全20件 (20件中 1-20件目)
1
(承前) 藤原百川の墓から始めた銀輪散歩記事も今回で完結です。今日は仁徳天皇の皇后・磐之媛の御陵から始めます。(磐之媛陵) 写真のわが愛車トレンクル。ハンドルの左グリップの処をご覧戴くと分かりますが、ブレーキ・ハンドルが上にくっついてしまっています。この状態でブレーキが掛かっていないのですから、右ハンドルのみが頼りの銀輪走行で、此処までやって来ました。(同上) 磐之媛は万葉集第2巻冒頭に4首の歌を残す、古代を代表する女性。彼女のことやこの御陵は何度か当ブログに取り上げていますので、次の歌1首を記載して置くにとどめます。秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いづへの方に わが恋やまむ (磐媛皇后 万葉集巻2-88)<秋の田の稲穂の上にかかっている朝霞、その朝霞のように私の恋の思いが消え去るのはいつのことであるのか。> (参考記事) 1.磐之媛皇后と光明皇后 2009.4.20. 2.佐紀・秋篠川逍遥 2008.4.28. 3.奈良自転車道銀輪散歩(平城京址公園から般若寺へ)2010.3.10. 4.奈良銀輪散歩 2010.11.7.(堀には未草が咲き) 濠には睡蓮の白い花。未草ですな。参道脇には草が御簾の風情に生え、そより秋風に靡いているのでもありました。(草の御簾)恋ふれども とふは風のみ 玉垂れの 御簾のうちにも 恋はかなしき (偐家持)(秋大空へ今ぞ翔べ) 近くに寄っても見ると、白き穂から絮(わた・じょ)が飛び立とうとしているのでありました。柳絮と言うと春の季語であるが、タンポポやノゲシなど秋も亦「絮」の季節。風待ちていざ大空へ飛べよかし、であります。 この辺りは佐紀、佐保の地。佐紀は「先、咲き」と通じ、佐保は「さ・穂」とも通じるから、穂先に咲き出でたる綿毛の絮は、この地に相応しい、などとこじつけてもいるヤカモチでありました(笑)。(糸トンボ 添ひてたぐひて・・) コチラはトンでないトンボ。トンボも恋の季節と見えてカップル。トンボは産卵期にあるメスを見つけるとこのように尻尾でメスをフック掛けにして確保、何処へ行くのもこのように連れ歩くのでありますな。メスの権利は・・などという声は今の処、トンボ世界では上っていない。(同上・孤独なるもよし・・) あっしには関わりのねえことにござんす。 It's none of my business どこの世界にも紋次郎はいるものであります。(磐之媛陵の前の自転車道) 御陵の前は奈良自転車道が通っている。奥へ行くと黒髪山へ、背後をずっと行くと大和郡山へと続く。写真の自転車道の奥で右に曲がった処にあるのが次の万葉歌碑。(中臣女郎の歌碑) これも既に取り上げている(上記参考1.の記事参照)が、大伴家持さんのガールフレンドの一人中臣女郎が家持に贈った歌である。女郎花 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも (中臣女郎 万葉集巻4-675) こんな恋は初めてのことよ、と言って来た彼女に家持さんはどんな歌を返したのでしょうね。「花かつみ」はアヤメ、ノハナショウブ、マコモ、ヒメシャガ、カタバミなど色々と説があって何とも定まっていない。(水面に映す影清み 生駒青山西にはるけし) 上の歌の佐紀沢はこの水上池のこととされている。水際には葦が生えていますが、花かつみはこの葦の花のことだとする説もある。花かつみ みなもに映す 影清み 生駒の山も はるけく青し (偐家持)(水上池) かつては釣り池だったが、今はその残骸を残すのみ。 人工物はなべてその役割を終え用なきものになりたるがよし。わけても朽ちて行きつつある様こそ美しく、いと「をかし」なのである。自ずと自然の景色に馴染み調和しているのがいい。(芒が原) 池の反対側は平城宮址公園に向かって一面の芒が原。それとも葦原か? 風が渡って行く。(同上) 平城宮址に立ち寄る前に平城天皇陵に立ち寄って行く。平城天皇は桓武天皇の長子。 弟の嵯峨天皇との対立やその愛妾・藤原薬子とその兄仲成が絡む薬子の変のことなどは上記参考1.の記事をご参照下さい。(平城天皇陵) 平城宮址公園の木陰で暫し休憩。 大極殿にご挨拶申し上げて、近鉄西大寺駅へ。 トレンクルを畳んで電車で帰途に。(大極殿)(同上) 瓢箪山駅で下車。行きつけの自転車屋さんにトレンクルを持ち込み、ブレーキの故障を修理して戴く。この処MTBもトレンクルも何かと故障が多く、自転車屋さんにお世話になることが続いているが、無事修理も済み、帰宅と相成りました。些か中途半端な銀輪散歩に終わりましたが、これにて完結と致します。
2014.09.29
コメント(15)
(承前) 相楽神社を出て国道163号を走っている時に後輪ブレーキが故障。前輪のブレーキしか効かなくなってしまいました。そんなことで早めに銀輪散歩を切り上げるべく、平城宮址公園に向かうこととしたもので、当初は木津川べりを走ってなどとも考えていたのでありました。 さて、県道751号に並行して舗装のされていない地道があることに気付く。うたひめの道とある。歌姫古道である。銀輪万葉とあればこの道を行かぬ手はない。 歌姫というのは、何でもその昔、舞をする美しい姫がこの辺りに住んでいたとかで、それに因んだ名だという。(うたひめの道) しかし、姫ということで思い浮かぶのは、古事記や日本書紀に出て来る丹波国の姫である。古事記では4人、日本書紀では5人の姫が垂仁天皇の後宮に入るが、その中の2人(日本書紀では1人)は「形姿醜きに因りて」丹波国へ帰されることとなるという話。 その姫というのは古事記では、比婆須比売、弟比売こと沼羽田之入比売、歌凝比売、円野比売の4人。歌凝比売と円野比売の二人は「いと醜きにより本つ主に返し送りたまひき」とある。円野比売はそのことを慚じて山代国相楽にまでやって来た時に「樹の枝に取りさがりて死なむ」と思ったので、その地を「懸木(さがりき)」と名付けた。それが相楽(さがらか)の語源である、としている。また、弟国に到った時に彼女は淵に身を投げて死ぬ。それでそこを「堕国(おちくに)」と名付けた。今にここを弟国(乙訓)と言う所以であるという。 日本書紀では、日葉酢媛、渟葉田瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛の5人で、丹波へ送り返されたのは竹野媛1人となっている。竹野媛は、葛野(現在の京都市右京区辺りとされる)まで来た時に「自ら輿より堕ちて」死んだとある。其の地を「堕国」と呼ぶようになり、弟国に転訛したとある。古事記と同様の「乙訓」地名起源説話である。 丹波国へと送り返されることとなった姫がどの道を通ったかは勿論分からないが、「うたひめのみち」という名からしてこの道を行ったと想像したくなるというもの。県道751号だの木津平城線だのという名ではそういうロマンは望むべくもない。(同上)をみならの かなしきこゑを きけとかも 秋風さやぐ うたひめのみち (偐家持)(同上)(同上)(同上)(歌姫峠への道) やがて「うたひめの道」は県道751号のアスファルト道に吸収されて、緩やかに歌姫峠へと登って行く。(添御縣坐神社) 歌姫峠にあるのは添御縣坐神社。旅の無事や留守家族のことを思い旅人はここに手向けをして、旅を続けたのであるのでしょう。境内には、長屋王と菅原道真の手向けの歌の歌碑が建てられている。 (同上・本殿)(長屋王歌碑)佐保過ぎて 寧楽の手向に 置く幣(ぬさ)は 妹を目離(か)れず 相見しめとぞ (長屋王 万葉集巻3-300)(佐保を過ぎて、奈良山の手向けの地で幣を神に奉るのは、妻にいつも逢わせて下さいという気持からです。) 長屋王については下記記事でも取り上げていますので、省略します。 <参考>平群-竜田川-大和川-竜田大社-竜田越え 2009.9.4.(菅原道真歌碑)このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(菅原道真 古今集420)(このたびの旅は、神にささげる幣も用意する暇もありませんでしたから、この手向山の錦織のように美しい紅葉を幣としてささげます。神のお心のままご覧下さいませ。) 菅原道真については、下記記事をご参照下さい。 <参考>菅公縁起絵巻 2014.8.7. 神社で富雄から歩いて来たと仰るご婦人と出会う。暫く立ち話。奈良坂の方まで行くと仰る。小生は751号を直進して平城宮址公園に出る心算でいたが、彼女が奈良坂への道を盛んに薦めるので、ならば久しぶりに磐之媛陵に回って行くかと奈良坂方向つまり東方向へと向かう。(磐之媛陵への道) 県道から一歩脇道に入ると長閑な田園風景。ヒガンバナやコスモスが咲き、池の風情も趣がある。(同上)(同上・コスモス) 磐之媛陵へと続く石畳の道に入るとキンモクセイの香りが流れて来ました。やがて金木犀の大木とそれにはさまれるようにして大きな芭蕉の木が現れました。(同上・芭蕉と金木犀) 間もなく磐之媛陵ですが、今日はここまでとします。続きは明日です。
2014.09.28
コメント(6)
