しかたのない蜜

しかたのない蜜

神域の花嫁 11~15


「うん、なんとなく……大人っぽくなったっていうか」
「っていうかさー、綺麗になったんだよ! だからあんなに人気者になったのよね」
 こういった会話が最近、凛太郎のクラスメイトたちの間でよく交わされている。
 昼下がりの教室で、女子生徒たちが窓際で弁当を食べている凛太郎を遠目で見ながら今日もそんな会話を繰り広げていた。
 凛太郎の周囲には人垣ができていた。男子、女子を交えた十数名が凛太郎の機嫌をあれやこれやと取っている。映画のチケットが偶然二枚手に入ったから一緒に行かないかと誘うもの、人気アーティストのCDを買ったからうちに聞きに来ないかと誘うもの。
 当の凛太郎はといえば、その都度、適当に返事をしながら窓の外をぼんやりとながめている。陽光に照らされた凛太郎の横顔は誰が見てもため息が出るほど美しかった。それまでの凛太郎も可憐な容姿はしていたが、どことなく幼さが抜けきらず、おどおどしたところがあった。それが薄もやが晴れたようにぬぐいさられたのである。
 ほんの一ケ月ほど前からその変化は始まった。
 凛太郎に起きた変化は容姿だけではなかった。
 それまで凛太郎とつねに行動をともにしていた明とたもとを分かったのである。
 今日も明は男友達たちと、凛太郎からかなり離れた席で弁当を食べている。下校も、同居しているというのに登校まで別々だった。
 べつにけんかしているというわけではないらしく、凛太郎が話しかければ明も答える。座席が隣同士なのでどちらか(主に明)が教科書を忘れたら、もう一方が見せたりもする。
 けれども以前のように、明がところかまわず凛太郎にじゃれつくことはなくなったのだった。
 明は明で凛太郎と違った親しみやすい人柄と男らしい風貌が好まれているので、クラス内では凛太郎派と明派ができてしまうほどであった。
 凛太郎が変貌する以前ならいざしらず、今では隙あらば明の座につこうとする男女が凛太郎の周りを取り囲んでいるから、二人の不仲をからかおうとするものもいなかった。
 約一名をのぞいては。
 凛太郎のうわさ話を聞いていた里江は、昼食のサラダとオレンジを食べ終えてからガタンと席を立って凛太郎に歩み寄った。
 明は横目でそれを一瞥したが、すぐに焼きそばパンをほおばりながら友人たちとの雑談に戻った。
「ずいぶんモテモテじゃない、凛太郎くん」
 マイクロミニに改造した制服につつまれたウェストに手を当てて、里江はおどけた口調で言った。
 凛太郎の取り巻きたちは突然の闖入者を一瞬にらみつけたが、里江の眼力に押されてすぐにうつむいた。
「君にはそういうふうに見えるのかな?」
 食べ終えた弁当箱のふたを丁寧に閉めながら凛太郎は答えた。大きな双眸が静かに里江を見据える。
 里江はしばし毒気を抜かれた様子だったが、すぐにもとの勝ち気な表情に戻った。
「ええ、見えるわよ。たくさんの家来をひきつれた女王様にね!」
 凛太郎はちらりと明に視線を送った。明は凛太郎には見向きもせずに友人たちと笑い合っていた。
 凛太郎の表情がくもったのに気づいて、里江は勝ち誇ったように言葉を続ける。
「あんたさあ、最近ずいぶん色っぽくなったじゃない。ひょっとして誰かとエッチでもしたァ?」
 里江の物言いに教室中の空気が凍り付いた。
 凛太郎の変貌は色恋沙汰のせいではないかと誰もが口に出さないまでも考えていたからだった。
 凛太郎の白い顔に憂いをおびた笑みが広がった。凛太郎の取り巻きたちから一斉にため息がもれた。
 里江のマスカラをたっぷり塗った目がみるみるうちにつり上がった。
「あんた、何余裕かましてんのよ! あたしをナメてんじゃないわよ!」
 里江が手首にスナップを利かせて凛太郎を平手打ちしようとした瞬間。
