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一昨日(5月28日)は、大学同期との会食があり、心斎橋まで出掛けて来ました。出席者は、守麻呂(元銀行)、佐麻呂(元銀行)、宅郎女(弁護士)、文麻呂(府会議員)、黒麻呂(元大阪府庁)、広麻呂(元銀行)、前麻呂(元旅行社)、古麻呂(大学教授・元法務官僚)、中麻呂(元警察官僚)、谷麻呂(元航空会社)、道麻呂(元商社)とけん家持の12名。多くが「元○○」で、現役は12名中3名。勿論、けん家持も元○○のグループである。 次回は11月19日、心斎橋の大成閣(大阪市中央区東心斎橋1丁目18-12)にて、午後6時からです。楽浪さん、次回は出席してね(笑)。その他、同期のみなさん、もしこのページをご覧になられましたら、当日は予定を空けて置いて下さい。(枚岡梅林の梅の実・・記事と無関係です。本日の散歩から。) 昨日(5月29日)は、大槻能楽堂の第490回自主公演能(午後2時開演)を観賞して来ました。演目は「朝長」。 <参考> 大槻能楽堂公式サイト 開演に先立って、万葉学者で文化功労者の中西進先生の解説がありました。 朝長は源朝長のことで、源義朝の第2子である。兄が悪源太義平、弟が頼朝、義経である。平安末期、公家政治から武家政治へと転換してゆく時代、平治の乱で敗れた義朝は息子達と東国へと落ち延びようとするが、傷を負った朝長は、足手まといになることを憂え自害する。 能のあらすじは、「嵯峨清涼寺の僧が朝長が自害したと聞き、亡き跡を弔うため、青墓の宿へとやって来る。朝長の墓前で弔っているところへ、青墓の宿の長者が現れ、共に朝長の死を悼み、僧を伴って宿へと帰る。僧が観音懺法によって弔うと、朝長の霊が現れ、弔いに感謝し、修羅道の苦しみを述べ、自害の有様を見せ、回向を頼んで消え失せる。」というもの。 青墓というのは今の大垣市青墓町のこと。また訪ねてみたい場所ができました(笑)。<参考> 源朝長 平治の乱
2010.05.30
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偐万葉・真澄篇(その7) 偐万葉シリーズ第60弾、偐万葉・真澄篇(その7)をお届けします。 本日は、真澄さんの楽しい絵と偐家持の和歌とのコラボレーションを、どうぞお楽しみ下さいませ。<参考>真澄さんのブログ入口 偐万葉・真澄篇入口 (1) (2) (3) (4) (5) (6) 偐家持が真澄郎女に贈りて詠める歌24首並びに俳句1句夜桜の ほの明かりたる 春の苑 こころなまめき いも寝(ぬ)らめやも (艶家持) ひどろいで 蝶も木の暗(くれ) 求むらむ しばしまどろむ 春の日の午後 (午睡家持)もたれなくも ころぶことあり ヤカモチの 背中の骨の 五本折れたり (転倒家持) ほのほのと 昇りゆくらし 蛍火の 淡き光の 恋と知らなく (初恋家持)さをとめの 花の宴(うたげ)ぞ 咲き満ちて 頬うすべにの 色に染むらむ (ほろ酔い家持) 花びらを 浮かべ飲み干す 桜酒 散りな急ぎそ ゆるり参らう (花盃家持)花雲の 衣なびかせ 春風の 天津乙女は 空渡るらし (風家持) 咲き満ちて 照れる月夜の さや風に 揺れて妖しき 山桜花 (夜桜家持)道草も 咲きて少女(をとめ)を 誘ふらし 西日暮里の 春たけぬれば (日暮家持) 少女(をとめ)らも 三々五々の 花の暮 (花蕪蕉)どんとまた 出でたる我は CGの 初お目見得の 姫にぞあれり (CG家持)羽衣を いづち忘れむ あまをとめ 花の衣は 裁(た)ちがてぬかも (羽衣家持) 水色の 空に波立ち 桜花 咲きてやはらに 風とや遊べ (戯家持)月讀(つくよみ)の しづくに濡れて 白龍の 妻なる吾(われ)や 白々(しらじら)咲かむ (白椿姫) 白(しら)椿(つばき) 咲ける月夜(つくよ)は 亡き人に 魂(たま)あくがれて 空渡るらし(魂(たま)家持)よさこいは ぽんとはじけて 花開く 踊り念仏 ならなくあれど (踊狂家持) 美しき をみなにはあれ 吾(われ)はしも クレオパトラに あらなくあれば (クビマキシテラ)念ずれど 咲かぬ花もや ありぬらむ それもよしとし するが花なれ (蕾家持) 地は燃えて 人も熱くや なりぬらむ 熱くなりてぞ 秋も知らるれ (秋家持)三味(しゃみ)つがへ をみなのひとり 行く道は やはずえんどう 咲きてぞありぬ (矢筈の姉御) 蝶と咲く 花にありけり はなみづき 咲きてこの手に とまれかしとぞタンポポの 真綿の願ひ 少女らは 春の風にや 乗せて吹くらむ カラカラと 矢車鳴るや 鯉の空 見上げて花の あまた咲きたり春の宵 ポンと鼓の 音のして やがてこくりの 夢幻なりけり (幻家持) 酔(え)ひの夢 とよのあかりの 夏の夜は あまつをとめの 来たりて舞ひぬ (宴家持)<注>掲載の絵画は全て真澄さんのブログからの転載です。
2010.05.27
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腹痛があって体調がもひとつ、ということなどもあって、気が付けばブログの更新ないまま1週間が経っていました。 腹痛は未だありますが、病院で処方して戴いた薬が効いたのか痛みは軽くなりました。という訳で本日は銀輪花遍路です。 先ずは智麻呂氏の愛するアヤメです。園芸品種が多くある他、外来のアイリスなどアヤメ科の花も沢山入って来ていて紛らわしくなってますが、本来のアヤメはこのようにすっと潔い立ち姿なのである。(あやめ)むらさきの 蝶にあるらし 花あやめ 群れ咲き渡れ さみどりの川 (偐家持) アヤメとカキツバタの見分け方。 花弁の付け根部分に上のような綾目模様があるのがアヤメ。カキツバタはこの部分が黄色で模様がない。五月雨に 沼の石垣 水こえて いづれかあやめ 引きぞわづらふ (源平盛衰記巻16 源頼政) 五月雨に 沢辺の真菰 水越えて いづれあやめと 引きぞわづらふ (太平記巻21 源頼政)(カキツバタ)(コデマリ)こでまりの 降り積む雪の 消ぬべくも あらなく恋の またも繁けき (偐家持)(ハマナス)浜茄子の 花咲きぬれど 川の辺は やがても深き 夕映えの色 (偐家持) 花ばかりでは銀輪散歩らしくないので、ポプラ並木もご覧下さい。妹と来し はしき青葉の この道を なほしぞ行かめ 五月の風と (偐家持) (ポプラ並木) 次はナヨクサフジやカラスノエンドウ(ヤハズエンドウ)に似てはいるのだが、ちょっと違う花。何という名かは知らないけれど、道の辺に可憐に咲いていました。 そして花というもをこがましい、群れては風に揺れてある、これも亦名も知らぬ道の辺の草。光の粉の散り敷きたるにやあらむ。夕風に 恋ふとしあらね さらさらと 流れゆくらし 光の砂は (偐家持)
