本日は折りたたみ軽量自転車トレンクルをお伴に、藤原百川の墓に行って参りました。
<参考> トレンクル
近鉄京都線山田川駅で下車。トレンクルを組み立てて出発。
藤原永手の墓は2度訪ねて居り、直近は今年7月に訪ねている。称徳天皇亡き後の天皇に白壁王(光仁天皇)を擁立に動いたのは藤原永手と藤原百川の二人。ということで、予てより百川の墓も訪ねてみたいと思っていたのだが、何故か今まで果たさずにいました。
<参考> 永手の墓と正成の首塚
2014.7.27.
永手は藤原北家の始祖・房前の息子(二男)。一方の百川は藤原式家の始祖・宇合の息子(八男)。二人の路線は、白壁王を天皇にする処までは同じであったが、その後継については意見を異にしていたようだ。永手は光仁天皇の後継は井上皇后(聖武天皇の娘・井上内親王)との間に生まれた他戸親王を皇太子とし、彼を後継の天皇に、と考えていた。しかし、永手は光仁即位・他戸立太子の翌年に死去してしまう。すると、百川の陰謀と見られているが、井上皇后に光仁天皇呪詛の嫌疑が掛けられ廃后、続いて他戸皇太子も廃太子となる。代って皇太子となったのは山部親王。後の桓武天皇である。桓武天皇実現の立役者はこの百川であったという次第。
<参考> 藤原永手
藤原百川
井上内親王
他戸親王
百川の墓は山田川駅の東方200mの位置にある。玉垣に囲まれた中に円墳が二つ並んでいる。延喜式にはその夫人の墓も同所にあると記載されているそうだから、此処が百川の墓なら、一つは夫人の墓ということになる。どちらとも決め兼ねてその中間に、どっちつかずに藤原百川公墓と刻された墓碑が建てられているのも面白い。
その夫人というのは藤原良継の娘の藤原諸姉のことだろう。彼女と百川の間に生まれた旅子は桓武天皇の夫人となり、その子の大伴親王が第53代淳和天皇である。旅子の墓や淳和天皇陵は当ブログでも以前ご紹介している。
<参考>藤原旅子の墓の記事はコチラ
京都南部銀輪散歩・桓武天皇母陵・同夫人陵へ
2012.3.25.
淳和天皇陵の記事はコチラ
小塩山登山
2012.2.17.
余談になるが、長岡京遷都の際、その責任者・造宮使であり、長岡京視察中に何者かに暗殺された藤原種継は百川の甥に当たる。この種継暗殺事件は大伴家持が首謀者とされ、既に死んでいたにもかかわらずその墓が暴かれ、官籍剥奪・息子永主ら一族が隠岐に流されるなどの厳しい処分を受けた事件であり、偐家持とも無関係ではないので記載して置きます(笑)。
百川の墓から東へ300m、やや南寄り、国道163号沿いにあるのが相楽神社。これといって当てもないのが銀輪散歩。立ち寄って行く。向かいの相楽小学校は運動会とあって、赤ガンバレ、白ガンバレの声援で賑やかなことでした。
拝殿に人影。何かの神事かと近付くと七五三参りか何かそのようなもののようでありました。
国道163号に戻り東へ。200m先、川ノ尻交差点で国道は南へ直角に折れる。わがトレンクルも南へ。由縁などは知らぬが道脇に一本松。
国道163号は川久保交差点で東(左)に折れるが、ヤカモチとトレンクルはそのまま南へと直進。府道751号(木津平城線)を行く。歌姫峠へと続く道である。程なく奈良県に入る。これよりは県道751号となる。
上は普通の道路標識であるが、道路反対側には「従是南大和国・従是南奈良縣管轄」という、如何にも古道らしき石の道標。この道は歌姫古道でもある。
昨日のビッグジョン氏のブログに掲載されていたマルバルコウ。小生も目にしました。残念ながら豆朝顔は見当たりませなんだ(笑)。
<参考> マルバルコウソウ
(ビッグジョン氏のブログ記事)
東方向を見やると若草山。その右側には「大」の字で直ぐにそれと分かる高円山。奈良県に入ったことを納得。
黄金色の稲田と秋風に靡くススキの穂が美しい。
萩の花 なくも尾花の 銀の穂に 秋の風見つ 銀輪われは (銀輪家持)
今日はここまでとします。続きは明日に。
飛鳥川銀輪散歩(下) 2024.11.11 コメント(4)
飛鳥川銀輪散歩(上) 2024.11.10 コメント(2)
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