yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

小説 麗老


 雄吉は何時ブレーキを踏もうかと考えていた。

 水島のコンビナートの一画にある自動車メーカーの工場で最初は組立工だったが長年の勤務がまじめだということで検査主任をしていた。出来上がった製品のチェックが仕事であった。
 この工場地帯は高梁川が押し流す土砂が水島灘に中州を作り干潟になってできていた。操業されると水島の公害が広がり呼松では漁業では生活が出来ないとやめていく人が増えていた。地区の住民はあっさりと漁業権を売って金を貰った。雄吉の家もそれにもれなかった。臭くて食べられないというブランドを付けられると漁師は出来なくなっていたからだった。裏山にわずかな山地があり、江戸時代に開墾された農地をわずかに持っていた。山地に桃を植えていた。農地にはブドウを栽培していた。が工場が大きく開発されて農地は工場の下請けの企業に売った。その金で少し外れた北に家を建て呼松を引き払った。山地は桃の葉の先枯れが起こり実らなくなっていた。そこに蜜柑を植えると蜜柑なら実を着けるのだった。雄吉の父は余った金で借家を建てた。下請けの社員が住宅に困っていたので借り手は多かった。
 そんな時代だった。
雄吉に自動車会社から働かないかと言う誘いがあったのは、企業に漁業権を売り渡した漁師は優先的に社員として引き取っていたからだった。最初はコンベアーの前でナットを締めた。工場勤めが身につくと元の漁師の生活には戻れなくなっていた。 港には小さな漁船が係留していたが休みの日に時に外海にわかめをとるくらいしか使わなかった。すっかりコンベアー野郎になりきっていた。
 日本の高度成長と相まって忙しい年月は簡単に過ぎていった。同じ工場の事務の女性と仲良くなり結婚した。二人の男の子が生まれ人としての喜びをかみしめた。そんな折嫁は自動車事故であっけなく逝ったのだった。結婚した時に家を建てていたが幼子を男手で育てることには限界があった。実母の手を借りなくてはならなかった。

 雄吉はただ懸命に生きたと言える。子供たちが大きくなる過程で父と母との死別があった。両親がなくなることで男は初めて自立することを知った。そんな子供たちも成長しコンビナートの会社へ就職をし自立していった。

 雄吉は自分の人生を振り返り辿ってみた。同じ職場の人と比べてそんなに大差はなかった。ただただ平凡であった。生きるという意味を考えている人は皆無のように感じていた。
 雄吉は一つの目標は決めていてひそかに老後には今までできなかった読書に時間を割こうとしていた。そのためにこれは読みたいという本を買い本棚に並べていた。五千冊が目的だった。
「おやじどうするの、そんなに本買って」
 長男が遊びに来た時に言った。
「この家も古くなったから大きな風が吹いたときの重しの代わり」と返していた。
五千冊買いそろえられたらブレーキを踏もうと考えていたのだった。
雄吉は六十歳前になっていた。
定年の延長問題が社会では話題として持ち上がっていたころだった。
雄吉は酒があまり飲めなかった、が、煙草は人並みに吸っていた。会社では吸えないので仕事から解放された時間に吸っていた。
子供たちは一人一人と育って所帯を持ち独立していた。
「何かあったら早めに言ってよ」
「ややこしい金は残さず使って楽しんでな、残してくれなくていいから」
 そんな会話がよく出ていた。
「ああ、心配はない、そのつもりだから…」
 一人の食卓は味気なくて、作るのも億劫なので朝はオレンジジュースを二杯飲み、昼は会社の給食で済ませ、夜は行きつけの居酒屋で済ますことが多かった。

「つる」という居酒屋が雄吉の住まいの近くにあった。繁華街より少し離れていたが料理が家庭的でなじみの客はたくさんいた。店が開くのは午後六時、暖簾を掲げてそれが営業中と言う合図であった。
 雄吉は会社が終わるとそこへ通っていた。