 窓から野球ボールが飛んできて里江の頭を直撃した。
「……まただ」
 失神して床に倒れる里江を前に、凛太郎は青ざめてつぶやいた。
校庭でキャッチボールをしていた生徒が投げたボールが里江に直撃した。
 ことの真相はこんなありふれたものだった。普通なら単に「運が悪い」でそれは済まされることだった。
 だがここのところ凛太郎に危害を加えようとしたものはことごとくこういった目に遭っていた。
 廊下で凛太郎が自分の足を踏んだとからんできた不良はその後階段から転げ落ちた。凛太郎が伸一郎に「父さん、僕にばかり掃除させないでよ」と文句を言ったら、伸一郎は夜の歓楽街で車にひかれて全治二週間のケガを足に負った。
 凛太郎がここのところ、クラスで一目置かれだした理由には「凛太郎にはたたり神が憑いている」という噂が立ったからだった。
 それがかえって凛太郎を神秘的な少年に見せ、カリスマ的な人気を生み出している理由のひとつなのは皮肉だった。
「俺、以前から里江のこと気に入らなかったんだ」
「私も私も!」
「自分の親父が社長で、今度リゾートホテルを建設するからっていい気になりすぎてるんだよ」
「成金の娘のくせにね」
 明に保健室に運ばれていく里江を見送りながら、凛太郎の取り巻きたちが小気味よい声をあげた。
 凛太郎は里江を背負って廊下を歩いている明を見て、ズキリと胸が痛んだ。
 凛太郎と明はあれからーーーー凛太郎が鈴薙に抱かれてから、ほとんど口を聞いていない。また明が凛太郎のそばにやってくることもふっつりとなくなった。
 凛太郎自身も鈴薙と肌を交わしてから明を避けるようになった。いつも明は凛太郎を影になり日向になりして支えてくれた。「俺は凛太郎にぞっこんだから」が口癖だった。そんな明の前に他の男に抱かれた自分をさらすのは罪悪感があるのだ。
 しかし本当に凛太郎と鈴薙が交わったかどうかはさだかではない。
 凛太郎が鈴薙によって絶頂を迎えた後、目を覚ますと凛太郎は元通りの衣服を身につけて自室で寝ていた。
 すでに朝がやって来ていた。日は高く昇っていて、凛太郎が居間に行くと伸一郎に「凛太郎、フテ寝の上に朝寝坊かよ。今朝の境内の掃除は明くんが全部やってくれたぞ」とからかわれた。
 明は台所に立って朝食の支度をしていた。凛太郎があわてて手伝いを申し出たら、明は凛太郎を一瞥してからサッと目をそらした。いつもなら伸一郎とともに凛太郎をからかってきそうな明だというのに。凛太郎が「どうしたの? 何かあった?」と尋ねても明は「べつに」と言いながら、みそ汁をかきまぜるだけだった。それから三人は明の作った具のほとんどないみそ汁とトーストというめちゃくちゃな献立の朝食を気まずく食べた。
 鈴薙との一夜をただの淫夢だと思い始めていた凛太郎は洗面所にある鏡の前でその考えをあらためた。凛太郎の細い首筋や体のあちこちには鈴薙のつけた愛咬の跡があった。さらに着替えると凛太郎の胸元には楕円形のしこりのようなものがあった。触れるとそこはかすかに痛んだ。
 何より凛太郎の体に残された快楽の記憶は強烈だった。何かの拍子でふと鈴薙の感触を思い出した時、凛太郎の肌はすぐに火照ってしまうのだ。
 そんな時、凛太郎はひどくジレンマに陥る。凛太郎は今でもみだらなものを嫌悪している。里江が明に何かとベタベタするのも気にくわないし、伸一郎が下品なお色気テレビ番組を見てやにさがっているのも嫌だ。みだらなものが嫌なのだ。
 だが、鈴薙の下でもだえていた自分は何なのだろう。そして、あの交わりの悦楽を忘れられない自分はみだら以外の何者でもないのではないか。
