで来て、そこから風の森峠まで行き引き返すという周回コースであったが、今回は手前の当麻寺から出発し五条までという直線コースである。直線とは言っても、あちらこちらに立ち寄りつつのジグザグなのではあるが・・。(近鉄南大阪線当麻寺駅) 先日、太子町(二上山の大阪側山麓)を銀輪散歩したので、今日は奈良県側の山麓を散策してみようという次第。先ず当麻寺を目指す。当麻寺は2000年10月8日以来の訪問であるから、ほぼ10年振りになる。(相撲開祖の當麻蹶速(たぎまのくゑはや)の塚) 当麻寺への道の途中に「タイマノケハヤの塚」がある。垂仁天皇7年7月7日に天皇の面前で当麻蹶速と出雲の国の野見宿禰が相撲をとり、ノミノスクネにタイマノケハヤがあばら骨を折られ、腰の骨を踏み砕かれ、殺されてしまうという、荒々しい相撲の記事が日本書紀に出ているが、我が国最初の天覧相撲という訳で、その当麻蹶速を記念する塚である。(当麻寺山門)(梵鐘・我が国最古の梵鐘とか。)(金堂)(講堂)(本堂)(塔)(中将姫) <参考> 當麻寺 当麻寺から二上山への道に大津皇子の歌とその姉の大伯皇女の歌の碑がある。銀輪万葉なのでともかくも立ち寄ることとする。大津皇子のそれは犬養孝先生の揮毫である。あしひきの 山のしづくに 妹待つと 我立ち濡れぬ 山のしづくに (巻2-107 大津皇子)うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟世と我が見む (巻2-165 大伯皇女) 大津皇子の歌碑のある公園で暫し休憩。 橿原神宮前駅のパン屋さんで洒落のつもりで買ったパン(亀さんと鹿さん)を少し齧る(笑)。(鹿さんと亀さん) 県道30号に出て南へ。右手後方をふりさけ見ると二上山の雄姿が。大伯皇女が眺めた二上山の姿である。(二上山) 暫く走ると、笛吹山の麓、道の右手に雰囲気のある小高い丘が目に入る。何やら古墳が丘の上にある気配なので、犬を散歩させている女性に尋ねると、古墳があるとのこと。挑戦してみることに。だらだらと坂道を、息切らせながら登って行くと、奈良県社会教育センターの建物があり、その敷地が公園のように整備されて、遊歩道が林に続いている。美しい池があり、古墳があり、「万葉の丘」とも名付けられてもいる。景色を少しご紹介して置きます。(奈良県社会教育センターの丘から葛城山を望む。手前は大池)(中戸新池。池を巡る遊歩道はいい雰囲気である。) (いにしえの丘・神明神社古墳)(竹林の道)(万葉の丘・皿池古墳) 万葉の丘から、自転車を担いで草の斜面を下り、畑中の畦道に出ると、オオイヌノフグリが青い星のように輝き、レンゲ草も花を付けている。今年初見である。 (オオイヌノフグリとレンゲソウ) 何処かで昼食を、と県道30号を走りながら探していると、マルベリーホールという市民文化会館の中のレストランが営業中の表示。そこで日替り定食。(マルベリーホール) 昼食を取って元気百倍。店の方に五条まで自転車で行くと言うと吃驚されて、坂が大変だし、車の通行も結構あるからお気を付けてと励まされる。 近鉄・JR御所駅の西方、葛城山ロープウェイ乗り場へ続く県道213号を過ぎて県道30号を更に南に進み、九品寺の一つ手前から自然歩道に入る。かなりきつい登り坂。突き当りに駒形大重神社という小さな神社がある。(駒形大重神社) 説明板によると「本社は御所市西部を南北に走る葛城の道(葛城古道)の楢原地区石川にあり、祭神は滋野貞主命外一座不詳とされている。<略>本社は『延喜式神名帳』にある葛木大重神社を駒形神社に合併して現在のように祀られているのであるという。<略>」駒形の名は農耕に使役した馬を祀ったところから来ているとのこと。その名から馬に関わる人の参拝詣が今もあるという。 さて、この後、九品寺へと向かうのであるが、続きはページを改めてすることとし、(その1)はここまでとします。(つづく) (その2) (その3) を見る。
2010.03.11
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PC不調につきブログ更新滞っていましたが、元に復しましたので、日付遡って更新します。本日(3月10日)、天候に少し不安ありましたが、雨具の用意をして、奈良自転車道を銀輪散歩に。時々青空が覗くかと思えば、強く雨が降ったり、霰が降ったりという妙な天気。という訳でいつでも切り上げられるように、平城京址公園から鴻ノ池運動公園への奈良自転車道とその周辺を軽く走ることに。 平城京址公園は大極殿復元工事も終り、祝典・式典準備の周辺施設の整備工事の最終段階に入ったようであるが、其処此処が工事で立ち入り禁止になっている。 <参考> 平城遷都1300年祭(大極殿) 遠くから大極殿に挨拶し、コナベ・ウワナベ古墳に向かう。(ウワナベ古墳) <参考> ウワナベ古墳(コナベ古墳) <参考> コナベ古墳 ウワナベはウワナリ(後妻)が訛ったもので、コナベはコナミ(前妻)が訛ったものだというが、両古墳とも、被葬者が誰とも分っていない、陵墓参考地である。航空自衛隊奈良基地とコナベ古墳の間の道を奥に行くと磐之媛陵である。磐之媛陵の前から奈良自転車道に入り、元正天皇陵、元明天皇陵を目指す。(磐之媛陵) 磐之媛陵は何度も訪れ、本ブログでも既に紹介しているので、詳細はパスし、先へ。