友人
・岬麻呂氏からの旅便りが届きました。
恒例の「桜追いかけ旅」でありますが、今年は早すぎる開花で桜前線の北上も速く、加えてコロナ禍によるホテル休館による直前での宿変更があったりという苦労もあっての桜旅であったようです。
旅の次第は、例によってご本人からの「旅・岬巡り報告268」&「同写真説明」をお読みいただくことといたしましょう。
(旅・岬巡り報告268・南東北&同写真説明)
※画像をクリックすると、フォト蔵の大きいサイズの写真画面が別窓で開きますので、それでお読みいただくと、読みやすいかと思います。
なお、その場合、開いたフォト蔵画面がPR画面で覆われるという無粋なことが起こることがあります。この場合は当該PR画面の左上または右下に出ている×印をクリックするとPR画面が消え、フォト蔵画面を支障なく見ることができるようになります。
今回は、4月13日~16日の3泊4日の宮城、山形、福島の旅。
別途メールで送信いただいた写真を、以下、旅程にしたがい、ご紹介申し上げます。
4月13日
関西空港→仙台空港→(レンタカー)→岳温泉→二本松城→猪苗代湖→会津若松・鶴ヶ城→東山温泉・庄助の宿(泊)
仙台空港でレンタカーを借りて、向かわれたのは、初日の宿が会津若松の東山温泉ということもあって、南進、安達太良山麓の岳温泉。
船岡城址や白石一目千本桜が本来のお目当てであったが、既に葉桜だというので断念し、福島駅観光案内所での情報で、標高の高い岳温泉に向かわれたという次第。
(岳温泉・桜坂)
ご覧の通りの満開。
二本松城は葉桜。猪苗代湖は標高が高過ぎて逆にチラホラ咲き。
会津若松の鶴ヶ城は散りまがう桜景色。
(鶴ヶ城)
鶴ヶ城はヤカモチも何度か訪ねているので、懐かしい。
<参考> 越後・会津銀輪散歩
2011.4.23.
4月14日
早朝・鶴ヶ城→喜多方市・日中線廃線敷の枝垂れ桜→押切公園→山形県境・大峠→米沢城址公園→赤湯温泉・烏帽子山神社→新庄市・最上公園→天童温泉天童ホテル(泊)・天童公園と倉津川枝垂れ桜
(喜多方市・日中線<廃線跡>・枝垂れ桜)
廃線跡と聞くと、銀輪家持は自転車で走りたくなるというものですが、ここは自転車道が整備されているのだろうか。
大峠を越えて福島県から山形県へと北上。
桜追いかけ旅ですから、先ず南に下って、そこから北上開始というのは理に叶ったことではある。
(米沢城址)
桜旅のかたわら、ヤカモチ用にと米沢市のマンホールの写真も撮影、これを送って下さいました。
(米沢市のマンホール)
そして、赤湯温泉・烏帽子山神社へ。
(赤湯温泉・烏帽子山神社 石造大鳥居と桜)
烏帽子山神社のこの石鳥居は、石造の鳥居としては日本一の大きさだそうな。鳥居であるから、日本一ということは「世界一」ということでもあるのではと思うが、世界一と言わないところが面白い。
新庄市の最上公園・最上城址へ。
(最上城址)
この日のホテルへチェックインし、夕食を済ませてからだろうと思いますが、倉津川の夜桜見物へ。
(倉津川の夜桜)
倉津川 妹とし行けば 夜桜は みなもにうつし 今盛りなり (夜桜家持)
4月15日
天童公園→仙台経由・大和町ふれあい文化創造センター→大衡村・万葉おおひら館→涌谷町・わくや万葉の里天平ろまん館→石巻かわまち交流センター→女川たびの情報館→松島センチュリーホテル(泊)
倉津川の夜桜に対して、翌朝は天童公園の朝桜であります。
(天童公園の桜)
天童と言えば、天童よしみ、じゃなくて(笑)、将棋の町。
確か前回のこの方面への旅でもご紹介いただいたかと思いますが、今回も天童公園の人間将棋盤であります。
(天童公園の人間将棋盤 正面奥に見えるのが王将の碑)
仙台を経由して北上、大和町から大衡村へ。
大衡村では、こんなマンホールも発見。
(宮城県黒川郡大衡村のマンホール)
さらに北上して、涌谷町へ。
ここでは、「わくや万葉の里・天平ろまん館」と黄金山神社に立ち寄られたようで、そのパンフレットも郵送くださいました。
(天平ろまん館の展示)
(同上・大伴家持自筆の書)
(同上・砂金をデザインしたマンホール)
以上でお分かりかと思いますが、聖武天皇の時代、大仏建立のため大量の黄金が必要となるところ、折よく、陸奥国で金が産出し、聖武天皇はこれを大いに喜ばれ、出金詔書を発されるが、その金の産出地がここ黄金山神社のある山だというのである。
この詔書に於いて、天皇は大伴氏、佐伯氏の名を挙げて、代々よく仕えてくれたとその忠誠に言及されたので、このことに感激した大伴家持は「出金詔書を賀す歌」
(下掲<参考>参照)
というのを作っている。
この歌については、過去の記事
(「 高岡銀輪散歩(その7)
」2012.6.29)
