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銀輪散歩で撮影した木や実の写真がいくつか残っているので、今日も花の無い、実のある「花散歩」の記事とします。 秋はやはり柿でしょうか。 銀輪の道の辺に大きな柿の木があったので、その木陰に立って見上げると、いくつかの柿がなっていました。(柿) 実の形から渋柿だろうと見ましたが、沢山なっている。 柿の木の下に立つヤカモチ。見上げつつ 実のなる柿の 木の下(もと)に 立てばわれはも 人麻呂なるや (柿本家持)(同上) 渋柿も熟すと甘くなったりするが、ヤカモチは熟柿は好きではない。 鳥たちに残して置こう。 と言っても、我が柿にあらねば、余計なお世話であるか。(同上) 柿の木の隣にはこれまた大きな栗の木。 大きな柿の木の下の歌はないが、大きな栗の木の下の歌はある。(栗) 最初はクヌギの木かと思ったが、ドングリは見当たらず、高枝にひとつだけ栗の実が残っていたので、栗の木であることに気がついた。 栗の木の下にはイガグリが落ちているものだが、木の下周辺は落ち葉も少なくなっているから、清掃されたばかりで、イガグリなども綺麗に片づけられたのだろう。銀輪の 秋も深みか 栗の実の ひとつ残りて 弾けたる見ゆ (銀輪栗持)(同上) 肉眼による遠目では分からなかったが、カメラを通すと、ご覧のように栗の実がイガの中でひっくり返りそうになっている。 強い風が吹けば、中の実だけがポトリと下に落ちて来そうであったが、そんな当てのない風を待っても、栗の実ひとつではその価値もなく、首が疲れるだけのことである。 栗のイガの中には栗の実が3個入っているのが普通。 「中」「那珂」などの枕詞に「三つ栗の」が使われる由縁である。 一方、樫の実は、一個の笠に一個の実があるだけなので、「橿の実の」或いは「樫の実の」という言葉は、「一つ」や「一人」の枕詞となっている。 次の実は食用にはならないヒノキの実。(ヒノキの実)(同上) 実は、食用にはならぬが、木は建材や船材や屋根葺き材などとして、その利用価値は高い。 ヒノキの「ヒ」は「火」であるとも「産霊(ムスヒ)」の「ヒ」であるとも言われる。古代に於いては、ヒノキは神聖な木の代表格であり、その霊力が家や船や屋根を守ると考えられたのであろう。いにしへに ありけむ人の 真似ごとと 実のなる檜枝(ひえだ) 插頭(かざし)にせむか (柿本人真似)(本歌)いにしへに ありけむ人も わがごとか 三輪の檜原(ひはら)に 插頭(かざし)折りけむ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻7-1118) そんなことで、人麻呂さんも檜の枝を折り取って、髪に刺して旅の無事を祈ったのであろうが、銀輪家持は「ちょっと思ってみただけ」にて、枝を折ったりはしなかったのでありました(笑)。(ヒノキ) 人麻呂の人真似ついでに、もう1首。隈笹(くまざさ)の 垣もしみみに 生(お)ふる葉の しみみにわれは 妹をしそ思ふ (柿本人真似)(本歌)小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱(さや)げども 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば (柿本人麻呂 万葉集巻2-133)(クマザサ) いつの頃かまでは熊笹と思っていたが、葉に白い隈取りがあることからの命名なので、隈笹が正しく「熊笹」というのは誤用とのこと。(ツバキの実) そして、ツバキの実は静かに弾けて割れようとしていますが・・。(同上)椿の実 弾け割れむと すなれども 風吹かざるか 波立たじかも (椿家持)秋山の 椿の森に 実は割れて さらにしひらく 未来のいかに (椿家持)つばらかに 暮らせと今日は 椿の実 静かに割れて 我に語らく (椿家持) 今日は以上です。<参考>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.10.31
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今日は、銀輪花散歩であります。 オオムラサキとコムラサキと言えば蝶であるが、ムラサキシキブとコムラサキと言えば植物である。 で、先ずはそのコムラサキから。(コムラサキ) ムラサキシキブより樹高も葉のサイズも実の房も小振りで、枝垂れてこじんまりと上品なのがコムラサキ。 これに対してムラサキシキブは枝垂れず、野趣ある風にて、ヤカモチ的にはコムラサキよりも好ましく思われるのであります。 紫式部の娘・藤原賢子はその夫の地位などから、大弐三位などと大層な名で呼ばれていて、小紫などとは呼ばれないが、植物の方は、コムラサキという名で呼ばれる。秋の庭 枝垂れ実をなす 小紫 いでそよその名 忘れやはする (小紫式部)(本歌)ありま山 猪名の笹原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする (大弐三位 後拾遺集709、小倉百人一首58)(同上) しかし、今日はコムラサキの上品さを愛でることにしよう。 そして、実の白いのもありました。 コムラサキの白品種で、名はコムラサキで変わりがないのかと思ったら、シロシキブという名であるらしい。(シロシキブ) まあ、実が紫色でムラサキシキブ、コムラサキであるから、実が白ければシロシキブで、至極まっとうな命名であるが、イズミシキブ(和泉式部)などと洒落てみて欲しかった気もしないではない。 和泉式部も紫式部と同じく中宮彰子に仕えた女官であるが、その娘は小式部内侍と呼ばれる。銀輪を 駆けゆく道の 道の辺に 枝垂れ真白き シロシキブ見ゆ (小白式部)(本歌)大江山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍 金葉集586 小倉百人一首60)(同上) シロシキブはコムラサキほどには好まれないのか、コムラサキほどには見かけない。それ故かヤカモチにはシロシキブの方が好ましく見える。(同上) では、もう少しじっくりと眺めてみよう。道の辺の シロシキブの実 つばらに見む 撮りてブログの 記事となすため (老家持)(本歌)難波潟 潮干のなごり つばらに見む 家なる妹が 待ち問はむため (神社忌寸老麻呂 万葉集巻6-976)(同上) 白い実をとり上げたら、赤い実もとり上げなくては平仄を欠くだろう。(サネカズラ) サネカズラは、カズラという名が示すように、蔓性植物。 このように、もじゃもじゃと生い茂っている。高木があれば、それに絡みついて勢力を伸ばすという点ではフジと同じ。(同上) サネカズラは、万葉ではサネカズラともサナカズラともいうがサナカズラという例の方が多いようです。 藤原鎌足が鏡王女を口説いた歌「玉くしげ見むまど山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ」(万葉集巻10-2296)という、何とも身も蓋もないストレートな歌があるが、サナとサネの音の類似から「さ寝」という恋人との共寝に通じる植物であったり、つるが枝分かれして伸びてゆき、先でまた出会って絡み合ったりすることから、「後にも逢おう」という意味が込められた植物であったりしたのである。(同上) フジと違って、マメ科ではないので、このような美しい赤い実がなります。別名ビナンカズラ(美男葛)と呼ばれるのも頷ける。(同上) こちらは、赤く熟す前のサネカズラの実。 まだ美男葛にはなり得ていないサネカズラであります。(同上) 赤ついでに、これも。(アカマツ) アカマツと言えば、秋の香、松茸であるが、この松の周囲には菌床はありそうもないから、アカン松でありました。 それでもなかなか立派な佇まいの松でありました。松茸の 有無な尋ひそね 高々に 一つ松なり 赤松われは (松家持) 以上、紫、白、赤と、色それぞれの秋でありました。<参考>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.10.30
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昨日(28日)深更、350万アクセスを突破しました。三百万(みほよろづ) 余り五十万(いそよろづ) アクセスを 超えて更(ふ)けゆく 神無月(かんなづき)の夜(よ) (偐家持) まあ、他人様にはどうでもいいような数字でありますが、2009年1月31日記事をアップした際に、当ブログの記事カテゴリとして「ブログの歩み」というのを設定したようで、以来、節目のアクセス数に達した際やブログ開設〇周年などとなる日には、そのことを記事にするということを続けてまいりました。 ということで、今回も過去の例にならって記事にアップです。(350万アクセス) ブログ記事の右上欄のアクセスカウンターの数字です。(3499999アクセス 23時49分現在) 28日23時49分現在では3499999という数字。 28日23時53分現在には3500000という数字。 従って、28日23時49分~53分の間に350万アクセスに到達したということになる。 このような時間帯に「節目のアクセス数」到達となると、心ならずも「夜更かし」ということになります。(3500000アクセス 23時53分現在) まあ、それだけのことであります。 ブログを開設して、14年6ヶ月を経過しました。以来、今日まで当ブログをご訪問下さったすべての方々に感謝であります。 ヤカモチも1303歳の超高齢、いつまでブログを続けられるものか、本人にも分かり兼ねるところ。しかし、もう少しは頑張りたいと存じますので、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げる次第であります。<参考>総アクセス数の推移 2007年 4月29日 ブログ開設 2015年10月11日 50万 2016年11月16日 100万 2018年 2月 9日 150万 2019年 3月21日 200万 2020年 1月21日 250万 2020年11月28日 300万 2021年10月28日 350万
2021.10.29