「これからどうするの」
「どうするって・・・」
「会社のこと」
「そのこと、まっすぐに車をとめられなくなったから・・・」
「なにそれ」
「きっかけ、定年退職に従おうと…」
「ちょっとお手軽ではない」
「だって駐車ラインの中にとめられなくなったから・・・」
「衰えたったこと」
「そう」
「それ歳だってことなの」
「ああ、歳は取りたくない」
「弱気ね」
「そう、弱気なの」
「会社が下請けにどうかって話も断るの」
「そう、ことわって・・・」
「これから何をすんの」
「決めていない」
「退職して、来なくなるんだ」
「そんなことはないよ、魚の煮つけとヌタでいっぱいやるのはやめられない」
「あら、私にすっかり惚の字だとばっかり思っていた」
「下心てやつ・・・」
「そう」
「俺には勿体ないよ」
「味噌だらけになってヌタを作らしといて、それはないでしょう」
「いつか、男は懲り懲りだって言っていた」
「こんな商売をしている女の口癖なの」
「知らなかった」
「そろそろ、コーヒーを入れとかなくては、帰るのでしょ」
「追い出すの」
「今の話、恥ずかしくてつづけられないから・・・」
「そうなの、おれて奴は人の心なんか解らないから」
「いいのよ、雄ちゃんらしいから、許す」
「無粋な人なのだ」
「私の周囲にはそんなおとこがいっぱい」
「そうなんだ」
「そうなの、なぜか…」
「安らぐから…」
「そんな店だった?」
「あたりに気を使わずに一人で呑める」
「みんな私の笑顔で飲んでくれていると・・・」
「しんみりコップを空けていた」
「無粋な客に愛想のない女将」
「ママと言わないところがいい」
「コーヒー出そうか…」
「ありがたい」
「みんなラーメンというのに・・・」
「人それぞれという」
「退職してどうするの」
「先のことは考えていない」
「パチンコとカラオケを生きがいにしないで」
「分からない」
「優柔不断なんだから」
「今までと違った生き方がしてみたい」
「女作って子供作って・・・」
「それもいいかな」
「奥さんなくしていままでどうしていたの・・・」
「なに・・・」
「あちらのほうのこと」
「忙しかったから」
「弱いんだ」
「いや、強い…」
「強いんだ」
「がまん強い」
「もう、いや、はぐらかすばかりして」
「子供を残して逝かれ時はどうなるかと思った」
「大変だったね」
「やればできる、そのことを知った」
「よくやったね、今ではみんな独立して…」
「それが親だと思った」
「なに、しんみりして、真剣な顔をして」
「思い出していた」
「ごめんね、こんな話に…」
「いいんだ」
「奥さんのこと思い出していたでしょう」
「今日のコーヒー苦い」
「次の日にはおいしいコーヒーを入れるわ」
「それにしてもお客こないね」
「雨らしいから、こんな日は有難いわ、女であることが考えられるから」
「ええっ…」
「女、紹介しょうか」
「なに、突然」
「言ってみただけ、言ってみたかったの」
「帰るよ」
「逃げるんでしょう」 
「ああ」
「その歳で女狂いはしないでよ」
「分からない、狂ってみたいという願望はある」
「若い女にいれあげて・・・」
「それもいいかなと・・・」
「冗談でしょう」
「そのときにならなくては何とも言えない」
「強さに惹かれ、弱さにおぼれる、だから女は不幸を買い出しする…」
「だから人類は滅亡しなかった・・・」
「何、ついていけない、飛躍がありすぎ…」 
「女の由来、だったかな、忘れたけど読んだ記憶がある」
「この前の…退職したら読書に明け暮れるって五千冊も買い込んでいるって本当なの」
「ほんと、歳をとると時間つぶしに本読んで知識を深めて、年寄りにはわからないとは言いたくないから…」
「こんな商売をしていると本の中に恋人を作るの、浮気しないから、て人多いいよ」
「なんでだろうね・・・。コーヒーもいただいたし腰をあげます」
「帰るの・・・」
「止めるの・・・」
「言って見ただけ、これ社交辞令…」
「だと思った、明日、ブリの照り焼きがほしいな」
「探してみるけど、あれ冬のものだから…」
「じゃあ、冷凍庫にある買いだめした鰤で作る」
「わかったわよ、雄ちゃんの様な客のために冷凍したものがあるから氷で解凍しておいしいものを作ってあげる」
「それって惚れている…」
「いいえ、サービスです」
「そこだけ言葉が大きい」
「地声です…雄ちゃんならと言う人がいるの紹介する」
「いいよ」
「あってみて決めていいのよ」
「あってみようか」
「悔しい…」
「帰る、社交辞令だと思って」
「嘘じゃない」
 「つる」の女将の声を背中で聞いて外に出た。弥生の空から霧雨がカーテンのように降りていた。


車を駐車場にきちんと止めたと思ったが左に切りすぎていた
そんな事が最近増えていた。
 このあたりで定年か・・・。そのことで逢沢雄吉は心を決めた。相談する人はいなかった。
 おかげで家のローンも完済していたから退職金と年金で食べていけることに心を撫で下ろしたが、一人の家での生活がどうなるのか不安はあった。一人二人と家を出て行き寂しさを持ったがそれは一時のことで、南向きの和室に万年床を敷いて過ごしたのだった。休みの日にはカーテンを開きサッシを開ければ日差しは布団を乾かしてくれ、きれいな空気を満たしてくれた。そのことに雄吉は満足していた。
 まだ幼かった子供たちを残されたとき、どうなることかと案じたがどうにか育てることが出来た。やれば出来る物だと言うことをそのとき知った。
 雄吉は定年に対してあれこれ考えてはいなかった。下請けに行く事も出来るといわれていた。が、前のように車を停車できないことで区切りをつけたのだった。それと年ごとに寒さに対して体が適応しなくなったこともあった。下着を二枚着なくては過ごせなくなっていた。

「下車するの」
「車が真っ直ぐ駐車できなくなったから、降ります」
「それなによ、同じセリフは言わないの」
「切っ掛け」
「そうなんだ」
「そう」
「これから国家公務員になるんだ」
「年金生活」
「羨ましいわ」
「手足もぎ取られるようで、ほんと寂しい」
「年取らないでよ、真っ赤なスポーツカーを買って颯爽と生きてよ」
「これから考えるよ、何かを作らなくてはと思ってる」
「それでどうすんの」
「なによ」
「女作って子供作って・・・」
「そんな歳でもないよ」
「一休さんは八十で子をなしたって・・・」
「羨ましいね」
「奥さん亡くしてどうしてたの」
「忙しかった」
「もう、色気がないんだから。男は少し悪の方がもてるのよ」
「いいよ、もてなくても」
「いい人紹介しょうか」
「また来るよ」
「逃げるのね」
「ああ」
「まだ寒いから、暖かくしてね」
 雄吉は仕事から帰ったら近くの居酒屋で時間をつぶすのを日課にしていた。あまり飲めないので燗を二本と旬の魚料理を食べるのであった。

