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東京に所用があって出かけたついでに皇居周りを銀輪散歩して来ました。 銀輪散歩をしたのは3月20日のことですから、四日遅れの旅便りということになります。 東京を自転車で走るのは、2019年4月以来のことであるから、ほぼ4年ぶりということになる。今回のホテルは東京駅八重洲口近くであったので、皇居周辺を一周してみようと思いついた次第。これなら地理感がなくても道に迷うことはあるまい、と考えたことも理由の一つです。 先ず、大手門の前に出て、そこから左回りに一周という計画。(大手門) 大手門は正式には、大手高麗門というようです。(大手門前の案内地図) 大手門から入って二の丸庭園を見て・・という計画でしたが、上の案内図に記載されているように、この日は月曜日で休園日にて、外門が閉ざされたまま。是非も無し。 大手濠に沿って北へと走る。 一つ目の交差点で右に入る。平将門の首塚へと向かう。 随分の昔、まだ現役だった頃、経団連に仕事で出張することがよくありましたが、経団連会館の一つ南にある通りにあるのが将門の首塚。経団連会館へは丸の内北口を出て歩いて行くのであるが、そんな折に一つ手前の道を左折してしまって目にとまったのが将門塚であった。そんなことで、久々に将門公にご挨拶と立ち寄ってみたのだが、随分と広くなり、綺麗に整備されて見違えるほど立派な佇まいになっていました。(平将門首塚)(同上)(同上・説明碑) 説明碑によると、現況のように整備されたのは、2021年とあるからごく最近のことのようです。 将門塚から再び堀端の道に戻り、北へと進むとこんな像がありました。(和気清麻呂像)(同上・副碑) 「國體擁護」なんぞという大時代的な言葉で分かるように、昭和15年に皇紀2600年を記念して建設されたもののようです。(同上) 清麻呂公の頭上にとまったハトが動かない。 鳩麻呂になった気分でいるのかもしれない(笑)。 清麻呂像から西に回り込むと平川門である。(平川門) 勿論、ここもご覧のように「通せんぼ」である。(同上) 平川門から竹橋へと進む途中にクスノキの巨木があり、その足元に何やら石碑がある。(太田道灌公追慕の碑) 何が刻されているのか。殆ど判読できない。(「江戸城築城550年に当たって」の副碑) 隣の副碑によるとこの石碑は太田道灌公追慕の碑で、道灌没後450年を記念して建立されたとのこと。 道灌の没年は1486年。追慕の碑は1936年建立ということになる。(まち・記憶碑 1457年江戸城築城) 門が全て閉ざされているなら、門を通り抜けるコースでは北の丸公園にも入れないことになる。ということで、竹橋を渡って北の丸公園に入るコースを選択する。(北の丸公園・落ち椿) 落ち椿が美しい。(同上・吉田茂像) 吉田茂像にもご挨拶して・・。(同上・コブシと寒緋桜) コブシと寒緋桜の間を抜けて行くと、日本武道館の裏口に出た。 表に回る。(日本武道館) 武道館では第45回全国高等学校柔道選手権大会が開催中でありました。 そういうこともあってか、田安門は開門されていて、そこから高校生らを含む多くの人が出入りされていました。或いは、田安門は常時開かれているのかも。(田安門)(同上・説明碑) ということで、竹橋方面へ戻ることを要せず、ヤカモチも田安門から門外へと出る。(田安門の前から桜を見る) 門を出ると堀端の桜がほぼ満開。 今年は全国で一番早く開花宣言された東京であるが、このところの高気温で更に開花が進み、早くも花見頃になっている。(同上) 田安門から堀端の道に出ると、向かいは靖國神社である。(靖國神社・大鳥居) 大鳥居の右手に慰霊の庭があり、そこにあるのが「さくら陶板」。 靖國神社創立記念事業の一環として全国各都道府県の陶工によって制作・奉納されたものである。 大阪府の陶板だけ撮影。 他の都道府県のそれは、下記<参考>靖國神社境内案内図をクリックしていただき、案内図の「さくら陶板」をクリックしていただくと北海道から沖縄県までの陶板の写真がご覧になれます。(さくら陶板 大阪府) ひときわ目立つのは大村益次郎像。 陸軍創設者にして、靖國神社創建にも尽力したということで、明治26年に建立された像である。(同上・大村益次郎像)<参考>靖國神社境内案内図 奥に見えるのが第二鳥居と神門。 大勢の人でもあり、自転車なので、神門以下は省略。 上記<参考>の境内案内図にて、拝殿その他はご覧ください。 大村益次郎像の左手の石鳥居から境内を出て、千鳥ヶ淵に向かいます。 が、つづきはページを改めることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・関東編
2023.03.24
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本日、トレンクル退院。 昨日、自転車屋さんから電話があり、トレンクルの修理が完了したとのことであったので、今日、引き取りに行って来ました。 9月10日の入院でしたから、9日間の入院でありました。 入院治療費は3万5千円でした。<参考>トレンクル入院 2022.9.11.(退院して来たトレンクル) 故障部位は、ハンドルの折りたたみ部位の台座でありましたが、台座だけの交換というのではなく、ハンドルそのものの取り換えということになりました。台座、連結部ストッパー金具、ハンドルは一つのセットになっているようで、ハンドルの交換という「治療」になったようです。(故障部位) 〇印部が故障部位。ストッパー金具を下げてハンドルを折りたたむと台座が現れます(下掲写真)。ご覧のように新しい台座に交換されています。(台座部分) 写真では、台座側面にひび割れのような黒い筋がありますが、これは左側が少し高くなっている関係でその影が光線の具合で黒い筋のように写り込んだもので、ここにひび割れがある訳ではありません。<参考>自転車関連の過去記事はコチラ。We stand with Ukrainians.
2022.09.19
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本日は雨。 昨日(22日)は好天気にて京都市南部を銀輪散歩して参りました。 コースは以下の通りです。 JR京都駅前発→東寺→京都南大橋→地下鉄竹田駅前→鳥羽天皇陵・鳥羽離宮跡・安楽寿院・近衛天皇陵→北向山不動院→白河天皇陵→城南宮→東高瀬川(高瀬橋)→桓武天皇陵→丹波橋駅前→鴨川(京川橋)→鳥羽大橋(国道1号線を北上)→久世橋通りを左折→新久世橋→JR桂川駅前→阪急洛西口駅前→小畑川→国道9号線→沓掛IC手前右折→大枝神社→桓武天皇母(高野新笠)陵→三宮神社・桓武天皇夫人(藤原旅子)陵→国道9号線→千代原口右折→御霊神社→桂離宮前→桂川(桂橋)→七条通り→梅小路公園前→京都駅前 <注:上の赤字の部分は、本来は鴨川(京川橋)→桂川(久我橋手前) →久世 橋・新久世橋と走る心算でいたのに、桂川と鴨川を勘違いして遡上、途 中で気付きましたが、引き返すのも癪なので、鳥羽大橋まで走り、随分 遠回りの久世橋となりました。> 本日より何回かに分けて、途中の写真など掲載します。 お付き合い下さいませ(笑)。いざ、出発。 先ずは東寺にご挨拶。 と言っても門前を通過しただけのことなのでありますが。(東寺) 油小路に戻って南下、京都南大橋で鴨川を渡る。(鴨川・京都南大橋から)(金太郎さん) 近鉄・地下鉄竹田駅西側300m位の処にある光照寺という小さなお寺の脇で見掛けました。 金太郎さんの西側に北向不動明王と刻された道標があり、その路地を南に進むと左側に鳥羽天皇陵が見えて来る。(道標)(鳥羽天皇陵) 白河、堀河、鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、高倉、安徳という平安末期の天皇の時代は、今まさにNHK大河ドラマ「平清盛」の時代でありますが、その白河・鳥羽・近衛天皇の御陵がこの辺りに近接してある。それは、この地が白河・鳥羽両上皇がかの悪名高き院政を行った場所、鳥羽離宮がこの辺りにあったからであるのですな。(同上)<参考>鳥羽天皇(近衛天皇陵) 鳥羽上皇と藤原得子(美福門院)との間に生まれ、2歳にして天皇に即位したのが近衛天皇。 その遺骨を納めた新御塔は得子が建立したもの。 現在のこの塔は豊臣秀頼により再建されたものとのこと。(同上)<参考>近衛天皇(鳥羽離宮跡)(同上、白河法皇・鳥羽法皇院政之地碑) 安楽寿院は鳥羽離宮の東殿を寺に改めたもので、鳥羽上皇の開基。鳥羽上皇はこの寺の本御塔に葬られ、それが上の写真の鳥羽天皇安楽寿院陵という訳であります。(安楽寿院)(同上) 何やらNHK大河ドラマ協讃の銀輪散歩めいてまいりましたが、ドラマの影響もあってか、ウイークデイにもかかわらず、結構「見て歩き」の人が多く居ました。 この後、北向山不動院、白河天皇陵、城南宮と回りますが、本日はここまでとします。眠くなってまいりました(笑)。(つづく)
2012.03.23
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花園中央公園に荻の群落がありました。 ネットフェンスで囲まれた区域で立ち入ることはできないのだが、ネットフェンスの隙間から、これを覗き見ることができるし、フェンス近くに生えているものにはその穂に触れたりもできる。 このネットフェンスには以前は葛(クズ)が繁茂してその内側が全く見えない状態であったのだが、最近になって、この葛が全て除去されて囲いの内側が見えるようになった結果、内側に群生している荻が見えるようになったという次第。 銀白色の豊かな穂が風に靡く姿が美しい。(荻)(同上) ススキが群生していると思っていたが、よく見ると荻であった。 オギとススキの違いは、茎を1本ずつ立てて、ススキのように株立ちはしない、花穂がススキよりも大きい、などであるが、ノギ(芒)がススキの穂にはあるが、オギにはこれがないということが区別する上で一番手っ取り早い方法である。(注)ノギとは「イネ科の植物の小穂を構成する鱗片(頴)の先端にある棘状の突起のこと。」(Wikipediaより)<参考>ススキとオギの見分け方(同上 穂にはノギが見られない。) 爪と瓜の漢字を混同しないために「爪にツメなし。」と言ったりするが、ススキとオギの区別についても「オギにノギなし。」と言うようです。(同上) 荻は万葉集に登場する万葉植物でもあります。神風(かむかぜ)の 伊勢の浜荻(はまをぎ) 折り伏せて旅宿(たびね)やすらむ 荒き浜辺に (碁檀越(ごのだんをち)の妻 万葉集巻4-500)(畏き風の吹く伊勢の浜の荻を寝床代わりに折り敷いて、旅の宿りとしようか。荒々しい浜辺で。) 南北朝時代の連歌集に「草の名も所によりて変はるなり難波の葦は伊勢の浜荻」(菟玖波集)というのがあり、伊勢の浜荻とは難波で言う葦のことだと言っている。 葦と荻とは名前を異にする同じ草だと言う訳である。 万葉でも、次の東歌では同じ草だと見ていたことが覗える。妹なろが 使ふ川津の ささら荻あしと人言(ひとごと) 語りよらしも (東歌 万葉集巻14-3446)(あの子が使う船着き場の小さな荻葦のことを、悪いと人々は語り合っているらしいよ。) 一方で、「葦辺の荻」と「葦」と「荻」とを別の植物と認識している歌も存在するから、やはり荻は「荻」であって、「葦」の別名という訳ではないのである。葦辺なる 荻の葉さやぎ 秋風の吹き来るなへに 雁鳴き渡る (万葉集巻10-2134)(葦辺の荻の葉が音をたて、秋風が吹いて来るのにつれて、雁が鳴き渡って行くことよ。)(同上)(同上) 姿形はススキに似て、生息場所は葦のそれと似ている。 で、ススキと間違えられたり、葦とごっちゃにされたり、と些か影の薄い植物である。 もう一つ、漢字の「荻」というのも「萩」に似ていて、一瞬「萩」と読み違えたりもする。訓も「オギ」と「ハギ」は似ている。名前からして紛らわしいのもこの植物にとっての不運であったかも知れない(笑)。 銀白色の美しい穂を靡かせても「ススキ」と見てしまわれ、「荻だ!」と主張したら「ナニ、萩?」と見間違えられる、という次第。 我々は生まれた瞬間の第一声が「オギャー」、つまり「オギや」と叫んでいるのに、その後、オギのことは忘れてしまうのである。 まあ、そんなことには少しも気にとめず、今日もあの銀白色の美しい穂を秋風に靡かせて、オギは我々の目を楽しませてくれるのであります。(同上)萩尾花 それこそ秋と 人は言へ 荻の花穂を 秋とや言はむ (荻家持)<参考>万葉関連の過去記事はコチラ。
2018.11.03
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偐万葉・若草篇(その12) 白内障手術の術後の通院検診が明日。 医者からは、この検診が終わるまでは風呂は入ってもいいが、洗うのは首から下のみ、顔や頭は洗ったりお湯をかぶったりしてはいけない、と言われている。 頭髪は毎日洗っているヤカモチ。頭を洗えないのではお風呂に入った気がしない。そして、日に4回の3種類の眼薬の投与。これも面倒。 そんなことで、遠出の銀輪散歩もする気にならない。これでは病院が自宅に変っただけで、こと銀輪に関しては入院状態とさほど変らないのである。 かくして、ブログ更新だけは順調という次第。しかし、銀輪ネタはない。このような時にお助けマンとなるのが「偐万葉シリーズ」である。 と言うことで今日も同シリーズ第197弾・若草篇(その12)と致します。 <参考>過去の偐万葉・若草篇はコチラから 偐家持が小万知に贈りて詠める歌20首 並びに小万知が詠める歌1首ありゃ蟻も うつろひやすき 月草に つきて懲りずの 恋やするらむ (蟻原業平)春雨は 濡れても行けど 秋雨は 銀輪休めと 降るものならむ (月形輪平太) 次なる2首は小万知に贈りたる歌にはあらねど、小万知を詠める 歌にてあれば、此処に記し置くものなり。この秋も 小万知がくれぬ もみぢ葉は 絵に描くからに 匂ふ葉の色 (偐智麻呂) (本歌)初春の 初子(はつね)の今日(けふ)の 玉箒(たまばはき) 手に執るからに ゆらぐ玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493)ウメモドキ カボチャモドキも 持ち来たる 小万知も小町の モドキにあらむ (ヤカモチモドキ)葱食(は)めば 甘きに思はゆ やあやあの きみが笑顔の かなしきろかも (偐智麻呂)マンホールの 蓋にも千羽の 鶴ありて みたび原爆 許すまじとふ (広島家持)若松の 雪ふり置ける 鶴ヶ城 いざうち行きて つばらにぞ見むをのこやは かなしかるべき 年ほどの 豆も食はずに 胡麻数ふとは (山上憶豆) (本歌)士(をのこ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして (山上憶良 万葉集巻6-978)心あてに をらばやをらむ 初雪の おきまどはせる 白梅の花 (中河内躬雪) (本歌)心あてに をらばやをらむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 (凡河内躬恒 古今集277 小倉百人一首29) 小万知が贈り来れる歌1首妹が庭 見まくの欲しと 難波(なには)なる 吾(われ)も待たなむ 疾(と)く帰りませ (注)上の歌は偐家持が木の花桜氏に贈れる次の歌に追和せし歌なり。 妹が庭 見まくの欲しと をちこちの どちも待つらむ 疾(と)く帰りませ 偐家持が重ね追和せる歌神ともに ありて我妹(わぎも)を 守りませ 春の風もや 心して吹け 凡鬼が作れる句に偐家持が付けたる脇句1句 聖夜劇 星役の子は うとうとと (凡鬼) 揺れて光れと 言はれてなくに (偐家持) 偐家持が偐山頭火に贈りて詠める歌10首併せ俳句3句 並びに偐山頭火が詠める歌1首併せ俳句1句 偐山頭火が贈り来れる歌1首並びに偐家持が追和せる歌1首因幡では 川氾濫し 道険し 国庁の跡 万葉の幕 (挫折山頭火)いなば去(い)ね 雨はしぐれぞ 山頭火 うしろ姿の 逃げ行くぞ惜し (因幡守家持) (注)いなば去ね=「因幡去(い)ね」と「去(い)なば去(い)ね」を掛けている。 (元句)うしろすがたのしぐれてゆくか (種田山頭火)スパルタン デュークダローが 酔ひどれの 寝言これにと 今朝届きたる (酔山頭火) (注)スパルタン、デューク、ダローはブルーベリーの木の品種名 西でなく 塔(たう)ある東(たう)だと 山頭(たう)火 「たう」が三つて 偐三たう火 (偐茶化持(にせちゃかもち))老犬は 歯も浮きたれば 魚肉なる ソーセージよし 君にまたよし (偐老頭火) 分け合っても 分け合っても 安い5本 (筆蕪蕉) (元句) 分け入っても 分け入っても 青い山 (種田山頭火) 偐山頭火が返せる句 分け合って 食べ合って 老犬と老人 (偐愛犬家) 対局に 水さすものぞ 碁のさ中 わが携帯に かけ来るは誰(たれ) なにとてか つとに知りたる 名を尋(と)ふや 囲碁にかまける 君とは知れど (偐郎女) (本歌)紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に 逢へる児や誰(たれ) (万葉集巻12-3101) たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路(みち)行く人を 誰と知りてか (万葉集巻12-3102)山頭火 この日ばかりは 山労火 訳言って分け入って 青い山かも (隣の家持) 酔っている間(ま)の楽しさは紋白蝶が舞ふ(偐山頭火モドキ) (元句)酔へなくなつたみじめさはこほろぎがなく(種田山頭火)和三盆 酒の肴に ならねども ブログのネタに 年の暮れゆく (偐山盆火) 北斎に 赤黒あれど 青なくば これぞ青富士 つばらにぞ見よ (負鹿漫才(まけしかまんざい)) (注)つばらに=くわしく 負鹿漫才=葛飾北斎のパロディ 初打ちや 囲碁よくもなき 出だし哉 (注)囲碁=「以後」を掛けている。 よくもなき=「良くもなき」と「欲もなき」とを掛けている。初春や ふくもぶらりの 新世界 なべて人みな まづまづの顔 (注)ふく=「河豚」と「福」を掛けている。 なべて=「並べて」と「鍋で」を掛けている。 まづまづ=旧仮名表記。新仮名表記は「まずまず」。 <参考>偐山頭火氏のブログはコチラ 掲載写真は同ブログからの転載。
2014.02.18