本日は折りたたみ軽量自転車トレンクルをお伴に、藤原百川の墓に行って参りました。 <参考>トレンクル 近鉄京都線山田川駅で下車。トレンクルを組み立てて出発。 藤原永手の墓は2度訪ねて居り、直近は今年7月に訪ねている。称徳天皇亡き後の天皇に白壁王(光仁天皇)を擁立に動いたのは藤原永手と藤原百川の二人。ということで、予てより百川の墓も訪ねてみたいと思っていたのだが、何故か今まで果たさずにいました。 <参考>永手の墓と正成の首塚 2014.7.27. 永手は藤原北家の始祖・房前の息子(二男)。一方の百川は藤原式家の始祖・宇合の息子(八男)。二人の路線は、白壁王を天皇にする処までは同じであったが、その後継については意見を異にしていたようだ。永手は光仁天皇の後継は井上皇后(聖武天皇の娘・井上内親王)との間に生まれた他戸親王を皇太子とし、彼を後継の天皇に、と考えていた。しかし、永手は光仁即位・他戸立太子の翌年に死去してしまう。すると、百川の陰謀と見られているが、井上皇后に光仁天皇呪詛の嫌疑が掛けられ廃后、続いて他戸皇太子も廃太子となる。代って皇太子となったのは山部親王。後の桓武天皇である。桓武天皇実現の立役者はこの百川であったという次第。 <参考>藤原永手 藤原百川 井上内親王 他戸親王(藤原百川の墓) 百川の墓は山田川駅の東方200mの位置にある。玉垣に囲まれた中に円墳が二つ並んでいる。延喜式にはその夫人の墓も同所にあると記載されているそうだから、此処が百川の墓なら、一つは夫人の墓ということになる。どちらとも決め兼ねてその中間に、どっちつかずに藤原百川公墓と刻された墓碑が建てられているのも面白い。 その夫人というのは藤原良継の娘の藤原諸姉のことだろう。彼女と百川の間に生まれた旅子は桓武天皇の夫人となり、その子の大伴親王が第53代淳和天皇である。旅子の墓や淳和天皇陵は当ブログでも以前ご紹介している。 <参考>藤原旅子の墓の記事はコチラ 京都南部銀輪散歩・桓武天皇母陵・同夫人陵へ 2012.3.25. 淳和天皇陵の記事はコチラ 小塩山登山 2012.2.17.(同上)(同上・説明板) 余談になるが、長岡京遷都の際、その責任者・造宮使であり、長岡京視察中に何者かに暗殺された藤原種継は百川の甥に当たる。この種継暗殺事件は大伴家持が首謀者とされ、既に死んでいたにもかかわらずその墓が暴かれ、官籍剥奪・息子永主ら一族が隠岐に流されるなどの厳しい処分を受けた事件であり、偐家持とも無関係ではないので記載して置きます(笑)。(相楽神社) 百川の墓から東へ300m、やや南寄り、国道163号沿いにあるのが相楽神社。これといって当てもないのが銀輪散歩。立ち寄って行く。向かいの相楽小学校は運動会とあって、赤ガンバレ、白ガンバレの声援で賑やかなことでした。(同上・由緒)(同上・拝殿) 拝殿に人影。何かの神事かと近付くと七五三参りか何かそのようなもののようでありました。(同上)(同上・本殿) 国道163号に戻り東へ。200m先、川ノ尻交差点で国道は南へ直角に折れる。わがトレンクルも南へ。由縁などは知らぬが道脇に一本松。(一本松)(石碑)(田園風景) 国道163号は川久保交差点で東(左)に折れるが、ヤカモチとトレンクルはそのまま南へと直進。府道751号(木津平城線)を行く。歌姫峠へと続く道である。程なく奈良県に入る。これよりは県道751号となる。(是より奈良県・奈良市) 上は普通の道路標識であるが、道路反対側には「従是南大和国・従是南奈良縣管轄」という、如何にも古道らしき石の道標。この道は歌姫古道でもある。(是より大和国・奈良県管轄) 昨日のビッグジョン氏のブログに掲載されていたマルバルコウ。小生も目にしました。残念ながら豆朝顔は見当たりませなんだ(笑)。 <参考>マルバルコウソウ(ビッグジョン氏のブログ記事)(丸葉縷紅草・マルバルコウソウ) 東方向を見やると若草山。その右側には「大」の字で直ぐにそれと分かる高円山。奈良県に入ったことを納得。(若草山遠望) 黄金色の稲田と秋風に靡くススキの穂が美しい。萩の花 なくも尾花の 銀の穂に 秋の風見つ 銀輪われは (銀輪家持)今日はここまでとします。続きは明日に。
2014.09.27
コメント(4)
(承前) 一昨日(23日)の日記の続きです。第6回ナナ万葉の会の記事をアップした関係で、一日とんでの続編記事となりました。前記事でも今井町に立ち寄ったことは少し触れましたが、その今井町で撮った写真がいくつかありますので、それを掲載することとします。 今井町はこれまでに何度も訪れている。若草読書会の人たちとも訪れたことがあるし、その他の友人や家族とも一緒に立ち寄ったりもありましたが、飛鳥川べりの自転車道を銀輪で走ると、必ずこの町の前を通るので、ふらり一人で立ち寄るというようなこともよくあります。そんな今井町であるが、ブログにはこれまで何故か取り上げたことがないようです。(今井町)(今井町イラストマップ) 今井町は戦国時代、天文年間(1532~1555)に、一向宗門徒によって開設された今井御坊(称念寺)を中心に建設された環濠の寺内町。全国最大規模の重要伝統的建造物保存地区として、夙に有名。重要文化財に指定された多くの建物を中心に、江戸時代さながらの町並み景観が維持保存されている、見て歩くに楽しい町である。詳しくは下記参考をご覧下さい。 <参考>今井町・Wikipedia 今井町町並み保存会ホームページ(高木家住宅)(河合家住宅)(豊太閤本陣跡)(中橋家住宅) マンホール蓋の図柄も町並み景観をあしらっていますな。(今井町のマンホール)(称念寺)(同上・山門)(同上・客殿)(信長本陣跡伝承地)(環濠) 最後に春日神社に立ち寄り申し上げ候。(春日神社)(同上・旧常福寺表門)(同上・拝殿)(同上・本殿)(同上・旧常福寺観音堂)(同上・摂社、左から八幡宮、天満宮、人丸神社)(同上・摂社、左から恵比寿神社、厳島神社) 観音堂の裏に小さな地蔵堂。(同上・叶地蔵)(同上) 万葉歌碑撮影の帰途のついでの立ち寄りにてもあれば、こんな処で失礼仕り候。いにしへの ひともみてしか かなしきは いまゐのそらの あきのしらくも (銀輪家持)あきかぜの たびのわれなり いまゐまち つばらつばらに みつつもゆかむ (銀輪家持)
2014.09.25
コメント(4)
本日はナナ万葉の会の日。4月から始めたこの会も早くも6回目を数えることとなった。台風の影響による雨も心配されましたが、幸い、雨に降られることもなく、MTBによる自宅から喫茶ナナまでの往復も何ら支障のないものとなりました。いつもの通り、午後2時からの開催であるが、午後1時になるかならない位には、もうナナに到着。喫茶店の前に駐輪してから、少し近くを散策。目にとまったものを撮影しましたので、それらを紹介して置きます。(東大阪市と八尾市の境界付近) 上の写真は、小生が「上ツ道」と呼んでいるコースをとった時に通る道の辺の景色。今日は、恩智川べりなどのコースをとらず、一番山に近いコース、つまり「上ツ道」コースを走りました。奥に見えている白い建物は大阪経済法科大学の建物である。 さて、喫茶ナナの前を流れている恩智川には大きな鯉が沢山泳いでいる。(恩智川の鯉)(同上・うじゃうじゃといる。) (山芋のムカゴ) ナナの店の前の橋を西に渡ると倉庫とも作業場ともつかぬ建物と広い前庭のある敷地がある。この敷地の垣根に山芋の蔓が這わせてありました。以前にピンクの花のノウゼンカズラを見たことを当ブログでご紹介したが、同じ垣根である。ノウゼンカズラに混じって山芋の蔓もあったのでした。ムカゴが沢山なっていた。 ムカゴというのは実ではなく、山芋の茎(蔓)が肥大化して肉芽となったもので、こういうのを栄養生殖器官と呼ぶそうで、種子と同様に、これが本体から離脱して地に落ちると根が生え、芽が出て、新しい植物となるとのこと。 山辺や山中でなく。川辺の垣根で山芋のムカゴに出会うというのも面白いことであります。(同上) その前庭に少し侵入させて戴くと、入口近くには大きなヘチマがなってもいました。最近はヘチマも余り見かけなくなったので、珍しく、撮影させて戴きました。(糸瓜) 国道170号・外環状道路の方へと歩いて行くと民家の前に鮮やかな花が咲き匂っていました。見たことのある花なのだが、名前が思い出せない。 <追記>早速にひろみちゃん氏からブーゲンビリアだとご教授戴きました。 外環状道路に出た処で陸橋があったので上ってみる。南方向には近鉄大阪線の恩智駅が見える。(恩智駅)(国道170号・外環状道路) 陸橋から北東方向の眺めはこんな感じ。道路の右に見えている奥の赤い看板がパチンコ屋の看板。この付近で恩智川と外環状道路が交差している。(高安山 白い気象レーダーのある山がそれ。) 東方向を見ると高安山が見える。 ということで、喫茶ナナ(Cafe de nana)のある恩智駅付近の様子をご紹介申し上げました(笑)。 散策を終え、ナナに戻り、万葉の会開催。 今日の参加者は遅れて来られた方も含め、男性2名、女性7名の9名でした。うち5名は初参加の方。雨の予報でもあったので参加者は少ないのではと思っていましたが、予想に反して、でありました。雨も予想に反して降りませんでしたが。 採り上げた歌を例によって下に列記して置きます。長歌は省略して短歌のみ記載します。会の最後には皆で犬養節でこれら短歌を朗誦致しました。芦屋の 菟原娘子の 奥津城を 行き来と見れば 哭のみし泣かゆ (巻9-1810)墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 千沼壮士にし 寄りにけらしも (巻9-1811)古の 小竹田壮士の 妻問ひし 菟原処女の 奥つ城ぞこれ(巻9-1802)語り継ぐ からにもここだ 恋しきを 直目に見けむ 古壮士(巻9-1803)処女らが 後のしるしと 黄楊小櫛 生ひかはり生ひて 靡きけらしも (巻19-4212)葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ (巻9-1808)吾も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城どころ (巻3-432)葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児名し思ほゆ (巻3-433)無耳の 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かば 水は涸れなむ(巻16-3788)あしひきの 山かづらの児 今日ゆくと 吾に告げせば 還り来ましを (巻16-3789)あしひきの 玉かづらの児 今日のごと いづれの隈を 見つつ来にけむ (巻16-3790)春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散り行けるかも (巻16-3786)妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや年のはに (巻16-3787)<参考>喫茶ナナ関連の過去の記事はコチラからご覧下さい。