 六十歳の誕生日と、年度末で退職する制度があるらしいが、雄吉は年度末で退職した。                       
半農半漁の村がコンビナートに飲み込まれ雄吉は漁師を辞めて自動車会社に入ったのだった。流れの速い潮にもまれたこの地方の魚は美味しく評判がよかった。遠浅の海が広がり足下で魚が跳ねエビや貝が手で捕まえられた。そんな海は工場の下になっていた。村の近くへ家を建てそこで生きたのだった。時折り思い出したように 船を出して釣りをするくらいで趣味というべき物はなかった。
 堤防に立つと潮風が快く吹き付けその風は春が来たことを告げていた。目の前には工場の煙突が林立し黙々と煙を吐き出していた。背後の山肌が老いた人の頭のように所々白くなっていた。山桜が蕾を開き染めているのであった。
 定年退職を祝って息子たちが席を設けてくれた。
「どうするの、これから」
 言葉といえばそれにつきた。
「まだまだ元気なのだから、下請けにでも行けばよかったのに」
「孫の守をする歳ではないよ」
「少しのんびりして何かをするさ」
「呆けないでよ」
「そうしたいと思うが・・・」
 そんな会話が続いたが、雄吉は話しに乗れなかった。孫たちが次々と膝に乗ってきて戯れていた。
 雄吉はどちらかというと寡黙だった。会社ではラインから検査を担当しそこで終わっていた。検査の技術で下請けへということがあったが、一息つきたかった。今までいろいろあったことと、車の駐車の件が引っかかっていた。体力的には後五年はどうにか勤められると思うが、ここで身も心もリフレッシュしてこれからの道を快適にと考えたのだった。
 サッシを開けると、日差しが波のように押し寄せた。その中を雄吉は泳いだ。
 これが生きていることなのかと思った。

「あれからどうしている」
「気が抜けたビールのよう」
「毎日」
「泡もなくなった」
「そろそろだな」
「なによ」
「捨て頃」
「ようやく自分で立てるようになった」
「俺もそうだった」
「そう、空ばかり見てるんだ」
「あれ厭かないな。いろいろな形があって」
「雲のことなの」
「話変わるけど、車買った」
「車買ったの」
「赤いクラウン」
「そう」
「嫁さん乗せて買い物」
「カート押してるんだ」
「義務感と満足感」
「勿体なくない」
「なによ、文句ある」
「ないけど、車のこと」
「高速飛ばせっていうわけ」
「でもないけど」
「パチンコとカラオケに行くために買ったんだもの」
「目立たない」
「寂しい心を癒してくれるから」
「そんなものなの」
「車買ってあの空虚感から解放されたもの」
「そう」
「君も買ったら、車を磨いていたら何も考えなくていいもの」
「侘びしくない」
「俺、充実してるもの」
「先のこと考えたいんだ」
「何かを期待してた」
 雄吉は退職した先輩の伸ちゃんと居酒屋で話していた。何か寂しさが心に広がっていた。

 雄吉は朝のニュースを見て眠るという生活をしていた。起きるのは正午、パンを一切れと牛乳とコーヒーで朝昼の食事を済ますのだ。カーテンを開きサッシを開けると春の陽射しが六畳全体を照らし夏のような陽気を感じさせた。掛け布団を跳ねて敷き布団の上で大の字になる。じっと陽射しを体に受けながら、さて今日は何をしょうかと考えるのだ。
 雄吉はパチンコもカラオケもしなかった。パチンコ屋の駐車場もカラオケ屋の駐車場も真新しい高級車で占められていた。そんな風景を見て、こうはなりたくないなと思うのだった。かといって何をするかをまだ決めてなかった。
 雄吉はゆっくりと起き上がり、朝の支度を済ますとパンを焼きコーヒーを淹れ牛乳を温めた。
 今日は町をぐるぐると走って、ドライブをすることにしたのだった。家と会社の往復で町の様子を全く知らないことに気づいたのだった。仕事をしていたときの休日は庭の掃除やら、木々の剪定、壁のペンキ塗り、買い物でつぶれたのだった。郊外に大きな複合ショッピングセンターが出来たの、レジャー施設が出来たのという言葉を聞き流して生きたのだった。先輩の言うように車を買う予定もなかった。定年退職者が車を買うのはどういう事なのか理解のほかであった。そんなに見栄を張る必要はないという思いもあったが、ファミリーカーを乗っていた人たちが大きな車に乗り換えるのが流行っているらしかった。それをステイタスだと言った人がいたが・・・。今ではゴルフに行く人たちも大きな車でなくても恥をかかなくなっていた。そんな時代に大きな車を乗り回すのは退職金が入り今まで我慢してきた裏返しのように思えるのだ。パチンコ屋に乗り付け、カラオケ屋に横付けして何がステイタスかと思う心があった。
 エンジンを掛けてその音に耳を澄ます、快適な響きが伝わってきた。この分なら後五年は大丈夫だと思った。ハンドルもそんなに遊びが出来ていない、クラッチも滑っていない、ガソリンの消費が少し多くなっている程度だ。雄吉は満足して車に乗り込んだ。百メートル道路を西に走った。中央の分離帯が公園になっていて桜が花びらを散らしアスファルトの上に白く敷き詰めた様に広がっていた。車の中は暑いくらいだった。窓を開けて風を入れ頬に受けた。
 レジャー施設の周りを走った。子供たちが幼かったら喜ぶだろうにと思った。孫に手を引かれ嬉しそうな顔をして年寄りがドアの中に吸い込まれていた。ショッピングセンターであれこれと見て周り時間を潰した。町の様変わりに驚きながら町も生きているのだという実感を持ったのだった。