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昨日(11月17日)は、久しぶりに若草読書会の集まりがありました。 前回が7月1日の開催でありましたから、4ヶ月半ぶりの開催ということになります。 講話をしていただくお方を募りましたが、どなたも名乗り出ていただけなかったので、ヤカモチが不承不承これを引き受けることとし、万葉関連のお話をすることとさせていただきました。 この読書会の開催の案内は、以前は凡鬼さんが案内葉書によってご連絡くださっていたのですが、いつからか偐山頭火さんがこれを引き継ぎ、Eメールで連絡するという形に変わりました。その後、これもいつの頃であったか判然としませんが、偐山頭火さんが入院されたか何かがあって、ヤカモチがこれを代行するというようなことがありました。 偐山頭火さんはその後お元気になられたものの、ヤカモチの代行はそのまま継続となり、最近はヤカモチがこれを行うのが当然というような運びとなってしまって、現在に至っているのですが、ズボラのヤカモチ、前回開催の7月1日から2ヶ月以上も経過した9月12日になって、次回開催日の日程調整のメールを発信、9月30日になってようやく11月17日開催と決定したのでありました。 この日、9月30日までに、予想されたことではありましたが、どなたからも講話を引き受けるというお申し出がなく、ヤカモチの講話となったという次第。 今回は、さして日数も余りなく、万葉関連の故地を訪ねて、現地取材をして、話をするというようなことも出来かねるということで、当ブログの過去記事から何か題材のヒントを得ようとしたところ、下掲の記事が目にとまりました。<参考>もみぢの万葉歌 2013.11.25. 続・もみぢの万葉歌 2013.11.26. もみじの万葉歌を万葉集から抜き書きした記事があったのでした。(大阪城公園の銀杏・2010.12.1.記事掲載写真の再掲載) もみじなら季節的にも合致しているから好都合。それにレジメを作るのも、この記事をコピーして貼り付ければいい。残念ながらその記事では、現代語訳を付けていなかったので、これを書き加えるという作業が必要となるものの、さしたる作業ではない。 加えて下掲の過去記事もこれをコピーして参考資料として使うことができると判断しました。<参考>若かへるでのもみつまで 2020.5.7. そんなことで、レジメ作りは簡単に出来てしまいました。(レジメの一部)(同上) かくして、もみじの万葉歌を鑑賞することとし、レジメ掲載の全71首の歌からその場の思い付きで適当な歌10数首ほどについて、思いつく話をすればよかろうと考えた次第。取り上げる歌の数によって話す時間の調節も自在であるから、気が楽というもの。(もみぢ葉流る) この日の参加者は、凡鬼・景郎女ご夫妻、恒郎女さん、めぐの郎女さん、槇麻呂氏、利衣郎女さんとヤカモチの7名。 午後1時開会のところ、定刻20分前には珍しく全員が集合。12時45分から講話を開始。3時頃まで講話。(エノキ) 柿本人麻呂の泣血哀慟歌の短歌2首を始めとして、レジメ記載の71首の万葉歌の中から、適宜に目にとまった歌を取り上げて、解説することとしました。(カエデ) カエデとかへるでのことや紅葉と黄葉のことなど当ブログの過去記事でも何度か触れている事柄や「らむ」と「らし」との語の使い方の違いとか、「見まく欲りせむ」や「散らまく惜しも」などの、形式体言「アク」と結合した、万葉歌によく登場する用語法の説明など思いつくままに解説。 紅葉と黄葉については、既に下掲記事でも触れているのでご参照ください。この日の説明も概ね似たような内容であったかと。<参考>もみぢめでつつ 2019.11.22. なお、上記の「もみぢめでつつ」の記事で作家・五木寛之氏が「黄葉はクォウヨウで・・」と記されているのは、この本です。(五木寛之「百寺巡礼第四巻」・講談社文庫) 講話終了後は、茶菓子などをいただきながら珈琲&雑談タイム。 槇麻呂さんは、ヨーロッパ旅行のツアーでご一緒されご昵懇になられたという岡山総社市ご在住のご夫妻からのお招きで、先般、備中松山城や鬼ノ城など吉備をご旅行されたようで、そのご紹介話もあったりしました。 鬼ノ城などはヤカモチも銀輪散歩で立ち寄ったことがあるので、懐かしいことでありました。<参考>吉備路自転車散歩・鬼ノ城へ 2013.10.31. 吉備路自転車散歩・鬼ノ城 2013.11.1. 最後にはクリームソーダも出てきたりと喫茶「若草」(?)のおもてなしを受け、楽しい座談でありましたが、午後4時を過ぎたので解散することとなりました。 (余談) 帰宅後、加熱式タバコ(最近は普通のタバコと併用している。)を喫わんとするも、スティックが見当たらない。(加熱式タバコ・IQOS ILUMA ONE スマートコアスティック) 最後に使った場面は・・と思い返すと読書会解散時のことであったことを思い出す。 若草ホールの道路を挟んでの向かいにあるポケットパークに置き忘れたに違いないと、恒郎女さんにお電話で、そこに置き忘れがないか見て貰ったところ、そこに「ありました」とのこと。 「明日、受取りに伺いますので」とヤカモチ。 ということで、本日(18日)これを受け取るため、恒郎女邸再訪問でありました。(ポケットパークのベンチ) 忘れ物をしたのは、右側のベンチです。 若草読書会の折に喫煙場所としてヤカモチが利用しているのがこの場所であります。<参考>若草読書会関係の過去記事はコチラ。
2024.11.18
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今日は雨。 桜の咲いている時期の雨を桜雨というそうだが、「花散らしの雨」というのも耳にするので、調べてみると、この言葉は古くからあったものではなく、気象予報士のどなたかが誤用したものが一般に広まったもののようである。 「花散らし」の本来の意味は、「旧暦3月3日に花見をし、その続きで、若い男女が集まってそのまま翌日まで夜通し花見の宴を続けること」というもので、男女の性的な交わりもあることを意味として含んだものであるようです。 万葉集巻9-1759~1760の高橋虫麻呂の歌に詠まれた「かがひ」(歌垣)のようなものを指した言葉であったのだろう。 一方、「花しぐれ(花時雨)」というのは、桜の時期のにわか雨のことを意味するようです。これが三日以上も続く長雨になると「春霖」となるのだろうが、鹿児島県肝属地方では、桜満開の時期の長雨を「桜流し」と言うそうである。 ひょっとすると、誤用した気象予報士さんは、鹿児島は肝属地方ご出身のお方で、この「桜流し」から「花散らし」の意味を誤解して「花散らしの雨」という言葉をお使いになったのかもしれない(笑)。 まあ、本来の意味はさて置き、誤用であるとしても「花を散らす雨」という意味での「花散らしの雨」というのはなかなかよくできた言葉であると思う。一般に広まったのも「むべ」なるかな、である。 とまあ、ここまでが前振り、今日はアケビの花の記事であります。(アケビの花) 桜満開の時期の雨の日に「アケビの花」の写真を記事アップするのであるから、それなりの「前振り」が必要、と考えたものの、桜、雨、からアケビにどうつなぐかが難しい。 で、アケビに似た「ムベ」という補助線を書き足して、ムベからアケビへという苦肉の策となった次第。 もっともだ、その通りだ、納得だ、という意味で「むべなるかな」という言葉を使うが、この「むべ」はムベの実のことだという説がある。 昔、天智天皇が近江八幡(北津田町・むべの郷)に行幸の折、老夫婦に長寿の秘訣をお尋ねになったところ、老夫婦はムベの実を食べているから、と答えた。これを聞いて天皇が「むべなるかな」と言われた。これが「むべなるかな」の語源だというのである。 万葉集に次のような歌がある。闇夜やみならば 宜うべも来まさじ 梅の花 咲ける月夜つくよに 出いでまさじとは (紀女郎 万葉集巻8-1452)(闇夜ならば、なるほどお越しにならないでしょうが、梅の花が咲くこんな月夜においでにならないとはなんということでしょう。) この歌は、紀女郎(名は小鹿<をしか>)が大伴家持に贈った歌であるが、家持さんからの返しの歌がない。 大伴家持の歌では次のものがある。今造る 久邇(くに)の都は 山川の 清(さや)けき見れば うべ知らすらし (大伴家持 万葉集巻6-1037)(新しく造る久邇の都は、山や川の清らかさを見ると、なるほどここを都として君臨されるのだと思われることだ。) また、「うべなふ(諾ふ)」という語もあり、これは手元の国語辞典にも「うべなう」として掲載されている。意味は「もっともだと思って承知する、服従する」とある。 梅や馬を古語では「むめ」「むま」と発音した。「む」と「う」は容易に入れ替わる音であるから、「うべ」と「むべ」は同語である。 万葉集の歌をとり上げるまでもなく、「むべ」なら、小倉百人一首にもこんな歌がある。ふくからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ (文屋康秀 古今集249、小倉百人一首22)(<山おろしの風が>吹くとすぐに草や木がしおれてしまうので、なるほど山の風を「あらし」と呼び、また山と風を合わせた字で「嵐<あらし>」と訓むのであろう。) これらの歌に見える「うべ」「むべ」の語源が「ムベの実」であるのかどうかは存じ上げぬが、前振りの「むべなるかな」から「ムベ」につながれば用が足りるのが当記事。 ムベは、キンポウゲ目アケビ科ムベ属の植物。 アケビの親戚のような存在である。 ムベの花のマイ写真はないので、ウイキペディアに掲載の写真を借用して置きます。(ムベの花)<参考>ムベ・WikipediaStauntonia_hexaphylla_Mube_flower01.jpg (1600×1200) (wikimedia.org) アケビの花が薄紫乃至桃色なのに対して、ムベのそれは白い小さな花である。(アケビの花・これは雄花)<参考>アケビ・Wikipedia アケビは、キンポウゲ目アケビ科アケビ属の植物。 漢字では、木通、通草、山女、丁翁などと書く。 学名は、Akebia quinata。 英名は、Chocolate vine。(同上・これは雌花) このアケビの花は山道で見つけたものではなく、馴染みの喫茶店・ペリカンの家の近くの恩智川畔のもの。 毎年、花の時期になると花は目にしているのであるが、この木については、何故か実を見かけたことがない。秋、実のなる時期に前を通りかかることがあると、注意して見てはいるのであるが、実を見つけたということがないのである。(同上) アケビは「開け実」が語源らしいが、子どもの頃、山道でこれを見かけても採って食べたという記憶がない。或いは一度食べてみたらまずかったということであったのかも知れないが、見た目にも何やら気持ちが悪く、食べず嫌いで今まで来ているというのがヤカモチのアケビの実についての認識である。 昔、高岡市の二上山に登った時、山頂近くの万葉植物園入口前から下る道を麓へと下っていると、何人かの女性(男性も混じっていたかもしれないが記憶がない)たちがアケビの蔓を採取して居られるのに出くわした。声を掛けて話しかけると、どういう流れでそうなったのか記憶しないのであるが、採取したアケビの蔓を一塊下さったことがあった。 コチラは旅行者。いただいたものをホテルに持ち帰って、部屋に置いてみたが、その後それをどうしたか覚えていない。処置に困って捨てたのではないかと思うが、捨てては悪いと家に持ち帰ったかもしれない。まあ、持ち帰ったとしても、その後捨てているだろうから、どちらでも同じようなものであります(笑)。 過去の記録を調べてみると、1999年10月2日のことのようであるから、高岡の万葉まつりに出かけた折のことなんだろうと思う。20年以上も前のことである。(同上・中央が雄花、それを囲んでいる大きい花が雌花) アケビには雄花と雌花があり、雌花は雄花より一回り大きい。 同一株の雄花と雌花では受粉しても受精しないという植物もあるようですから、アケビがそれなら、この木に実がならないということの説明にもなるが、その辺のところは、現時点でのヤカモチには不明である。 今日はアケビの花でした。 アクビをしているのはどなたです?<参考>花関連の過去記事 花(4)・2020.4.~ 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2021.03.28
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(承前) 飛鳥川銀輪散歩二日目は、八木駅前から長谷寺方面へ走るということも考えていたのだが、天気予報で午後から雨となっていたことから、これを取り止め飛鳥川沿いを下流に向かって走ることとする。 先ずは。多神社にご挨拶。(多神社) この神社は、これまでにも何度か立ち寄っているが、2012年4月28日、友人・偐山頭火氏との銀輪散歩の折に訪ねたのがその最初である。<参考>田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その1) 2012.4.29. 三輪山登拝・大神神社から多神社まで 2018.3.27. 多神社というのは通称で、多坐弥志理都比古神社というのが正式名称。(同上・由緒)(同上・説明碑)(同上・鳥居)(同上・拝殿)(同上・手水舎)(古事記献上1300年記念碑)(同上・小社神社) 太安万侶を祭神として祀っているのが、この小社神社の祠である。(同上・多皇子神命神社)(同上・多皇子神命神社説明碑) 太安万侶の墓がこの近くにあった筈とその探索を開始したが、見つけられず諦めることにしました。 それもその筈、下調べもせずにやって来たので、飛鳥川畔と思い込んだのが間違いで、一つ東側を流れている寺川畔にそれはあるのでした。帰宅して過去記事を調べた結果、判明しました。<参考>太安万侶の墓(松の下古墳) 2012.5.1. 参考までに同記事掲載の写真を再掲載して置きます。(太安万侶墓 中央の丸い塚がそれです。撮影者:友人の偐山頭火氏) 12年も前の写真ですから、現在どんな風になっているのか確かめたかったのですが、残念。まあ、元々、多神社を訪ねる予定ではなかったので、下調べなしということで止むを得ません。(二上山遠望) 二上山を遠望して、飛鳥川銀輪散歩再開ですが、ひとまず多駐輪休憩所でタバコ休憩であります。 この休憩所の写真は撮っていませんが、過去記事に掲載していた筈と調べてみると、果たしてありました。現在と少し様子が変わっていますが、再掲載して置きます。(多駐輪休憩所※)※上掲は、2018.3.21.記事「飛鳥から結崎まで(ペリカンの家小旅行番外編)」に掲載の写真の再掲載です。 飛鳥川下流へと走ります。(飛鳥川) カンナが咲いていました。(飛鳥川畔のカンナ)(同上) アキノノゲシは綿帽子、絮となっていました。(飛鳥川畔のアキノノゲシ)(同上) そして、柿がたわわになって・・。 その手前の畑ではホウセンカが咲いていました。(飛鳥川畔の柿) 上掲の柿と鳳仙花は、正確には飛鳥川畔の畑地の柿と鳳仙花であります。(飛鳥川畔のホウセンカ) そして、こちらは間違いなく飛鳥川畔の花と茸であります。(飛鳥川畔のタマスダレ)(飛鳥川畔のカラカサタケ) これは勿論、毒キノコであります。(同上) 遠目には、古墳か何かのように見えた公園らしきものが目に入りましたので、立ち寄ってみました。 やすらぎ公園と、銘板にはありました。(やすらぎ公園) 隣接する建物は田原本町やすらぎ体育館。町立の体育館を建設するに当たり、その隣接地を整備して公園としたのでしょう。 ここで、小休止しているうちに、ポツリ、ポツリと雨の降り出す気配。進むか引き返すか迷ったが、昼食のことやトレンクルを宅配便で送り返すことなどを考慮すると、大和八木駅前に引き返した方が都合よかろうと、銀輪散歩を切り上げて、引き返すこととしました。 ということで、不本意ながらこれにて銀輪散歩切り上げであります。 駅前到着まで本降りになることもなかったのは幸いでした。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.11.11
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4月28日の偐山頭火氏との銀輪散歩の主目的であった、太安万侶の分骨が埋納される松の下古墳(参り塚)を見つけることは出来なかった。しかし、翌日に偐山頭火氏が車で再訪し、それを見つけて下さいました。その写真を送信して下さいましたので、追録としてご紹介申し上げます。 既に同氏のブログで紹介されているのであるが、あちらはヤフーブログ、こちら楽天ブログ、と屁理屈つけて、重複を憚らず、記事アップであります。 その場所は多神社の裏地ではなく、神社から南東900mの処にありました。多神社が所有する田圃の中にある小円丘の塚で、「松の下古墳」とも「参り塚」とも呼ばれ、古来、太安万侶の墓と伝承されて来たものだそうな。 1979年に高円山の裏手、奈良市の田原の里で発見された円墳が、出土墓誌から太安万侶の墓とされ、それが定説となったようにて、墓はそちらに譲らざるを得ないこととなった。しかし、元々この辺りは安万侶の一族、多氏の根拠地であり、この松の下古墳周辺に太安万侶の邸宅があったとの伝承もあることから、この塚も多氏や安万侶に所縁のものであることは間違いなく、古事記撰上1300年の今年を記念し、多神社が遺骨を保管している寺院に分骨を申し出て、この度それが実現することとなったもの。この塚への納骨儀式は安万侶の命日の7月6日にこれを行い、周囲に石垣を廻らし、記念碑を建てる計画であるらしい。 あちらの墓があるのも「田原の里」、こちらの塚も「田原本市」にある。同じ田原である処が、偶然なのか、何か関係があるのか、ちょっと面白い。まあ、田原という地名はあちこちにありますから、それだけのこと、というのが落ち着き先のようですな。 いづれにしろ、安万侶の骨はそのふるさとの地に帰って来るという訳であります。安らけく 眠れとてかや ふるさとの 多にし帰す 安万侶の骨 (偐骨持) 安万侶曰く、「静かに眠るというのも、なかなかに骨が折れることである。」(寺川<左>と米川<右>との合流点) 先般の銀輪散歩では、上の写真の寺川沿いへと走ったのであるが、松の下古墳は、写真に写っている白い二階家の手前の道の右側の田園の中にありました。(松の下古墳) 上の写真では分り難いかも知れませんが、正面の民家の前の田の中に見える小さな円丘がそれです。下の拡大写真でご覧下さい。(同上)(注)写真は全て偐山頭火氏の撮影によるもので、同氏のご了解の下、掲載いたして居 ります。但し、3枚目の写真は小生にてトリミングしたものです。<参考>偐山頭火氏のブログ記事「太安万侶分骨墓探索」 田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩 (1) (2)
2012.05.01
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久々のブログ更新です。 22日に友人の野麻呂氏と法善寺横丁近くの店で忘年会。2軒目の店を出たところで、何やら胃がシクシク痛み、身体が気だるい感じで不快に。もう1軒行こうと言う野麻呂氏の誘いを「体調がよくないので」と断って帰途に。家に着く頃には悪寒も生じて、そのまま寝込む始末。風邪を引いてしまったのでありました。 そんなこともあって久々のブログ更新となった次第。 17日に記事をアップしたきりですから1週間も空白が生じたことになる。 漸く体調も復しましたのでブログに向かうこととしました。 しかし、これと言ってネタもないので、先日舞い込んで来た蛾、アケビコノハのその後の消息をお伝えすることとします。<参考>枯れ葉が舞い込んだ 2017.12.11. 先の記事では、部屋に舞い込んだ蛾、アケビコノハ(以下、単に「アケ麻呂」という。)を庭に打ち捨て、翌朝、そのまま庭に居たアケ麻呂を庭の草叢に放したところまで、でした。 実は翌々日(13日)に、その草叢を探ってみたのですが、見当たらず、何処かへ行ってしまったのだろうと考えたのでした。しかし、そんなに動き回れるほどの元気は無かった筈だから未だ其処に居るのではないかと思い直して、念入りに探してみると、やはり其処に居ました。もう死んでいるのではという予想に反して、「枯れ葉」ならぬ「彼は」まだ生きていました。肢を鈍く動かしている。となると、何やら愛おしい気持ちになり、枯れ葉を集めて来て、それで草叢の彼の居る空間を囲い、冷たい風が吹き込まぬようにしてあげました。 で、10日以上も経過した今日、さすがにもう死んでいるだろうと覗いてみると、何と未だ変わらずに生きている。動きは相変わらず鈍いものであるから、これはひょっとすると冬眠で、この蛾は成虫のまま越冬するのかもしれないなどとも思われたのでありました。 もし、そうなら冬眠中のところ申し訳ないことになるのであるが、再び、部屋に連れ帰り本日の姿を撮らせていただきました。それが以下の写真です。(アケビコノハ)(同上) ティッシュを掴む肢の力もしっかりしているし、身体をしっかり支えて立っている。時に翅を広げる瞬間もあったりで、この分ではまだまだ生きるのではないかと思われます。(同上)(同上) 翅を広げたところを撮りたいが、それは一瞬のことにて、カメラが追い付かない。さりとて無理に広げてというパワハラはしたくないので、つかまっているティッシュを回転させて仰向けにさせて撮ったのが次の写真。 外翅の表面は枯れ葉の擬態であるが、その裏面や内翅は黄色に黒い丸模様のある鮮やかな色彩の、いかにも蛾らしい翅である。 まあ、このような撮影自体がアケ麻呂君に言わせればパワハラでしょうが、泣き寝入りしていただくこととしました(笑)。(同上) 撮影後は、元の草叢へ納めて上げました。雨が直接にかからないよう、当該草叢の空間を覆う小さな屋根を設け、左右をビニールで囲い風よけも設営。もし越冬するのであれば、少しは役に立つのかと思った次第。 しかし、水を舐めて水分を取ることも生命維持には不可欠であろうから、草をつたわって彼の近くまで水分が届くことも必要だろう。それは多分背後の石垣を伝わって流れて来る雨水が草の葉や茎を経由して彼の近くに届く筈。 雨をしのぐ屋根は、ある方がいいのか、無い方がいいのかは、判断に苦しむところであるが、一応、ある方がいいというのがヤカモチの判断。 I have a butterfly in my stomach.と言えば、緊張や不安で胃がしくしく痛む、落ち着かない、あがる、びくびくする、というような意味になるが、 I have a moth in my garden.は、ちょっと楽しい気分、とかになるのでしょうか(笑)。いや、むしろ「変わり者である」という意味になると考えるのが順当ですかね。