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ブロ友の龍の森氏、偐万葉シリーズ記事では、龍森麻呂とお呼びしていますが、同氏の最近のブログ記事で、ドングリ(クヌギの実)を食べてみようと奮闘努力の様子をご紹介されています。 それに触発された訳ではありませんが、フジの実ならもっと手軽に食べられるのではないかと思い、ネットで検索してみると、試されたお方が居られるようで、ソラマメのようにホクホクした味であったなどと紹介されていました。 そんなことで、銀輪散歩の途中で見かけた藤棚に実がたわわになっていたのを一つ失敬して、豆莢を割ってみました。(藤棚のフジの実) 天皇家との姻戚関係を結ぶことによって氏族の勢力を伸ばし、その安泰、繁栄を期すというのは、古代氏族の当たり前の行動であるが、その成功例の最たるものが藤原氏である。 何かに絡み付いて成長する蔓性植物のフジ。天皇家にまとわりつき、これをからめとって、権力を手中にし、それを維持し続けた藤原氏には、いかにも似合いの植物である。 仁徳天皇の皇后・磐之媛は葛城氏の出自。葛城氏も一時はそのような地位にあった。平群氏や蘇我氏も同様。しかし、千年以上もの長きに渡り、その地位を維持し続けた藤原氏に比べればものの数ではない。 葛も蔓性植物。巨木に絡みついている葛と藤。この両者が相互に絡み付くと何が何やら分からない壮絶な眺め。「葛藤」などという言葉がある由縁だろう。植物世界では両者はいい勝負かもしれないが、歴史上は藤が葛を圧倒しているから「藤葛」と言うのが適切か。しかし、それなら勝負は決まったも同然だから、「葛藤する」までもないということで、意味が逆になってしまうか。やはり「葛藤」でいいのか(笑)。 はい、氏族繁栄を象徴するかのように、実と言うか、豆と言うか、たわわになっています。 見ようによっては、美しい眺めでもあります。(同上) こんなに沢山なら、一つくらいはいいだろうと、小さな莢を一つ失敬。 「失敬」などと表現しているが、これは無礼・不作法という類のものではなく、「窃盗」という違法・不法行為、犯罪行為に該当するのであるから、此処だけの話、内緒の話はあのねのね、なのであります(笑)。(同上) これは大き過ぎるか。もっと小さいのでいい。(同上) で、もっと小さいのを一つ、そっと失敬したという次第。 その割には大胆に、その藤棚の下のベンチで、豆莢を割るというヤカモチでありました。 小さな豆莢を選んだので、中には豆が一つだけ。 盛んに「小さな」を強調しているのは、ヤカモチの本能的自衛行動というヤツで、その違法性を少しでも小さく見せようとする「せこい」心根が透けて見えるのであります。 それはさて置き、とても固い豆莢。 割るのも一苦労。ソラマメやエンドウとは訳が違う。 で、現れたのが、こんな豆。(フジの実、豆莢を割ってみると・・) サンショウウオかヒキガエルのオタマジャクシの皮膚の模様のような、ちょっとグロテスクな色合いの豆。 道端に置けば、小石に紛れ込んでしまいそうでもある。(同上) この皮を剥くと、美しい色つやの豆となりました。 この薄皮は簡単に剥ける。 茹でたりして食べるのであれば、薄皮のままに茹で、食べるときに剥くか、或いは、そのまま皮ごと食べてもいいのかもしれない。(皮を剥くと・・) 齧ってみようかとも思いましたが、多分、苦いか渋いのだろうと、思いとどまりました。(同上) 龍の森氏に倣って、茹でて食するところまで記事に仕立てるのが筋でありますが、記事タイトルが「フジの実食べちゃいました。」ではなく「剥いちゃいました。」であることが示すように、ヤカモチは「剥く」ところまででお終いであります。 豆一個では茹でるのは馬鹿げているし、沢山の豆を収穫するとなると、公園の藤棚とは言え、立派な「窃盗罪」となりますから、無理。 以上、中途半端な記事でありますが、ヤカモチ的には、これにて一件落着であります。<参考>龍の森氏のブログ記事〇ドングリ(クヌギ)を食べてみようとー1 2021.10.24.〇ドングリ(クヌギ)を食べてみようとー2 2021.10.25.〇どんぐり(くぬぎ)クッキーー3 2021.10.26.<参考>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.10.28
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壁にヤカモチの影、影持君登場であります。(壁に影持君) そしてニシキギも。(壁にニシキギ) ニシキギは三大紅葉木の一つとされるだけあって、美しい紅葉です。 こちらは、既に葉が散ってしまったのか、いささか寂しい眺めですが、却って一種の趣を醸しています。(同上) 壁ついでに、もうひとつ。(壁にツワブキ) 壁男とニシキギ、そしておまけのツワブキの花。 まあ、今日はそれだけのことです。<追記> もう一つ壁際のオリーブの実も追加です。(オリーブの実)<参考>オリーブ・Wikipedia オリーブの実もかなり色づいています。(同上) もう少し接近。(同上) これは接近し過ぎか。(同上)
2021.10.27
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偐万葉・どち篇(その8) 本日は、偐万葉シリーズ第324弾記事、どち篇(その8)です。 友人・岬麻呂氏の旅便りに寄せて詠んだ歌も、このどち篇に収録することにしています。従って、これら岬麻呂関連の歌は「岬麻呂旅便り」シリーズ記事にて掲載済みの歌の再掲載となります。1.岬麻呂に贈りて詠める歌21首ふらの麻呂 まさきくありと 旅便り 届きて五月ごがつ 今日は青空 (偐家持)佐保姫は いづち行かめや 葉桜に なりたる道の 今し悔しも (偐家持)(本歌)愛(かな)し妹を 何処(いづち)行かめと 山菅(やますげ)の 背向(そがひ)に寝しく 今し悔しも (万葉集巻14-3577)ジャカランダ 紫匂ふ はつ夏の 見が欲しき花 恋ひてぞまた来し (偐家持) (20210610ジャカランダ)わが来れば 雨に濡れたる 二番花の 今盛りなり かのやばら園 (偐家持) (20210610かのやばら園)沖縄の 景色は何と 変らねど 行けば休業 至れば休館 (古呂奈麻呂) (20210630古宇利大橋)ジャカランダ ケラマブルーの 花と咲け 背子が思ひの 座間味の島に (青家持) (20210630ジャカランダの苗木)安護の浦 潮満ち来らし 夕暮れて 島山はるか 横雲の空 (夕家持) (20210630安護の浦の夕暮れ)鳥沼の みなもに映す さみどりの 影もさやけき 富良野旅行く (富良持) (20210714鳥沼公園)夕されば 遠くやなりぬ 利尻富士 われは礼文の カフカにあれり (海辺のカフカ) (利尻島夕景・香深港)バフンウニ つまみ酒くむ さ夜更けて 利尻の富士に 月かかりける (滝沢馬糞) (20210805バフンウニ丼) (20210805利尻島夜景)青く澄む 海もよけれど 我はもや バフンウニには しかずと覚ゆ (雲丹麻呂) (20210805澄海岬)それ島の 南にあるを なにゆゑに 北のカナリア パークと言へる (鳩屋南北) (20210805北のカナリア公園)君もまた 旅にしありて 思ふかや いづこも同じ 妻が買ひ物 (偐家持)(本歌)さびしさに 宿をたちいでて ながむれば いづこもおなじ 秋の夕ぐれ (良暹法師 後拾遺集333 小倉百人一首70)草もみぢ 岬のひぐま いかにかと ゆくらむ君が 知床の旅 (偐家持) (20210915ヒグマ)オホーツクの 秋はサンゴの 草もみぢ 萩も尾花も さらに用なし (北家持)(本歌)人皆は 萩を秋と云ふ 縦(よ)しわれは 尾花が末(うれ)を 秋とは云はむ (万葉集巻10-2110) (20210915能取岬・サンゴ草)春さらば 花めで酒酌(く)み また語らむ 言ひし悲しき 遺影の友よ (偐岬麻呂)との曇る 旭平あさひだひらの 秋の葉に 心ぞ痛き 面影立てば (偐岬麻呂) (20210928旭岳と鏡池)日(ひ)の本(もと)の 秋はここより 旭岳(あさひだけ) 今年ももみぢ 妹と恋ひ来(こ)し (偐岬麻呂) (20210928旭岳・旭平)禄剛(ろっかう)の 崎にて返し 金沢に 帰りきたれば 月照(て)りにける (偐家持)(本歌)珠洲(すず)の海に 朝開(あさびら)きして 漕ぎ来(く)れば 長浜の浦に 月照(て)りにけり (大伴家持 万葉集巻17-4029) (20211008禄剛埼灯台)それ木々の 水面(みなも)に映す 影清み 神の子池と 名づけけらしも (偐老麻呂)水底(みなそこ)に 沈(しづ)く倒(たふ)れ木(ぎ) ゆるがざる 石(いは)のごとにも 神(かむ)さびにけり (偐家持) (20211022神の子池)※岬麻呂関連の歌掲載の偐万葉・どち篇は(その1、3、4、5、6、7)。歌数は、今回の21首を加えて、全122首になります。2.久麻呂に贈りて詠める歌1首さを鹿の 鳴くなる今夕(こよひ) 逢はぬとも 明けての五月(さつき) 逢はざらめやも (ヤカモチ)(本歌)さを鹿の 鳴くなる山を 越え行かむ 日だにや君が はた逢はざらむ (笠金村歌集 万葉集巻6-953) (牡鹿 撮影者:久麻呂氏)※久麻呂関連の歌掲載の偐万葉どち篇過去記事は(その3,4)、歌数は4首で、今回の1首を加えて合計5首。(注)久麻呂氏はヤカモチの大学同期の友人。夕々の会のメンバー。3.倉麻呂の逝去を傷みて詠める歌2首君逝きて いづちにありや 秋の日の 雨間の空に なびく横雲 (偐家持)今は君 いづちにありや 秋雨に 山は煙りて 泣けと言ふらし (偐家持)(本歌)この水は いづれに行くや 夏の日の 山は繁れり しづもりかへる (中原中也)(なびく横雲)(注)倉麻呂氏はヤカモチの会社時代の後輩。4.国麻呂の兄上の逝去を傷み、国麻呂に代りて詠める歌3首くやしかも 秋明菊(しうめいぎく)の 咲く朝(あさ)に 我が兄(あに)さまは みまかりましぬいつの日か 来(く)べき別れと 知りぬれど 今日(けふ)のこととは 思はざりけるあれやこれ 思ひ尽きせじ 今更に 君が最後の 笑(ゑ)まひに泣かゆ (20211006シュウメイギク オガクニマン氏のブログから転載)※国麻呂関連の歌掲載の偐万葉過去記事は下記の通りで、歌数は66首、今回の3首を加えて合計69首。 オガクニ篇(その1、2) 30首 どち篇(その1,2,4,5,6,7) 36首(注)国麻呂は友人・オガクニマン氏の偐万葉上の呼称。 同氏のブログはコチラ。 偐万葉・オガクニ篇はコチラ。<参考>偐万葉・どち篇の過去記事はコチラ。<追記注:2021.10.26.>久麻呂氏の項の※に記載の歌数に誤記がありましたのでこれを訂正しました。倉麻呂氏の項に写真追加掲載。
