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第7回和郎女作品展 28日の読書会では、智麻呂絵画の新作の他に、和郎女さんの作品も新作3点を撮影させて戴きました。彼女の作品展は長らく開催して居りませんでしたが。何とか開催できる程度の作品数が揃いましたので、久々の和郎女作品展といたします。 <参考>過去の和郎女作品展はコチラからどうぞ。(うさぎ) 来年は卯年ということで、うさぎを作って下さいました。来年のことを言うと鬼が笑いますが、ニ兎を追うもの一兎も得ず、一石二鳥はあるが一石ニ兎はないのであってみれば、来年は地道にコツコツやりましょう。 で、ちょっと早いですが、お正月用に「宝船」が次の作品です。(宝船) 次は小物入れ。 これは酒の紙パック容器を利用して作られています。 当日は、これにお菓子を入れてお持ち下さいました。 凡鬼さんがいたく感心されて、「これは民芸品店に卸しても絶対に売れる。」と仰っていましたが、偐家持美術館民芸品販売事業部にて売り出しましょうかね(笑)。(小物入れ) ちょっと角度を変えてもう一枚。 ちょっとした小物を入れるのに丁度良いです。 皆さまおひとついかがでしょうか? さて、以上3点が今回ゲットした作品で、以下の4点が数カ月前に仕入れていながら、公開せぬまま時日を経過してしまった作品です。 そんな訳で、ちょっと季節の合わない作品が3点ありますが、ご容赦願います。(おばあさん) これは軍手で作ったお人形です。 上の「小物入れ」とか、最近は貼り布絵(こういうジャンルの作品は正式には何と呼ぶのでしょう?今頃何をとぼけたことを、ですな。)から創作範囲を広げて居られるのでありますな。(蛍狩り) 蛍を詠った万葉歌はない。「ほのか」に掛かる枕詞として「蛍火の」が登場するのみである。仕方がないから、和泉式部さんにご登場いただくこととする。上の無邪気な子供たちの蛍狩りとはそぐわないが、彼らとてやがて恋に身を焼く若者になるのであってみれば・・である。 もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 玉かとぞ見る (和泉式部) 「ほ~ほ~ほたる来い・・」の方が、勿論、上の絵には似合うのであるが。(七夕) これも亦、「笹の葉さらさら・・」の世界ですな。万葉歌を無理に付ける必要もないのであるが、偐万葉集であるから・・無理にでも、であります。 さいわいに、七夕の歌は万葉集にこと欠きません。 しかし、ここは大伴家持の歌といたしましょう。来月、12月23日には交野市の星田妙見宮境内に新しく建立された、この歌の万葉歌碑除幕式があるのであってみれば。 十年七月七日の夜、ひとり天漢(あまのがは)を仰ぎていささか懐(おもひ)を述ぶる一首織女(たなばた)し 船乗りすらし まそ鏡 きよき月夜(つくよ)に 雲立ち渡る (巻17-3900)(盆踊り)
2010.11.30
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第67回智麻呂絵画展 本日は若草読書会にて智麻呂邸に集合。午後1時過ぎから午後7時ちょっと前まで、愉快なひと時を過ごしました。 本日の読書会は凡鬼さん担当にて、本は城山三郎「粗にして野だが卑ではないー石田礼助の生涯」でありました。 凡鬼さんのお話の後は、小万知さんがご用意下さったギョーザを焼いて、皆で美味しく戴きました。 読書会のことはさて置き、本日の智麻呂邸訪問により、新作の智麻呂絵画4点をゲットし、作品が合計10点となりましたので、智麻呂絵画展開催といたします。<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(薄桃色のポインセチア・・ドルチェスカ) この花は、前回の読書会の日(9月19日)に香代女さんがお持ち下さった鉢植えを写生されたもので、今も智麻呂邸の玄関に優しい彩りを添えています。小万知さんが「名前が覚えられなくて」、円高、ユーロ安、ドル安、ドルチェスカと覚えられたそうですが、どうやらヤカモチは「ドルヤスカ」と覚えてしまいそうです(笑)。 本日、原画は香代女さんがお持ち帰りになられましたから、ご自宅の壁を飾ることとなるのでしょう。(もみぢ葉) これは散歩の折に拾い集められた桜の落ち葉の絵です。恒郎女様曰く「パパの拾って来る葉は汚いものばかりで・・」ということですから、虫食いの葉は智麻呂さんが拾われたもの、虫食いのない美しい葉は恒郎女様が拾われたものであるのでしょう。お二人の分がうまく合わさって絵としての味が出ているのですな。偐兼好さんも「もみぢは虫食いなきをのみ見るものかは」と申されて居りますから、これでいいのです(笑)。(富有柿) この柿は智麻呂絵画ファンである岡山の木の花桜さんから、柿の葉も入れて送って下さったものです。原画は既に木の花桜さんのお手許に届いているようですから、同姉のブログでもいずれご紹介されることになるかも知れません。(柿2)(せんと君) これは、けん家持が遷都1300年祭最終日(11月7日)に平城京公園に出掛けた際に近鉄西大寺駅前で配布されていた、せんと君のお面の写生です。その直後に智麻呂邸をお訪ねした折に置いて帰ったら、絵になっていました。原画は和郎女さんが本日お持ち帰りになりました。(蜜柑) この蜜柑は、ご近所の庭に生っていたものですが、散歩の時に、その家の方が絵の題材にどうぞと摘んで下さったものだそうです。今や智麻呂絵画のことは近隣でも有名なようで、皆さんが果実やお花やらをご提供下さるようで、有難いことであります。 恒郎女様は「花瓶の線がいびつになっていて」と不満を言って居られましたが、やはり一番厳しい批評家はご夫人の恒郎女様でありますな(笑)。 以下の4作品が本日ゲットの新作であります。 何故か4点とも食い物です。(鰯)(サツマイモ) 上の二つの絵は、智麻呂さんが通っていらっしゃるデイサービスの施設に食材を納入されている業者の方が、納品のついでに食材の中から絵の題材にいいと思われたものを、「絵にお描きになるならどうぞ。」と智麻呂さんの前に置いて下さったものだそうです。 皆さんが智麻呂さんの絵を愛し、それ以上に智麻呂さんのお人柄に惹かれて、このように温かく見守って下さっているのであります。嬉しきことであります。下の石榴の絵も同様です。 どちらの絵も素晴らしい出来だと思います。鰯の原画は小万知さんがお持ち帰りになりました。煮ても焼いても眺めてもよしの鰯であります(笑)。(石榴) この石榴はデイサービスの施設の職員の方がご自宅の庭の石榴を、智麻呂さんの絵の題材にとお持ち下さったものだそうです。この石榴も見事な出来ばえであります。(萩の生うに) これはどなたかの萩旅行のお土産なんでしょうが、けん家持の取材不足で情報がありません。恒郎女様が「おじさんが自らラベルを作って貼って、という手作りのもので、とても美味しい。」と仰っていたのが頭の片隅にあるばかりです(笑)。<追記・注>「萩の生うに」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.28
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今日トレンクル君が退院して来ました。14日に入院しましたから丁度2週間の入院であったことになる。ハンドルを取り替えるなどしたので入院治療費は2万円となりましたが、これでまた一緒に走れますので、ひと安心です(笑)。 さて、本日の銀輪散歩はMTBで八尾市へ山裾の道を走って来ました。テーマは紅葉する山。午後からの日に照る生駒山系の山々を眺めつつ、坂道を上ったり、下ったりしながら、南へ。急坂・長坂では息が切れて、結構な運動となりました。 先ずは楠正行墓のある往生院へ。中学時代、軟式テニス部に入っていた時には、麓の中学校からこの往生院への坂道をランニングするのがお決まりの練習メニューであったように記憶する。(もみぢ照る道いざ行かな)(枯れすすきも美しい)(往生院付近から見る山)(銀杏の黄葉が日に輝いて・・) 坂道をひたすら上って行くと綺麗に舗装された道路に出る。らくらく登山道に続く道である。この辺りまで上って来ると大阪平野が一望できる。この道を南へ下った突き当りを左に入ると往生院である。(往生院山門) 往生院(六万寺往生院)は、平安時代長暦年間(1037~1040年)に安助上人によって建立されたと伝えられる。四天王寺西門(極楽の東門に通ずると信じられている門)の真東に位置する。春分・秋分に、往生院から眺めると四天王寺の五重塔に日が沈むと聞いているが、未だ実見したことはない。(往生院門前から西を眺める。)(往生院)(寺務所建物)(往生院境内) (楠正行四條縄手合戦本陣跡碑)(往生院への坂道) 楠正行の墓が境内にあるのだが、寺務所にお願いしないと中に入れないので、パス。昔は勝手に入れて勝手に見る、いやお参りできたのだが。(この道のずっと奥、坂道の突き当りが往生院。) <参考>往生院関連記事2008.12.15. 往生院を出て、折角高みまで上って来たのに勿体ない気もするが、坂道を下り、左折、八尾市方向へ走る。 東大阪市から八尾市に入る辺りは長閑な田園風景。背後の生駒山系の山も美しい。何やらほっとする景色である。(八尾市楽音寺付近) 楽音寺地区に入ると心合寺山(しおんじやま)古墳がある。前にも何度かご紹介しているので、ここは写真だけで。(心合寺山古墳・正面)(古墳を後から眺める。