yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

随筆 今思う明日 3



 幕開けと幕締めで演劇の善し悪しは決まるという。
三十分前から客入れをし、開幕五分前に予ベルを鳴らし、五分後に本ベルを1分間鳴らす。鳴り終わると客殿の明かりが落ち、緞帳が上がり舞台が始まる。
 幕が上がる瞬間が一番緊張しますと役者ではなく舞台監督が言った。舞監は舞台の袖で舞台の動きと台本を見比べながら明かりと音の指示を出すのだ。作者の私が私の舞台を客殿から一度も見たことがない。楽屋のモニターで見るのだ。それが習慣になってしまった。
 役者が舞台に入っていく前に、
「楽しんでやってこい」
 と声をかけるのも習慣になっている。演出は客殿から全体の舞台を見詰め客殿の反応を確かめ反省をし次へのステップにするのだ。私はモニターを見ながら台本を書いている最中のことや、演劇を立ち上げる段階を思い出している。全体の本読み、台本をもっての半立ち稽古、本を離しての立ち稽古、その様を思い出しながら次の台本の準備にはいる。モニターの映像は過去の物で新しい台本が頭の中に作られていく。台本が演出の手に渡った瞬間から次の台本にかかっている。幕が上がると全責任と全権が舞監の腕にかかるのだ。幕がおりカーテンコールが終わるまで舞監の緊張は解かれない。作者や演出は唯見ているだけの存在になる。自作を演出していたときにも観客にはならなかった。幕が上がってしまってどうしょうというのだ、「花も嵐も踏み越えて、ままよ三度笠」と開き直るしかなかったのだ。
 私は演劇青年ではなかった。映画少年だったから芝居とか演劇は見たことがなかった。小さな頃母に連れられて女剣劇を見たのが最初であり、その後は見たことがない。
 東京にいたときには浅草のストリップ劇場の前で呼び込みの口上を真剣に聞いていた。入場する金など持ち合わせていなかったからだ。客の心を惹き見たいと思わせる巧みさに酔いしれていた。それだけで満足であった。
「お兄さんは入らないのかい。口上だけで満足しそんなに真剣に聞いてくれてもこちとら一銭にもなりぁしねえのよ。今日のところは木戸銭はいらねえから見ていきな。何人見るのも一緒てもんだ」
そう言って中へ連れて行ってくれた。スポットライトに照らし出された女の裸体が音楽に乗せられて踊っていた。
「木戸銭を払おうが払うまいが入ったら客だ。真剣に拝みな。観音様は浅草寺だけではねえよ。ここでは生きた観音様が見られるぜ」
後ろで呼び込みのおっさんが言った。観音様に魅せられて信心が芽生え拝みに通った。というのは呼び込みのおっさんの手前のことで、私が好きだったのは踊り子お姉さんと踊り子のお姉さんの出番の間のコントだった。
 コントを見たことが勉強になった。コメディアンさんの真剣さに心うたれ、その人達の悲喜こもごもを知ることになる。楽屋に出入りが出来るようになり、座付き作家さんに台本の書き方を教えて貰い、踊り子のお姉さん達にセロテープで皺を隠す方法を学び、コメディアンさん達に生き方を学んだ。そのコントが演劇青年になるきっかけであった。何処をどう間違ったのか新派の北条秀司さんの雑誌に参加していた。
 新派の劇作をする人を育てるのが目的で作られた雑誌だった。その中にテレビドラマ「判決」を書いていた高橋玄洋さんがいた。彼は北条秀司さん弟子だった。私の台本に泣きが必ず入るのは新派を勉強したからかも知れない。笑いと泣きを学んで泣きが残ったのである。笑いを書くのはむずかしいが泣きは意外と優しいと言うのも原因かも知れない。
 この歳になってその人達を思うと今どうしているのだろうかと。鬼籍の人になっている人が殆どだろうと思う。人前で笑い一人になって泣くそんな人間らしい人生を見事送って終わったとしたら幸せだったと言えよう。明日のことなど考えず今日を今を木戸銭を払って入ってきた客に腹わたまで魅せていた踊り子のお姉さん達、緊張しているお客さんを引っ繰り返りながら腹を抱えて笑わしたコメディアンさん達、煙草を吸い鉛筆を舐めながら藁半紙に文字を綴っていた座付き作家さん、名調子の少しびっこの呼び込みのおっさん、浅草の夜の星を眺めていた人たちであった。
 モニターからは声が届かない。舞台に聞こえるから音を絞っているのだ。舞台からの声が僅かに聞こえてきて進行状態が読み取れる。頭では次の台本を書いているのだが目と耳は舞台へ張り付いていた。
 公演の成功の基準は客の数と拍手の大きさなのだ。
 その拍手をじっと待つ。
「何をもたもたしとんねん。演出の言うた通りにせんかい」
「よっしゃ、そこで決めてくれ。そうやそれでええのや」
「忘れとるやないか、はよ袖から台詞を入れたれ」
 無関心を装っているがモニターに叫んでいる。
 幕の下りる音がしている。拍手が大きい。
「ええど、幕あげてカーテンコールや。ぎょうさん拍手をもらえ。ここでは目一杯に笑って」

「ガキががないとるさかい、はよ乳のましてえな」ヒモのよっちゃんが踊り子のお姉さんに叫んでいる。
「あほ、あんたがやってえな。今、忙しいいんや、それもでけん甲斐性なしか」踊り子のお姉さんが叫び返している。
 私の頭の中には交錯する二つの演劇があるのか。私には同じに見えた。


