養老2年(718年)1月29日の生まれ。本日は、小生の誕生日。1298歳と相成りました。
偐家持。大伴氏とは縁もゆかりもこれなくあるが、大伴氏の祖先として思い浮かぶ名はこの二人。アメノオシヒ(天忍日)とミチノオミ(道臣)のご両人である。
〇天忍日・・天上からの天孫降臨に際して先導役を務める。
「天津日子番能迩々藝命
(あまつひこほのににぎのみこと)
に詔
(の)
らして、天之石位
(あまのいはくら)
離
(はな)
ち、天之八重多那雲
(あめのやへたなくも)
を押し分けて、伊都能知和岐弖
(いつのちわきちわきて)
、天ノ浮橋に、宇岐士摩理
(うきじまり)
、蘇理多々斯弖
(そりたたして)
、竺紫
(つくし)
ノ日向(
ひむか)
之高千穂之久士布流多気
(くしふるたけ)
に天降
(あも)
り坐
(ま)
さしメたまひき。故
(かれ)
しかして、天忍日命
(あめのおしひのみこと)
・天津久米命
(あまつくめのみこと)
ノ二人、天之石靭
(いはゆき)
を取り負ひ、頭椎之大刀
(くぶつちのたち)
を取り佩き、天之波士弓
(あめのはじゆみ)
を取り持ち、天之真鹿児矢
(あめのまかこや)
を手挟み、御前
(みさき)
に立ちて仕へ奉りき。」
(古事記上巻)
〇道臣命・・神武東征の際に先導者となる。
「是の時に、大伴氏の遠祖
(とほつおや)
日臣命、大来目
(おほくめ)
を帥
(ひき)
ゐて、元戎
(おほつはもの)
に督将
(いくさのきみ)
として、山を蹈
(ふ)
み啓
(みちをわ)
け行きて、乃
(すなは)
ち烏の向
(むか)
ひの尋
(まま)
に、仰
(あふ)
ぎ視
(み)
て追ふ。遂に菟田下県
(うだのしもつこほり)
に達
(とほりいた)
る。因りて其の至りましし処を号
(なづ)
けて、菟田の穿邑
(うかちのむら)
と曰
(い)
ふ。時に、勅
(みことのり)
して日臣命を誉めて曰
(のたま)
はく、『汝
(いまし)
忠
(いさをしさ)
あり且
(また)
勇
(いさみ)
あり。加
(また)
能
(よ)
く導
(みちびき)
の功
(いさをしさ)
有り。是
(ここ)
を以て汝が名を改めて道臣
(みちのおみ)
とす』とのたまふ。」 (日本書紀巻三 神武紀 戊午年六月の条)
天忍日に始まり、道臣を経て、道臣の六世の孫の武日の息子の武持の時に大伴の姓を賜っているから大伴氏は武持に始まるのである。家持は、武持から数えて9代目となる。
武持
ー 室屋
ー 談
(かたり)
ー 金村
ー 咋子
(くひこ)
ー 長徳
(ながとこ)
ー 安麻呂
ー 旅人
ー
家持
ー 永主
上の記事から、天孫降臨では同格であった大伴氏の祖「天忍日」と久米氏の祖「天津久米」であるが、神武東征では久米氏は大伴氏の配下になっているのが分かって興味深い。
久米小楯が山部の姓を賜り、久米氏から山部氏が派生したこと、その子孫が山部赤人であることなどは、この処の山部赤人歌碑を訪ねての銀輪散歩に関連して知ったことであるが、同様に、大伴金村の弟の大伴歌
(うた)
は佐伯の姓を賜り、軍事氏族の佐伯氏が大伴氏から派生している。その大伴改め佐伯歌の子孫・佐伯真魚
(まお)
が空海である。
参考までに大伴家持関連の年表を下記して置きます。
718年(養老2) 大伴家持誕生(1歳)父旅人54歳
719年(養老3) 首皇子朝政に参画(家持2歳)
720年(養老4) 日本書紀成る。藤原不比等死去(家持3歳)
724年(神亀元) 首皇子即位(聖武天皇)(家持7歳)
727年(神亀4) 10月旅人大宰府長官拝命・赴任(家持10歳)
728年(神亀5) 旅人の妻・大伴郎女死去(家持11歳)
729年(天平元) 長屋王事件(家持12歳)
旅人、藤原房前に手紙、歌と琴を贈る。
(巻5-810~2)
730年(天平2) 1月梅花の宴(巻5-815~846)(家持13歳)
6月旅人重病
10月旅人大納言に昇進・帰京
731年(天平3) 旅人死去・享年67歳(家持14歳)
732年(天平4) 家持(15歳)処女作の歌(巻8ー1441)
733年(天平5) 家持(16歳)初月の歌(巻6-994)
家持はこの頃より仕官したと見られる。
坂上大嬢との歌の贈答始まる。
山上憶良死去
734年(天平6) 笠女郎ほかの女性との歌の贈答始まる。
737年(天平9) 天然痘大流行。藤原4兄弟相次ぎ死去。(家持20歳)
橘諸兄右大臣に就任
738年(天平10) 家持(21歳)内舎人任官
家持、内舎人として橘奈良麻呂邸での宴で歌を詠む。
(巻8ー1591)
739年(天平11) 家持(22歳)亡妾悲傷の歌(巻3-462、464~74)