2014.09.24
コメント(8)
今日は、橿原神宮の近くにある桜児伝説に因む万葉歌碑を写真に撮るため折りたたみ自転車のトレンクル君をお伴に出掛けて参りました。MTBの前輪ブレーキが妙な音を立てるので自転車屋さんに持ち込んだら、部品の一部が摩耗しているので取り換える必要ありとの診断にて、部品を取り寄せるまでの間ということで、土曜日から「入院」していますので、トレンクル君の出番という次第。 桜児伝説というのは、二人の男から求婚された桜児という娘子が、男が自分をめぐって相争うのを苦にして自殺してしまうという話で、娘子の死を傷んだ男の歌だという歌が万葉集に2首掲載されている。 その2首のうちの1首が刻まれた歌碑が、神武天皇陵の入口付近から畝傍御陵前駅の方へ少し戻った辺りにある大窪児童公園の一角にある。春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散り行けるかも (万葉集巻16-3786)<春になったら髪に挿そうと思っていた桜の花は散って行ってしまったよ。>(桜児伝説万葉歌碑) 歌碑の方は第5句が「散りにけるかも」になっている。原文は「散去流香聞」であるから、「散り行けるかも」の方がいいように思う。 もう1首は、上の写真の副碑にも記載の通り、これ。妹が名に かけたる桜 花咲かば 常にや恋ひむ いや毎年に (万葉集巻16-3787)<あの娘と同じ名の桜の花が咲いたらいつも恋しく思うことだろう。来る年ごとに。> 何れも当事者の作ではなく、後世の誰かの作であろう。歌には切実感がない。 さて、何故、この桜児伝説の歌碑の撮影かと言うと、明日のナナ万葉の会でこの歌を取り上げるからであります。万葉には、同じような伝説がいくつかある。菟原處女(うなひをとめ)、真間の手児奈(てこな)、縵児(かづらこ)などである。これらに関する歌をまとめて鑑賞しようというのが次回のテーマである。(大窪寺) 歌碑のある児童公園の向かいのお堂の前には大窪寺の表示。現在は向かいの寺は国源寺という寺。此処は以前に立ち寄ったが、その折にはこの万葉歌碑は見落としていました。(同上説明板)<参考>国源寺 国源寺・聖徳太子立像 お堂の前には白い彼岸花。またしても、赤よりも先に白が立ち現われました。(白彼岸花) 歌碑のある公園の東側には「歴代天皇遥拝所」なるものがありました。こういうものもあるのですな。初めて目にしました。東方向を向いて遥拝する形になっているから、東京の皇居を向いていることになるのでしょうか。明治天皇陵は伏見ですから北方向、歴代天皇陵となると方角はまちまち。どうも遥拝という形式には馴染まないように思われますが。(歴代天皇遥拝所) 遥拝所から路地を南に入って行くと空き地に赤い彼岸花。白を撮ったら赤も撮らなくてはなるまい。(彼岸花・赤) 赤と言えば丹。「秋づけば 丹の穂にも満つ・・」(脚注参照)という万葉歌もあったが、「春されば 花咲きををり」と対句になって使われている。秋の稲田も亦「秋らしき景色」というものである。もっとも、現在の稲は「丹の穂」ではなく「黄金色」である。古代の米は赤米。穂ももっと濃い色、どちらかと言うと茶褐色であっただろうから、現在の稲田とは随分異なる景色であった筈である。(稲穂)(丹の穂満つ稲田) 歌碑の前で出会った男性は、この地区の町内会長さんでした。国源寺や大久保神社のことを教えて戴いた。それで、大久保神社にも立ち寄ってみました。(大久保神社)<参考>奈良の寺社・大久保神社(同上・拝殿)(同上・本殿) 大久保神社から畝傍御陵前駅の前に出る。(近鉄畝傍御陵前駅) ここから近鉄線に沿って北へ。飛鳥川にぶつかった処で、左に入ると今井町。今井町を少し散策してから、近鉄八木駅へ。八木駅でトレンクルを収納バッグに入れて、電車で恩智駅まで移動。恩智駅で自転車を組立て、再び走り出す。と言っても目的地の喫茶ナナは直ぐ近く。客は無く、店主の小〇さんとお孫さんだけ。明日の万葉の会の資料をお届けする。 暫く小〇さんと雑談してから帰途に。トレンクルで自宅までの銀輪散歩。近鉄完全高架化完了で、電車の走らなくなった東花園駅前の踏切を渡って家へ。 自転車屋さんからMTBの修理が終わったとの電話があり、帰宅後再び瓢箪山駅近くのその店までMTBを引き取りに行き、MTBを無事退院させて参りました。入院治療費は保険外治療なるも5千円で済みました(笑)。 明日は雨になるようだから、MTBで出掛けるかどうか悩ましいが、電車だと布施回りで時間が掛かるので、雨合羽を着てMTBで行く方に傾いています。まあ、旅先で雨の中銀輪で走ることも結構ありますので、慣れてはいますが・・。
2014.09.23
コメント(3)
第148回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。今回は出展作品6点と少ないのでありますが、諸般事情により開催の運びと相成りました。<参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずは人参の絵。 と言っても、実際の人参を写生されたものではありません。引き出しに野菜の絵があしらわれた整理棚がありまして、それをモデルに絵にされたのでありました。 恒郎女さんのお姉様が先般お引越しをなさいました。その際に新居の方では使わないという家具がいくつか生じましたが、その一つがこの整理棚でありました。 智麻呂・恒郎女ご夫妻のお孫さんのナナちゃんがこの整理棚がとても気に入っていたこともあって、ナナちゃんに上げる、ということになったようです。そんなことで、ナナちゃんたちが引き取りに来るまで智麻呂邸にてその整理棚を一時預って居られました。 ナナちゃんだけでなく、智麻呂さんも引き出しに描かれた野菜の絵に心惹かれるものがおありになったのでしょう。早速にそれを絵にされました。(人参) 絵柄がどうも日本のものという感じではないので、外国製の家具でしょうかね。(葱とパプリカ) 下は、その整理棚の写真です。絵は4つありましたが、2つまで描かれた処でナナちゃんたちが引き取りに来られたようで、赤蕪と玉蜀黍の絵はどうやら描けないままとなりました(笑)。 (野菜の絵のある整理棚) 次のツユクサとヒガンバナとは、散歩の途上で見かけられたものの写生です。随分と涼しくなりましたから、智麻呂さんの朝の散歩も快適。せっせと花散歩をなさっているのでしょう(笑)。(ツユクサ) ツユクサは、万葉では「つきくさ」。衣にこの花を摺り付けて摺り染めにしたようだが、色が付きやすい処から「付き草」と呼んだよう。このつきくさの染め色が「縹(はなだ)」であり、それは移ろいやすい。人の命のはかなさや恋の移ろいやすさなどにこの花が詠われる所以である。その落ちやすい色の特徴を活かして今でも友禅の下絵はこの草の花から採取した染料が利用される。 漢字では「月草」、「鴨頭草」などとも表記されるが、後者のそれは鴨の頭を連想させる花の形に由来するものであろう。トンボ草と呼ぶ地域もあるようだが、これも同じ発想の命名でしょうな。月草に 衣は摺らむ 朝露に ぬれての後は 移ろひぬとも (万葉集巻7-1351)(ヒガンバナA) ヒガンバナも智麻呂さんのお好きな花。この時期の智麻呂絵画展の定番の花であります。 ヒガンバナは、万葉の「壱師の花」がそれだというのが有力説である。異説のイタドリ、ギシギシ、イチゴ、エゴノキなどは、この花のパッと咲き赤々と情熱的な「いちしろき」その様に、どうしても分が悪くなるという点は否めない。因みに「いちしろく」とは「著しい」で、よく目立つことである。路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻を (万葉集巻11-2480)(ヒガンバナB) Aは左右が蕾。Bは左右の蕾が花開いたものであるのでしょうか。こうなったらもう「人皆知りぬ」になるのは当たり前ですな(笑)。(栗大福) これは、ヤカモチが中秋の名月の日に智麻呂邸を訪問した際に手土産としてお持ちした栗大福であります(多分)。渋いお茶をお淹れいたしましたので、お茶請けにお召し上がり下さいませ。本日もご来場賜り有難うございました。
2014.09.21
コメント(10)
