ことばの花束(2004/4~ )

ことばの花束


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あなたのことば通じていますか

~手話通訳者のひとりごと~



2005年7月20日
身体障害者を増やす戦争

障害者自立支援法が先日衆議院で可決されました。日本では今、障害者に対する施策が大きく変わろうとしています。
日本の身体障害者福祉法(S24制定)は救貧対策と傷痍軍人施策からのスタートでした。その後戦争のない平和な日本では「傷痍軍人」という言葉さえ死語となりつつあって嬉しいことですが、地球上では戦争は無くなることはなく、そのための身障者が増え続けています。
イラクでも死者数の後ろに手足をなくしたなどの多くの障害者がいるわけです。
「C-Leg」という最新の義足が開発され、車イスに頼らずに歩けるということを知りました。
でもこの義足は痛みを感じることはなくても、本人、家族など多くの人の心の痛みは消えることはないでしょう。
人間は言葉を持っているのに、言葉の花束のやりとりが難しいのですね。
6カ国協議も始まります。言葉の花束の送り手も受け手も花を枯れさせないようにと願っています。


「コミュニケーションの行き違い」      2005年04月30日

こんな言葉が閉鎖中の滑走路を着陸用に指示してしまった管制官と機長のやりとりについての報道に使われていました。
運転士、車掌、司令室にもこの「行き違い」があったのでしょうか。
先生と生徒、親と子、夫婦間で「コミュニケーションの行き違い」はたくさんあるのではないでしょうか。私は聞こえない人と「いきちがい」が多々ある毎日を何年も送っています。その原因はいろいろありますが、手話通訳者としての場合に多いのは、ある言葉の持つ概念の違い(意味の捉え方の微妙な違いなど)とお互いの言語力です。
今日もテレビのレポーターがGWで遊びに行く子供(7~8歳)に「どう過ごしたいですか?」という質問。答えは「幸せに過ごしたいです・・・」。「行き違い」ですね。この場合はもっと具体的に「そこで何をしたいですか?」と質問すべきでしょう。
抽象的な言葉を「行き違い」なく伝えるのはなかなか難しいことで、常に行き違いなく伝わったかどうかの確認が必要だと思います。(テレビを見ながらも無意識にこんなことをチェックしてしまっている自分が時々嫌になりますが)
保育園児や小学校低学年の親に話す時(講演で)必ず話に入れることがあります。
子どもを叱る時、最後に「わかった?」「わかった」で終わるのではなく、お母さんが言った事を再度子どもに反復させることです。お母さんが伝えたかったことと違った内容がかえってくることも往々にしてあります。
子どもの言語力をしっかりみて、理解できる言葉を選んで話すことが大切です。
長く共に生活している夫婦の場合でも熟考して選んだ言葉の花束なのに1~2本枯れていることも多いのです。

「傾聴ボランティアって 」    2005年04月28日

先日NHKの生活ホットモーニングで「傾聴ボランティア」を紹介していました。
人の話を聞いてあげるという活動です。今はNPO法人でこのボランティアの基本技術を学ぶ養成講座もあるそうです。
「傾聴・・・」という言葉は初めて知りましたが、もう随分前から病院へ行って話し相手になるというボランティアをしている若い人もいました。
「この人に心の内を聞いて欲しい」と思うのは、お互いに信頼関係がしっかりできていることが第一だと思います。
私は1ヶ月に1回、高齢者や耳の聞こえない人を自宅に招いて、一緒にお昼を食べ、おしゃべりをしたりすることもしています。この4月でもう6年目です。(1回目は薄墨櫻へ電車で行きました。今より少しだけ若かった!)我が家でだけでなく、車2台で外へ遊びに行くこともあります。(6年で足が悪くて電車では行けない人が増えました)
最高齢者は88歳です。足が悪くて歩いて来れない人は、車で迎えに行って、またお送りします。この間に亡くなられた方、入院された方もいます。
皆さんお孫さんも大きくなって、外だけをみればお幸せそうなのですが、ここでは辛い話を聞くことも多いのです。なかなか人生というのは多くの人がすんなりいかないものなのですね。
高齢者問題って複雑で、他所の家庭の中に入っていくことはできないので、話を聞くだけであって、解決出来る訳でもありません。相手の気持ちをうけとめるだけです。
でも私にとっては人生の大先輩の話を聞かせてもらって、自分を成長させてもらう貴重な時間です。これからもこんな仲間の輪を大切にしていきたいと考えています。