2017.12.25
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昼前から雨が降り出しました。 それで、と言う訳でもありませんが、本日は、年賀状や新年会で使えそうな万葉歌を参考までに拾い出してみました。(作者名の付されていないのは作者不詳の歌。歌番号も付して置きました。) これは、今日拾い出したという訳ではなく、何年か前の若草読書会の新年会の資料用に拾い出したものがパソコンのマイ・ドキュメントに残っていたので、それを流用したに過ぎません。 年賀状用の参考にということなら、もう少し早い時期にアップすべきでありましたが、新年会の話題とか乾杯の挨拶の「前振り」なんかには使えるでしょうから、ご参考になれば幸いです(笑)。 新(あらた)しき 年の始(はじめ)の 初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと) (大伴家持4516)新(あらた)しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪の降れるは (葛井諸会(ふぎゐのもろあひ)3925)新(あらた)しき 年のはじめは いや年に 雪踏み平(なら)し 常かくにもが (大伴家持4229)あしひきの 山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて 插頭(かざ)しつらくは 千歳(ちとせ)寿(ほ)ぐとぞ (大伴家持4136)霞立つ 春のはじめを 今日のごと 見むと思へば 楽しとぞ思ふ (大伴池主4300)山の際(ま)に 雪はふりつつ しかすがに この河楊(かはやぎ)は 萌えにけるかも (1848)時は今 春になりぬと み雪降る 遠山のべに 霞たなびく (中臣武良自(なかとみのむらじ)1439)睦月立つ 春の始めに かくしつつ あひし笑みてば ときじけめやも (大伴家持4137)うちなびく 春来たるらし 山のまの 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば (尾張連(おはりのむらじ)1422)梅の花 いまさかりなり 百鳥の 声の恋(こほ)しき 春来(きた)るらし (田氏肥人(でんしのうまひと)834)浅緑 染(し)めかけたりと 見るまでに 春の楊は もえにけるかも (1847)うちなびく 春さり来らし 山の際(ま)の 遠き木末(こぬれ)の 咲き行く見れば (1865)正月(むつき)立ち 春の来らば かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき竟(を)へめ (大弐紀卿(きのまへつきみ)815)山の際(ま)の 雪は消(け)ざるを みなぎらふ 川の楊(やなぎ)は もえにけるかも (1849)昨日(きのふ)こそ 年は極(は)てしか 春霞 春日の山に はや立ちにけり (1843)ふゆ過ぎて はる来(きた)るらし 朝日さす かすがの山に 霞たなびく (1844)巨勢(こせ)山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢(こせ)の春野を (坂門人足(さかとのひとたり)54)川上(かはかみ)の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は (春日老(かすがのおゆ)56)石(いは)走る 垂水(たるみ)の上(うへ)の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも (志貴皇子1418)うち上(のぼ)る 佐保の河原の 青柳は 今は春べと なりにけるかも (坂上郎女1433)(犬養万葉歌碑 2009.5.3.奈良青葉散歩掲載写真の再掲です。)うち霧(きら)し 雪は降りつつ しかすがに 吾家(わぎへ)の苑に うぐひす鳴くも (大伴家持1441)霞立つ 野の上(へ)の方(かた)に 行きしかば うぐひす鳴きつ 春になるらし (丹比乙麻呂(たぢひのおとまろ)1443)ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも (1812)古(いにしへ)の 人の植ゑけむ 杉が枝に かすみたなびく 春は来ぬらし (1814)うちなびく 春立ちぬらし わが門の 柳の末(うれ)に 鶯なきつ (1819)春霞 流るるなへに 青柳の 枝くひ持ちて 鶯鳴くも (1820)冬ごもり 春さり来らし あしひきの 山にも野にも 鶯鳴くも (1824)うちなびく 春さり来れば しかすがに 天雲(あまぐも)霧(きら)ひ 雪はふりつつ (1832)風まじり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり (1836)梅が枝に 鳴きて移ろふ うぐひすの 羽(はね)しろたへに 沫雪(あはゆき)ぞ降る (1840)ももしきの 大宮人の かづらける しだり柳は 見れど飽かぬかも (1852)春がすみ 立つ春日野を 往き返り 吾は相見む いや年のはに (1881)新(あらた)しき 年の始(はじめ)に 思ふどち い群れてをれば 嬉しくもあるか (道祖(ふなど)王4284)
2012.12.28
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本日は栃木県佐野市に来ています。万葉集に詠われている三毳山(みかもやま)などを巡ってみようという銀輪万葉の旅であります。下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の こ楢のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424)<下つ毛野の 三毳山のコナラのように愛らしいあの娘は誰の器を持つのだろうか。> (注)三毳山=JR両毛線の佐野駅と岩舟駅とのほぼ中間、南側に広がる山。県営 公園が広がり、三毳神社里宮境内にはこの歌碑がある。 こ楢=コナラのこと。ナラ(ミズナラ)も含むかも知れない。 ハハソともいう。 なら(万葉集巻12-3048) ははそ(同巻9-1730、巻19-4164、巻20-4408) 古今集でもハハソとして登場。 秋霧は けさはなたちそ さほ山の ははそのもみぢ よそにても見む (古今集266) 高崎で新幹線から両毛線に乗り換え、佐野駅下車。ホテルに荷物を預け、銀輪散歩出発。先ず、佐野駅北側の城山公園に立ち寄る。(佐野城跡)(同上説明板) 万葉の里城山記念館というのが公園内にあるので、立ち寄ってみたのだが、万葉とは関係ないようなので、パス。(万葉の里城山記念館) 県道67号を東へと自転車を走らせていて目についた「耳うどん」に惹かれて、この店で昼食。耳うどん、なるものを初めて食べました。(野村屋本店・耳うどん) 耳うどんを食べた後は「目」をしっかり使って、三毳山へと銀輪を走らせる。浅沼町交差点で右折、県道16号を南下。途中で適当に左折、東方向へと走る。もう三毳山が見えているので、その山影を目指して走るだけ。(鐙塚公園) 途中立ち寄った公園には星田妙見宮を連想させる名の星宮神社があった。栃木県内には星宮神社が散見されるという。 (星宮神社)<参考>星宮神社 星宮神社とは はい、三毳山です。 <参考>三毳山・Wikipedia(三毳山・西側からの眺め) 山麓の公園に立ち寄るが、自転車乗り入れ禁止。(三毳山公園)<参考>みかも山公園(同上・万葉亭) 園内の万葉亭は無料休憩所。ロードトレインが園内を周回していましたが、乗客の姿はなく、寂しそうです。 (同上)(三毳山・北西側、東北自動車道佐野IC付近からの眺め) 山麓をぐるりと北側に回り込んだ北麓にあるのがかたくりの里公園。下調べではそこに万葉歌碑があるとのことであったので、それを目指す。 <参考>万葉自然公園かたくりの里(三毳山北麓のかたくりの里公園・管理センター) センター建物の裏手に万葉歌碑はありました。(かたくりの里公園・万葉歌碑) 歌碑を撮影していると雨がぱらつき出しました。 ザックから雨具を取り出し、上下共に着用、完全防備のスタイルで、今度は三毳山の南麓、反対側にある三毳神社里宮を目指す。そこにもこの歌の歌碑があるからです。 東北自動車道に沿うように走る道を南へと走る。雨は本降りになって来ました。 国道50号に出て東へ。三毳神社里宮は「道の駅みかも」の少し先にある。国道はすぐに栃木市へと入る。道の駅も三毳神社里宮も佐野市ではなく隣の栃木市の市域にあるのでした。三毳山付近には古代には東山道「三鴨の駅家」があったそうだが、今は道の駅である。(三毳神社・里宮)(境内地の万葉歌碑) 帰途は国道ではなく一つ北側の間道を走りましたので、道の駅の敷地の北西隅にこのような可愛い少女の石像があることに気付きました。 台座には本日の万葉歌が刻されていて「こなら娘像」とある。雨中の酔狂な銀輪散歩をねぎらってくれでもするように、ご登場遊ばされました。(道の駅みかもの北西隅にある「こなら娘像」) 三毳山万葉歌碑が三つ登場で、この日の銀輪散歩は切り上げることとしました。 明日は、安蘇の川原の万葉歌碑やその安蘇の川の候補地である秋山川や旗川を訪ね、また、もう一つの万葉歌(赤見山の万葉歌)の「赤見山」の候補地である、東山、赤見町萱場の山を撮影して来ようと思って居ります。では、皆さま、おやすみなさいませ。(つづく)
2015.11.18
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新年向けの万葉歌、というタイトルの記事で、万葉集の歌で、年賀状に記載するのに適当と思われる歌を列記したことがありました。 7年前の記事です。<参考>新年向けの万葉歌 2012.12.28. 間もなく12月。既に、喪中につき云々の葉書が20通届いているが、そろそろ年賀状のことも考える時期にさしかかっているようです。 毎年この時期になると、7年前の上の記事がよく閲覧されるようです。 そんなことで、今日は、古今集から年末・年始向けの歌を書き出してみることにしました。 先ずは、年末向けの歌。あらたまの 年の終りに なるごとに 雪もわが身も ふりまさりつつ (在原元方 古今集巻6-339)<参考>在原元方・Wikipedia雪ふりて 年の暮れぬる 時にこそ つひにもみぢぬ 松も見えけれ (作者不詳 同巻6-340)昨日といひ 今日とくらして あすか河 流れてはやき 月日なりけり (春道列樹 同巻6-341)<参考>春道列樹・Wikipediaゆく年の をしくもある哉 ますかがみ 見る影さへに くれぬとおもへば (紀貫之 同巻6-342)<参考>紀貫之・Wikipedia 次は年始の歌袖ひちて むすびし氷 こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ (在原業平 同巻1-2)<参考>在原業平・Wikipedia春霞 たてるやいづこ み吉野の よしのの山に 雪はふりつつ (作者不詳 同巻1-3)雪の内に 春はきにけり 鶯の こほれるなみだ いまやとく覧 (作者不詳 同巻1-4)梅が枝に きゐるうぐひす 春かけて 鳴けどもいまだ 雪はふりつつ (作者不詳 同巻1-5)春たてば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝に 鶯の鳴く (素性法師 同巻1-6)<参考>素性・Wikipedia霞たち 木の芽も春の 雪ふれば 花なき里も 花ぞちりける (紀貫之 同巻1-9)谷風に とくる氷の ひまごとに 打ちいづる波や 春のはつ花 (源当純 同巻1-12)<参考>源当純・Wikipediaきみがため 春の野にいでて わかなつむ わが衣手に 雪は降りつつ (光孝天皇 同巻1-21)<参考>光孝天皇・Wikipediaかすが野の わかなつみにや 白たへの 袖ふりはへて 人の行くらん (紀貫之 同巻1-22)常磐なる 松のみどりも 春くれば 今ひとしほの 色まさりけり (源宗于 同巻1-24)<参考>源宗于・Wikipedia春くれば 宿にまづさく 梅の花 君が千年の かざしとぞ見る (紀貫之 同巻7-352)冬ながら 春のとなりの 近ければ 中垣よりぞ 花はちりける (清原深養父 同巻19-1021)<参考>清原深養父・Wikipediaあたらしき 年の始に かくしこそ 千年をかねて たのしきを積め (作者不詳 同巻20-1069)<追記訂正:2024年11月22日>上記、源宗于の歌の第二句「松もみどりも」はタイプミスにつき「松のみどりも」に訂正。
2019.11.28
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今日は、月例の墓参。 墓参の道の途中にあるお寺の今日の門前の言葉は、これ。(今日の門前の言葉) めぐりあいのふしぎに てをあわせよう ―坂村真民― 我々は日々色んなものを目にし、色んな出会いをしている訳であるが、多くは、目にしても見ていなかったり、心に深くとめるということをしない。或いは、それを当たり前のこととして、不思議なこと、有難きことという風には感じないで、スルーしているものである。 それは、脳が、潜在意識が、無意識に選別しているからで、目に入るもの、耳に聞こえるもの、触れるもの、そのすべてに反応していては、脳の情報処理能力の関係で、対応が遅くなり、次の適切な行動が素早くとれなくなるということを回避するための省略・割愛という自己防衛機能でもあると言える。しかし、それに流されてばかりいると大切なものを見落としたり、間違った理解をしたり、偏見にとらわれた解釈をしたり、ということが生じることになる。 時には立ち止まって、しっかりと向き合って物事、相手、対象を見る、見つめ直すということが必要。それは視点を変えて「見る」「見つめ直す」ということでもある。 そうすると、当たり前に見えていたものが、不思議なこと、そう誰にでもあることではないのだということに気づいたりもする。すると感謝の心も生まれて来るというものである。 ありがとう、という言葉は、そもそも、ざらにはないこと、有り難きこと、という意味だから、感謝の心は、その「有り難きこと」に気づくことから始まるということなんだろう。 坂村真民の詩や随筆などは読んだことがないので、よくは存じ上げないが、そうは言うものの、これを実践するのはかなり大変なことだ、などと思いつつ、ぐうたらヤカモチは墓への坂道を上る(笑)。 柱も庭も乾いてゐる 今日は好い天気だなどと中原中也の詩の一節を口ずさんだりしながら、坂道を上る。(墓参・西方向の眺め) 墓地からは、西方向の大阪平野の眺めを写真に撮ることが多いが、今日は、東方向、山側の眺めも撮って置こう。 ヤカモチさんは早速に「視点」を変えてもみました(笑)。(墓参・東方向の眺め) 坂村真民の詩にこんなのがある。 二度とない人生だから 一輪の花にも 無限の愛を そそいでゆこう 二度とない人生だから つゆくさのつゆにも めぐりあいの ふしぎを思い 足をとどめて みつめてゆこう (坂村真民「二度とない人生だから」) 墓参を済ませて、道端の花を目にはしたものの、立ち止まることもせず、従って、写真に撮ることもせず、帰宅してしまったヤカモチ。 ならばと、以前の銀輪散歩で撮った花の写真を並べてみましょう。 二度とない人生なのだから。(セイタカアワダチソウ) 最近は、セイタカアワダチソウも周囲の植物と共存して馴染んで居り、ひと頃のような我が物顔の群生は余り見かけない。彼も「めぐりあいのふしぎに、てをあわせる」ということを知ったのかも。 アベリアと共存しています。(同上) ホシアサガオも未だ咲いている。(ホシアサガオ)(同上) 小さな、極小の朝顔である。女性は「小顔」に見えたがるもののようだが、ここまで小さくなくてもいいだろう。 同じ「小顔」タイプの朝顔でマメアサガオというのもある。(マメアサガオ)(同上) こういう小さな花を見ると「ガンバレ」という気にもなる。(同上)(同上) 次は、花ではないが、ウバメガシです。 他の樫よりも葉は小型である。(ウバメガシ) ウバメガシは備長炭の材料として有名であるが、実を沢山付けていました。ウバメガシの実は、褐色に熟すと生で食べられるらしいから、一度試してみるか。(ウバメガシの実) 枝の先端では葉が輪生になるのがウバメガシの特徴。(同上) 未だ青いので食べられません。(同上)(同上) 以上は、10月29日、恩智川沿いの道で目にしたものであります。 それぞれとの「であいのふしぎ」を思い、足をとどめて、てをあわせてゆこう。 墓参から帰り、昼食を済ませてから、午後1時過ぎに中川邸を訪問。 前ページに掲載の追悼記念文集「中川先生と私」33冊を、取り敢えず恒郎女さんにお届けして置きました。 たまたま一番上のお嬢様、今日郎女さんが来て居られたので、持参のショートケーキで珈琲タイムのお喋りを少しばかりして、帰宅でありました。<参考>花関連の過去記事 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011 墓参関連の過去記事はコチラ。
2022.11.05
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先日、恩智川畔でウバメガシの木を見つけたということを書きました。<参考>墓参・めぐりあいのふしぎ 2022.11.5. その時に調べたことですが、ウバメガシの実は熟すると生で食べられるということを知りました。しかし、なっていた実は、その時はどれもみな未だ青いどんぐりで、成熟していませんでした。 ウバメガシは雌雄同株で、花期は4~5月。 花が咲いた年の翌年の秋になってようやく実が熟すのだという。2年もかけて熟すのだそうな。ということは、花が咲くのも隔年置きということであるか。<参考>ウバメガシ・Wikipedia 先日、そのウバメガシの木を見に行くと、実は既に茶色になって成熟している様子。多くが殻から落ちてしまっていると見えて、殻だけが枝に残っているという状態のものが目立ちました。中には殻に実がついたままで、それが弾けているというのもありました。 そういう実を一つ、二つ摘んで、果皮を剥いて、中身を試しに齧ってみました。不味くはないものの、美味しいというものでもない。 焼いたり蒸したりして熱を加えると、状況は変わるのかもしれないが、そこまでの手間を掛けて食べるものでもないだろうと思って、試してはいない(笑)。(ウバメガシの実) 外皮が弾けて大きく割れています。 ひっくり返すとこんな風。(同上) 外皮は簡単に二つに割れ、中の実が取り出せます。(同上) 渋皮のついた実。 渋皮を取り除くと、こんな風です。(同上) ナッツという感じです。 ピーナッツと同じで、これもパカッと二つに割れます。片割れを齧ってみたが、ピーナッツのような美味しさはない。まあ、栗も生だとこんな感じのようにも思うので、こんなものかもとも思ったりも。また、熟し方が不十分ということも考えられるから、一個齧っただけで断言するのは、正しくないとも言えるが、何個も齧ってみたい味ではない。と言うか、苦みも渋みもなく、青臭くもなく、癖もなく、何と言って特段のものがない、言うなれば「味の無い」味であります。<参考>花関連の過去記事 花(5)・2022~ 花(4)・2020.4.~2021 花(3)・2017~2020.3. 花(2)・2012~2016 花(1)・2007~2011
2022.11.24