2021.10.25
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本日は、岬麻呂旅便りであります。 今回は、道東の紅葉を求めての「北海道は本年最後となる道東夫婦旅」とのことであります。(旅報告279・道東の紅葉&同写真説明)10月12日関西空港→釧路空港→釧路湿原・細岡展望台→塘路湖→弟子屈→摩周湖→屈斜路湖→屈斜路プリンスホテル(2連泊)(釧路湿原・細岡展望台)<参考>細岡展望台・Wikipedia 細岡展望台&ビジターズラウンジ 細岡展望台は、釧路湿原駅から徒歩20分、釧路湿原の東端に位置し、釧網本線を挟んで蛇行する釧路川と釧路湿原が一望の展望台。夕日が美しいとのこと。 岬麻呂氏は釧路空港から車ですから、R240→R38→R391というルートで移動されたのでしょう。 釧路町のマンホールでしょうか。フクロウの図柄。 展望台前の道路に設置されていたものを撮影されたようです。(細岡展望台前道路のマンホール) 塘路湖へ。(塘路湖)<参考>塘路湖・Wikipedia 細岡展望台から、直線距離で北東7kmほどの位置にある東西に細長い湖が塘路湖である。 塘路(トウロ)というのは、湖畔にかつて「トオロコタン」というアイヌの集落(コタン)があったことによる地名・湖名。 アイヌ語で「トオロ(to-or)」とは「沼・の所」という意味とのこと。 R391を挟んで東側に摩周湖、西側に屈斜路湖。 宿は、屈斜路湖南西岸の屈斜路プリンスホテルであるから、弟子屈からは左に道を取るのが近道であるが、右に取って東側の摩周湖へと遠回りをされたようで、次の写真は、夕刻が近づきつつある摩周湖であります。(摩周湖)<参考>摩周湖・Wikipedia 日が傾き、その照射角度が低くなると、景色の陰影が鮮明になる。 霧の摩周湖も今はクッキリ。山々の襞は深くなり、湖面の青は濃さを増し、夕日に映える岸辺の草もみじとの対比が美しい。10月13日川湯温泉経由→R391野上峠→知床・宇登呂→知床五湖(一湖)→オシンコシンの滝→濤沸湖・白鳥公園→網走経由→美幌峠→ホテル(屈斜路湖岸の紅葉) 朝日に匂う屈斜路湖岸の紅葉を楽しみながら、川湯温泉を経て、R391を北上、野上峠を越えて、斜里町へ。(斜里町の菜の花畑) 斜里町では、菜の花畑とヒマワリ畑。 ちょっと季節が間違っていませんか、と言いたくなる景色です。(斜里町のヒマワリ畑) 斜里町からはR334で知床五湖へ。(知床五湖・一湖) R334から分岐して、カムイワッカ湯の滝へと通じる知床半島西岸側の道は、北海道庁管理の道であるから「道道」ということになるが、道道93号線である。その道道93号は、知床五湖の先で通行止めになっていたとのことで、岬麻呂氏は、同湯の滝は諦めて、オシンコシンの滝へ。 と、言われても、北海道の地理感のないヤカモチには「?」である。 地図で見ると、R391を20kmほど南へ戻った、斜里町ウトロ西にある滝がオシンコシンの滝である。(オシンコシンの滝)<参考>オシンコシンの滝・Wikipedia そして、斜里町から小清水町を過ぎ、網走市に入って、濤沸湖へ。 濤沸湖からR243に出て、美幌峠へ。 美幌峠は、屈斜路湖全景が見渡せるビューポイント。 日没直前であったようで「寒い」と岬麻呂氏は仰っていますが、それはさて置き、日本最大のカルデラ湖である屈斜路湖が一望の絶景ポイントであります。(美幌峠から屈斜路湖を望む)<参考>美幌峠・Wikipedia 湖に浮かぶ中島が景観を引き締める。 島であれ、半島であれ、水面越しに見える丘を、万葉人は「島山」と呼んだが、水面と丘・山が形成する景観をよしとするDNAは、万葉の昔から今日の我々へと継承されているのである。 その中島の向こう側の屈斜路湖対岸が、翌日に白鳥を目撃することとなる砂湯である。 美幌峠を下ると、ホテルはスグそこ。10月14日屈斜路湖の白鳥→野上峠→緑駅経由→神の子池→裏摩周展望台→清里峠→中標津開陽台→弟子屈経由→阿寒湖(観光船)・チュウルイ島→ニュー阿寒ホテル(泊)(白鳥・ホテル近くの早朝の湖岸)(同上・屈斜路湖砂湯付近)<参考>屈斜路湖・Wikipedia この日は、朝の白鳥を見て、川湯温泉からR391で野上峠越え、道道805から緑駅前を南下する道を取って神の子池へ。 今回は、北海道の地図を開きながら、岬麻呂氏のご報告文から同氏のルートを推測しつつ記述しています。(神の子池)<参考>神の子池・観光情報・清里町 おお、幻想的な池。 摩周湖からの伏流水が湧出しているのだという。それ木々の 水面に映す 影清み 神の子池と 名づけけらしも (偐老麻呂)水底(みなそこ)に 沈(しづ)く倒(たふ)れ木(ぎ) ゆるがざる 石(いは)のごとにも 神(かむ)さびにけり (偐家持) そして、裏摩周展望台からの摩周湖の眺めです。(裏摩周展望台)<参考>裏摩周展望台・観光情報・清里町 湖面の青と木々の紅葉がお互いにお互いを際立たせています。 清里峠を越えて、道道150号で中標津町の開陽台へ。(開陽台)<参考>開陽台・Wikipedia 上掲写真は、南西方向の眺望。 奥に雌阿寒岳、雄阿寒岳が見えている。(開陽台・地球が丸く見える丘) 中標津から、弟子屈を経由して、阿寒湖へ。 途中の弟子屈町で撮影されたマンホールです。 摩周湖の図柄。(弟子屈町のマンホール) 以下は、阿寒湖の近くで撮影されたのだろうと思いますが、釧路市阿寒町のマンホールです。 しばらくは、マンホール散歩を楽しむこととしよう。(↑釧路市のマンホール・スズラン<カラー>)(↑同上・スズラン<モノクロ>)(↑同上・タンチョウ<カラー>)(↑同上・タンチョウ<モノクロ>)(↑同上・観光船<桜のないタイプ>)(↑同上・観光船と桜<ピンク>)(↑同上・観光船と桜<白>)(↑同上・観光船と桜<モノクロ>)(↑同上・スズラン<赤・黄・青>) 我々がマンホール散歩をしている間(笑)に、岬麻呂ご夫妻は阿寒湖の観光遊覧船にご乗船、チュウルイ島で展示のマリモをご覧になられました。10月15日小雨・湖畔散策中止→オンネトー(雨あがる)→R240→阿寒湖・滝見橋→阿寒国際ツルセンター→釧路空港→関西空港 最終日は朝から小雨。 阿寒湖の湖畔散策は中止とし、オンネトーへ。(阿寒湖)<参考>阿寒湖・Wikipedia(オンネトー)<参考>オンネトー・Wikipedia オンネトーは、足寄町東部にある湖。 アイヌ語で「年老いた沼」または「大きな沼」の意。 背後の山、左が雌阿寒岳、右が阿寒富士。<参考>雌阿寒岳・Wikipedia 阿寒富士・Wikipedia オンネトーで雨があがり、阿寒湖の滝見橋へ。(阿寒湖・滝見橋)<参考>滝見橋・釧路阿寒湖観光公式サイト 「阿寒湖の水が阿寒川となって流れ出る水門があり、其処が滝口になっていて、R240に滝見橋があり、其処からその一部を見ることができる。観光客のほとんどは素通りしてしまうが、紅葉の穴場」だそうです。 最後に阿寒国際ツルセンターへ。(阿寒国際ツルセンター入口の紅葉) 入り口前の見事な紅葉。 丹頂の餌付けは冬のみで鶴は見られず、とのことであったようですが、鶴には「松」、鹿には「紅葉」というのが昔からの決まり相場。 だから「これでいいのだ。」(バカボンのパパ) ということで、釧路空港に戻り、全1007kmのロングドライブの旅、終了であります。 岬麻呂さん、お疲れ様でした。 道東の紅葉の景色、堪能させていただきました。 そして、ご訪問いただきました皆さま。 ご覧いただき、ありがとうございました。<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。
2021.10.22
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(承前) 10月19日の記事「萩の寺・東光院」の続編記事です。 境内に正岡子規他の句碑が沢山ある。 記事構成の都合上、これら句碑は前記事では割愛したので、以下これを紹介します。 先ず、山門前、左手にあるのが高浜虚子の句碑である。(高浜虚子の句碑)<参考>高浜虚子・Wikipediaおもひおもひに坐りこそすれ萩の縁<参考>萩の縁おもひおもひに坐りたる(年代順虚子俳句全集第3巻所収)我のみの菊日和とはゆめ思はじ(同上・副碑) 山門を入ってスグのところ、右手にあるのが永尾宋斤の句碑。(永尾宗斤の句碑)<参考>早春 俳人永尾宋斤 記事一覧 永尾宋斤とは-コトバンク早春や 枯れたるものに 光あり(同上・副碑) 東照閣仏舎利殿の東側、総門脇にあるのが、桜坡子と大橋晄の句碑。(桜坡子・大橋晄の句碑)ぬれ色に萩の雪洞しづみ居り 桜坡子歳月を積みてや萩の枝垂れやう 晄(同上・副碑) 大橋晄氏は、東光院の子規忌へちま供養などへの投稿句の選者を務めて居られることが、寺参拝の際に頂戴した「萩まつり道了祭の栞」からうかがえる。同栞に掲載の「第119回子規忌へちま供養入選句のお知らせ」に「選者 雨月 大橋晄主宰」として、その名が見える。<参考>子規忌へちま供養 本堂へと向かう小径の左側、大書院前に並んでいる石碑が2基あって、次に正岡子規の句碑となる。(川谷尚亭の寿碑<鈴木翠軒 書丹>)<参考>安芸市歴史民俗資料館・川谷尚亭(同上・副碑)(福良竹亭の寿碑<徳富蘇峰 筆>)(同上・副碑) そして、ようやくに目当ての子規の句碑である。(正岡子規の句碑)<参考>正岡子規・Wikipediaほろほろと 石にこぼれぬ 萩の露 句碑に向き合う位置にベンチが置かれているので、そこでしばらく腰を下ろして休憩。よろよろと 椅子に坐りて 萩の句碑であります(笑)。(同上・副碑)(青木月斗の句碑)<参考>青木月斗・Wikipedia門前すでに 丈余の萩 盛りかな(同上・副碑)(田村木国の句碑)<参考>田村木国・Wikipedia狩くらは 大月夜なり 寝るとせん(同上・副碑) 萩の庭・萩露園には入れないが、奥に句碑らしきものが見えるので、ズームアップして撮ってみた。