 凛太郎は以前より早く起きて禊ぎに長い時間をかけるようになった。冷たい水が自分の体を何も知らなかったころに戻してくれることを祈った。明を起こさずに境内へ向かうと、すでに明は凛太郎よりも早くそこにいて、てきぱきと掃除を進めている。凛太郎は明に何か話しかけたいと思う。
 だが、明に以前のように接するには自分は汚れていると思うからそれはできない。明の方も凛太郎には干渉してこない。
 結局、凛太郎は道祖神をなるべく見ないようにして清掃を終え境内を去るのだった。
 鈴薙と再会するのではないかという期待と不安を乗り越えて、刀が奉納されている本社にも行ってみた。社の中に刀はあった。
 最初見た時とはうってかわった打ち立ての冴え冴えとした輝きを得て鬼の封じられているという刀はそこにあった。
 それは鈴薙との一夜が夢ではないことを凛太郎に明確に告げていた。
 凛太郎は背筋を凍らせながら本社を後にした。
 凛太郎の身の上に起こった異変はそれだけではない。胸にできていたしこりは徐々に大きくなっているのだ。しかも時折鋭い痛みがある。医者に行くことも考えたが、鈴薙との一件からそれもはばかれるような気がしたのだった。

 境内から見える青い山がそろそろ見られなくなってしまう。
 凛太郎はそれを少し残念に思いながら、日曜の境内を掃き清めていた。明は凛太郎から少し離れたところを掃除していた。その背中になにか声をかけたかったが凛太郎はその言葉を今は持たなかった。
 杉原里江の父親が経営する会社が今度、あの山上にリゾートホテルを建設するのである。
 なんでもあの山から温泉が湧出しているのが発見されたそうで、それをきっかけにホテル建設が決まったのだった。
 乙女山というその山は小さいながらも古来から霊山とされている。昔の人間は恐れおおくてほとんど踏み入ろうともしなかったのにそれを削るなんて、と氏子のおばさんはこぼしていた。
「凛太郎ちゃん、ひさしぶりだねえ」
 おだやかな呼びかけに凛太郎は振り返った。
「おひさしぶりです、タエさん、ウメさん」
 赤い鳥居を背にして鬼護神社の氏子である二人の老婆、タエとウメは微笑んでいた。凛太郎が小さなころからすでに大きな孫がいる年だったからかなりの高齢だろう。以前は祭りのたびに何かと手伝ってくれたが、最近は足腰がすっかり衰えたとかでなかなか姿を見せなかった。
「凛太郎ちゃん、お父さんはどこにおられるの?」
 杖をついたウメが尋ねた。すでに息が切れている。凛太郎はウメに手を貸しながら答えた。
「父さんはケガして寝てますけど」
「知ってるよ。あたしたちの間じゃ大事件なんだから」
 タエが重々しく言った。
「え、そうなんですか? ひょっとして父さん、みなさんの前でいつも何か妙なことやらかしてるからとか……」
 凛太郎はおそるおそる尋ねた。伸一郎のソープ通いがタエたちにも知れ渡ったのではないかと本気でおびえていた。
「あんたの父さんはあたしたちの恩人なんだよ」
「えっ?」
 凛太郎はタエが自分をからかっているのだと思った。神社の掃除もロクにしないあのぐうたら神主が他人の恩人になるとはとても思えない。
「伸一郎ちゃんはいつも私たちの家に食べ物やお菓子を手みやげにして寄ってくれるの。一人暮らしの私たちが体をこわしたり、寂しく思ったりすることがないように気を配ってくれているのよ」
 ウメは目頭を押さえて涙ぐんでいた。
「あたしたちは一人暮らしの年寄りだからねえ。子供や孫たちはみんな都会にいるから……。あんたのお父さんのおかげでどれだけ助かってる年寄りがこの町にいるかわかりゃしない」
 ウメは「みんなから預かってきたんだよ」と見舞い袋を手提げ袋から取り出して凛太郎に見せた。「清宮伸一郎様」と楷書で書かれた封筒はかなり分厚かった。年金暮らしの老人たちにとっては大金だろう。