ヤカモチは北から来るので先ずこの状態が目に入る。)<参考>心合寺山古墳関連記事2010.10.4.2. 2009.8.22. 2008.5.11. 古墳の前の道をさらに南に走ると大竹、水越、千塚地区と続く。千塚辺りで東へと左折し山側の坂道へと上って行く。東へ北へとジグザグに上って行くと山裾の高みに玉祖神社がある。(玉祖神社への道端の地蔵堂)(玉祖神社)(玉祖神社・拝殿)(玉祖神社・本殿) 「玉祖明神または高安明神と称され、古来高安11ヶ村の産土神で、和銅3年(710年)周防国から遷座されたと伝え、玉造氏の祖櫛明玉命を祀る。十三峠への登り口にあたり、大阪と大和を結ぶ要衝である。重要文化財の北条時政の制札、府重要美術品の男女二体の神像を存し、境内には慶長九年銘の石灯籠、府天然記念物の大樟樹がある。北辺の茶屋辻は伊勢物語にある在原業平の河内通いの伝説で有名である。」(境内の説明板より)(玉祖神社境内の紅葉) 神社の前の道を少し北へ行った高みから眺めると大阪平野が一望である。(南西方向)(西方向) 坂を下って帰途に。道標に「愛宕塚・心合寺山古墳」と示された道を下る。細い山道である。(愛宕塚古墳)(愛宕塚古墳の辺りはこんな山道) 愛宕塚古墳は古墳時代後期の横穴石室墳で、高安古墳群中最大規模のものであるらしい。 やがて、広い道に出る。振り返ると高安山が・・。襞なす山々が美しい。(夕日に照らされる高安山) 帰宅したら午後4時。2時間余の銀輪散歩でした。帰宅すると自転車屋さんから電話があり、トレンクルの修理が完了したとのこと。徒歩15分、受け取りに行ってまいりました。
2010.11.27
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週刊江戸という週刊誌がある。 今朝、本誌の第42号(2010年11月16日号)が自宅へ郵送されて来た。 すっかり忘れていたことですが、先月のことだったか、同誌の編集部の方からメールを頂戴したということがありました。内容は、本ブログに掲載の熊沢蕃山碑の写真を使わせて欲しいというものでありました。使って減るものでもなければ、小生に異存のある筈もなく承諾の旨の返信をしたのであるが、その写真掲載誌がお礼状と共に送られて来たのでありました。 小生のブログ掲載の写真がこのような形でもお役に立てたのは、嬉しいことであります(笑)。 という訳で、「週刊江戸」(発行人 小河原和世、編集人 クロス中山慶子、発行所 〒104-0045東京都中央区築地4-7-5 株式会社デアゴスティーニ・ジャパン)の宣伝も兼ねて、少しご紹介。かく言うヤカモチもこの週刊誌の存在を知ったのは今回のことによってであります。(週刊江戸第42号の表紙) 第42号の目次は下記の通り。 読み解き江戸時代1714年 絵島追放劇の裏に潜む政争と人間模様 街道を行く 成田山参詣 (東海道42)桑名宿 三都&町物語 米をひく水車を回した、渋谷川 国宝の天守を望む城下町、松本 日本全国「藩」事情 京、大坂の要衝に、文芸・芸術の花開く「郡山」 もっと知りたい郡山藩 暮らし大全 江戸のベストセラー 庶民の甘味、お団子 子供の健やかな成長を祈る、七五三 偉人・奇人列伝 「名所江戸百景」今昔 さて、本ブログ掲載写真の登場するページは、上の「もっと知りたい郡山藩」の処です。(掲載記事) <参考>週刊江戸の詳細はコチラからどうぞ。 本ブログの元写真の記事はコチラからどうぞ。
2010.11.26
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昨日24日は午後2時過ぎにMTBで銀輪散歩に出て、北へ。外環状道路や旧道を走りながら、野崎、四条畷を過ぎ、気が付けば天野川まで来ていました。自宅を出たのが2時5分。天野川交野橋到着が3時10分ですから、1時間余で天野川まで行けることが分りました。南の大和川までが50分程度ですから、少し遠いのかも。辿る道によって距離がかなり違うので何とも言えませぬが、天野川はもっと遠いような印象を持っていたのは、以前に来た時はかなり遠回りのコースを取っていた所為のようだ。 道中、もみぢが美しかったのと第二京阪道路付近では藤原為家の歌碑を見つけたのが、今回の銀輪散歩の収穫でありました。(大東市北条中学校脇のサクラと銀杏の黄葉)(北条公園から見る黄葉の山並) 上の写真は、生駒山から北に連なる山系の山並の黄葉ですが、正面の白い建物は特別養護老人ホーム。山の左に小さくとがって見えているのが飯盛山(標高314m、円周率と同じなので覚え易い。)の山頂だろうと思われる。山の左側裾に四条畷神社がある。山並右山裾に野崎観音があり、ここから尾根づたいに四条畷神社へハイキングコースがあり、何度か歩いている。<関連記事>四条畷神社、野崎観音 JR野崎駅、同四条畷駅、同忍ヶ丘駅前を過ぎると、四条畷市から寝屋川市に入る。道はJR線に沿って東寝屋川駅前まで緩やかな長い上り。打上中町で府道20号(枚方富田林和泉佐野線)に入り、しばらく行くと交野市である。星田妙見宮への道をやり過ごすとJR線(学研都市線)のガード。ガードを潜った処で右折、線路沿いの脇道を行き、次の交差点で斜め左に入って行くと府道736号(交野久御山線)に出る。これを右に取ると500mほどで天野川の交野橋に着く。(交野橋) 天野川の岸辺は遊歩道になっていて散歩する人の影が絶えない。自転車での乗入れもOKである。上流に行くと在原業平の歌碑がある水辺プラザ、下流に行くと第二京阪道路から逢相橋。更に下ると枚方市に入って淀川に至る。交野橋の付近は「天野緑地」という公園になっている。 <関連記事>水辺プラザ、天野川 少し川沿いに下ってみる。程なく今年開通の第二京阪道路が見えて来る。下を潜って下流側に出てみると歌碑があった。藤原定家の息子、為家の歌を刻した歌碑である。今年の3月に第二京阪道路の開通を記念して建立されたらしい。(第二京阪道路。天野川の上流側から。)(第二京阪道路。天野川下流側から。右に歌碑が見える。) <関連記事>第二京阪道路 藤原為家は小倉百人一首の定家の息子であるが、百人一首を現在のように纏めたのは為家と言われている。為家の墓は嵯峨野にあるが、3年程前に訪ねたことがあります。 <関連記事>藤原為家(為家歌碑) 天の川 遠き渡りに なりにけり 交野の御野の 五月雨の頃 (続後撰和歌集) (注)続後撰和歌集は後嵯峨上皇の命により編纂された 10番目の勅撰和歌集で、撰者は藤原為家である。 後鳥羽上皇がよく通った水無瀬離宮にも近い交野のこの辺りは狩猟場でもあったろう。若き日の為家も後鳥羽天皇の近習としてお伴したことと思われる。(天野緑地)<参考>大阪府内地域の銀輪散歩関連の記事はコチラからまとめてご覧になれます。
2010.11.25
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偐万葉・真澄篇(その10) 昨日に続き、本日も偐万葉であります。シリーズ第84弾、偐万葉・真澄篇(その10)をお楽しみ下さい。 <参考>過去の偐万葉・真澄篇はコチラからどうぞ。 真澄さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持( にせやかもち)が真澄郎女(ますみのいらつめ)に贈りて詠める歌20首西風の 運べる雨の 雫にや 咲きて真白き 秋の花なれ (花家持) (注)ゼフィランサスの花の名はZephyros(西風、ゼピュロス)と anthos(花)に由来する。 うすぎぬを まとひて尾花 萩の花 雲居の月に 恋ふてやあらし (中秋家持)かぎろひの 空駆けゆける おほとりの 翼(はね)の音(と)すらし 朝風わたる 天上の 青うつしてや 高々と 向けてぞ空に 牽牛花咲け (出立ちの朝)枝垂れ咲く 花は高々 大空ゆ み神の笑みの こぼれて咲くや (枝垂麻呂(しだれまろ)) 怠惰など 言はるる筋の なくあれば サボってん菊の 駄洒落とや見む (聞くも涙)エリーゼに あらねど恋の アラベスク 繰りや返せる ロンドにあらし (輪舞家持) 行く人を 呼びや返さむ 少女(をとめ)らの 頭巾も領巾(ひれ)か 風にぞ靡く (偐佐用姫(にせさよひめ))ひと針に いのちぞ込めむ 縫女(ぬひめ)われ 恋とふ糸の 先は知らずも (偐縫女(にせぬひめ)) 機織(はたお)りの 音のみしてや 秋の夜は 更けゆくならむ 星も降るらし軽(かろ)き身の 借り暮らしなり 竪琴(たてごと)の 一曲(ひとくせ)きかな たなばたつ女(め)に (借り暮らしのナリヒラッティ) ひとつ織る ごとにやあやに 花咲きて あかぬ夢見の 夜長なりけり蜜柑の香 たちまちにして 部屋に満つ 皮剥くきみの 白き指先青き服 着て来たりける ひとありて 蜜柑を剥きぬ 白きその指 わが屋前(には)に 未(いま)だ含(ふふ)める その花の いかにか咲くや 待ち恋ひあらむ (偐紫田舎源氏)秋雨の しくしく降れば 思はゆる 花をかざしの はしき兒もがも (偐傘持) (注)もがも=副詞語尾風助辞「も」に、或る状態が実現するように心の 中に望みを持つことを示す「が」が付いたのが「もが」。 「もがも」は、この「もが」に感歎の意を示す「も」がつ いたもの。はしき(いとしい)あの娘がいたらなあ、とい うような意味である。 風吹けど しなやかに咲く コスモスの 少女は今し いづくやあらむ咲けば散る 咲かねば散らぬ 山茶花の 散りて乱れて 今は眠らな (眠今日白(ねむりけふしらう)) 無となりて 修証一如(しうせういちにょ) 只管打坐(しかんたざ) 自ずからにし 輝けるあり (偐道元)もみつ葉の 木間(こま)ゆ射し来る 日のありて ほつ枝差し延べ 木もまた踊る (踊狂家持(やうきやうやかもち)) (注)掲載の絵画は全て真澄さんのブログからの転載です。
