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本日の銀輪散歩は花遍路として纏めてみました。 先ず目についたのはギボウシ。道端に群生していましたがこのように群れているのも珍しい。 (ギボウシ) (同上)<追記:2011.8.30.> ブログ友のビッグジョンさんのブログの本日(30日)の記事に、ミズギボウシ(水擬宝珠)が掲載されていました。どうやら小生の上の花も擬宝珠ではなく水擬宝珠であるのかも知れません。葉を確認することがポイントのようですが、不案内の小生は勿論確認出来ていません(笑)。 で、同氏のブログに下記の歌を記してお茶を濁して置きました。葉も見ずて 擬宝珠なりと わがせしは 水擬宝珠の 花にやあらむ (偽宝珠) 芙蓉の花かと写真に撮りましたが、今よく見ると葉の形状が違いますな。葵の仲間かムクゲの仲間かよくは分りませぬが、美しい花にて、道の辺にひと際目立って咲いているのでありました。(オニヤンマ) このオニヤンマは生きたオニヤンマではありません。道端に倒れ死んでいたもの。道の辺の羊歯の葉にとまらせ、弔いの写真を撮って上げました。 聖徳太子の歌として万葉集に出て来る下記の歌のことなども思い出されました。家にあらば 妹が手まかむ 草まくら 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (巻3-415) まだ気温は夏のそれにて銀輪家持は汗だくなのであるが、蝉の声もツクツクボウシに変り、吹く風にも秋が忍び寄っているのでしょう。オニヤンマも夏休みの終焉と共にその命を終えるのでありますな。 では、偐家持も本歌取りにて1首。夏ならば 王者と飛ばむ 秋風の 道に臥せる このヤンマあはれ (蜻蛉太子)(ヒオウギ)(同上)詠まれざる 花にしあれば 桧扇の 咲きてむなしく 散らまく惜しも (偐家持) 以前にも書いたが、この桧扇の種が「ぬばたま」で、黒、夜、髪、夢などの枕詞として使われる、和歌に頻出の詞である。一方花の方は歌に登場しない。可憐な花なのに不思議である。百合に比べると野暮ったい感じは否めないが、小生などはその野暮ったさも含めて百合よりも可愛いと言うか、好きである。万葉の素朴な歌には似合いの花だとも思うのだが、どうでしょう。<参考>ぬばたま(2008.8.27.)(ヒオウギ)(ケイトウと山)遠山に 立ちぬる雲の いちしろく 咲きて恋ふらし 野辺の韓(から)藍(あゐ) (偐家持) ケイトウは万葉では「韓藍」と言ったというのは、先日のブログ記事でも述べましたので説明は省略。(タデと山) 蓼喰う虫も好きずきでありますが、たでも亦色々なのである。上のタデはオオベニタデ(大紅蓼)ですな。タデの中では一等立派で華やかで美しい。背丈も高く見上げる程にもなる。秋されば 大紅蓼の 花越しに 雲立つ山の 見らくしよしも (偐家持)(イガグリ) 道端に若いイガグリがころり。見上げると頭上に栗の木。風の悪戯か悪さ烏がつついたか、稔りの秋を待たずに地に落ちてしまった栗の実です。マリモではありません(笑)。イガグリも 落ちてビックリ シャックリも ギックリガックリ ソックリ返る (徳利麻呂)<追記・注>縦長写真(ギボウシの写真など5枚)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.29
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(承前・昨日26日の記事の続きです。) 健人会の宴は午後3時に終了。駅へと向かう他のメンバーと別れ、小◎氏と鯨麻呂氏と偐家持の3人は日吉大社へ向うべく、緩やかな坂道を上って行きました。 日吉大社へは3年振りの久し振りの訪問(普通には参拝と言うのであるが)である。 <参考>日吉大社・比叡山延暦寺 (2008.10.27.) 鯨麻呂氏の絵は以前当ブログでもご紹介しています。 絵画その2 (2008.6.13.) 近江鯨麻呂絵画展 (2008.6.18.) 旧竹林院、約千坪ある庭が美しいらしいが、今回は入場せず、入口入園受付の前から引き返す。延暦寺の僧侶が高齢になると山麓に里坊を賜り、そこで余生を送ったそうだが、この竹林院もその里坊の一つ。(旧竹林院入口)(同上) 竹林院の説明板の脇に、大津市観光のゆるキャラ、「おおつ光ルくん」が居ましたのでご紹介して置きます。どうぞお見知り置きを。(おおつ光ルくん) 竹林院から日吉大社参道に出て、大鳥居へと向かう。(日吉大社鳥居) 日吉大社については下記をご参照下さい。<参考>日吉大社・Wikipedia(西本宮楼門)(西本宮本殿)(東本宮楼門)(東本宮拝殿) 正面が本宮拝殿、左が樹下神社拝殿。右側の建物にはお神輿が置かれてありました。(神輿)(東本宮本殿) 日吉大社を出て南へ。ケーブルカー乗り場に向かう道の辺りで西に入る小道を行く。慈眼堂へと裏から入る形になる。 慈眼堂の裏には、慈眼大師、歴代天台座主などの供養塔が並んでいる。そんな中にひと際目立つ塔は、桓武天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、徳川家康の供養塔である。 (慈眼大師供養塔) (桓武天皇供養塔) (後陽成天皇供養塔) (後水尾天皇供養塔)(徳川家康供養塔) 家康・秀忠・家光と徳川三代にわたって幕府の顧問格を務めた天海さんの慈眼堂とあっては、家康の供養塔があるのは当然としても、紫式部、和泉式部、清少納言の供養塔もあるのが面白い。しかし、何となくこれは眉つばな気がしないでもない。 他に、新田義貞の供養塔があったが、これは、徳川がその流れを汲む家系であると考えられていたからであろう。(左から、紫式部、和泉式部、清少納言の供養塔)(阿弥陀如来石像) この石像は、桃山時代に、近江国観音寺城主六角承禎が母の菩提を弔うため、母の郷里の近江鵜川の地に48体の阿弥陀如来像を安置し奉ったとのことであるが、江戸初期に天海大僧正(慈眼大師)がそのうちの13体を当地に移したものとか。<参考>天海大僧正(慈眼大師)(慈眼堂) 慈眼堂は慈眼大師南光坊天海大僧正の廟所。家光の命により建立されたらしい。慈眼堂から滋賀院を経て、生源寺の前で参道の通りに出て、駅へと向かう。(滋賀院門跡)(穴太衆積みの石垣) 穴太衆による穴太積みという石垣は大小の自然石を組み合わせて造るものであるが、坂本の町はその穴太積みの石垣の美しい町でもある。(老舗の蕎麦屋)(京阪坂本駅・写真は朝、会場に向かう途中に撮ったもの。) そろそろ、1記事当たりの文字数制限に近付いて来ました。急ぎます。 一廻りして、京阪坂本駅前で、ここから電車に乗るという鯨麻呂氏と別れ、小◎氏と小生はJR比叡山坂本駅へ。(石占井( いしらい)神社) 暫く行くと、道の辺に小さな祠。石占井神社とある。天智天皇の時代にオオナモチの神を三輪山から日吉大社に勧請せむとしたとき、当地で石に座した占いの女神に会い、女神はオオナモチの御足を井戸水で洗い、日吉大社西本宮の聖域までご案内したとのこと。この故事に因み、当神社を石の占い井、女神を石占井大明神として祀るようになったとのこと。 程なくJR比叡山坂本駅に到着。姫路行き新快速に乗車。神戸までお帰りになる小◎氏とは京都で別れ、小生は近鉄線に乗り換え、西大寺経由で帰宅いたしました。<追記・注>縦長写真など9枚が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.27
