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ヤフーブログ終了に起因してのアメブロへの移行に伴い生じた当ブログ記事内のリンク不備の修正作業は、少しずつ進んでいますが、現在の状況は下記の通りです。2019.6.10.ヤフー版偐万葉田舎家持歌集をアメブロ版偐万葉田舎家持歌集に移転(楽天ブログ・偐万葉田舎家持歌集のリンク不備修正完了の記事)2019.6.15.智麻呂絵画展2019.6.16.偐万葉・ひろろ篇2019.6.18.偐万葉・ビッグジョン篇2019.6.18.偐万葉・童子森の母篇2019.6.19.偐万葉・ふぁみキャンパー篇2019.6.20.偐万葉・その他(どち篇&雑詠篇)2019.6.20.偐万葉・もも篇2019.6.22.偐万葉・若草篇2019.6.23.偐万葉・ひろみ篇2019.6.23.偐万葉・あすかのそら篇2019.6.24.偐万葉・閑人篇2019.6.27.偐万葉・英坊篇2019.6.28.偐万葉・LAVIEN篇2019.6.29.偐万葉・ふらの篇 現在は、偐万葉シリーズの記事について修正作業が進行中で、修正未了の偐万葉はアト17篇。岬麻呂旅便り、和郎女作品展など他にもリンク修正を要する記事グループがあり、個々の記事によってリンクを貼っているものも点在しているでしょうから、全てが完了するのは、まだまだ先になります。 尤も、個々の記事に点在するものは、何かで気が付けばその修正を行うこととし、積極的に記事をチェックしてリンク不備がないか否かを確認するということはしない方針なので、ここでの「全て」という意味は、偐万葉シリーズ記事のように、定型化してリンクを貼っている記事について全て、ということになります。 移転後10日でこの状態ですから、今の作業ペースを維持するなら、8月一杯で「全て」が完了するでしょう。かなりサボっても9月中か10月中には完了するかと。もう、サボる言い訳をしているという次第(笑)。 6月も今日を入れて残すところアト二日。 銀輪散歩で見掛けて撮影した花も、時を置くと季節外れ、時じくの花となってしまって、ブログ記事にするチャンスを逸してしまうこととなりますので、この辺で在庫整理であります。(白ツツジ)銀輪を 停めてぞ眺む 白躑躅 群れて咲きたり 夜道もよけむ (偐家持)(本歌)天の原 ふりさけ見れば 白真弓 張りて懸けたり 夜道は吉けむ (間人大浦 万葉集巻3-289)(同上) 白躑躅ばかりというのは珍しい。 と思えば、ピンクの木も少し交じっていました。(ピンクの躑躅も交じって・・。) そして、よく見るとピンクの花の隣の白花は少しピンク色に染まっているのでありました。朱に交われば赤くなるということか、源平桃ならぬ源平躑躅になっているのでした。(源平つつじと我呼ばむ) 梅雨の時期の花と言えば、アジサイ。(アジサイ) アジサイの万葉歌は2首ある。言(こと)問はぬ 木すら紫陽花 諸弟(もろと)らが 練(ねり)の村戸(むらと)に あざむかえけり (大伴家持 万葉集巻4-773) 紫陽花の 八重咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつ思(しの)はむ (橘諸兄 同巻20-4448) 大伴家持の歌は、結婚したばかりの妻・坂上大嬢に、恭仁京に単身赴任中の彼が贈った歌5首の内の1首である。意味が読み取りにくい歌であるから語句の説明をすると、「諸弟」は、人名と考え、二人の仲を取り持った人物、或は大嬢からの使者とする。「村戸」は、「心、魂胆」と考える説もあるほか、「群詞(むらと)」、数々の託宣と考える説もある。中西進先生が村戸を「占い」と言って居られるのも、この説に該当するか。ここは「練りの群詞」で「巧みな、まことしやかな言葉」として、解釈すると「物を言わない木でもアジサイのように色の次々と変わる木がある。そのアジサイのような諸弟めの巧い言葉にだまされてしまったよ。」というような意味になる。 この歌の次の歌は、百千(ももち)たび 恋ふといふとも 諸弟らが 練の言葉は われは頼まじ (同巻4-774)で「いくら恋しく思っていると言って来ても、もう信用しないよ。」とも言っている。まあ、こういうのは恋文には常套的なもので、一種の冗談口、からかいであるから、本気では勿論ないが、度を越すと夫婦喧嘩となりますな(笑)。 橘諸兄の歌は、題詞「左大臣橘卿の、右大弁丹比国人真人の宅に宴せし歌三首」とある歌のひとつ。丹比国人は橘諸兄の部下。彼が自宅で宴会をし、上司である諸兄を招待した折の歌である。「ナデシコの花でおもてなしをしたい」という国人の歌に答えて、「ナデシコの花がめあてな訳ではなく花がなくともお訪ねしたいお宅だ」と挨拶する諸兄の返歌に続いてあるのがこの歌である。「アジサイが八重に咲くように、久しい代までお元気でいて下さい。アジサイを見ながら貴方のことを思っていましょう。」というような意味である。(同上)(同上) アジサイはリトマス試験紙みたいな花で、土壌が酸性かアルカリ性かで色が変わる。酸性土だと青くなり、中性土、アルカリ性土だとピンク色になる。これは、アジサイの中にあるアントシアニンの状態によって花の色が形成されるところ、土中にアルミニウム成分があり、これを吸収してアジサイのなかに取り込まれると、アントシアニンとアルミニウムが結合して、花は青い色になるとのこと。酸性土だとアルミニウム成分が土中に溶けやすくなるが、中性土やアルカリ性土ではアルミニウムは土中に溶けないので、アントシアニンとアルミニウムが結合することはないという訳である。 しかし、色の変わらないアジサイもある。いつも白色であるように思うのがカシワバアジサイである。(カシワバアジサイ)(同上)(同上)(同上) カシワバアジサイまでやって来て、フォト蔵写真とリンクしようとしたら、フォト蔵のサイトが「只今メンテナンス中」でアクセスできません、という表示。よって、以下は後日の記事に回すこととします。また、カシワバアジサイの写真のフォト蔵写真とのリンクはフォト蔵のメンテナンス終了後にこれを行うこととします。それまでは、写真をクリックしても大きいサイズでの写真を見ることはできませんので、ご了承下さい。 中途半端ですが、以上で記事アップとします。
2019.06.29
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友人のオガクニマン氏が「俺の履歴書」という小冊子を出版したので、それを10部購入することとした。 彼が自身のブログに連載していたものを編集して小冊子にまとめたもので、小生自身は既にそれを読んでいるので、今更これを購入して読む必要はないのであるが、これも友人としての「お付き合い」というものである。友人・知人に適当に配布しようと思っている。(「俺の履歴書」) その本の受け渡しを、昨日(26日)、喫茶「ペリカンの家」で行うべく、正午前後に待ち合わせということになりました。(「ペリカンの家」の名刺)(同上・裏面) この名刺は、25日に立ち寄った時に、店主のももの郎女さんから戴いたものである。 店員としてアルバイトで来て居られる大谷郎女さんがデザインして作って下さった名刺だそうな。 中央大通りがR13号と表示されているが、これは、阪神高速13号東大阪線で、高架の自動車道路の方、自転車族のヤカモチが走れる道ではないから、地道の方のR308号と表示して欲しい気がするが、店側としては、遠方から車で来られるお方のための表示としたのでしょう。 これは、今、気が付いたことで、25日、店に居られた大谷郎女さんに、その意図を確認した訳ではないので、ヤカモチの推測である(笑)。 26日は、もう一人のアルバイトの坂郎女さんが店に出て居られました。彼女とは久しぶりのことになるのか、「ヤカモチさん、お久しぶり。」というのが彼女の第一声。まあ、言われてみれば、前日に立ち寄っているものの、その前はと言うと、10日前後かと思うので、久しぶりには違いないのであります。 オ氏とは、この店でランチでもしながら、受け渡しをしようということであったので、MTBで家を出て、郵便局で、少しばかり持っている株式の配当金を受領してから、店に向かいました。 店には11時半位に到着したかと思う。珈琲を飲みながらオ氏の到着を待つ。小生は、一人の時は、店の営業の妨げとならぬよう、カウンター席に座るのを常としている。 小生の背後のテーブル席には、二人連れの男性客が先客で来て居られました。ももの郎女さんから、自転車で遠距離を走って居られて、ペリカンの家主催のサイクリングにも参加したいということを仰っている男性が居られるという話を以前にお聞きしたことがあるが、その男性というのが、このお二人であるということを、ももの郎女さんのご紹介で知ることとなりました。 色々、お話すると、お二人は同じマンションの住民で、その自治会でやって居られる碁の会のお仲間でもいらっしゃるようで、自転車と碁というのはヤカモチとも共通の趣味にて、面白い発見でありました。お一人は和歌山県ご出身、もうお一人は徳島県ご出身、ということなので、和歌麻呂氏、徳麻呂氏とでもお呼びすることにしようか(笑)。 そうこうしているうちにオ氏が到着。本の受け渡しと支払い完了。