秋の花、秋の実、と来れば、次は秋の葉となるというものですが、未だ紅葉の季節には非ずで銀輪もみぢ遍路という訳にも参らねば、虫たちの秋と致しましょう。虫遍路であります。と言ってもコオロギやキリギリスや鈴虫、松虫といった秋の虫は登場致しませぬ。彼らは夜鳴く虫。銀輪家持は昼に走る虫。時間が折り合いませぬ。かくて銀輪散歩にて偶々見かけた虫たちが脈絡も無く登場する虫遍路であります。虫変路ですかな。虫がお嫌いなお方はパスして下さいませ。 秋らしく、秋のトンボ。アキアカネ。翅を身体の前に突き出しているのは風向きの具合でバランスを取っているのでしょうか。時々目にするトンボのスタイルではあります。(アキアカネ)ゆく先は おのず見えたり 秋の風 来し方思ひつ 時待つらむか (蜻蛉家持)(同上) 秋は命をつなぐ季節でもある。冬を越せる虫はそうは多くない。卵の形で越冬し種としての命を繋がなくてはならない。多くのコガネムシのカップルが目につきました。写真は何故かシングルばかりとなりましたが。 これは何というコガネムシなのか知りませんが、この草に卵を産み付けるのでもあるか、やたらに多く居ました。(コガネムシ) 下のコガネムシの背中に映っているのはカメラを構えているヤカモチの姿のような気もしますが。(同上) 次もコガネムシの仲間、ハナムグリです。せっせと花の蜜あさりです。ハナムグリも色々と種類がありますが、詳しいことは勿論ヤカモチの知らぬことにて候。 (ハナムグリ) 男子公衆便所の手洗い場の壁面に居た蜘蛛。随分と足の長い蜘蛛であるが、前に突き出たひと際長大な足は触覚の役目も果たしているのでしょうか。この蜘蛛は巣を張って餌の虫が絡みつくのを待つのではなく、ハエトリグモなどと同じで虫を探索して壁面などを這い回るライフスタイルの蜘蛛のようです。(クモ) こちらは、堂々たる蜘蛛。体の大きさやその毒々しくも美しい模様が目を引くが、それは同時になかなか優れた意匠でもある。女郎蜘蛛の一種でしょうね。(女郎蜘蛛ですかね。)(同上) 次はバッタ。トノサマバッタのメスでしょうか。かなり大型の奴がアスファルトの上に。何をしているのかと思うと、アスファルトの裂け目に産卵しているようでもあります。都会派のバッタですな。しかし、そんな処に産卵して孵化できるのでしょうかね。(バッタ) バタバタしてるバッタ、とか、威張ったバッタ、へばったバッタなどと言葉遊びをしたこともありましたが、このバッタはそのどれにも当たらない、道バタのバッタでありました。(同上) そして、蛾。蛾と蝶の区別は一応あるようですがかなり曖昧でもある。しかし、これは間違い無く蛾であって蝶ではない。 「我を張る蝶」と「腸が弱い蛾」などと落蛾記蝶に書いてみた。(蛾) ちょっと、虫嫌いな人には酷な虫が続きましたので、可愛いミツバチ君で締めることと致しましょう。翅を打ちふるわせて盛んに蜜を集めています。労働の喜びを身体で表現してもいるようなミツバチ君の働きぶり。蜂蜜をかすめ取る奴は誰だ。(ミツバチ)<参考>当ブログの虫関連の記事はコチラからご覧下さい。
2014.09.19
コメント(8)
(承前) 昨日の記事の一応の続編になります。花より団子ではありませぬが、秋は実ですね。銀輪散歩の「花遍路」もいつしか「実遍路」となりました。柿が色付いているのも目にしましたが、写真は撮っていなかったよう。山上憶良は「瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思はゆ・・」と詠いましたが、山中家持は、柿見れば 秋と思ほゆ 栗見れば まして思はゆ いづくより 来たりしものぞ 銀輪の 旅こそ今と われ誘ふらし (銀輪家持)とでも詠いましょうか(笑)。(栗) ヤマボウシの実がたわわに赤く・・。(ヤマボウシの実) 写真を撮っていると通りかかられたご婦人が「これは何ですか?」とお尋ねになる。「ヤマボウシです。」とヤカモチ。「あの白い花の咲くヤマボウシですか。実は初めて見ました。」と仰る。「美味しくはないですが、実は食べられます。」と知ったかぶりで説明するヤカモチ。「珍しいので少し戴いて帰りましょう。」と手近の枝から2~3個、実を摘んで行かれました。(同上) 次はマユミの実。ヤマボウシの実も形が独特であるが、マユミの実のデザインもそれに劣らない。如何にも可愛らしい赤い実であるが、殻が弾けて黄色い中の種が見え出すとこの眺めも一変して、何やら凄まじき眺めとなるのであります。(マユミの実)(同上) 虫こぶのような奇妙な形の実はコブシの実。この実の形が「拳・こぶし」に似てもいる処から「コブシ」という名になったということのよう。花の姿の可憐さを裏切る実の形姿と言うべきか。(コブシの実) ガマズミの実がひと際赤く・・小鳥たちに「食べてェ~」と言ってでもいるか。(ガマズミの実)(同上) これは何の実だったかな、と一瞬思いましたが、アカメガシワのそれだと気づきました。(アカメガシワの実) 上の状態のものはよく目にするのだが、弾けると下のように黒い種子が姿を現すのですね。これは余り目にした気がしないので、直ぐに地面に零れ落ちるのかも知れません。この夥しい数の実を見ると、河原のあちこちでこの木を目にするのも成程と思えます。旺盛な繁殖力。万葉で「久木」と呼ばれているのも頷けると言うものである。(同上) そして、葡萄をグンと小さくしたような実。美しい青紫色の実。これで真っ赤だと迷わずサネカズラ、と言う処ですが、これはなんという植物なんでしょう。蔓性ですからナントカカズラ、カントカカズラとでも呼んで置くこととしましょう(笑)。(実の紫になれるは何のカズラやらむ?)(同上) 何故か見飽きない実の色・形であります。 (同上)<追記>これはアオツヅラフジという名の植物だそうです。小万知さんが教えて下 さいました。(タラの木)(タラの実) タラの芽ならぬ「タラの実」であります。 実はいかにも小鳥たちに「食べて下さい」と高い位置に生っているのに、木には一杯の棘、棘。拒否しているのか誘っているのかよく分からぬ木である。 ブロ友のウーテイス氏が、ハイビスカスだったか別の木だったか、枝を切ると新しく生えて来る枝には棘を生ずるようになる、とか仰っていましたが、タラの木は年中、新芽を切り取られるので、ストレスが常態、その結果、棘を生ずるようになったのかも知れませんですな。出たら芽を 切られ続けの タラの木の 棘は恨みの 言の葉ならむ(棘家持)(同上)もみつ葉の ときは未だなり 数々の 実をば訪ねて 秋をぞ見しか(偐家持)<参考>「花」関連の当ブログ記事は下記からご覧戴けます。 花(1)2007~2011 花(2)2012~
2014.09.18
コメント(10)
(承前) 昨日の記事の続編です。(ケイトウ) 鶏頭は万葉では韓藍(からあゐ)である。秋さらば 移しもせむと わが蒔きし 韓藍の花を 誰かつみけむ(万葉集巻7-1362)<秋になったら、花を衣に摺り付けて色を移そうと、蒔いた鶏頭の花を誰が摘んだのだろう。>(イタドリ) 万葉歌の壱師の花は、彼岸花説が有力であるがイタドリの花説もある。路の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻を (柿本人麻呂歌集 万葉集巻11-2480)<道端の壱師の花のようにはっきりと人皆が知ってしまった、私の恋妻を。>(ギボウシの実) ギボウシの花は散ってしまって今は実が生っている。(同上)(秋の風) これは何とも知らぬ花。名も知らぬ 草にとどまる 秋の風 (風蕪蕉)(韮) 韮の花も万葉花。伎波都久の 岡の茎韮 われ摘めど 籠にも満たなふ 背なと摘まさね (万葉集巻14-3444)<きはつくの岡のくくみらは私が摘んでも籠一杯にはならない。それならあなたのいい人と一緒にお摘みなさいな。>(メヒシバ)めひしばの さ霧に秋の 風わたり 今日はも少し 先まで行くか(銀輪家持)(アキノノゲシ)銀輪の 風立ちぬれば 道の辺の アキノノゲシも 旅立ちの時(銀輪家持) (ウド) ウドの花は森の奥にひっそりと。花の白さが森の閑けさを引き立ててもいる。独活の花咲きて 森閑なり (閑蕪蕉)(フジバカマ) 上のフジバカマも下のヘクソカズラも万葉花であるが、そろそろ字数制限に近付いて来ました。写真を多く掲載し過ぎましたでしょうか。以下は簡単に。(ヘクソカズラ)(ミゾソバ)(同上)みぞそばの 花の下なる 水の音 (水蕪蕉)(ミズヒキ)水引の 気ままに秋を こぼしける (秋蕪蕉)(不明・モジャモジャの実)もじゃもじゃの 実にも見えたり 草の秋 (草蕪蕉) (同上) お口直しにやはり、萩。(萩) 久しぶりにツリフネソウを見ました。(ツリフネソウ)(同上)(黄色のツリフネソウ)(同上)(同上) そして、ツユクサ。これは夏の花ですかな。(ツユクサ)(同上) となれば、ススキ。これなら文句なしの秋でしょう。(ススキ)(ススキ これも秋の風です。)(同上)(同上) 鶏頭で始めた記事を尾花で終わらせる。これを首尾一貫と言う。かどうかは知らぬが、何となく納まりもよくなった処で、字数も限度。これにて失礼申し上げ候。
2014.09.17
コメント(0)