(小路紫峡・智壽子連理の句碑)萩むらに 仏のごとく 句碑坐る 紫峡伏流の 高き調べや 九輪草 智壽子 小路ご夫妻の句碑ですな。 小路紫峡氏は、神戸市に拠点を置く俳句結社「ひいらぎ」の主宰者。 同氏亡き後は夫人の智壽子氏が主宰者となって居られる。<参考>俳誌・ひいらぎ(相島虚吼の句碑)<参考>相島堪次郎・Wikipedia雛の座に カチカチ山の 屛風哉登山口 道に画きて 教えけり放屁虫 貯へもなく 放ちけり飼い犬を 甘ったらかす 火燵かな(同上・副碑) さて、東光院山門を出て、延命橋を渡り、萩の寺公園を通り抜けて、阪急曽根駅前へ。 集会に参加する前に何処かで夕食を取らなくてはならないので、適当な店はないかと探しつつ行くと、会場の市立文化芸術センターの道路向かいにあるヴァイキングビル1階に喫茶店があった。 ここがよかろうと決めて、南へ更に行く。 坂道を下り、阪急電車の高架下を潜ると大きな公園があった。 「てしまこうえん」とある。どんな漢字なのか、その時は分からなかったが、帰宅して地図を見ると「豊島公園」とあった。(東光院、市立文化芸術センター、豊島公園位置図) 豊島公園をブラブラと散策。(豊島公園) 野球場やテニスコートなどもある。 休日とあって、遊具のあるゾーンでは子どもを遊ばせている若いお母さんやお父さんの姿も多い。(同上)(同上 右手が野球場 公園南入口付近から) 野球場に沿って、ぐるり一周。(ジンジャー) ジンジャーの花では、虫が花蜜を吸っている。 シラカシの実もたわわ。(シラカシの実) 実の帽子が横縞模様になっているのがシラカシと聞いたように思うので、シラカシと言いましたが、別の種類のカシかもしれない。 しかし、公園裏手の小さな橋にはシラサギもいるから、シラカシでなくてはならないのである(笑)。(公園南東隅の橋) 喫煙処という札を入口に掲示の喫茶店で珈琲休憩したりしつつ、徘徊を続け、目星をつけて置いた喫茶店で夕食を済ませ、集会の会場となっている市立文化芸術センターへ・・ということで銀輪なしの無輪散歩終了となりました。(完)<参考>銀輪万葉・大阪府篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・大阪府篇(その1) 銀輪万葉・大阪府篇(その2)
2021.10.20
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16日、市民集会に参加するついでに、阪急宝塚線・曽根駅近くの東光院を訪ねてみました。<参考>仏日山吉祥林東光院・萩の寺 東光院・Wikipedia 東光院、この寺を訪ねるのは初めて。 「萩の寺」という名前と子規の句碑があるというので、行ってみようという気になったもの。 寺の南側低地に「萩の寺公園」という小さな公園がある。 寺の参道が、「延命橋」という橋で、その公園の中央を跨いでいる。 この延命橋という名の由来となった地蔵堂が寺の門前にある。(北向き延命地蔵)(同上・説明碑)※写真をクリックするとフォト蔵の大きいサイズの写真が別窓で開きます。 読みづらい場合はそれでお読みください。 北向き地蔵の裏側には「無事蛙」という石造の蛙さんが居たようだが、気づかぬままでした。しかし、無事に帰れましたから、気づかなくても差支えはないようであります(笑)。 その蛙と向き合う位置にあるのが「延命の御詠歌碑」。多分、こちらの歌碑に気をとられて、背後の蛙には気がつかなかったということであったのだろう。(延命の御詠歌碑)さかえ由く かぎりを志らず 延命の みのりの露に 生ひし樟 大正4年(1915年)6月建立の歌碑。 背後の建物は延命庵。 既にして、1303歳のヤカモチ。 延命は吾事に非ず、であります。(東光院・山門<薬醫門>)(同上・説明碑) 門前で拝観料をセルフで投入、参内。(山門をくぐり・・) 山門を入ると、右手には萩がびっしりの「萩露園」、左手に先ず目に入るのが魯山人観音。(山門から境内奥へ)(魯山人観音) 魯山人は、顧問兼料理長を務める高級料亭「星岡茶寮」が昭和10年阪急曽根駅前に大阪店を新設するに際して、自ら製作した「白衣観音像」を、店に隣接する当寺に奉納し、茶寮繁栄を祈願したという。 この魯山人観音は、魯山人奉納の「白衣観音像」を等身大に模刻した石造仏である。 (同上 右は北大路魯山人作の「白衣観音像」)(同上・説明碑) 魯山人観音の奥にあるのが、三十三観音堂「お砂ふみ霊場」と東照閣仏舎利殿(別称、あごなし地蔵堂)。(東光院・三十三観音堂・お砂踏み霊場) この寺は、天平7年(735年)行基開創による寺で、現在は曹洞宗別格地寺院。 もと摂津国西成郡豊崎村下三番、現在の大阪市北区中津にあったが、大正3年(1914年)、阪急電車の敷設に伴い現在地に移転した。 詳しくは、下掲の「東光院・由緒と歴史」をご参照ください。<参考>東光院・由緒と歴史(同上・由緒) 三十三観音堂の隣が、東照閣仏舎利殿、別称・あごなし地蔵堂。(同上・東照閣仏舎利殿・あごなし地蔵堂) あごなし地蔵堂の前にはお百度石。(お百度石) お百度石から少し奥に行くと、大阪みどりの百選、豊中百景、豊中五勝の一つにあげられている、萩の庭園・萩露園の入り口があるが、萩の花は既に散ってしまった後で、庭園は閉鎖されて養生中、立ち入り禁止となっていました。 その入り口前にあったのが、新西国第十二番霊場御詠歌碑。(新西国第十二番霊場御詠歌碑)萩の寺 東光院まいり来て 袖ぬらしけ里 はきのてら 波なのにあるも 露の恵に 577577の旋頭歌体の歌になっているのか。 突き当りの建物は納経所。(同上・納経所) 扁額の文字は「跳龍閣」。 曹洞宗総持寺の布教月刊誌のタイトルが「跳龍」であるが、当院は総持寺派ではなく、本山は永平寺のようだから、この跳龍とは関係ないのでしょう。 その左隣の建物が、道了大権現堂で、その前にあるのが金光明最勝王経の写経塔。(金光明最勝王経の写経塔)(道了大権現堂)<参考>妙覚道了・Wikipedia 道了とは、室町時代前期の曹洞宗、修験道の僧らしいが、初めて耳にする名前にて、何の知識も持ち合わせない。(道了大権現石仏像) 遠目には、不動明王像にも見えたが、道了さんだとのこと。(道了大権現の由緒と五大誓願) 本堂方向に向かうと左手に正岡子規の句碑があった。 この寺訪問の動機となった句碑であるが、句碑は別途記事にまとめて掲載することとし、ここでは割愛します。 本堂への小径を南に向かうと、正面に見えるのが吉祥林永代塔の釈迦如来白仏像。この塔の左が吉祥林墓苑の入り口となっているから、お墓参りの人は、この石仏に手を合わせてから墓参をするのだろう。(吉祥林永代塔・釈迦如来白仏像) この釈迦如来白仏像は、2000年春にスリランカ仏教徒会議から当院に贈呈されたもとのこと。 本堂は、吉祥林・圓通殿。(本堂 吉祥林・圓通殿) 本堂前には七福神像。(宝船七福神像) 西国七福神霊場というのは、大正3年(1914年)に阪急電鉄が沿線の七福神巡りを発案したことによるものらしいが、東光院は毘沙門天を祀っていることから、その第一番霊場になったとのこと。 まあ、これは阪急沿線での話であるから、近鉄沿線のヤカモチには関係のない話であります。(萩の寺毘沙門天王略縁起) 本堂の西側の、「萩露園」へと続く空間は「滴露園」と呼ぶらしい。 萩露園という名は、魯山人の命名とのことだが、この滴露園はどなたの命名なんだろうか。(滴露園から本堂を望む) 萩露園には入れないので、滴露園から覗いてみただけ。(萩露園) 花が咲き残っている木は見えず、盛りの時期の景観は想像するしかないが、小径は萩の花のトンネルのようになるのだろう。(同上) 萩まつり・道了祭は9月19日~24日に行われたようですから、その頃が見頃であったのでしょう。 子規の命日は9月19日であるが、萩まつりは、この命日に合わせて催されるのだろうか。 時間には余裕があり過ぎるほどあったが、狭い境内なので、長居には適さない。 山門脇にわずかばかり咲き残っている萩の花に「では、ごめん」と挨拶して、東光院を出る。(咲き残る萩の花越し・・)萩の寺 名残りの花を あとにして はてさて我は いづこ行かむや (偐家持) このあと、市民集会までの時間を潰すべく豊島公園や周辺を徘徊するヤカモチでありますが、ブログ記事的には、掲載を先送りにした境内の句碑などを続編で紹介しますので、もうしばらくは東光院にとどまることとなります。(つづく)
2021.10.19
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昨日(16日)は、大学同期の友人・堀〇君からのお声掛けに応えて、「IRカジノSTOP!10・16市民集会」に参加して来ました。 会場は、阪急宝塚線曽根駅から徒歩5分の豊中市立文化芸術センターの多目的室。午後6時半開会~8時半閉会ということなので、少し早めに行って、曽根駅近くの東光院・萩の寺を訪ね、その後、何処かで夕食を済ませてから、会場に入ろうと考えていましたが、ネットで東光院を検索すると、コロナ対策で同寺の拝観時間は午前10時から午後4時までとなっていることを知る。 午後4時過ぎに寺を訪ね、5時半頃に夕食、6時過ぎ会場入りという当初目論見の修正を余儀なくされました。 ということで、出発を午後1時過ぎに早める。曽根駅到着が午後2時過ぎ。 しかし、さすがに早く来過ぎたようで、時間を持て余す羽目に。 東光院訪問の後、付近を徘徊、豊島(てしま)公園散策、「喫煙処」という札が掛かっている喫茶店で珈琲休憩、会場の市立文化芸術センター向かいのヴァイキングビルの喫茶店で早い夕食。(ヴァイキングビル) 早食いのヤカモチであるが、意識的にゆっくり食べ、食後の珈琲もゆっくり味わいましたが・・。 それでも時間が余り、市立文化芸術センターには午後5時16分に到着してしまった。まあ、道路1本を挟んでいるだけですから、当然ではありますが(笑)。(豊中市立文化芸術センター) 館内をブラブラしていたが、2階のミーテイングルームに何人かの人が入って行くのを見て、主催の「大阪カジノに反対する市民の会」の人たちだろうと見当をつけ行ってみると、果たしてその通りで、堀〇君やその仲間の皆さんが集会参加者に配布するチラシなど各種ペーパーをセットされていた。 