この御陵から奈良自転車道に入る。 <参考> 磐之媛皇后と光明皇后 万葉ウォーキング 磐之媛陵 ヒシアゲ古墳(平城坂上陵飛び地)(奈良自転車道)(梅) 雑木林の佇まいや白梅の可憐さを愛でつつ行くと、国道24号にぶつかる。国道の下をくぐり、更にJR線をくぐると、景色が一転、里山の風景に紛れ込んだ気分になる。(奈良自転車道) 自転車道は黒髪山へのゆっくりした登りである。鴻ノ池運動公園を右に登り切ったところで左折し急坂を下り、直進すると道の左に元正天皇陵、右に元明天皇陵が見えて来る。 持統天皇は、息子の草壁皇子を天皇にするつもりであったが、早逝。草壁と異母妹の阿閇(阿陪)皇女の間に生まれた軽皇子が未だ幼かったので、自らが天皇となり、軽皇子の成長を待つ。やがて軽皇子が文武天皇となるが、彼も亦早くに死んでしまい、文武の子の首皇子(聖武天皇)が幼かったので、阿閇皇女が天皇位につく。元明天皇である。元明天皇は娘の氷高皇女に譲位し、元正天皇の誕生となる。 独身女性が天皇になるという、異例の天皇である。後に、聖武天皇の娘、阿倍皇女が孝謙天皇(称徳天皇)となる先例である。 聖武天皇誕生までのつなぎとして天皇位についた母と娘が道を挟んでひっそりと仲よく眠っている。(元正天皇陵)(元明天皇陵) <参考> 元明天皇 元正天皇 元明天皇陵の北側の坂を登って行くと奈良坂の道に出る。奈良坂を登ると般若寺である。(奈良坂・新道)(般若寺) 般若寺は花の寺として有名な小さな寺。若い頃、奈良から浄瑠璃寺へのハイキングには必ずこの寺に立ち寄って行ったものであるが、今回は外から写真を撮らせて貰ったのみで退散。 般若寺を出て、脇道を入って行くと黒髪山神社という小さな稲荷神社があった。傍らには、「佐保山西陵七ツ石」とか「聖武天皇生母藤原宮子墓稜石」とかの表示と石碑・石造物が並んでいるのであるが、何であるのかよくは分らない。ぬばたまの 黒髪山の 山(やま)草(すげ)に 小雨(こさめ)降りしき しくしく思ほゆ(万葉集巻11-2456) 時々に雨の降る風情は、この歌の雰囲気ではあったが、黒髪山の坂を登っている時には霰まで降って来たのであってみれば、「しくしく」ではなく「バラバラ」でありましたな。(黒髪山神社)(佐保山西陵七つ石遺跡) 再び奈良自転車道に戻る。帰りは軽快な下りである。途中で国道24号に入り、近鉄新大宮駅へ。奈良市立一条高校の脇に日本最初の公開図書館芸亭伝承地の碑がある。 <参考> 芸亭伝承地(日本最初の公開図書館)(芸亭伝承地)
2010.03.10
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本日は大学同期のF君の声掛けで、F君、D君、Tni君、Tmu君、K君と小生の6名が集っての久しぶりの会食。ホテル日航大阪のロビーで待ち合わせ、地下の店で楽しく愉快なひと時を過ごしました。 声掛け人のF君は昨年某企業の役員を退任して、悠々自適の生活に入ったのであるが、久しぶりの来阪ということで、その呼びかけで小生以下5名が集ったという次第。 このF君、昨年の10月からブログを始めたというので、URLとハンドルネームを聴きだし、帰宅してから早速に覗かせていただき、ご挨拶コメントを入れて置いた。残念ながら、楽天ブログでないので「お友達登録」はできないのであるが、ブックマークに登録し、本ブログの「ホーム」のページに入口を表示するとともに、PCに「お気に入り」登録をして置いた。 ブログの内容はゴルフ・シングルプレーヤーらしく、ゴルフのことあれこれであり、この5年間ほどゴルフから遠ざかって居り、元々それ程ゴルフが好きでもなかった「けん家持」には、ちょっとお門違いの内容なのであるが、まあ、追々に、小生が混ぜ返してその他の記事も色々と書かせてみようか・・なんぞと思ったりもして居ります(笑)。 因みに、彼のハンドルネームは「楽老」であるので、今後はF君でなく、楽老氏または楽老君と呼ばせて貰うこととしよう。 <参考>楽老氏のブログ「ゴルフ浪漫街道・シングルへの道」 という訳で関連する写真は無いのであるが、難波駅から待ち合わせ場所のホテル日航大阪まで、ブラブラと御堂筋の一つ西の裏道を歩いて行ったので、途中にあった神社をアップして置きます。 ミナミを歩いていても、アメリカ村やそれらしき繁華街の写真でなく神社の写真である処が、いかにもヤカモチらしいのである(笑)(御津八幡神社) 万葉の頃、大阪市を中心とする広い地域が大伴氏の領地であったようで、難波津は、「三津」とか「大伴の御津」と呼ばれたのである。従って、この神社の名に「御津」とあるのも、家持と無関係ではないのであります。 おまけの写真。6日の我が先祖代々墓への墓参りの際の写真を二、三掲載して置きます。(墓からの眺め) 我が家の墓は生駒山系の山の裾、高台にある。だから眺めはよい。その分、墓参りは急坂を登ることとなり、「いい運動」にもなるのである。 上の写真中央のスタジアムは高校ラガーマン憧れの花園ラグビー場である。(同上) 上の写真、手前左手に近鉄瓢箪山駅が見える。遠景は大阪市内のビル街である。(ミモザの木) 墓参りのついでに、少し山裾の道を散策してみました。今日は「ミモザの日」にてもあれば、その際に撮ったミモザの写真も載せて置きましょう。 そう言えば、ホテル日航へ向かう道ですれ違った二人連れの女の子がミモザの花束を持っていました。誰かにプレゼントされたのでしょうな。バレンタインデーに続いてミモザデー、男には面倒な日がまた一つ増えてしまったようだ。(サンシュユ・山茱萸)<参考> サンシュユ