「後で宅急便で果物が届くように手配してあるからね。伸一郎ちゃんは昔からメロンが大好物でしょ」
 ウメがフフっと笑った。
「父さん、ひょっとして昼間にみなさんのところに行ってたんですか?」
 ウメとタエはうなずいた。
「あたしたち年寄りは夜が早いからね」
 ウメは答えた。伸一郎が昼間、凛太郎が学校に行っている間、境内の掃除をしなかった本当の理由を凛太郎は初めて知ったのだった。
 ウメとタエは凛太郎に教えられた通り、伸一郎がいる部屋へいそいそと向かった。
(僕、父さんが氏子のおじいさん、おばあさんにそんなことしてたなんて知らなかった……)
 凛太郎は二人の老婆の背中を見送りながら心の中でつぶやいた。伸一郎は凛太郎に告げることもせずにしっかりと他人の役に立っていたのだった。いくらでも凛太郎に弁解する機会はあっただろうにそれをしない伸一郎は凛太郎の思っていたよりはるかに大きな人間だったのかもしれない。
 そんな父親に「大嫌い」などという言葉を投げつけた自分のあさはかさを凛太郎は恥じた。
 凛太郎は大きくため息をついて境内の掃除を再開した。それくらいしか今の凛太郎にできることはなかった。
 そんな自分を明が遠くから見守っていたことに凛太郎は気づいていなかった。

ここのところ凛太郎は体調不良に悩まされていた。
 朝起きるととてもだるい。境内の掃除もつらいほどだ。明が率先してやってくれなければ鬼護神社は今ごろ荒れていたことだろう。食欲もない。かろうじて自分で作った弁当もほとんど残すので取り巻きたちはひどく気をもんだ。
 夕飯をほとんど残した凛太郎に、伸一郎が何気なく言葉をかけた。
「なんか最近のお前、つわりでも起こしてるみたいだな。食欲もないし、顔色も悪いし」
「つわりだなんて……男の僕が妊娠なんかするわけないだろ」
 そう言い捨てて凛太郎は食卓から台所に引っ込んだ。洗い物をするつもりがめまいがして、派手に皿を割った。
 明が食卓からやって来て、心配そうな顔を見せた。明は無言で皿を片づけ始めた。
「悪いけど、後かたづけやっておいて。僕、しばらく休む」
 凛太郎はようやくそれだけ言って自室に引きこもった。
 胸が焼けるように熱い。身につけていたトレーナーを脱いでみると、肩にあったしこりは今や大きなものになっていた。楕円形が渦を巻いたような妙な形をしている。
”……俺の子を産め。愛しきわが妹よ”
 あの夜の鈴薙の言葉が凛太郎の脳裏によみがえった。
 凛太郎は自らの体を両手でかばうように抱きしめた。月明かりのさしこむ窓辺から、誰かが自分をじっと監視しているような気がしたからだった。
 翌日の放課後、凛太郎は秀信に屋上に呼び出された。
 強い風が屋上には吹いていた。たそがれ始めた空には乳雲が立ちこめていた。秀信は背広の裾をひるがえして、凛太郎を待ちかまえていた。
「何かご用ですか? 先生」
 凛太郎の呼吸は乱れていた。たかが階段を昇っただけでここまで疲れてしまう体になっていたのだ。しこりが大きくなり始めたころからこんな状態だった。
 秀信は凛太郎に歩み寄った。眼鏡の奥の双眸が鋭く輝いている。その気迫に凛太郎はあとじさった。
 秀信はふぃっと手を伸ばして凛太郎の肩に触れた。
「な、何ですかっ」
「肩に髪の毛がついていただけだ」
 秀信は静かに言った。凛太郎がひと安心しかけた時、秀信は言葉を続けていた。
「ここのところお前は授業中も顔色が悪い。それによく胸元を押さえているな。どこか悪いのか。見せてみろ」
「べ、べつに……」
「見せてみろ、と言っているんだ!」
 秀信は凛太郎のシャツに手をかけようとした。凛太郎はとっさにその手をはらいのけようとした。あの奇態なしこりを見られるのはイヤだったし、何より秀信のいつにない激しい様子が凛太郎には怖かったのだ。