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本日(26日)は、「健人会」の集まりで比叡山坂本まで出掛けて参りました。 この会は小生の元勤務先企業の社員OBにして滋賀県在住の気の合った者が集まって作った会である。「県人会」と称していたのが、他府県人も参加するにつれて「健人会」と改称したのでしょうか、他府県人の小生は詳しいことは存じ上げない。 小生はこの会のメンバーの草麻呂氏からお誘いを受けて、いつの頃よりか時々顔を出させて戴くようになった。 本日の出席者は、木◎氏、田◎氏、杉◎氏、多◎氏、平◎氏、小◎氏、鯨麻呂氏、近◎氏、岡◎氏、今◎氏、川◎氏、徳◎氏、竹◎氏、森◎氏、正◎氏、草麻呂氏に小生の17名。 会場は、滋賀県大津市坂本の芙蓉園別館。12時半集合の昼食会の宴席でありました。<参考>芙蓉園別館 JR比叡山坂本駅では森◎氏が待っていて下さり、京都駅で一緒になった近◎氏、徳◎氏、竹◎氏と改札口を出て行くと、既に到着して居られた田◎氏、正◎氏、小◎氏らも合流、タクシーでという意見もあったが歩いて会場へ向かうこととする。(会場の芙蓉園別館へと向かう友人諸氏) すると、歩き出して2~3分した頃から雨がポツリ、ポツリ。やがて激しい雨に。小生と近◎氏は傘の用意をしていましたが、それでも雨宿りをしなくてはならない程の雨となりました。(通り雨) 雨宿りすること数分、小降りになったので歩き始める。程なく雨も上りました。(生源寺)(同上・本堂) 伝教大師誕生の寺とあったので、写真に撮って置きました。 境内に入ると伝教大師(最澄)が産湯を使ったと伝えられる井戸もあるようだが、皆と一緒故、門前で手早く写真を撮るだけにて済ませました。<参考>生源寺 会場の芙蓉園別館に到着。 歴史を感じさせる、なかなか趣のある佇まいの店でありました。(芙蓉園別館) 名前に合せてか、門の脇には芙蓉の花が咲いていました。(芙蓉) 到着し、座敷に入ると我々が最後であったと見えて、全員揃ったよう。木◎氏の乾杯の発声で、宴が始まりました。 配膳などのお世話をして下さる仲居さんが、料理を小生の膳に置きながら「遠方から自転車でお越しになる方もいらっしゃるとお聞きしましたが・・。」と、それは小生のことかとお尋ねになる。どうやら、先に着いた誰かが座持ちのお話で「自転車でやって来る馬鹿が居る。」とでも彼女に吹き込んだのでもあるか(笑)。 どっこい、今回は「電車」なのだ(笑)。(庭先の川) 縁側から外を眺めると、眼下に川が流れている。(同上) ここは、庭が美しい。日吉大社から流れて来る川が庭先を流れていて、風情がある。メンバーの平◎氏が昔からご存知の店で、こういう店も良かろうとご推薦下さり、決まったらしい。(庭)(庭) 宴終了後、鯨麻呂氏のご案内で小◎氏と小生の2人は、日吉大社、慈眼堂、滋賀院などを散策してから帰ることとするのであるが、それは後日またご紹介申し上げることとし、本日はもう遅くなりましたので、これにてお開きと致しまする(笑)。どちら様もおやすみなさいませ。 <追記・注>縦長写真(「庭先の川」)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.26
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昨日(24日)の銀輪散歩は、久し振りに山裾の道を走ってみました。自宅は生駒山西麓の斜面の中程にあるので、つい坂を下って恩智川沿いの道を走るということが多いのであるが、昨日は久しぶりに山裾を走ってみることにした。 山裾の道と言っても、恩智川の道のように一本道が続いている訳ではなく、家並みの間の路地などを潜り抜けたりしながら坂を上ったり下ったりして走ることとなる。 西向き急斜面にある田畑や集落は東西に主要道路があり、南北の移動は、随所でその東西道で切断される、路地まがいの道をジグザグに行くこととなり、効率が悪いのである。 急坂ではギアを下げに下げてペダルを軽くして上ることにし、加えて立ち漕ぎして上って行くのであるが、それでも息があがり、長い上りでは、途中で休まないと持たないのである。この処の小生は膝の故障があるので、膝への負担を極力小さくなるように加減して漕ぐので余計に疲れる。(分水樋) 坂を上って行くと、生駒山へのハイキングコースの一つともなっている、山の方から下って来る道が二俣に分れている地点に出た。 その地点で、上のようなものを見つけた。分水樋である。この地点で山から流れ落ちて来る川も二俣に分れるのであるが、水を等分に分かつための樋、分水樋である。坂下の水田への農業用水を昔からこのようにして分配して来たのですな。もっとも今は住宅が建て込み、水田もどんどん少なくなり、この分水樋のある高みの地点でも周囲は住宅が建ち並んでいる。 ここから南へ、右に大阪平野を遠望しつつ行くと二本松古墳というのがある。六万寺古墳群の一つである。生駒山西麓には、山畑古墳群(下記参考記事参照)、花草山古墳群、五里山古墳群など、6世紀後半から7世紀初頭にかけての古墳時代後期の群集墳があるが、此処の古墳群もその一つ。 <参考>煤逃げ墓参(2010.12.29.)(二本松古墳)(同上) 更に南へと走る。楠正成墓のある往生院を過ぎた辺りに神仏習合の権現寺・権現宮がある。(十二社権現寺) (堂之宮権現宮) 十二社権現寺、堂之宮権現宮の由来などは知らない。 この地の西方に梶無神社(下記参考記事参照)というのがある。この神社は、神武天皇創始と言われている神社。神武天皇は、東征の折、日下(草香)の浜から上陸し生駒山を越えて大和に入ろうとするが、この地のナガスネヒコ(長髄彦)の抵抗を受け、果たし得ず撤退。船で南へと下るが嵐に遭って梶をなくして、漂流の危機に瀕する。そこで祖神に加護を祈った処、嵐が収まり、海も凪いで、無事上陸することが出来た。そこでその地に祠を建て祖神を祀ることとした。それがこの梶無神社であるというのである。 その梶無神社の末社に別名「堂之宮」とも言う「十二社権現社」というものがあったとのことであるが、それがこの権現宮のことなのかどうか、その辺の関係は、何も取材せず、調査もしない銀輪散歩とあっては全く分らないままなのであります(笑)。 <参考>石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下) (2010.5.4.)(同上)(同上) 関西中心の行事だと思うが、今は「地蔵盆」の時期であり、通り過ぎる村々の地蔵堂が祭提灯で飾られている。 子供の頃は、カボチャでハロウィンのそれみたいな提灯を作り、ワルサ仲間と暗がり探検をしたり、肝だめしをしたりしたものであるが、最近はそのようなことをする子供もいない。そもそも夜の暗がりが無くなってしまって、探検も肝だめしもあったものではないのだから、当然のことですな。<参考>地蔵盆(地蔵盆) 山辺の道にも飽きたので、一気に坂を駆け下ることとする。息喘がせて上って来た「貯金」を一気におろすようなもの、風も心地よく、忽ちにして下界の恩智川畔に到着であります。 帰宅するためには、再び坂道を駆け上らねばならないのであるが、「貯金」というものはおろし出すと止められないものにて、残高ゼロまで走り下りました(笑)。 ここまで下ると花園中央公園・花園ラグビー場に立ち寄らねばなるまい。 花園公園に向日葵の群れ咲いている一角がある。もう盛りを過ぎていて枯れかかっているのが多い中で未だ元気にしている花があったので、行く夏を惜しむ意味で写真に撮ってみました。(ヒマワリ)(同上)山麓の 道は上(のぼ)り道(ぢ) 七曲(ななまがり) 漕ぎてぞ吾(あ)が来(く) 風の音(と)恋ひつ (偐家持) <追記:2020.12.30.>上掲写真3点が横倒しになってしまっていることを発見、修正しました。
2011.08.25