「愛・地球博 ボランティアにも愛を!」     2005年04月27日

今日ボランティアで瀬戸会場に行ってきました。
8:45~14:00入り口のケアセンターで車椅子の貸し出しです。今日は5月中旬の暑さで雲ひとつない晴天。私のいる場所は活動の5時間ずっと太陽の下、日陰なし。
ボランティアに対してまるで厳しいの校則のようなことがあるのです。
私語は慎み、会場の施設(トイレ、エレベーターなど)使用禁止。パビリオンから売店にいたるまで施設に入ること禁止、などなど。
暑くて喉が渇いても近くの売店でお茶を買うことができず。ボランティアセンターに行って、そこに設置されているお茶は飲めるのですが、遠いし、4人で対応しているので一人欠けることも出来ず。(トイレもそこまでいくのですが、今日は水分が蒸発してしまい不要でした)
結局30分の昼食休憩の時に、出されたサンドウィッチの軽食をお茶5杯で食べました。終わってもパビリオンは入る事はできなくても、せめてぶらぶら歩きたいと思ったのですが、終わったらすぐに隅っこのゲートから出されて、はい、おしまい。
バスとリニモと地下鉄で帰り、地下鉄降りたら5~6分で家に着くことが出来るのですが、身体中の血液ドロドロの感あり、で地下鉄降りたコンビニでお茶を買って飲んで帰りました。
これからの暑さ対策は来場者もボランティアにもお願いします。
昔、名古屋の3会場で開かれた「世界デザイン博」のボランティア(手話通訳として)は楽しかった!お昼休みは1時間あって会場をぶらぶら出来たし、世界の珍しいチーズなど買い物も出来たし。この時は6ヶ月間で15回くらい行きました。
今回は5回。あと4回か・・・

「街の中の障害者 」 2005年03月12日

今日、地下鉄の中で成人の知的障害者が乗って来ました。人の絵が描いてある厚紙で作った70センチぐらいのかなり汚れた大きなものを手に。すぐ近くの人がびっくりされたようですが、かなり混んでいたので離れようがなく・・・状態でした。(この障害の人でよくあることですが、一つのものをいつも持っていて、触っているのです)
私は手話通訳者ですが、聴覚障害者だけでなく、視覚障害者、知的障害者、重複障害者など、いろんな方と出会い、楽しくおしゃべりしたりしていますので、それぞれの障害についてを、普通の人よりよく知っているかもしれません。
ある時、地下鉄に乗ろうと改札近くで出会った視覚障害者5人を私の片方の肩だけ貸して乗りました。別にガイドヘルパーの講座を受けたわけではありませんが、何度も会っていると、何をすべきか自然に分ってきます。障害を理解していると‘ちょっと手を貸す’ことが出来るのです。
知的障害者も今は家に閉じこもっているのではなく、施設などに通うため、バスや電車に乗ります。出会った時、奇異な目で見ないで、もっとみんなが自然に対処できるようにしたいものです。
スペシャルオリンピックも終わりましたが、これだけで関心が終わるのではなく、同じ地域に、同じ社会にいろいろな人が一緒に暮らしているのが当たり前という接し方、考えを持ちたいものです。

「情感も言葉によって深められる」

毎日、手話を日本語に換えたり、日本語を手話に換えていると、いつも思うのは日本語の難しさです。
今朝の朝日新聞の社説に「漢字力」について書いてありました。最近は聞かない日、読まない日がないくらい言われている日本語力の低下についてです。
耳の聞こえない人にとって漢字の読み方は本当に難しいのです。音読みと訓読みがありますが、はっきりとしたルールがないのですから。
「日本語をしっかり身につけなければ、考えることも、感じることも、意見を伝え合うことも出来ない。一人前になるために欠かせない能力だ」
「ものごとを考えるのも、自分の考えを表現し、他人の考えを受け止めるのも言葉によってである。‘情感も言葉によって深められる’」
言葉は生活や文化と一緒に習得していくものと思っています。毎日の生活の中で顔と顔を見合わせて、自然に覚えていくものでしょう。
学校での教育を待たずに、子どもにどんどん話しかけて、耳から言葉を入れてください。楽しい気持ちの時が一番頭に入っていきます。言葉豊かな子どもにと願います。
愛知県安城市の事件は、私がサインの講座などで出会っている月齢の赤ちゃんです。心も体も痛みで凍りつく思いの日々、この社説の「情感も言葉によって深められる」の一文が目に焼きつきました。

抽象語の習得は難しいけれどとても大切! 2004年09月17日

 昨日の日記の続きですが、佐世保事件の加害女児について「抽象的なものを言語化することが不器用」とあった。外山氏著の「わが子に伝える絶対語感」の中にも母乳語から離乳語、すなわち目で見えるものの名前でなく、目で見えない感情などを表す言葉の習得が十分できているかどうかを親は見極めることが大切なことと書いてあった。サインの講演に行ったとき、ある人から「3~4歳用の抽象語だけのサインの本を作って欲しい。抽象語を子どもがなかなか覚えないから」と言われたことがありました。このお母さんは少なくとも見極めようとしています。
また、あの女児は「人と人とのコミュニケーション能力に劣り・・・」とある。
成績優秀だった子が??と思ったのですが、こういうことが見極められていなかったということでしょうか。
また「物事を断片的にとらえる・・・」ともありました。
私も言語についていろいろ考え、みてきての私個人の実感でしかないのですが、言語能力が劣ると物事を全体的に捉えら
れず、「断片的に・・・」の傾向にある気がしています。かくいう私も自分の思い、考えを相手にきちんと伝えられず、気持ちを伝えることの難しさはこの年になっても・・・です。
御手洗さんの「寂しさがスクラムを組んでやってくる」ことが二度と起こらない様、大人は今何をすべきか、大切なのは何かをきちんと考えなければなりません。