 ワープロと心中

 ワープロが壊れメーカーに部品がなくなり直せなくなったのが還暦の六十歳の時だった。ワープロを四台叩き潰した時だった。手書きからワープロへ、原稿用紙に文字を書いていると指先が痛くなり痺れて困るしもともと悪筆の私にはワープロは神の手の様に文字を生み出してくれ文体を覚知して変換してくれた。
「そろそろパソコンに変えた方がいいのではありませんか」
 修理に出すと部品がないと断りながら家電の修理係が言った。パソコンは買ってあったがどのように扱えばいいか分からずに埃をかぶっていた。
ーこれを期に書くことは辞めろというのかも知れない、還暦の時にそうおもったー
 人並みにここらでリタイアをするかと書くことを辞めた。新しいパソコンを買ってチャットをしたりホームページを作ったりして遊んだ。むずかしいと思っていたパソコンも意外と簡単であった。遊び人の暇人、時間は幾らでもあったから独学でマスターした。ぶろばぁいだぁーへ真夜中に電話を入れて色々と教わった。いじりすぎてその都度パソコンは故障して修理に出した。買ったときの値段より高くかかった。それが良い勉強になりマスターするのに役立った。本なんか読まなかった。ワードを使って見るとたやすく文章が打てた。ワープロのキーボードと同じであったからだった。だがワードはワープロと違い癖を関知してくれなかった。ワープロ好きが沢山いることに納得した。
 チャットで「朝まで生チャット」との時間を作ったり、作品を朗読したりして楽しんだ。「朝まで生チャット」というのはテーマを決めてチャットのみんなと意見交換をする物だった。その部屋には二、三十人は訪ねてきてくれていた。真剣に発言してくれ良い部屋を運営出来た。アメリカ、オランダ、中国の人たちも参加してくれた。興奮しすぎて鼻血が出て止まらなり八日間入院したのをきっかけにチャットは卒業した。それからブログを立ち上げて今まで書いた小説を更新した。パソコンで書いた物と言ったら自分史を書き続けているだけである。だから作品は一作も書き上げていない。書いた物は途中で完結した物はひとつもない。書いている途中で、書くのを辞めたのだと気づき続きを書かないからなのだ。
 ところが孫が、それも二人も一緒に産まれたものだから何か記念にと思い系図を小説風に書いてしまったのだ。還暦で書かないと誓ったことを反古してしまったのだ。孫達の成長する姿を見ていると私もこれで良いのかと言う反省が産まれまだまだと感じ本を読んだり書くことを再開した。ワープロを自由に使いこなした手がワードを変幻自在に扱うすべてを習得した。それを使わない手はないと書き始めたのだ。パソコンから産まれた小説や戯曲はまだないが随筆は何十編は書いた。自分が随筆と思っているだけでそれは雑文なのだ。思いつきをただ綴っただけなのだ。自分史もまだ四十歳のところで止まっているのだ。これから書き進めなくてはならないとつくづく思っているがなかなか、爾来横着者故何時も途中までと言うことになっている。孫達のはしゃぐ声を聞いていると書かなくてはと思うのだがなかなか手に付かないのだ。駄目な奴なんです。
 ツィツターで少し過激なことを書いたら閉鎖された。本当の事を書くと消去すると言うことは何なんだろう。つぶやき、らちもない事を書いて喜んでいることの方が人間関係を円滑にするのだろうか。そんな つぶやき はいらない、こちらの方から願い下げだ。
 私がブログに沢山の作品を残しているのは紙に残すより場所をとらないから良いと言うことだけである。ワープロで書いているときにはフロッピーに何十枚と入れていた。それがCDへコピーすれば何枚かで終わる、DVDならなお少なくてすむ、画期的な記録保存形態なのである。それを使わない手はないと使っている。今、ワープロのようにワードをつかっている。すっかり自分の物にしているから出来るのである。今考えればローマ字で入力をしていれば良かったと思う。ワープロは最初にカナで入力をし馴れてしまっているから今からでは面倒だと言うことでそれを使って打っている。
 ワープロの良いところ、ワードの良いところそれらを比較したがどちらでもいい故障をせずにあってくれればと思う。
 私が作品を書いていると孫達がきて賑やかに遊んでいるが、私が相手をしないのでパソコンのスイッチを切るのには閉口する。書いていた物がすべてパーになってしまう。何度書き直したことか・・・。
だが、パソコンは素晴らしい。吾が家は新聞を三年前からとっていない、ニュースはすべてパソコンで読むから必要がなくなったからなのだ。今我が家には八台のパソコンがあり一人に一台という計算になる。孫達を含めてのことである。
 ワープロが良かったか、ワードが良いかと言われれば、書くのだったらワープロと答えるであろう。書くだけの機能を持ったワープロが良いと懐かしさを込めて言うだろう。それはワープロで沢山の作品を書いたことに由来するのだ。
 辞書機能を充実させたワープロの新商品が今でも欲しいと思っている。つまり電子辞書とワープロの合体を・・・。