1冊は早速にももの郎女さんに贈呈。わが手もとに1冊残して置くとして、アト8冊をどうするか。次回の若草読書会で、各メンバーに配ることにでもするか。尤も、まかり間違っても読書会で取り上げることにはならない本ではあるが(笑)。 ランチしながら、そして食後の珈琲をしながら、雑談を楽しみました。 遅ればせながら、大阪も梅雨入りしたようで、今日から雨。予報では、30日(日曜日)まで雨、7月1日が曇りで、2日は晴れのよう。30日の若草読書会は生憎の雨のようです。 ところで、オ氏が「メール入れたけど見てくれたか?」という話。PCへのメールかと思い、未だ見ていないという返事。或る人の住所を知っていたら教えて欲しい、というのがその内容。帰ってから返信メールで知らせると約束。帰宅して、PCを開くもメールが入っていない。スマホの方かと確認するが、メールは見当たらない。 怪しいメールなので、セキュリティで排除されたのではないか、という冗談口を添えて、帰宅後に、ご照会のあった人物の住所を彼にメールしたが、よく調べると、ショートメッセージで入っていたのでした。 先月29日に、従来から使っていたスマホが少し不調になったので、ドコモショップに相談に行ったら、新しい機種への変換を勧められたので、新機種に切り替えたのであるが、新機種になるとそれまでの経験則にないことが生じる。このメッセージのアプリもそうで、そのアイコンが上部に隠れてしまっていて、着信があっても、気が付かないのでありました。そのアプリを下部の待ち受け画面に引っぱり出して置くように変更しましたので、今後は、着信があれば、そのアプリのアイコンに何らかのしるしが付くものと思います。 前ページの記事で、友人の偐山頭火氏開設の河内温泉大学図書館にアクセスしようとお気に入り欄に登録のそれをクリックしたら、下のような画面表示になったことを書きましたが、PCもスマホもイマイチよく分かっていないので、このようなイレギュラーな事態が生じると混乱してしまうヤカモチであります。 それで、お気に入り登録のそれが何らかの問題を生じているのかも知れないと思い、それの登録をやり直そうとしたのが間違いでした。登録をしてから旧のものを削除するという手順にして置けば、今回のような間違いは生じなかったことになります。(警告表示) 前ページ記事へのコメントで、偐山頭火氏から図書館のURLをあらためて記入いただいたので、お気に入りに再登録できましたが、そういう手段のないサイトの場合は、お気に入りから迂闊に削除してしまうと、再登録が困難ということも起こりうるので、上の手順で行うよう気を付けないといけない、と思っている次第。まあ、お気に入りに登録はしているけれど、その後、開くこともないサイトが結構ありますから、そういうサイトの場合は、再登録が出来なくてもどうということはないので、手順もサイトによりけりではあります。 雨が結構な降りになってきました。 まさに雨障みであり、当分は銀輪散歩もお預けです。薮蛇と なるは必定 梅雨に入り 隠り障みて 銀輪出さず (偐家持)(本歌)荊波(やぶなみ)の 里に宿借り 春雨に 隠(こも)り障(つつ)むと 妹に告げつや (大伴家持 万葉集巻18-4138) <参考>高岡銀輪散歩(その5) 2012.6.27. 「俺の履歴書」という名著の内容に触れぬまま記事を閉じるのは本意ではありませんが、触らぬ神に祟りなし、とも言いますので、本日はこれまでであります(笑)。これは、薮蛇なのか蛇足なのか(笑)。
2019.06.27
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ヤフーブログのサービス終了に伴い、ヤフー版偐万葉田舎家持歌集は、アメブロ版偐万葉田舎家持歌集に改訂されました。これによって生じたリンク不備の修正に時間を取られています。 当ブログでヤフー版偐万葉田舎家持歌集の記事とリンクさせていたものは、アメブロ版偐万葉田舎家持歌集のそれに貼り替えなければならないという訳です。 当ブログ記事の何処にそのようなリンクが存在するかは、個々のページを開いて確認する以外に方法はないので、全記事(昨日現在2538件)をチェックすることは不可能と言うか、そもそもやる気がしない。 しかし、智麻呂絵画展や偐万葉シリーズなど一定の記事には「過去の智麻呂絵画展はコチラ」とか「過去の偐万葉・〇〇篇はコチラ」とかという形でリンクが貼られていることが分かっています。 ということで、これらの記事についてリンクの貼り替え作業を行っています。実に単純な繰り返し作業にて退屈なもの、とても長時間はできないし、やる気もない。気の向いた時にボチボチと少しずつやるということで進めています。 6月15日で、智麻呂絵画展(全211記事)についてリンク修正完了。16日から偐万葉シリーズ記事の修正作業に入っています。今日現在で、ひろろ篇、ビッグジョン篇、童子森の母篇、ふぁみキャンパー篇、その他(どち篇&雑詠篇)、もも篇、若草篇、ひろみ篇、あすかのそら篇、閑人篇についてリンク修正が完了していて、只今は英坊篇が作業中です。 過去記事に於いてリンク不備がある場合は、これら作業が未完了のためでありますので、ご容赦願います。 偐万葉・若草篇の作業中に河内温泉大学図書館(開設者は友人の偐山頭火氏)にアクセスする必要が生じました。同図書館もサイトが移転していて、リンクの貼り替えをしなければならないところ、長らくこれを放置していたのを、この際一緒に済ませてしまおうと思ったからであります。 そこで、わがPCの「お気に入り」に登録している同図書館をクリックしたところ、「このサイトは安全ではありません だれかがユーザーを騙そうとしているか、サーバーに送信されたデータを盗み取ろうとしている可能性があります。このサイトをすぐに閉じてください。」という警告表示画面になりました。 指示通り、サイトを閉じ、お気に入り登録に問題があるのかと、これを削除し、新しく同図書館を登録し直そうとしました。ところが、偐山頭火氏のブログ内を探せど同図書館のリンクが見当たらない、ネット検索するもヒットしない。ということで、同図書館のURLが分からなくなってしまいました。あと何カ所か河内温泉大学図書館関連のリンクの貼り替えが残っていますので、偐山頭火氏にて、当記事のコメント欄に同図書館のURLを貼っていただくか、別途メールでこれを送っていただかねばならないことになりました。 今回の警告は、わがPCのセキュリティ機能の過剰反応か何かで、同図書館のサイトに問題があったということではないのだろうと思われるので、お気に入り登録を削除してしまったのは、小生の短慮であったようです。 まあ、何にしても面倒が面倒を呼ぶ、ヤフーブログサービス終了による迷惑千万の今日この頃であります。 閑話休題。 本日は、銀輪散歩で見掛けた草花という記事になります。それも、タイトルの「今日の道にし逢へる児やたれ」が示すように、名前の知れない草花たちの紹介であります。名前も知らないでは「紹介」とはならず、「照会」と言うべきかも知れません。 ご覧になられて、名前をご存じでしたらご教示くださいませ(笑)。 まずは、ハマヒルガオの葉に似たような葉の植物です。(何の花?) もう少し接近してみましょう。(同上) 葉のテカリや形はハマヒルガオに似ています。勿論ハマヒルガオよりずっと小型ではあります。 葉を拡大して撮ってみると・・。(同上) 多肉植物とまでは行きませんが、葉は厚みがあって、光沢もある。 独特な形の葉。 実もなっています。(同上・実) これも、もう少し接近してみましょう。(同上・実) 殆どは実になっていましたが、未だ花の状態のものもありました。(同上・花) まことつつましやかな花であります。てかる葉は 浜昼顔に 似たれども それその花は 咲きてつましも (偐家持)それぞれに 名はあるものを 銀輪の 今日の道にし 逢へる児やたれ (偐家持)<追記:注>小万知さんから「チドメグサ」だとご教示いただきました。<参考>チドメグサ(血止草)・チドメグサに似た仲間(松江の花図鑑) 道の辺に出逢う花たちは多いが、その名を知っているというものはごく少なく、多くは知らないか、或は、教えられたり、調べたりして、それと知ったものの忘れてしまって思い出せないか、である。 では、その他の「逢へる児やたれ」もご紹介しましょう。いや「ご照会」ですかな(笑)。 先ずは、黄色の可愛い花。(黄色の花)<追記:注>これは多分、ガザニア、だろうと思います。<参考>ガザニアとは? ガザニア・Wikipedia そして、もう一つの黄色の花。 上の黄色が童女の雰囲気なら、下の黄色は、上臈の雰囲気。(もう一つの黄色の花) 花に接近してみると、オミナエシにも少し似ていなくもない。(同上)<追記:注>上の花はキバナノコギリソウだそうです。小万知さんからのご教示。<参考>GKZ植物事典・キバナノコギリソウ(黄花鋸草) 次の花は、名前を忘れてしまった方の花かも知れない。 お前さんの名は何だったっけ?(名を忘れての忘れ草)<追記:注> 小万知さんからリアトリス(別名:百合アザミ)だとご教示戴きました。<参考>リアトリス・Wikipedia 次は、花が未だ咲いて居ないので、と言い訳が可能なので、取り敢えず弁解花とでもして置こう。葉の感じから、何やら思い出せそうで、名前が浮かびかかっているような気もするのだが、気のせいに過ぎないのか、はっきりした名前にたどり着くような感じでもない(笑)。(花が咲いてないので、弁解花)<追記:注>これも小万知さんからのご教示ですが、アサギリソウとのこと。<参考>アサギリソウ・新花と緑の図鑑 名前不詳ついでに、古い写真であるが、この花も掲載して置きます。 一昨年、2017年の6月10日撮影のものですから、季節的にはそう大きなズレはない花である。ツル状の草で、道端を這っていました。 その後、同じ場所を何度か通ったが、除去されてしまったのでもあるか、姿を見ない。野の草はかくにしあるか。(ツル性の植物) こちらの方が写りがいいですかね。(同上)<追記:注>これはコナスビです。(小万知さんからのご教示です。)<参考>野草図鑑(コナスビ) 以上、名前不詳の花たちでありました。