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今日は囲碁例会の日。午前11時頃にマイCB(クロスバイク)で自宅を出て、梅田スカイビルへと向かう。 大阪城公園到着は午前11時40分頃。(大阪城公園・噴水広場) 公園内のコンビニでサンドイッチとコーヒーを購入し、公園のベンチでランチとする。 ランチの場所としたベンチは噴水広場が望める位置にある。噴水広場の前が公園内を周遊するロードトレインの乗り場となっていて、ベンチからは今まさに走り出そうとするロードトレインが見えました。 ロードトレインは時速10~15km程度か、自転車よりもかなり遅い速度でゆっくりと公園内を周遊します。(ロードトレイン) 今日はいつもより3~40分遅い出発であったので、梅田スカイビル到着は12時半頃と見込まれることから、大阪城公園でランチを済ませることにしたもの。 そんなことで、いつもは小休止する天満橋の先の滝川公園はスルーしましたが、公園向かいの寺の門前の言葉だけは撮影して置きました。(門前の言葉) 梅田スカイビル到着は12時28分。 囲碁会場としている部屋に行くと未だどなたも来られてなくて、ヤカモチの一番乗りでありました。 碁盤、碁笥の設営を済ませて待つこと数分、村〇氏がお見えになったので、同氏とお手合わせ。これは中押しでヤカモチの負け。 対局中に平〇氏が来られ観戦して居られましたが、程なく福麻呂氏が来られたので、隣で福麻呂vs平〇戦の対局が始まる。 そこへ、久しぶりに青◎氏がお見えになったので、負けたヤカモチに替わって青◎氏が村〇氏と対局。 ヤカモチの2局目のお相手は平〇氏。終盤までやや優勢の展開であったが、左辺の戦いで受けミスがあって石が頓死。結局これが敗因となり、ヤカモチの負け。 3局目は福麻呂氏がお相手。これは僅差でヤカモチの勝ちとなり、前回に続き、この日も1勝2敗。調子がイマイチです。 青◎氏は、何か所用があるとかで早くに退席されたので、同氏とは対局できませんでした。 平〇氏と村〇氏との対局中で勝負の結着はついていませんでしたが、福麻呂氏も所用ありとかでお帰りになるのに合わせ、ヤカモチも帰途につくこととしました。(シンフォニーホール) 帰途はシンフォニーホールの前の公園でタバコ休憩をして・・。 なにわ筋から国道2号線に出て・・大阪城公園へ。(大阪城公園の銀杏並木) 大阪城公園では銀杏並木が黄葉し始めています。 この道を直進すると突き当りが噴水広場です。 大阪城公園を通り抜け、中央大通りを東上。 いつもの横枕南公園で、水分補給と煙分補給の小休止後、花園中央公園経由で午後5時過ぎの帰宅でありました。 直行直帰の寄り道なしにて、今日もこれといったエピソードもない囲碁例会銀輪散歩となりました。<参考>囲碁関連の過去記事は下記参照。 囲碁関係(その1) 2008年~2019年6月 囲碁関係(その2) 2019年7月~
2024.11.06
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昨日は銀杏の落ち葉散り敷く道を銀輪散歩し、黄色の世界を堪能致しましたが、「銀杏」で思い浮かぶ短歌と俳句は・・と思い返すも意外に浮かんでは来ない。金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に(与謝野晶子) と鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺 (夏目漱石)位なものでしょうか。(大阪城公園の銀杏) 考えてみれば、銀杏は万葉集には登場しない。古今集や新古今集には登場するのかどうか、調べてはいないので知らないが、古歌とはあまり馴染まないのが「いてふ」のようでありますな。 何でも、銀杏は中国原産で我が国には平安時代から鎌倉時代にかけて入って来たとされているようです。源実朝が殺されたのは鶴岡八幡宮の銀杏の大木の陰に隠れ潜んでいた公暁によってでありますから、鎌倉時代には銀杏の大木が存在する状況であったことになる(笑)。 藤原定家は知っていたが大伴家持は知らなかった。それが銀杏でありますな。万葉で「もみぢ」と言えば「黄葉」と書くのが一般的で「紅葉」と書くのは1首あるのみとのこと。奈良時代に銀杏の木が普通に見られる状況であったら、大伴家持もきっと「銀杏」の歌を詠んだに違いないと思うのですが、残念です(笑)。しぐれたる のちの晴れ間を いざ行かな もみついてふの 葉の照るも見む (偐家持) (本歌) この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)(同上)(同上) 街路樹に最も多く採用されているのが銀杏の木であるらしい。大阪の御堂筋がまさにそれですな。それかあらぬか銀杏は大阪府の木でもあり、大阪大学の木でもある。そして八尾市(大阪府)の木も銀杏だそうな。(同上)(同上)(同上)
2012.12.06
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気が付けばブログ更新、1週間もサボっていました。 ネタが無かった訳ではなく、何となくブログ記事を書く気にならなかったというだけのことでした。 前ページの記事タイトルは「近隣紅葉散歩」でしたが、紅葉の時期を近隣紅葉散歩だけでやり過ごすのもいかがなものか。 さりとて、遠方まで出かけるのも面倒とて、奈良の正暦寺まで銀輪散歩に出かけて参りました。 先日(25日)のことである。近隣散歩よりも少しばかり遠方である近場ということで、言わば「中近隣紅葉散歩」である。 この寺の紅葉を訪ねるのは久々のこと。前回は多分20年以上も前のことにて記憶もあやふやなのだが、紅葉が見事であったことだけは印象深く残っているので、思い立って出かけてみることにしたもの。 朝8時半頃、近鉄奈良駅前。わが愛車の小型折りたたみ自転車・トレンクル君を組み立てて出発。 奈良地裁、奈良県庁を左に、興福寺を右に見て国道369号を東へ。(奈良公園の紅葉) 県庁の前で興福寺の境内へと入り、東金堂、五重塔の裏となる東側通路を南へ。 五重塔の裏で左折して、会津八一の歌碑のある通路を東へ。はるきぬと いまかもろびと ゆきかへり ほとけのにはに はなさくらしも (会津八一)(春がやって来たと、今や多くの人々が往き来する興福寺の庭には、桜の花が咲いていることだろう。) 上の歌では季節が合わないので、ヤカモチが改変して詠むことといたしましょう。あきゆくと いまかをじかの なきとよみ ほとけのにはに つまどひすらし (偐家持)(秋が行ってしまうと、今や牡鹿が、鳴き声を響きわたらせて、興福寺の庭で妻問いをしていることだろう。)<参考>上記会津八一歌碑の写真掲載記事は下記です。 大仏殿から興福寺へ 2019.2.28. 国道169号に出てこれを右折、南へ。 春日大社の一の鳥居の前を過ぎて、荒池の手前、四季亭の南側の脇道に入り、鷺池へと向かう。(鷺池と浮見堂) 浮見堂を眺めつつ、池を半周して県道80号(東大寺南大門から南へと延びている道)に出ると、飛火野の向こうに若草山が見える。(飛火野と若草山) 県道80号を南へ。高畑交差点を過ぎた右側(西側)にあったホテルウェルネス飛鳥路が撤去されて更地になっていました。このホテルは昔、若草読書会の人たちと宿泊したことがある。その頃は飛鳥荘とか何とか別の名前だったような気がするが、思い出せない。 ホテル建物が撤去されてしまったので、その敷地西側の史蹟・頭塔が県道側からでもよく見える。(頭塔 県道80号から撮影) 頭塔は、友人の偐山頭火氏との銀輪散歩で訪ねて居り、下掲<参考>記事に詳しく紹介している。<参考>古事記撰上1300年銀輪散歩・頭塔から田原の里へ 2012.2.28. 県道80号は奈良教育大学の先の東紀寺3丁目交差点で東へと左に折れていて、直進すると県道188号となる。 県道188号となってスグに、白毫寺北側・春日奥山から流れて来る能登川を渡り、奈良護国神社の手前で岩井川を渡る。この能登川・岩井川の両川は下流の岩井橋の手前で合流しているが、以前、その合流地点を撮影してブログ記事に載せたことがある。<参考>奈良銀輪散歩(その1) 2009.5.19. 当分は、この県道188号を道なりに南へ、ひたすら走ります。 円照寺の先、山村町バス停の手前で県道188号は右(西)方向に大きくカーブしますが、ここで県道188号にお別れして直進、東海自然歩道(山の辺の道)に入る。左方向に緩やかにカーブしつつ急坂道を上りきると、下り坂となって、柳茶屋バス停前の分岐に到着である。<参考>円照寺の写真掲載記事は下記です。 北・山の辺の道銀輪散歩・鷺池から竜王池まで 2012.3.26.(柳茶屋 左・正暦寺、右・弘仁寺) 柳茶屋から右に国道187号を行くと、弘仁寺を経て白川ダムへと至るのであるが、2012年3月の銀輪散歩で走っているので、今回は省略。<参考>弘仁寺、白川ダムの写真掲載記事は下記です。 北・山の辺の道銀輪散歩・御霊神社から梅林まで 2012.3.27. 柳茶屋からは、菩提仙川に沿って、坂道を上ります。 菩提山町へとひたすら上り道。 昔もやはり、今回と同じくこのトレンクルで走って来たのだが、当時はヤカモチも現役で会社勤めのある身、休日しか銀輪散歩はできないから、その日はきっと土曜日か日曜日または祝日であったのだと思う。加えて紅葉の盛りということもあってか、車が大渋滞。正暦寺のずっと手前まで数珠つなぎに車が並んでいたのを覚えている。 その横をスイスイと自転車で上って行く。駐車場の係のおじさんが、軽やかに上って来たヤカモチを見て「それは電動の自転車か」と声を掛けて来られた。その頃は「電動自転車」という言葉で呼んでいたかどうか定かではないので、そのように話されたかどうかは不明であるが、意味はそのようなことであった。多分、電動自転車が出回り始めた頃で、それはかなり珍しいものであったのだろうと思う。 調べてみると、1993年ヤマハ発動機が発売した電動ハイブリッド自転車・ヤマハPASが、世界初の電動アシスト自転車とのこと。 「いえ、違いますよ。軽い自転車なのでそこそこの坂道は軽々と上れてしまいます。」とヤカモチ。 そういう会話を記憶しているので、正暦寺への坂道はさしたることもないと思っていたのだが、今回の再挑戦では、息が上がって、途中で一休みする始末。脚力も肺の機能もかなり落ちていることを今更ながらに再認識した次第。前回は息がハアーハアーというようなことはなかった筈だが、今回は違っていました(笑)。行く坂は 昔のままに あるなれど 老いたか息切れ 銀輪われは (老家持)(左菩提山道の道標) そして、泣き笑い地蔵が出迎えてくれて、正暦寺の標石の前へ。(泣き笑い地蔵)(大本山正暦寺の標石) しかし、正暦寺はまだ少し先。もう少し上らなくてはなりません。 まあ、今回は紅葉が目当てでやって来たのだから、この先は、その紅葉を眺めながら「ゆるりと参ろう」であります。(正暦寺境内図)(正暦寺の紅葉) 紅葉の盛りは少し過ぎてしまっている感、無きにしも非ずでありましたが、日に照るもみぢ葉、日を透かし見るもみぢ葉は素晴らしく、まだ十分に楽しめるのでありました。(同上) 第2駐車場脇にトレンクルを駐輪して、福寿院エリアへと向かう。(同上 右は菩提仙川) 日本清酒発祥の地、という石碑がある。 正暦寺は、正暦3年(992年)、一条天皇の勅命を受け、九条兼家の息子・兼俊僧正によって創建された寺。 平家による焼き討ちなど何度も兵火に見舞われ一時は廃墟となるほどであったが、そのつど復興、室町時代には最盛期を迎え、日本清酒の原形となる菩提酛造りが確立したのもこの頃のことだという。 福寿院では、説明ナレーションを聞くともなく聞いていて、藤原兼家の息子によって創建された云々が耳に入り、「かねいえ」を「ためいえ」と聞き違え、「藤原為家なら藤原定家の息子だから、定家の孫が創建したのか」と一瞬思ったのでありました。しかし、何だか変だと思い、パンフレットを見ると、九条兼家と書いてあることに気づき納得(笑)。 鎌倉時代の公家の定家。その孫の創建では時代がそもそも合わない。(日本清酒発祥之地碑)(正暦寺の紅葉) 福寿院で、拝観受付。 山門前の石段下に人麻呂の歌碑。(人麻呂歌碑)秋山の もみぢをしげみ 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも (柿本人麻呂 万葉集巻2-208) この歌は、人麻呂が妻を亡くして、泣血哀慟して作った長歌2首のうちの第一泣血哀慟歌に付された、反歌2首のうちの1首である。 悲しい紅葉の歌よりも、ここは楽しい紅葉の歌がよかろうと、ヤカモチはまたも改変して詠むのでありました(笑)。妹と来し 秋山もみぢ 照る道は 磐根山坂 すがしとそ見ゆ (偐家持)(正暦寺・福寿院山門)(正暦寺の紅葉) 正暦寺は、境内での撮影は禁止とある。 堂内での撮影禁止はよくあるが、境内全域での禁止というのは珍しい。 しかし、周辺の紅葉を撮ることまでは禁止していないのだろうと撮影しましたが、これも禁止なのだろうか。 福寿院エリアを出て、本堂エリアへと向かう。(同上 本堂エリアへの道)(同上)(同上) 本堂エリアでも拝観受付。拝観券の半券をもぎ取って貰って入場。 正面の石段を回避してスロープの道を行く。(同上・本堂への石段)(同上・スロープの道)(同上・瑠璃光台の高みから) 正暦寺の本尊は薬師如来、守護神が牛頭天王と清瀧権現。 本堂裏の山頂には、その牛頭天王を祀っているようだが、一般人が足を踏み入れることは禁止されているのであろう。瑠璃光台の高みから上はフェンスでふさがれていて入れない。本堂の左手から上り、裏側の瑠璃光台(展望台)の高みをめぐって本堂右手に下りる。 パワースポット龍神平という表示に誘われて、矢印の方向に進むと、またも見事な紅葉の景色である。 下から仰ぎ見た銀杏の大木の裏側を通って龍神平へ。(同上・龍神平への道)(同上) 銀杏の大木の下に落葉が黄色く降り積もり、日が差すとそこが黄色に輝く感じで、こちらの方がパワースポットらしいように見える。 この森を抜けて、少し低地になった広場に出る。龍神平である。 25万坪の境内が一望できる展望台、とパンフレットに書かれているが、ヤカモチの印象では、そんな「一望感」はなく、ただの広場。余りパワースポットという感じはしなかったのであるが、これは人それぞれの感じ方の問題であるから、何とも言えない。(同上・龍神平の紅葉と柿) 上は、龍神平の西端に並んでいた紅葉と柿。いいコンビである。 駐輪している場所に戻る。 そこには、茶店があり、お土産も売っている。 柿巻きを土産に買い込む。何とかザックに詰め込むことができたが、背中がその分重くなった。 帰途につくこととする。 帰途は、爽快な下り坂。一気に駆け下ります。 同じコースを帰るのは芸のないこと。 柳茶屋、精華学院前から県道187号を西に走り、国道169号を北上するコースを行くこととしましたが、ひとまず記事はここまでとします。 続きはページをあらためて。(つづく)
2021.11.27
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今日も雨。 甲子園の球児たちも雨に泣かされているようです。 銀輪家持も蟄居を余儀なくされての雨障(あまつつみ)にて、脚力が衰えて行くに任せるのほかなしであります。 先日(13日)の墓参は雨間を利用してのものでしたが、この「雨間」というのは、雨と雨との間、雨の合間という意味。 万葉の頃から使われている言葉であるが、万葉の頃は「雨の降っている間」という意味で、現在のような意味で使われるのは平安時代以降ということらしい。卯の花の 過ぎば惜しみか ほととぎす 雨間(あまま)も置かず こゆ鳴き渡る (大伴家持 万葉集巻8-1491)(卯の花が散ってしまうのを惜しんでか、ホトトギスは雨の降る間も休みなくこちらあたりから鳴き渡ってゆく。)ひさかたの 雨間(あまま)も置かず 雲隠(くもがく)り 鳴きそ行くなる 早稲田(わさだ)雁(かり)がね (大伴家持 万葉集巻8-1566)(<ひさかたの>雨の降っている間も休みなく、雲に隠れて鳴いて行く声がする、早稲田の雁が。)雨間(あまま)明けて 国見もせむを 故郷(ふるさと)の 花橘は 散りにけむかも (万葉集巻10-1971)(雨が止んで国見もしたいのに、故郷の橘の花は散ってしまったことだろうか。)十月(かみなづき) 雨間(あまま)も置かず 降りにせば いづれの里の 宿か借らまし (万葉集巻12-3214)(十月の雨が止む時もなく降り続くとしたら、どのあたりの家に雨宿りをしたらいいのだろうか。) 雨間の訓は「あまま」とか「あまあい(あまあひ)」であるが、「あまあい」の方は「雨の合間」という平安時代以降の意味になってからの訓であろう。 以下は閑人家持の「イマジン」ヒマ論であるが、ヒマ(暇・隙)というのは「合間・あひま」の「あ」が脱落して「ひま」となったものなんだろう。 物事と物事との時間的な間が「暇」で、空間的な間が「隙」である。 ヒマとは仕事(なすべきこと)と仕事の間の何もすることのない時間、何をしてもよい時間だとすると、閑人家持のように、そもそも仕事・なすべきことが何とてもない365日連休の人間にとっては「合間」としての時間という意味でのヒマとはちょっと意味が違って来るから、別の言葉で表現する方がいいように思うが、そんな奴のために新語を考えるほど世間はヒマではないから、ヒマでよかろうと言うことなんだろう。 ヒマがマ(間)に由来するとして、日本人は「間」というものを大切にする民族である。 あやまち(過ち)、あやまり(誤り)を「間違い」とも言い、「間」を間違うと「間抜け」と馬鹿にされることでも、それが分かるというもの。 「間」とは、人と人との距離感或いは物事と人との距離感のようなものと言っていいだろうか。 この距離感に応じて、言葉表現も使い分けなければならない。 丁寧語、尊敬語、謙譲語などと複雑な敬語表現のある日本語の由縁もここにあるのだろう。 伝達すべき内容の正しさもさることながら、この距離感に相応した言葉表現がそれ以上に大切にされるのである。 そして、もう一つは「和」。 聖徳太子が「和を以て貴しとなす」と言って以来、日本を大和(大いなる和)と表現して以来、「和す」ことを第一と考えて来た日本人。 それは、「行間を読む」とか「言外を知る」とか、相手の意を先んじて汲み取り、それに相応しい行動をとる「忖度」という美風ともなった。 しかし、一方では、それは、近時の官僚の「忖度」によって、忖度の意味も堕落したものとなったように、また「空気を読めない奴」という蔑視的表現が成立する同調圧力の強い社会という負の側面を持つことでもあった。 まあ、何であれ、この「間」というのは、何とも微妙で曖昧なもので、論理性とか正確性とかとは対極のもの。 「和」も同様にて、「間」によって保たれているに過ぎない「和」というものは危ういものである。 雨間の話から脱線して、だんだんと「間」の抜けた方向に話が進んでいるようですから、雨間に戻ることにします。 外の雨脚がひと際強くなりました。 昨日、鳴いていたツクツクボウシも、さすがにこの雨では鳴かず、泣いていることでしょう。 雨間も置かず鳴いているというホトトギスはもちろん、カラスもハトもスズメも皆、どこかで雨宿り。 雨間を縫っての13日の墓参の折に見かけた蛾の夫婦は今頃はどうしているものやら。(ノメイガの一種 ホシオビホソノメイガかも知れない。) 墓参の折に、木の葉が散ったのかと足元を見たら、小さな蛾の夫婦でありました。 ツトガ科ノメイガ亜科に属する蛾も色々ですが、これはそのうちの一種、ホシオビホソノメイガだろうと思われます。 今日は、雨間のお話でした。
2021.08.17