 凛太郎の体は秀信に押し倒されていた。コンクリートに転倒する衝撃がなかったのは、秀信がとっさに凛太郎の腰をつかんで抱きかかえるようにしたからだった。
 抵抗する間もなく、凛太郎は秀信に馬乗りにされていた。両腕を押さえつけられ、身につけていたシャツをはぎ取られて、凛太郎の胸元は秀信にさらされた。
「何だ、これは……?」 
 秀信は眼鏡の奥にある双眸を見開いた。
 秀信がめずらしく狼狽する様に凛太郎も驚いて、自分の胸元を見た。
 そこにあったしこりは今や生物と化していた。ひとつは赤く、もうひとつは青く色づいている。その形状は凛太郎が教科書で見た古代の装飾品だという勾玉そっくりだった。ただ瑪瑙や玻璃といった石でできたそれと違い、凛太郎の胸にあるものはぬるりとした肉感があった。先頭部分には黒い目玉がついている。
 その目玉が自分を見たような気がして、凛太郎は息を飲んだ。
「清宮。これは?」
「み、見ないで……」
 秀信はなおも凛太郎の胸のしこりーーーーいや、その寄生物に手を触れようとした。
「やめてーー!」
 凛太郎は叫んだ。
 その時、青白い閃光が凛太郎の体から発せられた。
「うわああああ!」
 秀信は悲鳴をあげてニメートル近く吹っ飛んでいた。うずくまった秀信が起きあがらないうちに凛太郎は屋上から走り去っていった。
(先生に、弓削先生にあんなことをしちゃうなんて。それにこんな気味悪いものが体にできちゃうなんて)
 凛太郎は涙を拳で握りながら階段を駆け下りた。
(僕の体、どうなってるんだ?)
 そろそろ逢魔ケ刻が訪れようとしていた。

そのまま凛太郎は逃げるようにして帰宅した。
 体のだるさは急速にたかまっていた。奇妙な生物が宿っている胸元はしくしくと痛んでいる。脂汗を流しながらよろよろと歩く凛太郎に道行く人々は奇異な視線を注いだ。だが凛太郎はそれを気にしている余裕はなかった。
 凛太郎はようやく鬼護神社に着いた。今日は風が厳しいからか境内には誰もいなかった。赤い鳥居は夕闇の中、は虫類の皮膚のようにぬらりと光っていた。その妖しい輝きに凛太郎は吐き気がした。冷たい汗が吹き出ている体を風がざわりとなでつける。
 凛太郎は這うようにして境内を抜け、家に入った。ドアは開いていた。
「父さん、明。誰かいないの?」
 どうにか声に出して言ってみたけれど返事はなかった。明とは最近一緒に帰宅していないし、伸一郎はおおかたどこかで遊びほうけているのだろう。
 凛太郎は家族の不在を嘆く余裕もなく、よろよろと階段をのぼった。とにかく自分の部屋にあるベッドで横になりたかった。それ以外もう考えられなかった。
 自室のドアを開けた凛太郎は部屋の電気もつけないまま床にかばんを置いて、ベッドに倒れ込んだ。あいかわらず痛みを放っている胸に触れると、シャツの上からでも恐ろしいほど熱があるのがわかった。
 凛太郎はひたすら眠ることにつとめた。痛みから逃れる術は今のところそれしかなかった。

 風が髪をそよがせる感覚に凛太郎の目は覚めた。
 辺りは真っ暗になっていた。天井には月明かりが射している。首をまわして部屋のガラス戸に目をやるとちょうど鈴薙と交わった夜と同じ綺麗な満月だった。
 胸の痛みはあいかわらずだった。凛太郎はうめきながら体をベッドから起こそうとした。
 そして気づいた。
 窓辺には、すでに散ってしまったはずの桜が満開になっていることを。
 そしてその桜の木の上で鈴薙は赤い髪を風になびかせながら凛太郎に微笑みかけていた。
 凛太郎は鈴薙の凄惨な美しさに息をのんだ。
 鈴薙はフッと笑うと、桜の木から凛太郎の窓に飛び移った。人間のものとは思えない身軽さだった。鈴薙の唇は何かをつぶやいていた。すると鍵がかけられていたはずのガラス戸が開いた。