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第85回智麻呂絵画展 本日(23日)は、久し振りに智麻呂邸を訪問、6点の新作絵画を仕入れてまいりました。点数は6点と少ないのですが、智麻呂絵画展の開催といたします。 智麻呂絵画ファンの皆さま、どうぞごゆるりご鑑賞下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(万華鏡) これは、去る6月27~28日の若草読書会の「神戸しあわせの村」小旅行の際に、智麻呂・恒郎女ご夫妻の金婚式をお祝いして、小万知さんがご用意下さった、皆からの心ばかりのプレゼントの、万華鏡であります。 暫くの間お孫さん達の間を転々と旅していたようですが、ようやく智麻呂ご夫妻の許に帰って来たようで、今回、絵となりました。<参考>しあわせの村小旅行(2011.6.28.)妹と来し 道もしかあり たぐひてぞ 行かば万華の なほしぞ咲かむ (偐智麻呂)わが背子と ともに見ませば 道の辺の 花も万華ぞ 寄り添ひ居らむ (偐恒郎女)(酸漿) ホオズキもそうであるのだろうが、智麻呂氏の絵心を刺激するのは、色とか形に、或いはその両者の取り合わせに、何やら一定の法則があるような気もして参りましたが、まだ、それを言葉で表現できる程には小生の頭の中は整理されていないので、匂わせる程度にして置きます。(クワガタ虫) 久々に虫の絵です。過去には蝉(第4回・第25回)、トンボ(第5回)、鈴虫(第11回)、玉虫(第11回)などがありますが、クワガタムシは初登場であります。当ブログの「生駒高山地区銀輪散歩」(2011.7.30.)の記事でクワガタムシの写真を掲載したことが刺激となって、絵を描かれたのかも知れません。(桔梗) この桔梗の花も、アングルが当ブログの記事に写真を掲載した我が家の庭の桔梗の花のそれに似ていますので、それからの絵かも知れませんが、まあ、桔梗の花の姿はどれも似たようなものですから、小万知写真集からかも知れず、或いはご近所の庭の桔梗かも知れませんですな。 <参考>河内の猫(2011.8.4.) (ツノダシ) 比較的よく目にする熱帯魚であるこの魚は「ツノダシ」という名だそうな。スズキ目、ニザダイ亜目、ツノダシ科ツノダシ属のツノダシであります。上の絵でもちゃんと描かれていますが、目の上に角状の突起があることからツノダシという名になったそうである。 メスの中には角の無い奴がいて、これはツノカクシと呼ばれる。しかし決して角が無いのではなく「角を隠している」に過ぎないので、あなどってはいけないのである。この点はヒト属のメスに似ているのである。(勿論、この段落の「ツノカクシ」に関する文章は全てジョークである。) ここで気が付きましたが、この魚の絵はお孫さんのナナちゃんが沖縄の久米島から送ってくれた絵ハガキの中の一枚の写真から絵にされたものでありました。 してみれば、この絵には、上のようなジョークは似合わぬことにて、「ツノダシ」への要らぬ「クチダシ」とのお叱り、を受けそうでありますな(笑)。(パプリカ) 今回の最後の作品は、パプリカ。もっとも、ピーマンも完熟させると赤や黄色に色づくそうで、それをカラーピーマンと言うそうだから、この絵はパプリカではなくカラーピーマンであるのかも知れません。 しかし、そういう植物学的な正確性は芸術とは無縁であるというのが「弁解家持・曖昧家持」たるの由縁でもありますれば、ここは「パプリカ」でいいのであります。 で、パプリカの絵は2回目で、過去には去年9月の第63回展に登場しています。この鮮やかな色と形が智麻呂さんの絵心を刺激するのでもあるのでしょうか。 そして、前回同様に今回もツーショットなのでありますな(笑)。 高砂のパプリカであります。 金婚式記念の万華鏡の絵で始まった今回の絵画展、パプリカの2ショット絵で締め括る、ということになった次第にて、起承転結のある絵画展と相成りまして候。 <追記・注>「万華鏡」、「クワガタムシ」及び「パプリカ」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.23
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本日(22日)は秋に案内を依頼されている万葉ウオークの下見を兼ねて、珍しく自転車を自宅に置いて、奈良を「足」で歩いて来ました。 コースは、近鉄奈良駅集合・出発で、氷室神社→吉城川→水谷神社→春日大社→新薬師寺・鏡神社・比賣神社→能登川→白毫寺→崇道天皇社→御霊神社・元興寺塔跡→元興寺極楽坊→猿沢池・采女神社→率川神社→近鉄奈良駅解散という7~8kmの行程である。(近鉄電車・万葉車両)(同上) 万葉ウォークの下見とあって、乗った電車も万葉調でありました。まあ、この車両は随分以前から走っているもので珍しくもないのですが。(氷室神社)(同上)(吉城(よしき)川) 吉城川は、若草山と御蓋山との間に源を発し、西流して佐保川に合流する川。源流から春日山原始林を流れている間は水谷(みずや)川と呼ばれ、東大寺南大門前を流れる辺りから吉城川と称される。 水谷川上流に「月日の磐」がある。これは奈良時代・和銅年間に氷室が置かれた跡で、都祁の氷室の神をここに遷し、この地の氷池で製氷し貯蔵した。国立博物館向いの氷室神社は、元はここにあったとのこと。 吉城川は、万葉集では宜寸川と表記され、歌が1首ある。我妹子(わぎもこ)に 衣(ころも)春日(かすが)の 宜寸川(よしきがは) よしもあらぬか 妹が目を見む (巻12-3011)(あの娘に衣を貸したいけれど、あの娘に逢う何かいい口実はないものだろう か。)(同上) 東大寺南大門前から吉城川に沿って上流へ歩き、浮雲橋を渡り、新公会堂の前を過ぎて、水谷茶屋の処で、若草山の前から続いて来る歴史の道に入り、水谷神社を経て、春日大社へ。(春日大社)(同上) 春日大社の二の鳥居前から森の小道に入る。(下の禰宜道) この道は、通称「ささやきの小道」、志賀直哉旧居へと行ける道であるが、今回歩く道はこの先の「中の禰宜道」である。 森を抜けて、地獄谷から下って来る道を渡り数分行くと新薬師寺である。(比賣神社) 新薬師寺の門前に十市皇女を祀る比賣神社と藤原広嗣を祀る鏡神社がある。 十市皇女は天武天皇と額田王との間の娘。天智天皇の息子(弘文天皇)の妃となるが、壬申の乱で夫と父とが戦うこととなり、夫が敗れて死ぬ、という、まあ、お市の方に似ていなくもない悲劇の女性であります。彼女自身の歌は万葉にはありませんが、彼女のことを詠った万葉歌はいくつかある。十市皇女(とをちのひめみこ)、伊勢神宮に参赴(まゐむ)きし時、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹?刀自(ふぶきのとじ)の作れる歌川上(かはのへ)の ゆつ岩群(いはむら)に 草むさず 常にもがもな 常処女(とこをとめ)にて (巻1-22)(川のほとりの神聖な岩々に草が生えていないように、いつまでも変ることなく あって欲しい。おとめのままの姿で。) 新薬師寺の前の喫茶店で昼食。この店の未だお若いオーナー氏は自転車がご趣味のようで、ロードバイクや様々の自転車グッズが店を飾ってある。(能登川)能登川の 水底(みなそこ)さへに 照るまでに 三笠の山は 咲きにけるかも(巻10-1861)(能登川の水の底までも照り輝かせるほどに、三笠の山は花が咲いていることだ。)(注)おおかたの説は桜の花とするが、山吹の花とする説(土屋文明「万葉 集私注」)もある。 コースからは外れるが、赤乳神社350mという表示があったのでちょっと寄ってみる。途中に中尾谷地蔵尊という由来などは知らぬお地蔵さんがあり、その先に小さな祠。(中尾谷地蔵尊)(赤乳神社) 腰より下の病気から守って下さる神社らしい。更に300m程行くと腰より上の病気から守って下さる白乳神社もあるらしいが、引き返すこととしました。(宅春日神社) これは、我が家の近くの枚岡神社と同じ天児屋根命と比賣大神とを祀っている神社なので、ちょっとご挨拶。 道の先に若い男性が一人で歩いて行くのが見える。服装から、先程昼食した店で小生の後から入って来た若者のようだ。どうやら、彼も白毫寺へ向かっているよう。白毫寺前の坂道で追いついて声を掛ける。千葉からやって来た明治大学商学部の学生さんであった。旅は道連れとて、しばらく彼と一緒に歩く。ついでに白毫寺境内の犬養万葉歌碑や志貴皇子のことなどを説明して上げたりしながら。 白毫寺は志貴皇子の別荘であった場所である。そして境内にある犬養万葉歌碑の下記の歌は志貴皇子の葬送の情景をドラマチックに詠い上げた笠金村の長歌(挽歌)の反歌の一つである。高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに (笠金村 巻2-231)(高円の野辺の秋萩はむなしく咲いては散っているのだろうか。見る人もいないのに。)(白毫寺) 白毫寺を出て、崇道天皇社から「なら町」を散策、喫茶店でかき氷を食べ、猿沢池でこの若者とは別れ、小生は率川神社へと向かうのだが、もう文字数制限一杯です。これにて以下省略です。(徳融寺)(采女神社)(率川神社)<参考>昨年のウォークの記事 <追記・注>「能登川」及び「百毫寺」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.22