2010.11.24
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偐万葉・童子森の母篇(その3) 偐万葉シリーズ第83弾、偐万葉・童子森の母篇(その3)をお届けします。 <参考>過去の偐万葉・童子森の母篇はコチラからどうぞ。 童子森の母さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が童子桜郎女に贈りて詠める歌20首併せ俳句2句 並びに童子桜郎女の返しける歌10首今し咲く シュウメイギクの 芯の色 したるやクーの ビックリまなこ (ビー玉皇子) 童子桜郎女の返しける歌わが歌を まとめ綴りし 人ありて その優しさに 心ぬくもる (童子桜) (注)クーは、童子桜郎女さんの飼っておられる猫の名前です。 お岩木の 山の裾道 遠ければ 早(は)やうに朝は 我オキザリス (カタバミの郎女)朝寒の 風な吹きそね お岩木の 山の辺の道 もみぢ飾らな (早起きザリスの郎子(いらつこ)) (注)飾らな=飾りましょう。「な」は婉曲な意志を表す終助詞。 「む」と同意。行かむ、行かな=行きましょう。 童子桜郎女の返しける歌 葉おちて 細き枝間(えだま)に 見える空 風で感じる 時の移ろい(童子桜) 童子桜郎女の贈り来たりける歌 神々が 帰る日まぢか 銀輪で 水無瀬街道 風になる人(童子桜) 偐家持の返しける歌2首いづちやも 行くへは知らね 銀輪と 風がままにぞ 万葉さやぐ風吹かば 花もや愛(め)でな 花咲かば 蝶と遊ばな 銀輪の道 (注)吹かば、咲かば=仮定形。吹いたなら、咲いたなら。吹けば、咲け ば、だと、吹くので、咲くのでという意になる。林檎の実 熟れて野仕事 汗拭けば 雲ぞたなびく 津軽の富士は うまらの実 ふるへる風と 早やなりて お岩木山は 雪にあるらし (注)うまら=万葉では茨(イバラ)を「うまら」という。 童子桜郎女の返しける歌 初雪や お岩木山は 薄化粧 錦衣(にしきころも)で 寒さしのぶか (雪森の母)千日と 言はず咲けかし 千日紅 (筆蕪蕉)千日紅 なほしぞ咲きぬ 寒風の いかにか吹くも 色は変らじ池越えを 越すも越さぬも うち振れば 乗るも乗らぬも 争奪の肉 (運丸)丹(に)の橋ゆ 鴨の水尾(みづを)に 津軽風 吹きや渡れる まつり果つらし黄葉(もみぢば)に 冷たき雨も 降るらむか 遠き津軽し 思ほゆるかも (遙任家持) 童子桜郎女の返しける歌2首霜月の 雨に打たれて 咲く花を 一輪摘んで 小瓶に生ける下手な歌 綴りてあそぶ 人ありて ブログにのせる おとぼけ桜 (童子桜) 蝦蛄(しゃこ)のごと したる葉してぞ うじゃうじゃと 寿司のネタにも ならぬサボテン (野暮天) 童子桜郎女の返しける歌あら可笑し シャコバいやだと すねる客 エビが好きだと ごねるヤカモチ (童子桜) 童子桜郎女の贈り来たりける歌落ち葉乗る 古いひさしの 軒下に のれんの如く 柿のほさるる (童子桜) 偐家持の返しける歌もみぢ散る 古き軒端に 柿干さる 兒ろが姿し 見まくの欲しき立冬と 聞きてもみぢを いそぎ狩る (泥縄業平(どろなはのなりひら))冬立てば もみぢの惜しと 我妹子(わぎもこ)の 庭にぞ探す みぢのぐの秋 (冬立持(ふゆのたちもち)) 童子桜郎女の返しける歌数多き 運のわるさを ものとせず 庭にぞさがす 隠れし秋よ (童子桜)ふゆたちぬ ちとせあまれる みももとせ うつしながるる とみのをがはに (大和八一)後前(うしろまへ) せっかち母の 八度四分(はちどしぶ) 熱は下がれど クセは治らじ (うっかり家持)津軽はや 雲垂れ込めて 冬空の 朝にしあれど バーベナは別 (別花)小春日の 朝にしあれり シクラメン 咲き装(よそほ)ひて 行ける兒やたれ (出会ひの時麻呂)我妹子(わぎもこ)の 声もすなるや シクラメン 窓辺に咲ける 小春日の朝 (思ひ出の花麻呂) 童子桜郎女の返しける歌シクラメン 窓辺にならべ 何おもう 共に語りき 初恋のひと (童子桜) お岩木の 山はわれ見つ それでよし いふがごとくに 雲立ちなびく (注)掲載の写真は全て童子森の母さんのブログからの転載です。
2010.11.23
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本日の記事は、「直江津から糸魚川へ(その1)(その2)(その3)」の続編となります。 11月12日糸魚川のホテルに到着したところで自転車が壊れたことは既に述べました。 ホテルにチェックイン後、駅前の方へ食事に出る。(糸魚川駅前の通り) 駅前にも奴奈川姫の像がありました。 こちらの像は右手を下にして軽く差し出している。説明書きを読むと彼女と握手すると「願い事が叶う」とある。まあ、それを信じる訳ではないが、試しに握手してみる。握手し易い形に作ってあるので、しっくりと違和感なく、いかにも握手である(笑)。翌朝の彼女の写真も並べて置きましょう。 (奴奈川姫像) 駅前の物産センターのヒスイ館に入ると巨大な翡翠の原石が置いてある。昔、白馬岳登山をした帰りに途中下車したことがあり、その折に、これは見た記憶がある。2階に上がると和食の料理店があったので、そこで夕食とする。(ヒスイの原石) 翌13日もサイクリングをする予定でありましたが、自転車が壊れては如何ともし難い。壊れた自転車は宅配便で自宅に送り返す。 という訳で翌日はホテルで朝食を済ませた後、早々にチェックアウト。近くを散歩して、12時20分発の北越で金沢、金沢からはサンダーバードに乗り換えての帰阪と相成りました。 さて、ホテルを出て駅方向に歩いて行くと「良寛詩碑」の標識。誘われて行ってみると、単伝山直指院という寺の境内にその詩碑があった。 余将還郷 至伊登悲駕波 不預寓居于客舎 聞雨凄然有作 一衣一鉢裁随身 強扶病身坐焼香 一夜蕭々幽窓雨 惹得十年逆旅情 良寛禅師作 御風拝書 余まさに郷(きやう)に還らんとして 伊登悲駕波(いとひがは)に至り 不預(ふよ)客舎に寓居す 雨を聞き凄然(せいぜん)として作あり 一衣一鉢わづかに身に随(したが)ふ 強いて病身を扶(たす)け坐して香を焼(た)く 一夜蕭々(せうせう)たり幽窓の雨 惹き得たり十年逆旅(げきりょ)の情 詩は、良寛が岡山県玉島の円通寺での修行を終えて帰国の途次、糸魚川で病気になり、社人の家に投宿し、夜、香をたき、雨を聞きながら作ったもの。この碑は、昭和5年良寛の百年忌に相馬御風が主宰する短歌会、木蔭会によって建立されたもので、碑の字は御風の肉筆、と副碑に書いてある。(良寛詩碑)(単伝院直指院) 相馬御風は早稲田大学の校歌「都の西北」や童謡「春よこい」の作詞者で知られる歌人、詩人であるが、その後半生は良寛研究に打ち込み、ここ指直院にもよく滞在したとのこと。(日本一大きい翡翠の勾玉) 駅構内、改札口の前に大きな翡翠の勾玉が鎮座している。日本一大きい勾玉とある。こんなものをつけたネックレスをしたら首の骨が折れますな。 駅前に何やら石碑がある。近寄って見ると、相馬御風詩碑であった。碑文は「ふるさとの山はなつかし ふるさとの川はなつかし・・」という「ふるさと」の歌詞である。(相馬御風詩碑) こうなっては、昨日、立ち寄らず通り過ぎた相馬御風宅を訪ねなくてはなりますまい。 相馬御風宅は糸魚川駅正面のヒスイロードを行き、奴奈川姫像のある公園を右折して直ぐの処にある。(公園)(相馬御風宅) 御風はその最晩年をこの家で一人暮らしていたそうな。では、家の中へお通り下さいませ。(応接室・洋室)(居間)(台所)(土蔵) (相馬御風像と写真)あ都散遊美(あづさゆみ) 波留能知萬當尓(はるのちまたに) 古東もら東(こどもらと) 末理川久保布志(まりつくほふし) 以まあら那久二(いまあらなくに) (相馬御風)<参考>相馬御風(1883~1950)の生涯その他は糸魚川市歴史民俗資料館(相馬御風記念館)のホームページからご覧下さい。 御風の生涯 御風と良寛 多くの校歌を作詞 校歌以外の作詞 代表的な作詞曲 史跡・相馬御風宅 御風の文学碑<追記・注>写真2枚(「奴奈川姫像(左)」「日本一大きい翡翠の勾玉」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.21