秋日和

 猛暑続きの夏が過ぎてようやく秋らしくなっている。猛暑に慣れた体が秋の季節に順応するには少し時間がかかる。タオルケットから直ぐに大布団という具合である。医院は風邪の患者であふれている。体調を崩している人は多いだろう。インフルエンザの予防注射をする人も日増しに多くなっている。今年は風の日がすくなかった。全国各地に突発的に集中豪雨が起きた。その被害状況は殆ど毎日報道されていた。今年は台風が私の住む町には来なかった。比較的台風は来ないのだが今年は風が吹くことはなかった。
 秋日和の日、私はパソコンの前から外へ出てみた。風が冬のように寒く感じた。草花は風になびきそれでも華麗に咲き誇っている。             野暮な男だから花の名など知らないがそれでも薔薇とか秋桜は知っている。今年、薔薇の挿し木をしてみた。一本あるバラの花があまり綺麗だったので増やそうと思ったのだ。挿し木が付くとそれをクローン木と言い元木と同じ頃に花を咲かすと言うことも最近知った。十本挿し木をして六本付いた。その中で二本が暑いさなか花びらを付けた。そこに自然の命を見た。繰り返される自然の営みは動植物の交配による命の継続であることを知った。薔薇は花片を散らし小振りな実を付ける。その実が人間によって食されると体の保温に役立つと言うことを本を読んで知った。実は乾いて種となり地に落ちて時期が来ると芽を出し葉を茂らせて花を開くのだ。種を植えたが芽を出さなかった。時期が悪かったのだろう。庭の薔薇が春と秋に咲くことも知らなかったのだが、その馥郁たる香りは一年中でも嗅ぎたいと思うのだ。薔薇は香水の原料になるゆえんが理解できる。
 この歳になって人の美しさと醜さを知ることになるとは歳を取りたくないものだ。人は元々美しいものなのだがそれを醜くするのは人なのだろう。成長の段階で人も花を咲かし、美しいと褒め称えられそれを維持することが出来ずに花びらを散らし枯れていく定めをものの哀れと言うのか。それはひとときの自然の戯れなのか。花のそれが人にも当てはまるというのか。土壌が美しい花を開かせるのと同じように人間も環境でいかようにも開く花の色と美しさを変えるのか。考えてみると人も自然の営みの中では小さな生き物なのだ。だかに自然の中の何ものにも当て嵌めることが出来るのだ。薔薇は花をとられまいとして幹に棘をもち、人は弄ばれまいとして理性を育てた。理性は自己犠牲を嫌う、そんな人が多くなった。人間関係がぎくしゃくする時代を作った。人はそんなときにどんな花を咲かせるのだろう。
 川の上を通り過ぎてきた風が頬に当たって心地良い。農繁期を過ぎた川には水が少なくなっている。じっと目をこらすと流れに逆らって泳ぐ小さな魚が見える。ホッと一息、頬がゆるむ。綿菓子をつまんで投げたような雲が広がっている。秋を実感することが出来る。
抜けるような青空の中を名も知らぬ鳥がさえずりながら飛翔している。翼を広げ気流をうまく利用して流れていく。山が何時しか緑を薄い赤に変えている。所々から田で藁を焼いている煙が立ち上り収穫を終えた後始末をしている。その煙が白く立ち上り青い澄んだ中へ広がっていく。秋の風情は心をいやしてくれ感傷的になる。
 秋を肌で感じている。今までそんなことはなかった。何もそんなに忙しかったのではないが感じることはなかった。やはり歳なのかと言う感慨にふける。今まで何を見詰めて生きてきたのかと反省をするがそれは過ぎたことで帰らない。いま、この歳になって自然の恵みを考えることが出来ることをうれしいと思う。もっと若かった頃に見えていたら違った生き方が出来たのかも知れないと思うが果たして今のように見えただろうか。穏やかに花を愛で鳥たちの囀りと渡る姿を和やかな心で見ることが出来たであろうか。川で泳ぐ小魚をじっと眺める精神的な余裕があったであろうか。歳を取るのも悪くないと思う。喩え人の醜さに出会ってもなお人を慈しむ心があるならばこれからもふれあいたいと思う。
 春に植えた花が枯れかけたので春まで咲く苗を買ってきて植えた。
それらを朝起きて見て回った。下手に植えた苗が朝露を受けて元気に花を開いている。良かった、と言葉を落とす。花は人と同じで可愛がりすぎると駄目になる。試練を与えた方が強く生きる力を養いへこたれることなく自分の作る。水をやりすぎると根腐れを起こして壊れていく様にほっとくという事の重要性に気づく。育てるという事は自然の中に放置してその中で生きる力を持たせる、自立、と言うことなのであろう。野にある花たちはそのように生きているのだから。人にも当て嵌まるだろう。
 今の人はどうだろう。自然の恵みを感じなくなっているのか、動物としての自然の恵みを受け取るすべを持ち合わせなくなっているのか、文明の中で享受することを重要視して忘れたのか。
 自然に帰れと言った哲人がいたが、まさに至言である。
 花を魚を鳥を空を山を見詰めながら心に余裕を持って生きることが、今、問われているのではないだろうか。
 若い頃、星を眺める時の切ない心を持たない方がいいという童話を書いたが、それは今思うと間違っていたのかも知れない。
孫を夜外に抱いて出ると空を指さして星という姿に驚く。そこには一番星が瞬いている。
私はそんなロマンを持ち合わせて生きて来なかったのか、もっと星を見詰め瞑想して生き方を考えなくてはならなかったとつくづく思う。
そんな歳になっている・・・。やはり物思う秋なのか・・・。


