yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

フェイスブックのコメント 4


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• 吉馴 悠 今語られる真実。戦争文学全集を読破したのも、同人誌を発行編集していたことが始まりでした。戦後15年たっても集まる原稿のなかには生々しい復員兵の声が吐きだされていました。同人誌は発行すると全国の同人誌元を送ります。それらの同人誌から発行するたびに送られるのを読むのも礼儀でした。たくさんの人たちが戦争をつづっていました。生の声でした。文章とか構成などはどうでもよく私はその声を読みつづけました。悲惨な戦場、ひもじさ、戦友の死、上官の作戦ミス、戦争とは何かを自問するもの、戦火のなか生き残ったことに対する罪悪感、など、特に多かったのは生き残って戦友に対して申し訳ないという謝罪でした。やりきれなくなる私をほっとさせてくれるものがありました。それは、現地女性との淡い恋の物語でした。戦争文学はやはり文学で実話ではありませんでした。その違いは歴然としていました。話を聞いて書くと書き手の思想が入り込みます、だが、実体験の語りにはそれが見えなかった。それほどの技量を持ってなかった人たちの文学であったのです。今、それらの声に対して私たちは不戦を誓いました、国のため、家族のために尊い命をささげた英霊の方々に対して哀悼し合掌するしかありません。だが、今の日本の置かれている現状は一触即発であり、抑止力となる法案も必要であると認識し、それが英霊に対しての贖罪とすべしと思いいたっています。戦争をしないための抑止、それが私の後ろで心のなかで多くの私に原稿を突き付けた人たちの命の声が響きます。私の務めはその人たちの叫びを私の思いとして生き何が本当に必要なことなのかを逡巡することなのです。私は大きな重荷を背負わされたのだと思っています。私の兄は靖国に眠っています…。
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• 太宰は芥川賞をとれなかったから作品が多く残せたと思っている。川端康成にも必要に懇願したという。なぜ、賞にこだわったのか、菊池寛が雑誌文芸春秋を売らんがために芥川を、直木を利用しただけのものを。創設時にはそんなに問題視されていない。有名であった太宰がなぜにそれにすがったのか、新人に与えられるべきその賞がそんなに欲しかったのはなぜ。その権威か、自分を高く見せるためになのか。精神が病んでいたのか、貰っていいたら悲劇の人にはなれなかったであろう。桜桃忌のよる太宰を偲ぶ催しもなかったか。私はもらえなかったことをよしとしている。今、なぜ、未だに賞に拘りお祭り騒ぎをするのかわからない。物書きのあこがれ、その賞によって作家として認められる、だがその補償は芥川賞にはない。その賞をとり1作で消えていった人は数知れずである。受賞すれば友人たちがそれを祝して祈念パーティーを開いてくれる、そのお返しに受賞者が受賞パーティーを開いてお返しをする。文人とはおめでたいものである。賞金と金時計をもらい悦に浸ってどうするのか。時計はすぐ壊れると聞いた、賞金はパーティーの費用に消える。残るのは貰ったという喜びだけなのだ。自尊心を満足させるだけなのだ。だが、その賞金をたとえば障害者に寄付したという人を知らない。そうした行為によって引き起こされる社会現象が人間としてのあり方だと思うがいかに。このたびの佐藤春夫への懇願の手紙も失笑である。未熟で幼稚としか思われない精神構造から生まれているとしか思われない。甘ったれているのだ。もと津軽藩主の家系、その名誉のために欲しがったとしたらあわれとしか言えない。が、ここにも人間としての成長を忘れた生き方を見る。何度も自殺をしようとして、それも女性とである。作品は好きではないが読んでみてひ弱な覚悟のなさ、生きる自覚に欠けていることを見る。当時はいいところの出の人たちによる趣味と道楽で文学という世界は作られていた、が、何か引きずるものを太宰は持っていた。それは華族としての崩壊であった。が、それゆえに再興を願ううえで賞が必要であったのか、その程度の認識なのか、太宰に問ってみたい。が、女性と玉川上水で自殺をしている。作品は好きだが人間としては好感が持てない。芥川のように道連れなして逝くべきであった。その対象に坂口安吾の生き方がある。無頼の作家、人格障害を持って多くの作品を残しているが、薬物依存で破滅している。だが、この人は自己に忠実であったがために破壊したのだ。作家とは細心で神経が研ぎ澄まされ、強靭な精神の上にあってものを書くという生き物であるということを、これから作家になろうとする人は自覚すべきであろう…。江戸時代の戯作者を見習うべきなのかも知れない…。