2019.06.24
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友人の岬麻呂氏から旅便りが届きました。 今月11日~13日の宮崎への旅、旅便りも17日には届いていたのですが、記事アップが遅れて、今頃になってしまいました。<参考>過去の岬麻呂旅便りはコチラから。 フォト蔵の岬麻呂写真集はコチラから。 先ずは、岬麻呂氏からの「旅・岬巡り報告239」と「同写真説明」をご覧下さい。クリックすると大きいサイズの写真に切り替わります。(旅・岬巡り報告239&写真説明) 今回の旅は、ジャカランダの森を訪ねてのご夫婦旅。 ご日程に合わせて、写真を順次ご紹介申し上げます。 と言っても、撮影日などはチェックしていませんので、日付と写真が合っているかどうかは、保証の限りではありません。6月11日関西空港~宮崎空港~青島・宮崎県立亜熱帯植物園6月12日サガリバナ~南郷町・宮崎県総合農業試験場・亜熱帯作物支場~ジャカランダの森~都井岬~都城・都城島津伝承館・都城歴史資料館(サガリバナ)(ジャカランダの森・遠景)(ジャカランダの森・近景)(これは岬麻呂氏ご自宅庭のジャカランダ)(都井岬灯台)(都井岬・御崎馬)(ホテイアオイ)(都城・島津邸)(都城歴史資料館)6月13日堀切峠~鵜戸神宮~ジャカランダの森(再訪)~日南海岸~宮崎県立亜熱帯植物園(再訪)~宮崎空港~関西空港(道の駅「なんごう」から日南海岸)(サガリバナ) なお、宮崎市のマンホールカードが同封されていました。 ひろみの郎女さんへのものにて、彼女宛ての切手を貼られた封筒も同封されていました。小生経由なら封筒の同封は無用のことです。また、このように封筒をご用意されるのであれば、直接に彼女宛てにご送付いただく方が彼女に早く届くというものですから、今後は直接に送っていただく方が合理的かと思った次第(笑)。 今回は、小生経由なので、そのカードもご紹介して置きます。ひろみの郎女さんがご自身のブログでご紹介されることでしょうから、裏面は省略、表面のみアップします。(宮崎市のマンホールカード) 以上です。本日の記事は、岬麻呂旅便りでありました。
2019.06.22
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銀輪散歩で見掛けた蓮の葉。 葉では「花散歩」にならず「葉散歩」であるが、未だ蓮の花は咲いていないのだから仕方がない。(蓮の葉) 蓮の葉は完全に円形で睡蓮の葉のような切れ込みが無い。 万葉集に記載の文言(巻16-3837番歌の左注)からも、宴会などでご馳走を盛る食器としても使われたようである。 蓮の葉の中心の模様をよく見てみると、こんな模様であるのでした。(蓮の葉の中心の模様) 中心の模様の方は、葉と違って切れ込みがある。これは元々は葉の方も切れ込みがあったことの痕跡なのか、それとも、将来は切れ込みが葉にも生じるということのしるしなのか。(同上) 中心に水滴の溜っているのもある。(同上) 蓮の葉に溜る水滴と言えば、次の万葉歌が思い出される。 ところで、万葉の頃は「蓮」は、「はす」ではなく「はちす」である。 花の中心部、花の落ちた後の種苞の姿が蜂の巣に似ていることから「蜂巣」と呼ばれていたようだ。従って、下記の歌の「蓮」も「はちす」と訓んでいただかねばならない。ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉に 溜れる水の 玉に似る見む (万葉集巻16-3837)<雨が降らないものか。蓮の葉に溜った水が玉のようになるのを見たい。> 蓮の万葉歌は、4首ある。これまでにブログで全て紹介しているかと思うので、過去記事を調べてみました(下記参考をご参照下さい。)。<参考>蓮の万葉歌が掲載されている過去記事 (剣池の万葉歌碑)ペリカンの家サイクリング下見 2018.8.27. (勝間田池の蓮)見まくの欲しき瓊花そして墓参 2016.5.2. (長意吉麻呂の歌)偐万葉・ビッグジョン篇(その36) 2018.2.18. とは言え、こんなに大きくては「玉」とはなりかねると言うもの。(過ぎたるは・・) さて、この記事のカテゴリは花で、花散歩記事という趣向。そのためには、蓮には無理にも咲いて戴かねばならない。(蓮の花) 咲いてない? これはまだ蕾ですが、もうすぐに咲きます。 はい、咲きました(同上) はい、満開です。 もっとも、これらは一昨年の7月に撮影のものです。(同上) 今日は、蓮の話でした。
2019.06.18
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当ブログの記事索引用に開設していたヤフー版偐万葉田舎家持歌集の全記事をアメブロ版偐万葉田舎家持歌集という新しいブログに移転したことは、前ページで述べましたが、それに伴う、不具合の解消に時間を取られています。 不具合の一つはリンクの問題。 例えば、 過去の智麻呂絵画展はコチラ、とか 過去の偐万葉〇〇篇はコチラ、などがそれですが、 これらは、旧ヤフー版偐万葉田舎家持歌集の特定の記事とリンクしていますが、アメブロに移転した以降は、アメブロ版偐万葉田舎家持歌集のトップページに自動転送されてしまい、リンクを意図した旧ヤフー版特定記事に対応するアメブロ版記事にはつながりません。よって、当該アメブロ版記事にリンクを個々に貼り替える必要があるという次第。 智麻呂絵画展シリーズ記事では、第60回展から直近の第210回展までの151記事に、そのようなリンクが存在しています。 片手間、手すきの折に、その修正作業を行っていますが、本日現在で漸く智麻呂絵画展関係の記事について、その修正を完了させました。 偐万葉シリーズ記事や銀輪万葉記事、岬麻呂旅便り記事などにも同様のリンクが多数あります。 また、アメブロ版記事の方にも同様のリンクが少数ながら存在して居り、これらの修正も必要になっています。 アメーバブログの記事当りの文字数制限は4万字ですが、旧ヤフー版からの記事移転に伴うシステム上の理由によるか何かでHTM文字数が増加したと見えて、移転した段階で、既にこの字数制限を超えてしまっている記事がいくつかあるようです。このように字数制限を超えている記事に修正すべきリンクが貼り付けられている場合は、そのままでは貼り直しができないようです。記事を字数制限内に収まるように分割記事に再編した上で修正するという手間が必要なようです。 極めて退屈な単純繰り返し作業となる、貼り付け直し作業ですから、そう長い時間はやれません。できれば一日に少しだけはやる、というのがいいところかと。すべてを完了するには年内一杯はかかる気がします。 ※わがブロ友でヤフーブログなのは、オガクニマン氏と偐山頭火氏である。オ氏はアメブロにお引越し。偐山頭火氏は未だお引越しされていない。 両氏のブログ記事を引用リンクしているページもリンクの修正が必要となります。皆さんに於かれても、そのようなブロ友さんが居られて、その記事を引用・リンクしている記事を書いて居られる場合は、同じ問題が生じますので、ご注意下さい。 そんなことで、ブログの更新が滞っていました。 余り、日をあけるのもどうかと思い、更新することとします。 と言っても、何と言って新しいネタもありませんので、少し古くなりますが、今年の3月に友人からの要請で市民集会の裏方応援で豊中市まで出掛けた折に目にした石碑をとり上げることとします。<参考>カジノはあかん!という市民集会に 2019.3.23.(三義塚と魯迅詩碑) この碑は、阪急宝塚線・曽根駅下車、アクア文化センターに行く途中で目にしたものである。アクア文化センターの手前にある豊中市立中央公民館の北側、道路沿いにある(末尾地図参照)。 三義塚や西村真琴のことも、魯迅の詩碑のことも、これにまつわるエピソードも存じ上げなかったヤカモチにとっては、??であったが、副碑や中央公民館1階の西村真琴に関する資料展示などを見て、その概略を初めて知ったのでありました。(魯迅詩碑・三義塔に題す) ※西村真琴・Wikipedia ※魯迅・Wikipedia(副碑・三義塚の由来)(三義塔に題す)(意味) “戦争の砲弾や爆撃で街を荒廃させ人々が殺されている、飢えた一羽の鳩が西村博士の大慈悲の心に救われて戦火から逃れ得たが、イタチに殺され三義塚を残した。戦争に対する恨みは深いが西村真琴の思想心情は生き返り、日中間に隔たる困難を乗り越える闘志となって共に流れに抵抗し苦難を乗り越えれば我々は兄弟である、相逢うて一笑すれば憎しみは消える" (豊中市日中友好協会ホームページより) ところで、西村真琴のことは知らなくても、TVドラマで水戸黄門役を長らくやっていた俳優・西村晃のことはご存じのお方も多いことでしょう。彼は西村真琴の次男だそうな。 ということで、タイトルを「水戸黄門の父親と魯迅」とした次第。(三義塚位置図●)