紅葉

 出不精の私が紅葉狩りに行ったと言えば小学生のころ遠足で行ったことがあるだけだ。この歳になっても粋人ではないので紅葉を愛でる趣味はない。まだ綺麗な物を綺麗だと言う心境には成れないし余裕もないのだ。私にはまだ自然の景観に感嘆する人の域に達してないのかも知れない。身近の美に対してのみ心動く小さな心しかないのかも知れない。つまり幼稚な精神しか持ち合わせてないと言うことなのだ。身近な雑事がある訳ではないが看たいという欲望が全くないのだ。人が春には櫻を愛で、夏には海水浴に興じ、秋には紅葉狩りを楽しみ、冬には樹氷をと忙しく立ち舞うのが理解できないのだ。時間は限りなくあるが行ってまで看たいと思わないのだ。そこにあれば見るだろうが。要するに美に関して横着なのだ。このような精神になったのには訳がある。子供達がまた幼かった頃には車に乗せて何処や彼処によく行ったものだ。だが、子供が少し大きくなり友達と遊ぶことの方を優先しだしてからは何処へも行っていない。三十を半分過ぎた頃に自立神経失調症にかかってからは余計に出なくなった。それが昂じて鬱になり家から出るのが怖くて外には一歩も出なくなった。出るときには家人を同伴させた。そんな私に自然の美に感嘆する資格はなかった。いわゆる閉じこもりなのであった。今様の人たちの閉じこもりとは違うが。
 だが、鬱がだんだん良くなって行く中で「演劇人会議」の実行委員をしていたときには東京へ這い這い一人で出かけた。東京駅で中央線へ乗り換える階段の多さには閉口した。今はエスカレーターがついていて便利になったが当時はなかった。新宿大久保のホテルまでよたよたしながら行った。倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるだろうという思いであった。そんな私が家人と旅が出来るとは思わなかった。鬱を抱えていたときに篠田正浩監督の映画のに二ヶ月間参加してやり遂げた後少しは自信が付いた。その後監督とは三本の映画制作に参加した。このことは前に書いたことなので省略するが、監督との仕事で鬱と少しは離別できた。その間十年間子供達に演劇を教えて公演することで完治とは行かないまでも完治に近づいていた。二十数年間は鬱との戦いであり人生で一番動き充実した日々であった。鬱の苦しみを鬱を治すために誰かがくれた試練だったと言えるかも知れない。
 そんな私が自然の美と仲良くできるはずもなかったのだ。
 今年の春は家族八名で道後温泉へ行った。子供達がそれぞれ独立し家族を持って初めての旅行だった。春にはそのようなことがあったが紅葉狩りへの興味は湧いていない。
「紅葉狩りにでも出かけましょうよ」と家人は言うが今のところその言葉に答えてやれない。鬱を患ってからタオルの中に保冷剤を入れて額に巻いている。その保冷剤が1時間しか持たなくて溶けるとたちまち頭痛がするのだ。前の大きな車には保冷庫がついていたが今の車には付いていないので頭を冷やすすべがないのだ。だから躊躇するのだ。車でなくても新幹線でも一緒なのだ。頭を冷やす事は癖なのかも知れないとタオルを外して見たが一日が背一杯であった。筋収縮性頭痛なら冷やすと余計に血管が収縮し頭痛が酷くなるのだがそうではなく冷やさなければ痛くなると言う持病があって遠くへの外出は駄目と決めているのだ。国民文化祭の時に二日間会場に付いていたがタオルを濡らしにトイレに何回も通ったのだ。
 紅葉狩りも良いがこんな状態では無理だろうと決めているところがある。
 春の温泉旅行の時に秋には少し足を伸ばして伊勢にでも行くかという話があったのだが今のところその話題はない。
 東京の会議には四年間でほど三十回ほど人の善意を当てにして出たがその都度無事に帰ることが出来たのだ。あのときの気分で出る気になれば出られると思うが億劫が先に立つのだ。
 長年支えてくれた家人の願いを叶えてやりたいと北海道への旅を計画中だが、私の場合は先が見えなくてその日にキャンセルをするかも知れないと思うと躊躇するのだ。癖が悪くて朝早く起きられないから徹夜で行くことになり良く不測の思いが芽生えてキャンセルになるのだ。まだ鬱とは完全に決別が出来ていないと感ずる。
車は何不自由もなく乗ることが出来ている。家人を助手席に乗せなくても夜中でも何処へでも行けるようになっている。深夜六みんなが寝静まっても一人でパソコンの前で朝まで座ることも出来ている。
 やはり気のものなのか・・・。
 燃えるような紅葉を見れば私の心も赤く灯が付くだろうか。それが克服を祝う灯火であれば良いのだが。
 ここまで書いて、
 今年は紅葉がりをしに行っても良いかという気になっている。高梁川の流れを左に見て北へ走り・・・。