長らくブログ更新を怠っていました(と言ってもまだ5日目に過ぎませぬが)。余り長くなると、享年1296歳、遂にヤカモチも往生しよったかと要らぬ「ご期待」を抱かせてもいけませぬので、この辺で更新記事を入れて置くことと致しましょう(笑)。 未だ、日中の日差しは暑いものの、吹く風は秋のそれにて、ひんやりと心地よいものがあります。されば秋風に吹かれつつの銀輪花遍路も亦よきものにて候。 大空も はや秋の空 風が吹く (風蕪蕉) 風の音 ほつ枝に秋の 空青く (風蕪蕉)(空も秋) 行く雲も空の色もそこはかとなく秋にて候。わが秋を 見つけてひとつ 坂を越え (秋蕪蕉)(小さな秋) 桜の木に色づきたる葉を二つ三つ見つけたれば、「秋」など見つけたりと心ときめかせたりするもいとをかし。(もう一つの小さな秋) そして萩。やはり秋の花と言えばこの花です。 (萩の秋) <追記 2014.9.17.> 萩を詠った万葉歌は下記の記事をご参照下さい。 萩の花 2009.8.29. 今年初めて見た赤い彼岸花です。我妹子と 今年初めの 彼岸花 (花蕪蕉)(彼岸花)(同上)(葡萄) 通りかかった民家の生垣に葡萄が生っていました。これも秋。(同上) 何やら随分と美味しそうな果実が・・と思ひきや椿の実にてこそなむ。これを食ふてはなりませぬ。(椿の実)(同上) そして妙なものを見つけました。金魚すくいのそれのようでもありますが、中に種子と思しきものが入って居ります。もう少し大きければ団扇にもなりますかな。(団扇のような実と言うか種と言うか・・)(同上)<追記>ビッグジョンさんと小万知さんからのご教示です。これはルナリア、合田 草またの名を大判草と言うそうです。 (待宵草の実) (山芋の実?) 待宵草の実はこんな風でもありましたか。その隣にあったつる草は山芋でしょうか。渋い茶褐色の実も秋の侘び寂びを感じさせます。そして太い木の幹に無数の茸たち。キノコたちの秋は「わびさび」ではなく些か「ぶきみ」。<追記>山芋の実か?などと記した実はどうやらヘクソカズラの実のようです。本 日(10月5日)の墓参の道で同じような実を見ましたが、見慣れたヘクソ カズラの花が咲いていました。(キノコたちの秋) 何やら記事が「地味い~」な方へと流れていますので、秋のあでやかさも忘れてはなるまいぞ・・とて、秋の薔薇であります。(秋の薔薇) (同上) 秋の薔薇と来れば、秋の桜ことコスモスも忘れてはいけません。 古くは萩が日本の秋の代表花。現代はコスモスがそれに取って代っているでしょうか。(コスモス)(同上)(シジミチョウ)秋風や やまとしじみも しみじみと (蝶蕪蕉) これは、ヤマトシジミですかね。蜆汁にはならないシジミであります。 そして、またもヤブランです。白いヤブランも見かけましたが、白い花のヤブランというのは初めて目にしたような気がします。(ヤブラン)(白いヤブラン)<追記>白いのはヤブランではなく「ノシラン」と言うそうです。下記の小万知さ んのコメント参照。 以上、この処の銀輪散歩で見かけた花などを取りまとめてみました。
2014.09.16
コメント(8)
昨日(10日)は梅田スカイビルでの囲碁例会の日。MTBで自宅を出発。中央大通りを走り、大阪城公園をかすめて天満橋を渡って、といういつものコースでした。大阪城はこの日も観光客で賑わっていたようです。駐車場に観光バスが列をなしていました。(大阪城公園バス専用駐車場) 大阪城公園まではいつもの通り。天満橋を渡ってからがいつもとは違ってました。橋を渡ると直ぐに左折して大阪天満宮方向に向かうのだが、この日はそのまま直進。東天満交差点で国道1号線と出合いましたが、これも渡って二つ目の信号で漸く左折。別に理由はなく、何となくにでありました。するとこの通りにはずっと寺が並んでいるのでありました。門前の石碑に「緒方洪庵墓所」とあるのが偶々目に止まる。寺の名は龍海寺。緒方洪庵の適塾は我が母校とも関係があるのであってみれば、と立ち寄ってみることにする。 <参考>緒方洪庵・Wikipedia 適塾・Wikipedia 関連記事 青雲塾・適塾・武田斐三郎 2013.3.24.(龍海寺・緒方洪庵墓所碑)(緒方洪庵墓)(同上) 洪庵の墓の隣にある墓には、上品そうなご婦人とそのお嬢さんと思しき若い女性のお二人がお墓参りをなさっていました。声をお掛けすると、小生の姿が墓石に隠れてもいたか「何処から声がしたのかと驚きました。」と笑って居られました。 洪庵の墓から少し離れた場所に緒方〇〇という墓がありました。 洪庵の子孫か親戚筋の人物の墓であるのでしょう。そもそも通りがかりに偶々それと知って立ち寄ったに過ぎず、緒方洪庵についてもそれ程詳しくは存じ上げぬ故、緒方〇〇氏がいかなる御仁かは元より存じ上げぬことにて候。 上の碑の文面によると、龍海寺は秀吉の開基とある。白いタオルと青いハンカチはヤカモチのもの。碑の前の植物が文字を一部隠していたので、全文字を撮影するためにタオルなどで葉を抑え込んだ次第。写真はタオルとハンカチ部分をトリミング・削除の上使用する心算でいましたが、それを忘れたままフォト蔵にアップロードしてしまったようです。差し替えるのも面倒なので、このままにして置きます。お見苦しき点はご容赦のほど。 龍海寺から300mほど西に善導寺という寺がある。此処の門前にも山片蟠桃墓所の碑。山片蟠桃もその名くらいは知っているものの、詳しいことは存じ上げぬ。しかし、彼が学んだ懐徳堂もわが母校所縁にてあれば、これにも立ち寄らねばなるまい。 通用口に回り、閉ざされた押戸を押してみた。開く。ところが、戸が開くと警報音が鳴る仕掛けのようで、リリリリリ~。これでは無断では入り難い。インターホンを押して、蟠桃の墓を拝見したいが境内に立ち入ってもよいかを尋ねる。「どうぞ。本堂の裏です。」という返事。裏に回ってみるも、それらしきものが見当たらない。諦めて退出することにしました。 <参考>山片蟠桃・Wikipedia 懐徳堂・Wikipedia(善導寺) 上の写真に写っている自転車は我が愛車のMTB。前輪の先の小さな石碑には花山天皇の歌が刻まれていました。いくたびも まゐるこころは はつせでら やまもちかひも ふかきたにがは この歌は長谷寺の山門前の大きな歌碑に刻まれている歌で、小生はそれによってこの歌を知り、覚えたのでありました。(山片蟠桃墓所碑) 梅田スカイビル到着は11時50分頃。里山(「花野」とも呼ぶ。)の一角にあるカフェテラス、WILLER EXPRESS Cafeにて昼食とする。この日は外国人観光客の団体さんでも到着したばかりなのか食事中のヤカモチの周りは外国人ばかりでありました。此処は何処の国やねん。(梅田スカイビルの里山) さて、これは何であるか、分かりますか? お分かりになったお方はかなりの植物通でしょうな。 小生は初めて目にしました。花は以前から知っていましたが実を見るのは初めてです。春には品のある花を咲かせますが、実は、意匠に懲りすぎていささか野暮ったくなってしまった、という感じでしょうか。 ちょっと見はお菓子のようでもありますが、これは食べてはいけない。有毒だそうです。(シキミの実) ※梅田スカイビルの里山に生っていました。里山のこの木の前には「ミヤマシキ ミ」と表示された札が立てられていたので、当初そう表示しましたが、シキミ とミヤマシキミとは別物ですので、シキミと訂正します。(13日追記) <参考>シキミの花の写真掲載の記事は下記の通りです。 さようなら、アポロ・カフェ 2013.3.13.(同上) 里山散策の後、囲碁会場へ。この日の出席者は青〇氏と平〇氏と小生の3名だけ。 青〇氏には中押し負け、平〇氏には中押し勝ち、喧嘩碁ヤカモチらしき戦いにて1勝1敗でありました。
2014.09.11
コメント(6)
(承前) 西念寺から竹内街道を通って石川べりの自転車道へ。河川敷の道の例によって葦が生い茂る道。葦の葉が光る。穂が風に靡く。葦の風を切って全速力で走る。もう足がダメ、と思われる時に、何とか我慢して更に力を入れて漕いでみると何とか未だ漕げる、そんなことを繰り返しながら走れるのも信号のない自転車道なればこそであります。 自宅から大和川に出る銀輪散歩コースとしては、恩智川沿いの道コース、国道170号外環状道コース、旧170号国道コース、山沿い上ツ道コースなどがある。今日(9日のことです。)は往復とも上ツ道コースを走りました。 尤も、上ツ道というのは小生がそう呼んでいるに過ぎず、そのような名の一貫した道がある訳ではない。自宅前の道をひたすら道なりに南に走る。突き当れば東に上るか西に下るかして適当に南行きの道を選んで行くというもので、色んなバリエーションがある。しかし、何度も走っているとコースは自ずから一定のものに収斂して行くよう。それを小生は上ツ道と呼んでいるという次第。 その上ツ道コースにあるのが心合寺山古墳。復元整備された堂々たる前方後円墳である。復路はここで小休止。ペットボトルの飲み物が空になり、この古墳の資料館前の自販機で新しい飲み物を購入しようということでもありました。(心合寺山古墳) 心合寺山を「しおんじやま」と読める人は、地元の人は別として、そう多くはないだろう。上ツ道コースは心合寺山古墳から少し北に行って西に入り、道なりに北へと進むのであるが、ちょっと寄り道して鏡塚古墳へと向かう。 鏡塚古墳は心合寺山古墳の前の坂を西に下り、国道旧170号に出る手前にある。古墳時代中期の前方後円墳であるが、その一部を残すのみで原形はとどめない。(鏡塚古墳)(同上・説明碑)(同上・墳丘の上の様子) 墳丘が削れて低くなっている処に、何を祀るのかは知らね、小さな祠がある。宝山神社という碑が墳丘の反対側にあったから、これと関係があるのだろうか。 鏡塚から来た道を心合寺山古墳方向へと戻る。背後からやって来たクロスバイクの青年が小生を追い抜いて行く。彼は心合寺山古墳の前で左にカーブしてS字に上へと行く坂道を上って行ったので、或は十三峠を越えて奈良県側へと行くのでもあるか。 この辺りは八尾市楽音寺地区。八尾市の北の端で隣は東大阪市横小路地区である。小生はS字坂道には入らず、西に少し下って北へと続いている上ツ道コースを取り、東大阪市へと入る。 ここでまた寄り道。今度は西に下らず、東に上る。結構な坂道。程なく大賀世神社の前に出る。(大賀世神社) この神社も古墳の上に築かれたもの。 「大賀世」は「おおがせ」と訓むのだろうと思いましたが、説明板のフリガナもその通りでした。御由緒碑を見ると、この地の字名は「大風」、祭神は龍田大社のそれと同じ風の神様。となると本来は「おおかぜ」であったのでしょうな。 墳丘上の神社だけあって、西方向の眺めは頗る良い。龍田彦 坐す丘なり しましくは 吹かれてもみむ 秋のこの風 (偐家持)(同上)(同上・御由緒碑)(同上・説明板) 大賀世神社から更に坂道を上ると小さな公園がある。公園の東隣にあるのが常光院。地蔵寺とも呼ばれる。こじんまりといい佇まいの寺である。寺と言うより「お堂」と言う方がしっくりする。(常光院)(地蔵の群れ) 地蔵寺と呼ばれるだけあって地蔵さんが隊列を組んで居られます。地蔵さんは村の外れにポツンと孤独におはしますイメージですが・・。(同上・説明板)(醍醐寺)(同上・説明板)(同上) 醍醐寺の建物は寺院風でなく普通の民家風なのも味があっていいですな。まあ、醍醐味はありませぬが(笑)。(白彼岸花) 今年初めて目にした彼岸花。赤よりも先に白を見てしまいました。(同上) その近くにはヤブランも咲いていました。紫色が綺麗。万葉人なら我妹子を思い出さなくてはいけませんかな。(ヤブラン) 以上で安閑天皇陵までの銀輪・近隣散歩全2巻完結です。