2019.06.15
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ヤフーブログが今年12月15日でサービス終了となること、それに伴いいくつかの他ブログサイトへこれを移転するための移転ツールがヤフー側から提供されること、そして、その他ブログをアメーバブログとし、ここに「アメブロ版偐万葉田舎家持歌集」というブログを開設したことは、以前の記事にも書きましたが、昨日(6月10日)夜、その移転ツールにより、「ヤフー版偐万葉田舎家持歌集」の全記事を「アメブロ版偐万葉田舎家持歌集」へ移転させましたのでご報告申し上げます。<参考> Yahoo!ブログ、サービス終了へ 2019.3.14. ヤフー・ブログ廃止対策としてアメーバ・ブログ開設 2019.4.15. 記事移転の完了により、「ヤフー版偐万葉田舎家持歌集」は閉鎖となり、これのURLにアクセスすると、自動的に「アメブロ版偐万葉田舎家持歌集」のトップページに転送されることとなりました。 この関係で、当ブログ記事中で「ヤフー版偐万葉田舎家持歌集」の何らかの記事とリンクさせている部分は、これをクリックしても当該記事ではなく、全て「アメブロ版偐万葉田舎家持歌集」のトップページに転送されてしまうこととなっています。 これらの修正は、追々に行わさせていただきますが、個別ページをチェックして、そのようなリンク部分があるかどうかを確認する必要があり、かなりの時間を要します。従って、修正未了のリンク部分については正しい対応記事に入ることが出来ないということが生じています。 修正作業が全て完了するまでは、ご迷惑をおかけすることになりますが、ご寛恕賜りたく、よろしくお願い申し上げます。アメブロ版偐万葉田舎家持歌集目次ページ同・テーマ別記事一覧同・トップページ
2019.06.11
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今日は、先日の墓参や偐山頭火氏との銀輪散歩などで目にした植物たちを紹介する記事とします。 先ずは大阪城公園の森ノ宮入口前広場にあるセイヨウスモモです。<訂正注記> セイヨウスモモというのは筆者の記憶違いで、ベニスモモ(紅李)またはベニバスモモ(紅葉李)というのが正しい名前であることが、過去記事から判明しました。謹んで訂正します。よって、以下、「セイヨウスモモ」とあるのは「ベニスモモ」と読み替えて下さい。 花の季節は過ぎて、今は実の季節となっている。(セイヨウスモモの木) 桜の咲くよりも少し早い時期にピンクの花を咲かせるが、今は余り美しいとは言いかねる葉が茂り、実を付けている。(セイヨウスモモの実)(同上) スモモもモモもモモのうちと言うが、セイヨウスモモもモモのうちなのであるか。 本来のスモモ(李)は白い花。 梅などと同じように中国から日本に入って来たのだろうが、万葉の貴族たちは自身の庭園にこれを植えて楽しんだもののようである。 大伴家持の歌がある。わが園の李の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも(万葉集巻19-4140)(注)はだれ=雪がはらはらと降るさま、またはうっすらと積もった雪 父親の大伴旅人は、梅花の宴で、散る梅の花を降る雪に見立てたり、消え残った雪を梅に見間違ったという歌を詠んでいるが、息子の家持は李の花で同じ見立てをしたことになる。<参考>大伴旅人の歌わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも (万葉集巻5-822)我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも (同巻8ー1640) セイヨウスモモのピンク色の花ではこの見立ては無理、まして赤い実が生っている今の時期は論外のことであります。 このセイヨウスモモの木の下に咲いていたのがこの花。と言っても、上の写真の木は、入口広場の右側にある木のうちの1本。広場の左側にも何本かのセイヨウスモモの木があり、そちらの方の木の下で見つけたものであります。(ワルナスビ) イヌホオズキの花とそっくりなので、棘があるかどうかで区別する。 これはご覧のように棘があったので、イヌホオズキではなくワルナスビという外来の有害植物である。(同上・茎) 次は、墓参で見かけた植物です。 アメリカフウロは、はやばやと紅葉している葉もあって、カメラを向けてみたくもなる草花です。種を付けている姿もちょっと変わっていて目を惹きます。(アメリカフウロ)(同上・種子) 種ついでに、ムスカリの種苞も。(ムスカリの種苞)(同上) こちらは花から実へと変化しつつあるザクロ。(ザクロ) これは、もう実といってもいいザクロですが、ちょっとウサギっぽい。(同上)(同上)(同上) ビワも実を付けています。(ビワ) そして、道端のホソムギ。 ザクロやビワは食べられるが、ホソムギは食えない。いや、脱穀すれば食えるのかな。ネズミムギやカラスムギも同じかな。 煎って、麦茶というのはどうだろう(笑)。(ホソムギ) 次は、絶対に食えない(だろうと思う)オオバコ。 それもセイヨウオオバコ。(セイヨウオオバコ) 墓地でよく見かける植物である。アメリカフウロもそう。 まあ、両者ともに墓地に限らず、草地や道端どこででも見かける植物ではありますが。 これもよく見かける植物。 まあ、実物は米粒よりも小さい奴なので、こんなにアップにしてしまっては、見違えるというものですが、ヒメコバンソウです。(ヒメコバンソウ) 何やらお菓子のようにも見える。 これでも、イネやムギの仲間である。(同上) そして、こいつもよく見かけます。 ドクダミ。匂いはノーサンキューだが、花姿は可愛い。 梅雨時の花である。(ドクダミ)(同上) 白い花では、テイカカズラもこの時期の花。(テイカカズラ) 花がカザグルマのような特長ある形なので、それとすぐに分かる。(同上) しかし、花が咲いていない時には、必ずしもそうではない。 下の写真は、一昨年、2017年3月4日に同じ場所で撮ったもので、何か分からずにいたのですが、今回、花を目撃したことからテイカカズラと判明した次第。(同上) 同じく、これは2017年6月10日に撮影したものであるが、こちらは我が家の墓の少し西側にある墓所の石垣を覆っているテイカカズラである。 花を咲かせているところを目にしたことがないので、その密生した小振りの葉の美しさには夙に注目していたものの、テイカカズラかどうか分からずにいたもの。 定家の息子は為家。葉が随分と小振りなので、タメイエカズラと呼ぶのがいいかもしれない。(同上) 最後はオニアザミ。(オニアザミ) 高嶺の百合のそれよりも 秘めたる夢を一筋に くれなゐ燃ゆるその姿 あざみに深きわが思ひ 「あざみの歌」の薊はノアザミでオニアザミではない。 ノアザミにも棘はあるがオニアザミのような敵意を強調したと言うか、威圧感のあると言うか、そのような戦闘モードの棘ではない。「秘めたる夢を一筋に」生きむとする健気な棘であり、矜持の棘である。 女性を花に喩えるのは古今東西共通のことであり、山部赤人はスミレに、大伴家持はナデシコに、といった具合であるが、古来より、芍薬、牡丹、百合、菖蒲、杜若などは美女の喩えとして使われている。 百合などに喩えられて喜ばない女性はいないだろうが、喩える男側からすれば、表面的、通俗的に過ぎるとして、些かの抵抗感があったりもするので、その内面性にまで踏み込んでいるよというメッセージを込めるためには、野薊や野薔薇やその他の野の花に喩えた方がいいという気もしたりするものの、その花の選定には些かの注意が必要。 菫や撫子は問題なし。薊も「あざみの歌」があるのでセーフ。タンポポも何とかセーフか。 しかし、この鬼薊などに喩えると、これはもう喧嘩を売っているようなことになる(笑)。ドクダミやヘクソカズラは言うに及ばずである。八千種の 花は移ろふ 常磐なる 松のさ枝を 我は結ばな (大伴家持 万葉集巻20-4501)(諸々の花は色褪せ散ってしまう。常緑の松の小枝を、私たちは結びましょう。)
2019.06.09