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友人・岬麻呂氏からの旅便りです。前回の北東北の紅葉の旅に続き、今回は宮城県、福島県、山形県の紅葉を巡る南東北一人旅であります。<参考> 過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。 フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。(旅・岬巡り報告334・南東北の紅葉)※画像をクリックすると大きいサイズのフォト蔵写真が別窓で開きますので、それでお読みください。(同上・添付写真1)(同上・添付写真2)(同上・添付写真3)(同上・添付写真4) 上掲の添付写真については、いくつかのその他写真も含めて、別途Eメールでそれぞれの写真を送っていただいて居りますので、以下、旅程に従いこれらをご紹介させていただきます。11月12日関西空港→仙台空港・レンタカー→秋保温泉(泊) 関西空港を午後遅めの便で発たれたのでしょうか、宿泊のホテルに直行されたのみと見え、この日の写真はありません。11月13日岳温泉→(あだたら高原)→裏磐梯五色沼→猪苗代町・土津神社→会津若松市滝沢浄水場→会津松平氏庭園(御薬園)→鶴ヶ城→東山温泉(泊) この日は、先ず福島県は二本松市、安達太良山の麓に広がる温泉郷「岳温泉」へと向かいます。(岳温泉・鏡池)<参考>岳温泉・Wikipedia 鏡池というと、東大寺大仏殿前の鏡池や大伴家持伝説が伝えられる新潟県は松之山温泉の鏡ヶ池などが思い浮かぶヤカモチであるが、各地に色んな鏡池があるのでしょうね。(裏磐梯五色沼・毘沙門沼) そして、裏磐梯は五色沼の紅葉であります。 毘沙門沼のもみじ綺麗ですね。雁がねの 声聞くなへに 裏磐梯 五色の沼は かくぞもみてる (偐家持)<雁の鳴き声を聞いたのに合わせて、裏磐梯の五色沼はこんなにも紅葉したよ。>(本歌)雁がねの 来鳴きしなへに 韓衣からころも 立田の山は もみち始そめたり(万葉集巻10-2194) <雁が来て鳴いたのと時を同じくして、(韓衣)竜田の山は黄葉したよ。> 先日の若草読書会でヤカモチは「もみぢの万葉歌」と題して講話したばかりであり、その中でも触れたことであるが、万葉人は雁の鳴く声が木の葉を色づかせると考えていたようです。(同上・柳沼1)(同上・柳沼2)<追記注:2024年11月23日> 2024年11月21日フォト蔵スタッフからのメールにより、この柳沼2の写真が「フォト蔵ピックアップ写真」の一つに選定されたということを知りました。 その旨を岬麻呂氏にメールでご報告すると、この沼は柳沼のすぐ近くにある小さな沼で、母沼という名前の沼だという、同氏からの返信メールがありました。 写真のキャプションを変更することも考えましたが、これは行わないこととし、この<追記注>の説明で済ませることとします。 フォト蔵写真の方の写真説明欄にもその旨の説明を記載するにとどめ、写真タイトルの変更は行っていません。 裏磐梯から猪苗代町へ。 土津神社に立ち寄ります。(土津神社)<参考>土津神社・Wikipedia 土津神社の参道脇の紅葉でしょうか。 こういう紅葉には、この歌が似合いかも(笑)。我背子(わがせこ)が 白たへ衣(ころも) 往き触(ふ)れば 染(にほ)ひぬべくも もみつ山かも (万葉集巻10-2192)<我が夫の白い着物が通って触れたら、染まってしまうばかりに色づいている山であることだ。> 磐梯山遠望。 もみじの赤っぽい画像が続いたので、この写真は何やらホッとする清涼感がありますな(笑)。 (磐梯山) 少し青っぽい画像で気分を一新したところで、再び紅葉であります。 会津若松市内に入り、国指定名勝会津松平氏庭園(御薬園)の紅葉を見て来ようであります。(御薬園)<参考>国指定名勝会津松平氏庭園・御薬園 此処の紅葉も見頃です。 池の水面に映る紅葉もいい風情。 大伴家持の歌で、水に映った藤の花影が水底にあるかのように見えることを詠んだ歌は、「藤波(ふぢなみ)の影なす海(うみ)の底清(きよ)み沈(しづ)く石をも玉とそ我(あ)が見る(万葉集巻19-4199)」であるが、水面に映ったもみぢ葉の影もこれに劣らないだろうと思われるから、前三句を「もみち葉の影なす池の底清み・・」と言い換えてもよいのではないか。(同上) なお、会津松平氏庭園に先立ち、滝沢浄水場を訪ねて居られますが、これはこの4月の「桜旅」の際に、車が脱輪するというアクシデントに遭遇、この折に手助け下さったお方が、此処の職員のお方であったということで、あらためて感謝の意を伝えるために立ち寄られたとのこと。まあ、こういう気遣いも岬麻呂氏のお人柄というものですな。 そして、鶴ヶ城へ。(鶴ヶ城・麟閣<茶室>)<参考>茶室麟閣・鶴ヶ城・一般財団法人会津若松観光ビューロー この日の宿は、東山温泉。 夕食には、例によって「地酒・栄川を楽しむ。」とあります。11月14日塔のへつり→大内宿→喜多方市・新宮熊野神社→米沢市・上杉神社→蔵王温泉(泊) この日は、塔のへつり、大内宿、喜多方の新宮熊野神社、米沢の上杉神社を巡って蔵王温泉に宿泊であります。(塔のへつり)<参考>塔のへつり・Wikipedia 「へつり」はさて置き、紅葉旅にしあれば、その駐車場の紅葉美しく、これで十分に目的達成であります。「へつり」へ行くまでもない(笑)。(同上・駐車場) そして、大内宿。(大内宿) 大内宿から北上に転じ、喜多方市の新宮熊野神社へ。(新宮熊野神社・長床) 山形県に入り、米沢の上杉神社です。(上杉神社) それにしても長い参道ですな。 1306歳の超々高齢者にして腰痛持ちヤカモチ、腰に応えそうな参道であります。 「はよ、切り上げて蔵王へ行こ。」と呟くヤカモチであります(笑)。 しかし、蔵王は紅葉が終わっていて、ロープウェイで紅葉を楽しもうという目論見は当て外れと相成りました。11月15日山形城址→天童公園→立石寺・芭蕉記念館→仙台空港→関西空港 旅の最終日は、山形城址、天童公園、山寺・立石寺(芭蕉記念館)などを訪問されました。(山形城址)(天童公園)(山寺・立石寺遠望) 仙台空港に立ち戻り、午後の便で帰阪。 紅葉堪能の全596kmのドライブ旅でありました。 素晴らしい紅葉の写真、ありがとうございました。
2024.11.20
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本日は近鉄奈良駅から御魂鎮まる田原の里への銀輪散歩である。田原の里は奈良市街からは高円山を回り込んだ処にある。茶畑の中に志貴皇子の御陵(田原西陵)と光仁天皇陵(田原東陵)や太安万侶の墓などがあるが、訪れる人も殆どなく静かな山里である。小生お気に入りの地のひとつで、これまでにも何回か訪れているが、自転車では、坂、坂、坂だから、相当に厳しいコースである。その分、下りの爽快さもあるということではあるのだが。何度行ってもぐにゃぐにゃした田園の道を走って(歩いて)いると方向を間違ってしまうのでもある。が、それもまた楽しいという、心和む快適な道なのである。(岩井川ダム) 途中にある岩井川ダムの周回道は未だ立ち入り禁止なのかも知れなかったが、通行止めの柵が通路脇に倒されていて、通路が開放されていたのでグルリと一周走ってみた。 <参考>岩井川ダム(田原西陵) 田原西陵は志貴皇子の墓である。志貴皇子は天智天皇の子であるが、万葉集に優れた歌を残している。志貴皇子の子の白壁王が称徳女帝の後を継いで天皇(光仁天皇)になったことから、その子の桓武天皇の時に、春日宮天皇という名を贈られている。 <参考>志貴皇子(御陵入口の万葉歌碑) (参道にて見かけた草花)石( いは)ばしる 垂水( たるみ)の上の さ蕨( わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも (巻8ー1418) 上記写真の歌碑では「~たるみがをかの・・・もえいづるころに~」となっているが、やっぱりこの歌は上のようでなくてはならないのだ。 さ蕨ならぬ、線香花火のようなちょっと珍しい花をご陵の参道で見つけたが、なんという花であるのだろう。(写真右)(十輪寺) 田原西陵から東陵へ向かう途中に十輪寺というお寺があった。立ち寄ってみると、夏支度の大掃除の最中らしく、お寺の方が拭き掃除など忙しそうに立ち働いておられました。本堂の前のベンチにカーペットが干されている。写真を撮ろうとすると、お寺の方が忙しい中、カーペットを片づけて下さいました。お邪魔をしてはいけないと、早々に退散いたしましたが、嬉しいお心遣いでありました。 <参考>十輪寺(田原東陵) 田原東陵は光仁天皇陵である。光仁天皇は称徳天皇で天武系の血筋が絶え、天智系の天皇が復活した最初の天皇であり、志貴皇子の子である。次の天皇となる桓武天皇の父親でもある。自分に皇位が回って来るなどとは思いもせず、大安寺で酒を喰らってくすぶっていた白壁王に皇位のチャンスが巡って来たというのも歴史の悪戯、運命という奴ですな。 <参考>光仁天皇(田原の里の道) 田原西陵から少し奈良側に戻った処、ヘリポート前の脇道にある犬養万葉歌碑に挨拶をしてから帰途につくことに。(犬養万葉歌碑)むささびは 木末( こぬれ)求むと あしひきの 山の猟夫( さつを)に あひにけるかも (巻3-267)<むささびは梢を求めようとして、山の猟師に捕えられてしまったことだ。> 帰途、春日病院の売店に立ち寄り、水分補給のため、お茶を購入。ついでに、アイスクリームを買って、バス停のベンチで食べていると、道路の反対側のバス停ベンチでは青年が自転車の後輪を外してパンクの修理中であった。車がひっきりなく走るので、声はかけなかったが心の中でエールを送って、小生はなら町へと。さあ、帰ろう。(元興寺極楽坊) <参考>元興寺極楽坊(なら町の町家)(狂言大蔵流宗家屋敷跡)(猿沢池)
2009.05.20
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ヤカモチの自転車散歩の定番は花園中央公園が起点、終点となるのが常である。今朝の朝の自転車散歩でも立ち寄って来た。そこでこの公園を少し写真で紹介しておく。ヤカモチお気に入りの一角からの眺め近鉄花園ラグビー場(高校ラガーマンの憧れの場所。毎年、年末からお正月にかけて全国高校ラグビーフットボール大会が開催されるのはご承知の通り。)多目的競技場その一角に歴代の優勝校のネームプレートが埋め込まれた小さな広場がある。ラグビーの森である。東大阪市民美術センタードリーム21(プラネタリウムがあるが、ヤカモチは入ったことがない。)遊水池公園(1)(奥の山が生駒山である。この広場の奥に恩智川が流れていて、大雨などで川が増水した時は水門を開き、増水した川水をこの広場に一時的に貯水し、下流への影響を調節するのである。)遊水池公園(2)(奥の建物が花園ラグビー場。手前の囲みはドッグラン。愛犬を鎖から放して遊ばせることができる。しかし、心ない人がこの場所以外でも、大型犬を放して遊ばせていることがままあるのは、いただけない。)
2008.05.01
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蜘蛛が嫌いという人は多い。 そういうお方は写真はパスして下さいませ。 銀輪散歩の途中の何処かで身体に付いたものか。 昼食の店の中で右腕を何やらが這う感じ。見ると小振りの蜘蛛であった。掌に這わせてタオルの上に移動させて、撮影したのが下の写真。(蜘蛛) ジョロウグモ・Wikipedia これは多分女郎蜘蛛かと。成虫はもっと大きく体の虎模様も鮮明であるから、これは亜成体、まだ成虫になり切っていない若い女郎蜘蛛なんだろう。まあ、蜘蛛のことはよくは存じ上げませんので、別の種類の蜘蛛である可能性も否定できません。 何れにしても、動き回るので撮影は困難。ピントの甘い写真になってしまいました。(同上) 万葉集には1首だけ蜘蛛が登場する歌があるが、これも蜘蛛そのものではなく、蜘蛛の巣である。風まじり 雨降る夜(よ)の 雨まじり 雪降る夜(よ)は 術(すべ)もなく (中略)伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母(ちちはは)は 枕の方に妻子(めこ)どもは 足(あと)の方に 囲(かく)みゐて 憂へ吟(さまよ)ひ かまどには火気(けぶり)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯炊(いひかし)くことも忘れて(後略) (山上憶良「貧窮問答歌」 万葉集巻5-892) さて、蜘蛛に関するエピソードが日本書紀允恭天皇8年2月の条に出てくる。八年の春二月に、藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の消息(あるかたち)を察(み)たまふ。是夕(こよひ)、衣通郎姫、天皇を恋(しの)びたてまつりて独居(ひとりはべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして、歌(うたよみ)して曰はく、我が夫子(せこ)が 来べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕(こよひ)著(しる)しも(歌意)私の夫の訪れそうな夕である。笹の根元の蜘蛛の巣をかける様子が、今、はっきり見える。 この歌は少し形を変えて古今集にも登場している。 衣通姫の、独り居て、帝を恋ひ奉りてわが背子が 来べきよひ也 さゝがにの 蜘蛛の振舞ひ かねてしるしも (古今集巻14-1110)(歌意) わたくしのいとしい夫がきっといらっしゃる夕暮だわ。蜘蛛の動作が前もってはっきりそれを示していますもの。 蜘蛛が巣を張る動きをすると、恋しい人の訪問がある、という俗信があったよう。古代中国でも蜘蛛が衣につくと親客の来訪があると信じられていて、蜘蛛のことを「喜母」とも呼んだそうな。 従って、体に付いた蜘蛛は邪険にしてはならないのである。 ということで、写真撮影の後は手に乗せて庭の植え込みの方に遷坐賜ることと致しました。 さて、ヤカモチには如何なる親客の訪問がありますのやら(笑)。 蜘蛛に噛まれた人は少ないと思うがヤカモチは子供の頃、自宅近くの小川に入って、魚かザリガニかを獲っていた時に大きな蜘蛛に突然右手人差し指を噛まれるということがありました。強烈な痛みと大きな蜘蛛が指に喰らいついているという状況に相当慌てふためいたものか、蜘蛛を掴んで引き剥がそうとしたら、頭部分だけが指に喰いついたまま残ってしまうということがありました。 蜘蛛にまつわるこのような話も歌も知らない子供の頃のことでありますが、仮に喜母のこと知っていたとしても噛みつかれたら「わが背子が来べき宵なり」なんぞとは言っていられない。引きちぎるしかないでしょう。 どうも不粋な話になってしまいました。 本日の記事は、昨年11月5日の記事へふぁみり~キャンパーさんが下さったコメントに対しての返事コメントで書いた内容を少し膨らませたものであります。当該コメントを読まれた方には先刻ご承知ということになりますが、悪しからず、です(笑)。
2013.08.28
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本日は銀輪散歩。八尾第一万葉植物公園の万葉歌碑をご紹介することとします。 この季節ですから花もなし。うらぶれた様ですが、歌碑に刻まれた歌でその花の姿などを想像して戴くことと致しましょう。(八尾第一万葉植物公園・大阪府八尾市恩智中町5丁目)この苑も 冬は寂しさ まさりける 人目も花も かれぬと思へば (偐家持)(本歌)山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬとおもへば (源宗于 古今集315 小倉百人一首28) 1.さなかづら<サネカズラ>あしひきの 山さな葛(かづら) もみつまで 妹に逢はずや わが恋ひ居らむ (万葉集巻10-2296)2.はねず<ニワウメ>山吹の ひほへる妹が はねず色の 赤裳のすがた 夢(いめ)に見えつつ (万葉集巻11-2786) 3.さきくさ<ミツマタ>春されば まず三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも) (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1895)4.たまばはき<コウヤボウキ>始春(はつはる)の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に執(と)るからに ゆらく玉の緒 (大伴家持 万葉集巻20-4493) 5.もみち<モミジ>もみちする 時になるらし 月人の 桂の枝の 色づく見れば (万葉集巻10-2202)6.あし<アシ>葦辺ゆく 鴨の羽交(はがひ)に 霜ふりて 寒き夕は 大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64) 7.あじさゐ<アジサイ>あぢさゐの 八重咲くごとく やつ世にを いませ吾背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448)8.まつ<マツ>磐白の 浜松が枝を 引き結び まさきくあらば またかへり見む (有間皇子 万葉集巻2-141) 9.うめ<ウメ>春されば 先ず咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)10.ゆづるは<ユズルハ>いにしへに 恋ふる鳥かも ゆづる葉の 御井の上より 鳴き渡り行く (弓削皇子 万葉集巻2-111) 11.ふぢ<フジ>藤波の 花は盛りに なりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を 思ほすや君 (大伴四綱 万葉集巻3-330)12.ヒサキ<アカメガシワ>ぬばたまの 夜の更けぬれば 久木生(お)ふる 清き川原に 千鳥しば鳴く (山部赤人 万葉集巻6-925) 13.ねぶ<ネムノキ>昼は咲き 夜は恋ひ宿(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎 万葉集巻8-1461)14.あふち<センダン>珠に貫く あふちを家に 植ゑたらば 山ほととぎす 離(か)れず来むかも (大伴書持 万葉集巻17-3910) 15.しきみ<シキミ>奥山の しきみが花の 名のごとや しくしく君に 恋ひわたりなむ (大原今城 万葉集巻20-4476)16.さかき<サカキ>ひさかたの 天の原より 生(あ)れ来たる 神の命 奥山の 賢木(さかき)の枝に白香(しらか)つけ 木綿(ゆふ)とりつけて 斎瓮(いはひべ)を 斎ひほりすゑ 竹玉(たかだま)を 繁(しじ)に貫(ぬ)き垂れ鹿猪(しし)じもの 膝折り伏し 手弱女の おすひ取り懸け かくだにもわれは祈(こ)ひなむ 君に逢はぬかも (坂上郎女 万葉集巻3-379) 文字数オーバーで1回には入り切りませんでした。 残りは次回とします。 (つづく)
2014.01.11
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<昨日の続きです。>和歌の浦、片男波公園に紀伊万葉に関する展示をしている「万葉館」がある。覗いてみることにした。 万葉館の先に「万葉の小道」と名づけられた散歩道があり、万葉歌碑がいくつか並んでいる。しばし万葉の世界をお散歩下さいませ。衣手の 真若の浦の 真砂子地(まなごつち) 間なく時なし わが恋ふらくは (巻12-3168)玉津島 よく見ていませ あをによし 平城(なら)なる人の 待ち問はばいかに (巻7-1215)玉津島 見るが善(よ)けくも 吾は無し 京(みやこ)に行きて 恋ひまく思(も)へば (巻7-1217)名草山 言にしありけり わが恋の 千重の一重も 慰めなくに (巻7-1213)若の浦に 袖さへぬれて 忘れ貝 拾(ひり)へど 妹は忘らえなくに (巻12-3175)若の浦に 白波立ちて 沖つ風 寒き暮(ゆふべ)は 大和し思ほゆ (巻7-1219) 万葉館の庭から東方を見やると、正面に名草山が見える。(名草山) 万葉館の写真、撮り忘れていました。館内の展示の人形「斑鳩の春」が唯一の写真なので、載せて置きます。紀伊万葉と関係ないようにも思いますが(笑)。(「斑鳩の春」) 和歌の浦と言えば山部赤人のこの歌であるが、この歌碑や不老橋、玉津島神社など和歌の浦の写真を撮り忘れたのは迂闊でした。 いずれまた、偐山頭火氏と訪ねることとなるでしょうから、その折のお楽しみにして置きます(笑)。若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る (山部赤人 巻6-919)<付録>(片男波海水浴場)(紀州東照宮)(和歌山城)
2009.03.18