2010.03.08
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(承前) 昨日は平城京西市跡の犬養万葉歌碑で終りましたので、今日はそこからの出発です。(奈良自転車道<奈良西の京斑鳩自転車線>) この自転車道は北は秋篠川沿いに平城京公園に続き、磐之姫陵から鴻池運動公園に至り、南は富雄川沿いに法隆寺に至る、快適な自転車道である。ただ、サインが十分でなくルートを見失う箇所がいくつかある。それさえ改善して戴けたら申し分ないのだが。以前、友人の偐山頭火氏とも一緒に走っている道である。 平城京まで戻るか法隆寺まで行くか少し迷ったが法隆寺方向に進むことに。 その前に少し戻って秋篠川辺の平城京西市船着場跡を見て置きましょう。(西市船着場跡) 平城京など古代の都城には、京の南端近く朱雀大路を挟んで東西二ヶ所に、政府が管理する市場が設けられ、この市場に物資を運ぶため市に接して運河(東堀川、西堀川)が造られたという。秋篠川は平城京造営時に条坊に合せて直線化された人工河川で、西の堀川と呼ばれたとのこと。(船着場跡から見る秋篠川) (秋篠川辺の菜の花) (大和郡山市街路) 大和郡山市街に入り、少し市内を散策。先ず、目に入るのが火の見櫓である。(火見櫓) 「延宝8年(1680年)、郡山で大規模な火災があり、町屋670軒余りが焼失した。貞享3年(1686年)藩主本多忠平がこの火災を教訓に城下町の防火を進めるため堺町など4ヶ所に火見櫓を建てた。・・」と櫓の前の木札に書かれている。 (紺屋通り)(紺屋通りの町家)(外堀緑地南門) 外堀緑地は大和郡山城の外堀を利用した緑地公園である。(外堀緑地公園) 大和郡山城はパスして、近鉄郡山駅前から踏切を渡って西へ。(近鉄大和郡山駅)(駅前の交番) 真っ直ぐ道なりに西に行くと突き当りが矢田寺である。法隆寺は取り止めにし、矢田寺を目指すことに。そして帰りは富雄川を北上し、途中霊山寺で恩師のお墓参りをして、近鉄富雄駅まで走る、というコース設定に変更。(富雄川) この川沿いに走れば法隆寺への道。川を渡って直進すれば矢田寺への道である。直進すると道の左に常称寺がある。境内に生田伝八郎の墓がある。生田伝八郎のことはよくは知らぬが彼はこの寺で自刃して果てたとのこと。 <参考> 仇討崇禅寺馬場(常称寺)(生田伝八郎墓) 坂道を登ったり、下ったりしながら、更に行くと右手の小高い処に小さな祠が。何やら風情ある佇まいで鎮座ましますので、休憩を兼ねて立ち寄る。(南無飛龍大権現) 矢田寺への最後の坂道が見えて来た。傍らに由来は知らないが江戸時代の学者熊沢蕃山に所縁の石碑があった。 <参考>熊沢蕃山(矢田寺への道) (熊沢蕃山遺跡碑) 矢田寺山門まではひたすらの登り。寺詣でから帰るハイカーの団体さんが坂を下って来る。彼らに励まされて急登を漕いで登るが、あと少しの処で力尽き、自転車を降りる。殆ど息が上がっている(笑)。(矢田寺) この山門から九十九折りの階段をしっかり登ってやっと中心部に辿りつく。自転車を肩に担いで登る。 僧坊の間を行くと正面に本堂。写真の前を歩いている男性と本堂前で暫く談笑しました。地元の方のようで、階段を使わない道を教えて戴いたので、帰り道はそれを行くことにした。(本堂) 矢田寺は「アジサイの寺」として夙に有名で、アジサイの咲く頃の休日には大勢の参拝客で賑うが、この時期はひっそりとして、ただただ静かである。 大学の同級生のM君がこの寺の次男坊であるということを、卒業後の同期会で知らされたが、彼が子供の頃にはこの境内で遊んでいたのかと思うと何やら愉快である。 既に午後3時半を過ぎて4時近くになっている。「そろそろ帰るか。」 帰途は軽快に坂を下って、富雄川に出る。富雄川沿いに北へ走る。40分程で靈山寺霊園に到着。昨年秋以来ご無沙汰している中学時代の恩師(仲人でもあるのだが)の墓を訪ねる。本日は急な思い付きで線香の用意はないが、供花は事務所で販売しているので、それを買い求めて、墓前へ。 ( I先生のお墓 ) お墓参りを済ませると、もう5時を回っていました。再び富雄川に出て、近鉄富雄駅へ。 以上で今回の銀輪万葉は完結です。3日間もお付き合い戴き有難うございました。(富雄駅ホームからミモザの花が見えました。)
2010.03.07
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(承前) 西大寺山門を出て、山門(東門)前の道を南に向かう。程なく菅原の里に着く。菅原道真の生誕地と伝えられる菅原の里である。という訳で、先ず菅原天満宮にご挨拶に立ち寄る。 <参考>菅原天満宮ホームページ(菅原天満宮) 菅原天満宮では盆梅展をやっていたが入場料(写真右のボックスが臨時の入場受付所)が要るので、パス。受付前の人と暫くお話して退出。喜光寺へと向かう。(喜光寺・本堂) 生憎と境内は工事中で、工事車両と工事の人達で落ち着かない。まるで、工事現場に迷い込んだみたいである。本堂の南に面する山門が完成したばかりでピカピカの姿を見せていたが、工事仮設が残ったままなので撮影はせず。 