でも触れているが、歌全文を掲載したことがないので、今回はこれを掲載することとしました。
大伴家持は、その歌の中で「小田なる山に金ありと」と詠んでいるが、この「小田なる山」というのが、ここ宮城県遠田郡涌谷町黄金迫にある山、すなわち、式内社・黄金山神社のある山と解されているのである。
もっとも、この歌を詠んだ時の大伴家持は越中国守として今の富山県高岡市伏木にいたので、そこで詠んだのであって、この涌谷の地に立って詠んだというわけではない。
出金詔書が発されたのは天平勝宝元年(749年)4月1日、大伴家持が歌を詠んだのは同年の5月12日。1ヶ月余も遅れて詠んでいるのは、平城京から越中の家持にその情報が届くのに、それだけの時間を要したということであるのだろう。時に家持32歳でありました。
<2021.4.23.追記・注>この年の元号の推移について補足
この年は元号が2回改元されている。
4月14日 天平から天平感宝へ改元
7月 2日 天平感宝から天平勝宝へ改元
従って、正確には、出金詔書の発出は天平21年4月1日であり、大伴家持の歌は天平感宝元年5月12日のこととなる。しかし、後世の書物などではこの年は天平勝宝元年と表記するのが普通で、天平感宝という元号が使用されることはなかった。
この歌の一部は、軍歌「海ゆかば~」の歌詞となっているので、それを知る人は多いと思うが、出金詔書を賀す歌の一部であることを知る人はそう多くはないと思う。
<参考>出金詔書を賀す歌
天平感宝元年五月十二日、越中国の守の館にして、大伴宿禰家持作る。
陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首併せて短歌
葦原 の 瑞穂 の国を 天降 り 知らしめしける 皇祖 の 神の 命 の 御代 重ね 天 の 日継 と 知らし来る 君の 御代 御代 敷きませる 四方 の国には 山川 を 広 み 厚 みと 奉 る 御調宝 は 数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども わが大君の 諸人 を 誘 ひたまひ よきことを 始めたまひて 金 かも たしけくあらむと 思 ほして 下悩 ますに 鶏 が鳴く 東 の国の 陸奥 の 小田 なる山に 金 ありと 申したまへれ 御心 を 明 らめたまひ 天地 の 神 相 うづなひ 皇祖 の 御霊 助けて 遠き代に かかりしことを 朕 が御代に 顕 はしてあれば 食 す国は 栄えむものと 神 ながら 思ほしめして もののふの 八十伴 の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人 も 女童 も しが願ふ 心 足 らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに 貴 み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ 神祖 の その名をば 大久米主 と 負ひ持ちて 仕へし 官 海行かば 水漬 く 屍 山行かば 草生 す屍 大君 の 辺 にこそ死なめ 顧 みは せじと 言立 て ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖 の子どもそ 大伴と 佐伯の 氏 は 人の 祖 の 立つる言立て 人の子は 祖 の名絶 たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言 の 官 そ 梓弓 手に取り持ちて 剣 大刀 腰に取り 佩 き 朝守 り 夕 の守りに 大君の 御門 の守り 我をおきて 人はあらじと いや 立 て 思ひし増さる 大君の 御言 の 幸 の 聞けば 貴 み (万葉集巻18-4094 )
反歌三首
ますらをの 心思ほゆ 大君の 御言 の 幸 を 聞けば貴み (同巻18-4095 )
大伴の 遠つ 神祖
奥城
は しるく 標
立て 人の知るべく (同巻18-4096)
天皇
の 御代栄えむと 東
なる 陸奥山
に 金
花咲く (同巻18-4097
)
<現代語訳>