で、堀〇君に挨拶するついでに、小生もそれに加わって、少しばかりお手伝い。 定刻に開会。 入場の際にいただいたペーパーセットの中に入っていたのは、こんな手作りのストラップ。(カジノNO) 裏側(まあ、どちらが裏でどちらが表かは分からぬが)は、こんな感じ。(同上)(会場・開会前)(集会のリーフレット) 前半は、カジノ反対団体リレートーク、全国カジノ反対団体からのメーセージ紹介、立憲民主党・日本共産党・れいわ新選組など政党代表の挨拶。 後半は熊谷貞俊氏(大阪大学名誉教授)と桜田照雄氏(阪南大学教授)の対談。 カジノ誘致撤回に成功した、横浜カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ紹介では、横浜から贈られた50本の傘が披露されました。(カジノ誘致反対横浜連絡会からのメッセージ)(横浜からの50本の傘) この会主催の集会に参加するのは3回目。 前2回は一昨年のことであるから、2年ぶりのことになる。<参考>〇カジノはあかん!という市民集会に 2019.3.23.〇大阪カジノに反対する市民の会結成1周年記念集会 2019.9.15. さて、おまけの話。 市立文化芸術センターの館内をブラブラしていて、地階から1階へと上がる壁面にマチカネワニの骨格のレプリカが展示されているのに気づきましたので、ついでの掲載です。(マチカネワニ)(同上・少し角度を変えて撮影)(同上・説明プレート)(同上・説明プレート英語版) マチカネワニは大阪大学豊中キャンパス構内で発掘された45万年前のワニの全身骨格化石。 大阪大学の公式マスコットキャラクター「ワニ博士」や豊中市のキャラクター「マチカネくん」となって親しまれている。 豊中市のマンホールもマチカネくんの図柄である。<参考>マチカネワニ・Wikipedia 銀輪散歩・マンホール(その11) 2018.8.5.(ワニ博士)(マチカネくん) 東光院や豊島公園は別途ページをあらためて後日紹介します。 本日は、これまで。
2021.10.17
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今日は、囲碁例会。 天気予報では午後3時、4時台に1ミリ程度の雨ということであったので、一応雨具上下衣をザックに入れて自転車(クロスバイク)で自宅を出る。 会社勤め現役時代は、法務・株式関連の仕事をしていたので、CBというと転換社債(Convertible Bond)を先ず思い浮かべたものであるが、最近はクロスバイク(Cross Bike)が先ず浮かぶ。尤も、これは和製英語らしくて、マウンテンバイク(MTB)とロードバイクを混合した中間タイプの自転車という意味である日本語でのCBは、英語的には、ハイブリッドバイク(Hybrid bicycle)というのが近い意味になるとのことであります(クロスバイク・Wikipediaより)。 中央大通り(R308)から大阪城公園通り抜け、天満橋で大川を渡り、滝川公園まで来たところで、タバコ休憩すべしと公園のベンチ前にCBをとめ、スマホを取り出して時刻はと見ると11時40分。同時に、友人の偐山頭火氏から不在着信が2回あったことに気づく。丁度、CBを走らせていた間に着信があったようで、マナーモードに設定されたままになっていた所為もあって、まったく気が付かなかったのであった。 折り返し電話を入れると、以前、少し相談に乗った問題が無事解決したということと入院加療中であった奥様が無事ご退院されたということの報告でありました。まあ、よい知らせであり「それは、おめでとうございます。」でありました。<訂正注記:2021.10.14.> 昨夜(13日)遅くに偐山頭火氏からメールがあったことに気づく。 それによると、奥様のご退院は来週火曜日に予定されているとのことで、現在はまだご入院中とのこと。「来週の火曜日に退院することとなった」というような言葉を、「来週」を聞き落とし、「火曜日に退院した」と聞き違えたヤカモチのハヤトチリであったようです。訂正です。 この滝川公園から西に100m弱行ったところにあるのが、れんげ亭。 先週の6日(水)にも店の前を通ったのだが、時刻が早かったのか「支度中」の札が出ていました。今日は「商い中」の札になっていました。 店主のれんげの郎女さんにも長らくお会いしていないので、久しぶりにれんげ亭で昼食をとることにしました。 「やあ、おひさしぶり~」とお互いに笑顔に。 コロナ禍で大変であったことだろうと思うが、お元気そうなご様子なので安心しました。 れんげ亭での昼食はいつ以来かと過去のブログ記事を検索してみましたが、「支度中」で前を通り過ぎたという記事ばかりで、2017年12月6日の記事にれんげ亭で昼食という一文があった。これが一番最近の立ち寄り記事かもしれない。だとすると、れんげ亭で昼食をするのは実に3年10ヶ月ぶりということになる。 そんなに長らくご無沙汰していたとは思いもしないことでした。(れんげ亭) 今日は、ヤカモチ初対面の女性が店のお手伝いをされていましたから、長らくご無沙汰しているうちに変化しているようです(笑)。 ヤカモチが店に入ったのは11時46~7分頃で、客は誰とてもなかりき、でありましたが、程なくして若い男性が一人入って来られました。彼も久しぶりであったようで、先ほどのヤカモチと同じようにお互いに「おひさしぶり~」の挨拶でありました(笑)。 その後、年配の男性がまた一人。この方は常連さんのようで「おひさしぶり~」というのはありませんでした。 食事を済ませて店を出てから撮ったのが上掲写真であります。 梅田スカイビル到着は12時45分。 会場の5階の部屋に入るとヤカモチが一番乗り。 部屋の照明を点灯、入室名簿に名前を記入して、入室。 碁盤と碁笥を設営し終わったところで、福麻呂氏がご来場。 早速に一番お手合わせ。 対局中に村〇氏ご来場。 小生が勝ったので、村〇氏と対局。 対局中に平〇氏ご来場。 隣で、福麻呂氏と平〇氏の対局が始まる。 村〇氏との対局では、コウ(劫)争いで、コウ立てを失敗して、大敗。 (注)コウ・Wikipedia 最後の平〇氏との対局も大差負けの完敗。 今日は1勝2敗。これで今年の成績は3勝5敗。 福麻呂氏と村〇氏との対局は未だ続いていたが、平〇氏が「今日はこれまで」と帰宅するので、ヤカモチも一緒に退出。スカイビルの庭の片隅のベンチで二人してタバコ休憩しつつ、暫しあれやこれやの閑談後、平〇氏に別れを告げて、CBを走らせ帰途に。 帰途は、なにわ筋を南下、靫公園から四ツ橋筋に出て、これを南へ、信濃橋交差点で東に向かい、大阪城公園を通り抜け、中央大通り(R308)に出る。ここからはこれを東上するという定番ルートで自宅まで。自宅到着は午後5時を少し過ぎていました。<参考>囲碁関連の過去記事は下記。 囲碁関係(その1) 囲碁関係(その2)
2021.10.13
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10月4日の夜8時半頃の話。 1週間も前の話で恐縮でありますが、今日はこの話にお付き合い願うこととします。 ノートパソコンに向かっていると、右上腕部に何かの虫が這っている感触があり、見ると、小さなハエトリグモである。 歩き回り、走り回る徘徊性の蜘蛛。 徘徊性という点ではヤカモチと相通じるものがある(笑)。 多分、体長は5mm程度。 手で追い払おうとすると、ジャンプしてテーブルの上へ。 30cm以上の大ジャンプである。 カメラを取り出し、撮影しようとすると、PCの裏側に回り込む。 カメラで追いかける。 ハエトリグモは前方側に4個、後方側に4個の眼を持っているので、どの方向から接近しても、こちらの動きはお見通しのようで、逃げてしまい、なかなか上手く撮らせてくれない。 なんとか撮れた写真がこれ。(ハエトリグモ) ハエトリグモは世界で6000種、日本でも105種と種類が多く、何という種類のハエトリグモであるのかは、この写真では特定しがたい。 体の色や体長などから、可能性が高い種として、次の三つのどれかではないか、というのがヤカモチの結論。 ミスジハエトリの雌(体長7~8mm) チャスジハエトリの雌(体長10~12mm) アダンソンハエトリの雌(6~9mm) 体長からは、アダンソンハエトリの可能性が高く、チャスジハエトリの可能性は低いことになるが、成熟した蜘蛛であるとは限らず、未だ「子ども」の蜘蛛であるということも考えられるから、体長だけで判断はできない。 上で述べたように、前後に各4個、計8個の眼を持つ蜘蛛。 その後ろ姿を撮っていたら、いつの間にか体を反転させて、コチラ向きになっている。(同上) 肉眼では分からなかったが、撮った写真をPCに取り込み、トリミングして拡大すると、ハエトリグモは、カメラに正対し、しっかりとこちらを見ているのでありました。 前方側の眼4個のうち、内側の2個は大きな眼で、外側の眼や後ろ側の眼の何倍もの大きさであるから、その分視力もよく、よく見えるのだろう。 背後の眼は天敵などを見つけ、身を守るためにいち早く逃げる、移動する、ジャンプする、そのために必要な眼に過ぎないから、映像を鮮明に見極める必要性は左程に高くはない。これに対して前方部の眼は獲物を捕らえるための眼であるから、対象物が鮮明に見えなくてはならない。対象物との距離も正確に見定めなくてはならない。そんなことで、正面の2個だけは特別に大きく発達したのだろう。 背後から接近して来たカメラ、そしてそのカメラを操っているヤカモチがたたかうべき敵なのか餌となりうる生き物なのかを見極めるため、素早く体を反転させたのであろう。 上掲の写真をご覧になればお分かりいただけるかと思いますが、完全に目が合っている感じです。 見ているつもりでいたら、逆に「見られていた」という次第。 まあ、ハエトリグモからすれば「何やら見られている気がしたので、見返してやった」というところでしょうか。 それにしては、何やら「親愛の情」が感じられる視線にて、敵意はないようです。ということは、天敵ではなく「餌」と思ったのだろうか。ご馳走を前にした人間の視線、目の表情もかくにしあるか。 しかし、空腹ではなかったようで、こちらに飛び掛かることもなく、再び体を翻すとハイジャンプ、何処かへ飛び去りました。 或いは、「何だ、さっき腕にとまってやった人間じゃないか。実に、つまらん。帰って寝よう。」とでも思ったのかも。 以上、クモをつかむような話でありました。やみくもに あれこれ書くも くもつかむ 話のごとや なりにけるかも (三匹の子蜘蛛)<参考>ハエトリグモ・Wikipedia アダンソンハエトリ・Wikipedia 虫関連の過去記事はコチラ。