「ジュンちゃんかったんだって」
「かったの」
「生活変わったって」
「変わるんだ」
「変わる変わる元気になって艶々だもの」
「そう、いいな」
「飲むか、話すがどちらかなして」
「ごめん、それで何買ったの」
「でしょう、猫を飼ったの」
「真っ赤なスポーツカーだと思ってた」
「犬か猫でも飼ったら」
「それもいいね」
「貰って来てあげましょうか」
「何でも世話するんだ」
「猫は血圧や心臓にいいそうよ」
「初めて聞いた。犬は・・・」
「心臓かな血圧かな・・・」
「飼ってみたいけど、どちらにしょうかと迷うよ」
「猫にしなさいよ、散歩に連れて行かなくていいから」
「決めてくれるの、犬も捨てがたいし、何か犬に悪いような気がするし・・・」
「これでは女性が嫌がるわ」
「いいよ、仕方がないだろう」
「この前の話・・・」
「なによ」
「いい人紹介するって話・・・」
「その話は・・・なぜ今なの」
「もっと前にと言うの」
「そうでもないけど・・・」
「一人で旅行するより楽しいでしょう」
「優柔不断だから・・・」
「一度結婚に失敗してるの、生き別れだからいいでしょう」
「別に、何よ、それ・・・」
「死に別れだと、なかなか心から消えないっていうし」
「そうなんだ・・・」
「ああ、雄ちゃん死に別れなんだ」
「いいけど、別に・・・」
「まだ愛してるの」
「・・・」
「三十八なの」
「え」
「考えといてね」
 最近とみに冠婚葬祭のダイレクトメールが多くなっていた。

 一日がこんなに長いとは思わなかった。夜は読書に明け暮れた。何もしないでボーとしていると時は過ぎないのだった。これには雄吉も困った。自由に生きると言う事がこんなに大変だとは・・・仕事を選べばよかったと思った。食べてテレビを見て眠る、そんな生活は一種の拷問だった。助かるのは、プロ野球が始まっていることだった。時間つぶしには格好だった。何処のファンということもなく見るのが好きだった。というより何処でもよくテレビの画面に何かが映っていればよかったのだ。
 こんな生活をしていれば完全におかしくなると思った。妻を亡くして鬱になり苦しんだ経験があった。何か夢中になるものはないかと探した。趣味を持たない雄吉にとってそれは中々見つからなかった。とにかく、明日は庭の草取りでもしょうと思った。毎日のスケジュールを作ることにした。その中にきっちりと読書の時間もいれた。
 野球を見ながら小腹が空いてたのでお茶漬けを啜り込んだ。
「三十八歳か」
 言葉がもれていた。意識してなくても何かを期待している心があるのか、寂しさ故に何かを求めたのか、女将の声が聞こえた。そう言ってくれることはいやなことではなくありがたい言葉だった。
 雄吉は定めに従順に生きてきていた。ここは逆らうことなく流れよう、それが定めならと思った。
 妻を亡くして、それ以来女性との関係はなかった。誘ってくれる友もいたが行くことはなかった。潔癖症ではなくただのものぐさだった。お茶飲み友達がいてもいいなと最近思うようになっていた。仕事をしているときは一人の寂しさは感じなかったが、一日何をすると言うこともなく過ごすとき心に広がる孤独感を感じるのであった。
「散髪をして、デパートに行って最近はやりの洋服を買って・・・」と、雄吉は考えた。生まれ変わろう、そのためにはまず身だしなみからだと思った。外見をかえれば何かが変わるかもしれないと思い実行することにしたのだった。

「今日はどこかへお出掛け」
「いいえ」
「何か違うわ」
「そう」
「明るくなった」
「服を変えたから」
「艶がよくなったわ」
「石鹸で顔を洗ったから」
「考えてくれた」
「なに・・・」
「この前の話」
「逢うだけなら」
「そう」
「どっちでもいい」
「悔しい」
「なぜ」
「断ると思っていたの」
「断ればいいの」
「後は上手くやって」
「なにを・・・」
「知りません」
「初めてだから・・・」
「そこまで責任は持てませんよ」
「責任て・・・」
 数日後、女将は妙子を紹介したのだった。おとなしそうな女性だった。背に長い黒髪を垂らしていた。黒目がちの理知的な人だった。
 雄吉は動揺することなく応接できた。こんなことがあっていいと思っていなかったから平常心で話すことが出来た。何もなくて元々だということだった。雄吉は寡黙で妙子の話を聴いているだけだった。
 妙子は酒を何杯もあけこんなことは初めてだと言った。
 逢った次の日、突然妙子が雄吉の家に現れた。
「一度逢っています・・・私から女将に頼みましたの」
 応接間に案内した雄吉に妙子は言った。
 雄吉は心を平静に保つことが出来なくなっていた。
「綺麗に片付けているのね」
と、当たりを見ながら言った。この家に女性が来たことはなかった。雄吉は周章ててカーテンを開き窓を開けた。淀んだ空気を入れ変えたかった。
「押しかけて来て・・・そこまで来たものですから・・・」
と、妙子は言い訳をした。