この寺の本堂、何かに似ていませんか?そうです。大仏殿にそっくりなのです。喜光寺は養老5年(721年)行基によって創建された寺であるが、大仏殿はこの本堂を参考にして建てられたと伝えられている。元は菅原寺と呼ばれていたが、748年聖武天皇が参詣した際に、本尊が不思議な光明を放ったらしく、それを喜んで聖武天皇が喜光寺に改名させたとのこと。 境内は6月下旬から7月には200鉢余の蓮の花が咲き匂うのが楽しめるのであるが、今は何もない。 万葉歌碑を撮って(ピントが甘かった。)退散。(石川郎女万葉歌碑) 大き海の 水底(みなそこ)深く 思ひつつ 裳引き平(な)らしし 菅原の里 (万葉集巻20-4491 石川郎女)(大海の水底のように深くあなたのことを想って、裳裾を引いて道が平にならされてしまう程にもたび重ねて通った菅原の里であることです。しかし、それも今は昔のこと。) (注)作者石川郎女は藤原宿奈麻呂の妻。宿奈麻呂は藤原宇合の子。仲麻呂の乱 後に内大臣となっている。 喜光寺を出て国道308号を渡ると巨大古墳がある。垂仁天皇陵である。垂仁天皇は、実際の初代天皇とされる第10代・崇神天皇の三男。第11代天皇である。(垂仁天皇陵)(濠の中に陪塚がある。)(陪塚には鷺の群れが憩う。)(南西の田園から眺めるのもいい。) 陵の西側に回ると、濠に添うように小さな祠がありました。(平松町皇大神社)祭神 右社 上筒男命(うはつつのをのみこと) 住吉三神の一つですな。 盤長媛命(いはながひめのみこと) 木花咲耶姫の姉ですな。 大日靈貴命(おほひるめのむちのみこと) 天照大神のことですな。 (注)原文は、「靈」の字の巫の部分が女です。 天児屋根命(あめのこやねのみこと) 中臣氏の祖。藤原氏の氏神の一つですな。 左社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 宗像三女神の一つですな。 垂仁天皇陵から畑中の道を行くと唐招提寺、薬師寺へと至るが、本日はこれはパス。近鉄京都線の線路を左に見ながら一路、南へ。民家の並ぶ狭い路地をうねうね走っていると、こんもりした森が目に入ったので立ち寄ると、養天満宮という祠でした。(養天満宮社) 養(よう)天満宮社の森はツブラジイ、ナナメノキ、アラカシ、ネジキなどの高木の他、サカキ、カナメモチ、イヌビワ、ネザサ、ベニシダ、フユヅタ、ヤブコウジ、ジャノヒゲ、マンリョウ、サネカズラなどが織りなし住宅地の中では珍しく原始林的な森林形態を残しているのが貴重だとして、奈良市指定文化財ー天然記念物ーになっているとのことである。 養天満宮社の鳥居を出ると直ぐに近鉄線の踏切になっている。これを渡って南北の道に出て暫く行くと三叉路の辻に「曹洞宗三松寺」という石碑が立っていたので、右折してそれを目指す。(三松寺)(三松寺山門脇)(三松寺・本堂) 写真左に見えている石碑に近付いてよく見ると、それは道元禅師の歌碑でありました。川端康成がノーベル文学賞受賞記念講演で引用して有名になったあの歌が刻まれていました。 小生も気に入っている歌の一つでもあれば、この歌碑に出会えた偶然に謝してパチリ1枚。 (道元歌碑) 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり もとの三叉路に戻って、また南へ。近鉄九条駅前に着く。そこから東に行くと西の市跡で、そこには犬養先生の万葉歌碑があるので立ち寄ることに。(平城京西市跡) 西市は東市(奈良市杏町付近)と共に、平城京域内に設けられた日本最初の官営の市場である。(犬養万葉歌碑) 西)の市(いち)に ただ一人(ひとり)出(い)でて 目(め)並(なら)べず 買ひてし絹の 商(あき)じこりかも (万葉集巻7-1264)(西の市にたった一人で出掛けて、よく見比べもしないで買ってしまった絹の不良品め。) まだまだ、矢田寺に着きません。やっと大和郡山市内に入りましたが、本日はここまで。この後しばらく奈良自転車道を走りますが、明日またご一緒下さいませ。()
2010.03.06
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本日はトレンクル(軽量折りたたみ自転車)を持って、近鉄大和西大寺駅から、あちらこちらに立ち寄りながら、近鉄大和郡山駅経由、矢田寺を訪ね、帰途は富雄川沿いを走り、霊山寺霊園の恩師の墓にお参りし、近鉄富雄駅まで、というコースを銀輪散歩して参りました。 道中日記を2~3回に分けてアップすることといたします。およろしければどうぞご一緒に銀輪でお供下さいませ(笑)。 先日、三菱東京UFJ銀行大阪営業部からハガキが届き、何やら小生の銀行口座があっていくばくかの預金残高があるとのこと。そのような口座を開設していたことなどすっかり失念していたので、勿論通帳もキャッシュカードも行方不明。照会すると解約手続きは何処の支店でも出来るということなので、自宅最寄りの同行の駅前の支店で解約手続きを済ませる。ちょっとした小遣いが舞い込んだ次第(笑)。銀行を出て駅改札でトレンクルを収納バッグに入れ、近鉄瓢箪山駅ホームへ。 ホームの喫煙コーナーで煙草を吸っていると、男性がやって来て彼も一服。自然に会話が始まる。彼は72才。ミナミの歌舞伎座ウラの通りでスナックを経営していたようだが、今は奥さんが取り仕切って居り、彼は引退して遊んでいるとのこと。