2010.05.25
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偐万葉・ひろろ篇(その4) 恒例の偐万葉シリーズ、第59弾。本日は「ひろろ篇(その4)」であります。ひろろさんの素敵な絵にあやかっての偐家持の歌も併せお楽しみ下さいませ。 <ひろろさんのブログ 入口> 偐家持がひろろの郎女に贈りて詠める歌20首、俳句1句 並びにひろろの郎女の返しける歌3首わが背子の メールなるらし 夕されば 相見む場所の 下延(したは)への音 (デートの娘子) ランタンの 遠き旅路や 鬼燈(ほほづき)と 浅き夢見の 窓辺なるらしカランコエ 咲きて明日(あす)はも 小品展 春の磐梯 連れても行かむ (偐ひろろ) 沈丁花 今年も咲きぬ こっちゃんも ひとつ大きく なりて春なりこっちゃんの 笑みし春なり 沈丁花 (筆蕪蕉) 磐梯の 山は真白き 雪装(よそ)ひ 春待つらむか 青き大空 もやひ船 白きたゆたひ ひたひたと 朝のみなとは 春の色なり ふきのたふ 芽吹く土の香 ほこほこと 野に菜の花も 咲ける春なり さっちゃんも 鳩にまじれば 鳩ならし はしゃげる声に 桃の花咲く ひろろの郎女の返しける歌 駆け回る 小(ちひ)さき手より こぼるる餌(ゑ) 首かしげ食(は)む 春の群れ鳩 磐梯の 雪し来(く)らしも 苔生(む)せる 岩間に走る 水は光れりサクラ草 ひとつ咲きたり 苔玉に 今は春べと ひとつ咲きたり ひろろの郎女の贈り来たりける歌 をりをりに 掲ぐるフォトの うつくしき 添ひたるうたも またうつくしき うすべにの 花を窓辺に 置く朝は 墓参(ぼさん)の日なり 父母(ちちはは)思(も)はるわが里に 花は咲きたり みちのくの 会津の丘に 咲かまくはのち (貼付天皇)見る人の なけれ野の花 それぞれの 春や咲くらむ それぞれ愛(は)しき光追ひ 妹や行くらむ みちのくの 花の春はも 近付きにけり ひろろの郎女の返しける歌 木漏れ日が ボーダー柄なす やまみちの すれちがひびと ブナ森に消ゆはれの日は レディーとなれる わらはめも めかして小首 かしげたりけり (家持幼稚園) をみくじの 中味はしらず 桜木の 枝垂れに結ぶ 思ひぞ重し (たいがいにせい堀川)やうやうに 雪も止みたり 朝晴れて 吾(われ)ふたたびの 春踏み出さむ 春の宵 うすきむらさき リラ冷えの 空より星の 雫(しづく)降りしく (満天星リラ持)みちのくの かぜまとひつつ をとめらは 青葉通りへ ふみ行くならむ 見が欲しき きみし来たるや 五月雨に 濡れて弾けて 墨田の花火 <過去の偐万葉・ひろろ篇の入口> (その1) (その2) (その3) (注)絵画・写真は全てひろろさんのブログからの転載です。
2010.05.17
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(承前) 磯部神社を出て磯部川に沿って北西に走る。途中で川とお別れして集落の中の道へと入る。恵利原(えりはら)という地区の辺りで何やら懐かしい風景に出合う。こういう建物を見ると何故懐かしくなるのでしょう。(えりはら地区)(後方の山の上に見えるのが志摩ロッジの建物) 集落を出た辺りで磯部川を挟んで向かいに大きなお堂の屋根が目に入る。目指す池渓寺のようだ。その裏の山の上に見えるのが国民宿舎志摩ロッジの建物だろう。さすれば、鸚鵡岩はこの山の上にあるのだ。(池渓寺) 池渓寺(ちけいじ)は曹洞宗のお寺です。この寺の前の道(写真左の車の見える道)を登って行く。結構な坂道にて途中で息が上がり、自転車を押して上ることに。程なく眼下に磯部の町の眺望が開ける。(展望台への道からの眺め、来た道が眼下に。) 志摩ロッジの横に展望台への石段の登り口がある。自販機でお茶を買ってから、自転車を担いで登る。展望台からの眺望は素晴らしい。ゆっくりタバコを一服。(鸚鵡岩展望台)(鸚鵡岩展望台からの眺望)(同上) 高さ約49m、幅約127mの巨大な石英岩質の一枚岩がおうむ岩と呼ばれるものです。この岩には実に不思議な現象が起こります。それはここから130m程登った「語り場」と呼ばれる場所で発した音が更に40m程登った鸚鵡岩の前にある「聞き場」と呼ばれる場所に立つと、あたかも岩から音を発している様に聞こえると伝えられています。 このことを発見した由来は、元禄時代のころ、あるとき山中を歩いていた二人の者がこの岩の下で休憩を取り、談笑していたところ、岩の中から声が聞こえて来るので大変驚き、山の霊の仕業とおののき恐れ、逃げ帰ってしまいました。そしてこの話を聞いた勇気ある者達が幾度か試すうち、ついに岩の反響による出来事だということを発見しました。そしてこの岩を「物いう岩」と呼ぶようになり、後に鸚鵡が人真似をすることにちなんで鸚鵡岩と名付けられました。(鸚鵡岩登り口の説明板より)(聞き場)(語り場) 「語り場」での声を「聞き場」で聞くと岩から声が聞こえて来るように感じるとのことだが、ひとりでは実験の仕様がありませんな(笑)。 山を下りて再び池渓寺の前に戻り、伊雑宮へ向かうことに。伊雑宮は伊勢神宮の別宮にして、志摩の国の一之宮でもある。 小生が到着した時にはビジネススーツを着込んだ若い男女の団体さんがぞろぞろと神社から出て来るところ。観光バス3台を連ねての参詣であるが、新入社員研修にしては少し時期が遅いようにも思われるが、そんな雰囲気の集団である。 <参考 伊雑宮>(伊雑宮・正殿)(神社の杜) 決して広くはない境内であるが、杜の巨木がいかにも伊勢神宮の別宮という雰囲気を醸している。 日本書紀垂仁天皇25年3月条に、倭姫が伊勢の国までやって来た時に天照大神が「是の神風の伊勢の国は、常世の波の重波帰する国なり。傍国のうまし国なり。是の国に居らむと欲ふ。」と告げたので、これに従って伊勢の国に祠を立てた、とあるのが伊勢皇大神宮の起源説話ですが、大和勢力が何故伊勢の国に祖先神を祀る神社を建てたのかは疑問とされる処で諸説あるようです。 継体天皇の跡目争いで、尾張連草香の娘・目子媛を母とする安閑、宣化と仁賢天皇の娘・手白香皇女を母とする欽明の対立があり、欽明系は東方への通路として伊勢から海上でという路線を必要とし、大和と伊勢の結び付きが強まったことなどが影響しているというのが一つの有力な解釈のようです。(これは何の木?) 伊雑宮にお別れし、近鉄上ノ郷駅へ。無人駅にて人影もなし。