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書斎に枯れ葉が舞い込んで来た。 と言っても、枯れ葉みたいな蛾、アケビコノハである。 虫の姿も殆ど見かけなくなった、この寒い夜に、何処から入り込んだのか、バタバタと部屋の電灯の周りを、比較的大型の蛾と思しき虫が飛び回ったのでありました。フェイスタオルを手にして、その飛び回る闖入者をはたき落としてみた。 (アケビコノハ)<参考>アケビコノハ・Wikipedia 木の葉そっくりの蛾。 少しピントが甘かったようなのが残念であるが、この見事な擬態を楽しんでいただきましょう。 撮影後は、ティッシュでそっと覆い、極力、翅を傷めないように注意を払いながら、包み込むようにして、これを捕獲。ベランダから外の闇へ、ティッシュを開いて、打ち捨ててやりました。もうそんなに長くはない命なんだろうが、我が家の庭の片隅でか、隣家の庭へと移動してかは知らねども、生きられるだけ生きよ、という次第。 本日は、ブログ記事を書く心算もなかったのであるが、妙な木の葉が舞い込んで来たので、急遽、記事アップすることとしました。<追記> 今朝(12/12)庭に降り立つと、昨夜の蛾が居ました。2階のベランダから投げ捨てた位置の直下の地面にじっとしています。 もう一度撮影させていただく。 真横からも。 正面からも。人相、いや「蛾相」や如何に。 掌に乗せてみると、肢を微かに動かしている。 寒いから身体を動かせないのであろう。 「凍て蝶」ならぬ「凍て蛾」である。 石の上に寝かせて撮影してみる。 顔の部分をアップで。 石の上では寒かろうと、柔らかな草の茂みの中へ入れて上げましたが、ほぼ冬眠状態にて、肢を微かに動かすだけ。既にして枯れ葉になっているこの蛾であるが、命尽きる時が近づいているようです。
2017.12.11
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さざなみ。 漢字では、漣、細波、小波などと書く。 ささら波、さざれ波というのが古い形で、これが「さざ波」に変化したのだろうか。いや、そうではなくて、そもそも「ささ」は、「ささいな」という言葉があるように、「とても小さなこと」、「ほんのわずかなこと」、「とるに足りないこと」などを意味するから、「ささ」と「波」がくっついて「さざ波」というだけのことなんでしょう。 「ささら」や「さざれ」は、「ささ」に、親愛の気持ちを込めてものを呼ぶ場合に付ける接尾語「ら」や「ろ」などがくっついたもの、「ささ」の派生語と見るべきなんでしょう。 意味は、 1.水面に一面にできるこまかい波 2.小さな心のゆれや争いごと 3.琵琶湖南西部沿岸の古地名 とあるが、ここでは勿論、1.の意味の「さざ波」のことである。(さざなみ) 波というのは、或る場所で起こった変動が、次々に他の場所に伝わる現象のことである。波を伝えるものを媒質というから、上のそれは水を媒質とした波ということになるが、もう少し正確に述べると以下のようになるか。 水を媒質として、毎秒1m以上5m以下の弱い風(1m以下だと波は生じない)によって起こされた表面の変動(乱れ)を、元の状態にもどろうとする力・表面張力によって引き起こされる水の表面の動き・運動のこと。このように表面張力が主たる復元力となって生じるものを表面張力波と言うのに対して、重力が主たる復元力となって生じるものを重力波と言うらしいが、この辺まで来ると段々理解が怪しくなって来る。こういうのを、寄る「年波」と言う。 要は、さざ波は風のエネルギーが水の運動エネルギーに変換される過程で生じる現象である。「要は」とか「つまるところは」とか言い出すと、それは曖昧な理解を曖昧なままに他の表現に置き換えて「理解した」気になるという「年波現象」であるから、要注意なのである(笑)。(同上) 波を見て、それはどのようなメカニズムで起きているのかなどと考えていては、歌や詩は生まれない。それはそれとして在るがままに受け止め、それに対して自分は何を感じるのか、何を思うのか、何を連想するのか、などという、言わば「あらぬ方向」に向かうことが、詩歌の方向、文学的方向ということになるが、偐万葉は所詮言葉遊び、年波や人波や流行の波や秋波などの派生語や片男波とかさざなみの大津などという万葉関連の言葉へと思いが向かうのである。 更に、波のつく国名には、ペルシア(波斯)、ポーランド(波蘭)がある。ペルシアの「波斯」はひっくり返すと「斯波」。室町時代の守護大名・斯波義将の「斯波」であるなどとあらぬ方向へ脱線するのも偐万葉の得意技である。しかし、あらぬ方向もここまで来ると、支離滅裂である。 偐万葉であるから、無難なところで、上記3.の意味である「さざなみの大津」に向かうことといたしましょう。 万葉歌人、高市黒人が「近江の旧き都を感傷して作れる歌」として、次のような歌がある。古(いにしへ)の人に我あれや楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)を見れば悲しき (高市黒人 巻1-32)(私はいにしえの人なんだろうか。さざなみの古い都の跡を見ると悲しい。)楽浪(ささなみ)の国つ御神(みかみ)のうらさびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも(同 巻1-33) (さざなみの土地の神様の威勢が衰えて、すっかり荒れてしまった都を見ると悲しい。)(高市黒人歌碑 2017.1.27.記事掲載写真の再掲)<参考>百穴古墳群から近江神宮・弘文天皇陵へ 2012.1.27. また、「玉だすき 畝火の山の 橿原の・・」で始まる、巻1-29の柿本人麻呂の「近江荒都歌」にも「・・石走る 淡海の国の さざなみの 大津の宮に・・」というのがあるが、上述の通り、「さざなみ」というのは、琵琶湖南西部沿岸の地の古名である。 現在も、瀬田の唐橋東詰から近江八幡にかけての、琵琶湖東岸の道、滋賀県道559号線近江八幡大津線の愛称として「さざなみ街道」が使われている。自転車専用道も並走していて、銀輪散歩には最適な道の一つでもある。(近江荒都歌・歌碑 2013.1.7.記事掲載写真の再掲)<参考>大津歌碑散歩(その1) 2013.1.7. 上記の人麻呂の長歌は、上の歌碑かその写真掲載の参考記事でお読みいただくとして、その反歌2首を下に記して置きます。楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎(からさき)幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ(柿本人麻呂 巻1-30)(ささなみの志賀の唐崎は、今も無事で変りはないが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている。)楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも (同 巻1-31)(さざなみの志賀の入江は今はこのように淀んでしまっているが、昔の人にまた逢えるのだろうか。) 「さざなみの大津」については、上述の通り「さざなみ」は地名だとして、さざなみの地の大津だとする解釈がある一方、「さざなみの」は大津にかかる枕詞だとする解釈もある。 枕詞としての「さざなみの」は、大津、志賀、比良、近江などにかかるほか、波には文(あや)があるから「あやし」に、また、波は寄るから「寄る」「夜」にもかかる、とまあ、これも言葉遊びの類ではある。 言葉というものを情報伝達の手段とのみみなすならば、結論を先ず述べてその理由や背景事情は結論の後に述べた方が相手には明確に意味・意思が伝わるから、枕詞などというものはそもそも不必要である。 落語でも「枕」があるように、いきなり本題に入るのは「不粋」というのが日本の文化。手紙でも、時候の挨拶などというのがあるのと同様である。用件を伝達するということであるならば、前置きの文章などは、もって回った言い方になるので、実用的とは言えない。まあ、そもそも肯定文なのか否定文なのかは、最後まで聞いて「である。」か「ではない。」かでやっと分かるのが日本語。本来的に持って回った言い方になるのが日本語の特徴で、そのような言い回しが好まれるのは、我々の文化は、互いに相手の気持ちを察し合うことをよしとし、あからさまな言い方は野暮とする文化、ちょっと前までよく耳にした悪名高き「忖度」という言葉を敢えて使うなら「忖度文化」ということになるのでしょう。枕詞はそのような文化の産物でもあるか。 枕詞も本来は、その地の神様を褒め、敬意を示すための呪術的な言葉であったのでしょうが、そのような宗教的な意義が希薄となり、文学的装飾となったものと言える。このような枕詞というものがある文化というのは、言葉は「飾り」、意は「言外に在り」ということで、言葉の「曖昧性」「多義性」を「そこはかとなき」雰囲気として楽しむという文化と言えるのかもしれない。 法律用語や学術用語は、曖昧性・多義性があっては困る場合が多いので、一定の定義がなされた上で使用されることになる。Aさんの定義とBさんの定義が異なっていれば、同じ言葉を使ってもAさんとBさんとでそれが有する意味合いは違ったものとなり、異なった理解が生じることとなるからである。言葉は共通の定義の下で使われなくてはならない。 我々の日常に於いては、言葉の定義のすり合わせなどはせず、会話なり議論をすることになるが、時としてこのような相互の言葉の持つ意味の幅や使い方に対する感覚のずれから誤解や反感が生まれたりもする。ネットなどよくは知らない者の間でのやりとりは、冗談が冗談でなくなったりもして「さざなみ」が立ったり、「さざなみ」では済まない「波風」が立ったりもするので、要注意ではあります。 或は、意図してこのような言葉の持つ曖昧性・情緒性を奇貨として不特定多数に対し政治的な利用目的をもってする言動を煽動と言う。その最も卑しむべき形態がヘイトスピーチという奴。そして、その煽動に乗ることを盲動・盲従とも言います。 言葉遊びであった筈の話が、何やら「不粋」な方に向かっているようなので、ここまでとします。こういうのを「風向きを読む」とも言います。 さざ波の写真で無理矢理なしたるこじつけブログ記事でありました。ささなみの写真二枚はよかれども ブログの記事にわれなしかねつ(偐家持)ささなみのあやしき記事に淀みつつ 昔の記事の歌碑など出しつ(偐家持)でありました。 言葉遊びついでに、先日作った戯れ歌も掲載して置きましょう。 或る女流歌人の歌に「しらかみに」という言葉が使われていて、これを形容動詞か何かと理解した妻が、どういう意味かと尋ねて来た。 しらかみに、なんぞという形容動詞は知らぬから、「?」であったが、その歌を見ると何のことはない、「白紙に」を「しらかみに」と言っているとしか思えなかったので「白紙に」だろうと回答した次第。白紙回答であったという訳であります(笑)。 そこで、即興に作った歌がこれ。しらかみはいかな意味かと白紙(しらかみ)に もの書くごと問ふ白髪(しらかみ)の妻 (白神家持) 実際は染めていますので、白髪ではありませんが、この際、しらかみになって貰ったという次第(笑)。 「黒髪の妻」とか「茶髪なる妻」とした方が、戯れ歌としてはより面白かったのかもしれませんが、この辺は感覚の問題ですな。
2018.11.23
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友人との電話の会話で、 「最近はブログもこれといったネタが無くて・・」と話したら、 「小石でも撮って記事にしたら」と言われ、 「そんなことをしたら、いよいよ話題に窮して血迷ったかと思われる」と言ったものの、小石一つを記事に仕立てることができれば、かなりの文才というものだと思った次第。 そのような文才もこれなくあれば、と過去に撮影してブログに取り上げていない写真は、とPCのアルバムを探すと、京都・下鴨神社の境内摂社である河合神社の境内にある、鴨長明の方丈庵を復元したという建物の写真が目にとまった。 鴨川べりを銀輪散歩した折に下鴨神社に立ち寄った際に撮影したもののようで、下鴨神社の写真などと並んでファイルされている。 で、今日は、鴨長明と方丈記に関連した記事でも書いてみることとします。 下鴨神社は、正式には賀茂御祖神社という。<参考>賀茂御祖神社・Wikipedia(下鴨神社・南口鳥居)(同上・舞殿)(同上・由緒) 摂社である出雲井於神社の写真もある。(同上・摂社出雲井於神社)(同上・摂社出雲井於神社本殿)(同上・出雲井於神社由緒) こんな写真もありました。(同上・反り橋) これは、みたらし川に架かる橋で、神様がお渡りになるものにて、しめ縄が張られている。(賀茂建角身命と玉依媛命か?) 茶店の前に据えられていたかと記憶するが、下鴨神社のご祭神を表現しているのかも。 ところで、下鴨神社の公式サイトにあるイラストマップによると、みたらし川の下流部分が「奈良の小川」となっている。 百人一首で有名な歌、風そよぐならの小川の夕ぐれは みそぎぞ夏のしるしなりける(藤原家隆 新勅撰集192) の「ならの小川」であるが、この歌碑は上賀茂神社の方にあった筈、と調べてみると、果たしてその通り。当ブログ記事にも掲載している。<参考>風そよぐ谷町筋をわが行けば 2017.9.23. 従って、上の家隆の歌でいう「ならの小川」は上賀茂神社の境内を流れる小川であるが、下鴨神社のイラストマップにも「奈良の小川」があるということは、神主が禊をする川のことを、この両神社では「奈良の小川」と呼んでいるのかもしれない。 で、そのイラストマップによると、「奈良の小川」が南口鳥居の南側で参道の下を東から西へと潜り、潜った先で向きを変えて、参道と並行して南へと流れる部分が「瀬見の小川」と表示されている。 この「瀬見の小川」は、鴨長明に些か関係してくるのである。 彼は下記のような歌を詠んでいる。石川や せみのをがはの 清ければ 月も流を たづねてぞすむ (新古今集巻19-1894) 前振りが長過ぎましたが、ようやく鴨長明さんの登場です。 この歌は賀茂社の歌合でつくったもの。 歌合とは、対する二人が詠んだ歌の優劣を判者が勝ち負けを判定するというものであるが、この時の判者・源師光が「石川やせみの小川などは聞いたことも無い川で、あるのかどうかも疑わしい」として、長明のこの歌を「負け」と判定する。 ところが、この判定は公平を欠いた判定であるという噂が立ち、あらためて判をやり直すこととなる。 新しい判者・顕昭法師が、石川やせみの小川は私も聞いたことがない、本人にあたってみようと、判定を留保して鴨長明から説明を受ける。すると、長明は「是はかも河の異名なり。当社の縁起に侍る。」と告げる。 これを聞いて、顕昭は驚き、保留にしてよかったと胸を撫でおろしつつ、「歌の様がよいので、これは私の知らぬ名所旧跡が別にあったりもするのかなどとも思い、その場所を確認してから、判定しようと考えました。」などと言い訳して、体面をつくろい、「勝ち」の判定に覆したのだそうな。(追記注:末尾参照) 長明のこの歌から、瀬見の小川(月までが瀬を見に来る小川)を詠む歌人が多く現れることになったとのことで、この歌によって長明さんも「本歌取り」される歌人と相成り候という次第。 さて、その長明さんの閑居したという、冒頭で述べた「方丈」です。(河合神社・神門) この神門を入って、右手にそれはある。(同上・鴨長明が住んだ方丈の庵の復元) この河合神社も鴨長明とは因縁がある。 鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜・鴨長継の次男として、久寿2年(1155年)に、京都で生まれている。 二条天皇の中宮・高松院(姝子内親王)の愛護を受け、応保元年(1161年)に従五位下に叙されている。 しかし、承安2年(1172年)頃に、父・長継が没し、後ろ盾を失う。 安元元年(1175年)長継の後を継いで下鴨神社の禰宜となっていた鴨祐季が、延暦寺との間に生じた土地をめぐる争いに関連して失脚し、その後任をめぐって鴨長明と鴨祐兼とが争うが、長明が敗北し、祐兼が禰宜となる。 長明の曾祖父と祐兼の曾祖父は兄弟であったが、祐兼は他家から鴨家へ養子に入った人物であったようで、本流の血筋である長明は、祐兼にとっては何となく煙たい存在、長明にとっても祐兼は外様、お互いに性格も合わなかったのか仲が悪かったようである。 元久元年(1204年)河合神社の禰宜の職に欠員が生じ、長明はこれへの就任を希望し、後鳥羽院からの推挙の内意も得ていたところ、祐兼が強くこれに反対し、自分の息子の祐頼を禰宜にしてしまう。 これで、神職としての出世の道が閉ざされたと考えた長明は、近江国甲賀郡の大岡寺で出家し、東山、大原、日野に隠遁、閑居生活を送ることとなる。 彼が出家したという大岡寺は以前銀輪散歩した折に立ち寄っているが、大岡寺での出家説は些か怪しいようではある。<参考>大池寺銀輪散歩 2018.7.24. 出家後は「蓮胤」と名乗ったそうだが、この名で彼を呼ぶ人は先ずいないだろう。 方丈記は、「于時、建暦ふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の菴にして、これをしるす。(時に建暦2年<1212年>、3月晦の頃、僧侶である拙者、蓮胤、外山の草庵に於いて、これを記す。)」という文章で終わっているから、長明58歳(数え年)の作である。 因みに、没年は建保4年閏6月10日(1216年7月26日)であるから、方丈記を書き上げた4年後、享年62歳で亡くなっていることになる。 堀田善衛の著作に「方丈記私記」というのがある。1971年7月初版第1刷発行とあるから、50年近くも前の本である。 小生が持っている本は初版第8刷で1972年11月発行であるから、その頃に読んだのだろうと思う。 今回の記事を書くに際して、パラパラと拾い読みしたが、面白い本なので興味ある方は読んでみて下さい。(堀田善衛著「方丈記私記」筑摩書房)(同上・目次)(同上・第一頁) 何年か前の古い写真と、何十年か前のもっと古い本とのコラボによる、記事アップでありました。<参考>鴨長明・Wikipedia 最後に、鴨川べりの銀輪散歩道の写真と新古今集にある鴨長明の歌を掲載して、記事の締め括りといたします。(鴨川、正面の森が、糺の森、下鴨神社)鴨長明の歌(新古今集より)秋風の いたりいたらぬ 袖はあらじ ただわれからの 露の夕暮 (巻4-366)ながむれば ちぢにもの思ふ 月にまた わが身ひとつの 嶺の松かぜ (巻4-397)枕とて いづれの草に 契るらむ 行くをかぎりの 野べの夕暮 (巻10-964)袖にしも 月かかれとは 契り置かず 涙は知るや うつの山ごえ (巻10-983)ながめても あはれと思へ おほかたの 空だにかなし 秋の夕暮 (巻14-1318)よもすがら ひとりみ山の まきの葉に くもるもすめる 有明の月 (巻16-1521)見ればまづ いとど涙ぞ もろかづら いかに契りて かけ離れけむ (巻18ー1776)石川や せみの小河の 清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ (巻19-1894)(追記注)堀田善衛著「方丈記私記」には、これに続く話として、「今度は賀茂社の禰宜祐兼が怒り出した」として以下のように記されている。「祐兼は怒って言った、『石川の、せみの小川のなどということは、立派な歌人のそろった晴れの歌会、国王大臣などの、教養深い人たちの前でこそ詠めばいいのだ。われわれのような素人連中の前であんなことを言い出して、ひっかけるとは無念なことだ。一杯食わされた。』と。無理もない、と思われる。まして『当社の縁起』にあたることばを、当社の禰宜が知らなかったとなれば、祐兼の沽券にもかかわり、誇りも傷つく。腹が立ったであろう。」
2020.02.16