• 小野小町のうたは秀逸とは言い難いのに、百人一首に、六歌仙に選ばれることに疑問を呈する人多し。小町を書き始めてやんごとない問題に突き当たり未だ連載を休んでいる…。
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吉馴 悠 私には、ねずさんが書かれるように小町が絶世の美女であるとは思えないのです。出羽で生まれ育ったとはいえ、あとあとの生き方を見るにつけ、もっと個性的で正直であったがために政争に巻き込まれていく運命を抱いている、もうひとつの美しさを感じています。むしろ、その当時の女性の美しさではなく西洋風の女性の美しさを持っていたと思いたいのです。六歌仙のひとり一人には政争に巻き込まれた過去が見え隠れしています。その怨念を閉じ込めるために創られたのが六歌仙だという説をとりたいのです。これは物書きとしてその方が面白いということもあるかも知れませんが…。少し色黒で赤毛という風にです。もう20年間前に書き始め19年間書いていなくて少し読んでみましたが…。この当時、白河法王と待賢門院、そして西行を書いた後でしたので、それも、物書きの妄想かも知れませんが…。ねずさんに書かれていることに異論はありません。
いいね! • 返信 • 1 • 9月4日 4:07 • 編集済み
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吉馴 悠 ありがとうございます。小町伝説に拘るのではなく小町に近寄りたい、そして、小町をより知りたいという思いで、また、違った意味で生かせたらという、小町を否定するものではなく、生かしたいという思いなのです。それが創作の意図なのです。

吉馴 悠 虐げられた皇太子の面倒を見ていた、小町。小町とは局、(当時の女性の地位を示していた)の下の位、家柄としては国司ですからその程度かと、待賢門院は徳大寺家の血筋、西行とは血がっなかっている。それより下の階級の彼女でしたから、皇太子の即位を図った門で放逸・・・。小町伝説はそこから…。
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吉馴 悠 わからない、ということは、物書きにとってはひきつけられるものです。琵琶湖のほとりに小野の荘でどのように育ったか、姉と妹、どちらも同じ館に小町として使え、そのあとを・・・。
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全く同感です。中国人、朝鮮人は世界に散らばり悪行を繰り返すことでしょう。世界にとっては迷惑全般なことです。が、これもGHQがまいた種、この後のアメリカのシナリオはどのように書かれているのでしょう。日本も未来を展望したしっかりとしたシナリオを書きそれを実行に移し、日本を取り戻さなくてはなりません。政府には命を張ってやってもらいたい。そして、国民は脈々と流れている大和の魂を持って、それを心に定め生きていかなくてはならない。とにかく、歴史の真実に芽生えなくては始まりません。
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o ご意見感服いたしました。わたくしもその考えには何も言葉がはさめません。日本人に求められるのは覚悟なのです。責任をとることの覚悟がありません。それは中途半端に生きているからなのです。自分に忠実でない者は責任がとれません。私は日本人にその潔い覚悟を取り戻してほしいと思います。そうすれば次なる一手が読めるはずです。またそうでなくては、日本国を真の独立へと導けません。これは私に対しての言葉かも知れません、が、そうありたいとの願望なのです…。

この金額以外に、学生一人に年間200万円から800万円教育補助金が出ています。それは大学に入ります。そのことを学生もその親も全く知りません。3流4流の大学は定員に達しなくて金目当てに留学生を積極的に入学させています。大学も減らさなくてはなりません。今日本の大学の進学率は50パーセントを過ぎるくらいです。中高を卒業し働いて所得税を納めていますが、その税金がそんな大学生に使われている不公平もなくしなくてはなりません。まずは、在日特権の排除が急がれます。


