(承前)
本堂裏の庭園を眼下に眺め、石段を上って行くと奥ノ院である。
(庭園を上から見る。)
(奥ノ院)
奥ノ院のお堂に上る。靴を脱いで手に持って上る。本堂と同じく自由に入れる。奥ノ院のお堂と下の本堂とは回廊でつながっているので、回廊を通って本堂に戻ることとする。
(奥ノ院堂内主祭壇)
堂内撮影禁止の表示がないので、ちょっとマナー違反かも知れないが撮影させて戴く。主仏の観音様は帳で隠されていて見えない。左脇に千手観音の眷族である二十八部衆の像が安置されていたので、それを撮影させて戴く。梵天、帝釈天、毘沙門天、阿修羅王などはお馴染であるが、28神全部はとても覚えられませんな。
(二十八部衆像)
(回廊の階段)
本堂から外に出て、独鈷水の汲み場に回ると、その近くに弘法大師の足形があり、靴を脱いでそれに足を重ねると足腰の悪いところが治ると書いてある。やってみると足の縦長は小生のそれよりも少し短いが、横幅は少し広い。太い親指、がっしりした指の形がいかにも歩く人の足の相である。
独鈷水は勝手に汲み、寸志を置いて行くシステムになっている。草麻呂氏は用意して来たペットボトルに水を汲み、寸志を置いていたが、小生は眺めていただけ。
(弘法大師の足形)
柳谷観音にお別れし、乗願寺に向かう。西山大仏があるというので、見てみようという次第。
寺の前の道に出ると薄が風に靡いて光っていました。結構高い位置に寺はあるのだ。道からの眺望もいい。
(道脇のススキ)
(道からの眺め)
(京都府・大阪府の府境)
この道を行くと島本町をかすめてゴルフ場の方に行ってしまい、乗願寺と反対方向になる。右にある墓地を通って旧道に入る。
(乗願寺への道)
(乗願寺近くの村社)
乗願寺も西山浄土宗光明寺の末寺である。西山大仏とも呼ばれるのは、本尊の阿弥陀如来坐像(平安時代後期作)が丈六(高さ2.8m)の巨像で大仏と呼ばれたからである。聖武天皇が奈良大仏の鋳造を思い付く契機となった大阪柏原市の智識寺にあったとされる大仏(こちらは毘盧舎那仏ではあるが)もこんな感じであったのだろうか。
天延年中(973~976年)に恵心僧都がこの地で阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのがこの寺の始まりと伝えられている。
寺は写真のような小さなもので、草庵から始まったというのも納得される佇まいである。この寺のある谷は浄土谷と呼ばれ、観音檀、釈迦ん谷、たいこん堂、欄杆房 (なんかぶ)
などの地名が今に残る。
(乗願寺)
(西山大仏・阿弥陀如来坐像)
秋山の 浄土の谷の もみぢ踏み
来たりはろばろ み仏のもと (偐家持)
乗願寺から坂を下って行くと大阪府島本町方向に、我々は坂を上って行くことに。といっても直ぐに坂はうねうねとした下りとなり、府道79号(伏見柳谷高槻線)に出る。帰宅して、地図を見ると途中で右に500mばかり間道を行くと土御門天皇金原陵があったことを知る。立ち寄れなくて残念。
この辺りは筍の産地。竹林が多い。農園としての竹林は適度に間引きされた空間を有し、地面には藁が均等に敷かれて閑雅な美しさを感じさせる。人間の手の入らない自然の美しさもいいが、人間の手が加わってかもされる自然の美しさは僕らを優しい気持にさせる美しさで、心落ち着くものがある。しかし、藁を一面に敷く作業なんかは大変だろうな。そう言えば、柳谷観音へ向かう竹林の道を行った時、竹林の中で作業されていたご夫婦が「猪が出て地面を滅茶苦茶にするので困る。」と仰っていたことなども思い出される。
(竹林)
やがてバス通りに出て、歩道をバス停にして3~4つを歩くと長岡天神である。境内の一角を通り、錦水亭を右に見て、大鳥居から少し東に行くと阪急京都線長岡天神駅の前である。駅前の喫茶店に入って珈琲タイム。しばし歓談(閑談?)。
西山は さやにさやさや 秋風の
音もやさしみ 絶えず通はな (偐家持)
(長岡天満宮の大鳥居)
喫茶店を出て、蝶麻呂氏と小生は阪急で梅田へ、鯨麻呂氏と草麻呂氏は更に800mほど東に歩いてJR長岡京駅から家路につかれました。
をのこよたりの色なき「歩歩」に長々とお付き合い賜り有難うございました(笑)。これにて、天王山紅葉ハイキング完結です。
今夕は大学の同期の者12名の会食あり、心斎橋まで行ってまいります。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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