 佇む秋

 秋は冬と違った静けさがある。そう感じたのはやはりこの歳になってからである。緑なした葉は紅葉してやがて落葉し地面を覆う。一面に枯れ葉を敷き詰めたような佇まいになる。人通りがあっても静けさを感じる。わびさびの世界へ誘ってくれ静寂を肌に感じることが出来る。その少し肌寒い澄んだ空気が心まで引き締めてくれるよう。
 春と秋のどちらが良いかと問われたら秋ですよと答えるだろう。春は心浮き立ち多感でもないのに何も手に付かなく、秋は心を安らかにしてくれ何事にも集中させてくれる。
若い頃は春も秋もあまり好きではなかった。寧ろ厳しい夏と冬の方が好きで創作に向いていた。汗だくになり、重ね着をする現実の方が私の性に合っていたのだ。
 還暦を迎えた頃から夏と冬があまり好きではなくなった。それは暑さと寒さに弱くなった所為かも知れない。春のけだるさが、ひなたぼっこが出来る丁度良い温かさが体に合ってきたのかも知れない。秋の少し涼しい風が緊張感を持たせてくれ考える時間を提供してくれるのが体に合ってきた。
 春と秋のどちらが好きかと問われたら秋ですよと答えるだろう。
 歳ともに自然の中に同居する自分を感じている。思えばそれが佇む秋なのかも知れない。蕭々とふく風と一体となって空を飛んでいるような感覚にとらわれるのは秋なのである。想像力が、集中力が増すのはやはり秋なのである。歳とともにその感は深くなっている。
月の満ち干きにも、満点の輝く星にも心が動き下手な詩を口ずさんでしまう。秋はいかほどの人をもロマンチィクにする。無粋な私に何か考えなくてはならない様な感覚にさせる。佇む人にしてくれる。
秋の空気を吸うのも好きです。肺堂に新鮮な空気を一杯吸いたいと思わせる。
 こんな感慨を持つようになったのは還暦が過ぎた頃からだった。
私の場合は特殊なのかも知れない。今まで秋を蔑ろにしていたから余計に感ずるのかも知れない。秋は私を哲学者にしてくれる、思想家にしてくれる、詩人にも・・・。
 歳をとると現実的になると言うが、今更ロマンもないが何かが叶い出来そうな予感を持つことが出来る。秋は夢を実現してくれる時に変わる。厳しい冬にむかわせる秋のひとときはそれを乗り越える力をくれる。
 人恋しくなって訪ねたくなるのも秋、自然の景観を楽しむのも秋、
佇む秋なのだ。
 私の好きな童謡に、「赤とんぼ」「里の秋」がある。舞台でよく使うのは「赤とんぼ」である。子供達に舞台で歌って貰う。効果として流す。ホリゾントを夕焼けに染めて歌い、流すのだ。最近は特によく使う。それが私の郷愁であり心のふるさとのように。
 私のふるさとは何処なのだろうと思う。父と母の墓があるのは讃岐平野の飯山の南にある市街化された真ん中に残されている里山の中にある法軍寺。私が産まれたのは疎開をしていたいまの岡山の市街地になっている東畦というところ。育ったのは岡山市内の東古松、今住んでいるのは倉敷水島福田町。それぞれがふるさとだと言う思いはある。だが、父と母の眠るぽつんと残された里山が一番ふるさとにふさわしいと思っている。秋を感じることの出来る場所であるからなのだろうか。父はその里山で生まれ里山で眠っている。
 父が老いてからの口癖は産まれた場所に帰りたいというものであった。歳を取って思うに多少無理をしてもその願いを叶えてやらなかったかと言うことだ。私も帰るふるさとがあればそう言うだろうと思うからだ。ふるさとという言葉に秋を感じるのは私一人であろうか。
 四季のある日本では秋は神仏の行事が多い気がする。秋は神事、仏事をするのに最適な季節なのだろう。手を合わせたくなり、祈りたくなり、自らを振り返るのには秋の静かな佇まいがあう。季語も有り余るほどある。それは秋をこよなく愛した人たちが沢山いたという事か。
 これは直接関係ないが、
 小説家の南木佳士さんは芥川の作品の中でどれが秀作かを問われ「秋」と答えている。芥川が男と女の別れを書いたものの題名がなぜ秋なのか、ものの哀れを秋に喩えたのか・・・。
 秋の佇まいにものの哀れを感じるから日本人は秋が好きなのだろう。
 これからも佇む秋を感じ考えながら生きていかなければならない。
静まり返り物音一つしない空間の中に老いた身を置いて何かを感じるために・・・。
 若かった頃のことども思い出ししばし遊ぶために・・・。そして、考えてもどうしょうもないこれからの道のりのために・・・。
 秋はそんな感慨をもたらしてくれる。
 秋は老いてゆく孤独を優しく包んでくれる、孤独の中でつぶやくと秋の景色は大らかに受け止めてくれ中へとけ込むような気がする。
 四季の中でそんな秋が好きになっている。