声を出す人たちの腹式は鼻から吸って口からゆっくりゆっくりと1分から3分で吐く、その訓練により息継ぎをしなくてもなが台詞が一気に喋られるということです。この方法はカラオケなどを趣味とする人はやってみられるといいと思います。また、のどの洗浄にはお茶でうがいをする。今はどうか、昔は役者や歌手はそれをしていました。お釈迦さんも呼吸の大切さ、整えることを弟子たちに説いています。人間にとって正しい呼吸が病気を防ぐ大切な方法であるといいます。山本さんの言われていることには異論はありません…。

今語られる真実。戦争文学全集を読破したのも、同人誌を発行編集していたことが始まりでした。戦後15年たっても集まる原稿のなかには生々しい復員兵の声が吐きだされていました。同人誌は発行すると全国の同人誌元を送ります。それらの同人誌から発行するたびに送られるのを読むのも礼儀でした。たくさんの人たちが戦争をつづっていました。生の声でした。文章とか構成などはどうでもよく私はその声を読みつづけました。悲惨な戦場、ひもじさ、戦友の死、上官の作戦ミス、戦争とは何かを自問するもの、戦火のなか生き残ったことに対する罪悪感、など、特に多かったのは生き残って戦友に対して申し訳ないという謝罪でした。やりきれなくなる私をほっとさせてくれるものがありました。それは、現地女性との淡い恋の物語でした。戦争文学はやはり文学で実話ではありませんでした。その違いは歴然としていました。話を聞いて書くと書き手の思想が入り込みます、だが、実体験の語りにはそれが見えなかった。それほどの技量を持ってなかった人たちの文学であったのです。今、それらの声に対して私たちは不戦を誓いました、国のため、家族のために尊い命をささげた英霊の方々に対して哀悼し合掌するしかありません。だが、今の日本の置かれている現状は一触即発であり、抑止力となる法案も必要であると認識し、それが英霊に対しての贖罪とすべしと思いいたっています。戦争をしないための抑止、それが私の後ろで心のなかで多くの私に原稿を突き付けた人たちの命の声が響きます。私の務めはその人たちの叫びを私の思いとして生き何が本当に必要なことなのかを逡巡することなのです。私は大きな重荷を背負わされたのだと思っています。私の兄は靖国に眠っています…。

人の世の悲しみにも花を咲かせ 人の世の哀しみにもたわわに実をつけよ そのように思って生きています。「思いに心がほしいというのであれば誰に遠慮することがあろうか、心に従い忠実に物事を行いなさい。」貞心尼は良寛に語ります。「尼の身でも酒もたばこもほしい時があります、そして、男の強い力で抱きしめてほしいと思うこともあります。そんな悪い女でございます。」「何事も思いのままに、泣きたいとき、飲みたいとき、誰に遠慮がいろうわい、それでいいのだ。」そんなセリフを書いたことを思い出しました。悲しみや苦しみを感じることができれば生きている証しでしょう。この世には苦しいことやかなしいこと、辛いことがいっぱいにある、忘れるこった、日が暮れて明日になれば…。長谷川伸の関の弥太っぺのセリフです。どうぞお飲みください、それで明日には忘れてお元気で…。
この人は「瘋癲の寅さん」をとり、自分も瘋癲の洋次になったことに気づかない。黄色いハンカチは、アメリカ映画の黄色いリボンのパクリ、今また福島瑞穂と同じせりふパクリ喋っている。アメリカの手先になり国民を白痴にするとらさんをとり、今度は中国に回収され中国のウイグル、チベット、内モンゴルの人権はく奪に対しては目をつぶりすり寄っている。まるで朝日の体質と同じではないか。老害をまきちらかさず篠田監督ように潔く引退することを望む。無知は自分だけにとどめていてほしい…。