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ノゲシとノボロギクは、両者を並べてみると、その違いは一目瞭然なのであるが、草花というものはそう都合よく並んでは咲いていない。 多くは、別々の場所で、時を異にしてこれらの植物を目撃することになる。そして、植物にたいして特別な関心を持っている人は別として、我々は花や葉の形がどうとか、その付き方がどうとか、細部を見るのではなく、全体としての姿・形を漠と眺め、漠とした印象でこれを認識するというのが普通である。 ということで、ノゲシとノボロギクを同一の植物と見誤るということも起こりうることとなる。先般、ブロ友のふろう閑人氏がノゲシをノボロギクだと間違ってブログに掲載されるということがありました。かく言うヤカモチも、同じような間違いをしていました。過去のブログ記事の中でノボロギクをノゲシと間違って掲載していたのでした。それは2011年4月21日の古い記事であったのですが、今回のふろう閑人氏の間違い記事に関連して、自身のノゲシの記事をチェックしていたら、この記事に出くわし、間違いに気がついたという次第。(注) そもそも、ふろう閑人氏の誤解は当ブログの下記記事に関連して生じたもののようなので、ヤカモチとしても少し気になっていたのでありました。<参考>ぼろは着てても こころの錦 2020.4.8) 小生もブログを始めた頃は、草花などの知識も貧困で、名の知らぬ草花は勿論のこと、名前を間違って覚えている草花なども多くありで、ブログに花写真を掲載しては失敗が頻出で、今もそれは続いているのですが、花に詳しい友人からご指摘・ご教示をいただいたり、自身でもネット検索などで調べたりするうちに、すこしずつ名前を知る花の数も増えて来て、昔に比べればかなりその点は改善されつつあります。しかし、それ以上に知らぬ草花や近縁種などの似た植物が次々と立ち現れて来るので、相変わらずの感は拭えないというのが正直なところであります。 それはさて置き、先日、銀輪散歩で恩智川べりを走っていたら、そのノゲシとノボロギクが並んで咲いているのに出くわしました。 これは両者の違いを説明するのに丁度良い取り合わせではないかと、自転車を停止し、ただちにカメラを向けた次第。それが下掲の画像であります。 両者の違いが、イマイチよくはわからないと仰っていた、ふろう閑人氏もこの画像をご覧になったなら、容易にその区別がお出来になるのではないかと思うのですが(笑)。(ノゲシとノボロギク) 左側の大きい方がノゲシで右側の小さいのがノボロギクです。 両者は大きさも違いますが、葉の付き方や形も全然違います。 この写真ではノゲシの花はまだ蕾状態のようですが、開花するとノゲシはタンポポによく似た花を咲かせます。これに対して、ノボロギクの方は上の写真の状態で成熟した花ということになり、この形のままで推移します。普通一般の花のように開花するということがありません。(注) キク科の花は多数の花が集まって一つの花のように見えている。これを頭状花序という。花序とは枝上の花の配列状態を区分するための言葉である。一定の配列状態にある花の集団を花序という。個々の花の配列形態や咲く順序などによって色々な花序に分類される。頭状花序というのはその一つである。 頭状花序を形成している個々の花のことを小花という。小花には筒状花(管状花ともいう)と舌状花とがある。タンポポなどは舌状花の集団であるが、筒状花のみの集団やヒマワリなどのように周辺部が舌状花、中心部が筒状花という構造のものもある。 筒状花は花弁らしきものが筒状で短いため目立たない。舌状花はその文字通り、1枚の花弁が舌状に大きく発達するので1枚の花ビラというように見える。<追記/参考>タンポポの舌状花を、先ほどの銀輪散歩で撮影して来ましたので、下に掲載して置きます。 すなわち、これを要するに、ノゲシの花序は舌状花の集まりであり、ノボロギクの花序は筒状花の集まりなのだということである。 キク科の花などは、正確にはこれを花序と言うべきであるが、我々は視覚的には花序を以って一個の花と認識し、そう呼ぶのが普通であるから、当記事に於いても花序とは言わず、花と呼ぶことにする。 ノゲシの花や蕾は一部垂れているのもありますが、多くは上を向いています。これに対して、ノボロギクの方は花の多くが下向きにうなだれています。内部で種子が成長し綿毛・絮が形成される時期になるとようやく上向きになるようで、やがて弾けて綿毛(冠毛)が顔を出します。その姿が襤褸をひっかぶっているようだというのが襤褸菊という名の由来だとする説がありますが、この姿を見るとそれも頷ける気がするというもの。(ノボロギク)(同上)<参考>ノゲシ・Wikipedia ノボロギク・Wikipedia 花がうなだれるかどうかで似たもの同士を区別する草花としては、ハルジオンとヒメジョオンも同様である。(ハルジオン) 上の写真のように蕾がうなだれているのがハルジオン。 ハルジオンの茎は中が空洞になっているので蕾の重さでうなだれてしまうのでしょう。茎がしっかり成長すればそういうこともなくなるので、花が咲く頃には上を向くものも出てくることになる。中には花が咲いても下を向いたままというのもありますが。 これに対して、ヒメジョオンの茎は中に芯があるのでこういうことはなく、蕾の段階から上を向いている。 まあ、花の向きがどうのこうの言っているより、茎を一本折ってみれば簡単に区別できるので、その方が手っ取り早いということでもありますが、これは乱暴狼藉、花からすれば「おやめくだされ、ご無体な。」でしょうから、お薦めできません(笑)。 両者のその他の点での違いは、ヒメジョオンの方が草丈が高い。ハルジオンの花弁が糸状に細いのに対して、ヒメジョオンのそれは糸状ではなく少し幅のあるきわめて細長い花弁の形状をしている、などがあげられる。(スギナとハルジオン) 少しピンクかかった色の花であれば、ハルジオンと考えて間違いはないですが、花が成熟するとピンク色は消えて白色になるので、成熟した花同士では、色だけで区別は難しいことになる。 まあ、言葉で言うと、まどろっこしくわかりにくいが、上のノゲシとノボロギクのように並んで咲いている写真があれば、簡単明瞭。しかし、ヒメジョオンはハルジオンより花の時期が少し遅いので、両者が並んで咲いている写真を撮るのはそう簡単なことではない。<参考>ハルジオン・Wikipedia ヒメジョオン・Wikipedia 今日は、似た花の見分け方講座(笑)・基礎編でした。
2020.04.18
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昨日、今日といい天気です。 梅雨が明けた、と言ってもいい位な感じなのだが、前線の配置状態や太平洋高気圧の張り出し方など天気図的には、まだ梅雨明け宣言するのは早いというのが、今日の大阪ということでしょうか。(2020年7月18日午後3時半頃の水走公園の空) 上は、昨日の水走公園の空の写真である。 今日の空は、昨日よりも少し雲が多い印象を受けるが、青い空に白い雲という好天気にて、もう梅雨明けの空という風情である。 話が少し逸れるが、一昨日(17日)あたりから背中が重苦しく痛い感じがあって、肩でも凝っているのかと、昨日(18日)銀輪散歩で立ち寄ったこの水走公園で体を反らしたり、腕や肩をグルグル回したりの体操を、かなり入念にやってみたら、却って痛みが酷くなったようで、帰宅した夕刻からはズキズキと疼くような具合となり、咳をしたり、体をひねったりすると少し強い痛みが走るようになった。 で、ネットで「背中が痛くなる病気」で調べたら、狭心症、心筋梗塞、肺塞栓症、椎間板ヘルニア、十二指腸潰瘍、急性大動脈解離、膵炎、膵臓癌、腎炎、腎結石、尿管結石、胆嚢炎、脊髄腫瘍、骨粗鬆症による圧迫骨折、などが見つかった。 背中の痛む部位で病気は異なるが、背中の中ほどだと大動脈解離、心筋梗塞、肺塞栓症などが該当することとなる。 十数年前(2004年)に自転車の事故で背中の肋骨を5本折ったことがあった。その時の激痛は息もできない位のものであったが、そのような激しい痛みになる前の状態か幾分治癒軽快した段階の背中の痛みに感じが似ている。もし、骨折ならその部分に圧力を加えると強い痛みが走る筈だが、そういう風でもない。 こうしてPCに向かっていても、姿勢を伸ばしたり、変えたりすると背中に痛みが走る。これ以上、痛みが強くなると困るし、何か悪い病気であっても困るということで、救急医療病院でもある馴染みの病院へ電話を入れて、症状を説明の上、日曜日だが診察して貰えるかを照会すると、OKの返事。 一応、診察していただいた。問診と簡単な触診のみであったが、内臓関係の病気、動脈解離や心筋梗塞など重大な病気の可能性は低いと認められるので、筋肉の炎症の可能性が高いという診断。 明日、月曜日に整形外科を受診してみて下さい。痛みが激しくなったり、痛む場所に変化が見られるなどがあれば、すみやかに連絡して下さい、というのが医者の指示。湿布薬をもらった。が、これは貼っていない。この暑い時期に貼ると皮膚が荒れて激しい痒みに襲われるということを何度か経験しているので、使わないで様子を見ることとする。 結論は、明日以降に持ち越しであります。 さて、脱線話が長すぎました。本論に戻します。 昨日、水走公園で珍しい虫を見ました。(アオメアブ) トンボのような細長い胴体で、翅はアブやハチのような折りたたみ型という面白い姿。 調べると、ムシヒキアブ科に属するアブで、複眼が緑色なのがアオメアブといい、黒色なのがシオヤアブというらしい。 これは美しい緑色の眼球であるから、アオメアブである。(同上)<参考>アオメアブ シオヤアブ 頑強そうな逞しい脚、最強のハンターと呼ばれるそうだが、いかにもそんな風貌の虫である。(同上)(同上) この公園では、青い目の白猫にも出会いましたが、それはまた別の機会にご紹介申し上げましょう。猫は虫ではないので。 で、アオの付く蝶の写真を掲載して置きます。この蝶も水走公園の同じ広場で舞い遊んでいました。(アオスジアゲハ) 寝転がっていた木製ベンチから立ち上がって帰ろうとしていたら、こいつがのこのこやってきました。 アオクサカメムシです。アオカメムシの一種ですが、こいつも「アオ」が付くので、ここに参加する資格アリであります(笑)。(アオクサカメムシ) よく見ると、外翅の一部が欠損しています。 天敵に襲われたところを辛うじて逃げることができたということか。 カメムシの世界もなかなか過酷なようです。(同上) 右外翅は下部が欠けているだけですが、左外翅は付け根部分から全部無くなってしまっています。(同上) 外翅は、言わば翅の格納庫の扉みたいなもので、それが欠けても、生命にはすぐさまの影響はないようです。元気に動き回っています。 今日は銀輪虫散歩・青編といったところでした。<参考>虫関連の過去記事はコチラ。
2020.07.19
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近畿地方も今日から梅雨入り。例年より21日も早い梅雨入り。 観測史上最も早い梅雨入りだそうな。 銀輪散歩には有り難くない季節ということになる。 昨日は、銀輪散歩で立ち寄った加納緑地の木立の間に見えたのがこれ。 「京都」がズラリと並んでいました。(和束運輸株式会社のトラック) 赤い大きな文字で「京都」、「京都」。 ここは大阪なのに京都がズラリ。 チラリと見えた当初は何かの看板かと思ったので、何事かと近づいてみると、運送会社の駐車場に駐車中のトラックでありました。 和束運輸株式会社という側面の社名を見て納得。 和束町は京都府にある町である。 何度か銀輪散歩その他で訪れている町であり、馴染みの喫茶店「ペリカンの家」の店主のももの郎女さんのご出身地でもある。<参考>茶源郷「和束」・安積皇子墓 2014.11.26. 和束茶源郷まつりに行って来ました。 2017.11.5. 和束の地には安積皇子の墓があり、万葉にゆかりのある地。 茶畑の景色が美しい町である。 その辺のところは、上記の<参考>記事をご覧ください。<参考地図>(加納緑地位置図)(和束町周辺図)
2021.05.16
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今日は、久しぶりに小阪教会の礼拝に出席して参りました。 というのも、小阪教会創立97周年記念礼拝という特別な礼拝であったことに加え、礼拝後の祝会で、故智麻呂氏のご息女の今日郎女さんがメンバーとなって居られるジャズ・バンドの「Small Planets」によるコンサートが予定されていたからであります。 自宅から小阪教会までは自転車で30分もあれば行ける距離なので、例によって例の如く、MTB(マウンテンバイク)で出かけることとしました。 近鉄・河内小阪駅を少し南へ行った付近で、同じく礼拝に出るべしで前を歩いて居られた槇麻呂氏と利衣郎女さんに出会い、そこからは自転車を降りて一緒に歩くこととしました。 教会到着は、9時55分。(日本基督教団小阪教会) 教会の敷地に入ると、入り口右手にこんな案内看板。(同上・創立97周年記念礼拝の案内板) 下は創立90周年の時に作成された記念ロゴのようですが、本日のプログラムや週報にこれが掲載されていました(但し、カラーではなくモノクロ)ので、同教会のホームページからカラー版のものを転載して置きます。<参考>小阪教会ホームページ(同上・創立90周年記念ロゴ) 午前10時15分。定刻となり、礼拝開始。 (同上・週報より転載) 礼拝終了後、教会でご用意くださった、ハヤシライスで昼食&珈琲タイムを取り、午後からのコンサートタイムとなる。<参考>Small Planetsホームページ バンドのメンバーの皆さんを撮影した演奏中の写真をそのままブログにアップしてもいいのかどうか迷いましたが、上記のホームページなどを拝見すると、氏名も演奏画像などもネットに公開されていますから、顔部分を隠すなどの修正を加えずに掲載しても問題ないと判断されるので、そのまま掲載させていただきます。(Small Planetsの演奏風景)(同上) (同上)(同上) (同上)(同上)(同上) 祝会終了後、凡鬼さん、槇麻呂さん、和郎女さんら若草読書会のメンバーと利衣郎女さんたちと小阪駅近くの喫茶店で暫し閑談。3時半頃に店を出て、駅前で皆さんと別れてヤカモチは家路に。午後4時過ぎの帰宅でありました。<参考>過去の若草読書会関連記事はコチラ。
2024.03.03
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先日(10月31日~11月1日)久しぶりに飛鳥川畔を銀輪散歩しましたので、遅ればせですがこれを記事アップします。大和八木駅前の「宮廷飯店」という店でラーメン&餃子で昼食を済ませ、軽量小型折りたたみ自転車・トレンクルにて出発であります。 耳成山公園から醍醐池へと向かいます。(醍醐池)(醍醐池西側のコスモス) 醍醐池に向かったのはコスモスが目当てであったのだが、もう花の盛りは過ぎていたようで、咲き残っている花は僅かでありました。 コスモス畑の後方の畦道に植わっている木の一つにヤドリギが見てとれましたので、ズーム撮影。(ヤドリギ) 同じ木であるのかどうかは不明であるが、3年半ほど前の飛鳥川銀輪散歩の記事にヤドリギの写真が掲載されていることが過去記事を調べてみて判明しましたので、再掲載して置きます。 両者が同じ木であるとすれば、上掲の写真は南側から撮影しているのに対して、下掲の再掲載写真は多分北側から撮影していることになるかと思う。(2021年4月12日記事に掲載写真の再掲載) 3年半で木がどの程度成長するものなのか、よくは存じ上げないが、両者の違いは、再掲載写真のヤドリギは高い枝の辺りに存在するのに対して、今回撮影の写真ではそれほどでもない高さの枝に取り付いているように見える。 3年半で木の枝が高く成長したのであれば、以前は高い位置であった枝部分に寄生したヤドリギも相対的に低い位置に見えるから、同じヤドリギであるとも考えられるのだが、再掲載写真のそれが撮影された場所についての明確な記述がないので、何とも言えない。しかし、多分同じヤドリギなのではないかという気がしています。 ヤドリギは万葉では「ほよ(保与・寄生)」と呼ばれる。あしひきの 山の木末こぬれの 寄生ほよ取りて 插頭かざしつらくは 千歳ちとせ寿ほぐとぞ (大伴家持4136) 大伴家持のこの歌や万葉では「ほよ」と呼ぶことなどは2021年4月12日の記事に記載しているので、これをご参照ください。 醍醐池から飛鳥川畔の道に出るべく、醍醐池と藤原宮跡との間を東西に通っている道を西方向へと向かう。 この道を、道なりに突き当りまで行き、左折すると飛鳥川沿いの自転車道に出られるのだが、その突き当り少し手前におふさ観音がある。おふさ観音の所在地は橿原市小房町であるから、漢字では「小房観音」と書くのだろうが、おふさ観音と平仮名表記するのが通例のよう。 さて、そのおふさ観音の門前東側、ヤカモチの目下の走行方向から言えば門に至る少し手前に「さなぶりや」という店がある。通りかかったのも何かのご縁と「さなぶり餅」を買い求めることとする。 この店は、2018年9月16日に実施したペリカンの家サイクリングの際に立ち寄って以来であるから6年ぶりということになる。(さなぶりや 2018.8.27.記事掲載写真の再掲載) 上の2018年8月27日の「ペリカンの家サイクリング下見」の記事でも、2018年9月16日の「ペリカンの家サイクリング・明日香篇本番」の記事でも、ヤカモチ自身がさなぶり餅を買い求めたという記述はないので、多分初めてこれを買い求めたということかも知れないのだが、何となく食したという記憶もあるので、ひょっとすると本番ではヤカモチも買い求めたのかもしれない。<参考>さなぶり餅―奈良の食文化研究会 店先で「ごめんください」と言うも店の人が出て来る気配がない。 もう一度、今度はかなり大きい声で繰り返すと、ようやく店の奥で人の動く気配があり「は~い」という声。 「コスモスを見て来られましたか」と店の人。 どうやら、この道は、おふさ観音と醍醐池とを結ぶ通行路で、コスモスを見た帰りかコスモスを見に行く前かに、お客さんが立ち寄ってさなぶり餅を買い求めるのだろうと、その言葉から推測されました。 おふさ観音にもご挨拶して行く。(おふさ観音)<参考>おふさ観音 おふさ観音の門前にて頂戴したミニパンフレットです。 今は、丁度、提灯まつりと秋のバラまつりのシーズン。(同上・ミニパンフレット)(同上) 飛鳥川沿いの道に出て、これを上流に向かって走ります。 この道はこれまでに何度も走っているので過去記事にも何度も登場済みかと思う。 囲碁例会で梅田スカイビルへと自転車で行く途中には毎日新聞社ビルの前をよく通るのであるが、かつてはこのビルの1階の喫茶店で昼食をとったりしたもの。随分以前のことになるが、その折に言葉を交わした男性客(毎日新聞社の社員だろうとその時は思ったのだが、実のところは不明)が、毎年大阪マラソンに出場されていて、この飛鳥川沿いの道でランニングをして体を鍛えているというようなことを話されていたことを思い出す。(飛鳥川) コサギであるか、白鷺と鴨と亀が仲良く集まっていたので、写真に収めましたが、近づくとサギは飛び去り、カメは水中に隠れてしまいましたが、鴨は何事もなかった風にのんびりとしています。人の動きに対する動物の反応も様々である。(同上・甘樫丘付近) 甘樫丘の前までやって来ました。さなぶりやで買い求めたさなぶり餅を食べたりしながら、水分・煙分補給のため麓の休憩所で小休止です。 今回、飛鳥川畔を走って来たのは、奈良県立万葉文化館に入館するのが目的の一つ。甘樫丘を背に飛鳥川を渡り、飛鳥寺の前を通過、万葉文化館へと向かいます。(奈良県立万葉文化館)(同上・案内パンフレット)(同上)(同上・一般展示)(同上)(同上・令和6年度展覧会・行事のご案内パンフレット) このパンフレット記載の「特別展・天武天皇と<飛鳥・藤原>の文化」を見学してみようというのが目的でやって来たのでありました。(同上)(天武天皇と<飛鳥・藤原>の文化特別展パンフレット)(同上)(同上・入場券) 展覧会会場内は撮影禁止で展示物の写真は撮れないので紹介はできませんが、飛鳥池工房遺跡出土の富本銭は勿論、お馴染みの飛鳥大仏頭部や山田寺仏頭や猿石の複製原寸大レプリカ、伝田道間守像、大伯皇女木簡、大津皇子木簡など興味深い展示物が多くありました。 特別展示の方は有料であるが、一般展示の方は無料。従って、入館料は必要なく、一般展示だけを見て帰るのであれば、無料で出入り自由ということである。 時間があれば、飛鳥寺も久しぶりに拝観してみようかと考えていましたが、万葉文化館での小一時間の見学だけで、腰の疲れが限界。飛鳥寺はスルー。寺の北側の路地を抜け、寺の西側にある蘇我入鹿の首塚にだけご挨拶して、飛鳥川沿いを引き返すこととしました。(蘇我入鹿首塚) 背後の丘が甘樫丘です。 車が走っている道が県道209号でその後ろを飛鳥川が流れている。くびつかを 見つつかへらむ 腰痛を かばひてわれは あすかがはくだる (腰痛家持) この日は大和八木駅前にホテルをとっていたのでここで宿泊、翌日は駅前より飛鳥川を反対方向の下流側へと走る予定。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.11.10