 凛太郎が驚く間もなく、鈴薙は部屋に入ってきていた。
「会いたかったぞ、わが妹よ」
 鈴薙は白い袴を風にそよがせながら凛太郎に歩み寄った。精悍さと優美さが絶妙にいりまじった顔は、心からの笑みを凛太郎に向けていた。
 その笑顔のすがしさに凛太郎はこの美しい鬼の瞳にまた吸い寄せられてしまった。途端に、体の自由が利かなくなった。あの晩と同じだった。
「もっとも今のお前に会うまでの幾星霜の別れに比べれば、このいとまなどまばたきのようなものだがな。お前と交わり、気を高めてから俺は少しずつ妖力を取り戻していった。長きの間、刀に封じ込められていてすっかり力は衰えていたからな。だがもう大丈夫だ。こうして社以外の空間にも出られるようになった」
「ぼ、僕、あなたの言っていることがわからないよ……」
 凛太郎はベッドに腰をおろしたまま言った。本当は部屋から逃げ出したいのだが体が言うことを聞いてくれなかった。
「それは仕様のないことだ。現世に生まれ変わった時に、人はすべての前世の記憶を失ってしまうのだからな。今のお前は過去の俺との思い出も、術のこともすべて忘れ去っているだろう。だが案ずることはない。この俺がすべての記憶を取り戻させてやる。そしてお前を俺の色に染め上げてやる」
 鈴薙の切れ上がった双眸は妖しく金色に輝いた。凛太郎はうめいた。恐怖と胸の痛みに耐えかねたからだった。
 鈴薙は心配げに美しい眉をひそめて、凛太郎にすぅっと歩み寄った。凛太郎の華奢な肩をつかんでシャツをはだけた。
「ほう……」
 一転して鈴薙の顔は喜びに変わった。凛太郎は鈴薙の目線をたどって自分の胸を見た。そこには赤と緑の寄生生物がひくひくとうごめいていた。
 凛太郎は悲鳴をあげた。
「案ずることはない」
 凛太郎の頭を鈴薙は優しく撫でた。子をいさめる父のようなしぐさだった。
「これは俺とお前があの夜、愛し合った証だ。お前は俺の子を宿しているのだ。そしてその子らは今生まれ出でようとしている。俺とお前とそしてわれらが子らとともに新たな世を作ろうぞ、凛太郎」
 鈴薙は凛太郎を抱きしめた。いとおしくてたまらないといった風情だった。
 鈴薙は凛太郎にくちづけた。なぜだかすぅっと胸の痛みが引いた。
 凛太郎は安堵して鈴薙の肩越しに光る桜吹雪を見ながら言った。
「新たな世って、いったい……」
「この汚れた世をすべて打ち壊すのだ。そして新たな世を作るのだ」
 鈴薙は凛太郎を抱擁するのをやめて凛太郎の肩をつかんで言った。鈴薙のまなざしはその髪のように怒りに燃えていた。
「お前も思っていたのだろう? 今の人間どもが作ったこの世はひどい有様だと。俺も社の外に出ることができるようになってそれを直接目で見ることができた。この社の後ろにそびえるあの霊山を人間どもはくだらぬ私欲で崩し、くだらぬ建物を作ろうとしておるではないか。そのようなことをすれば竜脈が異変をきたし、遠からずおのれらが窮地に陥ると少し考えればわかろうものを……」
「そ、それって乙女山のこと?」
 鈴薙は力強くうなずいた。
”昔の人間は恐れ多くて、乙女山には足を踏み入れようともしなかったのにそれを削るなんて。今にバチが当たるよ”
 凛太郎は氏子のおばさんの言葉を冷え冷えとする気持ちで思い出していた。
「じゃあ、この世を打ち壊すって……」
「人間どもをすべて滅ぼすのだ。わが朋輩たちを異界から呼び寄せてな。凛太郎、そなたの力を借りれば俺にはそれができる」
「い……いやだ……」
 凛太郎はかぶりを振った。鈴薙はつかんでいた凛太郎の肩を強くゆさぶった。
「なぜだ?」
「だって……だって僕も人間だから」
