記憶の淵に沈みゆくもの

記憶の淵に沈みゆくもの

||44||<十二国>


||44|| ああ、綺麗。

柳を移動しながら、楽俊とはたくさん話した。
私は本当に分からないことがたくさんあって、
だからこそ「知らなかった」で済ませたくない事柄がたくさんあることに気づいた。
だから、分からないことや気づいたこと、気になったこと。
全部、隣の半獣に聞いた。
最早私の中では、「半獣」という言葉は差別用語ではない。
そういうことも、楽俊から学んだように思う。
芳から恭へ、そして柳、雁、慶。
私が経験してきたことは、全部無駄ではない。
これから「生きていく」ために、必要な時間だったのだ。

書庫の片隅で遠甫に頼まれた本を探しながら
そんなことを思い出していたら
唐突に肩を叩かれて、本当に飛び上がって驚いてしまった。
「きゃあ!」
いくつか抱えていた本が、ばらばらと床に落ちる。
人の気配など一つもなかったはずなのに。
脈打つ心臓を押さえながら振り返ると、鮮やかな紅の髪が目に飛び込んできた。
慶国の王である、それより以前に、私の友達である陽子が
気軽に肩を叩いた姿勢のまま、明るい碧の瞳を見開いていた。

「……ごめん」
慌てて膝をつき、落ちた本を丁寧に拾ってくれながら陽子が謝る。
私はまだ、驚いた反動で胸を押さえたまま固まっているのに。
動かなければと思うのだが、動けないのだ。
息すらまともにできているのか、自分でよく分からなくなっている。
「驚かせるつもりはなかったんだ。
 地官からの書類で分からないことがあったから、調べようと思って来たら
 祥瓊の後ろ姿が見えたから……」
しどろもどろに言い訳をしているような言い方に、つい笑ってしまう。
「そんな、言い訳みたいな言い方をしなくてもいいわよ」
同じようにかがみ込んで、残りの1冊を拾いながら言うと、
心底からの表情で、「本当にごめん」と謝られた。
陽子のこういう素直なところが好き。
「いいのよ、本当に気にしないで。ありがとう」
笑ったままで、拾って貰った本を受け取り。
私が立ち上がるのと一緒に、陽子も立ち上がった。
頓着せずにかがみ込んでくれる人だからなのだが、膝が埃で白くなってしまっていた。
「あ」
「あ」
陽子と私、同時に気づいて視線が集中する。
すぐにしまった、という顔になる陽子。
本当に素直だと思う。
微笑(わら)いながら軽く払うと、埃は簡単に落ちた。
目立たない程度には白さも落ちている。
「問題ないわよ、大丈夫。
 ここのお掃除の官には、手抜きしないように言って貰わないとね」
茶目っ気を出して片目を瞑ると、陽子が柔らかく笑んだ。

書庫の隣に、調べものをする人のためのちいさな部屋がある。
陽子の探し物を一緒に探して、その部屋へと持ち込むと
ちょうどいいことに簡素ながらも茶器が置いてあった。
書庫の中は乾燥している。
喉も渇いたことだし、と陽子が目をきらきらさせて私を見るので
仕方がないわね、と一服することを承諾した。
こちらの部屋には柔らかな日差しが入り込み、暖かな空気が広がっている。
そこに蒸らしている最中の茶の甘い香りが混ざり、
あっという間に気持ちの良い空間へと早変わりした。
「……ああ、綺麗だ」
小さく漏れた陽子の声に、目線だけをあげてみると、
両肘をついてあごを支えてこちらを見ながら、陽子はにこにこと笑っている。
「なにが?」
「祥瓊が」
「……褒めてくれても何も出ないわよ」
間髪入れずの返事に茶杯を私ながら答えると、陽子はまじめな顔で見つめてきた。
「本当のことなのに、祥瓊は信じてくれない」
そう言いながら、茶杯を置いて私に向かって手を伸ばす。
「この紫紺の髪も……」
顔の脇の一房を手にとって、慈しむように撫でるその手。
「紫紺の瞳も、きめの細かい肌も……」
手は頬へと伸び、指先が目元を優しく撫でる。
黙ってされるがままにしていたら、やがてぷっと陽子が吹き出した。
「慌ててくれると思ったのにな、誤算だった」
「冗談も休み休みお願いしたいわ。
 このあと浩瀚さまにしごかれるのでしょう?
 あんまりのんびりしすぎると台輔にしかられるわよ」
頬に添えられたままの手をやんわり外して。
にっこり笑ってそう言うと、陽子は眉間にしわを寄せる。
「あら、そんな顔をすると台輔にそっくり」
そう笑うと、陽子の顔はさらに渋面になった。

一通り陽子をからかい、陽子からもからかわれ。
部屋を出るときにはすっかり気持ちが浮上していた。
「じゃ、頑張ってしごかれてくるよ」
またね、と笑顔で手を振って背中を見せた陽子に、私も笑顔で答えて。
後ろ姿を見送りながら、心の底から思った。

ああ、綺麗。
あなたのその心が。


end



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祥瓊視線ですね。
陽子に祥瓊をからかわせてみました。
祥瓊は自分の過ちに気づいてから、とても素敵な女性になったと思うのです。
でもきっと、自分の内面的美しさはまだまだ未熟、と思っているとも。
外見だけ褒められても、あまり喜ばなそうな気がします。
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