図書館で本を借りて読むのが楽しみとかで、今日も手にしている紙袋には沢山の本が入っている。図書館からの帰りだという。彼は若い頃は極道だったらしい。左手の小指が欠損している。賭博場での何やらの失態で指を詰めたらしい。しかし、今は人の好さそうな感じにて、昔の「やんちゃ」の影は微塵もない。それにしてもよく喋る「おっさん」だ(笑)。途中の駅で彼が降りたので、小生は暫し読書。(近鉄・大和西大寺駅) 西大寺駅に着いたら正午になっていたので、駅中のレストランでランチ。駅を出て、先ず西大寺へ。(喫茶店) 西大寺東門前の喫茶店。ここは色んな紅茶を飲ませてくれる。昔、読書会の人達と入ったことがある。(西大寺・石落神社) 西大寺境内の飛び地で、西大寺中興の祖、叡尊によって仁治3年(1242年)に、西大寺の鎮守社として祀られたのが始まりとのこと。本殿建物は室町時代中頃の築造と見られるが、建物正面に階段を設けず一面に床を張る、見世棚造になっている。 西大寺は東大寺に対する名称であるが、大仏で有名な東大寺ほどには知られていない。大茶盛のお寺と言えば「ああ、あの寺」という人も多いかも知れない。 この寺は孝謙天皇(聖武天皇の娘、藤原仲麻呂の乱の後に重祚して称徳天皇)の発願で建立された南都七大寺の一つである。真言律宗の総本山である。(西大寺・本堂、右側の石積みは東塔跡) 本堂は重要文化財。文化5年(1808年)再建。本尊の釈迦如来立像(重要文化財)は建長元年(1249年)仏師善慶作。(四王金堂) 延宝2年(1674年)再建。十一面観音立像(重文、平安時代後期の作)、四天王立像(重文)が安置されている。四天王像は、藤原仲麻呂の乱の平定を願って、孝謙上皇発願のものであるが、当時のまま残るのは足下の邪鬼のみで立像は後世作のもの。(護摩堂)(愛染堂) 宝暦12年(1762年)に京都御所の近衛公政所を移築したもの。愛染明王坐像(重文)、興正菩薩坐像(西大寺中興の祖、叡尊の肖像彫刻)を安置。 (鐘楼) (天武天皇夢見桜) 鐘楼は、奈良市指定文化財。幕末または明治初期に摂津の多田院から移築されたものとか。多田院は寛文年間(1661~73年)に再建されているから、その時にこの鐘楼も建立されたものと考えられている。(寺山大師堂)(境内の梅)(孝謙天皇歌碑) この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり (万葉集巻19-4268 孝謙天皇)(この里は霜が降り続くのでしょうか。私が夏に見た野の草がすっかり黄葉している。)(百萬古柳) 謡曲「百萬」(世阿弥元清作)に出て来るお話。百萬という女性(女曲舞)が西大寺念仏会に詣でた際に古柳の付近で我が子とはぐれてしまい、八方手を尽して探すが見つからないで狂女となってしまう。しかし嵯峨清涼寺の大念仏会にて再会、仏の加護、法力に感謝して共に都に帰るという話。その古柳がこれであるとのこと。(山門) 例に寄って、予想以上にアップに手間取りました。西大寺で本日は夜も更けてしまいました。続きはまた明日。おやすみなさいませ。
2010.03.05
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偐万葉・雑詠篇 本日は雨。偐万葉・雑詠篇とします。 今回掲載するのは、楽天ブログを開設されていましたが、ながらく更新のない方や楽天ブログ以外でブログを開設されているなどから、訪問がつい間遠になってしまい、書き込み和歌の数もそれほど増えて来ない方々の分であります。 〇偐家持がビター朝臣c麻呂(びたーのあそんしーまろ)に贈りて詠める歌2首薄(すすき)原 朝風寒し 浅間山 雪の降るらむ 雲立ちなびく上田城 堀の跡道 もみぢ葉に 秋の日照れり 散らまく惜しも (写真はビターc氏のブログからの転載) (注)ビターc氏は偐万葉田舎家持歌集を最初にお気に入りに ご登録戴いた方ですが、昨年11月21日の記事を最後に更新 がありません。 <参考>偐万葉・ビターc篇(その1) (その2) ビターc氏のブログ入口 〇偐家持がきんくん氏に贈りて詠める歌5首我が屋戸の 胡蝶の蘭の 花咲きて 幼き我に 祖母の笑むらし蒼波(さうは)越え 来たるや蝶(てふ)の 花咲けば いづちや人に 恋ふらむ我は我背子は いかにやおはす うたたねの 夢の名残りの 未(ま)だ消えなくに赤き実の 数多(さは)にぞなりて 珈琲の 色つややかに 秋深みけるみかん色 したる中也の 夕日落つ 長門峡(ちやうもんきやう)の 冬も見が欲し (注)きんくん氏のブログは能(謡曲)、文学、歴史など広範囲に及ぶ 蘊蓄の深い記事が一杯です。 <参考> きんくん氏のブログ入口 〇偐家持がスギゴンの郎女に贈りて詠める歌6首 並びに郎女の返せる歌4首春浅き 夜寒の風や 月冴えて 梅の花咲く ほの明かり道一服の 茶にも幸せ あるならん 覚めゆく春の 朝のすがしきふたりゆく 道の幸(さ)きけと 春の風 やはらに吹きて 日もや照りたり 返歌 春の日の 光育(はぐく)くむ 桜木(さくらぎ)の 咲きて永遠(とは)にぞ 花をさかせむいづくにや 花の咲くらむ 沈丁花 甘き香のして さ夜更けぬらし 上の歌は次の郎女の歌に追和せしものなり。 