 母のこと

 母は丸亀藩の儒学者の家系に産まれている。辻邦生さんの母は丸亀藩の漢学者の家系の人である。母は明治三十何年、藩がなくなってから様々な変動があり農家になった家に生まれている。兄二人姉一人の四人兄姉の末っ子としてこの世に生を受けた。十五歳で父と所帯を持った。大正時代の田舎のことだからまず恋愛ではなかろう。父の家柄は高松藩の家老の家系、同じもと藩士と言うことで釣り合いがとれての見合いだろう。讃岐富士を東と西から眺め育っていた。
 母は私を四十の時に産んだ。産めや増やせの時代だったから余分に産まれたのが私である。結婚して直ぐに何処で暮らしたいたのか知らない。姉の言葉により推測すると神戸の三宮という線か浮かび上がる。父は神戸とは縁がある。神戸外大の前身の語学専門学校を出ている。押し車に乗った半畳程の英語の辞書をめくったと聞いている。そこを出て貿易の仕事を始めた頃母と結婚をしたらしい。三宮の駅前が最初の住まいであった。そこを新居にして貿易の店を開いていた。母は兄二人と姉二人を産んでいる。父は兄二人を連れて良く花街へ出かけたらしい。兄二人は知り合いに預けてのこと。父は六カ国語を話した。母に知られたくないときには英語を話し遊郭へ遊びに行ったという。神戸時代、母はハイカラさんだったという。父はシンガポール、香港、台北、大連、と支店を出して忙しくしていた中を母はその留守を守ることが多かったという。その当時の父と母の写真を見ると大きさが一定ではなく切り取った後が見られたの聞いて見ると母がはさみを入れたという。父の側には女性が映っていてそれを切り取ったらしいことが分かった。おとなしい母の焼き餅焼きの一面がかいま見られたのだった。女遊びの激しかった父を母はどのように接してきたのだろうと思う。一度母は私が大きくなって物心がついたころ、
「何回も別れようと思うた」と言葉を落としたものだ。
「妾を持つのは男の甲斐性」という明治生まれの父とそれに耐えた母の軌跡は今になっては読み取ることは出来ない。
「子供がおらなんだら・・・」とこぼした言葉が母の心を披瀝しているように思う。お金があっても幸せではなかったろう。母の上に
子供達の為に家庭を維持する明治の女の姿を見ることが出来る。
 神戸三宮の生活も大連支店の会計が女に入れあげて破産し祖父の住む岡山に帰ってくると言うことで終わっている。世渡り上手の父は大成建設や佐伯組や阪神築港に身を置き軍事色が強くなっていた当時に岡山空港の建設に携わったり、児島湖の干拓で堤防を築き浚渫船を操り干潟を作っていたという。貿易商が土建屋に華麗に変身したのだ。その頃は当時の金で何億という金を持っていたと言う。相変わらず女遊びには励み妾を囲っていたという。お金があっても母はしあわせではなかったのだ。長男は戦死、次男は母の兄に養子に出してブラジルへ、娘二人と後から産まれた三男と私が生きる糧になっていたという。父は戦争には行かなかった。軍属として日本で奉公していたのだ。戦争が終わっても父の命運はつきてなかった。みんなひもじい生活をしていたが米の飯を食べていた。このあたりから私の記憶が始まる。春には花見をし劇場を借り切っての宴会、秋には紅葉狩りの後芝居を見ながらの宴会、土方や大工や左官を二台のトラックの荷台に乗せて四町歩の田んぼの稲刈りをし芝居小屋を三日借り切っての宴会をするほど戦後の佇まいの中でやってのけていた。母は何棟もあった飯場を仕切っていた。
ある日突然に家中のものに差し押さえの紙がぱたぱたと張られた。
破産であった。朝鮮総連の連帯保証人になり全財産を失った。今まで「おやじ、おやじ」と慕っていた大工が手のひらを返すように去っていった。言葉巧みにすり寄り米をねだり金を毟った連中だった。今の古い建設会社の人たちである。
 母は子供達の為に仕事を始めた。製材所でおがくずを前身浴びて帰ってきた。その顔はなぜか生き生きとしていた。私も貧しかったが元気に遊び回っていた。
「貧しくてもいいおまえがいれば」母はそう言っていた。
 手伝いの稲刈りやい草かりも朝早くから出て行った。そんな百姓仕事をしたこともない母が子供のために働いていた。父は何処へ行ったか分からなかった。時折帰ってきては直ぐに何処へ行くのかいなくなっていた。父が帰ってきたときには母はうれしそうだった。夫婦とはそんなものなのかと思った。私が高校生の三年生の冬に母は脳溢血で倒れた。半身不随の後遺症をもち回復していたが・・・。その後年には父が今までの懺悔でもするかのように看病をした。おしめを替えご飯を口に運んでいた。
 その姿は老いた夫婦そのものであった。過去の悔いを流しているように見えた。
 今は私の思い出の中に残っていて時折微笑んでくれる。鬼籍の人になって三十八年、私と家人が結婚して直ぐに父は思いを残して旅だった。その後を母は追うように逝った。
 母の一生はどであったろう、と考える日が多くなっている。 
 家人の姿に母の姿を見ている自分がいる。父の生き方を反面教師としてみて生きてきたが、遊び人を通している私に何も言わずに付いてきてくれている家人は母に酷似して見える。過去を償う為に家人に何をするべきかを考えているが・・・。母への孝養なのだと思える・・・。