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昨日は大学同期有志の会の例会にて、心斎橋まで出掛けて来ました。参加者は守○君、山○君、山◎君、古○君、油○君、道○君、仲○君、谷○君、小○君、中○君、広○君と小生の12名。今回は少し参加者が少なかったが、初参加の小○君は卒業以来の初顔合わせ。A新聞の記者をこの程退職、大阪に帰って来たので、初参加となったもの。近況を報告し合って、歓談。(大阪ミナミ) 夜の大阪ミナミを歩くのは久し振り。金曜日とあって人出が多い。近鉄難波駅で下車、心斎橋までブラブラ歩いて行く。(心斎橋筋・戎橋から) 会場は前回から心斎橋の大成閣と決めている。以前ここと決めていた店が閉店してしまったので、前回からこの店になった。(大成閣心斎橋店) 会食が始まってから友人たちの写真も撮りましたが、ブログに掲載することの了解までは得ていませんので差し控えます。次回、春の例会は来年の5月27日ということで散会としました。 会終了後、心斎橋から地下鉄で帰った者を除き、山○君、中○君、古○君、小○君、山◎君と小生の6人は難波駅方向に歩いて帰ることとし、途中で喫茶店に入って、また暫し談笑。 ここで愉快なことがありました。初参加の小○君と小生のサイクリングの話になり、彼の友人にも「サイクリングをする奴がいて」という話になった。その人物のある特長が、小生の友人偐山頭火氏とよく似ていたので、「僕の友人にも似たのが居る。」などと話していたのだが、段々話しているうちに同一人物かもという気がしてきて、偐山頭火氏の職場の名前を告げてみた。それではっきりしたのだが、僕らはどちらも偐山頭火氏その人のことを話していたのでありました(笑)。世間は狭いですな。思ふどち 集ひてミナミ 秋たけて なほし心に 春をしぞ見つ (偐家持)<追記・注>「大阪ミナミ」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.20
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(承前) 本堂裏の庭園を眼下に眺め、石段を上って行くと奥ノ院である。(庭園を上から見る。)(奥ノ院) 奥ノ院のお堂に上る。靴を脱いで手に持って上る。本堂と同じく自由に入れる。奥ノ院のお堂と下の本堂とは回廊でつながっているので、回廊を通って本堂に戻ることとする。(奥ノ院堂内主祭壇) 堂内撮影禁止の表示がないので、ちょっとマナー違反かも知れないが撮影させて戴く。主仏の観音様は帳で隠されていて見えない。左脇に千手観音の眷族である二十八部衆の像が安置されていたので、それを撮影させて戴く。梵天、帝釈天、毘沙門天、阿修羅王などはお馴染であるが、28神全部はとても覚えられませんな。(二十八部衆像)(回廊の階段) 本堂から外に出て、独鈷水の汲み場に回ると、その近くに弘法大師の足形があり、靴を脱いでそれに足を重ねると足腰の悪いところが治ると書いてある。やってみると足の縦長は小生のそれよりも少し短いが、横幅は少し広い。太い親指、がっしりした指の形がいかにも歩く人の足の相である。 独鈷水は勝手に汲み、寸志を置いて行くシステムになっている。草麻呂氏は用意して来たペットボトルに水を汲み、寸志を置いていたが、小生は眺めていただけ。(弘法大師の足形) 柳谷観音にお別れし、乗願寺に向かう。西山大仏があるというので、見てみようという次第。 寺の前の道に出ると薄が風に靡いて光っていました。結構高い位置に寺はあるのだ。道からの眺望もいい。(道脇のススキ)(道からの眺め)(京都府・大阪府の府境) この道を行くと島本町をかすめてゴルフ場の方に行ってしまい、乗願寺と反対方向になる。右にある墓地を通って旧道に入る。(乗願寺への道)(乗願寺近くの村社) 乗願寺も西山浄土宗光明寺の末寺である。西山大仏とも呼ばれるのは、本尊の阿弥陀如来坐像(平安時代後期作)が丈六(高さ2.8m)の巨像で大仏と呼ばれたからである。聖武天皇が奈良大仏の鋳造を思い付く契機となった大阪柏原市の智識寺にあったとされる大仏(こちらは毘盧舎那仏ではあるが)もこんな感じであったのだろうか。 天延年中(973~976年)に恵心僧都がこの地で阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのがこの寺の始まりと伝えられている。 寺は写真のような小さなもので、草庵から始まったというのも納得される佇まいである。この寺のある谷は浄土谷と呼ばれ、観音檀、釈迦ん谷、たいこん堂、欄杆房(なんかぶ)などの地名が今に残る。(乗願寺)(西山大仏・阿弥陀如来坐像)秋山の 浄土の谷の もみぢ踏み 来たりはろばろ み仏のもと (偐家持) 乗願寺から坂を下って行くと大阪府島本町方向に、我々は坂を上って行くことに。といっても直ぐに坂はうねうねとした下りとなり、府道79号(伏見柳谷高槻線)に出る。帰宅して、地図を見ると途中で右に500mばかり間道を行くと土御門天皇金原陵があったことを知る。立ち寄れなくて残念。 この辺りは筍の産地。竹林が多い。農園としての竹林は適度に間引きされた空間を有し、地面には藁が均等に敷かれて閑雅な美しさを感じさせる。人間の手の入らない自然の美しさもいいが、人間の手が加わってかもされる自然の美しさは僕らを優しい気持にさせる美しさで、心落ち着くものがある。しかし、藁を一面に敷く作業なんかは大変だろうな。そう言えば、柳谷観音へ向かう竹林の道を行った時、竹林の中で作業されていたご夫婦が「猪が出て地面を滅茶苦茶にするので困る。」と仰っていたことなども思い出される。(竹林) やがてバス通りに出て、歩道をバス停にして3~4つを歩くと長岡天神である。境内の一角を通り、錦水亭を右に見て、大鳥居から少し東に行くと阪急京都線長岡天神駅の前である。駅前の喫茶店に入って珈琲タイム。しばし歓談(閑談?)。西山は さやにさやさや 秋風の 音もやさしみ 絶えず通はな (偐家持)(長岡天満宮の大鳥居) 喫茶店を出て、蝶麻呂氏と小生は阪急で梅田へ、鯨麻呂氏と草麻呂氏は更に800mほど東に歩いてJR長岡京駅から家路につかれました。 をのこよたりの色なき「歩歩」に長々とお付き合い賜り有難うございました(笑)。これにて、天王山紅葉ハイキング完結です。 今夕は大学の同期の者12名の会食あり、心斎橋まで行ってまいります。
2010.11.19
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(承前) 天王山山頂(と言っても標高274.3mに過ぎませんが)で昼食を済ませてから、山を縦走し、尾根道を行き、柳谷観音(楊谷寺)、乗願寺へと向かう。(天王山山頂からの眺め)(道標)(柳谷・金ヶ原への道) やがて右手に京都の市街地が見えて来る。写真では分り難いですが、右端に京都タワーが写っています。(京都市街を遠望)(柳谷観音への道)(山道から舗装道路を上って行くと柳谷観音に着く。) 柳谷観音の前まで来ると道脇の建物で干し物をされていたご婦人が、「あそこも見て下さい。」と仰るので振り返り見上げると美しい紅葉が・・。(柳谷観音前の道脇の紅葉)(柳谷観音) 柳谷観音は通称で、正式には楊谷寺という。善峰寺、光明寺と併せて京都西山三山と称されている。本寺は西山浄土宗光明寺の末寺で、本尊は十一面千手千眼観音である。大同元年(806年)京都清水寺開祖延鎮が開き、空海もここで修行をしたと伝えられている。 境内にある岩穴から湧き出ている水は、独鈷水(おこうずい)と呼ばれ、眼病平癒の霊水とされている。(本堂)(庭園)(境内の紅葉) この寺は紅葉がとても美しい。小生が見た中では今年一番の美しい紅葉であった。もみぢ葉も 添ひてたぐひて ふたつあり をのこよたりの 道にしあるを (偐家持) 上の写真は「やらせ」ではありません。手水鉢にこの形で浮かんでいました。友人の草麻呂氏が指差して「これ、なかなかいいのではないか。」というので撮影したものであります。 境内の紅葉をしばしお楽しみ下さいませ。(本堂から奥ノ院への道の紅葉)(同上)(同上) 奥の院へは本堂から回廊を通っても行けるが外側から回って行き、帰路は回廊を行くこととした。 ここでまた、一日当りの写真掲載限度に達しました。奥ノ院以下は次回の記事になります。上下二篇に収めるつもりでしたが、上中下三篇になってしまいます。悪しからず(笑)。
2010.11.18
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直江津・糸魚川銀輪散歩はひとまず完結とし、昨日友人3名(大津鯨麻呂、葭笛草麻呂、虫飼蝶麻呂)と天王山とその周辺を歩いて来ましたので、そのご報告をさせて戴きます。 JR山崎駅前午前10時集合。 駅前で折り畳み自転車を組み立てているご夫婦らしき二人組。同好の士とあれば、つい声を掛けたくなるヤカモチ。(自転車。持ち主のカップルは足だけ写っています。) 自転車の重量が気になるヤカモチ。訪ねると12kgとのこと。小生のMTBと同じ位の重さだ。トレンクルよりも4~5kg位重いが、変速機も付き、ハンドル部分にバッグがセットできるなど便利な設計になっている。桂川沿いを上流へ嵯峨野へと走られるのか、石清水八幡から淀川を下り、大阪方面へと走られるのか、行き先は聞き忘れました。 今回は銀輪返上、銀輪家持もホホモチ(歩歩持)である。JR線の踏切を渡ると目の前に登山口がある。(天王山登山口) 先ず、大山崎山荘美術館の庭だけを覗いて行くこととする。モネの睡蓮の絵があるらしいが、美術館は友人達の総意にてパス。(先を行く友人3人)(色づく銀杏を見上げ・・)(美術館入口)(美術館となっている大山崎山荘の建物)(庭にはツワブキの花が・・) 登山道に戻り、先ず目に入る大念寺の山門への階段を上る。(大念寺山門) 大念寺は、弘治元年(1555年)に大山崎荘在住の井尻但馬守長助が京都智恩院の徳誉光然上人を開山として建立したものとか。幕末、禁門の変の動乱に巻きこまれて全焼、明治12年になって現在の規模で再興されたとのこと。(大念寺本堂) 大念寺から少し上った処に宝積寺がある。この寺は奈良時代に聖武天皇の勅願寺として行基が開創したと伝えられる。山崎の合戦では秀吉がこの寺を一時陣所としたらしい。また、禁門の変の動乱や明治に入っての廃仏棄釈などで衰退するが、徐々に復興し、今日に至っている。