それでも1時間に2本電車があるから「まあ、よし」である。ホームの上でトレンクルをたたんでキャリーケース(バッグ)に収納する。(上之郷駅) ホームにあるのはヤカモチのザック(右)と自転車を収納したバッグ(左)である。電車待ちの退屈しのぎに撮ってみました(笑)。風もさやかに吹いている。今日は好い天気だ(笑)。 電車に乗る時はこの形です。 銀輪散歩する時は、バッグ(袋)をたたんでザックに詰めて背負い、自転車を走らせます。 これがトレイン&バイシクル(つまり、トレンクル)の旅のスタイルなのであります。 これで伊勢志摩銀輪散歩は完結であります。伊勢市駅から特急に乗り換えて大阪の鶴橋まで帰りました。もっとも鶴橋駅から自宅までは、また自転車で走りましたが(笑)。今回も銀輪散歩にお付き合い戴き有難うございました。 最後に銀輪万葉らしく大伴家持の歌で締めくくることといたします。 御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船尓乗而 奥部榜所見御食(みけ)つ国 志摩(しま)の海人(あま)ならし 真(ま)熊野(くまの)の 小舟(をぶね)に乗(の)りて 沖(おき)辺(へ)漕ぐ見ゆ (巻6-1033 大伴家持)(天皇のお食事の材料を奉る国である志摩の国の海人であるらしい。熊野の小舟に乗って、沖の方を漕いでいるのが見える。)
2010.05.15
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(承前) 灯台から小道を下って来ると波切漁港の手前に仙遊寺という寺がある。九鬼水軍の菩提寺である。(仙遊寺)(波切(なぎり)神社)<参考 波切神社> 大わらじ祭 昔、大王崎の沖に、ダンダラ法師と言う一つ目の巨人が住んでいました。この巨人、海は荒らす、村の娘はさらっていくと、悪さのし放題。そこでこの法師に困った村人達が団結して、大わらじを編み、海に流しました。 すると一つ目は自分よりも大きな巨人が居ると思い込んで、以来悪さをしなくなりました。という伝説にちなんで年に一度9月申の日に、波切神社で神事を行った後、畳一畳程の大わらじを海に流し、海上安全と大漁を祈願します。 この神事は県の無形文化財に指定されています。(境内説明板より)(波切神社境内の鯨石) 波切でも昔は鯨漁が行われ、盛んな時もありました。その頃、獲れた鯨の腹の中から石が出る事が幾度かありました。そんな石に神秘的なものを感じた人たちが神社に持ち込んだりしたようです。今もここ波切神社にその石が祀られています。(同上)(波切漁港)(船頭浜の上のほこら) 波切漁港から再び坂を駆け上がって海沿いに西へ走る。おばあちゃんが連れている犬に盛んに吠えられる。船頭浜の上のほこらのある場所が灯台を眺めるポイントらしいが、それ程でもない。ほこらを過ぎた辺りで北上、坂道を駆け上がる。県道に出て、西に。登茂山(ともやま)を目指す。 (ともやまへの道) アップダウンの道を走ること数キロで「ともやま公園」に着く。(ともやま公園キャンプ場)(海を挟んで対岸は立神地区・北方向) ともやま公園を後にして帰途に。国道260号に出て北に向う。道すがらに目にした花などを二三ご紹介。(金宝樹・キンポウジュ)(マツバウンラン)(サクランボ) 次は賢島に戻って、伊勢神宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)銀輪行です。 <参考 伊雑宮・佐美長神社> 賢島駅から近鉄電車で志摩磯部駅まで行き、そこで自転車を組み立て出発。磯部駅から北700m位、国道167号沿いに佐美長神社がある。この神社は伊雑宮が所管する神社とのこと。(佐美長神社)<参考 佐美長神社> 佐美長神社から脇道に入って行くと磯部川に出るが、その手前にあるのが磯部神社。 <参考 磯部神社>(磯部神社)(磯部神社本殿)(神武天皇遥拝所) この後、磯部川に沿って、鸚鵡岩展望台、伊雑宮と廻るのであるが、つづきは(その4)に譲ることとします。<その4につづく>
2010.05.15
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(承前) 本日は賢島・大王崎・のとやま往復銀輪散歩です。 賢島を出発。踏切を渡って右に国道167号を走り、鵜方駅の少し手前、文化公園前で右折し近鉄線を越えて国道260号に出て、これをひたすら南下する。(英虞湾・神明漁港のある入江。 左奥にえびす島と賢島大橋が見えている。)(国道から少し西に入って、神明漁港側から南東方向を見る。) 260号を7~8km行くと道が分岐し、左が大王崎への道、右を直進すると和具・御座方面である。歓迎アーチが出迎えてくれる。(大王町歓迎アーチ) 歓迎アーチを潜って暫く行くと県道515号に突き当る。これを左に行くと急な下り坂となる。大王崎・波切(なぎり)港に向って一気に下る。帰りの登りが頭をかすめる(笑)。 大王町は「絵描きの町」とのことだが、先ず迎えてくれたのは「汗かき」のお地蔵さんでありました。(汗かき地蔵入口・愛車のトレンクル)(汗かき地蔵) 鎌倉時代の頃、漁をしていた漁師惣左衛門の網に同じ大石が三度も掛かってきたので不思議に思い、持ち帰り浜辺に置いておきました。この石に無礼を働く者がいると、必ずその者に悪いことが起こるのでした。そしてこの石は後になって尊象の形へと変わっていったという伝説のお地蔵様です。この地蔵尊には不思議な力が宿っています。それは世の中に起こる良い出来事悪い出来事を汗を流し、その色によって告げるのです。吉事が起こるときには喜んで白い汗をかき、反対に悪いことが起きるときには人々に代わって苦しみ、黒い汗を流すのです。江戸時代、志摩の殿様が大病に罹り、この地蔵尊を念ずると忽ち全快しました。以来信仰はますます広まり、また村民にも多くの霊験を授けました。今でも吉凶があるたびに汗をかかれます。2月24日の初縁日には町中にて盛大なお祭りが行われています。(現地説明板より)(思案地蔵) このお地蔵様は変わったしぐさをしていますが、実は悲劇が秘められた地蔵菩薩なのです。それは天保元年(1830)に起こった波切騒動と呼ばれるもので、大王島の沖で、幕府の御城米を積んだ、千石船が難破したことから端を発しました。翌日、漁に出た村人が沈んだ船を発見し積荷の米を持ち帰りました。しばらくしてその事件を捜査に来た幕府の役人達は夜更けに覆面をして村に潜入したので、村人達は盗賊と間違えて役人達を退治してしまいました。そうしたことで幕府は庄屋、村人達14人を処刑してしまいました。