ホタテバーガー☆ミ

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近藤勇



言わずと知れた 新選組局長 。天保五年10月9日生まれ。号は「東州(とうしゅう)」

武蔵国多磨郡上石原村の百姓宮川久次郎の三男として生まれる。
幼名は勝五郎、のちに勝太。
宮川家は高七石一升二合、6人家族で多磨郡大沢村の禅宗龍源寺の壇那であった。(天保9年の上石原村の宗門人別帳)
天保7年(1836)当時、祖父源次郎、父久次郎、母みよ(おえい)長兄音次郎(音五郎)二兄粂蔵(粂次郎、惣兵衛)、勝五郎(勇)の六人家族

嘉永元年(1848)11月11日天然理心流近藤周助に入門し翌年6月に目録、同年10月19日に周助の養子となり島崎勝太を名乗る。
安政5年(1858)の日野宿牛頭天王社(日野市八坂神社)の奉額には「島崎勇藤原義武」とある。
万延元年(1860)3月29日御三卿清水家の邸臣松井八十五郎の長女ツネと結婚。
ツネは天保8年(1837)9月10日生まれ。
文久二年(1862)長女タマが生まれる。

文久元年(1860)8月27日天然理心流四代目を継ぎ同日に府中宿六所宮(府中大国魂神社)の東の広場で野試合調練を行った。

文久3年2月、浪士隊として上洛を決意した近藤さんは試衛館に集う仲間と共に試衛館を後にして、 傳通院 へ集合し中仙道を京へ旅立つ

試衛館跡地試衛館の案内板

市谷甲良町試衛館跡地は今こんな感じ。
跡地の奥にはちいさなお稲荷さん
きっと試衛館の人達もおまいりしたんでしょうvv

稲荷社

近藤さん一行が京都へ行って新選組になり、都の治安を守る為命をかけて戦ったのは周知の事実。
養父であり師匠であった周助先生の御見舞いに帰ることも出来ずに、必死になって守った都がやがて牙を向いて襲い掛かってこようとは一体誰が予想しえただろう

慶応3年10月28日、隊士募集の為東帰していた土方さん一行を見送ってすぐ、周助先生は四谷の隠居先において死去。76歳

近藤周助

なお周助先生のお墓は港区芝公園「金地院」(こんちいん)にあり、墓石には「慶応3年近藤勇昌宜」と施主の名前が刻まれている。
だが、参る人もあまりないのかなんだかがらーんとして寂しげな感じ。

だが、お参りをして振り返ると… 東京タワー がばばーん!
東京タワー

なかなかスゴイ場所なのだ。

慶応3年12月、近藤さんは御陵衛士の残党に襲われて肩を負傷、鳥羽伏見には参加できず江戸へ戻るが再起をかけて戦いに望んだ甲州勝沼の戦に敗れ、永倉新八、原田佐之助とも別れ土方さんと二人流山へ転陣したところを包囲され、投降。
土方さんの助命嘆願運動もむなしく4月25日、その生涯を終えたのだ。享年35歳。

貫天院殿純忠誠義大居士。

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