2014.09.10
コメント(8)
本日は午後から南方向へ銀輪散歩。 途中、喫茶ナナで珈琲タイム。次回、第6回ナナ万葉の会は9月24日午後2時からと決まりました。店の女主人の小〇さんや客のご婦人お二人と暫し雑談の後、また自転車を走らせる。(大和川と二上山) 大和川を渡り、その支流の石川の河川敷自転車道に入る。大和川に架かる人道橋の上から二上山方面を写真に撮る。このアングルは何度も撮っているが、小生の好きな眺めである。 石川自転車道も南方向への銀輪散歩の場合の定番・お馴染みコースである。西名阪自動車道の下を潜って竹内街道が通る「臥龍橋」西詰で石川とお別れし、安閑天皇陵へと向かう。これまで何度か安閑天皇陵の前を走っているが、ブログに掲載したことがなかったことを思い出したからである。(安閑天皇陵) 安閑天皇。何やらブロ友の「ふろう閑人」さんに似た名前の天皇である(笑)が、閑人であった訳ではなさそう。継体天皇の息子で、継体から譲位されて皇位についた第27代天皇である。越前から大和に入って天皇位についた継体天皇には皇后の手白香皇女(仁賢天皇の皇女)との間に生まれた欽明(第29代)、妃の目子媛(尾張連草香の娘)との間に生まれた安閑(第27代)、宣化(第28代)など何人かの男子が居たが、継体は長男の安閑に譲位したことになっている。 日本書紀では、安閑=宣化=欽明と皇位がつながったことになっているが、これに対して、目子媛を母とする安閑・宣化系と手白香皇女を母とする欽明系とが対立し、両王朝が並立していたとする説もある。ならば安閑天皇も「安閑」とはしていられなかった訳で、「閑人」ではなかったのは間違いないだろう。ふろう閑人氏とは異なる所以である(笑)。 宮内庁の表示では、継体の娘・神前皇女の墓も合葬されているようです。神前皇女の母は広媛(又は黒比売)であるから、安閑とは母が異なる。同じ場所にこの二人の墓があるというのもよくは分からない。まあ、古代の天皇陵はいい加減なものであるから、この古墳が安閑天皇の御陵であるという保証はない。父親の継体天皇陵にしてからが、宮内庁が継体陵としている茨木市の茶臼山古墳ではなく、高槻の今城塚古墳の方であるということは今や考古学上の常識であるのだから。ならば、この二人の関係を詮索しても意味がないということでしょう。 <参考>継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇(同上) 安閑天皇陵の向かいに道を挟んで4階建てのアパートがある。4階の廊下まで上がらせて戴いて(と言っても無断であるが、共用廊下までだから家宅侵入にもなるまい)、高い位置から撮影。 この御陵の上に、応永年間に、管領となった畠山基国が城を築かせる。高屋城である。織田信長による大坂の石山本願寺攻めの際、天正3年(1575年)10万の大軍を率いてこの城を攻略している。安閑天皇は織田信長に対しても、此処に城の本丸を築いた畠山基国やその後の三好氏ほかの城主たちに対しても「何をするんじゃ」と苦々しく思って居られたことでしょうな。死して後も「安閑」とは参らなかった安閑天皇でありました。 <参考>高屋城 安閑天皇陵から竹内街道に引き返し、西琳寺と西念寺に立ち寄ることに。 各寺の由来などは下掲写真の説明板にてご覧下さい。(西琳寺)(同上・本堂)(同上・説明板)(西琳寺址碑と塔心礎)(同上・五輪塔)(同上・説明板) 西念寺は西琳寺から竹内街道を少し西に行った処にある。 この寺に関して興味を覚えたのは、この寺の庭池の場所が、聖武天皇の時代に、古市郡の人、賀茂子虫が「天平貴平・知百年」という文字を刻んだ甲羅の亀を見つけた場所だと言い伝えられているということである。これが瑞祥とされ、年号が神亀から天平に改元されたというのである。(西念寺)(同上・本堂) しかし、その庭池なるものが何処にあるのか、境内を見た限りでは何処にもそれらしきものは存在しない。本堂の裏にあるのだろうか。裏に回るには寺の建物の中を通させて戴く必要がある、建物配置。人影もなく、声を掛けて屋内の人にお聞きするほどのことでもないので、そのまま失礼申し上げました。(同上・説明板) 本日はここまでとします。 ところで、昨夜の中秋の名月。一応写真に撮りましたので掲載して置きます。余りうまく撮れていませんが。(昨夜の中秋の名月)
2014.09.09
コメント(8)
第147回智麻呂絵画展 本日は智麻呂絵画展であります。今回は12点一挙公開であります。どちら様もごゆるりとご鑑賞下さいませ。 <参考>他の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずはザクロの絵からご覧戴きましょう。(柘榴) このザクロはデイ・サービス「アンデスのトマト」のお友達、坂〇さんが画材にとお持ち下さったもの。柘榴三つ やや赤き実の 大空へ 烏揚羽は 二つ飛び行く (偐家持) 以下の3点の絵は当ブログの記事に掲載の写真を絵にされました。 <参考>墓参・今月も花散歩 2014.8.3.(アメリカ芙蓉)うちひさす 都は遠み ゆく夏を 惜しと鳴く蝉 あふひ花咲く (偐家持)(注)うちひさす=「打ち日さす」日の光がさすの意から宮、都の枕詞となる。 あふひ=葵(あふひ)。音から「逢ふ日」の掛詞として使われる。(モミジアオイ)ヤブガラシ うとまれつつも 実の数多(さは)に なりて道の辺 秋立つらしも (偐家持)(ヤブガラシの実) では、此処で暫しご休憩下さいませ。 おやつにゼリーと葡萄をご用意致しました(笑)。(Pure Fruit Jelly) 上のゼリーは五〇さんからの贈り物。 下の葡萄は、Bが東〇さんからの、Aが偐山頭火さんからの戴き物であります。(葡萄B) ブドウの原産地は、コーカサス地方・カスピ海沿岸地域とされ、紀元前3000年には既に栽培されていたという。中国には紀元前2世紀には到達していたとされる。西洋原産の葡萄がいつ我が国に入ったのかは定かではないが、平安末期から鎌倉初期にかけて甲州葡萄の栽培が始まったとされるほか、奈良時代、僧行基が大善寺(甲州市勝沼町にある真言宗智山派の寺院)を建立する際にブドウの木を発見したという言い伝えもあるなどから、万葉時代に既に伝来していたという可能性もないではない。絹の道 たどり来しかや 汝れ葡萄 今は河内も ワインの里ぞ (偐家持) ヤカモチが通っていた中学校のグラウンドの近くにも当時はブドウ畑がありました。体育祭の団体演技や入退場行進の練習というのが嫌で、よくサボったものだが、その折の格好の隠れ場所がグラウンドを見下ろせるブドウ畑でありました。その折にブドウを失敬したかどうかは黙秘します(笑)。 (葡萄A) 次は観葉植物のシェフレラ。智麻呂邸の玄関先にも、向かいの小公園にもこの木がある。よく見掛ける木であるが、名は知らなかった。で、ネットで調べたらシェフレラという名であることが分りましたが、こういう名では歌にはし難いですな(笑)。(シェフレラ、ウコギ科の観葉植物) 下の夏椿とヘチマは、デイ・サービス「福寿苑」のお友達、友〇さんから戴いた貼り絵を模写されたものです。友〇さんも智麻呂氏の絵を楽しみにされているお方のお一人のようで、小生が印刷に打ち出してお届けしている智麻呂絵画展の記事をご愛読下さっているらしい。そんなことの交流からご自身の作品2点を智麻呂氏にご贈呈下さったようで、智麻呂邸にて小生もそれを拝見致しました。 それは色紙に様々な和紙を重ね貼りにして写実的な絵に仕上げられたもので、実に見事なものでありました。その絵をまた絵にするという、そんなことして「ええ・絵絵」のかいな、という行為でありますが、そうしたくなる智麻呂氏のお気持ちも分かるという、素敵な作品でありました。(夏椿) 夏椿は沙羅の木とも呼ばれる。釈迦が入滅した時に臥床の四辺にあったとされる沙羅双樹はこれとは全く別の種であるらしいが、この木は日本の気候には合わず温室でないと育たない。ということでその代用として日本の寺院に植えられたのがこの夏椿であったという。夏椿が沙羅の木と呼ばれる所以である。いまさらに ものか思はむ 夏椿 何のへちまの 虚仮のこの世に (偐家持)(注)いまさらに=「今更に」と「今沙羅に」を掛けている。 上の夏椿と下の糸瓜を1首に詠み込んでみた歌(糸瓜) 次はムクゲと芙蓉の花です。近くの公園に咲いていたものなどの写生であります。(木槿) ムクゲはムグンファ(무궁화・無窮花)。韓国の国花でもある。 また、万葉歌の「朝顔」の花は、桔梗説と共にムクゲ説も有力である。 朝顔、というのは文字通り、朝の顔花である。顔花とは美しい容姿の花ということであるから、朝に美しく咲く花は何であっても朝顔である、と言ってもよいとも言える。(芙蓉) 芙蓉という言葉はややこしい。古くは芙蓉は蓮を意味した。それで、芙蓉は木芙蓉、蓮は水芙蓉として区別したとか。また、芙蓉樹というとネムノキを意味し、芙蓉鳥というとカナリアの別称となる。芙蓉は富士山の意味でも使うというのはご承知の通り。 「芙蓉の雪の精をとり、吉野の花の香を奪ひ」という一高寮歌の歌詞の芙蓉も富士山・芙蓉峰ですな。このことを知らなかった当初は「芙蓉の花に積もる雪」かとイメージしたものだが、夏の花の芙蓉に雪が積もる筈もなく妙なことだと思ったりも、でありました。 どうやら、字数制限に近付いて来ました。語りたき ことは数々 あるなれど 限りある身の かなしかりける (偐家持) ということで以上を以ってお開きとさせて戴きます。最後までご覧下さり有難うございました。どちら様もどうぞ、ご機嫌よう。