「カイロ宣言」で戦後の日本をどうするかの会談にはルーズーベルト、チャーチル、蒋介石など参加している。毛沢東は参加していない。それをあたかも出席したようなねつ造が行われている。毛沢東は国民党軍をけしかけて日本軍とたたかわせていた。その間、毛沢東は洞窟に逃げ込んでいた。共産党軍がたたかったのは蒋介石率いる国民党軍である。日本は共産党軍とは一切戦っていない。盧溝橋事件も毛沢東が後ろで暗躍していたという説が語られている。毛沢東は日本に対して「日本のおかげで勝てた」という意味の言葉を発している。そのことを知りながら歴史を書き換えての抗日戦争勝利70周年とは言ってみれば悲劇であり喜劇なのである。
• 吉馴 悠 瀬戸内寂聴なら、物語作家のウソツキとかくもとわかるが、澤地久枝ともなれば、まずノンフィクション作家というのは正鵠に書き連ねることを第一義としてなくては何らない。その人が現状認識がないことにあきれる。正確に先の大戦を真摯に見つめていない。被害者意識のみで書き連ねていたのだろうが、はたしてそれが人様に読んでいただくものが書けたのか。人権を守る、そのためには凡庸であってはならないことくらい承知しておかなくてはならない。あの時の惨事がまさに起ころうとしている危機感、その回避だけで物事は解決されるものではない。今の平和はあなたが作ったものではない、身の危険をもつて守ってくれている人のことを忘れるほどの耄碌をしたというのか、命が平等であるとするならばもっと高所に立って俯瞰してみなくてはならない。国を守る、国民を幸せにする、その政府に物申すには今の中国、ロシア、北朝鮮、韓国のあり方と日本国の現状をバランスよく見つめての発言がなくてはならない。引き上げる途中に母の背中には子供がいた。母はいっそ死んで呉れればいいのにと考えたが、それでは母性が喪失することに気づきそこにおいて逃げた。それが人間として罪なのか、それが人間のありのままの姿である。その子供たちが奇特な中国人に育てられた、その美談はまやかしでしかない。今でも子供の売買がなされる中国、その子らは売られて労働者として育てられたという現実を知らなくてはならないのもノンフィクション作家の務めではないのか。そこまで切り込んで書いたものがあるとしたら、心理が見ぬけていると認めてもいい。が、嘘を信じてなお信じての反対には到底同意できぬ、立場を省みない人はこぞって嘘をつくことが多い、大江健三郎、村上春樹、瀬戸内寂聴、らは良心なき人間としか思われない。今まで生きて自分の歴史を振り返ってみるべきなのではないか…。グリム童話の翻訳のめでたしめでたしではなく原本の悲惨さを子供たちは童話として読むべきである。そこに子供たちに人間の恐ろしさを感じ取らせなくてはならない。それが童話の役割でありそうあらねばならない。澤地久枝はその程度の理解もなくものを書いていたのか・・・。
• 8月31日 3:58 •
ご無沙汰いたしております。家系というのは遺伝子の継承です。家訓があり、それを心において生きて感じたことをその家訓の中に落とします。それが代々続いて来ていたならば、今の姿に現れます。顔、所作、生き方、生活の中での考え方、人に対してのあり方、その上に死生観を時代に合わせて作ります。先祖を背負うということはそうでなくてはならないのです。また、その人たちはしっかりとした宇宙哲学をもって歴史と対座してきています。それが脈々と続いた血の遺伝子のなせるものです。そして、その人たちは阿頼耶識からのテレパシーをもって行動をしています。今の世で、そんな人に出会うのは稀有です。私は先祖がだれだれという人の自慢を信じません、その人の目を見ればおおよその出自がわかります。世界の例をとっていうならば家、血、財産を守るための近親婚が遺伝子を壊しそれらの家族は死に絶えています…。嘘の家系図を振り回している、それを支えに生きているとすればおめでたいというしかありません…。

Yuuさん、人を惹きつける磁石のような個性を持つあなたと出会う人は誰もがたちまちとりこになります。そのため、皆から羨ましく思われることも。

この結果を見れば、素晴らしい特徴が絶妙のブレンドとなって、あなたという唯一の個性を作っているのがわかります。当然ですね、Yuu は目をとてつもない寛大さを意味します。この性質はあなたが持つ最も貴重な才能だけでなく、性格の強さを示しており、他の人にたくさん貢献できます。あなたの寛大さと許す心のおかげで世界に希望を見出せます!
私はわがままなのかもしれない。欲心によって支配されているのかもしれない。臆病で小心者であるのかもしれない。やさしさを演じているのかもしれない。だけど、それは疲れるから優しい笑顔でごまかしているのかもしれない。優しいと勘違いをされているのは真摯に聞くことが出来るからかもしれない。私が私の人生の目的を見つけ決めたのは、幼い頃近くにあった駅舎の前にそびえる銀杏の木を見つめていた時、銀杏のようになりたいと思った時でした。物書きになりたい、なると決めて、どんな道にもひるまず歩いてきた。ただ書くことが楽しくてたくさんの作品を書いた。その時に至福をいっぱいに貰った。自由に書きたかった、稿料を貰って書いていた時期には裸の自分ではなく演技者としてふるまっていた。つらい時間が流れた、作家協会も早々にやめた、財団の役員は断った、私は自由でいたかった。自由に生きるということはわがままなことかもしれないが、人間が大好きでありながらその輪に入ることが苦手であった。それは自律神経の病を持っているからかもしれない、が、正直に生きる上で虚偽の中で生きるのはつらかったということです。やさしさは時の大きな罪を犯します。それがやりきれなくて逃げています。優しい、人を傷つけることを避けるための戯作者のつたない演技かもしれない…。