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昨日は大阪も雪景色になりました。 先般の雪の時は入院中であり、病室の窓から眺めたきりでありましたが、今回は自由の身、枚岡梅林や枚岡神社の雪を見に外へ出てみました。午後遅くなってからであったので、かなり融けてしまっていました。 雪が滅多に降らぬ地に住んでいると、雪は「雪景色」というものとなり、「雪見」なんぞという言葉さえも生まれるのである。芭蕉さんも「馬をさへながむる雪の朝(あした)哉」(雪の朝というのは何もかもが新鮮で、旅人ばかりかその馬をさえ、普段と印象が違って、じっと眺めてしまう。)と吟じて居られますが、総じて我々は、そのようなのである。 もっとも、地域によっては、足止めを食ったり、大渋滞を引き起こしたり、便欠航で空港で一夜を明かしたり、事故に巻き込まれたりと、色々の難儀を生じさせた今回の雪でもあれば、そう呑気なことを言って居ては不謹慎の謗りも免れぬ処だが、雪国暮らしでないヤカモチとしては雪を目にすると自ずと心そわそわと「さやぎて」ということになってしまうのは、仕方なきことなのではあります。(2014年2月14日の雪)(同上・枚岡神社)(同上・枚岡梅林) ついでに、芭蕉さんの「雪」の句を列挙して置くこととしましょう。 はつゆきや幸庵(さいはひあん)にまかりある(待ちに待った初雪だが、幸いにも私は庵に居合せている。)初雪や水仙のはのたはむまで(水仙の葉がたわむほどに初雪が降り積もっている。)面白し雪にやならん冬の雨(面白いことに、冬の雨は雪に変りそうだ。)初雪に兎の皮の髭つくれ(初雪には兎の皮で付け髭を作って兎の気分になれ。)初雪やいつ大仏の柱立(はしらだて)(もう初雪が降り出した。大仏殿の柱立てはいつのことになるのやら。)はつ雪や聖小僧(ひじりこぞう)の笈(おひ)の色(初雪の中を行く行脚僧の笈の色は長旅を示すように色褪せている。)雪をまつ上戸(じやうご)の顏やいなびかり(稲光が走るたびに、雪を待つ上戸たちの顔が照らしだされる。)初雪やかけかゝりたる橋の上(初雪が架けかけの橋の上に積もっている。)たはみては雪まつ竹のけしきかな(この絵の竹はよくたわんでいて雪を待っている風情である。)霰まじる帷子(かたびら)雪はこもんかな(霰まじりの帷子雪は霰小紋のようだ。)時雨をやもどかしがりて松の雪(時雨はいくら降っても松の葉を紅葉させることはない。それをじれったく思って松は雪をかぶってしまった。)しほれふすや世はさかさまの雪の竹(雪の重みで竹が節をさかさまに萎れ伏している。子に先立たれたあなたのように。)波の花と雪もや水にかえり花(海に降り込む雪は水にもどって、波の花となって返り咲くのだろうか。)富士の雪盧生(ろせい)が夢をつかせたり(雪をかむった富士の姿は露生が夢で築かせた白銀の山のようなものだ。)今朝の雪根深(ねぶか)を薗(その)の枝折(しをり)哉(今朝はあたり一面の雪、頭を出している葱が畑の目印になっている。)雪の朝独リ干鮭(からざけ)を噛(かみ)得タリ(雪の朝に独り私は干し鮭を噛み得ている。)黒森をなにといふともけさの雪(黒森(くろもり)の由来を何と言おうが今朝の雪ですっかり白森だ。)馬をさへながむる雪の朝(あした)哉(上記参照)市人(いちびと)よ此(この)笠うらふ雪の傘(市に集まっている人々よ、この笠をあなたがたに売ろう。この雪の積もった笠を。)雪と雪今宵師走の名月歟(雪と雪が照り合って、今宵は師走なのに中秋の名月のような明るさだ。)君火をたけよきもの見せむ雪まるげ(君は火を焚け。私はよいものを作ってみせよう。雪の大玉を。)京まではまだ半空や雪の雲(京まではまだ道の半ば。中空には雪雲が居座っている。)ゆきや砂むまより落(おち)よ酒の酔(よひ)(下は雪の砂地だ。馬より落ちてみなさい。酒の酔いも醒めるから。)磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花(研ぎ直された鏡も清らかで、折しもそこへ雪が花のように降りかかる。)箱根こす人も有(ある)らし今朝の雪(今朝は雪。この雪の中を箱根を越えて行く人もいるらしい。)いざ行かむ雪見にころぶ所まで(さあ、雪見に行こう。転ぶ所まで、どこまでも。)酒のめばいとど寐(ね)られね夜の雪(酒を飲むといよいよ眠れなくなる雪の夜であることだ。)二人見し雪は今年もふりけるか(去年二人で見た雪は今年も降っただろうか。)少将のあまの咄(はなし)や志賀の雪(をのがねの少将と尼の話を聞いている中、ここ志賀の里には雪が降っていることだ。)ひごろにくき烏も雪の朝(あした)哉(日頃は憎らしく思っている烏も、雪の朝は風情がある。)貴(たふと)さや雪降(ふら)ぬ日も蓑と笠(尊いことだ。雪降らぬ日にも蓑と笠を身につけている小町の画像は。)比良(ひら)みかみ雪指(さ)シわたせ鷺の橋(比良山と三上山の間に、鷺よ、翼並べて、雪のように白い橋、鷺の橋を、さし渡せ。)雪ちるや穂屋(ほや)の薄(すすき)の刈(かり)残し(雪が降り散る枯れすすきは穂屋を作った際に刈り残したものだろうか。)庭はきて雪をわするゝはゝきかな(庭の雪を掃きながら、雪のことは忘れて、ただ無心に箒を動かしていることだ。)
2014.02.15
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(承前) 今回の銀輪散歩は、山上憶良の万葉歌碑が近くにあるかと調べていたら、この八尾第一万葉植物公園にある、ということでやって来たもの。 他には、万博公園の「万葉の里」に1基、春日大社の北参道に2基あるようだが、思った以上に歌碑は少ないようだ。大伴家持は和歌のことを「山柿の門」と呼んだが、その「山」とは山上憶良のことだともされる歌人にしては少ないのは「社会派」と称されるその歌風によるのだろうか。 それはさて置き、八尾第一万葉植物公園は、国道170号(旧道)脇の恩智神社一之鳥居を潜って東へ、恩智神社への参道の坂道を上って行く途中、右に少し入った処、恩智城趾公園の東側に隣接して、ひっそりとある。 恩智城趾や恩智神社は別のページで取り上げることとし、歌碑の未掲載分を紹介して置きます。 17.もも<モモ>春の苑 くれなゐにほふ 桃の花 した照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139)18.をばな<ススキ>人皆は 萩を秋といふ よし吾は 尾花が末(うれ)を 秋とはいはむ (万葉集巻10-2110) 19.つつじ<ツツジ>水伝ふ 磯の浦廻の 石(いは)つつじ もく咲く道を また見なむかも (草壁皇子の舎人 万葉集巻2-185)20.やなぎ<ヤナギ>うちなびく 春立ちぬらし わが門の 柳の末(うれ)に 鶯なきつ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1819) 21.つばき<ツバキ>巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を (坂門人足 万葉集巻1-54)22.まゆみ<マユミ>南淵の 細川山に 立つ檀(まゆみ) 弓束(ゆづか)まくまで 人に知らえじ (万葉集巻7-1330)<参考> カテゴリー「万葉」の記事はコチラからどうぞ。
2014.01.12
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昨日の日記に銀輪散歩でこれまでに見掛けた鳥の写真のいくつかを掲載しましたが、その他にも、先日のケリ(鳧)を始め、雀や烏や鳩は言うに及ばず、青鷺、白鳥、オオヒシクイ、バン、鵜、カイツブリ、ヒヨドリ、セキレイ、カワセミ、ヨシキリ、トンビなども写真に撮って掲載したかと思うのだが、総じて鳥の写真は余り出来のよくないものが多い。そんな中で、先日雉を撮影することができたのは幸運でした。(雉) 雉は、万葉では「きじ」ではなく「きぎし」である。(同上) 万葉集には雉の歌は9首ある。(同上) うち4首が大伴家持の歌である。 家持の好きな鳥と言えばホトトギスが先ず思い浮かぶのであるが、どうやら雉もお気に入りの鳥であったようだ。 ということで、今日は雉の万葉歌をご紹介して置きます。 海神(わたつみ)は くすしきものか 淡路島 中に立て置きて 白波を 伊予に廻(もと)ほし 居待月(ゐまちづき) 明石の門(と)ゆは 夕されば 潮を満たしめ 明けされば 潮を干(か)れしむ 潮騒の 波を恐(かしこ)み 淡路島 磯隠(いそがく)り居て いつしかも この夜の明けむと さもらふに 眠(い)の寝(ね)かてねば 滝の上の 浅野の雉(きぎし) 明けぬとし 立ち騒くらし いざ子ども あへて漕ぎ出(で)む 庭も静けし (万葉集巻3-388)(海の神は神秘なものだ。淡路島を中に立て置いて、白波を四国の海岸にぐるりとめぐらし、<居待月>明石海峡からは、夕方になると潮を満たし、明け方になると潮を干させる。潮鳴りがする満潮の波が恐ろしいので、淡路島の磯に隠れて、いつになったらこの夜が明けるのかと、潮の様子をうかがい待機して、眠ることもできないでいると、早瀬のそばの浅野の雉は、もう夜が明けたと立ち騒いでいるようだ。さあ、船人たちよ思い切って漕ぎ出そう。海面も静かだ。)(注)居待月=十八日の月。満月に近く明るい月ということで、明石に掛かる枕詞。かけまくも あやに恐(かしこ)し 我が大君 皇子(みこ)の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召し集(つど)へ 率(あども)ひたまひ 朝狩に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕狩に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道山(いくぢやま) 木立の茂(しげ)に 咲く花も うつろひにけり 世間(よのなか)は かくのみならし 大夫(ますらを)の 心振り起こし 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 梓弓 靫(ゆき)取り負ひて 天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に 万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒く舎人は 白栲(しろたへ)に 衣(ころも)取り着て 常なりし 笑(ゑ)まひ振舞(ふるま)ひ いや日異(ひけ)に 変(か)はらふ見れば 悲しきろかも (大伴家持 万葉集巻3-478)(心にかけて思うことも、まことに恐れ多いことである。我が大君、安積皇子さまが、あまたの臣下のますらおたちを、呼び集め、引き連れて、朝の狩に獣を踏み立て起こし、夕べの狩に鳥を踏み立て、飛び立たせ、ご愛馬の手綱を取り、眺めてはお心を晴らされた、活道の山の、木々の茂みに咲く花も散ってしまった。世の中はこのようにも無常のものであるようだ。ますらおの心を奮い起こし、剣大刀を腰に取り佩き、梓弓を手に、靫を背に負い、天地とともに永久に、万代までもこのようであったらなあ、と頼みにしていた皇子の宮殿の、<五月蝿なす>活気に満ちてお仕えしていた舎人たちは、真っ白に喪服を着て、いつもの笑顔も振舞いも、日ごとに変って行くのを見ると、悲しいことだ。)(注)安積皇子の急死を悼んで大伴家持が作った歌6首のうちの1首。春の野に あさる雉(きぎし)の 妻(つま)恋(ごひ)に おのがあたりを 人に知れつつ (大伴家持 万葉集巻8-1446)(春の野に餌をあさる雉が、妻を恋うて鳴き、自分の居場所を人に知らせている。)雉鳴く 高円(たかまと)の辺に 桜花 散りて流らふ 見む人もがも (万葉集巻10-1866)(雉の鳴く高円の辺りで、桜の花が散って流れるようだ。誰か一緒に見る人が居たらなあ。)あしひきの 片山雉(きぎし) 立ち行かむ 君に後れて うつしけめやも (万葉集巻12-3210)(<あしひきの>片山に住む雉のように、発って行くあなたに取り残されて、正気でいられましょうか。)(注)片山=片方が山の斜面になっている場所。崖地のこと。隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の国に さよばひに 我が来たれば たな曇り 雪は降り来(く) さ曇り 雨は降り来(く) 野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 家(いへ)つ鳥 鶏(かけ)も鳴く さ夜は明け この夜は明けぬ 入りてかつ寝む この戸開(ひら)かせ (万葉集13‐3310)(<こもりくの>初瀬の国に妻問いに私がやって来ると、一面に曇って雪は降って来る。空が曇って雨は降って来る。<野つ鳥>雉は鳴き声を響かせ、<家つ鳥>鶏も鳴く。夜は明るくなり、この夜は明けてしまう。中に入って共寝をしよう。この戸をお開けなさい。)武蔵野(むざしの)の をぐきが雉(きぎし) 立ち別れ 去(い)にし夕(よひ)より 背ろに逢はなふよ (万葉集巻14‐3375)(武蔵野のくぼ地に住む雉のように、立ち別れになって、行ってしまわれたあの晩から、夫には逢えないでいることよ。)(注)をぐき=窪地の意か。 上二句は、「立ち別れ」を導くための序詞。杉の野に さ躍る雉(きぎし) いちしろく 音(ね)にしも鳴かむ 隠(こも)り妻かも (大伴家持 万葉集巻19‐4148)(杉の野で跳ねまわる雉がはっきりと声を立てて鳴くのだろう。隠り妻がいるのだろうか。)あしひきの 八つ峰(を)の雉(きぎし) 鳴き響(とよ)む 朝明(あさけ)の霞 見れば悲しも (大伴家持 万葉集巻19‐4149)(<あしひきの>峰々の雉の鳴き声が響き渡っている、朝方の霞は見ていると物悲しくなる。)
2018.03.05
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本日は、1枚の写真をネタに、ブログ記事を書いてみることとします。 先日の墓参の折に撮った、写真がもう1枚ありました。 少しピントが甘い写真であるが、カマキリの写真がそれである。 わが家の墓は道沿いにあるので、墓石の立ち並ぶ共同墓地の奥へと入って行く必要がないのであるが、時々は何と言って用もないのに、墓石と墓石の間の狭い通路を通って奥へと立ち入ることがある。 前頁のチカラシバの写真を撮ったのは、その通路でのことでありました。その近くのお墓の敷石の上にカマキリが居た。体長12cmメートル程度のやや大きいカマキリ。小生と目が合った。カメラを構えて近付くと、彼も身構えて、自身を大きく見せようとでもしたのか、前肢を踏ん張るようにして上体を反らすような仕草をした。 蟷螂の斧ではないが、鎌を振り上げてこちらを威嚇でもするかと思って期待したが、じっと固まったまま。ということは、こちらを天敵・捕食者と見て、動かないという選択をしたのか、或は、こちらを餌と見て、捕食の機会をうかがっていたのか、それは彼に聞いてみないと分からぬことであるが、暫しにらみ合いが続く。(カマキリ) 違ったアングルから撮影しようと小生が立ち上がった瞬間、彼は身を翻して背後の草叢へと逃げ込みました。 小生が立ち上がったので、その大きさの圧倒的な差を認識して、これは叶わぬと「敵前逃亡」を図ったものか、小生の動作を「休戦」のシグナルと理解して、退却を選択したものか、これも彼に確認してみないことには、どちらとも言えない。お蔭で違うアングルの写真は撮り損ねたという次第。 カマキリも色々種類があるようだが、これはチョウセンカマキリかと思う。勿論、「挑戦蟷螂」ではなく「朝鮮蟷螂」である。普通に我々がカマキリと言っているのは、このカマキリである。 日本に居るカマキリは、他には、オオカマキリ、コカマキリ、ヒナカマキリ、ハラビロカマキリ、ウスバカマキリである。これらはカマキリ目のカマキリ科に分類される。もう一つのグループは、ハナカマキリ科に分類されるもので、ヒメカマキリ、サツマヒメカマキリ。 生物分類学上、カマキリ目に最も近い虫はゴキブリ目の虫だという。 従って、ゴキブリ亭主にカマキリ女房は「似た者夫婦」ということになる。 カマキリの学名はMantodea。 漢字では、鎌切、蟷螂。 カマキリという名については、鎌で切るからという説と鎌を持つキリギリスの意だとする説があるそうな。 地方によっては、拝み虫、斧虫、疣虫などとも呼ばれるとのこと。 拝み虫は、前肢の鎌をもたげた姿が拝んでいる姿に見えることからだが、英語でこの虫はPraying mantisというから同じ発想である。斧虫は鎌を斧と見立てたものというのは容易に察しがつくが、疣虫の方は、疣を取る薬としてカマキリを粉末にしたものを使用したからだとか。 積雪地では、カマキリは雪に埋もれない高さに卵を産み付けるので、来たるべき冬の積雪の高さを予知する能力がある、ということが言われるが、これは、雪に埋もれている卵も見られることから、伝説に過ぎないようである。英名のmantisはギリシャ語のmantis(予言者)を語源としているが、雪の積もる高さを予言する能力はないという訳である。 カマキリというと交尾の際にメスがオスを捕食してしまうという話が有名であるが、それは、カマキリは動くものは何でも餌とみなすようにプログラムされているからのよう。然らば、オスがメスを捕食しても不思議はないのに、逆のケースは観察されないらしい。カマキリの交尾は相互に出すフェロモンによって相手を認識してこれを行っているようだが、オスはフェロモンによってメスを認識すると、「動くものは餌」というプログラムが制御されるのに対して、メスはそうでないので、オスと餌との区別が出来ないらしい。 男は色恋に寝食を忘れるが女性はそうでもない、むしろ食欲を優先するということか、などと人間に当てはめて考えるのは意味のないことでありますが、「花より団子」という言葉がどちらかと言うと女性をからかう場合に使用されることを考え合わせると生物の雌雄一般に何か共通するものがあるのかも・・と考えるのも勿論、無意味であります(笑)。 カマキリを詠んだ短歌があるかと調べると、この2首が見つかりました。<蟷螂の短歌>わが取れる 紗の燈籠に 草いろの 袖をひろげて 来る蟷螂 (与謝野晶子)月の前に 鎌ふり立つる 蟷螂は 青萱の葉の 光る葉にゐる (北原白秋) で、万葉集にカマキリが登場するかと言えば、勿論、登場しない。 万葉では、秋に鳴く虫は、鈴虫、松虫、コオロギ、キリギリス、みんなひっくるめて「こほろぎ」であるから、昆虫図鑑の虫の分類のような訳には行かない。カマキリなんぞは鳴きもしないから、お呼びではなかったのだろう。 ということで、偐万葉がそれを補うべく偐家持が1首。台風が 日本海行く 秋の日の 墓参にあひし 蟷螂ぞこれ (藤原鎌切)(本歌)秋風の 寒く吹くなへ わが宿の 浅茅がもとに こほろぎ鳴くも(万葉集巻10-2158) 万葉時代に、鎌切が居なかった訳ではない。万葉集の歌に登場しないだけである。藤原鎌足というのが居たが、これは勿論、カマキリではない。 カマキリの話だけに「キリ」もないこととなりますので、「キリ」のいいところで切り上げるのが得策。 カマキリについては十分に書き足りました。 これを「カマタリ」と言いますな。 では、オアトがよろしいようで・・。<参考>カマキリの神話 https://www.jataff.jp/konchu/mushi/mushi06.htmカマキリ・Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/カマキリ
2018.10.07
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