事を哀れんだ村の和尚が、ほとぼりの冷めた頃、地蔵尊を彫り、この騒動の犠牲者を弔ったものと伝えられています。(同上)(薬師堂) 創始は不詳であるが、波切村民の氏仏として古くより村人達の仏教信仰の根本霊場であります。本尊の薬師如来像は、鎌倉期に造られたと伝えられており、同時代の特徴を備えた立派な文化財であります。堂内に向かって右側に安置された観音浄土補陀落山像には、那智の信仰を受けたものであると見られる、熊野権現の神紋である三足の金烏がはいっており、左側にはそれに相応して、西国三十三所の各観音像が祀られています。入口の鰐口鏡には関係者と万治2年の銘が刻されています。(同上)(桂昌禅寺) 汗かき地蔵と向き合うようにしてある桂昌禅寺を覗いていると、地元の小学校3年生だという集団が通りかかりました。先生に引率されての社会見学だとか。その後からやって来たおばあちゃんが大慈寺を教えて下さったので立ち寄ることに。アジサイの寺として知られているらしいが、未だ少し季節が早く花は咲いていない。(大慈寺) 大慈寺から元の道に戻って少し行くと、波切漁港に出た。対岸に波切神社の鳥居が見える。右に坂道を登って行くと大王埼灯台への狭い坂道に出る。眼下に見えるのが宝門の浜で、奥の出っ張りの処が船頭の浜と言うそうな。 狭い坂道にはみやげもの店が並んでいる。入口の処で店のお姐さんに声を掛けられ話をしている内に気が付けばスルメだの海苔だのを買っているのでありました(笑)。(宝門の浜) (大王埼灯台) 大王埼灯台は熊野灘と遠州灘を二分する、志摩半島の東南端にある灯台。昭和2年5月に着工、同年10月に完成、点灯している。灯台の狭い、80段余の螺旋階段を上ってデッキに出ると大パノラマの絶景が広がる。(大王埼灯台からの眺め・西方向。奥は和具。)(大王埼灯台からの眺め・南方向。熊野灘。)(大王埼灯台からの眺め・須場の浜・東方向。奥は遠州灘。) 灯台から須場の浜を通って仙遊寺への道を下って行くと、女性が絵を描いて居られました。声を掛けると、大阪からグループで写生に来られたとのこと。やはり絵描きの町なのだ。ひろろさんの船の絵なども思い出される。 ここで、字数制限オーバー。続きは明日に。(つづく)
2010.05.15
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伊勢志摩銀輪散歩です。 賢島から横山展望台・大王崎・登茂山・伊雑宮などを走って参りました。(近鉄賢島駅) 志摩市と浜島町の境目(近鉄鵜方駅の西方)に、横山という海抜203m余の小さな山がある。山頂一帯が公園になっていて、展望台などがある。先ず英虞湾を山の上から眺めてみようと、横山展望台を目指す。賢島駅から3駅手前の志摩横山駅付近で国道167号から横山登山口への道が分岐する。展望台までは車で行ける道があり、自転車も当然に行ける。展望台下にビジターセンターがあり、マップを貰ってから登るとよい。 賢島駅東側の踏切を渡ると右が国道167号、左が県道17号。どちらを行っても鵜方駅の西で合流する。自転車としては県道17号の方が走り良いので、これを行くことに。坂を登り切り右にカーブすると賢島大橋である。英虞湾と本日初対面。賢島カントリークラブを左に見て走り、前川橋を渡ると国道167号に出る。(英虞湾・賢島大橋の上から。奥が神明漁港。)(横山展望台への道)(上の写真の道の辺、右側に白く咲いている花です。) この道の突き当りに横山ビジターセンターがある。ゆっくりとした登り坂。車の走行も殆どなく快適に走れる。この道の北側にも自然歩道があり、そちらを走ってもよい。センター建物の右側から遊歩道と車で展望台下まで行ける舗装道路とがある。自転車も車なので舗装道路を行く。急登で途中からは押して行くしかない。(横山展望台)(横山展望台からの眺望) 横山展望台から尾根道を進むとパノラマ展望台・見晴展望台・英虞見展望台・横山山頂と続き、左に下ると芝生広場。右に下ると菖蒲園があるようだが、かなりの急坂の下りなので、引き返すことを考えると二の足を踏まざるを得ない。尾根道を進む。(パノラマ展望台からの眺望・奥に見えるのが御座岬)(見晴展望台)(見晴展望台からの「見晴し」・英虞湾が一望である。) 見晴展望台からの眺めは最高。山々も眼下の英虞湾、遠く熊野灘も一望である。(長原(なごら)の浮石) 横山展望台からパノラマ展望台へと登る山道に、「なごらの浮石」という標識があり、何やら曰くあり気な石ころが並んでいたが、説明がないので、正体の方はよくは分からぬのでありました。(羊歯の群生) 山頂への道はパスして英虞見展望台から芝生広場へと下る。階段などのある山道なので、自転車は肩に担いでゆくしかない。これも亦ヤカモチ・スタイルなのである(笑)。途中に羊歯の群生する道があった。しまなみ海道の伯方島の山中でも同様な景色を見たことを思い出す。 芝生広場は文字通り芝生だけ、何もない。時間も止まっている。トベラがひっそりと白い花を咲かせている。何もないというのも悪くはない(笑)。道路工事の男性が数人、前の道で立ち働いて居られる。山道をぐるぐる歩いているうちに方向感覚が怪しくなったのでビジターセンターへの道を教えていただいて先に進む。(芝生広場)(トベラの花)(横山石神神社) 神社の宮司さんから頂戴した「横山石神神社由緒・沿革」という印刷物には「当神社は<中略>天照山横山に真言修験醍醐派の霊場、大乗院圓城寺を開山するに大地主神の御守護を得るべく、天永元年(1110年)「横山石神(天永龍王・水神)の社」を造営したことに始まる。<以下略>」とある。 ご神体は龍・蛇だそうで、ピンポン玉位の小石を白く塗って何やら文字か絵の描いたものが護符として販売されていた。願いが叶ったり、体の具合の悪い処が治癒する霊力があるらしい。「一生の内に一事は必ずかなえて下さる石神さん」として地元の方達の崇敬を集めているそうだ。 社殿の写真を撮ろうとしたら、もう少し下がって撮れと言われた。撮影は、近づき過ぎてはいけないらしい(望遠はいいのか?と思ったが、理屈ではないのだから、素直に従いました)。 石神神社からビジターセンターに再び戻り、来た道を引き返す。帰りは例によってひたすらの爽快な下りである。(賢島港・遊覧船) 賢島駅まで帰って来るが、近鉄の駅と賢島港を取り巻いて僅かばかりのみやげもの屋があるばかりにて、殆ど人影もない。遊覧船が停泊していたが、本日の営業は終了のよう。(英虞湾)(なんじゃもんじゃの木) おまけの写真。ホテルの庭に、なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)が白い花を付けていた。という訳でなんじゃもんじゃの銀輪散歩も本日はひとまず終了。明日は大王崎方面へ走ります。 (つづく)