Yuuさん、人を惹きつける磁石のような個性を持つあなたと出会う人は誰もがたちまちとりこになります。そのため、皆から羨ましく思われることも。

この結果を見れば、素晴らしい特徴が絶妙のブレンドとなって、あなたという唯一の個性を作っているのがわかります。当然ですね、Yuu は目をとてつもない寛大さを意味します。この性質はあなたが持つ最も貴重な才能だけでなく、性格の強さを示しており、他の人にたくさん貢献できます。あなたの寛大さと許す心のおかげで世界に希望を見出せます!
私はわがままなのかもしれない。欲心によって支配されているのかもしれない。臆病で小心者であるのかもしれない。やさしさを演じているのかもしれない。だけど、それは疲れるから優しい笑顔でごまかしているのかもしれない。優しいと勘違いをされているのは真摯に聞くことが出来るからかもしれない。私が私の人生の目的を見つけ決めたのは、幼い頃近くにあった駅舎の前にそびえる銀杏の木を見つめていた時、銀杏のようになりたいと思った時でした。物書きになりたい、なると決めて、どんな道にもひるまず歩いてきた。ただ書くことが楽しくてたくさんの作品を書いた。その時に至福をいっぱいに貰った。自由に書きたかった、稿料を貰って書いていた時期には裸の自分ではなく演技者としてふるまっていた。つらい時間が流れた、作家協会も早々にやめた、財団の役員は断った、私は自由でいたかった。自由に生きるということはわがままなことかもしれないが、人間が大好きでありながらその輪に入ることが苦手であった。それは自律神経の病を持っているからかもしれない、が、正直に生きる上で虚偽の中で生きるのはつらかったということです。やさしさは時の大きな罪を犯します。それがやりきれなくて逃げています。優しい、人を傷つけることを避けるための戯作者のつたない演技かもしれない…。

私は成功するために生きたかどうか、何よりそこへの過程を楽しんで生きてきました。私は完成されたものより未完成でありながら人の心を打つものにたくさんであったと思っています。その証拠に未完成の作品は限りなく多い。が、続きを書かなかったのは私に書く勇気がなかったということです。私の作品に対しての批評の記事には心を揺るがすことはなかった。一つの形式に基づいての批評に対して表面上の事象にこだわるもの、書き手の心をえぐるものはなかったということです。流行作家になることが成功ではない。書く過程でいろいろと思い悩み書き進めているとそれらが楽しい時間をくれました。舞台の台本を演出しても観客席で一度も見たことがない。役者は未完成であることが望ましいと思っているので、演出の思いなど聴かなく醸し出すものがある、それを私は尊び、それを喜びに変えて公演中に次作のことを考えていました。芸術家なら成功が次なるものを作るうえで決してプラスになるものではない。常に未完成だから次作を構想し立向かうものだと思っています。未完成の人間が未完成のものを作る時に秀作が生まれると思っています。それはダビンチの例を出すまでもない。北斎も彼の中では完成したものを作ったという自覚があったとは思えない。成功、完成されたものに到達した時点でその人の創作意欲は消滅すると思っている。
今の日本には似非文化人らによって日本人が持っていた精神を壊されている。さもみんなの代弁者の如く語る、成功者の言葉としてしゃべる、そこには謙譲の美学がない。
その人たちの言葉を信じるということはオレオレ詐欺にかかると同意なのである。また、倫理観という意味を知らない。それもこれも完成したように語るから、嘘を真実としてしゃべるから、言葉巧みに言葉を操り騙すことにかけてはその筋の成功者なのかもしれないが、空々しくて耳を傾けられない。人は成功、完成されたものを目指すのではなく未完成の美学を持つことにより進歩と進化に近づくことが出来るという未熟者であってほしい。これは年寄りの老婆心でもある…。

