( 承前 )
宇治川畔から始めます。 宇治川を 船渡せをと 呼ばへども
聞えずあらし
楫
の
音
もせず
・・もののふの
八十氏川
に 玉藻なす
浮
べ流せれ そを取ると・・
(巻1-50)
宇治河は 淀瀬無からし
網代人
舟呼ばふ声 をちこち
聞
ゆ
(巻7-1135)
宇治河に おふる
菅
藻
を 河早み
取らず来にけり つとにせましを
(巻7-1136)
千早人 宇治川波を 清みかも
旅ゆく人の 立ちかてにする
(巻7-1139)
是川
の 瀬瀬のしき波 しくしくに
妹は心に 乗りにけるかも
(巻11-2427)
ちはや人 宇治の渡りの はやき瀬に
あはずありとも
後
はわが妻
(巻11-2428)
はしきやし あはぬ子ゆゑに いたづらに
是川
の瀬に 裳裾ぬらしつ
(巻11-2429)
是川
の
水泡
さかまき 行く水の
事
反
らずぞ 思ひそめてし
(巻11-2430)
もののふの
八十氏川
の 早き瀬に
立ち得ぬ恋も
吾
はするかも
(巻11-2714)
・・ちはやぶる 宇治の
渡
瀧
の屋の
阿後尼
の原を・・
(巻13-3236)
緑丹
よし 奈良山過ぎて もののふの 宇治川渡り をとめ等に・・
(巻13-3237)
・・ちはやぶる 宇治の
渡
の たぎつ瀬を 見つつ渡りて・・
(巻13-3240)
宇治川のこの辺りには南側に広大な巨椋池が広がっていたのであるが、明治から昭和にかけての干拓事業で、池は消失、水田に生まれ変った。従って、万葉人が眺めた宇治川の景色は、当然ながら今とは随分異なるのではあるけれど、岸辺に立って茫洋と眺むれば、万葉歌の景色も彷彿として来るのでもある。
もう少し万葉気分に浸っていたくもあるが、今回は「歴史ウォーク」の下見、次の目的地に行かねば。
宇治川派流に沿って行く。京阪電車の線路を渡る。程なく長建寺。この付近は遊覧用の十石舟乗り場、川端の柳、酒蔵など、いかにも伏見らしい風情である。
伏見城廃城後、伏見の町は衰退して行く。13代伏見奉行の 建部政宇 は 伏見復興のため、元禄12年(1699年)に豪川から宇治川へと通す堀川(宇治川派流)を開拓する。この時、深草大亀谷の即成就院の塔頭、多門院を現在地に移築し、建部の建と長寿の長とで長建寺としたのがこの寺の起りだという。 真言宗醍醐寺派の寺で、本尊は八臂弁財天である。
境内に句碑「花人が落合ふ駅や中書島」。
元々この地には賤ヶ岳七本槍の、 脇坂安治 の下屋敷があった。
脇坂の名は 中務少輔 脇坂淡路守安治。「中務」は中国風には「中書」なので、人々は彼を「中書(ちゅうじょう)はん」と呼んだ。それで、この辺り一帯を中書様の居られる土地という意味で中書島と呼んだそうな。
長建寺を出て川沿いに進み、寺田屋へ。
寺田屋は、寺田屋騒動や坂本龍馬襲撃事件で有名だが、現建物の登記は明治38年であり、当時の建物が鳥羽伏見の戦で焼失した後に、その西隣に再建されたもの。
現在の寺田屋は、昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物(寺田家とは無関係)が営業を始めたものであるとのこと。
坂本龍馬「当時の建物とはちっくと違うぜよ。」
これで、ウォーク目的地全部をカバー。再度宇治川へと引き返しますが、これは次回とします。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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