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暦の上では秋なれば、残暑と呼ばねばならないのであるが、この処は猛暑続きにて、秋はいづちにやある、であります。明日、明後日は雨の予報であるから、少しは気温も下がるのであるやらむ、でありますが、銀輪散歩もそんな次第で遠出は止めて近隣散歩でお茶を濁すなど、控え気味であります。 今日の銀輪散歩も恩智川沿いを北へ南へ走っただけで早々に帰宅でありました。何しろ熱風の中を走ることになるので、たちまちに汗、汗、汗、木陰に入っても朝の内はまだしも、日が高くなると、一向に涼しくはないのでありますな。 そんな訳でブログに記すべきことも何とてないのでありますが、余り日を開けては、熱中症でダウンしてでもいるのかとご心配をお掛けしてもいけませぬ故、花の写真でも掲載して、無事にしていることのご報告と致しましょう。(百日草) 通りすがりの民家の土塀に沿って、結構背の高い大ぶりの立派な百日草が美しく咲き乱れていました。百日を 継ぎてぞ咲かむ 百日草 浦の島子の 草としいへば (偐家持)(同上) 百日草に混じってケイトウの花もありました。色違いのツーショットです。夏なれば われも負けじと 韓藍の 花も百日 秋まで咲かむ (偐家持)(鶏頭) 上の小生の歌で「韓藍」という言葉を使いましたが、これはケイトウのことです。万葉集では鶏頭は「韓藍」と呼ばれています。わが屋戸(やど)に 韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(おほ)し 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔かむとぞ思ふ (山部赤人 巻3-384)(我が家の庭に種蒔きして生えてきた「からあゐの花」はすっかり枯れて しまったけれど、懲りずにまた蒔こうと思う。) 山部赤人さんも春はスミレ(巻8-1424)、夏から秋はケイトウとお忙しいと言うかマメと言うか、大したものでありますな(笑)。勿論「すみれ」も「韓藍」も女性の比喩として使用されているのである。(ヤマボウシ) ヤマボウシが早くも小さな実を付けていました。あと1カ月もすれば赤く色づき、何やらお菓子のように見えるのだが、今はまだ青く小さく未熟な実である。 ヤマボウシは漢字表記では山法師とも山帽子とも書くようだが、今日は山帽子で歌を作ってみましょう(笑)。夏休み 麦藁帽子 山帽子 実はまだ青し 秋待つらしも (偐家持) (同上)<注>ヤマボウシの赤い実の写真は下記の記事に掲載されています。 「秋風とこの実ナンの実」2009.10.3. ヤマボウシの実は青く未熟でありましたが、ザクロの方は早くも色づいて熟れ始めていました。熟れ行けど 未だ割れもせぬ 柘榴の実 夏は無口に やり過ぐすべし (偐家持) (石榴)(同上) <追記・注>「同上」(百日草)の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月29日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.17
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本日13日は第8回青雲会(大学同窓会)囲碁大会でありました。 午後1時大阪商工会議所隣のマイドームおおさか8階サロンに集合、そこを囲碁会場として、熱戦が繰り広げられました。 参加者は玉◎氏、廣◎氏、金◎氏、五◎氏、藤◎氏、岡◎氏、中◎氏、菊◎氏、田◎氏、岩◎氏、三◎氏、村◎氏、山◎氏と小生の14名。参加者では小生が最年少、皆さん何方も大先輩である。 AグループとBグループに分れて予選トーナメント。小生はBグループにて、岩◎氏と田◎氏に勝ち予選の1位決定戦で山◎氏に敗北。予選2位となり、Aグループ2位の玉◎氏との3・4位決定戦に回る。ここでも玉◎氏に敗れ、結局4位となりました。 この日は上の対局の他、練習対局で三◎氏とお手合わせして中押しで勝ちましたので、それも合せると小生の成績は3勝2敗でありました。 前回の第7回大会では奇しくも優勝させていただきましたが、今回は4位にとどまりました。まあ、これでも小生の実力からすれば上出来というものであります(笑)。 <参考>青雲会囲碁大会で優勝 2010.8.14. 決勝戦はAグループ1位の五◎氏とBグループ1位の山◎氏の対戦となり2目差で山◎氏が勝ち優勝されました。(大阪商工会議所ビルとマイドームおおさか)(マイドームおおさか) (8階サロン対局場入口) (囲碁大会対局風景)青雲(せいうん)の どちとし打てば 松屋町(まっちゃまち) 烏鷺(うろ)のいくさも 楽しかりけり (偐家持)(同上)(同上) 熱戦の後は表彰式と懇親会。懇親会は1階のレストランに移動である。お盆の時期で、しかも土曜日。オフィス街のこのレストラン、本来ならお休みとのことであったが、我々の囲碁大会のために営業下さったようで、客は他にはなく広い店内を貸し切り状態で使わせて戴きました。(1階レストラン・マイドーム)(懇親会風景)(優勝者) 帰途は玉◎氏、藤◎氏らと地下鉄谷町4丁目まで歩き、玉◎氏らとはそこで別れ、藤◎氏とは上本町で別れ、帰宅は8時半位でありました。今日は諸先輩との楽しいひと時を過ごさせていただくことができました。 <追記・注>「8階サロン対局場入口」及び「囲碁大会対局風景」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.13
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本日も墓参り。今月は7日に墓参したばかりであるが、お盆ということで今月2回目となる墓参でありました。毎月の月始めの墓参と盆・暮の墓参というのが小生のこの何十年来の習慣となっている。お盆の墓参は通常は13日にするのであるが、今年は明日13日が大学同窓会(青雲会)の囲碁大会で、これに参加しなくてはならず、一日繰り上げての墓参となりました。(墓地の一番高い場所から大阪平野を望む。) 5日前に参ったばかりなのに、夏の日照りで前回の花はもうすっかり枯れていました。墓参の後、山裾の野道をブラブラ散歩。 墓地にもあった、よく目にするが何という名か知らない木が、その野道にも生えていて、実を付けていました。 この木、墓地の中にあった方の木は、7月3日の墓参の記事でも、その薄紅色の若葉が気に入ったので、写真をアップしましたが、何という木なんでしょうね。葉の形は芋とか葛の葉に似ているが、今回目にした実は何とかいう・・そう、オナモミとかいう、ひっつき虫の植物のそれに似ている。 (オクラ) 墓に近いお宅の庭先の畑にオクラが植えられていました。5日前の墓参の時には、あの柔らかな白い花を咲かせていたのですが、どうやら刈り取られてしまったらしく、花は見当たりません。オクラらは 今は咲いてまへん あきまへん それその母が すぐ刈るらむぞ (偐憶良) ご存じ、「憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむぞ(巻3-337)」の山上憶良の歌のパロディであります(笑)。 野の小道では、モミジアオイ、ヘクソカズラなどの花も目に止まりましたが、写真には撮らずに通り過ぎてしまいました。 何やらゴチャゴチャと絡まった蔓性の植物が目に止まりました。近寄って見ると、ナツフジ(夏藤)でありました。マメ科の植物でありますと声高に叫んでもいるみたいに、これでもかと、沢山の豆莢を垂れ下がらせているのでありました。 (ナツフジ) (ナツフジの実) (ナツフジの花)秋立ちて 残暑見舞か 夏藤の 花涼しけど 実の暑苦し (偐家持) <追記・注>ナツフジの写真4枚が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.12