 妙子は前夫の暴力がたまらずに離婚したと言った。酒飲みで飲んだら暴力を振るったという。子供は欲しかったが出来なかったと言った。別れた後、父の遺産で食べてきたと言った。食べるだけの土地はあり米だけ植えているのでと言った。借家も何軒かあり毎月その収入が入ってくると言った。
「私に何も責任を感じてくれなくていいんです・・・。一人で生きていくだけの経済力はありますから」
「それでは私に何をしろと言うのですか」
「お互いを拘束しなくて、時々こうしてお茶やお話の相手をして下さればいいのです」
 雄吉は何をどのように考えればいいのか戸惑っていた。
「お嫌でなかったらですけれど・・・」
「それは・・・」
「お嫌でしたら面と向かっては辛いし・・・電話ででも」
「いいえ、実を言うと女将から言われて断り切れずに・・・」
「やはり、ご迷惑だったのですね」
「そんなことはありません、今では良かったと・・・」
「嬉しいわ」
「・・・」
「こんなに話をしたの、初めてです。あなたの前ですと素直に言葉が・・・」
「私は一日中家にいてテレビを見ているだけでした」
「船をお持ちとか」
「漁船ですが」
「山に畑をお持ちとか」
「はい、猫の額くらいですが」
「田植えを手伝って下さると嬉しいのですけれど」
「はい、喜んで」
 雄吉は魔法にかかったように言いなりになっていた。それが嫌ではなかった。
「あなたの部屋が見たいわ」
 雄吉は周章てた。まだ布団を敷いたままであったのだ。
「まだ・・・」
「片付けてあげます」
 雄吉は案内した。
「こんなことは初めです」
 妙子は衣服を脱ぎ裸になって布団に横になった。雄吉は唖然とし呆然と眺めた。油ののりきった女体がそこにあった。
雄吉は夢だ夢だと心の中で叫んでいた。

「安っぽい女でしょうか」
「私も初めてです」
「お嫌になられた」
「いいんですか、こんなことになって」
「この歳になったら、もう何も失うものはありませんから。心の赴くままに生きたいと・・・」
「私に鬼になれと・・・」
「女の人生を忍従の中に閉じこめてきた社会に抵抗をしようと決めたんです・・・好きな人が出来たら私から誘おうと決めていたんです」
 妙子は庭のようやく咲き始めた五月を見ながら言った。
「私で良いのですか」
「一人で飲んでおられる後ろ姿を見て・・・その哀愁に惹かれたのです」
「これから食事でも」
 雄吉は話を変え不器用に誘った。
 瀬戸大橋の見える海岸線を走った。穏やかな海が広がっていた。雄吉はそこを走って山間のレストランへの道を走っていた。山肌にはツツジが咲こうとしている時期であった。
「なんだかこうなるように定められていたみたいです」
 妙子は運転している雄吉の肩に頬を寄せて言った。雄吉も何年も連れ添った人のように感じていた。妙子をいじらしく眺めた。
 雄吉は二十数年ぶりに男を感じさわやかな気分の中にいた。沸々と蘇る気力を感じ目の前が開かれたように思った。
 谷間の小川をまたぐように山小屋風の建物が造られていた。
 潺の音が床を通して聞こえて、鳥の囀りが静寂を破っていた。
「ここは奥さんと来たところですか」
 妙子は口元に運びながら言った。
「いいえ、忍びの男女がよく来るそうです」
「いい処ですね。こんな処を知っておられるなんて隅に置けないです」
「初めてです」
「嬉しい」
「私たち、どのように映っているのでしょう」
「さあ・・・」
「人目を忍んで・・・。美味しい・・・」
「時間は・・・」
「誰も待っている人はいない」
「そうですね」
 山に夕闇が迫っていた。風が出たのか木立がざわめいていた。

 妙子は昼間に雄吉の家に現れるようになった。
「草餅が美味しそうだから買ってきた」
「アイスクリームが食べたいから・・・」
 妙子は土産をいつも買って来た。夕餉を作り一緒に食べることもあり、寿司やラーメンを食べに行くこともあった。
 妙子が来る様になって部屋は綺麗になっていた。大人しそうに見えるが、よく笑い良く喋った。雄吉はその明るさに救われた。じめじめしとした性格だったら付き合って行けなかっただろう。リードするのは妙子だった。
「苗床を手伝って欲しいの」
「いいよ」
「去年は一人でやった」
「疲れたね」
「ほっといたから収穫はあまりなかった」
「でも、食べられるだけあったんだろう」
「十分に」
「稲は作ったことがないから・・・」
「ここを引き払って私の所に来たら」
 妙子は突然に言った。
「ここに出入りしていると奥さんに焼き餅を焼かれるわ」
「そんなことを気にしていたの」
「するは・・・」
 雄吉はこれも定めかという風に従うことにしたのだった。家は長男に譲ることにした。
「親父大丈夫なの」
「騙されてない」
「歳が離れすぎていない」
「捨てられて、泣くんじゃない」
「はっきりとした方がいいよ、俺たちはどちらも賛成だから」
「家は貰っておく」
「弟には山をやって」
 長男はさばさばと言い放ったのだった。
「何もなくなった」
 と、妙子に言った。
「私だけの人になった」 
 妙子は笑った。
 籾を蒔いて苗床を作り黒いビニールで覆いをした。
「さてと、夕食を奢らなくては・・・行きましょう」
 妙子がハンドルをとった。山間のレストランで食事をした。帰りに車は池の側にあるラブホテルに吸いこまれて行った。