ありがとうございます。小麦、トーモロコシ、大豆などのことでしょうか。私は日々野菜を買いにスパーを訪れます。その店内にも野菜は豊富に並べられて、果実もたくさんの種類で満たされています。生産地を確認して買います。季節により多少の高値のものもありますが、生産者の生産数で価格は決まっています。安定しています。私が言いたいのは生産者の努力に対して消費者も考えが必要である。ということです。残飯の量は半端ではありません。残飯のことをメディアはその結果自給率を下げている、自給率はカロリーで計算されているということを報道し国民に自給率の必要性を説かなくてはなりません。日本人のぼんくらは贅沢に食べ過ぎていて残しているのです。これも戦後のGHQの日本人に対しての食の侵略です。また、休耕地、農家の放棄、これは農地法が農地は農業者にしか売れないという弊害をもたらしています。が、この法は外国人に対しての転売をさせないことにはに必要なことでしょう。イギリスが自給率を下げたときにサッチャーが大胆な改革をして100セントに戻しています。私は、国民を守るためには食料を100パーセントとしての政策が必要である、国民も残飯という無駄を控えなくてはならないということを考えています。日本の狭い土地の割には農作がされていない土地が多く、ゴルフ場が一つの県位あります。田地は米だけでなく不足しているものを耕作する、日本の小麦、大豆はなぜ高いのかも考えて普及してほしいものです。一番の原因は農協、農家は頼りすぎてはいませんか、農協からの独立が必要ではありませんか。私には便利ではあるが搾取の団体であるように見えるのです。金貸しのように見えるのです。農協は農家とともにある農家のことを考えていてくれますか。私にはエリートの圧力団体のように見えるのです。数年理事長をして何千万円の退職金をもらうのです。戦後の体質と進歩があるのでしょうか。私は日本の自給率の低さを憂いています。生産者の方も消費者の方も同じ責任があると思っています。長文失礼しました。

私は京都と名古屋に縁を持とうは思わなかった。それは横浜にも言える。京都は遷都のおり、京都の真ん中を流れていた鴨川を今の流れの運河を作り碁盤の目の町づくりをした。鴨川の流れを掘割に変えたのだ。町の地下水は琵琶湖に相当するという。この町は政治的な文化は目だったが、庶民による文化はない。これは名古屋、横浜にもいえる。はたしてこれらの町で生きた庶民はおおらかな精神で生活していたとは思えない。一部の金持ちに支配されていたということになる。これを物語る話がある。戦争末期に各都市は空襲され甚大な被害と非戦闘員は死んだが、京都と奈良がなぜ標的にならなかったのか、日本の文化遺産を保護するという名目だと後に言われたが、ある一部の支配者たちはアメリカに対して空襲を避けてくれるように嘆願している。それは何かを引き換えにである。ほかはどうでもいいが自分の所だけはという精神にはなじめなかった。名古屋、横浜にもそれらの人たちのわがままを見る。朝日がなぜ京都が嫌いなのか、それらの人たちの力を恐れうっとうしく見ているのではないかと思う。この問題の始まりは、ダビデ、ソロモンにまでさかのぼらなくてはならない。これ以上は書けません、だが、そのようなところだから学究が深められたということには何の異論はありませんが…。