(宝積寺<ほうしゃくじ>山門)(本堂前の階段) (三重塔) (秀吉出世石)(本堂)(境内の紅葉) この寺の横から山道となり、土と落ち葉を踏みながら、竹林を抜けたり、紅葉に目を楽しませたりしながらゆっくりと上って行く。(展望台下の広場からの眺め) 展望台のある場所の少し下の広場に出る。眼下に桂川が流れ、左奥に石清水八幡のある男山が見える。 広場では近くの保育園の園児たちでしょうか、保母さん2人に連れられてお散歩に来ていました。(園児たちのお散歩) 更に少し行くと展望台である。酒解神社の鳥居と山崎合戦之地の碑と旗立松がある。(酒解神社鳥居。右に山崎合戦之地碑と旗立松がある。)(旗立松) 秀吉は天王山に駆け上り、味方の士気を高めるため松の樹上高く軍旗を掲げさせた。これを見た羽柴軍は一気に敵陣に攻め入り、明智軍は防戦一方になってしまったとか。その初代の松も明治中頃には朽ちてしまい、現在のこれは5代目だという。 鳥居を潜って行くと「十七烈士の墓」がある。禁門の変では真木和泉率いる隊300名も天王山一帯に布陣し、蛤御門での武力衝突で始まった戦に向かうが、長州軍は敗退、天王山に終結し、国元へと引き揚げる。その際に、真木和泉以下17名がしんがりをつとめる。17名は長州軍を見送った後、幕府軍の掃討を前に、天王山に登り自刃する。その墓碑が並んでいる。(十七士の墓)(十七墓表)(真木和泉守平保臣之墓)大山の 峯の岩根に うづみけり わが年月の やまとだましひ (真木和泉辞世の歌) 十七士の名と出身藩は以下の通り。千屋菊二郎菅原孝健(土佐)、松山深蔵橘正夫(土佐)、岸上弘安臣(宇都宮)、廣田精一執中(宇都宮)、能勢達太郎平成章(土佐)、小坂小二郎源雄宗(肥後)、加藤常吉藤原任重(久留米)、安藤真之助強怒(土佐)、真木和泉守平保臣(久留米)、松浦八郎寛敏(久留米)、池尻茂四郎(久留米)、松田五六郎(筑前)、加屋四郎藤原時雄(肥後)、 中津彦太郎藤原義直(肥後)、酒井荘之助(肥後)、宮部春蔵(肥後)、 西嶌亀太郎(肥後)(酒解神社) 自玉手( たまてより)祭来(まつりきたる)酒解(さかとけ)神社というのが、この神社の正式な名前のようであるが、延喜式神名帳によると、元正天皇の養老元年(717年)建立の棟札があったとのこと。中世、山下の離宮八幡宮の勢力が強くなって、山崎山上に遷座、やがて、天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになったという。(酒解神社拝殿) 神社を過ぎると、もうそこは天王山山頂である。弁当タイムとする。出掛けに大阪駅で乗り換える前に、奥の北陸線ホームまで行って買って来た神戸ステーキ弁当でお昼です(笑)。本日はここまで。続きは明日とします。<追記・注>写真5枚(「大念寺山門」「三重塔」「秀吉出世石」「旗立松」「真木和泉守平保臣之墓」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.17
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(承前)五智居田(ごちこた)を 過ぎて名立も 越えぬれば しぐれて能生(のう)は ひと影もなき (偐家持) さて、自転車は能生へと入りました。海沿いに出て暫く走ると5番目のトンネル「百川トンネル」である。トンネルを抜けると右手前方に風力発電の風車と白い船が見えて来る。能生海洋公園である。船は越山丸とある。船自体が博物館になっていて、見学できるようなのであるが、人影もなく、入場(乗船?)できるのかどうかもよく分らない。 誰も居ないなあ。 曽良曰く「そらそうや。こんな雨まじりの強風の日、それも ウィークデイに、自転車で走るヒマ人の酔狂者は、 ヤカモチはんぐらいなもんでっせ。」(百川トンネル)(能生海洋公園・越山丸)(同上)(能生海洋公園・風力発電の風車) 誰も居ないと思いましたが、公園の一角には海を眺めている少女が居ました(笑)。(「何が見える?」「何も見えへん。」) 公園を後にして自転車道に戻る。 6番目、7番目のトンネルが続く。(小泊トンネル)(白山トンネル) 白山トンネルを抜けると茅葺の風情ある建物が目を引き付ける。白山神社である。(白山神社・正面が拝殿、右が御旅所)(白山神社。拝殿と御旅所) 能生白山神社は、崇神天皇11年11月鎮座とも文武天皇の大宝2年の鎮座とも伝えられているそうだが、祭神は伊佐奈岐命、奴奈川姫、大国主命である。当初は奴奈川神社であったが、奈良時代に泰澄大師により仏像を併安して、白山大権現と改名せられたとのこと。明治維新後の神仏分離により、白山神社となった。 道路を挟んで神社の向い側に茅葺きの「曲がり屋」がある。歴史民俗資料館である。土日祝日のみ公開にて戸を閉ざしている。傍らで水車だけが、ゴトン、ゴトンと回っていた。(歴史民俗資料館)(水車) 風車に続いて水車ですが、後は「火の車」ですかな?これは家に帰るとあるので、見る必要がない(笑)。 境内で暫く休んで、出発。川を渡り、再び国道に並ぶようにして海沿いの道となる。前方の雲が明るくなって、海面も明るさを増している。(この川でも鮭が遡上している。)(再び海沿いを行く。風がまた強く吹く。) 山側に目をやると、黄色に輝くもみつ葉が・・。(もみぢ葉匂ふ・・) 鬼無崎橋という名の橋にさしかかると、下を流れる川に鮭がいて、どうも産卵をしているようでもある。こんな河口近くでも小さな川なら浅瀬もあるので産卵をするのですな。写真を何枚か獲りましたがうまく写っていませんので、アップできません。残念。(鬼無崎橋の架かる小川。直ぐ先が海である。)(同川、鬼無崎橋<きぶさきばし>から見る上流) 雲間から太陽が覗き、明るくなると海はこのようにたちまち青くなる。(日本海は暗いばかりではないのだ。) しかし、自転車道も終りに近づきました。(休憩所。このような休憩所が途中何か所かありました。)(最後の直線。この先で自転車道は終点となる。)(糸魚川側入口。つまり、終点です。) 自転車道から出て来ると国道8号。国道に出て歩道を走る。直ぐに早川を渡る。渡ってしばらく行くとひとつ手前の駅「梶屋敷駅」の表示があったが、糸魚川駅まで走ることにする。駅までは5km位だろうか。再び雨が降り出すがもう雨具は付けない。日も暮れかかりライトを点灯する。国道が右にカーブする処で脇道に入る。 相馬御風宅の前を過ぎ突き当ると駅前の通りである。その角に小さな公園があり、奴奈川姫像があるので、ちょっと御挨拶。やっと、万葉歌に関係するものに出会えました(笑)。(早川の河口)(奴奈川姫の像) 奴名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得(え)し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも あたらしき 君が 老ゆらく惜しも (万葉集巻13-3247) (注)1.奴名川(沼名川、奴奈川)は、姫川、その支流の小滝川、 姫川の西にある田海川、青海川など諸説がある。 2.「あたらしき」は、惜しい、の意。「あたら若き命を」などと言 う時の「あたら」と同じ言葉ですな。 3. 奴名川の「ぬ」(瓊)は、玉、翡翠(ヒスイ)のことである。 古事記には、八千矛神(大国主命)が越の国にやって来て、奴奈川姫に求婚し、結ばれるという話が出て来るが、これについて述べると字数が足らなくなるので省略。本日はここまでとします。 糸魚川での散策は後日のアップとし、銀輪散歩はこれで完結といたします。最後までお付き合い下さり有難うございました。
2010.11.16
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(承前) 前回は五智国分寺の境内で終ってしまいました。境内の羅漢さんのアップ写真から始めることとします。(五智国分寺境内) 五智国分寺にお別れし、県道に出て西へ。やがて、国道8号に出る。そこが久比岐自転車道の上越側入口である。暫く国道に沿う形で、日本海を右に見ながら走る。(久比岐自転車道上越側入口) 自転車道は、途中で地下通路を通って国道の左側に移る。自転車道はほぼ国道8号に平行するようにあり、右から左、左から右にと、途中で国道を渡る箇所があるのだが、この処のサインがなくて、知らぬうちにコースアウトしていたりするのが難点です。 自転車道に入った途端に雨が降り出す。用意の雨具上衣とズボンを着用し、ザックにカバーをつける。これらは昔、登山の時に使用していたもので、最近は山登りではなく専らサイクリングに利用している。(国道の左側に移る。終点まで32.2kmの標識。) 旧北陸線の廃線跡をほぼ利用しているコースなので、アップダウンも一部を除きさほどもなく楽に走れる。 2~3分走ると、1番目のトンネル「長浜トンネル」である。照明もあってトンネル内も快適に走れる。(長浜トンネル)(トンネル内) 道はゆっくりとした上り坂。少しずつ高みへと。トンネルを出ると国道は下の方に。(鳥ヶ首岬付近。右から、国道8号、一般道、自転車道) 2番目のトンネル「青木坂トンネル」である。トンネルの入り口に赤い花が咲いていましたが、何という花か名前は知らない。(青木坂トンネル)(これは花ではなく、クサキの実が落ちた後の姿である。) 次々とトンネルが続く。山の中の道を走っている雰囲気になる。3番目のトンネルが見えて来る。遠目からは、何やら不気味な感じだが、トンネルの中は照明で十分に明るい。(乳母ヶ岳トンネル) 乳母ヶ岳トンネルを出ると滝がありました。