春の日の 光のどけき 山の上(へ)に 風のそよげば 花の香(か)ぞする春雨の しくしく降れば 木(こ)の暗(くれ)を 鳴き渡りゆく 鶯の声 返歌 ふるさとを 偲(しの)ぶる宵の 村雨に 濡れてや来つる 山ほととぎすわが庭の 草に消(け)のこる 朝露の 玉とやこぼる 秋の風吹く 返歌 野の風の 清き夕べに 虫の音の 澄み冴え聞こゆ 秋の訪れ (注)スギゴンさんも偐万葉田舎家持歌集をお気に入りにご登録いた だいて居りましたが、この処ご訪問もなく、彼女のブログもながら く更新がありません。 〇偐家持がブンブンサリエリ氏に贈りて詠める歌4首紫の 咲かせる花の 散るきはみ サリぬる人の エリや染めぬる飽かでもや 日ごと夜ごとの 深読みに 知らでいつしか 我も染むらん背子のゆく 雲の通ひ路 いかにとや 知らじな我は 葦の間ぞゆくすずやかに 生きてすずしく 逝きにける 人のありけり 我が義父(ちち)なれり (偐サリエリ) (注)ブンブンサリエリ氏は源氏物語論を詳細に展開されて居ります。 <参考> ブンブンサリエリ氏のブログ 以下は、通りすがり的に訪問し、歌を書き込んだものであるのか、PCのメモ帖に歌が残るばかりにて、各氏のブログのことはよくは分かりません。 〇偐家持が北の詩人氏に贈りて詠める歌春の水 諸行無常の 川流れ 岸辺に芽吹く さみどりの色 (注)上3句は北の詩人氏作の俳句です。 〇偐家持がやすっぺ09氏に贈りて詠める歌さ夜更けて 微塵(みじん)の光 津々(しんしん)と 降り来や我に 高々の月 〇偐家持がsanntaro-氏に贈りて詠める歌我が屋前(には)の 熟柿(じゅくし)に来たる 野つ鳥の 声に光れる 雪野の朝は (写真はsantaro-氏のブログからの転載) 〇偐家持がhiryu4398氏に贈りて詠める歌氷雨降る 朝は手袋 買ひて行く をのこやひとり 踏む石畳 (写真はhiryu4398氏のブログからの転載)
2010.03.04
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今日は3月3日桃の節句・雛祭。まあ、偐家持には関係のない祭なので、パス。今日は「囲碁の会」の日にて、天気も好いようなので、いつものように自転車で梅田へ。朝10時3分に自宅を出発。ひたすら西へ。途中から中央大通りを走る。交差点で信号が赤になると当然信号待ちでストップするのだが日によってやたら赤にぶつかる時と青でスイスイ行ける時がある。今日は比較的スイスイの方でありました。赤信号待ちの間に近くに神社があったので、覗いてみると春日神社でした。奈良の春日大社の末社なんだろうが、このような春日神社よく見かけますが、全国にどれ位あるのでしょう。 カスガは「カ・スガ」で「カ・スカ」と同じ。明日香の「アスカ」も「ア・スカ」で元々が同じもの。蘇我氏の「ソガ」も「ソカ」で「スカ」の変形したもの。何かの本でどなたかが指摘しておられたと記憶しますが、詳しいことは忘れてしまった。「スカ」が何を意味していると仰っていたかも忘れました。書斎の本棚を探せば、その論考の書物が何処かにあるのだろうが、面倒なので今はこれもパス。(春日神社) 中央大通りと今里筋とが交差する地点が緑橋交差点である。緑橋交差点から200m位東、中央大通り南側にある店が、小生と同じ小学校出身のマスターが居る店である。以前たまたま囲碁に行く途中に昼食に立ち寄って、マスターとの会話でそうだと知ったのであるが、店の名前を直ぐに忘れてしまう。で、今日は店先を写真に撮って置くことにした。もっとも、今日は店の前で時計を見たら10時57分であったので、昼食には早過ぎる時間にてやはりパス。(店の名は「月」でした。) 大阪城、大阪天満宮、天神橋商店街経由、国道1号に出て、西天満交差点近くの店で昼食。 天神橋商店街は日本一長い商店街だそうですが、商店街の入り口にはこのような文楽人形の飾り付け(写真下右)があるのですな。今日初めて気が付きました。 なお、日本一短い商店街というのも、大阪市北区の肥後橋近くだったかにありますが、これは本当に日本一短いのかどうか?大阪人の洒落のような気がするのだが・・(笑)。 (天神橋商店街) (アーケードの飾り) 元の勤務先に立ち寄り、後輩たち(N君、T君、Ni君、M君、O君、K君ら。法務部長のN君から昨年入社の新入法務部員にして弁護士でもあるH君を紹介されたが、なかなかの好青年であった。)と暫し歓談し、囲碁会場へ。 本日はT氏、F氏、Ar氏、Ao氏ともう一人お名前をド忘れしたX氏と小生の6名。小生は先ずAo氏と1局、Ar氏と2局して、3戦3勝でした。
2010.03.03