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昨日(10日)は8月2回目の囲碁例会。いつものように銀輪散歩を兼ねて自宅から梅田スカイビルまでMTBで出掛けました。炎天下、懲りないヤカモチでありますが。汗、汗、汗。人間の身体が殆どは水であるということを実感しての銀輪散歩となりました。 先日来の膝の故障を労わって、JR森ノ宮駅前からNHKまでの長い上り坂を回避し大阪城公園の中に入り、大阪城京橋口の前経由、大川に合流する直前の寝屋川に架かる大阪橋・寝屋川橋を渡って、日本経済新聞社ビルの前から天満橋へと至るコースを走りました。ペダルの踏み具合に気をつけないと、右膝に痛みが走るのであるが、注意して漕いでさえいれば、痛みはない。 通常は1時間20分位で到着する処、1時間40分位かかりましたから、スピードも控えめであったようです。その所為でもあるか、いつもの昼食場所のアポロカフェ到着が12時を過ぎてしまい、店に入ると、「生憎、満員です。」と言われ、空振り。仕方なくスカイビルの地下の滝見小路の店で昼食となった。 囲碁例会の今回の参加者は、青◎氏、福◎氏、竹◎氏、村◎氏、平◎氏、荒◎氏と小生の7名。小生は青◎氏と平◎氏に勝ち、福◎氏に負け、最後に荒◎氏に一目差で辛勝、3勝1敗でありました。(大阪城公園内の道) 公園内の広い道路は銀輪の走行に最適、イチョウ並木の道を快適に走る。上の写真は大阪城の京橋口付近。道の右側は桃園である。 この道を行くと筋鉄門で公園の外に出る。筋鉄門は徳川幕府による大坂城再築工事の際に設けられた西側入口の門で、明治時代以後も残り、後に大阪城の北側及び東側一帯に設置された軍需工場(大阪砲兵工廠)の正門にもなった。(すじがね御門)(筋鉄門跡) 我々が子供の頃は空襲で焼け落ちた大阪砲兵工廠の建物残骸が残っていて、大阪環状線に乗ると車窓から、その無惨な姿が望見されたものであるが、今はOBP(大阪ビジネスパーク)の高層オフィスビル街などに生まれ変わっている。 筋鉄門の脇に砲兵工廠の生き残り建物が一棟今も残っている。日頃は塀で囲まれ鉄の門扉を固く閉ざし「国有地につき関係者以外立入禁止」という掲示札で我々の接近を拒んでいるのであるが、この日は偶々、門扉が開いていたので、少しだけ域内にお邪魔して建物を撮影させて戴いた。(旧大阪砲兵工廠)(同上)<参考>大阪砲兵工廠 砲兵工廠の前の道を北に行くと直ぐに寝屋川である。この川に架かる大阪橋を渡ると土佐堀通りに出る。 土佐堀通りとの交差点の西角に京橋川魚市場跡の碑が建っている。 (京橋川魚市場跡碑) (京橋川魚市場の図・摂津名所図会巻4より) 説明板の文章を下記に転記します。 大阪の魚市場といえば雑魚場市場が著名である。しかし近世の魚市場は雑魚場ひとつではなく、木津や天満にも海魚を扱う市場が営まれていた。また海魚とは別の川魚を扱う市場が京橋にあった。 京橋川魚市場の起源は、石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされる。もともとは漁民が、京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。寛保元年(1741)の「京橋川魚独占販売由来記」によれば、慶長年間(1596~1615)の始め頃に、小出播磨守秀政の指示を受けて、構成員55人、うち5人を幹事である年寄とする市場機構のシステムが整えられた。 以降近世を通して、幕府に大坂で川魚を独占的に扱うことを公認された市場となった。 近代に入り、市場機構の変革が進む中、京橋川魚市場は明治末期には中之島6丁目付近に移転し、大正4年(1915)に大阪川魚株式会社が設立された。(大阪市教育委員会)(天満橋橋銘飾板) 土佐堀通りを西へ谷町筋に出た処で、いつものコースになり、大川(旧淀川)に架かる天満橋を渡る。橋を渡った東側の小さな公園に、天満橋橋銘飾板が展示保存されている。(説明副碑) 梅田スカイビルの地下街の滝見小路で久し振りに昼食。人工の滝であるが、滝が見えるということで「滝見小路」なのである。 しばし滝見で涼を感じて下されませ(笑)。(滝見小路の店内から滝を眺める。)今回も囲碁例会にかこつけた銀輪散歩。脈絡もない記事となりました。 <追記・注>「京橋川魚市場跡碑」及び「天満橋橋名飾板説明碑」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.11
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第84回智麻呂絵画展 本日は第84回智麻呂絵画展であります。 猛暑続きとあっては、野外での花の写生もままなりませぬが、智麻呂氏の絵筆は暑さものかは、頗る快調であります。 どうぞ皆さま、智麻呂絵画展にて暫しおくつろぎ下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~(空蝉) これは、偐山頭火氏が智麻呂画伯に絵のモチーフにせよと持ち込んだ写真から、絵にされたもの。偐山頭火邸の庭にて同氏が発見され撮影された空蝉であります。 空蝉(うつせみ)は元々は「現臣(うつしおみ→うつそみ)」である。 大津皇子の姉、大伯皇女の歌、「うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む(巻2-165)」という有名な歌にある通り、「うつそみ」で、意味は「生きている人、転じて、生きている人の世、現世」のことである。「うつそみ」に「空蝉」という漢字を当てた処から、平安朝以後、蝉の抜け殻をも意味するようになったのである。 「空蝉」と来ると源氏物語に登場する女性「空蝉」を思い浮かべる方も多いかと思うが、紫式部の時代には「空蝉」は「蝉の抜け殻」の意味も持っていたことがその歌から知られる。 空蝉の 羽におく露の 木がくれて しのびしのびに ぬるる袖かな 和歌の用語としては、「空蝉の」は「身、命、人、世」に掛かる枕詞として使われる。(お誕生日会の花束) この花束は、智麻呂さんが通って居られるデイサービスの施設にてお誕生日会があり、お誕生日プレゼントとして智麻呂さんが貰って帰って来られたものだそうな。(カンナ) このカンナは、偐家持がよく銀輪で走る恩智川沿いの道の辺にある歌壇のカンナかとも想像しましたが、その場所は智麻呂さんの散歩道としては少し遠過ぎる気もするので、ご近所の庭に咲いていたものかも知れません。 カンナの絵も過去にあった筈とちょっと過去の智麻呂絵画展を遡ってみましたら、第41回展と第62回展にありました。(沖縄・久米島の海岸) これは、智麻呂さんのお孫さんのナナちゃん(第3回展のあのイエスキリストの絵の作者、と言えば思い出される方も居られるかも知れませぬが・・)が夏休みの家族旅行で沖縄・久米島へ旅行、その地から届いたナナちゃんからの絵ハガキを絵にされたものであります。(撫子) 撫子の絵の経緯は存じ上げません。智麻呂さんの小型のスケッチブックに描かれてあったものですが、なでしこジャパンの快挙に思わず撫子を描かれたものでもあるか(笑)。(葉が紫のオキザリス) 小生が墓参の道で目にして珍しいと写真に撮ってブログに掲載(2011.7.3.記事)した、葉が紫のオキザリスでありますが、智麻呂さんのご近所にもこれがあるらしく、今回それを絵にされました。(ハマグリのふっくら煮) これは智麻呂さんのご近所の東◎さんからのお土産にて、桑名の蛤、ふっくら煮であります。 器の色が違う、と恒郎女様はご不満のご様子でありましたが、智麻呂さんはご自身の色彩感覚でこの方がよいと思われての色使いであるのか、少しも動ぜず、「これでいいのだ。」とバカボンのパパみたいなことを仰って居られましたですな(笑)。 <追記・注>「お誕生日会の花束」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.10