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(承前) 廣済寺を出て近松公園外周から広い道に出る。県道41号、その名も近松線という道路である。これを北上。若王寺交差点で右折、東に進み、新幹線高架下を潜るともう一つの県道41号・園田橋線にぶつかる。 しかし、園田橋線は猪名川の支流・藻川に架かる園田橋へと通ずるため高い位置を通っているので、直接にはこの道に入れない。左に入って、石階段を上って藻川の土手道に入り、そこから園田橋線に入って、園田橋を渡る。(園田橋と県道41号園田橋線と偐山頭火の図)(園田橋から藻川上流を望む。左手は山陽新幹線、中央奥は阪急神戸線鉄橋) 藻川は、神津大橋の下流で猪名川から分流し、県道338号(高田久々知線)が通る藻川橋の下流で再び猪名川に合流する川である。 園田駅を右に見て、阪急神戸線を越えて北へ。 直進すると園田競馬場に突き当たるのであるが、我々の目的地はそこではなく手前右手にある猪名川公園である。 適当なところで右に入る。少し道を間違ったようだが、猪名川公園に到着である。この公園の何処かに犬養万葉歌碑がある筈。 偐山頭火君は右側から、ヤカモチは左側から回って、それを探す。それぞれぐるり半周して再会するが見つからず。公園で作業されている人から偐山頭火君が聞き出したところに向かうと、はたして、そこにそれはありました。(犬養万葉歌碑)志長鳥 居名野乎来者 有間山 夕霧立 宿者無而 -孝書-志長鳥(しながどり) 猪名野(ゐなの)を来れば 有間山 夕霧立ちぬ 宿(やどり)は無くて (万葉集巻7-1140)(<しなが鳥>猪名野へやって来ると、有間山に夕霧が立ってきた。泊まるべき宿もないのに。) この歌碑は昭和63年(1988年)6月14日尼崎東ライオンズクラブによって建立されたもの。 「犬養孝揮毫の万葉歌碑探訪」(犬養孝・山内英正 和泉選書)によれば、「犬養先生は、地元園田のグループ『万葉菜摘会』の講師をしていたので、選歌と揮毫を引き受けた。除幕式には約80名が出席。犬養先生と『尼崎東ライオンズクラブ』会長の藤沢市太郎氏、尼崎市教育長の福島輝喜氏の三人が除幕した。引き続きその場で犬養先生は、歌碑の歌の朗唱と解説をおこない、福島氏と大阪大学名誉教授の岡野錦彌氏が祝辞を述べた。」とある。 猪名川公園はその真ん中を南北に大阪府と兵庫県との県境が走っている。この碑の前の道の東側が大阪府豊中市、前の道の西側が兵庫県尼崎市。従って、歌碑はギリギリ尼崎市内に建っていることになるという次第。ひょっとすると我々は大阪府側に立って兵庫県の歌碑を見ていたかもしれないのである。 公園を出て、園田競馬場にご挨拶して、猪名川の対岸にある田能遺跡へと向かう。(園田競馬場) この日はレースのない日で、競馬場の入口付近は閑散とした雰囲気。 翌5日~7日とレースがあるよう。レースのある時のこの場所の雰囲気も見てみたいものと思いつつ、前を通り過ぎる。(猪名川橋) 田能遺跡は、猪名川公園はどの辺りかとコース設定を検討するに当って地図を見ていたら、たまたま猪名川の対岸に「田能遺跡」なる文字を目にしたので、付け加えたに過ぎない立ち寄り先であります。 弥生時代の遺跡で、資料館があり、弥生時代の住居や周溝墓などが復元展示されている国指定史跡。(円形平地式住居)(方形竪穴式住居)(同上・内部) 田能遺跡で休憩後、帰途に。 帰途は、猪名川左岸の河川敷の道を走り、新南園橋で内環状道路・国道479号を辿る予定であったが、先行する偐山頭火君が上の道を行くので、それについて行くこととする。その後のコースは定かには覚えていないのだが、阪急・服部駅付近から、阪急・豊津駅前に通ずる豊中・吹田線を東へ走っていたようです。 たまたま目にとまった喫茶店で珈琲休憩を提案し、一休みとする。 内環状道路は阪急吹田駅前を通っている筈だからと、喫茶店の人に吹田駅の方向を質問すると、この先が豊津駅であるという答え。 豊津駅と言えば、垂水神社。さては、途中で左手に見えた森はそれであったかと心が動く。偐山頭火君に立ち寄ってみるかと言うと、彼も是非にということで、珈琲休憩の後、そちらに向かう。(垂水神社) この神社には、15年以上も前、或は20年以上も前に訪ねている。 この神社の境内に、志貴皇子の「石走る・・」のあの万葉歌の歌碑があるからである。 神社そのものには用はなく、万葉歌碑の方に用があるということなのだが、それも礼を欠くことにてあれば、一応は石段を上って拝殿なども拝見して、ご挨拶申し上げることとする。(同上・由緒)(同上・拝殿) 拝殿などのある境内地は思った以上に広い。(同上・拝殿前の広場) 前回の訪問の時の記憶が曖昧なのだが、こんなに広い境内地であったような気がしない。丘を上って行ったら造成中宅地のような何もない空き地が広がっていた、というような記憶があるのだが、それはここから更に上に行った丘の上の景色であったのだろうか。 そして、こんなものも。 これは真新しい最近のもの。(同上・「垂水の子孫たちへ」の碑) ここにも弥生時代の集落があったようです。(垂水弥生遺跡) そして、目的の万葉歌碑です。 万葉歌碑は、石段の脇、左に入った処に在る。(万葉歌碑)いははしるたるみのおかのさわらひのもえいつるはるになりにけるかも (志貴皇子 万葉集巻8ー1418) この歌の普通の訓は「石走る垂水の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」である。 「垂水」は滝などの意味の普通名詞と考えるのが一般的であるが、これを特定の地名と考え、この地の地名「垂水」のこととする説もある。この歌碑がここに建てられているのは、この説に拠っているということである。 この説を主張しているのは契沖さんである。 彼は、その著「万葉代匠記」に於いて、志貴皇子のこの歌と次の歌の「垂水」について、この地の地名「垂水」のことだと論じている。命(いのち)をし 幸(さき)く吉(よ)けむと 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を むすびて飲みつ (万葉集巻7-1142) (命が無事幸いであるようにと、<石走る>滝の清水を両手で汲んで飲んだ。) 契沖さんゆかりの尼崎を走り、彼に敬意を表して来た我々。その帰途に予定のコースを外れて、たまたまこの垂水神社の近くの道を走ることになったことや、近くの喫茶店で休憩して垂水神社のことに気付くきっかけを得たことは、ひょっとすると契沖さんのお導きという奴かも知れない(笑)。 しかし、ヤカモチは普通名詞説であり、契沖説に鞍替えする気もありませんので、契沖さんは無駄に「導いた」ことになる(笑)。 因みに、志貴皇子の歌の「石走る」は原文が「石激」などであるが、これを「いはばしる」と訓じたのは賀茂真淵の「冠辞考」で、これが広く支持されて来た。しかし、「石激」は「いはそそぐ」と訓むことが多く、「いはばしる」と訓む例はないとして、最近は、真淵以前の古訓「いはそそぐ」を支持する説が有力になってきているようです。 もう一つ余分なことを書けば、歌碑の「たるみのおか」であるが、岡、丘の「おか」は、旧仮名遣い(歴史的仮名遣い)では「をか」であるから、仮名の使い方が間違っている。(垂水の滝・小滝) 歌碑の手前には水垢離場があり、「小滝」と名付けられている。「本滝」は、歌碑の左後方にあるのだが、以前来た時にあったのは本滝の方のみで、この「小滝」なるものはなかったから、新しく設けられたものであるのでしょう。 垂水神社の鳥居から50mほど東に行った辻にあるのが雉子畷の碑。(雉子畷の碑)(同上・副碑) 手許にある本に「摂津名所図会」の「雉子畷伝説」を引用している部分があるので、参考までに、それを下に掲載して置きます。写真をクリックして大きいサイズでお読み下さい。(雉子畷伝説・摂津名所図会より) 長柄の人柱伝説でありますが、今回の銀輪散歩の始めが野里住吉神社の一夜官女で、これも人柱伝説の一つ、そして締め括りが雉子畷の人柱伝説ですから、出鱈目に走ったにしては、見事なオチが付いた次第。道迷ひ野里垂水に寄らざらば ブログのオチもつかずやあらむ (偐家持)(本歌)もの言はじ父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子も射られざらまし このあと、国道479号(内環状道路)を走って豊里大橋で淀川を渡り、深江橋交差点で中央大通りに出る、というつもりでいましたが、上新庄交差点で直進してしまったか何かで道に迷い、淀川の土手が目に入ったので土手道に上がろうと下流方向に走ったのが間違いで、すぐにも何処かで土手に上がる通路があるだろうという期待は裏切られ、ずっと下流の長柄橋で淀川を渡る羽目になるのでありました。 長柄の人柱伝説に因む雉子畷の碑の「祟り」か「お導き」か、長柄橋まで来てしまったという次第。 ブログのオチは長柄の人柱伝説の雉子畷で付いているのに、銀輪散歩のオチは付いていないとでも言うか、長柄繋がりで長柄橋とはこれ如何に、である(笑)。(長柄橋) 長柄橋を渡り、天神橋筋の裏道を南へ、環状線天満駅付近から源八橋を渡って大川沿いの自転車道に入り、太閤園前からOBP経由で出発地点の大阪城公園森ノ宮入口まで戻って来ました。 ここで、タバコを一服して、中央大通りを東へ。JR高井田中央駅を過ぎたところで、偐山頭火君は南方向へ、ヤカモチは東へ直進、それぞれ単独行となり、これにて尼崎銀輪散歩終了であります。(完)<参考>同行の偐山頭火氏の尼崎銀輪散歩記事 偐膝栗毛 摂津尼崎城から垂水神社へ銀輪行 2019.6.5. 同 その2 2019.6.6.
