関本洋司のblog

2004年08月11日
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カテゴリ: コラム
 プルードン(1809-1865)と坂本龍馬(1835-1867)は同時代人である。龍馬の方が25歳ほど若いが、彼らは同じ「敵」と戦った。

 ここで彼らが同じ「敵」と戦っていたことが、彼らの類似を指し示すだけではなく、対等な経済取り引きにもとづく平等を彼らが指向していたことが最重要である。これは両者がともに政治革命ではなく、社会革命を志向していたということである。
 龍馬は刀をピストルに、そしてピストルを『万国公法』(漢訳国際法)に持ち替えたといわれるが、そうした「法にもとづく平等」も両者に共通した指向である(龍馬は『万国公法』の出版を海援隊で計画していたという。海援隊が情報集団として再評価される所以である)。
 プルードンは、政治革命に熱狂する大衆からひとり距離をおき冷静だった。同じように龍馬も、剣=武力に頼った改革からはひとり距離をおいていた。龍馬は朝鮮、中国との同盟も、商船を通じて模索していたという。その同盟の原理はプルードンの相互主義と一致していると言える。
 プルードンは回船業の会計をやっていた経歴があり、晩年の国際的同盟への関心は龍馬との同時代性を指し示すものだ。ちなみに下士の生まれである龍馬は、町人の系譜を持った家系だったことが特筆される。また龍馬の作った海援隊は、海軍の基礎ともいわれるが、同時にその商業のコンセプトは三菱汽船に受け継がれている(それ以前の1865年に龍馬が長崎に作った、海援隊の前身・亀山社中は日本最初の株式会社ヘの試みとして著名である)。
 思想的に龍馬がアナーキストだとは言えないが、龍馬が、トランスバーサルな指向を持っていたことと、『老子』を読んでいた形跡を考えると(龍馬は手紙で一度、老子を連想させる「自然堂」を号している。また、今日では『老子』はアナーキズムの源泉としてとらえられる)、プルードンと龍馬には同じアナーキーと言ってもよいような行動と思想を見出せる。両者の主要な思想は、その手紙からうかがえるというのも相互主義的な観点から見て興味深い共通点である。 
 今日、江戸の環境の視点からの見直しがすすんでいるが、龍馬の業績と33年の生涯(龍馬はプルードンの死の二年後の1867年に亡くなった)を振り返ったあとで見えてくるものは大きいに違いない。

(この文章はTCX掲示板に書き込んだものを書き直したものです)





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最終更新日  2004年08月11日 11時44分24秒


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