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(承前) 竹内(たけのうち)街道に入る。() 竹内街道は言わば古代の国道1号線であり、中国、朝鮮からの大陸文明は九州・瀬戸内海を通り、難波津からこの道を経て大和・明日香へと入ったのである。その意味でシルクロードの終点の道でもある。 日本書紀・推古天皇21年(613年)11月の条に「難波(なには)より京(みやこ)に至るまでに大道(おほぢ)を置く。」とあるのがそれである。(竹内街道) 現在の竹内街道は堺市から河内平野を東に向かい、二上山の南の竹内峠を越えて奈良県当麻町(現、葛城市)の長尾神社に至る約26kmの街道であるが、それは、ほぼこの「大道」と重なっている。「大道」は金岡(堺市)から北に向かい難波津に至るのである。 この道が「シルクロードの終着点・外交の道」として重要な役割を担ったのは都が明日香、藤原京にあった時代までで、都が平城京に移って後は、その役割は龍田越えの龍田道にとって代わられる。 しかし、聖徳太子信仰の隆盛とともに叡福寺がその霊場となり、「太子信仰の道」となり、中世末には自治都市堺と大和を結ぶ「経済の道」として脚光を浴び、江戸時代に入ると、太子信仰に加えて、伊勢参り、長谷寺詣で、大峰山修行の、庶民の「宗教の道」として栄えることとなる。 (竹内街道) 旧道は古い民家もあってなかなか風情のある道である。今回はMTBなので山登りは無理であるが、トレンクルなら肩に担いで二上山に登ってみてもいい位な気になる。 先ず、聖徳太子の父親である用明天皇の御陵に立ち寄る。(用明天皇陵) 再び竹内街道に戻って、更に坂を登る。古道ならではのこのような古い民家のあるのもいい。土日祝日には一般公開されているようだが、今回は入場せず先へ進むことに。(国登録文化財・旧山本家住宅) 更に登ると孝徳天皇陵である。孝徳天皇(軽皇子(かるのみこ))は、天智天皇(中大兄皇子)の母・宝皇女(たからのひめみこ)(皇極天皇・斉明天皇)の弟で、大化改新後に天皇位に即くが、中大兄皇子らと対立、孤立し、病死してしまう、いささか悲劇的な天皇なのである。そんな訳でもあるか、孝徳陵はそっぽを向いて居り、正面からは拝することのできない形になっている。何やら象徴的であり、悶死した彼を偲ばせる、と感ずると言えば、こじつけの深読みですかな(笑)。(孝徳天皇陵) (竹内街道歴史資料館) 孝徳陵から少し東に「竹内街道歴史資料館」がある。 入場するのは2回目であるが、竹内街道の今昔を分り易く解説展示しているので、お薦めです。資料館を出て推古天皇陵へ向う。 推古天皇陵は推古天皇と竹田皇子とが合葬されている。竹田皇子(たけだのみこ)は敏達天皇と豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)(額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)、後の推古天皇)との間の皇子であるが病弱であったようで、若くして亡くなっている。推古は息子の「竹田皇子の陵に葬るべし」と遺詔していた(日本書紀・推古天皇36年9月条)ので、これに合葬されたのである。(推古天皇陵) (小野妹子墓参道) 推古天皇陵を後にし、御陵前バス停から東へ再び坂を登る。突き当りが科長(しなが)神社(じんじゃ)、小野妹子墓である。(小野妹子墓)(科長神社) 最後は、最西端、最も低い位置にある、敏達天皇陵へと坂道を一気に下る。 敏達天皇陵も、彼の妻と息子の墓よりも低い処にありますな(笑)。 この陵も敏達天皇の母、石姫皇女(いしひめのひめみこ)(欽明天皇の皇后)との合葬である。聖徳太子も推古天皇も同様だから、この頃は母と子の合葬が流行していたということですかな(笑)。(敏達天皇陵) 敏達天皇陵を出て帰途に。もう一つ予定していた蘇我倉山田石川麻呂の墓があるという仏陀寺をやり過ごしてしまったことに気付いたが再び坂道を登る気力はなく、後日の楽しみとすることに。 帰りは仏眼寺橋バス停付近から太井川沿いの道を走り、太井川バス停で左折し河南橋への道を西に向かう。河南橋で石川河川敷の自転車道に入り、大和川を渡った後は恒例の通り、恩智川沿いの道を取る。 外環状道路と恩智川が交差する地点の少し手前、右岸に、よく立ち寄る喫茶店がある。珈琲が飲みたくなったので立ち寄った。店に入って席に着こうとしていたら、3~4人連れの女性客が勘定を済ませて店を出る処であった。その中の一人の女性が、小生の方を見ながら、「この人、見たことあるわ。お名前は知らないけれど。」とのたまう。 小生「お会いしたことありましたですか?ここへは何度か来ていますから、その時にお目に掛かっているのですかねェ。」 女性「こんにちは。」小生「ああ、どうも、こんにちは。」 まあ、それだけの話で女性達は店を出て行ったのであるが、彼女は誰かと人違いをしたのだろうか。今日は妙なことがよくある。 喫茶店で隣のテーブルに独りで居る白髪の男性に「ご近所の方ですか?」と声を掛け、世間話を始める。彼は77歳。70歳まで青少年センターで働いていたとか。 男性「ところで、あなたは学生さん?」 小生「??。(この人は目がお悪いのだろうか。)いや、僕はもう○才ですよ。」 男性「ええっ!それは・・。」と困惑顔。店の方も笑って居られる。 自転車スタイルだから若くは見えるのかも知れぬが「学生さん」はないだろう。やっぱり今日は朝から変だ(笑)。早く家に帰ろう。「お気を付けて。」女主人の声を背に店を出て、家路に。 花園中央公園経由で帰宅したら、午後5時を少し回っていた。
2010.03.01