2010.05.14
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本日は書店に立ち寄ったついでに、少し足(銀輪)を延ばして、花園の津原神社に行って来ました。 先日(6日)銀輪散歩で玉串川沿いを走りましたが、その「玉串」の由来となった神社であるので、表敬訪問であります。 (若江岩田から山本へ(下)のコメント参照。)(津原神社・南正面)(津原神社の由来) 上の説明板の文中、天平勝宝6年を西暦780年と表記しているのは間違いで、正しくは754年です。 この年は、かの鑑真が我が国にやって来た年であります。 因みに、この年の大伴家持は37歳。4月5日に兵部少輔就任、11月1日に山陰道巡察使に就任しています。 前年の2月23、25日にはかの春愁絶唱歌3首を作っています。 また、翌年2月には難波で防人の閲兵をしています。万葉集に防人の歌が多数残っているのは、このような折に家持が彼らの歌を採集したからだと思われます。<参考>春愁絶唱歌春の野に 霞たなびき うらがなし この夕影に うぐひす鳴くも (巻19-4290) わが屋戸(やど)の いささ群竹(むらたけ) ふく風の 音のかそけき この夕(ゆふべ)かも (巻19-4291)うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 情(こころ)悲しも 独りしおもへば (巻19-4292) 風水害に苦しむ河内の百姓には「春愁」に浸っている暇はなかったことでしょうが、彼らも歌を作ることはあったでしょうか。 ヒバリの声を彼らはどのように聞き、夕方に鳴く鶯の声や竹の葉をそよがせて吹く風の音をどのように聞いたのか、それは記録に残っていない。(本殿)(津原の池) 津原の池も今は亀がゆったりと泳いでいるだけの小さな池である。 <参考>津原神社
2010.05.09
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第57回智麻呂絵画展 さて、智麻呂絵画ファンの皆様、お待たせいたしました。第57回智麻呂絵画展の開催であります。しばしも智麻呂ワールドに心遊ばせて下さいませ。では、ごゆるりと(笑)。 (新約聖書・コリント人への第一の手紙 第1章第3節)(カランコエ) 上のカランコエと下のシャクナゲは、香代女さんが先日のお花見読書会の時にお持ち下さったものです。 このカランコエの絵を写真に撮りながら「これは何の花ですかね?」とお尋ねすると、金魚の水槽の隣の鉢植えを指差して、恒郎女様曰く「あの花よ。カランコロ。」 偐家持は、ゲゲゲの鬼太郎の下駄の音を思い出して「??」でありましたが、「ああ、カランコエ」と思い当たる(笑)。 「カランコエでしょう。」そう言いつつ、下の「シャクナゲ」を指して、「シャクヤク」と口にしているのであるから、恒郎女様と偐家持は花の名については、なかなかいい勝負なのである(笑)。ゲゲゲのゲ 下駄の音かと 思ひしに カランコエとは 鼻緒も切れむ (偐々々の鬼太郎) (シャクナゲ)(蘭) この蘭は「えびね」という奴ですかね。智麻呂さんがデイサービスで描かれた作品です。(アヤメ 1) 杜若は本家・大伴家持さんの歌がありますので、それを紹介して置きましょう。杜若(かきつばた) 衣(きぬ)に摺(す)りつけ 大夫(ますらを)の 着襲(きそ)ひ狩する 月は来(き)にけり (巻17-3921 大伴家持)(杜若を衣に摺り染めにして、大夫たちが着飾って狩をする月がやって来たことだ。)(アヤメ 2) アヤメは智麻呂氏の好きな花ですから、これまでにも再三登場していますが、2008年5月の舞洲一泊の読書会のことが思い出されます。智麻呂氏は池の畔で見つけた杜若の花を長らく写生して居られました。(アヤメ、カキツバタの登場する絵画展は第1回、第6回、第33回、第37回です。)思えば、この時に小生は智麻呂氏の絵を本ブログに登場させることを思いついたのでありました。 (参考 「舞洲・若草読書会」 2008.5.1.)(白い花) この花、水仙かと思いましたが、よく見ると花の感じが少し違いますので、見たまま、白い花とさせていただきました。絵のタイトルはこれ位の方がいいのかも知れませんな。偐家持もその方が気楽ですから(笑)。(藤の花) 藤の花は3回目の登場です。第12回、第33回以来です。藤も大伴家持の歌がありますので記載して置きます。藤波の 影なす海の 底清み 沈(しづ)く石をも 珠とそわが見る (巻19-4199 大伴家持)(藤波が影を映している海の底が清らかなので、沈んでいる石をも私は珠と見ることだ。)(柏餅 1) 上の「柏餅 1」は偐山頭火さんの手土産。下の「柏餅 2」は偐家持の手土産。さて、ここで智麻呂・恒郎女ご夫妻よりのクイズです。 問題 下の「柏餅 2」の絵の中に「嘘」が一つあります。 それはどんな嘘でしょう? 絵のどの部分にどんな嘘が隠れているかをお答え下 さい。隠れた嘘なので、見ただけでは分かりません。 ヒント ・偐家持「それでも食べてみますか?」 ・智麻呂「2個では構図が決まらんなあ。」 ・恒郎女「はい、もう一個。」 回答期限 2010年5月12日午後5時 回答方法 本ページのコメント欄に書き込む。 賞 品 柏餅2の原画または当選者が希望する花を智麻呂氏 に別途描いて戴いたものを贈呈します。 正解者多数の場合は抽選により1名当選とします。(笑) 回答・当選発表は2010年5月13日当ページのコメント欄にて。 (柏餅 2) 柏餅の万葉歌はありませんので、柏の歌を記載して置きます。吉野川 石(いは)と柏(かしは)と 常磐(ときは)なす われは通はむ 万代(よろづよ)までに (巻7-1134)(吉野川の岩と柏がずっと変らずあるように、私も変らずに通うこととしよう。万代までも。)(兜) 上の兜は、「柏餅 2」の包装紙の絵の模写です。<過去の智麻呂絵画展入口> 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56回 (注)第49回以前は第50回のページの末尾に入口を設けています。
2010.05.08