 雄吉は夢のような生活だと思った。人生に流されることも流れることもそれが定めなら甘んじて受けようという気持ちが沸いてきていた。今までは受け身の生活をしていたのだ、これまでは拘束と約束の中で生きていたと言うことだ。その方が楽なことだった。それに理性が・・・。少し考えを変え、少し道を違えば新しい生活が待っていたというのか・・・。変わらぬ日々のなか子供たちを育て仕事一筋の人生に何があったというのか・・・。それはそれなりに充実したものであったが。
 雄吉は目の前が開け今の幸せを噛みしめていた。
 妙子の家には簡素な山水の庭があって池に鯉が泳いでいた。
「籾の芽が出た」
「暖かい日が続いているから」
 妙子はそう言って雄吉の側に座って庭石を眺めた。妙子の肌はしっとりとし前よりまして女らしくなっていた。
「こうしているとまるで夫婦みたい」
「ご近所から何か言われないかい」
「言われたっていい」
「勇気があるね」
「もう、人の眼を気にして生きる事は辞めた」
「だけど・・・」
「さんざん言われた、男を引き込んでいるって・・・」
「平気なの」
「誰にも迷惑を掛けていないもの」
「私のように年寄りでは・・・」
「言わないで、私があなたを好きだと言うことだけでいい」
「これからどうすれば・・・」
「田植えを手伝って欲しい」
「手伝うよ」
「愛してくれなくていい・・・愛させて・・・」
「こんな気持ち何十年ぶりだろう」
「心臓に良くない」
「落としていたものを見つけた気分だよ」
「落としていたの」
「ああ、探さなかった」
「探せば良かったのに」
「足下に落ちていたのに見つけようとしなかった」
「私は探した、探す場所を間違えてた」
「君に見つけて貰った」
「今度は見つけてよ、迷子になったら・・・」
「いいよ、必ず見つけるよ」
 雄吉は妙子の肩を抱いた。
前向きに歩き続けなくてはならない、これから妙子探しの旅が始まるのだと思った。

「この前、カラオケに行ったら四十くらいの女が傍に座り気さくに話しかけてきた」
「ほう、巡り合い忍びあいということに…」
「そう、何か舞い上がって、この歳になってときめいた」
「それはわかる」
「お前も若い女とよろしくやっていると聞いた。俺もという気になって誘ってみた」
「うまくいったの」
「ああ、俺から離れなかった」
「カラオケって歌を歌うところでしょ」
「ああ、十坪ほどの店に暇な男と女が集まって好きな歌を歌ってた。上手下手ではないんだよ、声を出しているだけで何か解放されるんだ」
「行ったことないから・・・」
「誘おうか…」
「いいよ、そんなに器用じゃないから」
「もうぎゅうぎゅうで体が摩擦するくらいに押し付けられて、スイッチはいっていた」
「そうか、春が来たのか、奥さんにはばれないようにな」
「出ようと耳元で囁かれて・・・。真っ赤なクラウンを見て引いていた」
「だろうな・・・」
「高速で広島空港までドライブをした」
「人妻さんなの」
「そう人の奥さん、暇を持て余した女が暇つぶしに来る、そんなに金を持っているようには思えなかった」
「不倫か…」
「バブルがはじけてデフレになって女は強くなった」
「何か関係があるの」
「暇があっても遊ぶ金がない、一日千円でカラオケなら時間が潰せる…」
「それ、パチンコより安いって事」
「そう・・・福山西インターで降りてラブホへ・・・」
「そんなのあり」
「初めてだった」
 伸ちゃんは嬉しそうにしゃべった。まじめに仕事をする人だった。定年退職が、赤いクラウンが気持ちまで変えたのかと雄吉は思った。それぞれの定年退職がある、そこで命を削ることが老いの道すがらなのかと思った。

 田植えも無事に済んだ。雨の長く続く気節だった。
 雄吉は幸せに包まれながら獅子脅しの音を聞き雨の庭を見詰めていた。今まで何とも思わなかった風景が約束されたもののように思えた。眼の前にあるものの総ては雄吉のために誰かが作り施してくれているような感覚に陥っていた。生活の一瞬一瞬が前もって誰かの手で準備されているのだという錯覚を持つのだった。自分と同じ現実を生きている人があることを不思議に思った。
 雄吉と妙子は引き合う磁石だった。
「昨日は落ちた」
「落としたの、おれが・・・」
「青空を泳ぎ柔らかな草原へ・・・」
「奈落の底がこんなにいいものだとは・・・」
「ストンと舞台から消えて・・・こんな事初めて・・・」
「忘れていたものだったよ」
「生きていて良かった」
「そうだね」
「何度か死のうと思った」
「そんなことあったの」
「弱かった、躓いたことを後悔した」
「・・・」
「父と二人の生活に耐えられなかった」
「・・・」
「認知症の父と・・・壮絶な戦いだった」
「・・・」」
「それもあなたへの道のりだった」
「・・・」
「ご免なさい・・・今が幸せだから言えた」
 雄吉はじっと妙子の言葉を聞いていた。
 妙子は時として感傷的になった。そんな妙子をいじらしいと雄吉は思った。日々の生活の中で新しい妙子を発見することに新鮮さを感じた。
「愛したことがない。愛されたことがなかった」
「心の中に君が広がっているよ」
「いいの」
「いいよ」
「こんないいことあった。あなたを愛して・・・」
 雄吉は歳のことを忘れていた。若かった頃のひたむきに生きた情熱が返ってきたような思いがしていた。寡黙で朴訥な雄吉を詩人にさせていた。