2019.06.08
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(承前) 昨日の記事の続編です。 尼崎城址公園にて目にしたのは契沖頌歌の碑。 姫路の津田天満神社の境内で目にした山部赤人讃歌の碑を思い出させましたが、尼崎は契沖頌歌の碑でありました。<参考>山部赤人神社と赤人讃歌 2016.1.31.(契沖頌歌の碑)<参考>契沖・Wikipedia 契沖と言えば、万葉集の注釈書「万葉代匠記」。銀輪万葉としての尼崎銀輪散歩とあれば、契沖さんを無視することはできません。 彼はこの付近(尼崎市北城内、現尼崎城天守閣、市立中央図書館などがある地域)で生まれたとされている。 そんなことで、中央図書館の南側道路脇にこんな碑が建てられている。(契沖生誕比定地の碑) 道路を挟んで向かい側にあるのが桜井神社。立ち寄るかどうか一瞬迷って、そのまま通り過ぎてしまいましたが、この神社の境内に契沖神社なるものがあるとのこと。これを帰宅後に知りましたが、後の祭りです。次の機会に訪ねることとしましょう。 庄下川に架かる開明橋を渡り西へ。次の目的地、琴浦神社へと向かう。 阪神電車の高架下を潜って左に行くと阪神・出屋敷駅前。駅前を過ぎて更に西へ進むと、蓬川に出る。蓬川沿いに上流へ。琴浦神社へと通じている見覚えのある道・琴浦通りに出る。ここで橋を渡って琴浦通りを西へ。500mほどで道意線という南北に走る通りに出る。この交差点の西北角が琴浦神社である。 琴浦神社の祭神は、嵯峨源氏の祖・源融。河原左大臣こと源融は光源氏のモデルとも言われる人物。(琴浦神社)(同上・説明碑) 琴浦神社は5年前来た時よりも荒れているというか、寂れている感じがしましたが、これは気のせいか。<参考>源融関連当ブログ記事 京都・蕪村銀輪散歩(その1) 2015.5.22. 囲碁例会・尼崎市の琴浦神社へ 2014.6.11. 太融寺 2014.6.5. コース設定の段階では契沖の歌碑が此処にあると思っていましたが、それがあるのは、ここから琴浦通りを更に500mほど西に行った口ノ開公園という小さな公園でした。<参考>囲碁例会・武庫川まで銀輪散歩 2014.8.6. 青雲会囲碁・奈良街道と契沖墓所 2013.9.14. 囲碁例会・契沖墓 2013.9.11. まあ、尼崎城跡公園と中央図書館前で契沖さんには敬意を表しているので、口ノ開公園はカットして、次の目的地である近松公園・廣済寺へと向かうことにする。近松門左衛門の墓所のある寺である。 尼崎と言えば、契沖よりも近松門左衛門。前者にとっては生誕地、後者にとっては墓所の地と正反対の関係になるが、やはり近松さんにも敬意を表さねば平仄を欠くというものでしょう。 道意線道路を北上。 JR立花駅前で右折し東へと進むのが予定のルート。 概ね正午近くになっていたので、立花駅前で昼食にするかと、店を物色しながら走るが、シャッターを下ろしている店も多く、何処と決めかねているうちに、駅前の賑やかな場所から外れた踏切まで東進してしまった。 「ちとまずいことになったか」と思いつつ踏切を渡って反対側(北側)に出ると、駐車場の向かいに小さな食堂がありました。 ランチメニューも色々あるので、ここで手を打つことに。駐車場の向かいなので、駐輪にも便利。 昼食後、JR線(東海道本線)沿いに東へ。福知山線にぶつかる手前で左折し県道13号(玉江橋線)を北上。尾浜交差点で右折し、JR福知山線沿いの道を北へと進む。 やがて14年前の4月25日の福知山線列車事故現場が右手前方に見えて来た。現在は、事故現場を保存するとともに、慰霊碑を設置、犠牲者の慰霊・鎮魂・追悼のための「祈りの杜」という名の場所・施設となっている。 この前を通りかかるのも何かのご縁かと、亡くなられた106名の乗客の御魂に哀悼の意を表して参りました。(祈りの杜) 場内は、建物内外問わず、撮影禁止なので、道路に出ての外側からの写真だけ1枚撮影しました。 名神高速道を越えて北上。近松公園に到着です。(近松門左衛門墓所の碑)(有馬道の碑 土塀の向こう側が近松公園) 近松公園の門を入ると、左手に近松記念館があり、正面には近松門左衛門の銅像がある。(近松門左衛門の銅像) 公園に隣接して西隣に廣済寺と須佐男神社がある。 公園から廣済寺へは直接には行けないようで、寺への連絡通路を探しているうちに隣の須佐男神社の境内に入ってしまった。 神社は予定外であったので、社殿は撮り忘れていたようで写真が無い。 由緒書の碑は撮っていたようなので下に掲載して置きます。 この神社は、多田源氏・源満仲の勧請により、鎌倉時代に創建されたものらしい。 ここは、北斗妙見菩薩、牛頭天王を主祭神とする神仏習合の社で久々知妙見宮と呼ばれていたが、明治の神仏分離令により、妙見祠が廃され、隣接の廣済寺に移転、須佐男神社に社名変更された。廣済寺はこの妙見宮の神宮寺であったということなので、場所柄としては、こちらが「主」で廣済寺の方が「従」の関係であったことになる。従って、先にこちらにご挨拶申し上げたのは、順序正しきことであったことになる。(須佐男神社由緒碑) そして、こんなものも。(矢文石)(矢文石由緒) 源満仲の長男が頼光(摂津源氏の祖)、二男が頼親(大和源氏の祖)、三男が頼信(河内源氏の祖)である。わが河内とも無関係ではないので、敬意を払って退出である。<参考>源氏三代墓の記事 銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3. 隣の廣済寺へ向かう。神社側からだと横門から入ることになる。横入りはずるいというのが相場であるが、裏口から入ることの多いヤカモチ的参拝の類型の一つとも言える。寺そのものが目的ではなく、境内の近松門左衛門墓所が目的であるから、このような入り方のほうが似合っているという解釈もある(笑)。(近松門左衛門墓)<参考>近松門左衛門・Wikipedia 裏や横から入ったら正面から出るのがヤカモチ的作法。(廣済寺)<参考>広済寺(尼崎市)・Wikipedia 廣済寺を出て、次は猪名川公園へと向かいますが、本日はこれまで。 続きは明日です。(つづく)
2019.06.07
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さて、一昨日(6月4日)の偐山頭火君との尼崎銀輪散歩の記事をアップすることとします。 大阪城公園午前9時半集合。 コースは、自宅→大阪城公園→(野里住吉神社)→尼崎城→琴浦神社→(祈りの杜)→近松公園・廣済寺→猪名川公園→園田競馬場→田能遺跡→(垂水神社)→大阪城公園→自宅。 ※( )表示は予定外立ち寄り先である。 80km程度の走行距離かと思われる。何度か道を間違ったり、予定コースと異なる道を走ったりしたので、正確なルート図にはならないのであるが、おおまかには下図のようなコースである。(ルート概略図) 偐山頭火君から、行く先は任せるので梅雨に入る前に何処か一緒に走らないか、というメールをいただき、ならば最近できた尼崎城にでも行ってみるか、というヤカモチの提案で、4日に決行となった次第。 他に何か句碑とか歌碑などのある立ち寄り先を適当に考えて置いてくれという依頼が追伸であり、ならばと琴浦神社、近松公園(廣済寺・近松門左衛門墓所)、猪名川公園(犬養万葉歌碑)などを立ち寄り先に加えて、上のようなコースが出来上がったのでありました。 もっとも、琴浦神社に契沖の歌碑があった筈と思って、これをコースに取り込んだのはヤカモチの勘違いで、契沖歌碑のあるのは口ノ開公園の方でありました。2014年6月に琴浦神社、同8月に口ノ開公園を訪ねていて、その二つが混同しての勘違いでありました。<参考>囲碁例会・尼崎市の琴浦神社へ 2014.6.11. 囲碁例会・武庫川まで銀輪散歩 2014.8.6. まあ、いい加減なコース設定はヤカモチ的設定にて、今に始まったことではない。