2014.09.08
コメント(15)
本日は墓参。小生のブログについては、ブロ友のウーテイス氏からは「近場の神社や墓ばかりですね。」と揶揄されたばかりでありますが、懲りずにまた、その墓であります(笑)。墓参りの記事など誰も読みたいとは思わないでしょうから、そろそろこのような記事もお終いにすべきなのかも知れませんが、日記というものは他人様に読んで戴くために書くのではないという、本来の意味から言えば、ブログと雖もそのような配慮は無用なのかも知れませぬ(笑)。 ということで、本日は墓参の記事であります。 で、これは何でしょう。何やら抽象画にも見える。 これは、ただの石です。お墓の一角に置かれていた石です。全体の形は下の写真でご覧下さい。ただの石も墓場に置かれていると、その奇妙な紋様と相俟って何か意味があるのでは、と思えて来る。いや、小生が知らぬだけで、何らかの意味があって置かれているものであるのかも知れません。中央上部に人工的と思しき穴が穿たれている。 墓参の際の定番行動。今日の言葉です。途中にある浄土真宗のお寺の門前に掲示されていた、今月(今日)の言葉はこれでした。(今日の言葉) 上の写真を撮って、カメラをウェストポーチに仕舞おうとした時にシャッターが下りる音がしましたが、帰宅して調べてみると、下のような写真が撮れていました。(偶然に撮れていた写真) 今日の言葉通り、「人生に無駄なことは何一つありません」ということですから、この写真も没にはせず、ブログに利用することと致しました。 写っている道は、写真手前側にある坂道と写真奥突き当りにある坂道をつなぐ道で、奥が南方向になります。この地点まで坂道を上って来て、この寺の前でこの道に入り、奥の坂道を更に上る、というのが墓参の時の通常のコースとなります。 今日は自転車(MTB)でやって来ましたので、この横に入る平坦な連絡路はペダルを漕ぎ疲れた脚には丁度良い休息になります。この後更に厳しい急坂道が待ち構えています。自転車での墓参りでは、最後の処で、いつもそうですが、ネを上げて自転車を降りて押して上がることになるのですが、今日もそうでした。 ハアハアと息を喘がせて我が家の墓の前に到着。花を入れ替え、線香を立てて、と決まりきった手順の墓参りが終わり、今日は墓地の一番上の方から東大阪市郷土博物館の方へ抜ける道を通って帰ることとしました。 墓地は山裾の西斜面に広がっている。わが家の墓はその中間位の高さの位置にある。最も高い位置に近い場所に観音菩薩の石像がある。今まで気が付かなかったが「河内観音菩薩」という名前が付けられているのでした。(河内観音菩薩) 観音像の前の石碑には「人の世は夢見つ消し露の里」という句が刻まれている。「消し」は「けし」では6文字で字足らずになってしまうから「消えし」と読むのでしょうな。今日の墓参の出だしの言葉が「人生に無駄なことは何一つありません」と前向きであったのに、結びともいえるコチラの言葉が「夢見つ消えし露の里」というのは何やら皮肉なことであります(笑)。しかし、「夢見つ消えし・・」の方がしっくり身に添い心に馴染むようでもあるのは、年の所為ですかな。(行基が奉納したと伝えられる五輪塔) 観音像の傍らには、行基が奉納したと言い伝えられている五輪塔がありましたが、これも今日初めて気が付きました。(ムギワラトンボ) 正確な知識かどうか定かではないが、ムギワラトンボというのはメスで、オスはシオカラトンボだったかと。同じ種類のトンボとは思えない風体の両者である。 墓地から郷土博物館へ抜ける道は草の生い茂る径にて自転車は押して行くしかない。ヌスビトハギが、咲きか散るらむ、という風情でそこかしこに。 萩にススキと来るとお月見ですな。今年の中秋の名月は明後日、8日とのこと。今年の十五夜は「あきらけくこそ」となるのでしょうか。ぬすびとの 萩も月見の 今宵かな (筆蕪蕉)(ヌスビトハギ) 中秋の名月というのは、旧暦8月15日の月のことで、十五夜とか芋名月とも呼ばれる。もう一つの名月は旧暦9月13日の十三夜の月。こちらは豆名月とか栗名月と呼ばれる。名月とはこの二つの月のみの呼称にて、その他の明るく輝く月は「明月」と呼ぶべきこととなる。 「仲秋の名月」という表現も時に見掛けるが、これは誤用。「仲秋」とは秋の旧暦7,8,9月の中間の月である8月という月を意味する言葉。8月15日は秋の真ん中の日なので中秋。即ち「中秋」は15日という日を意味している。 旧暦8月を仲秋と呼ぶのと同様、旧暦2月が仲春、同5月が仲夏、同11月が仲冬である。墓参の日記がお月見の日記になってしまいました。
2014.09.06
コメント(10)
友人の岬麻呂氏から屋久島の旅便りの葉書が届いて居りましたが、それを追いかける形で、先日その旅の写真が送付されて来ました。 屋久島は来月に妻と娘が二人旅行を予定している地なので、これらの写真には小生よりも彼らの方が関心を示しました(笑)。 岬麻呂氏の屋久島旅行は「温泉とビール一杯の会」の例会とかで、男4人旅であったらしいですが。便りによると 26日伊丹空港発屋久島着。レンタカーで屋久島灯台。永田浜の送陽亭 に宿泊。 27日志戸子ガジュマル園、白谷雲水峡、平内海中温泉入浴、大川の 滝、紀元杉。 28日千尋の滝、種子島に渡り、西之表港から北端の喜志鹿埼灯台、引 き返して種子島灯台、宇宙センターを経て、南端の門倉岬(鉄砲 伝来記念碑)、河内温泉入浴。夕刻に屋久島に戻り、JRホテル屋 久島泊。 29日朝から雨。海中温泉入浴。伊丹空港14時帰着というものであったようです。 では、同氏の写真で屋久島の景色をお楽しみ下さいませ。(永田いなか浜)(白谷雲水峡)(平内海中温泉)(大川<おおこ>の滝)(千尋<せんぴろ>の滝) (紀元杉、左:根元部分、右:尖端部分)(種子島宇宙センター 後方にロケット発射塔が見えている。)(同上)<参考>「岬麻呂旅便り」のその他の記事はコチラからご覧下さい。<追記>岬麻呂氏より追加の写真がメール送信されて参りましたので、以下に追加掲載して置きます。(屋久島の夕日)(紀元杉)(屋久島灯台)(種子島灯台)
2014.09.05
コメント(10)
(承前) 2日の日記「御勝山から舎利寺へ」の続きです。舎利尊勝寺の南に隣接してあるのが生野神社。既にひろみちゃん氏のブログでその写真を見ているので、初訪問という気がしない。 舎利尊勝寺の門前の道は桑津街道である。その南隣の生野神社の前で東からの道と交差し、ここで少し東にずれて神社を背にする形で桑津街道は更に南へと続く。(生野神社)(同上) 桑津街道は生野神社から500m余でアーケードのある商店街の通りにぶつかり、その先70m位南、薬師地蔵尊のある辻の付近で立ち消えになっている。仁徳さんもこれでは桑津神社の髪長媛さんのお住まいに辿り着く前に迷子になってしまいますな。 アーケード商店街に入る手前に生野八坂神社がある。(生野八坂神社)(同上)(同上・由緒略記) 神社の由緒は上の略記で十分だと思いますが、もっと詳しく、というお方は下の写真をくりっくして、拡大写真でお読み下さい。拝殿前に文鎮に押さえられて置かれていた紙片に詳しい由来などが記されていましたが、1枚きりしかなく、持ち帰るのは憚られたので写真撮影しました。(同上・由緒書) この境内にもヤブラン、万葉風には山菅がありました。「かなし妹がいづち行かめと山菅の・・」の歌は前の日記末尾に記載しましたので、この歌とセットで覚えて置くべき歌を下記して置きます。吾背子を いづち行かめと さき竹の 背向に宿しく 今し悔しも (万葉集巻7-1412) で、ヤブランの別の歌も1首記載して置きましょう。咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはあるけり (大伴家持 万葉集巻20-4484)(此処にもヤブラン) 桑津街道も行き止まりにつき引き返すことに。御勝山まで戻り、今度は桑津街道を北へと探索してみる。先ず出くわしたのが西俊徳地蔵。もっともこれは街道から少し東に入った処にある。(西俊徳地蔵) 地蔵堂に書かれた由来書の写真がピンボケ不鮮明なので、掲載に代えて、その文章を下に転載して置きます。文字使いなどに些か妙な処がありますが、原文のまま転記しました。「此の地蔵尊は宝暦時代(1750年頃)、約230年前より祀られていたと思われます。石仏で等身大で蓮華上の座像でございます。御堂の前の道は俊徳街道で、平野川に架けられた石橋の傍らにありましたので、清い流れと共に景色も良かったので、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺へお参りの際には休憩されたものと、古老より言い伝へられております。東地蔵尊と共に当地の西の守り仏として、昔より住民の皆様より大変親しまれて、朝夕はお線香の断へたことがない有難いお地蔵尊でご座います。」 上の説明ではよくは分かりませんが、能「弱法師」の話です。追い出した息子の俊徳丸が盲目の乞食となっているのに、父の高安通俊が四天王寺西門で巡り会う。