 妙子のお腹は少しずつ大きくなっていた。悪阻もそんなに酷くなく変わらぬ生活が出来ていた。
 雄吉は時たま田んぼに出て水の張り具合を見て歩いた。
「除草剤を撒いてくれた」
「いいや」
「あんたらしい」
「自然農法がいい」
「作るより買った方が安いし」
「どうなの」
「なに」
「調子」
「大丈夫」
「暑くなるから大変」
「あなたが・・・」
「この家は涼しいから・・・」
「私本当に母になるんだ」
 妙子は穏やかな顔になっていた。自信が現れているように思えた。女は母になることで初めて完成する。せり出したお腹を突き出して歩く姿にそれは見えた。そんな妙子に愛おしさが増す雄吉だった。
「なに」
「女らしくなった」
「だって、女だもの」
「まだ夢を見ているようだ」
「幸せだわ」
「そう」
「残念ね、私のこの気持ちがわからなくて・・・」
「女でないから・・・」
「濡れた」
「えっ!」
「女の幸せ」
 妙子は雄吉の手を取っておなかに持って行った。
「ここにあなたがいる・・・誰でもいいと思っていたけどあなたで良かった」
「本当に・・・」
「ええ、あなたじゃなくては嫌」
 お腹が熱くなっていた。そこは新しい命が息づいている様に思えた。

 妙子はマタニティドレスが似合っていた。本家普請の家は風の通りが良く涼しかった。雄吉は田圃の水を見に行き水がなければポンプを回すと言う以外に外に出ることはなかった。庭に藤棚を作り、畑に花を咲かせるくらいだった。
 家にいて妙子の立ち振る舞う姿を見ているだけで仕合わせだった。妙子も外に出ようは言わなかった。出るのは食料の買い出しくらいで、嬉しそうにお腹をせり出して歩いた。こどもを宿す女の自信が美しくしているのか妙子はその様に見えた。買い物の時でも妙子は雄吉にきちんとした服装をしろと喧しかった。外見を保つことが自信を生み出し一つ一つの仕草を優雅にすると言うのであった。見られているのだから見せることを演出しろと言うのであった。確かに普段着とは違って緊張感が生まれた。引きずる歩き方は出来なく足を上げなくてはならなかった。家の中にいるときでもLEEのジーパンをはかされた。食べ物にも気をつける様に、腹八分目を強制した。バランスが大切だと野菜料理を何種類か食卓にのせた。
「パパになるのだからね」
「何も言ってないよ」
「長持ちして貰わないと」
「長持ちね・・・・」
「平凡だけど、生まれた子を抱いてあなたと宮参り・・・ 」
「そんな夢があったの」
「お宮さんの前を通るたび思った」
 妙子の瞳が滲んでいた。そんな妙子を見るのは初めてであった。
 男の様な言葉を使い割り切ったようなことを言っているが女の優しさと感情は持っているのだと雄吉は思った。一つの命がそうさせたのかそれは分からなかったが・・・。
「来年の春にはできるよ」
「待ちどうしい」
「待ちどうしいね」
 雄吉は先のことを考えないようにしていた。今を精一杯に生きる事にしていた。これから何がおきるか分からない、その定めを流れようと思っていた。
 ガラス戸を通して差し込んだ陽射しが畳の上で日だまりを作り遊んでいた。夏の陽射しが和らぎ夕焼けの中を赤トンボが舞う秋が向かえに来ている頃だった。