偐山頭火君もそれは十分に承知していること、ある場合は間違って、またある場合は気まぐれで、大抵は何処かで設定コースとは違ったルートを走るのが二人の恒例となっていること、などから彼との銀輪行のコース設定は尚更にいい加減さが増すという次第(笑)。 自宅を出たのが7時35分。8時過ぎに出る予定でいたが、支度ができてしまったので、予定よりも30分も早く家を出てしまった。 大阪城公園の森ノ宮入口前の広場に到着。広場にある時計塔の時計は9時10分をさしていた。丁度いい位の到着、と思ったのは暫くの間のこと。やがて自宅を出たのが7時35分であったことを思い出し、いくら何でも1時間35分もかかるまいと、スマホを取り出して実際の時刻を確認。それは8時45分を示していた。そして、時計塔の時計を再び見に行くと9時10分をさしたまま。何のことはない故障していたのでありました。 実際の到着時刻は何時であったのかは分からないが、下の写真の撮影時刻が8時29分となっているので、8時29分には到着していたことになる。従って、自宅・大阪城公園の所要時間は54分であったことになる。(大阪城公園・森ノ宮入口前広場) 公園内を走ったり、草花を写真に撮ったりして時間を潰す。(JR森ノ宮駅) 観光客を乗せて公園内を走るロードトレインもまだ朝寝中。(噴水広場で朝寝中のロードトレイン) 9時25分に偐山頭火君到着。 彼も時計塔の時計で9時10分の到着と勘違いしたようだが、ほぼ、定刻の到着で、出発時刻までそれ程の余裕はないのであった。この時計の所為で本来なら取るべきであった行動と異なる行動を取ったという人も多く居たのではないか。翌日の5日午前11時半頃と午後4時半頃に囲碁例会への往復でこの広場の時計を見ているが、やはり9時10分をさしたまま。故障の張り紙をするか文字盤が見えないようにするなどの措置を取るべきだと思うが、公園管理課職員は仕事をサボっていますね。 大阪城公園を通り抜け、天満橋を渡り、滝川公園、れんげ亭の前を通過して国道1号・2号(曽根崎通り)を行く。 淀川大橋で淀川を渡る。(淀川・淀川大橋にて 偐山頭火と淀川の図) 淀川を渡ったところで、一夜官女の野里住吉公園のことを思い出し、立ち寄って行くこととする。 ここも2014年7月に訪問している。<参考>囲碁例会・野里住吉神社 2014.7.9. 野里商店街のアーケードを潜り抜けた処に在る小さな神社であるが、一夜官女伝説で、岩見重太郎=薄田隼人正兼相、その小説で司馬遼太郎、野里の渡し=柏葉の渡しで、仁徳天皇皇后の磐之媛にもつながるという、ブログ記事の題材に事欠かない神社なのである。 上記の参考記事「囲碁例会・野里住吉神社」にて詳しく紹介しているので、それをご参照願うこととし、ここでは、写真だけ並べて置きます。 なお、司馬遼太郎著「一夜官女」(中公文庫)は何処に紛れ込んだか、書棚のあちこちを探せど見当たらない。(野里住吉神社・拝殿)(同上・一夜官女の祭<乙女塚>の由来)(同上・乙女塚) 国道2号に戻り、西へ。 大野川遊歩道を過ぎて歌島橋交差点にさしかかる。ここの交差点からは5方向に道があり、交差点に横断歩道はなく、地下道を利用するか少し迂回して横断歩道を渡るかしなければならない。 以前、地下道に入り出口を間違って、国道2号ではなくみてじま筋を北上してしまうという失敗をしているので、今回は迂回して横断歩道を渡るという地上作戦を採用。 そして神崎川。神崎大橋を渡る。(神崎川・神崎大橋の上から 中央奥は阪神電車・千舟駅辺り) 神崎川の上流は安威川であるが、どの辺りで神崎川と名前が変わるのかは調べていないので、分からない。また、伊丹空港の西側を流れる猪名川は山陽新幹線の鉄橋付近で神崎川と合流している。 JR線だと神崎川を渡ると尼崎市なのだが、国道2号だと神崎川を渡ってもまだ大阪市(西淀川区)で、神崎川から分流しているもう一つ西側の流れ、左門殿川を渡ってから尼崎市となる。 左門橋を渡って尼崎市に入る。 庄下川に架かる玉江橋の上で、直感が働き地図を確認。行き過ぎるところでしたが、橋を渡り切らず引き返して左岸沿いを南へ下り、阪神電車の高架下を潜ると、そこは尼崎城であった。 尼崎城が復元されたのは二の丸跡地で、本丸跡地はその南東にある明城小学校の辺りだとのこと。 わが手許にある古い地図だと城内高校、城内中学校、城内小学校とあり、中央図書館も含めたこの区域が尼崎城の城内であったことが知れる。新しい地図では、高校は琴ノ浦高校、中学校は成良中学校(琴城分校)、小学校は明城小学校と名前が変っている。 城の傍らで写生をしている数人の人達。城を写生しておられるのかと思ったが、身体の向きがちょっと変。城とは異なる方向に向かって皆さん坐って居られる。 城ではなく、阪神電車の車庫か何かであったと思われる赤レンガの建物を写生して居られるのでした。まあ、絵のモデルとしては真新しい復元城郭よりも、年深みかもの赤レンガ建物の方が魅力的でしょうね。(赤レンガの建物) しかし、我々はこれを見に来たのではない。 俗っぽくとも尼崎城を見に来たのであるから、これにカメラを向けなければ義理が立たないと言うもの(笑)。(尼崎城)(同上)<参考>尼崎城・Wikipedia) 尼崎城は戸田左門氏鉄が元和3年(1617年)7月に近江国膳所から5万石で尼崎に転封して来て、築城したものとのこと。彼は、美濃大垣へ10万石で転封するまでの18年間、尼崎に在任した。来る途中渡って来た左門殿川の掘削事業も彼の業績の一つ。左門殿川や左門橋という風変わりな名は彼に因んで付けられたものという訳でありました。(戸田左門氏鉄公顕彰碑)(明城小学校の校庭に沿って立つ尼崎城址の碑) 今回の銀輪散歩の主目的である尼崎城を見たことで、ミッション・コンプリートなのであるが、これで帰ってしまっては、徘徊性銀輪散歩の偐偐コンビらしくない。という訳で、次の目的地、琴浦神社へと向かうのですが、本日はここまでとします。続きは明日に。(つづく)
2019.06.06
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昨日(4日)は、友人の偐山頭火君と尼崎方面を銀輪散歩しましたが、これは何回かの記事になりそうなので、後日の記事アップとし、今日は囲碁例会の記事とします。囲碁例会は、今日6月5日と来週の12日の予定でしたが、12日は皆さんご都合が悪くなったようで休会となりましたので、今日の例会を以って今年の前半戦は終了となります。 今日は、竹〇氏、福麻呂氏、村〇氏、平〇氏とヤカモチの5名が出席。最近ではこの5名でフルメンバーである。荒〇氏、青〇氏、東〇氏、荻〇氏などは最近はご欠席続きであるのが残念である。 さて、今日のヤカモチの成績は、福麻呂氏、平〇氏に勝ち、村〇氏との対局では、中盤でうっかりミスの勘違いで大石が頓死してしまい中押し負け。続く竹〇氏には逆に大石を攻めてギリギリのところでこれを仕留めて中押し勝ち。3勝1敗とまずまずの内容でした。 ということで、今年の前半戦は通算で17勝11敗と6つの勝ち越しで、まずまず順調な成績です。後半戦でもあと2つ程度勝ち越したいものと思っていますが、いかがなりますやら。 昨日の銀輪散歩では70~80km程度走ったので、流石に今日は足に少し疲れが残っているようでしたが、それでもMTBで銀輪散歩を兼ねてのいつものヤカモチスタイルでのお出掛けでありました。 自宅と囲碁会場の梅田スカイビル間の距離は正確にはどの程度あるのか分かりませんが、概ね20kmと思われるので、これを往復すると40km程度走ることになる。昨日の80kmに比べれば半分に過ぎないけれど、二日連続となるので、かなり走りごたえがありました。 自宅までの最後の坂道は何んとか上りきった、という態のものでした。明日は「骨休め」ならぬ「筋肉休め」、少し休養しますかね。(旗が新しいものに変わっていました。) これは、昨日にもこの前を通りましたので、気付いていたのでしたが、今日は写真に撮りました。ラグビーのワールドカップの試合が花園ラグビー場でも行われるので、それを歓迎する旗であるのですが、以前の旗と違うデザインの新しい旗に変わっていました。 以前の旗はどんなであったかは、下記<参考>の記事をご覧下さい。<参考>囲碁例会・花散歩 2019.3.13. 大阪城公園を通り抜け、途中で昼食を済ませて、(大阪城公園の好きなアングル) 里山のカフェテリアで珈琲休憩してから、囲碁会場へと向かいました。(里山のカフェテラス) 里山の緑もすっかり濃くなりました。 いよいよ本格的な夏。その前に梅雨入りがありますが、今年の梅雨は少雨なのか多雨なのか。銀輪には猛暑以上に大敵なのが雨であります。 では、今日はこれにて。