父子は手を取り合って名乗り、共に故郷の高安村へと帰ることとなるが、その際に彼らが休息したのがこの地蔵堂であるとの言い伝えがあるということであります。(生野八坂神社御旅所) 次に出会ったのが生野八坂神社御旅所。此処も亦、仁徳さん所縁の地にて、御弓場(的殿)跡と伝えられる。その跡地に村人たちが産土神を祀り御館神社となるが、大正2年(1913年)4月に生野八坂神社に合祀されて、同神社の御旅所となったとか。 奥に御館神社跡の碑がある。 (御館神社跡碑) 桑津街道が通称「疎開道路」と交差する手前を東に入った処に「つるのはし跡碑」がある。鶴橋という馴染みの名前の源の地である。此処も亦、仁徳さんです。仁徳さんがわが国で最初となる橋を川に架けたのが此処。で、この地を小橋と言うようになった。前の日記の折口信夫歌碑の歌の「小橋過ぎ~」は此処のことである。<参考>日本書紀・仁徳天皇14年冬11月の条 「猪甘津(ゐかひのつ)に橋為(わた)す。即ち其の処を号(なづ)け て、小橋(をばし)と曰ふ。」(つるのはし跡)(同上) 詳しいことは下の写真をクリックして拡大画面でご覧下さい。 碑の後ろには小野小町の歌碑もありました。(小野小町歌碑)忍ぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡りそめにし 猪甘津の橋 (小野小町) 以上で桑津街道探索を切り上げ、帰途に。 今里ナントカというマンションの向かいに真田幸村公資料館というのがありました。資料館のある建物がホワイハウスというから、何やらこの資料館も冗談っぽく見えて来る(笑)。 入館は有料で事前予約制と扉に書いてある。今回の銀輪散歩の出だしの写真が大坂の陣で徳川方が陣を張った御勝山であったから、最後は真田幸村公資料館というのも始末相整いてよろしきことに見え申し候、ということで、今回の銀輪散歩完結とさせて戴きます。(真田幸村公資料館)
2014.09.04
コメント(4)
本日は囲碁例会の日なのでそのことの記事をアップします。昨日の銀輪散歩の続編記事もあるのですが、それは明日以降に繰り下げです。 いつもの通りMTBで家を出て、12時過ぎに梅田スカイビルに到着しました。駐輪場に自転車を停めて、先ず昼食をとタワーイースト1階の喫茶店に向かいました。歩きながら携帯電話を見ると鯨麻呂氏ほかの着信履歴が何件かありました。何事かと同氏に電話を入れると、「今、何処に居るのか。」という話。梅田スカイビルに着いたばかりだと言うと、「もう健人会が始まっている。」という。何と今日は健人会の日で、滋賀県大津の石山寺近くの料亭で昼食会がある日であったのでした。参加で返事があったのに一向に小生が現れないので、皆さんにご心配をお掛けしてしまったようです。当初は3日と認識し、囲碁例会と重なるが囲碁の方をお休みして大津に出掛ける心づもりで、参加の返事をしたのであったが、いつの間にか5日と思い込んでしまったようで、大津に向かわず梅田に来てしまったのでありました。まことに大失敗。どうやらボケが進んで来たようでもあります。 着信履歴を確認すると、11時52分鯨麻呂氏、11時53分同氏、11時54分同氏、11時56分正〇氏、12時3分鯨麻呂氏、12時5分同氏、12時11分徳〇氏からの不在着信の履歴。また、12時10分着で「健人会定刻になったので開宴しました。今どの辺りに居られますか。」というメールも入っていました。携帯をマナーモードにしたままであったこともあり、自転車での走行中の着信でもあり、これに全く気付きませんでした。もっとも、気付いたとしても、もう間に合わない時間にて出席は不可能ではありましたが、早くに気付いていれば、少なくともこのようにお手数をお掛けすることも無かった訳で、皆さんにはまことに申し訳ないことでありました。次回、罰金を払わせて戴きますので何卒ご容赦を(笑)、であります。 昼食の喫茶店では元勤務先の役員・内〇氏と偶然に顔を合わせ、暫し歓談。彼が去った後、小生は珈琲をもう1杯注文して、更に20分ほどゆっくりしてから、会場の部屋へと向かいました。小生が自転車で来ていることは、この喫茶店の店員さんもご存知のようで、その中の一人の女性店員さんが、「私もスポーツ自転車に乗ってみたいと思っている」とか言って居られました。 会場の部屋に行くと既に竹〇氏が来て居られて、同氏と先ず1局。同氏との対局中に荒〇氏、村〇氏が来られ、隣で対戦が始まりました。続いて、久々に青〇氏が来られ、本日の出席者は5名となりました。竹〇氏には中押し勝ち、続く荒〇氏には4目差で負け、村〇氏には数目差で勝ち、2勝1敗という成績でありました。これで、今年の通算成績は14勝13敗です。 ということで、今日は立ち寄り先もこれと言ってなく、関連する写真もありませんので、駐輪場の写真などを掲載して置きます。(梅田スカイビルの駐輪場) また、大阪城公園ではサルスベリが美しく咲き匂っていました。背後の建物は、奥の茶色のビルがNHK大阪、右が大阪府警本部です。(大阪城公園のサルスベリ)(同上) サルスベリと囲碁と何の関係があるのか。と仰いますな。裾に2線から1線に桂馬または大桂馬に滑り込んで相手方の地を減らすことを滑り込みということで、「サルスベリ」とも言います。これは百日紅ではなく、文字通り「猿滑り」でありますが。
2014.09.03
コメント(16)
次回の若草読書会は10月26日、祥麻呂氏が講師になって戴くこととなり、その課題図書が、村山斉「宇宙は何でできているのか 素粒子物理学で解く宇宙の謎」(幻冬舎新書)と決まりました。この本を購入するため近鉄布施駅近くのヒバリヤ書店まで銀輪散歩を兼ねて午後からMTBで出掛けました。 ついでに、森鴎外の戯曲「生田川」が入っている本があれば購入しようと思ってのお出掛けでもありましたが、(ネットで調べても、鴎外の著作の何れの本に搭載されているのかがよく分からなかったので、書店で調べて貰おうという目論見もあったのですが)書店の男性店員が書店のパソコンで調べてくれましたが、やはり不明でした。 3年前に若草読書会で菟原處女伝説に関連する歌を取り上げた際に、鴎外のこの戯曲が菟原處女伝説を戯曲にしたものであることを知り、何れは読んでみようと思いつつ、今日まで果たさずにいたのでしたが、昨日あることがあってそのことをふと思い出したのでありました。どうやら図書館に行って調べて貰わないといけないかもです。 生田川はさて置き、読書会の課題図書の方は入手できたので、今日の外出の主目的は達成したことになります。 布施まで出たついでにと、当てもなく走っているうちに勝山通りに差し掛かったので、御勝山にある折口信夫の歌碑を撮影しようと西に向かって走ることとしました。 勝山通りは銀輪散歩でも何度か走っているが、御勝山古墳も折口信夫歌碑もブログには未掲載なので、言わばネタ拾いという次第。(御勝山古墳) 御勝山古墳は5世紀前半に築造の古墳時代中期の中規模前方後円墳であるが、大坂の陣で徳川方が陣を置いたことなどで損壊。後円部分を残すのみとなっている。勝山通りは前方部と後円部を引き裂くようにして東西に走っている。南側の前方部は公園になっているから、まさに前方公園墳である(笑)。(同上説明板) その「前方公園」では、木陰で将棋や麻雀をする男たちの群れ。それを横目に公園の北東隅にある歌碑へと向かう。(折口信夫歌碑)小橋過ぎ 鶴橋生野 来る道は 古道と思ふ 見覚えのなき この歌は昭和5年発行の歌集「春のことぶれ」に所収の「大阪詠物集」32首の1首で、「舎利寺」という題が付されている。この歌の一つ前には「四天王寺」という題で次の歌が掲載されている。西門は たそがれて風 吹きにけり 経木書かむ と言ふ人あり (同上・副碑) (同上・歌碑裏面) 東西の勝山通りと御勝山古墳の東側で交差している南北の道が桑津街道である。歌碑はこの桑津街道を見やるように建てられている。折口信夫はこの桑津街道の何処かでこの歌を詠んだのでもあるか。この辺りの地名は舎利寺である。(桑津街道、手前左に一部見える石は折口信夫歌碑) 桑津街道は天王寺区細工谷を起点にして東住吉区の桑津神社(現、桑津天神社 東住吉区桑津3-4-17)に通ずる古道で、仁徳天皇が高津宮から桑津神社に住まいした髪長媛の許へと通った道だと言われている。 日本書紀応神天皇13年春3月の条にそのことが見える。応神天皇が美人と噂の高い髪長媛を妃にしようと使いを出して日向国からこれを召し出だし、桑津邑に住まわせる。息子のオホサザキ(後の仁徳天皇)がこの媛の美しさに見惚れて恋をする。これを知った父の応神はオホサザキにこの女性を与えるというもの。 では、仁徳さんも折口信夫氏も歩いたのでもあろう、桑津街道に小生も足を踏み入れてみましょう。少し南に行くとブロ友の「ひろみちゃん」氏がご紹介されていた舎利尊勝寺がある。(舎利尊勝寺)(同上・大悲殿) 舎利尊勝寺については、ひろみちゃん氏が詳しくご紹介されちるので、そちらをご参照下さい。(そちらというのは、コチラ)(同上・由来書き) (境内にある西国三十三所) 確かに境内には西国三十三所があります。お不動さんの後ろが1番の青岸渡寺でぐるりと回遊式になっている。本堂の向かい側が竹生島の宝厳寺(上掲写真左)でした。(境内のヤブラン) 観音霊場巡りの途上、足元を見るとヤブランが咲いていました。ヤカモチは観音様よりヤブランである。ヤブランは万葉では「やますげ(山菅)」である。愛(かな)し妹を いづち行かめと 山菅(すげの 背向(そがひ)に宿(ねしく 今し悔しも (万葉集巻14-3577)<続編・つるのはし跡>
2014.09.02
コメント(5)
全20件 (20件中 1-20件目)
1