不動滝である。滝の正面は広くなっていてベンチもある。しばし眺めながら煙草を一服。(不動滝)(同上) 振り返ると海が眼下に。山と海が共に楽しめるコースですな。 少し風も出て来ました。雨はもう止んでいる。海の白波も心なしか大きくなっているような。(木綿花と咲くや白波寄せも来る・・) 少し日差しも出て来ました。先を急ぎましょう。小さなトンネルが二つ続く。(名前のないトンネル) 奥の細道の旅でお声が掛からず芭蕉と曽良が通り過ぎた名立に着く。ヤカモチにもお声は掛からなかったが、道の駅でしょうか、国道を渡って「うみテラス名立」に立ち寄る。山側を眺めると紅葉が美しい。(「うみテラス名立」からの山の眺め) 「うみテラス」というのに、ヤカモチは海を見ず、山だけを見て、自転車道に戻ってしまいました。これでは「やまテラス」ですな(笑)。アマテラスオオミカミは何と仰いますやら。 自転車道を外れたのか町並の中を走る。橋にさしかかる。川では鮭を獲っている人達がいました。鮭が次々と遡上して来ています。(向こうの橋が自転車道かな?)(鮭を捕る人) 名立町の家並を抜けて能生町へと繋がる、4番目のトンネル「大抜トンネル」へと向かう。(久比岐自転車道・名立町) この辺りから風が強い向かい風になる。ペダルを漕ぐ割にはスピードが出ない、と言うか、はかばかしく前に進まない。これはかなりの坂道を上っているのに等しい運動量である。(大抜トンネル)(寄せ来る波の・・)(筒石付近)(波もとどろに・・)(筒石の集落。ここはかなりの上り坂。)(天上からは天使の階段も下りて来ましたが・・) 小さな川を渡ると道の下にお寺があり、境内の銀杏の大木が美しく色づいていました。(道の辺の銀杏の大木) 文字制限一杯です。続きは明日に。本日もお付き合い下さり有難うございました。<追記・注>写真3枚(「同上(不動の滝)」「筒石付近」「道の辺の銀杏の大木」)が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.15
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糸魚川・直江津間に廃線跡を転用した自転車道があるというので、走って来ました。久比岐自転車道がそれ。全長33km程度。駅から自転車道までの一般道路を走る分を加えても40km程度、手頃な自転車散歩コース。海沿いを走るのと、廃線跡故のトンネルがいくつもあるというのに魅かれて出掛けました。 糸魚川にホテルを取っていたので、先ず直江津までJRで行き、そこから自転車で糸魚川まで走ることとした。しかし、これが失敗。風が逆風で、しかもかなりの強風。自転車がなかなか前に進まない。時々雨も降る。雨具を着たり脱いだりしながら走る。それでも晴れ間も覗き、灰色の海がたちまち美しい青色となる。寄せ来る白波を目で楽しみ、波の轟を心地よく耳に聞きながら、山側に目を転ずると美しくもみぢする木々ありで、変化に富んだ楽しい自転車道でありました。 ただ、糸魚川のホテルに着いて自転車(トレンクル)を折りたたんでいる時に、ハンドルを二つに折りたたむ連結金具の取り付け台座がパカッと割れてストッパーと取り付け金具が転げ落ちました。見ると金属疲労による断裂のよう、見事に割れていました。ハンドルを立てることは不可能となり、自転車の走行は不能です。どうやら、長期入院となりそうです(笑)。 急坂を下っている時とか速度を上げて走っている時など、走行中にこれが起こっていたら、転倒、身体は前に投げ出され大怪我になっていたかもと思いましたが、今回の割れ方だと半分残った部分が支えになってハンドルを立てた状態ではストッパーが外れることはなく、走行中にハンドルが二つ折れになることはなかったようです。走行中に既に割れていたのかも(笑)。この部位は時々点検する必要ありそうです。 (ハンドルのストッパーを下げてハンドルを二つ折りにすると割れた台座が現れる。) (台座の割れた部分が落ちるとストッパーも外れて下に落ちる。) という訳で、翌日の姫川遡上サイクリングは中止。予定を早めて帰途につきました。 では、今回の自転車散歩、暫くお付き合い下さいませ。(直江津駅前) 自転車道入口は直江津駅から北西2km位の処、県道と国道8号とが交わる地点にある。少し市内を走り、海沿いの道に出てみる。(諏訪神社) 先ず目に入った神社に立ち寄りご挨拶して行くことに。諏訪神社の先から更に海方向に行くと海沿いの道に出た。(海沿いの道) 緩やかな坂道を上って行くと。日本海が一望。日差しもあって、順調なスタートです。風もさやかに吹いている。波の音も優しげである。(日本海) 程なく何やら石碑があるので寄ってみると「親鸞聖人御上陸居田ヶ浜記念堂・・」とある。坂を上って行くと。(親鸞上陸記念碑) 碑文は「もしわれ配所におもむかずは何によりてか辺鄙の群類を化せん。これ猶師教の恩致なり。」とある。親鸞の言葉ですな。念仏を危険思想と見做した時の権力によって越後に流罪となった親鸞は承元元年(1207年)に此処居田ヶ浜に上陸し、35歳から42歳までの7年間、当時の国府であったこの地にとどまって、民衆の教化に努める。碑の横に見真堂がある。写真を撮っていると、バスで20名余の団体さんがやって来て、狭い境内はたちまち人だかり。見真堂の撮影は諦めて、近くにある国分寺へと向かうこととする。(見真堂の門)(見真堂から見る居田ヶ浜) 海沿いの道を来たので少し来過ぎている。五智国分寺は県道を少し上越市街方向に戻らなくてはならない。(五智国分寺山門) 五智国分寺は清々しい気分になるスッキリしたいい雰囲気のお寺である。国分寺は一国一寺。越後国分寺と呼ばないのは、越後国分寺の所在については諸説あり、未だ何処と定説を見ていない所為のようだ。 五智国分寺は廃寺となっていたものを永禄5年(1562年)7月に上杉謙信が再興したものとか。(本堂)(同上)(三重塔) 現在の三重塔は安政3年(1856年)に再建されたものとのこと。塔から少し山門側に戻った処に芭蕉の句碑があった。(芭蕉句碑) 薬欄にいづれの花をくさ枕 (芭蕉) この句は「奥の細道」には出て来ないが、曽良旅日記の7月8日の段に「未ノ下尅、至高田。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ来ル。<略>寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状来ル。頓テ尋。発句有。」とある、細川春庵亭での句会での発句がこの句である。これに春庵(号は棟雪)が「荻のすだれをあげかける月」と続け、更也なる人の「炉けふりの夕を秋のいぶせくて」に、曽良が「馬乗ぬけし高藪の下」と吟じている。 芭蕉は奥の細道の旅で旧暦の7月8日から10日まで直江津に滞在、11日に出発している。曽良旅日記では「十一日快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。」とある。五智は勿論この五智国分寺のことである。 小生も名立・能生へと向かって走るのであってみれば。図らずも芭蕉の後を追う銀輪散歩となります。 曽良曰く「そら、ええなぁ。」 その前に、境内の羅漢さんの集団を眺めてほっこりして行きましょう。(羅漢さん達) ここで、写真一日当りの掲載制限に達しました。未だ久比岐自転車道の入口にも来ていませんが、本日はこれまでです。また明日お付き合い下さい。<追記・注>「三重塔」の写真が横倒しの歪んだ画像になっていたので、2020年11月13日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2010.11.14
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今月は第一水曜日が文化の日で休日だったので、囲碁の例会(第一、第二水曜日)は今日の一回だけ。いつものように自転車で出掛けて来ました。 戦績は、青○氏と一局、福○氏と二局していづれも負け、三戦全敗でありました。「まあ、そういう日もある。」と福○氏に慰めていただきました(笑)。 本日は小生が一番乗りでありましたので、皆さんが来られるまで、写真を一枚、パチリ。こんな場所で碁を打っています。 さて、自宅から梅田の会場までの自転車散歩で見かけた風景を写真でご紹介です。大阪城大手門前の広場の一角にある像、外周道路を走っていると必ず目に入るので、何だろうと前から思っていましたが、信号待ちの時間に像に近付いてみると、世界連邦建設同盟大坂支部建立の平和像という何やらご大層なものでありました。(平和像) 会場の梅田スカイビルの中庭には、早くもクリスマス・ツリーが飾られ、恒例のドイツ・クリスマス・マーケットの準備中でありました。(新梅田シティの中庭) 大阪天満宮の近く、ビル街の一角に、このような建物もありました。こういう風景はヤカモチ好みですな。(大阪市北区とは思えぬ風景も・・)(ちょっと路地に入ってみるのもいいものである。)(桜橋交差点) 四橋筋と国道2号線が交差する処が桜橋交差点。写真奥がJR大阪駅、中央の高層建物はヒルトンホテル。上の古民家と並べると大阪の今昔の姿二題という感じですかな。 以下は今日の写真ではありませんが、数日前の花園中央公園のハナミズキの紅葉です。関係ありませんが、もみぢの写真、大阪城公園で撮るのを忘れていましたので、その代替物です(笑)。(ハナミズキの紅葉) ついでに、加納緑地の紅葉も。これは何の木だったかなあ?