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(承前) 木村重成さんのお墓にお別れして、当てもなく南へ。西郡地区という処だが、随分と公園の多い処である。風にそよぐ青葉が目に沁みます。そんな公園の一角にピラミッドがありました。(西郡公園のピラミッド) ピラミッドの上部から水が噴き出している。こんなピラミッドだったらエジプトも砂漠化しなかったかも。このピラミッドの東面に「子守唄」が掲載されていました(写真下)。この地区で昔から歌い継がれて来た子守唄なんでしょう。(西郡の子守唄)(宣念寺) 雰囲気のいいお寺なので、ちょっと見学させて戴こうかと境内に足を踏み入れたら2匹のワンちゃんが居て、「怪しい奴」と吠えたてるので、早々に退散しました。偐家持と名前からして既に怪しいのだから、ワンちゃんに異議なしです(笑)。ここで、友人から電話があり、しばし隣の公園で話をしてから、再スタート。東に、南にと気の向くまま、ペダルの向くままに走っていると玉串川に出ました。川に沿って南へ、取り敢えず山本駅まで行ってみることに。(玉串川) 玉串川は、宝永元年(1704年)に大和川が付け替えられるまでは、その河川敷にあたり、付け替え後は、水運・灌漑用水路として重要な役割を果たして来ました。周辺の旧河川敷は新田として開発され、特に綿花の生産では大きな位置を占め、「河内木綿」の産地として全国にその名が知られました。 現在、二俣の長瀬川との分水から端を発するこの川の総延長は約13km、うち約6kmが八尾市域にあります。市域北端で東大阪に入ったあとは連続した暗渠のため川の姿は見られなくなります。 玉串川は、川沿いの緑の散歩道と桜並木によって、都市化の進んだ本市にとってかけがえのない自然環境となっており、憩いとやすらぎの場として広く市民に親しまれています。 (川辺の案内板より) たしかに、桜並木が延々と続く。花の季節は見事だろう。今は青葉のトンネルである。目にやさしい青葉の道だ。(近鉄山本駅) 山本という名は、大和川付け替え後に開発された山本新田に由来し、山本新田の名は、この新田開発を請け負った泉州箱作村の山中善兵衛とその子庄兵衛の「山」とその協力者であった大阪平野の本山(加賀屋)弥衛門重英の「本」をとって「山本」としたものであるとのこと。 山本駅から生駒山系の山影を目指して東へ走ると程なく馴染みの恩智川に出た。川に沿って南へ。川が尽きると大和川に出るが、暫く走った処で「喫茶nana」の看板に誘われ、休憩に。汗をタオルで拭き拭き入って行くと、店のママさんが、コチラの席が一番涼しいですよ、と小生の坐った席と反対側のテーブルを薦めて下さる。そちらに移動するとクーラーの風が当たって気持ちがいい。心地よいので本を取り出し、暫し読書。予定より長居し過ぎたので大和川は中止して引き返すことにし、久しぶりに智麻呂氏のご尊顔を拝しに参ることとする。勿論、新作絵画を撮影するという下心あってのことでもある。7点ゲット。以前の4点と併せて11点揃いましたので、近日公開申し上げます。(恩智川の鯉のぼり) 先日、7万アクセスを突破したが、そのお祝いにと小万知さんが錦織公園の藤の花の写真をメールで送って下さいましたので、掲載させて戴きます。(藤の花by小万知)
2010.05.07
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昨日夜「7万アクセスおめでとうございます。」というコメントを木の花桜さんから頂戴し、70000アクセスを超えていることに気付きました。調べてみると以下のようでした。ご訪問いただきました皆さまに心より感謝申し上げます。引き続きよろしくお引き立てのほど宜しくお願い申し上げます。700022010-05-05 23:13:24*.eonet.ne.jp 700012010-05-05 23:09:22*.infoweb.ne.jp 700002010-05-05 23:07:50***.bbtec.net 699992010-05-05 22:55:23温ちゃん777さん 699982010-05-05 22:51:26木の花桜さん 699972010-05-05 22:39:18*.e-mobile.ne.jp 木の花桜さんは69998番目で2番違いでありました。 さて、本日は、自宅-近鉄若江岩田駅-旧若江城跡-蓮城寺-若江鏡神社-木村重成墓・山口重信墓-玉串川-近鉄山本駅-恩智川-喫茶nana-恩智川-近鉄東花園駅-智麻呂邸-自宅というコースを銀輪散歩して来ました。 鏡神社は松風さんが子供時代によく遊ばれた場所とかとお聞きしたので、立ち寄ってみました(笑)。 若江小学校の北側の道路沿いに旧若江城跡碑があり、その前の小道を入って行くと若江鏡神社の北入口に至る。(旧若江城跡碑) 参考 若江城 (鏡神社・北側の鳥居) 正面から入場せず、すみません。ヤカモチは裏口が好きなようですね(笑)。(本殿)(参考 若江鏡神社) 境内にはクスノキなどの大木が青々と葉を繁らせているが、碑には、天正年間に秀吉が若江城に入った際に自ら植樹した楠である、と記されている。(若江鏡神社・東正面) 鏡神社の北隣の蓮城寺という日蓮宗の寺の境内には木村重成公位牌堂があり、また東南東400mに若江南墓地があり、その一画に山口重信の墓がある。墓地の前は第二寝屋川が流れていて、西木村橋という橋が架かっている。これを渡ると八尾市であるが、橋を渡った処にある公園の中に木村重成の墓がある。両者は大阪夏の陣で木村重成は豊臣方、山口重信は徳川方で「若江の戦い」を戦うのであるが、共にこの戦で戦死している。両者の墓が第二寝屋川を挟んで東大阪市側に重信、八尾市側に重成と、死んで後も対峙しているのは面白い(と言うべきか)。 (蓮城寺・木村重成公位牌堂) (堂の中を覗くと、こんな肖像画が。) (街角の道標)(参考 木村重成)(山口伊豆守重信の墓)(参考 山口重信)(第二寝屋川<西木村橋の上から。後方は生駒山地>)(木村長門守重成の墓) 近隣散歩は未だ続きますが、夜も更け眠くなって参りましたので、ひとまずこの辺でいったん締めることとします。おやすみなさいませ。 (下)に続く。
2010.05.06
