(承前)
さて、前回の続き、偐山頭火氏と自転車にて、土塔を訪ねての帰路のあれこれです。
土塔にお別れして、国道310号に出て、北へ少し走った処で目に止まった中華食堂で昼食。小生のいつもながらの早喰いに煽られ、偐山頭火氏も慌しく
(小生の目からは、ゆっくりと<笑>)
食事を済ませる。
昼食後、少し戻って脇道の旧道がよかろうと関茶屋地区へと入る。
土塀の続く大きな屋敷やさりげなくある石の道標、地蔵堂などが心地よい風情を醸す。
(道標には「右高野山」とある。)
くねくね道なりに行くと出雲大社分祠の裏に至り、来る時に走った「西鳳東線」道路に出たので、これを走って初芝駅に至り、更に東進。大阪中央環状線道路と交差する処で黒姫山古墳に出会う。古墳周辺は公園に整備されていて、古墳玄室の野外復元展示などもある。
(黒姫山古墳)
(北面)
(西面)
黒姫山古墳の概要
(現地説明板より抜粋)
黒姫山古墳は、百舌鳥古墳群と古市古墳群の中間に位置する堺市美原区黒山に所在する前方後円墳です。5世紀中頃の築造と考えられ、平地に立地し、前方部を西に向けています。全長114m、後円部径64m、高さ11m、前方部幅65m、高さ11.6m、2段築成で、周濠をめぐらしています。墳丘には上下2段の円筒埴輪列があり、葺石も存在します。また後円部主体部上には形象埴輪列が、方形に配されています。<略>
古墳は、戦後すぐに発掘調査がおこなわれ、24領の鉄製の甲冑が前方部の石室で発見されました。この数は、日本にある古墳からの出土量としては、全国一です。<略>黒姫山古墳に埋葬された人物は、強力な軍事力を持っていたと考えられます。また、甲冑の素材である鉄は朝鮮から入ってきていたと考えられるため、外交的な力をも持っていた人物と考えられます。これらのことから、この古墳に埋葬されているのは、当時この地域で勢力を持っていたとされる豪族、丹比氏の首長と考えられています。
大伴家持は大伴旅人とその正夫人である大伴郎女の間の子ではなく、丹比池守、水守、県守のいずれかの娘との間に生まれた子と考えられているので、この古墳は家持の母方の先祖の墓ということになる。
偐家持がお参りをしてもおかしくはないことにてありますな(笑)。
黒姫山古墳から中央環状線沿いに帰ることとする。少し北に行った処に堺市立みはら歴史博物館があるので、トイレ休憩とコーヒー休憩
(館内禁煙につきタバコ休憩とはならず。)
と立ち寄る。
館内に「風遊
(ふらり)
」という喫茶店がある。
館内の展示室に入ると近傍の古墳からの様々な出土品
(レプリカを含む。)
と共に、黒姫山古墳の復元模型が展示されていました。
(黒姫山古墳復元模型)
(堺市立みはら歴史博物館)
(円筒埴輪)
(青銅製甲冑)
(鉄製甲冑)
中央環状線道路を進み、松原市に入った処で大塚山古墳に寄って行こうという偐山頭火氏の提案。偐家持に異存はない。
大塚山古墳は松原市と羽曳野市の市境に位置する前方後円墳で、陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。2kmほど東に雄略天皇陵があるが、雄略天皇陵はこちらの古墳の方だとも言われている。
河内大塚山古墳
銀輪万葉・藤井寺界隈(続)
あとはひたすら走るのみ。東大阪市に入って、偐山頭火氏は西へ、偐家持は東へ。奇妙な二人連れはこれにて本日は解散。銀輪散歩土塔篇はお開きと相成ります。本日もお付き合い賜り有難う存じます。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
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