740年(天平12) 9月藤原広嗣の乱、10月広嗣捕縛、斬首。
12月恭仁京造営開始・遷都
743年(天平15) 家持(26歳)恭仁京讃歌(巻6-1037)
橘諸兄左大臣就任。大仏造立の詔。
744年(天平16) 安積皇子死去。難波京遷都
745年(天平17) 平城京遷都。
746年(天平18) 家持(29歳)3月宮内少輔就任。
6月越中守転任。9月弟・書持死去。
748年(天平20) 家持(31歳)2月越中諸郡を巡行(巻17-4021~9)
3月田辺福麻呂が来越し宴席(巻18ー4032~55)
749年(天平勝宝元) 2月陸奥国より黄金貢上
7月孝謙天皇即位
藤原仲麻呂大納言就任。
751年(天平勝宝3) 家持(34歳)7月少納言就任
8月帰京の旅に立つ。
11月懐風藻成る。
752年(天平勝宝4) 4月大仏開眼会(家持35歳)
753年(天平勝宝5) 2月春愁絶唱3首(巻19-4920~2)
754年(天平勝宝6) 家持(37歳)4月兵部少輔就任
11月山陰道巡察使就任
755年(天平勝宝7) 家持(38歳)2月防人閲兵のため難波に赴く。
756年(天平勝宝8) 2月橘諸兄辞職
5月聖武上皇崩御。遺詔により道祖王立太子。
757年(天平宝字元) 1月橘諸兄死去。
4月道祖王廃太子、大炊王立太子。
6月家持(40歳)兵部大輔に昇任。
7月橘奈良麻呂の変。大伴古麻呂、大伴池主獄死。
758年(天平宝字2) 6月家持(41歳)因幡守に転任。
8月大炊王即位(淳仁天皇)
759年(天平宝字3) 1月家持(42歳)因幡国庁で新年の歌を詠む。
(巻20-4516)
762年(天平宝字6) 1月家持(45歳)信部(中務)大輔就任。
763年(天平宝字7) 藤原良継の乱。家持(46歳)も連座したとして解
任、京外追放に処せられるが、間もなく放免となる。
764年(天平宝字8) 1月家持(47歳)薩摩守に転任。
9月藤原仲麻呂の乱。
10月淳仁廃帝、称徳天皇重祚。
767年(神護景雲元) 8月家持(50歳)大宰少弐就任。
770年(宝亀元) 6月家持(53歳)民部少輔就任。
8月称徳天皇崩御
9月家持、左中辨兼中務大輔就任。
10月白壁王即位(光仁天皇)
772年(宝亀3) 2月家持(55歳)左中辨兼式部員外大輔就任。
774年(宝亀5) 3月家持(57歳)相模守に転任。
9月左京大夫兼上総守転任。
775年(宝亀6) 11月家持(58歳)衛門督に転任。
776年(宝亀7) 3月家持(59歳)伊勢守に転任。
780年(宝亀11)2月家持(63歳)参議に昇任、議政官の一員となる。
右大辨兼任。
781年(天応元)4月山部王即位(桓武天皇)、早良親王立太子。
家持(64歳)右京大夫兼春宮大夫就任。
12月光仁上皇崩御。
家持、山作司(山陵を造る役所)に就任。
782年(延暦元) 閏1月家持(65歳)氷上川継の乱に連座して解任、
京外追放。
5月家持、参議従三位兼春宮大夫に復任。
6月家持、春宮大夫兼陸奥按察使鎮守将軍に転任、多賀
城に向かう。
783年(延暦2) 7月家持(66歳)陸奥駐在のまま中納言に就任(春宮大
夫兼任)。
784年(延暦3) 1月家持(67歳)持節征東将軍兼任。
11月長岡京遷都
785年(延暦4) 8月家持(68歳)死去。
9月藤原種継暗殺事件。家持が関与したとして生前の官
位官籍剥奪、息子・永主ら一族が隠岐へ配流となる。
早良親王、廃太子となり、淡路へ流される途上で死去。
794年(延暦13) 10月平安京遷都
800年(延暦19) 7月早良親王に崇道天皇号を贈り、井上内親王の皇后
位を復し、その墓を山陵とする。
806年(延暦25) 3月桓武天皇崩御。病床にて、天皇から種継暗殺事件
関係者を本位に復する旨の詔が発され、家持も従三位に
復する。
万葉とも大伴家持とも直接の関係はありませんが、写真が無い記事というのも寂しいので、先日、銀輪散歩で姫路に出掛けた折に撮った姫路城の写真を掲載して置きます。
その心は、1298歳ともなれば姫路城と同様に修復工事が必要であるという点で、些かの関連が無いこともない、というものでありますが、もう手遅れという声もあるようにて、姫路城のような甦りは期待できそうにもない妖怪、静かに溶解して行くの他ありませぬかな。
梅の花ひとり見つつや 2024.01.13 コメント(6)
梅一輪の春咲きにける 2023.01.14 コメント(8)
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