葦原の瑞穂の国を、高天原から降りてこられてお治めになった神である天皇のご子孫が、幾代も、日の神の跡継ぎとして治めてこられたその御代ごとに、お治めになっている四方の国々では、山も川も広々と豊かであるので、奉る珍しい貢ぎ物は数え切れず、言い尽くすこともできない。しかしながら、我が大君が民衆をお導きになり、大仏建立というよきことをお始めになって、黄金が確かにあるのかと思ってご心配なされていたところ、(鶏が鳴く)東の国の陸奥の小田郡の山に黄金があると奏上したので、ご安心され、天地の神々もお喜びになり、皇祖の神霊もお助けになり、遠い昔にもあったこのようなことを我が御代にも実現したのだから、治めるこの国は栄えるだろうと、神のみ心のままにお思いになり、あらゆる官人たちをお従えになるまま、老人も女子供もそれぞれが願う心の満ち足りるまで慈しみくださり、お治めになるので、このことが何ともありがたく嬉しいことだと、その思いを一層強くし、大伴の遠い祖先の、その名を大久米主と名乗り仕えた役目で、海を行くならば水に漬かった屍、山を行くならば草むした屍となっても、大君のおそばでこそ死のう、わが身を顧みたりはしない、と誓いの言葉を述べて、ますらおの清いその名を昔から今の世に伝えて来た家柄の子孫なのだ。大伴と佐伯の氏族は、その先祖が立てた誓いに、子孫は先祖の名を絶やさず、大君に従うものだと言い伝えて来た役目の家柄なのだ。梓弓を手に取り持ち、剣大刀を腰につけて、朝の守りも夕の守りも、大君の御門の警備は、我らのほかに誰もあるまいと、さらに誓い、その思いが一層増す。大君のありがたき仰せを聞くとかたじけなくて。
反歌三首
ますらおとしての心が湧き上がって来る。大君の有難いお言葉を聞くと。
大伴氏の遠い祖先の墓には目立つようにしるしを立てよう。人がそれと知るように。
天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に、花咲くように黄金が現れた。
(万葉歌碑の副碑)
歌碑は判読不能とて、副碑の写真のみ送って下さいましたが、ヤカモチとしては、判読不能でも歌碑の方の写真を送っていただきたかった、というのが正直なところです(笑)。
(黄金山神社)
我田引水、万葉関連ということで、長くなりましたが、参考までに、送っていただいた「天平ろまん館」のパンフレットを撮影した写真も掲載させていただきます。
なお、大伴家持の生涯についての年表は下記<参考>の過去記事に掲載されていますので、ご参照ください。
<参考> 今年は大伴家持生誕1300年
2018.1.6.
(同上)
(涌谷町のマンホール)
涌谷町のマンホールカードはこのデザインのものをカードにしているらしいが、これは涌谷町公民館前の路上で撮影されたとのこと。
石巻市、女川町、松島町へ。
(石巻市のマンホール)
(女川湾)
(松島)
4月16日
奥松島→松島・西行戻しの松公園→鹽竈神社→七ヶ浜国際村→青葉城→仙台空港→関西空港
最終日は、松島から鹽竈神社、七ヶ浜町へ。
(松島町のマンホール)
これは、規格品タイプのマンホール蓋であるから、松島らしいのは、中央の町章の部分だけである。
(鹽竈神社の桜)
そして、七ヶ浜町のマンホールです。
(七ヶ浜町のマンホール)
(同上・規格品タイプ)
七ヶ浜国際村、青葉城を廻って、仙台空港へ。
走行距離830kmのドライブ桜旅、以上で完結です。
今日もご覧いただきありがとうございました。
なお、旅先でゲットされたマンホールカード全9枚も旅便りに同封されていて、その撮影も行いましたが、今回は写真が多くなりましたので、これの掲載は割愛します。
これらは、下記の市町村のものですが、末尾参考のフォト蔵アルバム「岬麻呂マンホールカード写真集」に収録して居りますので、ご覧になりたいお方はそれをご覧ください。
マンホールカードはブロ友のひろみちゃん8021さんに贈呈すべく送られて来るものであり、追って彼女がご自身のブログでそれをご紹介されるであろうから、ヤカモチがここでこれを掲載しなくてもいいということではあります。
本日、馴染みの喫茶店・ペリカンの家経由で彼女にお渡しすべく、午前中にお届けしたところ、午後2時頃に同喫茶店をご訪問、これを受領されたようで、その旨のメールがありました。
〇福島市
〇福島県河沼郡湯川村
〇新庄市
〇宮城県黒川郡大和町
〇宮城県黒川郡大衡村
〇宮城県遠田郡涌谷町
〇石巻市
〇宮城県牡鹿郡女川町
〇宮城県宮城郡七ヶ浜町
過去の岬麻呂旅便り記事は
コチラ
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フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集は
コチラ
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同上・岬麻呂マンホールカード写真集は コチラ
。
岬麻呂旅便り334・南東北の紅葉 2024.11.20 コメント(12)
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