2010.11.10
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今日は立冬。冬立ちぬ、で暦の上では今日から冬。平城遷都1300年祭も平城宮跡メイン会場での催しは本日で終了とか。イベントの大勢の人波を嫌う偐家持で、その内に行ってみようと思いつつ今日まで先延ばしにしていたのであるが、最終日とあっては行くしかあるまい、と朝9時に家を出て奈良へと向かう。会場内は自転車を押して行くならそのまま入れるとあって、自転車を押しながら入場。しかし、沢山の人で大極殿建物内に入ろうとすると随分待たなくてはならず、待てないヤカモチはパス。ざっと回って後は奈良自転車道を走ることに。(会場入口へと続くアプローチ)(青い衣装の一団は会場で踊りを披露するグループのよう。) 朱雀門の前に着くと前庭で何やら賑やかな声が。覗いて見ると赤い集団のダンス。 周辺には出番を待つ人達の群れ。TVで練習風景が放映されていた神戸の、かっぽれを踊るグループも。「TVで拝見しましたよ。」と声をお掛けすると人懐っこい笑顔が返ってきました。(かっぽれのグループ)(こちらは太鼓を提げた少女たち) 出演者には失礼ながら、ヤカモチは先へ。(歌碑)(歌碑) 偐家持はやはりこちらの方に目が行きますな。歌碑の傍に明治時代、平城宮跡の保存に力を尽した棚田嘉十郎の像がある。(棚田嘉十郎像) 朱雀門を後にして大極殿へと向かう。振り返ると朱雀門の雄姿が。(朱雀門) 大極殿会場に入ると菅原町など地元の祭の太鼓台が演技していました。(大極殿前)(太鼓台) 大極殿そのものを撮って置かなくては手抜きとなりますな。(大極殿) 偐家持は遷都1300年祭の会場にあっても、やはり目が向くのはススキの原であったり、色づき始めた銀杏の葉であるのですな。(平城宮跡の芒の原)(見上げれば、平城宮跡の銀杏の葉も色付き始めて・・) 以上で平城宮にお別れし、奈良自転車道を走ることに。その前に昼食をと新大宮駅前まで自転車で走る。佐保川の桜が美しく紅葉しています。(佐保川・奈良市役所付近) 昼食後、国道24号(奈良街道)を北上、奈良自転車道に入る。JR奈良線の下を潜ると、たちまち別世界、里山風景が広がる。黒髪山への登りをゆっくり走り、般若寺門前で引き返す。この道は以前にもブログにアップしているので、ご参照下さい。 <関連記事>奈良自転車道銀輪散歩(般若寺)(般若寺と言えばコスモス。) 般若寺から来た道を引き返し、磐之媛陵を目指す。(奈良自転車道)(帰路は下りなので爽快な走りである。)(道脇の竹林も美しい。) 国道24号を潜って坂道を上ると、磐之媛陵である。この御陵、その周辺の佇まいも含めて小生は何故か好きで、もう数え切れない位訪れている。(磐之媛陵)(濠の佇まいもいい。睡蓮や菖蒲の咲く小雨の時が一番いい。)(磐之媛陵正面) 法華寺の前を通り、再び佐保川に戻り、川沿いを南へ走る。秋篠川に出て、西の市跡から大和郡山市街へと入る。(法華寺)(佐保川の石橋でしばし休憩。)(九条公園の紅葉)(外濠緑地)(大和郡山城近くの公園)(近鉄大和郡山駅前の交番) 駅前で西に入り、富雄川を目指して走る。富雄川に出た処で右岸の道を北へ。近鉄富雄駅を目指す。ようやく日も山の端に沈もうとしている。立冬の夕景は何やらさみしく、もの悲しい風情であるが、それがいいのですな。(富雄川・上流<北>を望む。写真の左側の道を奥へと走りました。)(富雄川畔夕照)(富雄川の夕照・奥の山は矢田丘陵。生駒山はその背後にある。) 富雄駅に着いた頃は暗くなりかけていました。自転車をたたんで電車で家路に。もう文字制限一杯です。和歌を書き加えることもできませんので、本日はこれにてご免。
2010.11.07
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第66回智麻呂絵画展 智麻呂絵画ファンの皆さま。お待たせいたしました。作品が10点揃いましたので、第66回智麻呂絵画展を開催いたします。どうぞごゆるり智麻呂絵画をご散策下さいませ。(谷中の菊) この小菊は、谷中の菊まつりで買い求め、東京ご在住のリチ女さんが送って来て下さったもの。先月23日に偐山頭火君と水無瀬神宮銀輪散歩をした帰りに、智麻呂邸に立ち寄った際に撮影したものです。原画はもうリチ女さんの手許にあることと存じますが、花のひとつひとつをコツコツと丁寧に描かれた大作であります。むらさきの 谷中の小菊 それぞれに それぞれの顔 つばらにぞ見む (偐家持) (注)つばらに=些細な点まで詳しく、一々に。(ムクゲ)(カナメモチとスズメバチ) カナメモチの花にとまっている蜂。蜂は多分、智麻呂絵画にはハチ登場、いや初登場だと思いますが、これは小万知さんの写真を見て描かれたものであります。花にとまっている蜂を写生するのは不可能ですからね。 <追記>小万知さんのご指摘により、訂正します。 上記の植物はカナメモチではなくポインセ チアの仲間で野生種の猩猩草だそうです。 <2010年11月7日夜>(栗)(柿) 栗と柿。秋を代表する味覚でありますが、視覚でお楽しみ下さいませ。 栗は万葉に登場(と言っても枕詞としてですが)しますが、柿は登場しませんな。万葉人は法隆寺の鐘の音は聞いたのでしょうが柿は食わなかったのですかな(笑)。三栗(みつくり)の 那珂(なか)に向かへる 曝井(さらしゐ)の 絶えず通はむ そこに妻もが (巻9-1745) (ベロペロネ) (間引き人参) ベロペロネはご近所で戴いたものを花瓶に生けて写生されたものですが、隣の人参と共に、とても素敵な絵になっています。(お茶の花) これは「何の花?」と思いましたが、恒郎女様から「お茶の花」だと教えられて納得です。言われてみれば確かにお茶の花です。季節外れなのは、これも小万知さんの花写真集からの写生であるからです。(銀杏) この銀杏は智麻呂邸の前の道路を挟んで反対側の道脇にある銀杏の木から落ちたものです。未だ青いのに落ちたのは、先日(10月30日)の台風接近による強風によるもの。落ちた葉をいくつか拾って絵の題材とされたのであります。 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 (漱石) 夏目漱石のこの句をヒントに正岡子規はあの「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったとされている。 いてふ散れば その絵描くなり 智麻呂氏 (秋目漱砂)(芙蓉) これは花の感じから「芙蓉」と偐家持が判断したものですが、葉の感じが少し芙蓉らしくないので、違う花かも知れません。詳細不明・詮索不要であります(笑)。
2010.11.06