2021.10.12
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私は誰でしょう。 枝豆。 ではありません。(枝豆ではない。)(枝豆に似ていなくもないないが・・) 枝豆に似ていなくもないが、ずっと毛深い莢果である。(吾輩はクズである。) クズであります。 と言っても、勿論、「屑」ではなく、「葛」である。 マメ科クズ属の植物、クズである。クズがマメ科であることは、この果実の姿を見れば納得である。 これは、先日のブログ記事(2021.9.26.「秋の風」)にて、その花などを紹介した、恩智川辺の真葛原のクズの果実であります。 一昨日(9日)、銀輪散歩で再度通りかかると、花は既に見当たらず、実がなっていたという次第。(クズの果実)<参考>クズ・Wikipedia 学名、Pueraria montana var. lobata 我が国では万葉の昔から自生する馴染みの植物であるが、その繁茂力・拡散力の強さから、世界の侵略的外来種ワースト100に選定されているということだから、この植物を在来種としない国にとっては、クズは相当な厄介者植物であるようだ。(同上)国栖(くにす)らが 春菜摘むらむ 司馬(しば)の野の しばしば君を 思ふこのころ (万葉集巻10-1919)(国栖たちが春菜を摘んでいるだろう司馬の野ではないが、しばしばあなたのことを思うこの頃です。)<注>国栖=古代、大和国吉野山中に住んでいた土着の民の称。 司馬=吉野の奥の地名であるのだろうが、所在は不明。 上三句は「しばしば」を導くための序詞である。 クズは、その根からデンプンを抽出してできる葛粉が食用に利用されるが、古来吉野川上流(宮滝から5kmほど上流)の地、国栖がその産地で、国栖の人たちがこの植物や葛粉を売り歩いたことから、国栖(くす)と呼ぶようになったのが、その呼称の語源であるという説もあるとのこと。 国栖の人たちは、壬申の乱では、大海人皇子側についたようで、近江朝廷側の追手の兵から皇子を匿うべく、小舟の中に隠したところ、追手の兵が連れていた犬が、小舟を嗅ぎ出したので、この犬を殺して皇子を守った、という伝承が伝えられていて、今でもこの地では犬は飼わないのだという。 また、南国栖の浄見原神社には、近江から逃れてきた大海人皇子が、身の半分を食べた魚を、「私が再び都に戻ることができるのであるなら、生き返れ。」と言って川に放ったところ、その魚は生き返って泳いで行った、という伝承が伝えられているそうだ。 これは、壬申の乱を題材にした能「国栖」の中にも同じような場面が出て来るが、神社の伝承から能の話が作られたのか、能の話が神社の伝承に付会したのか、どちらなんだろう。 国栖人は、日本書紀(神武天皇即位前紀戊午年八月の条と応神天皇紀十九年十月の条)にも登場している。いち早くに大和朝廷に服属した土着民集団であったのだろう。 日本書紀・神武天皇即位前紀では、尻尾の生えた人間と書かれているが、これは、獣皮を身にまとっていたので、それが尻尾に見えたのかもしれない。同・応神紀では、天皇に酒や産物を献上し、歌を奏上したことが記されている。<参考 1>日本書紀の国栖人の記事〇日本書紀・神武天皇即位前紀戊午年八月の条より抜粋更(また)少し進めば、亦(また)尾有りて磐石(いは)を披(おしわ)けて出(きた)れり。天皇(すめらみこと)問ひて曰(のたま)はく、「汝(いまし)は何人(なにもの)ぞ」とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、「臣(やつかれ)は是磐排別(これいはおしわく)が子なり」とまうす。此則ち吉野の国巣部(くずら)が始祖(はじめのおや)なり。 (注)国巣の「巣」は原文では木ヘンに巣という字。〇同・応神天皇紀十九年十月の条より十九年の冬十月(かむなづき)の戊戌(つちのえいぬ)の朔(ついたちのひ)に、吉野宮(よしののみや)に幸(いでま)す。時(とき)に国巣人(くずひと)来朝(まうけ)り。因(よ)りて豊酒(こざけ)を以(も)て、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて、歌(うたよみ)して曰(まう)さく橿(かし)の生(ふ)に 横臼(よくす)を作り 横臼に 醸(か)める大御酒(おほみき) うまらに 聞(きこ)し持(も)ち食(を)せ まろが父(ち)歌(うたよみ)既に訖(をは)りて、則(すなは)ち口を打ちて仰(あふ)ぎて咲(わら)ふ。今国巣(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰(あふ)ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国巣(くずひと)は、其の為人(ひととなり)、甚だ淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山の菓(このみ)を取りて食(くら)ふ。亦かへるを煮て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けてもみと曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔てて、吉野河(よしののかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯嶮(たけさが)しく谷深くして、道路(みち)狭(さ)くさがし。故(このゆゑ)に、京に遠からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、しばしば参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)献る。其の土毛は、栗・菌(たけ)及び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり。 (注)豊酒の「豊」は原文では酉ヘンに豊という字。 以上です。今日は、クズと国栖の話でした。<参考 2>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.10.11
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岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 珍しく金沢方面の旅、と思いきや、今回は、いつもの旅とは趣の異なる旅にて、「孫(長女の長男で小生の初孫、大学生、金沢在住)が9月に運転免許取得、此方で車を買ったので運転練習を兼ねて金沢まで陸送。娘、孫と夫婦の4人旅。」(下掲「旅・岬巡り報告278」より)とのこと。 往路はドライブ、復路は金沢駅から大阪駅まで列車という10月2日~4日2泊3日のドラ&トレ旅でありました。(旅・岬巡り報告278) 上記旅報告278からのヤカモチ勝手解釈による旅程だと、下記の通りとなりますが、当該解釈の正確性については保証の限りではありません。 まあ、間違いがあれば岬麻呂氏からご指摘があるだろうから、後日訂正すればよいと楽観・楽天的掲載であります。10月2日大阪(ご自宅)➝(岬麻呂氏の運転)➝名神草津付近➝(岬孫君の運転)➝金沢➝金沢城➝兼六園(金沢城<石川門>) 金沢は、仕事や私的旅行で何度も出かけているので、ヤカモチにとっても馴染みの町ではあるが、最近は長らくご無沙汰している。(兼六園<ことじ灯籠>) 兼六園というとこの石灯籠の風景が定番であります。 今回も、マンホールの写真4点とマンホールカード2点を送ってくださいました。(金沢市のマンホール・規格品タイプ)10月3日金沢➝のと里山街道(岬孫君運転)➝輪島キリコ会館➝輪島朝市➝角海家住宅➝総持寺租院➝白米千枚田➝禄剛崎灯台➝金沢(輪島キリコ会館)(輪島朝市)(輪島市のマンホール・御陣乗太鼓の図柄)(同上・輪島塗漆器の図柄)(同上・朝市の図柄)(同上・消火栓<規格品タイプ>)(旧角海<かどみ>家住宅) 旧角海(かどみ)家住宅(重要文化財)。北前船の廻船問屋である。(総持寺租院)(白米<しろよね>千枚田)(禄剛<ろっこう>埼灯台) 能登半島最北端の岬にある灯台。 大伴家持が越中国守に赴任して、春の出挙のため諸郡を巡回した折に、能登半島先端の珠洲市正院町の郡家から船出し、長浜の浦にさしかかった時に、月を仰ぎ見て詠んだという次の歌が思い浮かぶ。珠洲の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり (大伴家持 万葉集巻17-4029)禄剛の 崎にて返し 金沢に 帰りきたれば 月照りにける (偐家持)10月4日金沢駅➝(列車)➝大阪駅➝ご自宅 今回、旅便りにご同封いただいたマンホールカードは、次の2点です。 本日午前中に、友人(中学時代の同級生にて、若草読書会の仲間の一人でもある)のひろみの郎女さん(ブログ名:ひろみちゃん8021)にお届けする予定であります。 (輪島市のマンホールカード:御陣乗太鼓の図柄と雪割草の図柄)<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。同上・岬麻呂マンホールカード写真集はコチラ。
2021.10.08