その方がいいようですね。東京にいたころには飲めもしないのに銀座や築地でうろうろとしてつぎ込んでいました。それも青春というものです。東京の生活を棄てたのは倉敷で家人と巡り合って家人の故郷へ、彼女は左足が不自由なのです。左足になることにしました。いろいろと賞も貰いましたが、いろいろと仕事が出来たのも、その半分は家人のものとして感謝しています。私は男と女の結婚は1+1は2ではなく1×1は1と思っています。祝辞を頼まれたときにはそれを強調してきました。今振り返って思うことは捨てて倉敷へ来たことが正しかったということです。無名作家でなければできないことがたくさんできました。たくさんの人たち、日本を代表するような人たちがなぜか手を差し伸べてくれました。が、倉敷を棄てることはできませんでした。倉敷を棄て家人を連れて東京の生活は考えませんでした。虚構の中で生きることが出来ないことを知っていました。文化庁の会議に出向くのが億劫でなりませんでした。水が合わなくなっていました。私は本名では生きていません。在日ではありませんがすべてペンネームで生きてきました。夢を見るためにです。思うことは文化人と称する人たちが愛を大きく勘違いしていることです。東京も倉敷も変わりません。今、必要なのは真の愛を見つけることです。見つけようと努力することです。私は知っている人に幸せですかと声をかけます。ありがとうという言葉を忘れてはいません。そして、今日も美しいですね、そんな毎日です。今書いているものは希望という灯りを投遠する燈台、古代から今に至る人間の営み、その中に何があったのかを捜しながら書いています。4大文明のはるか昔の文明を追っています。そこには今と変わらない自然を見た人達がいます。これを書くのは私のためでもあり孫たちへの遺書です。そんな毎日の中で、ここに遊びひと時の時間皆さんの心情を聞かせてもらっています。若槻さん、人間は面白い、私の結論です。歯を治し、再デビューをしてください。ご自愛を…。


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振り返りみれば、楽しい時間が流れていた。子供のころから好奇心が旺盛で、勉強などしなかった。戦後から5年過ぎて頃が学齢期になるが、野球少年であり、映画小僧であった。そんな私にも近くの駅舎の前に大きくそびえる銀杏に誓ったことがあった。野球は肩を痛めてやめ、もっぱら映画にうつつを抜かしていた。そのころには我が家は没落していた。高校受験、母は行けてもいけなくても挑戦しろと言った。近くで歩いて行ける、金のかからないところを受けて入った。3年間卓球をして地方の大会に行ってもすぐ負けた。3年間で300日アルバイトに明け暮れ練習などしていなかったのだ。受けた大学には受かったが入学金が払えずに行けなかった。その時はすっかり銀杏との誓いを忘れていた。東京にいたときには浅草のストリップ小屋の前で呼び込みの声を聴くために通った。その声を聴いているときその誓いを思い出した。それからが活字ならなんでも読み砕いた。それは今思い出してもほほが緩みます。夢中で何にかじりついていたのかここに書けない。そのあとは新橋演舞場の前で立ち尽くしていた。いろいろな先輩に導かれ、温かい思いをくれた。このあたりは前に書いているので割愛します。
家人と出会い、東京を棄てた。文学を志す人たちが集まってきた。編集をして同人誌を全国にばらまいた。意外と好評で注文がたくさん来た。仲間の一人一人が次々と賞をもらっていた。その人たちは作家にはならなかった、人間の勉強をしたと言い切った。戯曲と小説の賞はなぜか転げ込んでいた。私は小説を書き、それを脚色したものが多い。映画館に行っても1回は耳に栓をしてスクリーンと俳優の動きと口の動きで頭の中でセリフを作ることが多かった。そして、もう一回見てセリフを確認していた。これはテレビでもしていた。
その後のことを書けば100枚になるのでやめます。楽しかった、人間とはすばらしいと感じています。高い壁はよじ登りました。それもまた楽しいものでした。
私に書かせたのは、私の先祖からの言葉であったと認識しています。阿頼耶識に先祖からテレパーシーが届きそれを書いただけということになります。自分で生きていると思っても見守ってくれる、自然に作品は出来上がっていました。これは不思議な現象でした。降臨、まさにそれでした。
今、人間はいろいろなしがらみ、宗教、法律などに縛られるのではなく自分ですべてを決めてなすことで世の中に迷惑が掛からない生き方をすることなのだと感じています。感動する大切さを痛感しています。
「人間は面白い」