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偐万葉・松風篇(その13) 偐万葉シリーズ第82弾。本日は、松風篇(その13)をお届けします。 <参考>過去の偐万葉・松風篇はコチラからどうぞ。 松風さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が松風朝臣麻呂に贈りて詠める歌17首 併せ俳句1句身は秋に 置きて恋ふなる 夏の景 (筆蕪蕉)秋されば いまはた恋し 真夏日の 向日葵咲きて ギラリ照る日も (秋野枯麻呂) (注)さる=来るの意。「秋されば」は秋がやって来たので、の意。 人恋し 祭の音の 聞こえ来て 背子が絵もまた をとめの二人秋の葉の 匂へるときに いざ行かな 鶴見丘の辺 照る日の道を コスモスの 花咲き始(そ)めば 丘の上(へ)の 風車は秋の 風や恋ふらし山桃の 深きみどりの 葉の繁み 風にも秋は ものこそ思へ 風わたる また始まりの 朝にして みなとりあへず 常の道ゆく (月曜朝麻呂) 長歌 風吹けば 風がまにまに 雨降れば 雨がまにまに 雲のごと 吹かれも行かむ 水のごと 流れも行かむ 何気なく 我もありたし 野の花と 咲きても散れる 身にしもあれば 草もみぢ 織りなす原野 踏みならし 行ける跡道 白き風吹く鶴見野の 丘のユリの木 残る葉に 風の音(と)寒く 冬ぞちかづく たなぐもる 空ゆ吹き来る 寒風の さっとひと刷(は)き 静もれる池 (鶴見池麻呂)これやこの ゆくもかへるも 昼餉(ひるげ)どき 喰ふもの喰はねば こと始まらねえ (弁当丸) 夕風に うちや震へる ポプラの木 散るも散らぬも 冬を待つ間ぞ (夕暮家持) (注)ポプラの学名Populusには震えるという意味があり、ポプラ の葉が僅かな風でもサラサラとそよぐことから付けられたとい われる。秋の日は しみらにひとり あるもよし 我は釣りする 人にしなけど (注)しみらに=繁(しみ)らに、で、みっしりつまって、そればかりで一杯 になるさまを表す。「すがら」と同意(夜もすがら)。 繁(しみ)み(繁々(しみしみ)の略)も同根の言葉。 ここでは、一日中ずっとひとりで、という意味で使用。 鶴見野の 月松風の 林(しづか)なり 愛(は)しきと見てや はやととせ経(へ)し (松風偐麻呂)空画(かく)す 四本(しほん)のポール 高々に 馬場ゆく黒馬 一頭の秋 馬駆ける 蹄の音に いつしかも 合せて息を 吐きているわれひと恋ふと 来るとしあらね 枯れ枝の 先吹きわたる 寒き風の音(と ) (注)掲載の絵画は全て松風さんのブログからの転載です。
2010.11.05
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朝食後、毎月初旬に行っている墓参に行って参りました。 墓参の帰途、山裾の野道を散策して帰宅。 ススキの穂も殆ど散って、早や枯尾花となっていましたが、小さな池の端にひと群あるススキが未だ若々しい穂を付けていたので、数本摘んで帰りました。野道の傍らに、どなたが置き忘れられたのか、それとも意図して置いて居られるのか、どちらとも分り兼ねるが、一本の鎌が、金属製パイプに挿して置いてあった。少し後戻りして、その鎌をお借りしてススキの穂を刈りました。 鎌借りて 墓参(ぼさん)の帰り薄( すすき)刈る (借り暮らしのヤカモッティ) 鎌は少し錆びていましたが、切れ味は悪くない。元の場所に鎌をお返しして、家路へ。 帰宅してパソコンを開くと当ブログのアクセス件数が90000件を超えていました。90000件目はどなたかと見てみましたが、やはり楽天ブログの方ではありませなんだ。900002010-11-03 07:55:11***.yahoo-net.jp 昨日は、大学同期の守○君より電話・メールがあり、19日の同期会の案内があった。前回の同期会の際に、次回はこの日と決めたのに一向にその連絡がないので、中止かと思っていた矢先のことであった。連絡がなかったのは、連絡係をやってくれていた谷○君のパソコンが故障してしまった所為らしい。という訳で、守○君が連絡できなかった10名程の友人に対して、小生の方から連絡してくれとのことであった。早速にメールを転送して当該友人達に通知。油○君はパソコンも携帯も持たない恐竜みたいな奴なので、自宅の方へ電話で通知。参加するとの返事を得た。 もう一つのメールは茨田童子さんからのもので、交野市の星田妙見宮に建立の万葉歌碑の除幕式が12月23日にあるが参加しないかというお誘いのメールであった。早速に参加する旨返信した。 この万葉歌碑は大伴家持の七夕歌を刻したものであってみれば、偐家持も表敬のため出掛けねばなるまい、という次第(笑)。なお、除幕式は午前10時から、参加費は無料です。ご希望の方は星田妙見宮までお出掛け下さいませ(笑)。織女(たなばた)し 船乗りすらし まそ鏡 清き月夜に 雲立ち渡る (大伴家持 万葉集巻17-3900) この歌と山上憶良の下記の七夕歌とを比較鑑賞するのも面白いかと存じます。 (参考:2008年7月7日「七夕」)牽牛(ひこぼし)の 嬬(つま)迎へ船 漕ぎ出(づ)らし 天の川原(かはら)に 霧の立てるは (万葉集巻8ー1527)(墓参の帰り道。朝日を透かしヤマゴボウの葉が美しく色づいて。)
2010.11.03
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偐万葉・木の花桜篇(その9) 偐万葉シリーズ第81弾は、木の花桜篇(その9)であります。 <参考>過去の偐万葉・木の花桜篇はコチラからどうぞ。 木の花桜さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が木花桜姫に贈りて詠める歌20首併せ俳句1句 並びに木花桜姫の返しける歌など9首池の辺に 咲ける壱師の 花見つつ 亀も秋には 鳴かずと見ゆる (偐亀持) (注)「亀が鳴く」は春の季語。 <参考>河こしの をちの田中の ゆふやみに なにそときけは かめそなくなる (藤原為家) 秋風に 咲ける花野の 池のはた 亀もひねもす 甲羅干すなり (偐亀麻呂)白鷺は いづち行くらむ 壱師(いちし)咲く 黄金(こがね)の稲田 待ちてやあるを (注)壱師=彼岸花 木花桜姫の返しける歌1首二羽の白 飛び交いながら 去りゆきし 実りの秋の 幸い祈る 風船の 種もハートの 恋葛 猿の顔にも 似なくもなけど (偐猿丸)紙風船 ならぬ葛の 種五つ 芽吹けや吉備の 桜咲く頃 (海賊船葛)秋桜(こすもす)の 花に置きたる 露にもや 晴れたる朝の 空ぞ見えける (虫めがね家持) 朝寒の 風に寄り添ふ 金木犀 (筆蕪蕉)美味しさは その色ほども なかりけれ 槇の実喰へる 秋の夕暮 (槇蓮)アホらしき 味にしあれど 槇の葉の 香もやほのかの 秋の実なれり (槇実再見) 木花桜姫の返しける歌2首槇の実の 黒く熟すを 知らぬめり カラス急ぎぬ 秋の夕暮見渡せど 黒き槇の実 なかりけり 吉備の山裾 秋の夕暮 み熊野の 七里み浜に 咲く浜木綿 妹が笑まひの 忘らえなくも大滝の 音もとどろに 眺むれば 那智の山々 雲立ちなびく み熊野の 山道(やまぢ)を来れば 補陀洛ゆ 波の寄り来や 木綿花(ゆふはな)に咲くみ熊野の 大斎原(おほゆのはら)に 秋萩は 散りても咲きぬ 神々の庭みやしろは あかみとりなり はやたまの みかみはいまし ここにぞませる 木花桜姫の返しける歌3首千早ふる 梛の大樹に 入り日さし 風に言問ふ 神のみしるし秋風の をかしと吹くか その上の 恋の行方も 妻となりせば (千代桜)車とめ 花と遊べる 時もなし 佐野の渡りは 橋脚の下まだ未熟 遠慮勝ちにぞ 山法師 青き実なれば 色も匂はず (山坊主) 丹(に)の穂満つ 稲田も我を 待つならむ 刈らむやいざいざ 時過ぎぬ間に (農大家持) 木花桜姫の詠める歌小雨降る 窓に雀の 来鳴きつる 親を呼ぶのか 声ぞかなしき 偐家持の追和して詠める歌呼びぞ来る はぐれ子雀 宿貸さな 雨にな濡れそ 寒からまくに 木花桜姫の返しける歌呼べば来る 呼ばぬに来(きた)る スズメ子の いとけなき目を みれば愛(かな)しも リコリスは 天(あめ)に咲くとふ 花に似て 夕べの海の 色にし咲けるヤマゴボウ あはきさみどり うなそこの いろにぞそまり 秋暮れゆきぬ (幻家持) 木花桜姫の返しける歌ゆらゆらと 落つる水底(みなそこ) あさみどり 石見(いはみ)の国の 秋をしぞ思ふ 百日(ももか)咲く 深きくれなゐ その花の 添ひてもがもな たぐひてもがも (偐百持)我が恋ふる 秋明らけき 菊の花 うすもも色に けふし咲きぬる すみれ花 秋にも咲くと 聞くわれぞ またも恋ひてや 野に出でにける (川部白人)(注)掲載の写真は全て木の花桜さんのブログからの転載であります。
2010.11.02
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