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偐万葉・英坊篇(その1) 本日は偐万葉・英坊篇であります。 シリーズ第112弾にして初登場の英坊2氏は、富山県ご在住にて、今年の6月6日に当ブログをお気に入りにご登録下さいました。以来、度々ご訪問下さり、コメントなどもご頂戴いたして居ります。今回は同氏のブログにお訪ねしコメントに添えて書き込ませて戴いた歌などをここにまとめてみることといたました。 <参考>英坊2さんのブログはコチラからどうぞ。 偐家持が英坊二麻呂(ひでのばうのふたまろ)に贈りて詠める歌19首新(あらた)しき どちの来たれる よき日とや 梅雨も晴れ間の 唐獅子牡丹 赤々と 薔薇(さうび)の花よ 汝(な)が咲ける はつ夏の風 吾(あ)も吹かれみむ薔薇(ばら)の花 含(ふふ)みてあれる はつ夏の 窓辺に妹は 吾(われ)にし笑みぬ 蛙、鯉、亀、獅子、達磨を詠める歌かへる道 なき恋(こひ)の道 いざ行かめ 立ちていましし だるまなりけり (偐家持綴り方教室) (蛙) (鯉) (亀) (獅子) (達磨)実が梨に 似たるになまり 浜茄子に 似ざる実なるを クチナシといふ (へらず口の茄子麻呂) 浮寝鳥 夏咲く花の 名とあれば 蜜蜂どんも 昼寝やすらし (浮寝家持)浮寝鳥 鴨にあらなく 花菖蒲 浮き寝の夢か 真白に咲ける (浮草家持)和田川に うつせるもみぢ 散るときし 行きて見が欲し 増山の城 夏草の 繁き城趾 高々に 越の国中(くぬち)を 見つつやあらむ 射水川 帯にせる山 二上は 恋(こほ)しわが山 継ぎて行かましよそとせを あまりふたとせ へしらんじやう みかどのすぎの もりふかみかも (元歌)頼成(らんじょう)も みどりの岡に なれかしと 杉うえにけり 人々とともに (昭和天皇) 七夕の 妻迎へ船 隠すとや 笹の葉濡らし 雨降り止まず (雲下憶良)朝日山 み寺の銀杏(いてふ) 汝(な)を見れば うら悲しくも 古(いにしへ)思(も)はる (氷見人麻呂) 観音寺 ここに尽きたり 法道の 惜しと思へど これにて観念高岡の 金屋の風鈴 ちりりんの 音に河内の 色あるらむか (河内鋳物麻呂) (金屋町)鎌倉に 負けたるみかど 流されて 造れる寺の 佐渡ゆ流れ来(く) (順徳番記者・越野勝興) 網所(あど)の舟 見つつ偲(しの)はむ 布勢(ふせ)の海の 水面(みなも)に海人(あま)の 影絶えぬれど よし人は 萩とは云へど 尾花こそ 秋と言ふべし 夕月がもと秋立ちぬ 尾花が末(うれ)の 夕風は 音もさやさや 妹恋ふらしも(注)掲載の写真は全て英坊2さんのブログからの転載であります。
2011.08.09
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本日はグループ企業でかつて現役の頃、同じような分野の仕事をしていた仲間有志が集って会食をするという会の例会で梅田へ。旧交を温めて参りました。「Natural kitchen麹」 この会は年に2回のペースで行われていて、小生も現役を離れてから参加させて戴いている。 今回の参加者は福◎氏、草◎氏、山◎氏、川◎氏、松◎氏、中◎氏、石◎氏、早◎氏、辻◎氏と小生の10名。辻◎氏は今回が初参加でありましたが、同氏は、ロードバイクが趣味で自転車仲間と共に、又は単独であっちこちをツーリングをされているとのことで、小生と趣味が重なる点、愉快でありました。秋立つ日 集へばどちも われもまた こころ青葉に もみぢたらざり (偐家持) 会社が同じだった人も、違った人も、それぞれに仕事の場面で助け合い、教えて戴いたり、教えたり、と色んな局面で共に仕事をして来た、という仲間意識が根底にあるので、同窓会のそれと同じで、語り合っている内容はいささか爺臭い話題に渡ることもあるものの、心は若き日の状態に立ち戻るような気もして、若くあった頃とそう変わらない気分になるのが、こういう集りのいい点であるのかも知れませんな。
2011.08.08
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本日は朝から墓参。この処、墓参の度に撮っているロウバイの実であるが、先月撮った状態(小万知さん曰く「蓑虫状態」)とさしたる変化は認められませんでした。(ロウバイの実 2011.8.7.) 参考までに過去の墓参の折のロウバイの花と実について、そのブログ記事の写真を縮小して再録して置きます。 (2月5日は花咲いて) (6月4日は青き実が)(7月3日は実も乾き)<参考>「山茶花、椿、蝋梅、梅そして石川散歩」(2011.2.6.) 「ロウバイの実」(2011.6.4.) 「墓参と花逍遥」(2011.7.3.) 明日8日は立秋。今日が夏の終りの日ではありますが、残暑はなをも続きます。皆さまどうぞご自愛専一、恙無くお過ごし下さいませ。 ロウバイの実は干からびてしまいましたが、柘榴が静かに熟れ始めています。朝風には秋がそっと寄り添ってもいるような・・。蝋梅の 実の干(ひ)枯(が)れ行き 立つ秋の 風にしあらむ 柘榴熟れ始(そ)む (偐家持)(石榴) 秋と言うと萩の花ですが、わが墓参の道の辺にあってはススキの穂でありますな。(ススキの小道) 先月の墓参では「家づと」にと摘んだ尾花でありましたが、もう穂が開き切っていて、これでは家づとにもなり兼ねます。 一陣の風が吹き抜けて、穂がさわさわと風に靡く。 風は目には見えぬものにてその音と肌を撫でて行く触感にて感じるものであるが、ススキの穂に吹く風は目にも見えるのであります。(ススキ)秋立つと 目には見えねど さはさはと 尾花が風に それとや知らる (偐家持)(尾花の風に・・)
2011.08.07
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本日は第25回日洋展と文楽の公演のダブルヘッダーを楽しんで参りました。 日洋展は、7月6日の記事(「囲碁例会と銀輪散歩」)でもご紹介しましたが、知人の小◎氏も作品を出展されていて、同氏より招待券を頂戴したので、拝見させて戴くこととしたもの。 文楽公演は、友人の偐山頭火氏が鑑賞するお心算でいらした処、ご都合が悪くなったとかで、小生にチケットを回して下さったもの。 日洋展は天王寺公園の中にある大阪市立美術館が会場。10時50分頃に天王寺公園に到着。 ここは天王寺動物園もあるので、動物をかたどった花のオブジェなどが飾ってある。写真を撮っていると、後から来られた男性が今日買ったばかりだというコンパクトデジカメを差し出しながら、「これ今朝買ったばかりなのだが、どうしたら撮影出来るのか?」と仰るので、このように撮るのだと1枚撮影して差し上げる。すると、今度は「撮った写真はどうしたら見られるのか」と仰る。小生の持っている製品とは異なるので、俄かには分らない。心当たりを試してみて、操作方法が分ったので、このようにすればいいと説明して差し上げる。 彼曰く「説明書を読むより人に聞く方が早いので・・。」、まあ、大阪人はみなこの手の人のようですな(笑)。(天王寺公園、これはシマウマですな。)(同上、後方に通天閣が見えています。)(同上、右はライオンですが、左後方は何でしょう?)(飛翔の像) 公園を横切って陸橋を渡ると美術館である。雨がパラつき始めている。(大阪市立美術館) 入場して、先ず知人の絵を探す。なかなか見事な力強い絵である。ゆっくり鑑賞してから、会場のその他の作品を順に見て行く。200点近い数の絵画、何れもなかなかの力作である。(知人、小◎氏の作品「夫婦岩」) その他の作品で小生の目を引いたものをいくつか掲載して置きます。(「茶筅の里」) これは先日銀輪散歩した生駒市の高山地区の冬の風景です。茶筅の材料の竹を天日乾燥させている処です。 <参考>「生駒市高山地区銀輪散歩」(2011.7.30.)(天の岩屋戸)(春近い長坂)(題名を失念しました。砂丘の絵ですな。) 1時間余絵画を鑑賞した後、先日(7月15日)の大阪市南部銀輪散歩で見つけた店で昼食。今回気が付きましたが、店の名は「はんなり」でありました。 昼食後、時間に余裕があったので、四天王寺境内を少し散歩してから、地下鉄で日本橋へ。国立文楽劇場は日本橋にある。(四天王寺・南大門)(四天王寺・仁王門)(仁王像)(国立文楽劇場)(開演前の劇場内)(太夫と三味線の座)(夏休み特別公演のパンフレット) 偐山頭火氏から頂戴したチケットは午後2時開演の第二部のもので、演目は、「絵本太功記」で、「二条城配膳の段」、「千本通光秀館の段」、「妙心寺の段」、「夕顔棚の段」、「尼ヶ崎の段」の通しでの一挙上演である。 劇中では、織田信長は「尾田春長」、明智光秀は「武智光秀」、羽柴秀吉は「真柴久吉」で登場する。光秀の謀反・主君殺しの苦悩とそれに伴う光秀一族の悲劇が描かれゆく。 席が太夫の座のすぐ近くであった所為か、息遣いさえも感じられて、いつになくその語りの迫力に酔わせて戴きました。<参考>絵本太功記‐Wikipedia 国立文楽劇場 偐山頭火氏のブログはコチラからどうぞ。