私は岡野さんのように克明に書き記すことはできません。ということは私の先祖は本能寺にかかわっていなかったということでしょう。大層な先祖もいませんが、その遺伝子によって生きています。今までたくさんの作品を書いていて不思議なことが多かった、夢中で書いてあくる日に推敲するときにこんなことを書いたのか、これが自分が本当に書いたのかという思いに何度もあったのです。岡野さんも光秀を書かせたのは先祖であるということを言われていますが、見聞していないことも書いているのです。これは先祖の遺伝子が私の遺伝子とつながって無意識層の阿頼耶識がインスピレーション、イマジネーションとなって書かせたのだと思う様になりました。今執拗にメソポタミヤを書けと言っているように関心が深くなっています。それは前にも書きましたが、夢の中で砂漠に突然巨石の柱の建造物を見たことでした。そこを調べて居たらそれがあったのです。最近も但馬を書いていたらいつの間にか剣山に触れているのです。まったくの知識もありませんでした。先祖の遺伝子の中にそれを受け継いだ私の中にその記憶があったのです。ものを書いている人にはそのような現象にあっていると思います。先祖をたどってもものを書いていた人はいません。先祖は遺伝子の中で生き、次々と人生の中で見たり行ったものをその遺伝子に残して、代々の遺伝子を作っていることを実感しています。私も遺伝子になって子孫の中で生き続けることを実感しています。そのためには先祖の遺伝子を汚さない生き方をしなくてはならないと思っています。眠る時はは先祖の皆さんに感謝と明日のことをお願いしています。先祖は遺伝子となって私の姿の中に生きているのです。これは私一人のことではなくみんなさんも同じだと話もいます、感謝をすることで新しい世界が生まれていきました…。

いろいろと地方創生なるものを垣間見たけれど可笑しくて笑った。仕事をしたがらない公務員と時代の波が読めない商店主がいくら頭をひねっても人の真似事しか出ない。昔、倉敷にチボリ公園があった。客はだんだんと減っていきつぶれた。行政もそこの社長になった有名企業の社長も立て直すことはできなかった。私も劇団としてそこのCMに二度出たことがある。撮影の昼食をそこの出店している店で食べ驚いた。おいしくなかった、早晩に閉めるなと思った。行政もここの社長も出店している店のものを食べていなかった。これではリピートがあるはずがないと思った。まず胃袋を掴め、という哲学を知らぬ人たちがやって成功するわけがない。まず、倉敷に来てくれた人に倉敷でなくては食べられないものを提供するというおもてなしがなかった。地方創生、それはその地方でしか食べられないものを提供することから始めなくては成功しない。猿真似では駄目、そこの経営者が出店の食べ物を食べて味覚を感じる能力がなかったということと、人間というものの弱点を知らなかったということです。何事も成功させようと思ったら、本物をしること。築地、銀座で一流のクラブでひと月分の給料を一晩で使い、そこで熱きる紳士の生き方を学ぶこと、50年前、いっぱいのカルピスで10万円払っていたがそれが何倍にもなて返ってきた。味覚を教えられた。そこのママさんやお嬢さんがどのようなおてなしをしているかを勉強すること、キャバクラでいくら遊んでも知恵は生まれない。変な被り物では知性のかけらもない、この程度で地域創生とは片腹痛い…。

そうです、奴隷というのは主に男性です。性奴隷と言われますが、女性の本能に男性は勝てませんでした。男性は女性なしでは生きられない、強かにそれを利用した女性も多かったのです。日本は女性を奴隷にはしていません。性に対しては日本はオープンでした。江戸時代にはレイプというものがなかった、その記述はありません。遊郭、色町というのはその防波堤でした。明治には日本の女性も外貨獲得のためにたくさんの女性が東南アジア、アメリカ、カナダへ渡っています。アメリカ北西部、カナダの太平洋に面する町に日本人が多いいのは帰らず住み着いた人たちが多かったということです。性奴隷をなぜ入れたか、近親婚の予防でした。ヨーロッパの王室、貴族階級は近親婚で滅びた事例が多いのです。そのためにも他国の女性が必要であったのです。性奴隷と言われる人たちも女性の武器で男をねじ伏せていたのです。人間の歴史はこの繰り返し、今ヨーロッパでは売春は合法になった国が多い。それは男だけでなく女性の本能なのです。この問題は永遠のテーマです。朝鮮の、これは1000年続いた妓生を抜きにしては語れません、が、皆それを言いません。妓生が大きな力を持っていたことは少し考えればわかることなのです。性奴隷は必然と必然の中に相互利益として生まれたと言えば、私はたぶんバッシングを受けることでしょうが…。

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