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昨日(10月6日)は、囲碁例会の日。コロナの所為で長らく活動を休止していましたが、今月から再開することとなり、昨日がその再開初日であったという次第。ヤカモチに限って言えば、今年3月3日に出席して以来のことであるから、7ヶ月ぶりの囲碁例会である。 お天気もよしで、例によって自宅から会場のある梅田スカイビルまで、クロスバイク(CB)による銀輪散歩でありました。最近はマウンテンバイク(MTB)よりもCBで銀輪散歩をすることが多くなっている。 その理由は、自宅の自転車置き場の奥にMTBが駐輪されていて、手前にCBが駐輪されているというパターンがこのところ継続していて、手前のCBの方が取り出しやすいので、ついそちらを利用してしまうという面倒臭がり屋ヤカモチの気質によるというだけのことであります。 前記事である3日の青雲会総会出席のための銀輪散歩と同じコース取りで、大阪城公園経由で梅田へ。(大阪城公園・森ノ宮入口付近) 大阪城公園では、この日も植木市が開催されていた。 奥の森を通り抜けて、堀をめぐって天満橋方面に向かう。(同上・堀端の桜の木も紅葉し始めている。) 11時44分梅田スカイビル駐輪場に到着。 ガーデンファイブ棟1階のカフェレストランで昼食。 注文した料理が出て来るのを待ちつつ珈琲を飲んでいると、友人のオガクニマン氏から電話が入った。 一昨日の電話で、病気療養中の同氏のお兄様を見舞って来たところだという話を聞いたばかりであったが、そのお兄様が「先ほど亡くなった」という知らせでありました。 葬儀は、親族だけで行うとのこと。 同氏のお兄様は、ヤカモチが入社して間もない頃、同じ資本系列の会社の文書課で法務の仕事を担当されていて、ヤカモチも同じく法務担当の部署に配属されたこともあって、会社は異なるものの、何かと教えていただくなど仕事面でのお付き合いがあった。オ氏と知り合うよりも先にお兄様と面識があったことになる。 その後、会社を退職されて、某大学の法学部教授となられたので、お付き合いも疎遠となったが、それでも何度か、教授となられた後もお電話でお話をする機会があったりした。オ氏からは時々お兄様の消息をお聞きすることがあったものの、長らくお顔を拝見することもないままであった。最近になって、ご病気がかなり重篤だということを聞かされ、気になっていたのでありましたが、とうとうお亡くなりになってしまわれた。 友人や知り合いが亡くなるということ、これは人間、ある程度の年齢を過ぎると、そういうことが次々と起こることであり、それは避けがたいものではあるが、やはり寂しいものである。友人のオ氏にとっては、ただ一人の兄上、さぞや悲しく、心痛く、寂しいことだろうと、こちらの心も痛みます。 衷心よりお悔やみ申し上げます。 歯に衣着せぬ、ずけずけとした物言いの、磊落痛快なお人柄で、独特の雰囲気を醸して居られたというのが、ヤカモチの印象である。高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人無しに (笠金村 万葉集巻2-231) どうぞ安らかにお眠りください。 さて、昼食後、梅田スカイビルの里山を少しばかり散策。(梅田の里山・秋の色) ホトトギスの花は、まだ殆どが蕾であったが、咲き始めているものも少しあった。(ホトトギスの花) コムラサキの実も色づいている。(コムラサキ) ムラサキシキブの実が色づくのは、もう少し先のようだ。(ムラサキシキブ) 黒い色のトウガラシは珍しい。(黒いトウガラシ) そして、稲田も間もなく収穫なんだろうか。(梅田の里山の稲田)(ワンダースクエア) 梅田スカイビルのタワーイーストとタワーウェストとの間にある中庭空間はワンダースクエアと呼ばれている。 里山は、上の写真の奥にある。 見上げると、スカイビルである。 円形の空中庭園が頭上に見える。(梅田スカイビル) 会場の部屋に入ると、美術サークルの方々が帰り支度をして居られるところであった。 美術サークルも、この日が活動再開の初日であったらしい。 そのメンバーの板〇氏から、殿〇氏が去る9月25日に急逝されたということを知らされ、驚く。またまた、知り合いの訃報である。 合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。 新しく知り合う人の数が年々少なくなる一方で、亡くなる知人・友人の数が多くなって行くというのが、人生の晩年というもののようだ。(囲碁例会の部屋) ヤカモチが一番乗り。碁盤の設営などを済ませたところで、福麻呂氏が来場。同氏とお手合わせ。 ヤカモチの勝ち。 村〇氏と平〇氏が来られ、 ヤカモチは村〇氏と対局。これもヤカモチの勝ち。 しかし、最後の平〇氏には負けて、この日の戦績は2勝1敗。 3月3日は2戦2敗であったから、今年の成績は現時点で2勝3敗。 帰途は、中之島公園に立ち寄って行く。(中之島・大阪市中央公会堂) 中之島の中央公会堂が見通せる場所で休憩していると、電話が入った。 青◎というお方からのお電話である。 当方から電話を入れたがつながらなかったのに対して、返事のお電話をくださったもの。 囲碁同好会に参加したいというお申し込みをいただいたお方である。 新メンバーの加入は歓迎すべきことなので、会のご案内をする。次回例会は13日であり、ご出席可能かを打診するも、その日は他用があって無理ということで、11月からのご参加ということになる。<参考>囲碁関連の過去記事は下記。 囲碁関係(その1) 囲碁関係(その2)
2021.10.07
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今日は、大学の同窓会、青雲会の総会でした。 本来は7月に開催されるのだが、コロナの影響で、10月に延期するも、まだ警戒を緩めることはできないと、昨年に続き、懇親会はなしで、決算承認などの総会議事の審議と講演のみの集まりとなりました。 会場は、梅田の大阪新阪急ホテルの紫の間。10時30分開会。 講演は、11時20分~12時20分。講師は、日本生命済生会理事長の三木章平氏と日本生命病院名誉院長の笠山宗正氏で、「ウィズコロナの時代をどう生きるか」という演題のリレー講演。 お天気もよし、でヤカモチ流の銀輪散歩を兼ねての自宅から梅田への自転車移動。 自宅を8時50分に出発。 大阪城公園経由、梅田スカイビル到着10時12分。(梅田スカイビル) 梅田スカイビルの駐輪場に自転車を駐輪、新阪急ホテルへ徒歩で移動。 梅田スカイビルと新阪急ホテルとは徒歩数分、そこそこの距離があるが、駐輪の便宜を考えて、勝手知ったる場所に駐輪したという次第。(青雲会総会・大阪新阪急ホテル紫の間) 会場に入ると、同期の油〇君が来ていたので、彼の隣に着席。 出席者は、大学の先生方の出席も含めて50名弱と少ない。 懇親会もなく、緊急事態宣言が解除されたとは言え、コロナの影響もあって、出席者は激減である。 昨年も同様であったが、昨年の同期の出席者はヤカモチ一人であったことを思えば、同期の油〇君の出席があっただけ、昨年よりはましである。(同上・講演) 講演終了後散会。 油〇君と梅田スカイビルに移動し、そこで昼食。 油〇君とは数年ぶりの再会。年2回開催の同期の会・夕々の会も昨年、今年と休会になっているので、皆の顔も長らく見ていない。 昼食後、梅田スカイビル・タワーウェスト27階にある絹谷幸二天空美術館を見て来るという油〇君と別れ、帰途に。<参考>絹谷幸二天空美術館 帰途につく前に里山を少し見て回る。(ナナカマド) 先日、岬麻呂氏から北海道旭岳のナナカマドの美しい紅葉の写真を送っていただいたことを思い出し、梅田の里山のナナカマドや如何にと覗いてみたが、ご覧のように、まだ秋の色にもなっていませんでした。(新梅田シティの緑の壁) この「緑の壁」は2013年に建造されたものだから、建造後早や8年、それなりに風景に馴染んでいる。<参考>囲碁例会・梅田も秋の色にしあれり 2013.11.6.(同上) この緑の壁を撮影した場所の近くに咲いていたのが、シコンノボタン。(シコンノボタン) 2015年10月14日の記事で、この花の写真を掲載したところ、友人の小万知さんから、「シコンノボタン(紫紺野牡丹)という花です。」とご教示いただき、その名を知ったのでありました。<参考>囲碁例会・見慣れぬ実と花 2015.10.14.(同上) その後、2017年11月1日の記事でも写真を掲載していますから、今回は三度目の登場ということになります。<参考>囲碁例会・もみぢ始む道、紫紺野牡丹 2017.11.1.(同上) この花は標準露出で撮ると、実際よりも少し赤紫がかった色が混じる。 露出を落として撮影する方が、より美しく写る。青い花、青紫の花、赤い花などは露出を下げて撮影した方がいいというのがヤカモチの見解。 まあ、色彩についての好み、感覚は、人それぞれであろうから、ヤカモチ流が誰にとってもいいとは限らないだろう。 ツユクサも青い花であるから、露出を抑えた方がいい花である。 これは、本日撮影の写真ではなく、以前の墓参の折に撮ったものであるが、本記事のカテゴリが「花」であることに便乗しての、ついで掲載であります。(ツユクサ) これは、標準露出での撮影かもしれない。 以下、ついで掲載が続きます。 一昨日の墓参の折に撮影した、イタドリの果実です。 遠目には花かと思ったが、季節から考えても果実だろう。(イタドリ) そして、マメアサガオ これは昨年の12月7日恩智川辺での撮影。現在のその場所ではマメアサガオは花を咲かせていて、まだ種子は見られません。しかし、間もなくのことであり、季節がそれほど齟齬するものでもないだろうという断捨離的掲載であります。 クズが生い茂る中に立ち混じって生えているマメアサガオです。(マメアサガオの実、種子) ヤカモチは、ブログへの写真掲載が済むと、PCのマイピクチャから当該写真を削除し、これをPCその他に保存したりということはしないので、ブログ掲載は、PCファイルからの抹消を意味する。「断捨離的掲載」と言う所以である。(同上) 以上、同窓会総会、友人との昼食、銀輪花散歩、断捨離的花写真の脈絡のない記事でありました。<参考>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.10.03