2019.06.05
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今日は月例の墓参。 墓参の記事の恒例は門前の言葉。 今月の言葉はこれ。(今月の門前の言葉) 雨の日には 雨の日の 生き方がある ―東井義雄― 間もなく梅雨入り。 そういう訳でもあるまいが、雨の日の生き方云々の言葉。 いつも晴天とは限らない。うまく行かない不遇の時もあるのが人生。 順風の時には調子に乗り過ぎず、逆風の時はそれに腐らず、その時々の状況に応じた適切な生き方があるという訳ですな。 自然な生き方は無意志で成り行きに任せるということではなく、自身がよしとする自然な生き方を、何ものにも束縛されない自身の自由なる強い意志を持って、自身の身の丈に合った形で、自身で選び取るということであるのですが、そういうことを前提として、雨の日には雨の日の自分なりの生き方をする、ということでしょうか。 まあ、言うのは誰でも言えるが、行うは難し、ということではあります。 いずれにせよ、雨の日に銀輪散歩して道に迷っているヤカモチですから、これを論ずる資格は元よりないと言うべきもの(笑)。 今日の墓参でも草花などをいくつか撮影しましたが、このところ花散歩記事が続いていますので、今日は「虫散歩」ということにします。 梅雨の時期は蠅が大量発生する時期でもあります。旧暦5月は梅雨の時期にて「五月蠅」はうるさいということで「五月蠅(さばえ)なす」という言葉が万葉の昔から使われていることは、先日のブログ記事でも書きました。 で、その蠅から始めます。(キンバエの仲間) ハエも色んな種類がいて、その個々の区別などは手に余ることなれば、キンバエの仲間ということでご勘弁願いましょう。 こいつは、動物の死骸や糞などに群がるのですが、このように木の葉や花などにとまっていたりもする。さすがのヤカモチも糞などに群がるハエを撮ったりは致しませぬ。 ハエそのものは万葉集では登場しませんが、「五月蝿なす」という枕詞として登場しますので、一応、万葉の虫ということになります。 同じなのがホタル。蛍を詠った万葉歌はありませんが、「蛍なす」という枕詞があって、「ほのか」に係る形で使われているので、これも万葉の虫ということになります。しかし、蛍の手持ちの写真はありません。<参考>この月は 君来(き)まさむと 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて いつしかと 我(あ)が待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまづさ)の 使ひの言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地(おほつち)を 炎(ほのほ)と踏みて 立ちて居(ゐ)て 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷(まと)ひて 丈(つゑ)足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行(ゆ)きのまにまに 射(い)ゆ鹿猪(しし)の 行(ゆ)きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 音(ね)のみし泣かゆ (万葉集巻13-3344)<今月は君が帰って来られると、(大船の)頼みに思って、いつかいつかと私が待っていると、(黄葉の)はかなく死んでしまったと、(玉梓の)使いの者が来て言うので、(蛍なす)ほのかにそれを聞いて、大地を炎の上を踏むように跳び上がり踏んで、立ったり座ったり、何処へ行けばいいかもわからず、(朝霧の)思い迷って、(丈足らず)八尺にも及ぶ長いため息をつき嘆いても、何の甲斐もないので、何処に君が居られるのだろうと、(天雲の)行くあとについて(射ゆ鹿猪の)行って死のうと思うけれど、道が分からないので、ひとり居て君を恋慕っていると、声に出して泣けてくる。> 次は蝶。 モンシロチョウです。(モンシロチョウ) 令和という元号が万葉集巻5-815~46の梅花の歌32首の序文が出典であることは、周知のことですが、この序文に「庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る」という文があり、蝶の万葉歌はないものの、ここに蝶が登場するので、蝶も一応、万葉の虫と言っていいでしょう。 ただ、新蝶がモンシロチョウなのかモンキチョウなのかアゲハチョウなのかなどは分かりません。カラタチは万葉植物ですから、カラタチに卵を産み付けるアゲハチョウが万葉の頃にいたということは言えるでしょうから、アゲハチョウである可能性はあるかもしれません。 ところで、昆虫は人間には見えない紫外線を識別できるそうですから、それによって見ると、つまり紫外線に反応するカメラで撮影すると、モンシロチョウのメスは白く見えるが、オスは黒く見えるそうです。人間は波長の長すぎる赤外線や波長の短すぎる紫外線は見えず、一定範囲の波長の赤から紫までの可視光線しか識別できないので、メスもオスも同じように白く見えるけれども、紫外線を識別する目で見ると、メスだけが白く見えるということで、彼らは互いにオスかメスかを遠くからでも識別できるという訳です。勿論、それ以外に性フェロモンを出したりしているでしょうから、それによっても識別はできるということになるのでしょうが。 ということで、上のモンシロチョウがオスなのかメスなのかは不明であります。 次はアブです。 ハナアブの仲間、ヒメヒラタアブです。(ヒメヒラタアブ) 虻は日本書紀で雄略天皇の処(下記注)で登場しますが、万葉集には登場していないかと思います。調べていないので間違っているかも知れませんが、虻を万葉集で見掛けた記憶がありません(笑)。(注)日本書紀・雄略天皇四年秋八月の条 しかし、ハエよりはこのような小型のハナアブの方が万葉の虫らしい気がします。 そして、ヒメヒラタアブの恋人たちです。(同上) 次は、キリギリスの仲間の幼虫。 ヤブキリやクダマキモドキなどの幼虫とは違うので、なんというキリギリスなのかは分かりません。 先日、ブロ友のひろみの郎女さんがヤブキリの幼虫の写真をブログにアップされていましたが、ヤカモチもその仲間の何とは知れぬ虫の幼虫を目撃したという次第。(キリギリスの仲間の幼虫)(同上) 次はハムシ。 ハムシと言っても「羽虫」ではなく「葉虫」と書く「甲虫目」のハムシであります。 ブロ友のふぁみり~キャンパーさんが、トゲツキトゲナシトゲトゲという虫のことをコメントで教えて下さいましたが、その虫はこのハムシの仲間になります。 すると、今日の墓参で早速そのハムシに出会ったという次第。 最初はコガネムシかと思いましたが、触覚が細長く、コガネムシのそれとは形状が違うので、ハムシではないかと調べたら、どうやらハムシのようです。ただ、ハムシも色んな種類があるようで、これが何というハムシかまでは断定できませんでした。(ハムシの仲間)(同上)(同上) このような色違いもいました。(同上)(同上) 以上、ハエからハムシまでの虫散歩でありました。 虫嫌いなお人は勿論「無視散歩」いただいて結構であります。
2019.06.01
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