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(承前) 額田駅から少し南へ行ったところで、アヤメの花が咲いていたので撮影。花の中心部に網目模様(綾目)があるからアヤメだろう。カキツバタはこの部分が黄色で模様がないのだ。もっとも、外花被3枚、内花被3枚、ここまではいいが、更に内側中心部に形状の異なる小さな花被が3弁出ているのがちょっと見慣れない気がするから、「ナントカ?カントカ?」・アイリスという外来の園芸品種なのかも知れない。 (アヤメ?)(アヤメは智麻呂氏の好きな花の一つである。) 枚岡駅から急坂を下り、東高野街道に出て南進すると「瓢箪山商店街」に出る。シャッターを下ろしたアーケード街が多くなっている昨今であるが、この商店街は人出も多くいつも賑やかである。♪あ~なたと行きたい~ひょうたん山~♪という、女性の歌声が流れる商店街は「自転車は降りて通行して下さい。」と表示されているので、けん家持は普通は裏道を走る。近鉄瓢箪山駅前の踏み切りを南に渡ると「稲荷商店街」となる。アーケードが途切れる処から東に入る道は瓢箪山稲荷神社の参道になっている。 参道入り口に小さな石橋がある。太閤橋と刻されている。戦国時代の武将松永弾正久秀が、まだ浪人であった頃、旅の途中で食べ物に困り、この付近に供えてあった餅を食べて飢えをしのぎ、「出世したら恩返しをする」と約束をした。後日名をなした久秀は「瓢箪山は悲運の時のゆかりの地」ということで、古い木橋を石橋に付け替え、大功橋(後日、太閤橋と改称)と名付けたという言い伝えが残っている。(太閤橋・手前の道が東高野街道。奥に稲荷神社がある。) 瓢箪山稲荷神社は、6世紀の瓢箪山古墳(双円墳)の上に祀られて居り、本殿はくびれ部に西面して建てられている。 豊臣秀吉が大阪城を築城するに当たって、墳丘上に金瓢を埋め、伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことがその起源だとか。(瓢箪山稲荷神社)(本殿) 小生が未だ小学生であった頃には神社の本殿脇の石穴でキツネが飼われていたという、ぼんやりした記憶があるのだが、そのキツネを見たという記憶が定かではないので、子供同士の会話の中で刷り込まれた幻想かも知れない。稲荷神社と東高野街道が交差する辻で、江戸時代には「辻占い」が行われていたそうだが、明治になって、山畑顕海が始めた「辻占(つじうら)」が大流行し、神社は大いに繁昌したそうな。現在でも「辻占」という炙り出しのおみくじが売られている。 もっとも、現在では「占い」と言えば、石切神社の参道である。占いの館(人相、手相、姓名判断、易、水晶占い、タロット占い等々)など、様々な占い師が「占い(「売らない」?)」を売っていますな(笑)。 瓢箪山稲荷神社から裏道を通って縄手中学校の前を通って梶無神社へ。この縄手中学校はけん家持の出身校。今は亡き担任のI先生を何かとお煩わせしたのは、この学校に通っている頃のことでありました。数年前に校内の一画に市立埋蔵文化財センター「発掘ふれあい館」というのが開設されたが、今回は立ち寄らずに参ります。(梶無神社)(本殿) 梶無(かじなし)神社は、もとは四条梶無の里(東大阪市神田町)にあった神社。梶無の里の由来は、神武天皇が孔舎衛坂(くさえざか)の戦いで長髄彦(ながすねひこ)に敗れて、難波江を南下した時、風雨が強くなり、船の梶が折れて漂流し、船がこの地に流れ着いたからだという。石切の少し北から流れて来たのだから、偐家持も似たようなコースを自転車で流れて来たことになる。 写真の本殿左裏に見えるクスノキの大木はアオバズクの繁殖地(巣を作る木)として、市の天然記念物に指定されている。 神社にお別れして、縄手中学校の裏の道に出て自宅へ。これから先の道は中学時代の通学路である。北進し途中で右折、東に坂道を上る。道々に同級生たちの家がある(あった)。坂道を上った処が中学・高校と同じだったA君の実家である。彼は中学生にして永井荷風や谷崎潤一郎やプルーストやらを読んでいた早熟な読書家であったが、現在は東京在住にて、もう10数年顔を合わせていない。その彼の実家のすぐ近くにあるのが「空川地蔵」である。(空川地蔵) 昔、この前の道に沿って空川という川が流れていて、そこで下半部の欠けた石仏が発見され、これを祀ったのがこの地蔵堂とのこと。中には胸から上だけの地蔵菩薩像が安置されている。 坂を登りきって左折すると安養寺という寺がある。寺の前の道を北へ進むと出合地蔵がある。(出合地蔵) この地蔵は、生駒山を越える道(鳴川谷道・地蔵谷)の出合という地にあった磨崖仏を、採石の際に切り取って、現在地に移し、地蔵として祀ったものとのことである。(左・地蔵菩薩立像、右・来迎印弥陀立像) 弥陀と地蔵を並べて彫る石仏は古い墓によく見られるもので、室町時代に流行した石仏であるが、普通は形が小さいものなので、これは形も大きく(像高52cm)彫刻も優れているということで南北朝時代の作と見られている。 中学時代の通学路にはこのような地蔵堂があった訳だが、普通の中学生はそんなものには目もくれない。ヤカモチ少年も同様。毎日それを目にしながら通っていたのだが、由来のことなどは勿論、地蔵のことなど考えたこともなかったのでありました。それはありふれた風景の一つに過ぎなかったのだから。 以上で石切・額田・瓢箪山近隣散歩全2巻完結です。我が里のをちこちにお付き合い下さり有難うございました。また機会がありましたら、ご近所で面白い処など気付き次第ご案内申し上げることと致します。
2010.05.04
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本日は石切・額田・額田・瓢箪山界隈を自転車散歩。行程にして10km余に過ぎないのであるが、坂道を登ったり、下ったりを繰り返すので、結構いい運動になりました。 先ず近鉄石切駅まで山沿いを走り、石切神社への参道の坂を下る。参道の途中に千手寺という寺がある。在原業平ゆかりの寺である。(千手寺山門・左側の石碑の後にあるのが「業平の腰掛石」)(業平の腰掛石)(左・本堂<光堂>、右・護摩堂<業平廟>) 千手寺(せんじゅじ)は役行者によって開山。空海が、この寺に止宿した際に童形の青衣の善女竜王が現れ、観音浄土の霊池に浸されていたという霊木を託されたので、この木で千手観音像を刻し、これを本尊として本寺を中興したとのこと。その後兵火によって堂舎悉く焼失し、千手観音は深野池(現在の深北緑地にあった大きな池)に飛び込み行方知れずとなった。 時代が下って、当地にやって来た在原業平が夜池の中に不思議な光を発するものを見つけ引き上げると千手観音であった。これを天皇に奏上すると天皇は大層喜び、業平に命じて寺を中興し、五院を建立させた。業平が没した時に本堂の右に業平の廟を築き、遺品を納めたと伝えられている。(明治時代の落語家・桂文之助の句碑 千手寺境内にある。) 業平と 背中合わせの ぬくさかな そろり (注)桂文之助は後に曽呂利新左衛門を芸名とする。(オオテマリ) 千手寺に長居し過ぎました。境内は花がいっぱい。オオテマリの白い花が印象的でした。そして、何の木でしょう。