宮武外骨について

 皆さんは宮武外骨という御仁をご存じだろうか。
 讃岐が生んだ反骨精神旺盛な変わり者のことを。江戸時代の平賀源内、明治の外骨とちまたで評判の健筆家で健啖家でもあった。
「滑稽新聞」を初め当局に発禁をされると新しい雑誌、新聞を次々と送り出し世の中を滑らかに考える事の重要性を説き、その都度投獄され獄中にあって書き続けた。その数や今のはやりの作家とは比べ物にならない。天皇を不敬し、政治家を愚弄しなめ回し、経済問題、外交問題、道徳常識を蹴散らかし、庶民の思いを代弁し、あらゆる事を新聞、雑誌に書き訴え続けた人である。八十八歳でなくなるまで盛んにほえまくった人でもあった。
 次に東京朝日新聞に出した自らの広告を載せます。
「当時五十八歳になっても、マダ知識欲の失せない古書研究家、探しているものをいちいち挙げれば、新聞全紙を埋めても足りない。それよりか自分一身上の大問題について探しているものを申し上げる。
亡妻の墓を建てない墳墓廃止論の実行、養女廃嫡のために宮武をやめた廃姓廃家の実行、今は一人身で子孫のために計る心配はないが、ただ自分死後の肉体をかたづけることに心配している。友達が何とかしてくれるだろうとは思うが、墓を建てられると今の主張に反する。自認稀代[世にまれな]のスネモノ、灰にして棄てられるのも借しい気がする。そこでこの死後の肉体を買い取ってくれる人を探している。ただしそれには条件が付く。かりに千円(死馬の骨と同額)で買い取るとすれば、その契約[と]同時に半金五百円を保証金として前はらいにもらい、あとの半金は死体と引き換え(友達の呑み料)、それで前取りの半金は死体の解剖料と骸骨箱入りの保存料として東大医学部精神科へ前納しておく。ゆえに死体は引き取らないで、すぐに同科へ寄付してよろしい。半狂堂主人[外骨]の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ち受けているはず。オイサキの短い者です。至急申し込みを要する。」
 こんな広告を出すだろうか、外骨ならではの物である。
(幼名を「亀四郎」というが、その名を戸籍上も正当な「外骨」などという奇想天外な名にしてしまった男を記憶にとどめたい。ジャーナリストとしての最晩年を明治新聞雑誌文庫創設に捧げ、退職後は自叙伝の大成につとめたが、足腰の衰えはいかんともしがたく老衰のため四人目の妻、能子に看取られ昭和三十三年のこの日、天寿を全うした。
 尋常な人間の感覚では焦点を結ぶことが出来ないであろう。宮武外骨の駆け抜けた生涯を追いかけることは、あまりにも無謀だと気づかされるのに一時もいらなかったが、偶然にも訪ねあてたこの霊園の石碑、木陰でひっそりと佇んでいる「宮武外骨霊位」墓は、正岡子規・尾崎紅葉・夏目漱石・幸田露伴など大家と呼ばれる文士と生まれ年を一にする男。「我地球上に在って風致の美もなく生産の実もなくして、いたずらに広い面積を占めている」と墳墓廃止論を唱えた男。一代の危険人物の奇妙な形の碑であった。)(吉野孝雄さんの文章を写す)
 この人に触発され劇団滑稽座を創設したのだが、父の郷里の奇人には足下にも及ばない。
以下は主だった執筆物をのせます。全部外骨が社主をし書いている物。
「頓智協会雑誌』 『滑稽新聞』 『大阪滑稽新聞』『教育畫報ハート』 『此花』浮世絵専門誌『日刊新聞不二』『雑誌不二』『ザックバラン』『スコブル』 『民本主義』 『赤』 『震災画報』『面白半分』 『筆禍史』『幸徳一派 大逆事件顛末』
「アメリカ様」『筆禍史』「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」「ポテン」「滑稽雑誌」「釜山滑稽新聞」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。
 こんな物ではない世の中のあらゆる物を書き下した。女のほとの解説も。墓の無用論、姓名のくだらなさ、古代史、書画骨董にも精通していた。何処で学んだか、驚くことに殆どが独学なのである。
 朝日新聞は尻を拭くのに最適な紙という言葉で想像願いたい。
 滑稽、頓智、酔狂、癇癪、色気、洒落、反骨、風刺、愛嬌、正義、それらが外骨の精神の神髄なのである。
 私がなぜ外骨をのせたかは今のメディアに命をかけてその使命を全うしている人がいるかと言う義憤からである。まして文化人と称している人たちの中にこの気概を持っている人がいないと言うことを残念に思っているからでもある。
 今必要なのは坂本龍馬ではなく宮武外骨の出現を待っている人がいることを伝えたかったのである。
 このような新聞があれば喜んでとって読みたいと思う。また、文化人の中に破天荒な常識破りな考えの人が現れこの堕落している日本国民を目覚めさせてくれることを願ってもいる。