2011.08.05
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昨日(3日)は8月第1回目の囲碁例会の日にてMTBで梅田まで。 参加者は青〇氏、福〇氏、平〇氏、村〇氏と小生の5名。最初に平〇氏とお手合わせ、1勝するも、続く村〇氏、青〇氏には負けて結局1勝2敗。これで今年になってからの成績は18勝22敗と依然として水面下の状態。なかなか浮上いたしません(笑)。 帰途は大阪駅前第一ビルの辺りで激しい通り雨に遭遇。自転車共々暫く雨宿り。丁度うまい具合に喫煙場所があったので、そこで休憩。 地下街に勤めているという男性がタバコ休憩に来て居られて、世間話。彼もかつては自転車であちこちと走ったらしく、しばらく自転車談義でありました。 彼が立ち去ってからは、運送会社の配達用の手押し車に荷物を載せたまま、これもやはり雨が止むのを待っている配達員の男性をつかまえてお話。この辺りの道路は全て駐車禁止なので、手押し車に載せてビル街の配達をするのだそうな。 そうこうしているうちに雨も小止みになったので再び走り出しましたが、大阪城を過ぎた辺りから、雨も止みました。今日はザックに雨具を入れていなかったのですが、どうもこういう時に限って通り雨に遭うようだ。 そう言えば雨宿りの時に通りがかった男性も小生の前で暫く雨宿りしながら、今日に限って傘を持たずに出たらこの雨だ、と笑いながら小生に話して居られましたな。誰しも同じような感想を持つようだが、これは傘など雨具を用意せずに雨に降られた場合だけが記憶に残る所為でしょうか。 という訳で、何と言って写真もないのでありますが、往路の信号待ちで撮った写真を掲載して置きます。 敢えて関連付ければ、先日、「ならまち」の猫たちを写真に撮ったので、今回は「大阪の猫」と言うか、「河内の猫」と言うか、囲碁例会の行き帰りにいつも見ている「猫」を、「ならまちの猫」に対抗させてみた次第。喫茶店の屋根の上に鎮座する巨大な猫のディスプレイである。(河内の猫) 先日(7月20日)の「台風一過」の記事でご紹介した白い桔梗の兄弟分の紫の桔梗の花です。初花が散った後、2番花、3番花が庭に咲きましたので写真に撮りました。(桔梗) 二つの花の間に「初花」の散った跡の部分が写っています。その隣には次に咲く花の蕾もあります。桔梗は万葉では「朝顔」という名前で歌われていますな。(同上)
2011.08.04
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(承前) 円成寺境内を暫し散策する。(円成寺庭園)(何の花か?)(円成寺) 円成寺の前の県道を奈良方向に少し行くと柳生街道(東海自然歩道)と合流する地点に出る。舗装された県道と石畳の柳生街道。どちらを行くかちょっと迷ったが、柳生街道を行くことにする。(峠茶屋への道、円成寺墓地付近。峠の茶屋までアト4km余) この先の登り道でかなりご年配のご婦人二人連れが杖をつきながら下って来られるのと行き合う。本日、山道で出会った最初で最後のハイカーである。円成寺までの道の様子を聞かれる。「険しい道はもうありませんか?」と繰り返し仰る。もう直ぐだと申し上げると嬉しそうにして居られた。岩根踏む険しい道に難渋しつつ下って来られたのでしょう。こちらは、その道をこれから自転車を担いで登らなくてはならないのである(笑)。 それも無事登り切り、平坦な道に出る。(峠の茶屋への道。峠の茶屋までアト3km余) やがて道は下りとなり、道幅も広くなる。自転車に乗って下る。誓多林集落に出る。道を右に取ると再び登りとなり、峠の茶屋への山道となるが、こちらは舗装されているので、自転車に乗って走れる。(道標。峠茶屋までアト200m) 山陰に入った処でアオスジアゲハが現れ、続いて大型のモンキアゲハが現れる。写真に撮ろうとするが動き回って撮れない。結局諦めました。(峠の茶屋) 残念ながら峠の茶屋はお休み。写真を撮っていると、先程すれ違った車が帰って来て、「今日は早く店を閉めてしまったんですわ。わらび餅なら出来ますよ。」と男性が声を掛けて来られた。茶屋のご主人である。どうやら、小生を見掛けて引き返して下さったよう。折角なのでわらび餅をいただく。こういう状況でお申し出を断ることのできる人は「人」ではないでしょう(笑)。一人前500円。手作りの蕨餅である。なかなか美味しい。熱いお茶を戴きながら暫くご主人とお話する。真夏のウィークデイ。客は一日3~4人だそうな。土日、そして秋の行楽シーズンが待ち遠しい茶屋のご主人である。 この後は滝坂の道へと下って行くのが本来のコースなのであるが、右膝の故障を抱える身。下りの山道はそろそろキツくなって来たので、迂回。春日山原始林の中の広い道を若草山山頂へと回り、そこから春日大社の北側に出る道を行く。概ね自転車で走れる道である。(春日山原始林碑)(地蔵の背) 春日の山は奈良市街から見て、左に若草山、中央に円錐形の御蓋山、右に高円山、御蓋山の背後に花山とある。これらの山を総称して春日山という。 その花山に「地蔵の背」というのがあった。由来などはよく分らない。 若草山山頂は今回写真には撮っていませんが、2008年5月に春日奥山を銀輪散歩した際の写真がありますので掲載して置きます。(若草山山頂から生駒山を遠望する。2008.5.27.撮影) 若草山と御蓋山の間の谷を下り、春日大社の北側から東大寺の前に出て来る。一気の下り、爽快である。 国立博物館の前庭を横切り興福寺へと向かう。(奈良国立博物館) 興福寺、猿沢の池をひと廻りして、本日の柳生銀輪散歩は終了です。一日の銀輪散歩を3日分の記事にまで引き延ばしスミマセン(笑)。 以下は余録ですが興福寺辺りで今回気が付いたものを紹介して置きます。(金春流発祥地碑) 能の金春流は春日大社・興福寺に奉仕した猿樂大和四座の一つ。世阿弥に師事しその娘婿ともなった、金春禅竹の時に飛躍的な発展を遂げるが、その発祥地碑が興福寺の境内(北円堂の南向かい側、復原工事中の金堂の西側)にあった。今回初めて気が付きました。何度も来ていても見ていないものがあるものです。(注)大和四座 円満井座(えんまいざ) 金春流、大蔵流 結崎座(ゆうざきざ) 観世流 外山座(とびざ) 宝生流 坂戸座(さかとざ) 金剛流(興福寺三重塔) 興福寺というと五重塔であるが、南円堂の下に三重塔がひっそりとある。鎌倉時代のものらしい。(会津八一歌碑) そして、五重塔から猿沢池へと下る石段の脇にある会津八一の歌碑。天皇の寵愛を失った采女が身をはかなんで猿沢池に身投げしたという伝説のことを思い、その衣掛け柳を見てみたいと、雨の中、傘をさして池を廻った、という八一の歌の碑である。わぎもこが きぬかけやなぎ みまくほり いけをめぐりぬ かささしながら (会津八一) 最後にザックに取りついていた大きな山蟻一匹を発見。柳生の山中でお弁当を食べた時のあの山蟻がずっと奈良までついて来たようだ。引き返して送り届ける元気も酔興もなければ、時間もない。近くの草叢に放してやることで勘弁して戴く。バスでも徒歩でもご自由に自力で柳生まで帰って戴くこととしました(笑)。山蟻も 奈良の都を 見まく欲り 背なのザックに とりつきながら (偐家持)<参考>柳生銀輪散歩(上) (中)<追記・注>「金春流発祥地碑」と「興福寺三重塔」の写真が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.03
