本日は南へ。思い立って飛鳥戸 (あすかべ)
神社まで銀輪散歩して来ました。午前11時に家を愛車MTBで出発。恩智川沿いのいつもの道を走り、柏原市役所前へ。ここで11時45分。少し早いが市役所東側の喫茶店で昼食。
腹もふくれた処で、長瀬川沿いに下り、JR柏原駅の北西にある、三田家住宅などを見て行くこととする。
(長瀬川)
(JR柏原駅西口)
(三田家住宅)
三田 氏は、 三田浄久 が大坂伏見呉服町で大文字屋という屋号で商売をしたのが、その始まり。寛永13年(1636)に、代官 末吉孫左衛門 に協力して 柏原舟 を興し、寛永17年(1640)に当地に移住して来た。 干鰯 や油粕などを扱う肥料商を営み、柏原船の営業や地主としても栄えた家であったとのこと。現在の建物は、明和3年(1766)から同5年にかけて建てられたもので、重要文化財に指定されている。三田家の表側は奈良街道に面し、裏側は 了意川 に面している。柏原船の積荷を直接屋敷内に運び込める構造になっている。
(三田家住宅裏側と了意川)
三田家住宅から少し先に行くと寺田家住宅がある。寺田家住宅は北条屋の屋号で油粕問屋や柏原船を営業して栄えた家にて、主屋のほか、敷地内の離れ座敷、内蔵、土蔵、米蔵、南門、東門が登録有形文化財に指定されている。
(寺田家住宅)
寺田家住宅の北西隣に柏原神社がある。創建年代などは不明とのことだが、柏原市にお邪魔したからには、ご挨拶して行かずはなるまい(笑)。
(柏原神社)
(同上)
(境内の芙蓉の葉) (手水鉢にはジュンサイか?)
寄り道はこれまで。
大和川に戻るべく引き返すことに。三田家の裏に流れる了意川べりを行くと、柏原舟ふなだまり跡の碑があった。
(柏原舟ふなだまり跡の碑)
碑の裏面には「大和川の洪水で度々大被害を受けた柏原村を救うため、1636年から柏原船(大坂への舟運事業)が始められた。4年後70艘にまで増え、明治になって鉄道が開通するまで大いに栄えた。ここはその『ふなだまり』の跡地である。」とある。
新大和橋で大和川を渡り、石川に入る。石川の左岸を走り、石川橋で右岸に移り、西名阪自動車道の下を潜った先で、石川に注ぎ込んでいる小川、飛鳥川に沿った道を行く。
(石川)
飛鳥川と云うと奈良県明日香村の飛鳥川のことかと思われる向きも多いかと思うが、それは大和の飛鳥川にて、こちらは河内の飛鳥川である。この川の上流にかけての一帯は、大和の飛鳥に対して、河内飛鳥、近つ飛鳥と呼ばれているのである。
古代にあっては、百済系渡来氏族紀氏、田辺氏、蘇我石川氏などの本貫地でもあった。下記の万葉歌は河内の飛鳥川を詠ったものとされている。
明日香川
黄葉
流る 葛城の
山の
木
の葉は 今し散るらし(巻10-2210)
飛鳥川に架かる月讀橋で小休止。この橋を通る道は日本最古の古代の国道(官道)・竹内街道である。竹内街道を行く。
(月讀橋から飛鳥川下流を望む。)
(月讀橋から飛鳥川上流を望む。)
(竹内街道。写真左・柏原方面。写真右・上ノ太子方面)
竹内街道は上の写真のように住宅の間をクネクネと続く狭い道であるが、処々で国道166号らしく広い道になったりもする。
(竹内街道。広くなったり、狭くなったり。)
(八丁橋で飛鳥川を渡る。)
八丁橋で飛鳥川を渡って集落の中に入ると道は狭くなる。目指す飛鳥戸神社へは、上の写真右の撮影場所で左に入って坂道を登って行くのだが、見落として先に進んでしまい、気が付けば近鉄南大阪線・上ノ太子駅の前。引き返す。正しい道に入り、行くと鳥居が見えて来る。
(近鉄南大阪線・上ノ太子駅)
(仏號寺)
(飛鳥戸神社鳥居)
この鳥居を潜って、更にずっと坂道を上って行くと飛鳥戸神社である。いよいよ目的地到着であるが、続きはまた明日です。いい処で終るのが連載物のコツなのであります(笑)。
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