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一昨日(9月30日)の記事でルリタテハの幼虫の写真を掲載したが、その記事へのコメントで友人の小万知さんが、アケビコノハの写真を撮ったことをお知らせくださいましたので、その写真をメールで送っていただきました。 というのも、アケビコノハの成虫は過去に記事に取り上げているものの、その幼虫は目にしたことがなく、当ブログにも未登場なので、その写真を掲載するのもいいのでは、と思ったからでありました。 で、送られて来た写真がこれです。 元の画像はスマホで撮られたものであるのだろう、もっと縦に細長い写真でありましたが、ヤカモチにて上下を少しカットするトリミングを施したのが下掲の写真です。(アケビコノハの幼虫) 写真では分かりにくいが、大きなドングリ目に見えているのは、やや頭頂部寄りの胴体背面にある模様である。頭部を体の内側に折り曲げて胴体にくっつけるようにしているので、ドングリ目模様があたかも目のようで、折り曲げ丸まった胴体上部全体が大きな丸い頭のようにも見える。 この虫にとっては、このポーズが最も安全な休息スタイルなのかもしれないが、お陰で、我々は「これは何?」と思ってしまう。 天敵に対する警告信号である蛇の目模様は、蝶の翅にもよく見られるが、アケビコノハは幼虫の背中にそれを備えているようです。 アケビの実を突っつきに来る鳥も多いことでしょうから、アケビの葉を食草とするこの虫にとって、生存可能性を高めるためには、この蛇の目模様は必要不可欠なものであるのだろう。 小万知さんは、まるでアニメ漫画のような顔を形成させているこの姿を見て、「可愛い」と表現されているが、まあ同感ですかな(笑)。 しかし、その見立て通りに、このような頭部を持った虫が本当に居たとしたら、奇怪、奇妙、ちょっと気持ち悪い気がしないでもない。 背中の黄色の網目模様の斑点模様も「蛇」のそれを真似ているのだろうと思われる。人の指先ほどの小さな虫にも「五分の魂」ならぬ「二個のドングリまなこ」である。<参考>アケビコノハの過去記事 2017年12月12日 枯れ葉が舞い込んだ 2017年12月25日 アケビコノハのその後 虫ついでに、昨日の墓参の道の辺で撮ったジョロウグモの写真も掲載して置きましょう。 子どもの頃は、コガネグモやジョロウグモの区別が曖昧で、その肢などの模様から、オニヤンマの連想でオニグモと呼んでいたような気もするが、その記憶も曖昧。 大きな網状の巣を張る、コガネグモ、ナガコガネグモ、ジョロウグモは、遠目のチラッと見では似ていて区別がつかないから、結構混同していたのかもしれない。(ジョロウグモ) ジョロウグモだろうと思うが、ナガコガネグモかもしれないという気もするので、自信はない。 蜘蛛と言えば、小学生低学年の頃、多分10歳にもなっていなかったかと思うが、自宅近くの小川で遊んでいて大きな蜘蛛に指を噛みつかれたことがある。 水面を走る茶色の大きな蜘蛛であったので、今更に「水辺の蜘蛛」でネット検索して調べると、どうやらそれはイオウイロハシリグモという蜘蛛であったようである。 小鮒つりしかの川・・ではないが、小川の水たまりになっている場所に入ってフナやドジョウを捕まえようとしていたのかもしれない。 水面を走って来た蜘蛛が人差し指の先にいきなり嚙みついた。強い痛みと大きな蜘蛛が指に噛みついているという想定外の事態にパニック。手を振っても離れない。胴体をもう一方の手で掴み引き離そうとするが、胴体が引きちぎれただけで、噛みついている頭部はそのまま。頭をつまんで食い込んでいる牙というか歯というか、それを丁寧に引き抜いて、ようやく事態収拾でありました。 幸い何らの毒も持っていなかったようで、痛みは噛まれた傷、薄っすらと血が滲んでいたかと思うが、傷跡が見てとれたものの、腫れたり炎症を起こすということはなく、噛まれた痛みがしばらく残っただけでありました。 その小川も現在は暗渠となり、拡張された道路の下を流れているので、そこに川があることに気づかない人も居る。 蜘蛛は喜母と言って、着物に付くといいことがあるとか待ち人がやって来るとかという俗信があったようで、衣通姫も、庭に蜘蛛が巣を張るのを見て、恋しいあのお方が今夜はやって来るのだわ、と歌を詠んでいるように、大事にされた縁起のいい虫であったようだ。ヤカモチも、幼い頃祖母から、家の中の蜘蛛は殺してはいけない、と教えられた記憶がある。 ハエトリグモの小さいのが、畳のへりなどをぴょんぴょんと跳ねている姿などは、何となくユーモラスで可愛いと思うものの、巨大な蜘蛛が現れたりするとちょっと不気味な気になるのは、幼い頃に指を噛まれたということから来る、一種のPTSD(心的外傷後ストレス障害)かもしれない(笑)。
2021.10.02
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今日は、月例の墓参。 今まで気が付かなかったが、我が家の墓の近くのお墓に立派なケイトウの花が咲いていました。(墓地に咲くケイトウの花) ケイトウは鶏頭で、ニワトリのトサカに似ていることからの呼称であり、鶏頭草、鶏冠草などとも表記する。 この花は古来から日本にある花ではあるが、万葉集などでは「韓藍(からあゐ)」と呼ばれているから、韓の国(古代の朝鮮、中国)からやって来た外来の植物である。 万葉の頃は、韓藍という呼称が示すように、舶来の珍重すべきエキゾチックな花であったのだろう。(同上) その墓前に供えてある花にもケイトウの花が混じっていたから、ケイトウはこのお墓に眠る人が生前こよなく愛した花であったのか、それともお墓を守っているお方が好きな花であるというに過ぎないのかなどと想像したり。 まあ、何にしても、墓石よりも草丈が高く、立派に育って、いかにも目立って咲いているのでありました。 万葉の歌でも、恋心を顔に出して目立ってしまうことの比喩としてこの花のことを詠っているものがある。(同上) ケイトウの万葉歌を記して置きましょう。我がやどに 韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(おほ)ほし 枯れぬれど 懲りずてまたも 蒔(ま)かむとそ思(おも)ふ (山部赤人 万葉集巻3-384)(我が家の庭に鶏頭を蒔き育てたけれど枯れてしまった。しかし、懲りずにまた種を蒔こうと思う。)秋さらば 移しもせむと 我が蒔(ま)きし 韓藍(からあゐ)の花を 誰(たれ)か摘みけむ (万葉集巻7-1362)(秋になったら移し染めにもしようと、私が蒔いた鶏頭の花を、誰が摘んでしまったのか。)恋ふる日の 日(け)長くしあれば 我が園の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でにけり (万葉集巻10-2278)(恋しく思う日々が長くあったので、我が家の庭の鶏頭の花のように顔色に出てしまいました。)隠(こも)りには 恋ひて死ぬとも み園生(そのふ)の 韓藍(からあゐ)の花の 色に出(い)でめやも (万葉集巻11-2784)(人知れず恋い死にすることがあっても、お庭に生えている鶏頭の花のように、色に出したりしましょうか。) 前二首は、男性の歌で、韓藍の花を女性に喩えている歌である。 山部赤人さんは、春には女性をスミレに喩えて「一夜寝にける」と詠んだけれど、秋には「鶏頭の花」に喩えて「もう一度恋を仕掛けよう。」と詠んでいる。まさに懲りぬ人である(笑)。 二首目のそれは、恋人を横取りされてしまった男の歌ですな。 後二首は、女性の歌でしょうか。 恋心を顔色に出してしまいました、という歌と、顔色には出しません、という歌であるが、どちらも切ない自身の恋心を相手に訴えかけている歌であるから、歌の意は同じである。 まあ、何れの歌も、墓参に関連付けて取り上げるには、いささか不適切な歌でありました(笑)。 さて、墓参の際の恒例の「門前の言葉」であるが、これは1日の朝ということでもあった所為か、前月の墓参の時の掲示のままでありましたので、撮影はせず、でありました。(今日の墓地からの眺め) 朝のうちは台風の影響もあってか、上の写真のように、雲の多い空。 午後になって雲の切れ間が大きくなり、日差しも。 時折、強い風が北から吹いて、午後の銀輪散歩で恩智川沿いを北方向に走っている時などは、いつもより強くペダルを踏むも、風の抵抗で速度はかなり減殺されました。まあ、これは朝の墓参とは関係のない話。 墓地の一番高い位置にあるシンボルツリーのクスノキ。左半分が枯れ始めていることは、以前の記事で紹介しましたが、更にそれが顕著になって来ている気がします。(今日のクスノキ) 道の辺の民家の庭先にあるナツメの木の実が茶色に色づいているのを撮影しましたが、帰宅してPCに取り込んでみると、ピンボケ。実に焦点が合っていなかったようで、没に。 帰途、そのお宅の前を通ると、奥さんがナツメの枝を高枝ハサミで剪定して居られました。お声がけすると「枝に棘があるので、迷惑になってもいけないので、伸びすぎたのを摘んでいます。」とのこと。そうか、ナツメには棘があったのか、と今頃気づいた次第。 また、もう少し自宅寄りの位置にある大きな池の土手にオキザリスの花が群れ咲いていたので、撮影。(オキザリス・ボーウィ) 学名がOxalis bowiei。 和名は、セイヨウカタバミまたはハナカタバミとのこと。 園芸種が野生化して土手に群生するようになったのでしょう。 在来のムラサキカタバミより花も大きく、色も濃いのでよく目立つ。 カタバミと呼ばずオキザリスなどと呼ぶ点などは、万葉の頃、ケイトウを韓藍と呼んだのと同じ感覚であるのかもしれない。 ジョロウグモの写真も撮りましたが、これは虫カテゴリの記事用に取って置くこととし、当記事には掲載しないこととします。 ジョロウグモは女郎蜘蛛というのが普通であるが、上臈蜘蛛が語源だという説もある。 韓藍も、「み園生の」とあるように、貴族の邸宅の庭である「園・苑」に咲く花であり、庶民の庭や野に咲く花ではない。 従って、それが比喩される女性も韓風に装った官女や貴族の女性であるから、上臈で、上臈蜘蛛と相通じる。よって、この記事にその写真を掲載しても違和感がないのでは、などと考えもしましたが、それはヤカモチ的屁理屈に過ぎず、一般の理解、感覚とは遊離したものであるだろうと、思いとどまったという次第。<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。 墓参関連の過去記事はコチラ。
2021.10.01
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