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(承前) 天乃石立神社の小さな祠の周辺は苔むした巨石群であり、昼なお暗い山峡の森と相俟って、神さびた一種独特の雰囲気を漂わせている。(巨石群)(左:後立磐、右:前立磐)(同上)(一刀石) 天石立神社と一刀石については、下記<参考>に詳述されていますのでご参照下さい。<参考>天乃石立神社と一刀石 一刀石から来た道を引き返し、正木坂とある石碑のある地点に戻る。此処から右に坂道を上って行くと旧柳生街道である。直ぐに右手に柳生八坂神社が見えて来る。(正木坂碑)(柳生八坂神社) 八坂神社には立ち寄らず、坂を上って行くと道の左側に柳生藩陣屋跡があった。(柳生陣屋跡) 柳生陣屋跡は寛永14年(1642)に柳生宗矩が建てた柳生藩の陣屋跡。延享4年(1747)に火災で全焼し、現在は建物は存在せず、当時の間取りが石垣で復原され、史跡公園となっている。(同上) 陣屋跡からゆっくりした坂を下って行くと民家の前に疱瘡地蔵への標識があり、それが示す細い道が東海自然歩道(旧柳生街道)で奈良へと続くハイキング道である。自転車で走れる道ではないので押して行く。 いよいよ山道である。柳生街道の木々の間から暫くは家並が見えていたが、やがてそれも見えなくなり、山の中の細道となる。(柳生の里の民家)(疱瘡地蔵への道・柳生街道)(疱瘡地蔵)(同上) 昭和44年に土中から発見された際に顔の部分が剥落して疱瘡に罹ったように見えたのがその名の由来とか疱瘡よけを祈願して彫られた地蔵であるとか説明されているが真偽の程は知らない。 地蔵像の右下に「正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲ井メアルヘカラス」(正長元年より先は神戸四ヶ郷に負い目あるべからず)との、土一揆の際に農民が刻したとされる碑文があるらしいが、よくは見えませんでした。<参考>柳生徳政碑文(疱瘡地蔵から阪原峠への道・柳生街道) いつの間にやら12時を回っていたので、出掛けに奈良で買って来たお弁当で山中の昼食である。大きな山蟻が沢山いて、身体を這ったりするが、気にせず食事。山蟻も ともにしあれり 阪原の 柳生の道の 昼餉どきかも (偐家持) 昼食後、更に道は悪路となり、登りが続く。汗、汗、汗である。(大柳生の里) やっとこ、道は下りとなり、下り切った処が上の写真の眺め。大柳生である。山道を歩くことにも飽きたので、県道に出て、自転車で走ることに。 しかし、道はまだまだ上り坂である。それでも山道を自転車を押したり、担いだりして歩くことを思えば、快適そのものである。 一気に忍辱山円成寺前まで走る。途中、奈良へと一人歩きしているザックの男性に追い着く。ちょっと声を掛けて追い抜く。(円成寺本堂)(円成寺山門)(同上)<参考>円成寺 境内の茶店で「かき氷」を食べて身体を冷やす。 この後、県道から再び柳生街道に入り「峠の茶屋」を目指すのであるが、本日はここまでとします。(つづく) <追記・注>タテ長写真(「同上(天立磐)」、「正木坂碑」及び「同上(疱瘡地蔵)」)が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.02
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先日(7月29日)、柳生を銀輪散歩して参りました。記事が前後し、8月になってしまいましたが、本日はそのご報告であります。右膝を痛めているので、片道銀輪散歩とし、往路はバスを利用。奈良から約50分、9時過ぎに柳生バス停に到着した。バス停で自転車(トレンクル)を組み立て、出発。東海自然歩道、県道などを走って奈良駅前まで帰って来るという計画である。山道は自転車を押したり、担いだりしながらになるが、膝の調子が良ければさしたることもない行程である。 柳生と言えば十兵衛杉。柳生のシンボルともなっているこの老杉に先ずご挨拶して行く。(十兵衛杉) 昭和48年に2度の落雷に遇って枯れてしまったそうで、今は「弁慶の立ち往生」ではないが、白々とした幹を晒して立ち尽している。 柳生十兵衛(宗矩の長男。独眼流柳生三厳十兵衛)が寛永3年(1626年)諸国漫遊の旅に出る際に、先祖の墓に参って植えた杉だと言い伝えられている。十兵衛杉の下へと続く野の小道には山百合がをちこちに咲いて迎えてくれる。(山百合) 十兵衛杉の北側に中宮寺がある。道標に従い、訪ねてみる。(中宮寺への道)(中宮寺) 中宮寺は芳徳寺が出来る前の柳生家の菩提寺であった寺のようであるが、寺の前の消えかかっている説明板には次のようにある。後醍醐天皇、笠置山に潜幸の際、天皇をお助けし、柳生播磨守永珍の嫡男柳生備前守家重が文和2年甲午(1354)8月6日逝去、大和国添上郡柳生下邑中宮寺に葬す、墓碑あり、と柳生家所蔵の記録に残されていることから、これより以前に建立されていたことになる。柳生但馬守宗矩が寛永15年(1638)亡父石舟斎宗厳の菩提を弔うため芳徳寺を建立するまで代々柳生友矩まで中宮寺に葬す、と記録されている。それ以後は柳生下邑の檀家寺となり、現在は又ミニ公民館となっている。本堂には薬師如来の木像がまつられている。鎌倉時代末期の作とも言われている。(古城山) 元弘の乱(1331年)の際、後醍醐天皇潜幸の笠置山の南部を守るため、柳生永珍がたてこもった山。山頂は平坦になっていて堀の跡が見られるとのこと。柳生バス停の処から階段を上って行く道があり、その先に剣塚があると表示されていたが、それはこの古城山への道であったようです。 古城山を左に見つつ、東海自然歩道を南へ。柳生藩家老屋敷へと向かう。(柳生藩家老屋敷への道) 手前右の屋敷が家老屋敷かと思いきや、一般の民家。奥にあるのが家老屋敷でありました。(家老屋敷) 柳生藩(1万石)の家老、小山田主鈴(1781~1856)の旧邸。主鈴は文政9年(1826)国家老として江戸から奈良に移り、藩財政の立て直しに成功する。弘化3年(1846)に家督を譲り、この地に新邸を営んで余生を送ったとのこと。弘化4年(1847)8月着工、翌嘉永元年(1848)6月上棟したのがこの屋敷。昭和39年(1964)から作家山岡荘八氏の所有となり、NHK大河ドラマ「春の坂道」の原作もここでその構想を練ったと言われている。昭和55年(1980)に遺族から奈良市へ寄贈された。(同上)(家老屋敷・長屋門) 米蔵その他の付属施設が撤去されたりしているが、主屋は創建当初の姿をほぼとどめている、奈良県下では殆ど唯一の武家屋敷の遺構であるのだそうな。(主屋内部)(同上) 家老屋敷を出て南へと向かう。(小山田家分家屋敷) こちらは小山田氏の分家。その末裔の方が今も居住されているのであろう、非公開となっている。 更に南に進むと柳生中学校。剣道の練習をする中学生の声が聞こえて来る。いかにも柳生の里である。 今川という小さな川を渡り、芳徳寺へと向かう。(芳徳寺) 芳徳寺は柳生宗矩が父石舟斎宗厳の供養のため寛永15年(1638)に創建した寺。柳生氏代々の菩提所。石舟斎の法名「芳徳院殿荘雲宗厳居士」から芳徳寺と名付けられた。開山は沢庵和尚。 境内に桔梗と女郎花が咲いていました。秋の花である。風にもそっと秋が忍び込んでいるのだろうか、木陰に寄れば風が冷んやりと心地良い。 寺の裏の林の小道を行くと柳生一族の墓所がある。(柳生一族の墓所)(同上) 墓所から、来た道を引き返して来ると本堂の脇は美しい緑のトンネルのように見える。蝉が盛んに鳴いている。奥津城の 道は間なくし 蝉しぐれ 風さみどりに 色深みかも (偐家持) (芳徳寺境内) 芳徳寺山門の前の坂を下った三叉路で左に坂道を上って行くと一刀石がある。これが結構な山道で距離もかなりある。うねうねと上って行くと森閑とした森の中に巨石がある。 (道の右<山>側) (道の左<谷>側) 処々、谷に向かって路肩が崩れている林の中の小道を行く。ヒグラシが鳴いている。やがて、坂の上に鳥居が見えて来る。天石立神社とある。(天石立神社)(天石立神社)(後:きんちゃく岩、前:前伏磐) ここで、文字数制限一杯のようです。一刀石から先はページを改めます。(つづく)<追記・注>タテ長写真6枚が横倒しになった歪んだ画像になってしまっていたので、2020年10月30日これらを復元修正しました。●過去記事の写真が歪んでいたりすること 2020.10.12.
2011.08.01
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