 凛太郎は声が震えるのを感じながら懸命に言葉をつむいだ。鈴薙は本気だった。そしてこの美しい異形の青年がその気になれば本当に人類を滅ぼしかねないのを凛太郎は感じ取っていた。だからここで自分があらがっておかねばこの先どうなるかわからなかった。凛太郎の脳裏に、伸一郎に明やクラスメイトたちに担任教師の弓削秀信、そしてなぜだか憎らしい里江の顔が次々に現れては消えた。
「そなたは人などというくだらぬものではない。凛太郎、お前はわれらが一族のものだ。そして俺の子を生む愛しきわが妹だ。
お前は人間どもとは何の関係もないのだぞ」
 鈴薙は凛太郎をひた、と見据えて力強く説得する。凛太郎はその迫力に飲まれてしまいそうになりながらも、かぶりを降り続ける。
「いやだ。いやだ、僕はみんなを滅ぼしたりなんかしたくない……!」
 鈴薙は困惑しつつも凛太郎を説き伏せようとする。
「そなたもこの世に対して立腹しておるのだろう? そなたの清らかな魂をあざわらい、食い物にしようとする人間どもにあれだけ傷ついていたではないか。だから俺を受け入れたのだろう?」
「……」
 凛太郎は黙った。鈴薙の言うことは一理あった。凛太郎はどうしようもなく自らを取り巻く環境に憤っていた。真面目な自分が損ばかりするこの世をうらんでいた。こんな世には神などいないと思った。だから刀の封印を解いて、鈴薙を目覚めさせた。
 鈴薙が人類を滅亡に導くなら、その発端を作ったのは他ならぬ凛太郎自身だった。
 凛太郎の沈黙を、鈴薙は自分の説得に応じたのだと受け取ったようだった。
 秀麗な面を満足げにゆるめ、鈴薙は凛太郎にもう一度くちづけた。その口腔をやさしく犯されて、凛太郎は愉悦に身を震わせた。鈴薙は幾度もくちづけをくりかえしながら、凛太郎のシャツを脱がせて上半身をむきだしにした。
 それから凛太郎の細い胸板に指をすべらせながら、赤と青の寄生生物に呪文のようなものを唱えだした。
「な、なに……っ?」
 凛太郎の問いにも答えず鈴薙は呪文を唱え続ける。それにつれて、凛太郎の胸元から二匹の生き物はむくむくと立ち上がりだした。
 凛太郎の体は焼けるように熱くなった。
 全身からバチバチと火花のような閃光が散る。
「や……やだっ! 怖い……っ!」
 凛太郎は叫んだ。視界が涙でぼやけた。鈴薙は凛太郎を満足そうに見下ろしていた。
「おびえることはない。我らが子らがもうすぐ生まれいづるだけだ。そして、これからこの汚れた世が清められ新たな世が始まるのだ。子らはその尖兵だ」
(ぼ、僕は……)
 何かが体からあふれ出る感覚に支配されながら凛太郎は考えた。
(この世界を滅ぼす子供を生むことになるのか?)
 その罪深さと恐怖に凛太郎はうちふるえた。
 誰かに自分を救ってもらいたかった。そう、あの男に。
 鈴薙の赤い髪が、凛太郎の体から発せられる閃光になびく。
 凛太郎は無意識のうちに叫んでいた。
「明。助けて、明ーッ!」
 すると空中に青白い閃光が芽生え、ひとつの人影を作った。
 と、同時に凛太郎の体から二つの勾玉のような寄生生物がはじけ飛んだ。鈴薙は片手をかざし、それを吸い寄せてふところに入れた。凛太郎の体から放たれていた閃光は消えた。凛太郎はぐったりと目を閉じた。
 スラリとした人影はぼやいた。
「鈴薙。お前よォ、セコいことすンなよ。俺の凛太郎ちゃんが弱ってる時に口説いてそのままヤッちまうなんてよ」
「蒼薙(あおなぎ)。千年の年月を経ても、お前はあいかわらずのようだな」
 鈴薙は苦笑した。人影はムッとしたようだった。
「俺にはなあ、愛しの凛太郎がつけてくれた明って名前が今はあるの。な、凛太郎。お前、あの日に俺に明って名付けてくれたんだよな!」
 凛太郎はその人なつっこい声に聞き覚えがあることに気づいた。凛太郎はゆるゆると目を開けた。
 そこには、もう一匹の鬼がいた。
 白い袴を着たその鬼の髪は青々とした緑色をしていた。