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昨日の続きです。 昼食を済ませて広い道路を東へ。もう富田林市から太子町へ入ったようだ。梅川という小川を渡った次の辻を左折し北へ。うっかり通り過ぎてしまった河南橋から続く東西の道路に戻り、右折。東へ。この道を行けば自ずと叡福寺、竹内街道に行き着くのである。 叡福寺( えいふくじ)は、磯長山(しながさん)と号し、寺伝によると推古天皇30年(622年)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのがその始まりで、神亀元年(724年)聖武天皇の勅願によって伽藍が造営されたとのこと。当時は法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺(てんぽうりんじ)、西の伽藍を叡福寺と称したとのこと。四天王寺、法隆寺と並んで、聖徳太子信仰の中核をなした寺院である。 八尾市の大聖勝軍寺の「下の太子」、羽曳野市の野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称される。(叡福寺) 写真右下に聖徳太子が居られますが、これは太子町の至る処に見られる標識である。(ゆるキャラ太子かな?) では、叡福寺境内をご案内いたしましょう。(南大門) 天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建。腐朽のため昭和33年再々建された。左右に金剛力士像。奥一直線に御廟が見える。(ニ天門) ニ天<写真下>が祀られている。元禄元年(1688年)河内国丹南藩主・高木主水正が、回廊、上の御堂、鐘楼などと一緒に寄進した。(「古事類苑」) (御廟) 聖徳太子廟(磯長墓)。 聖徳太子、その生母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后、その妃・膳部大郎女(かしはでのおほいらつめ)の3人が合葬されている。そんなところから三骨一廟と呼ばれる。墓前には、空海、親鸞、()良忍()、一遍、日蓮、証空()など多くの名僧が参籠している。(上の御堂) 聖徳太子35歳像が祀られている。(浄土堂) 慶長2年(1597年)、伊藤加賀守秀盛による再建。ご本尊は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊。(経堂) 六角形の建物。写経が納められている。(見真大師堂) 明治45年建立。本尊は親鸞聖人坐像。(金堂) 大阪府指定文化財。享保17年(1732年)再建。本尊は如意輪観音坐像、脇侍は不動明王と愛染明王。聖徳太子の本地は観世音菩薩であるとする平安時代以来の信仰によるものとか。(多宝塔) 重要文化財。承応元年(1652年)江戸の三谷三九郎による再建。(聖霊殿) 重要文化財。太子堂とも呼ばれ、聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られている。16歳像は、後鳥羽天皇が文治3年(1187年)、宮中にあったものを下賜されたもの。(聖霊殿前の梅と椿) 万葉集と聖徳太子。一見無関係のようですが、聖徳太子の歌(勿論、本人作という保証は何もないのではあるが)も収められているのであります。 上宮の聖徳太子、竹原井(たかはらのゐ)に出遊(いでま)しし時、龍田山の死(みまか)りし 人を見て悲傷(かなし)みて作りませる御歌一首 家にあらば 妹が手まかむ 草まくら 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (巻3-415) この竹原井というのは大阪府柏原市にある現在の石神社の近くにあったらしいです。(何かの本でそう書かれていたのを読んだ記憶がありますな。) それかあらぬか、叡福寺の門前の片隅に万葉歌碑がありました。 (万葉歌碑) 碑に掲載の歌は、弟、大津皇子を二上山に移し葬った時に、姉の大伯皇女が悲しんで作った次の歌でありました。 (けん家持の手が写ってしまっていたのは計算外でした。) うつそみの 人なる吾(われ)や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 兄弟(いろせ)とわが見む (大伯皇女(おほくのひめみこ) 巻2-165) 万葉集には、同時に作られた歌がもう1首掲載されていますな。いづれの歌も高校の国語の授業でA先生(女性)が涙を流しながら朗唱されたものであり、けん家持が万葉集に興味を引かれた原因をなす歌の一つでもあります。 されば、もう一つの歌もここに記しておきましょう。 磯の上に 生(お)ふるあしびを 手折(たを)らめど 見すべき君が ありといはなくに (大伯皇女 巻2-166) 因みに165番の歌は二上山を挟んで奈良県側にも歌碑がありますが、大伯(大来)皇女は大和(明日香)の方から二上山を眺めてこの歌を詠んだのであってみれば、奈良県側に勝ち点が入りますな。 さて、叡福寺に長居をし過ぎました。先を急ぎましょう。ゆっくり登り坂をゆくと、右手に太子町役場(写真下)が見えて来て、それを過ぎると六枚橋三叉路に突き当たる。それを右にとると、日本最初の官道、竹内街道に入る。ここからは、延々と続く、しかも、かなりしっかりした登り坂となり、負荷が大きくなって来る。(太子町役場) いよいよ竹内街道に入り、天皇陵などを廻るのであるが、ここで少し休憩します。続きはまた明日。乞うご期待(笑)。たかが日帰りの銀輪散歩で3回にも分割して引っ張るのは、やり過ぎですかな?(笑)
2010.03.01
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