赤い若葉の木が風にそよいでいました。 石切神社参道に戻り、坂道を下る。神社詣の人がいっぱいで、自転車は殆ど進まない。(石切神社・拝殿横のクスノキは東大阪市の天然記念物に 指定されている。) 木の花桜さんがブログにアップされていた牛の像を横目で見て、神社を後にし、南側の鳥居前の坂道を再び登ると、こんなのを発見。大西丹後守の馬乗り石だという。(大西丹後守入道馬乗石) ヤカモチのMTBが凭れかかっている石が馬乗石です。昔、大西丹後守というお方が、この辺りに住んでいたらしいが、彼は背が低かったので、乗馬するときは、この石の上に立ってから乗っていたとのこと。 いやはや、業平の腰掛石があったり、大西さんの馬乗り石があったり、さすが石切だけに、色んな石がありますな(笑)。しかし、この馬乗り石は、いずれ100年もすれば、ヤカモチの自転車が凭れたということで、「ヤカモチもたれ石」という名に変わるかも(笑)? 馬乗石から坂道は険しくなり、突き当りの東石切公園に着いた頃には息が切れていました。公園で暫し休憩。(東石切公園) 東石切公園から夫婦塚古墳、額田戎神社、玄清寺、妙徳寺と回り、近鉄額田駅へ。(夫婦塚古墳、左・西側石室、右・東側石室) 夫婦塚古墳は6世紀中頃の双円墳。東側石室は全長9.2m。2体が埋葬されていたことが分かっている。西側石室は全長9.6m。3体が埋葬された痕跡があったとのこと。(額田戎神社)(玄清寺) 玄清寺は、織田信長に従って大坂石山本願寺との戦いに参加した高内正定が、戦後その戦没者の霊を弔うために慶長2年(1597年)に建立したもの。高内正定の法名・浄翁玄清居士から玄清寺と名付けられた。彼は、古代河内の豪族、額田首(ぬかたのおびと)の子孫と言われている。 観音堂には観音像の脇侍として南無太子像(聖徳太子2才像・室町時代作)が安置されている。 昔は神と鬼は表裏一体のもの。鬼退治をするのは童子であったりするのも、神は童形で現れると考えられていたからだろう。童子は神聖な存在であると同時に恐ろしい力を持った存在であるから、これを鬼として怖れるというのも自然なことである。救済などプラス作用の面を神、祟りなどマイナス作用の面を鬼と見ていたということであるのだろう。聖徳太子像が童子姿であることが多いのは、聖徳太子を鬼(祟る存在)と見ていた時期があったからという見解もあるようだ。(妙徳寺)(妙徳寺本堂) 江戸時代に五百羅漢を安置したので羅漢寺と呼ばれていたらしい。黄檗宗の禅寺である。昭和2年まで大阪の福島にあったのが、当地に移転して来たとのこと。 妙徳寺から最後の坂を登り切ると近鉄額田駅である。 この後、枚岡駅前経由、瓢箪山駅の方に向ってまた坂を下って行くのだが、上巻はここまで。下巻はページを改めます。(下巻に続く)
2010.05.03
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(承前) さて、前回の続き、偐山頭火氏と自転車にて、土塔を訪ねての帰路のあれこれです。 土塔にお別れして、国道310号に出て、北へ少し走った処で目に止まった中華食堂で昼食。小生のいつもながらの早喰いに煽られ、偐山頭火氏も慌しく(小生の目からは、ゆっくりと<笑>)食事を済ませる。 昼食後、少し戻って脇道の旧道がよかろうと関茶屋地区へと入る。 土塀の続く大きな屋敷やさりげなくある石の道標、地蔵堂などが心地よい風情を醸す。(道標には「右高野山」とある。) くねくね道なりに行くと出雲大社分祠の裏に至り、来る時に走った「西鳳東線」道路に出たので、これを走って初芝駅に至り、更に東進。大阪中央環状線道路と交差する処で黒姫山古墳に出会う。古墳周辺は公園に整備されていて、古墳玄室の野外復元展示などもある。 (黒姫山古墳)(北面)(西面) 黒姫山古墳の概要(現地説明板より抜粋) 黒姫山古墳は、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置する堺市美原区黒山に所在する前方後円墳です。5世紀中頃の築造と考えられ、平地に立地し、前方部を西に向けています。全長114m、後円部径64m、高さ11m、前方部幅65m、高さ11.6m、2段築成で、周濠をめぐらしています。墳丘には上下2段の円筒埴輪列があり、葺石も存在します。また後円部主体部上には形象埴輪列が、方形に配されています。<略> 古墳は、戦後すぐに発掘調査がおこなわれ、24領の鉄製の甲冑が前方部の石室で発見されました。この数は、日本にある古墳からの出土量としては、全国一です。<略>黒姫山古墳に埋葬された人物は、強力な軍事力を持っていたと考えられます。また、甲冑の素材である鉄は朝鮮から入ってきていたと考えられるため、外交的な力をも持っていた人物と考えられます。これらのことから、この古墳に埋葬されているのは、当時この地域で勢力を持っていたとされる豪族、丹比氏の首長と考えられています。 大伴家持は大伴旅人とその正夫人である大伴郎女の間の子ではなく、丹比池守、水守、県守のいずれかの娘との間に生まれた子と考えられているので、この古墳は家持の母方の先祖の墓ということになる。 偐家持がお参りをしてもおかしくはないことにてありますな(笑)。 黒姫山古墳から中央環状線沿いに帰ることとする。少し北に行った処に堺市立みはら歴史博物館があるので、トイレ休憩とコーヒー休憩(館内禁煙につきタバコ休憩とはならず。)と立ち寄る。 館内に「風遊(ふらり)」という喫茶店がある。 館内の展示室に入ると近傍の古墳からの様々な出土品(レプリカを含む。)と共に、黒姫山古墳の復元模型が展示されていました。(黒姫山古墳復元模型)(堺市立みはら歴史博物館)(円筒埴輪)(青銅製甲冑)(鉄製甲冑) 中央環状線道路を進み、松原市に入った処で大塚山古墳に寄って行こうという偐山頭火氏の提案。偐家持に異存はない。 大塚山古墳は松原市と羽曳野市の市境に位置する前方後円墳で、陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。2kmほど東に雄略天皇陵があるが、雄略天皇陵はこちらの古墳の方だとも言われている。 (参考) 河内大塚山古墳 銀輪万葉・藤井寺界隈(続)(大塚山古墳) あとはひたすら走るのみ。東大阪市に入って、偐山頭火氏は西へ、偐家持は東へ。奇妙な二人連れはこれにて本日は解散。銀輪散歩土塔篇はお開きと相成ります。本日もお付き合い賜り有難う存じます。
2010.05.01
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