 明、と名乗るその鬼は、まさしく凛太郎が幼い日に出会ったあの鬼であった。
凛太郎は事態をうまく飲み込めずにただ緑色の髪を持つ青年を見つめた。
 窓辺から差し込む月明かりに照らされた青年の容貌は、鈴薙とよく似ていた。ただ峻厳さが前に出た鈴薙の風貌より、かなり鷹揚そうだった。双眸は鈴薙と同じく切れ上がってはいるが、そこに宿る光ははるかに人なつっこそうだった。鈴薙の美しさが激しい清流だとすると、この青年の美しさは真夏の海だった。
 青年は凛太郎に茶目っ気たっぷりにウィンクした。
「何、他人の顔ジロジロ見てんだよ。俺の真の姿にクラクラしちゃったってか?」
 青年は自分の言葉に自分で照れて笑った。
 凛太郎はようやく言葉をしぼり出した。二匹の生物を生み出したばかりの体はまだじん、と熱を帯びている。
「明……本当に明なの?」
 青年は大きくうなずきながら後ろ頭をかいた。容貌こそ違えど、照れた時の明の仕草そのものだった。
「そうさ。俺はいつもお前のそばにいる明だ」
「じゃあ、どうしてそんな姿に……」
 凛太郎の言い終わらないうちに緑の髪を持つ鬼ーーーー明は凛太郎の体をかばうようにして前方に跳躍した。
 明は凛太郎に飛びかかってきた鈴薙に、指先から光線を放っていた。
 二人の周囲に青白い火花が舞い飛んだ。
 凛太郎はそのまぶしさに目を閉じずにはいられなかった。
 鈴薙は低くうめいてから後方へ着地した。明も元いた凛太郎の傍らに戻った。
「凛太郎をさらおうったってそうはいかないぜ!」
 明は窓辺の桜吹雪を前にして立つ鈴薙をにらみつけた。
「俺の凛太郎なんだからな!」
「お前は凛太郎のもの、と言った方が正しいのではないかな?」
 鈴薙は低く笑った。
「たしかにお前のあるじは凛太郎だ。お前に新たな名を付けて呪をかけたのだからな。しかし蒼薙、お前もおろかなことをしたものだな。我らが一族は呪をかけられた相手には絶対の服従を誓うもの。なぜ未熟な凛太郎にそのような真似を許した?」
「俺が自分からそうしてくれってまだ小さいこいつに頼んだんだよ!」
 明はベッドに横たわっていた凛太郎を抱き起こして肩を抱いた。凛太郎は突然のことに狼狽して頬が熱くなるのを感じた。明は凛太郎にほおずりした。
「や、やめろよ」
「へへっ、照れちゃってか~わいいの」
 凛太郎がいやがるのを見て喜ぶその様は、明本人としか言いようがなかった。やにさがった明に鈴薙のまなざしがみるみるうちに怒りを帯びた。
「鈴薙、お前も本気で凛太郎のことが好きだったら、俺みたいに凛太郎に呪をかけてもらえよ。それでこそ真の愛ってもんだぜ」
 明は不敵に笑った。鈴薙は明を見据えてあざわらうかのように言った。
「俺には凛姫からたまわった鈴薙という名がある。それに俺はーーーー凛太郎と交わり子まで成したぞ。あの夜の凛太郎の乱れ様をおぬしにも見せたいほどだ、蒼薙」
 凛太郎は目を伏せた。うらめしげな明の視線を感じる。だがその直後、凛太郎は優しく肩をたたかれた。驚いて顔を上げると明が微笑みかけていた。
「気にすんなって。あんなヤツがお前に触れたことなんか、俺がすぐに過去にしてやるっつうの! その前にちょっと唇を拝借、凛太郎ちゃん」
 かけられた言葉の意味が理解できないうちに、凛太郎は明に唇を奪われていた。明は強く凛太郎の口を吸った。明ののど仏が大きく上下した。二人の唇が離れた瞬間、唾液が闇に光る糸を引いた。
「よっしゃ! これで鈴薙の野郎にも勝てるってもんだぜ!」
 明は自らに回し蹴りを食らわそうとしてきた鈴薙に拳を食らわせた。
 二匹の鬼の戦いは今、始まろうとしていた。



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