外骨の研究家の吉野孚雄さんの文章を全部引用すると、
まだまだいっぱいあるが、だいたいがこんな具合だ。このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。ぼくは『筆禍史』に瞠目した。
 ともかく出しまくっている。
 ぼくの畏敬する友人に京都の武田好史君がいるのだが、彼は創刊誌を3号以上もたせなかったのは “立派” なのだが、それでもまだ3~4誌しか潰していない。もう一人、グラフィックデザイナーの羽良多平吉君は、メディアを作るのが大好きなのでいつも雑誌の予告をしつづけていて、これがめったに出ないという “立派” をかこっているが、外骨にくらべると「実行即退却」の果敢なスピードがあまりにもなく、 “派手” がない。まず、作ることである。
 もちろんこんな外骨が順風満帆であるわけはない。援助者やスポンサーも跡を断たなかったものの、絶対に長続きしていない。「頓智と滑稽」は発行者には博報堂の瀬木博尚が買って出て、「骨董協会雑誌」には富岡鉄斎や久保田米遷や今泉雄作が、「不二」には小林一三が協力したけれど、誰も恩恵に浴さなかった。ただし、そういう外骨が嫌われたという記録はほとんどない。
 もちろん他人に協力を仰いでは潰しているのだから借金も多く、骨董関係の仕事をしていたときは、借金を逃れて台湾に渡り、養鶏業などに手を出して捲土重来をめざしている。が、この程度の退却は外骨の人生にとってはジョーシキあるいはコッケーのうちなのである。
 ヒットもあった。大ヒットもあった。なかで特筆すべきは「滑稽新聞」である。これは台湾から戻ってさすがに東京に顔を出せず、大阪に陣取ったのがよかった。
 京町掘の福田友吉の印刷出版社福田堂と組んで、そのころ大阪を席巻していた池辺三山の「大阪朝日新聞」の国権主義、小松原英太郎の「大阪毎日新聞」の実業主義を向こうにまわし、あえてこれらに挑発しながら切り込んだ。こういうヨミが外骨のおもしろいところで、決してニッチや隙間産業など狙わない。それなのに、なんと創刊7万部を売った。そのころの「文芸倶楽部」が3万部、「新小説」「ホトトギス」などが5000部から1万部程度、北沢楽天の「東京パック」の絶頂期さえ9000部だったから、この売れ行きはそうとうに凄まじい。いっときは8万部に達した。
 このときのコンセプトが「癇癪と色気」なのである。
 調べてみると、この「滑稽新聞」はまことに多様な亜流を生んでいる。大阪で「いろは新聞」が、東京で「東京滑稽新聞」「あづま滑稽新聞」「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」が、京都で「ポテン」「滑稽雑誌」が、韓国でも「釜山滑稽新聞」が作られた。まさに外骨ブーム。外骨自身も「滑稽新聞」が筆禍によって自殺号に至ると、「大阪滑稽新聞」という衣替えを遊んだ。
 ぼくも多少のことをしてきたのでわかるのだが、いかに孤立無援の編集をしていようとも、しばらくするとだいたいエピゴーネンや亜流やヴァージョンが世の中のどこかに出てくるもので、それが見えれば自分が試みてきたことが妥当だったことがすぐにわかるものなのだ。
 ところがマーケティングをしすぎたり、世の中の評判を気にしたりして、たいていはそれ以前に企画倒れになっていることが多い。突撃精神というのか、試作精神がなさすぎる。
 ところで、外骨はメディアをつくるとともに、つねにクラブやサロンの組織を作るか、連動するかを図っている。「滑稽新聞」のときも大阪壮士倶楽部と組んだ。中江兆民が大阪に出入りしていたころのことである。
 骨董雑誌や浮世絵雑誌「此花」や日刊新聞「不二」を作ったときも、こういうクラブやサロンが動いていた。外骨はそういうときに必ずや才能のある新人の抜擢を怠らない。「此花」の南方熊楠や大槻如電や渡辺霞亭、「不二」の折口信夫や正宗白鳥や谷崎潤一郎や鈴木三重吉たちである。
 かように、いろいろ刺激の多い外骨ではあるが、ひとつ気にいらないこともある。ついつい議員に立候補したことだ。これは与謝野鉄幹・馬場孤蝶・長田秋濤にもあてはまることであるが、これで男が廃った。少なくともぼくはそう断じている。ただ外骨はこの失敗で吉野作造の民本主義にめざめ、晩年はあいかわらず編集遊びはやめなかったものの、新渡戸稲造・大山郁夫・三宅雪嶺・左右田喜一郎らの「黎明会」にかかわって、官僚政治討伐・大正維新建設の“操觚者”としての本来の活動に邁進していった。
 さて、このような外骨の編集王ぶりで最もぼくが感服したメディアを、最後にあげておく。
 これは50歳のときに刊行した大正5年発売の「袋雑誌」というもので、次の12種類の雑誌印刷物を一袋に放りこんだ前代未聞の立体メディア、福袋やビニ本のように買わなければ中身はわからないという代物だった。外骨の作った雑誌と他人の雑誌が入り交じっている。
 すなわち、「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」などの自己編集ものに、貝塚渋六こと堺利彦主筆の「俚諺研究」、長尾藻城の「漢方医学雑誌」、溝口白羊の「犬猫新聞」、安成貞雄の「YOTA」などを織り交ぜた。
 福袋のようにただ投げこんだのではない。全体を総合雑誌のような体裁にして、目次だけはまとめて綴じ、そのほかは分冊製本したのである。発行人は「東京パック」の有楽社の中村弥次郎が天来社をおこして、引き受けた。もっともあまりに資金をかけすぎて、これは第2号の予告であえなく挫折した。
 しかし、この発想は群を抜いている。ひとつは、お上がそのうちの一つの内容を発禁にしようとしても、12種類の雑誌すべてを反故にできないだろうという防衛策があった。もうひとつは、「メディアは互いに連動する」という判断だ。ぼくも以前、「遊」と「エピステーメー」を一冊にするアイディアをもったことがあるが、これは言うは易く、なかなか実現しにくい。それでもいまや、ウェブ上のホームページたちがその壮挙をなんなく、ただし無自覚に実現してしまった。外骨の先見の明というべきである。
 けれども、いまだにウェブ上のホームページやサイトは“袋詰め”されてはいないのだ。そろそろ“電子の宮武外骨”が現れて、「滑稽」や「癇癪」に代わる方法をもってウェブ社会を煙に巻くべきではあるまいか。


参考¶宮武外骨の著述なら『宮武外骨著作集』全8巻(河出書房新社)と『宮武外骨 此中にあり』全26巻(ゆまに書房)がある。河出のものは10年前に、ゆまに版は5年前に完結した。これは壮挙であった。痛快無比な文章だけを『予は危険人物なり』(ちくま文庫)がまとめた。本書の著書の吉野孝雄には『過激にして愛嬌あり』(ちくま文庫)などもある。著者は高校の先生。









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