アテネパラリンピック2004 2004/9/12

今回のパラリンピックへの日本の参加者は163名。皆さん今まで一生懸命、自分の使える能力を磨いてきたことでしょう。障害者との付き合いが始まってからの、私の障害者の見方の違いは、「この人は何ができて、障害の故に絶対出来ないのは何かということを見極める」ようになったことです。
障害者だからといって、なにからなにまで‘やってあげる’のはとても失礼なことです。聞こえない人が電話できないからといって、ダイヤルを押すことまでやってはいけないということです。どうしても出来ない‘聞くこと’の部分のみ手伝えばいいことなのです。
パラリンピックを見て、この障害の人は何が出来て何が出来ないのかを考える機会にし、本当の障害者理解を一歩でも進めたらいいなと思っています。そうすれば街で出会ったとき、何を手伝えばいいのか分って自然に手がでるでしょう。

「ことばが壊れている」 2004年09月02日 

今朝の新聞で天野祐吉氏が「もっと話そうよ」というタイトルで「人と人との関係はことばでつくられる・・・親と子を繋ぐことば、夫と妻を繋ぐことば、先生と生徒を繋ぐことば・・・今はどのことばも壊れている。ボロボロになっている。・・・」とあった。
一昨日の午後、前日の台風で巣が半壊し、一生懸命直しているスズメバチの巣に知らずに近づき両手を刺されました。みるみる腫れあがって来て激痛。近くの市民病院に電話して走りました。若い美人の医者が私に話したのは最初の「どこを刺されたのですか?何時にですか?」この二つのみ、後はカルテに書き込んでいる。横にいる年輩の看護士さんが激痛で顔が歪んでいる私を見て、先生に「薬はすぐ飲んだ方がいいですよね」「冷やした方がいいですよね」と言ってくれたのに「はい」と表情一つ換えずに答えただけ。その間2~3分。
もし私が耳の聞こえない人間だったら、ことばも少なく、表情もない先生からでは、何もわからず不安だろうなと思って帰りました。
両手は3日経った今もパンパンに腫れて、皺の全くない手になっています。みなさんも蜂とことばにはご注意ください。

24時間テレビ 「明るく生きる」 2004年08月23日

24時間テレビの最後はいまも「サライ」の歌で締めくくるのですね。全部は見てませんが、障害者が「明るく」生きる姿も紹介されていました。
私も手話に関わって、聴覚障害者だけでなく、いろいろな障害者に出会ってきました。盲の人、車イスの人など。自閉症児のお母さんたちのグループとも出会い、一生懸命情報を交換しながら子育てをしている姿に感動したり。重複障害者の家族の人たちもとても明るく元気でした。その「明るく」に対する答えは「毎日の生活に‘明るい’ことなんて何もない。だから明るくする努力をしているのだ」と。
人間はひとつの夢を持っていれば、それに向かっている間は、明るくひたむきに生きられるのかもしれません。私の夢はみんなの夢と。

「うなづき、あいづち」してますか? 04月02日(金)

 手話通訳していて、聞こえない人が分ったという意思表示で、うなづいてくれると通じているのだとほっとします。
最近うなづきや、あいづちをしない人が増えているという話を聞きました。
ケータイの会話ではあまりないでしょうし、パソコンでのおしゃべりもないでしょうね。顔を見合わせての会話が少なくなったからでしょうか。
講演会の通訳をしていても、聞こえない人はきちんとうなづいてくれていることが多いです。
手話は顔と顔をあわせて話すからでしょうか。
やはり、うなづきやあいづちを返すことは、一生懸命伝えようとしている相手へのおもいやりと思いますし、コミュニケーションが豊かに弾むようになります。

ケータイからのメロディ?音? 04月01日(木)

 本「ケータイを持ったサル」(正高信男著)がよく売れています。今日の朝刊にも「中高生の4割が食事中にもメールをしていて、母親の半数が自分もしているので叱らない」と載っていました。
昨日特急にのって帰宅しました。車内は空いていて、私が降りるのは終点駅。疲れていたので眠ろうと目を閉じたら、どこからか音楽でもないしと思える音が絶え間なく耳に入ってきます。2列前の席の若い女性2人の手にケータイ2台。
話しているのではなく、音楽をきいている。
ケータイは今やたんなる携帯電話でなくなり、いろんなことができます。車内で話す人はほとんど無くなりましたが、
他の機能を使う時のマナーはまだ確立されていません。
注意してもいい範囲かどうか私自身不明。
人と顔を見合わせてのコミュニケーション力がおちるのは、当然ですが、下手な人が多数になると、世の中はどうなるのかも不明で、心配です。


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