「あらあらどうしたの・・・」
「ヌタと鰤の照り焼きが食べたくて・・・」
「また、ないもの強請りは悪い癖、治っていない…」
「お客さんどう・・・」
「幸せ者に心配してほしくない」
「それ、幸せって退屈するもの…」
「贅沢と言う、その言葉…」
「小さい男だから・・・」
「みんな大きいと思っているだけの話」
「そうなの、思っているんだぁ」
「ヌタ作るけど、ブリの照り焼き作るけど、それ、食べたらお帰りなさいよ」
「おいかえすの・・・」
「そう、幸せの匂い好きじゃないから…」
「しあわせだから・・・」
「雄ちゃん、それ音痴と言う…」
「はずれってこと」
「はずれじゃなく、外したの」
「最近、おかしい」
「幸せごっこに飽きた…」
「・・・」
「人間て、特に男はそれが好きだから」
「そうかな・・・」
「でも演技下手だから・・・」
「笑ってた?」
「役者は女のほうがうまい、作るの上手いから」
「何か言いたそう」
「男はきれいな水が好き、だけど女は汚れた水が好きでそれをきれいなものにしたい」
「なにか・・・」
「それって、女の母性・・・」
「なにか言いたいのだったら言って・・・」
「どちらが先にする…」
「え・・・」
「ヌタか、鰤かってこと」
「話そらすの」
「女の本性を語れっていうの…」
「男ってバカだから・・・」
「だから女が惚れるってこと多いよ」
「それを見抜くんだ」
「この人を男にできるのは私しかいない、って女多いし、頷かなくていいのに頷いて苦労を買うのも女の性・・・」
「それ男にもある…」
「同じものがあるから頷くの」
「人間同士だから…」
「弱いところや、欠けてるところに惚れる、不幸になるのがわかっていても、そんな男しか目に入らない女って多いよ。幸せより、苦労が好きな女ってまた多い、だから・・・」
「世間は回っているってことか」
「・・・何か妙ちゃんとあったの」
「ない」
「だったらなぜ来たの」
「ヌタと照り焼きが食べたかったから」
「嘘、妙ちゃんの方が料理は上手でしょ」
「だけど…」
「何、言ってんの・・・」
「女将、亜紀ちゃんの味と違う、ならされたのかも…」
「変なところで妥協しないで…」
「その味を確かめたかった」
「馬鹿、顔も性格も違えば作るものの味も違うってことわかりなさい」
「それ、関係しているんだ」
「当り前よ、何であんな男があんな女を連れてるのと言うのと同じ」
「胃袋捕まえられても・・・」
「お茶づけの味はみんな違う…異なる…えーてことは何、何かあったの」
「怖くなっている」
「それは男のやきもち…」
「何、やきもちなの」
「何が言いたいの、言って見れば」
「大きなおなかを自慢げにして微笑む、妙が怖い時がある…」
「馬鹿、何言ってんの、女は永遠の神秘を持っているって知らないの…」

 そんなときに猫を飼ったジュンちゃんが皮肉にも心臓病でなくなった。定年して何もすることがなくなると命の終わりを告げる鐘がなるという。人のために生きていることが長寿の秘訣だという人もいたが、ジュンちゃんはボランティアで老人クラブの世話をしていたのにと思った。

 雄吉が亜紀の言葉のやり取りを箇条書きにすればこのようになる。長年、美味しいものを頂いたが、苦い過去を話すのを聴くのは初めてだった。

 亜紀は母子家庭に育った。母と子の二人だった。母のつるは小さな居酒屋を営んで亜紀を育てた。亜紀が育っていく時代は日本はバブルで景気が良かった。つるの店も日銭が沢山落ちていた。
「どうするね、四年か短大かどちらにする」
「いかない、これ以上苦労を掛けたくないから」
「馬鹿、子供を育てるのは苦労とは言わないよ」
「母さんは苦労しているように見える」
「それはお芝居、苦労していると思われていた方が客が多い」
「そんなお芝居をしてほしくない」
「馬鹿だね、楽しんでいるの」
「楽しんでほしくない」
「なぜ」
「後姿見ていると母さんの本当の姿が見える」
「なんだいこの子は…」
「高校卒業したら手伝うから・・・」
「まだそんな年ではないよ」
「そういうの歳だから…」
「いいのかい、みんな上に行くんだろう」
「同じ乗り物に乗りたくない」
「じゃあ、勝手にすれば…。母さん、本当は物書きになりたかったんだ」
「知ってたけど・・・」
「作文下手だったから…」
「作文の上手な人は物書きにはなっていない」
「こんな商売をしていれば色々な人と話が出来て、その話に合わせる為にいろいろな分野の知識を本から拾わなくてはならなかったから…」
「書いてみれば、一年仕込んでもらったら店まかせて母さんこそ大学へ行ったら、奨学金は私が稼いでだしたげる」
「この歳で、何か照れるね」
「でも書くってことは恥を書くことだよ」
「でも受かるかね…」
「だから一番難しいところを受験する」
「だったら落ちる為に…」
「箔がつく、難しい学校ほど落ちて自信がつく」
「何が言いたいの」
「物書きは常に落ちてなくてはならないってこと」
「なぜ・・・」
「品行方正ではなく半端者が半端者らしからぬことを書いて商売する」
「それってこの商売と一緒だよ」
「だからできる、調理場と机と変えるだけ」
「半端者・・・」
「半端者を演じることなの…」
「母さんの背中にそんなこと書いてあったかい」
「読めた、もういやだぁ物書きになりたいって」
「それって亜紀ちゃんに向いてるように思う」
「まず母さんがなって、私は親の七光でやっていく」
「それ狡くない・・・」
「母一人の娘一人、がたがた言わないでやってみる。一年間受験勉強を真剣にしてください」
「予備校へ、この歳でかい」
「そう、恥を書くのも物書きの勉強」
「のせられてしまった・・・」
 そんな時代があった。料理は母譲りで上手だった。聞くの以外は少しはにかみを持って対応した。客はへらなかった。
「親子と言うより姉妹みたいだ」
客の反応だった。
 母は見事に落ちた、が、何か違った自信を持った様だった。それは女でありながらなくしいていた本能を蘇らせるものだった。
 ものを書きたいという集団の中から生まれた付き合いだった。もてあそばれて棄てられた。
「これも勉強かも…」
寂聴の様な事を言っていた、が、それでは少なかった。相手の妻から慰謝料を請求されていた。
「どうしょう…」
「払うしかないでしょう、私が儲けた中から払って上げる。何事もただではないことがわかれば勉強になるから」
 母はそのことでは懲りなかった。
 亜紀に男が出来たのはそれからしばらくしてからだった。少しやんちゃな男だった。夢中になった、その男にも妻と二人の子供がいた。それもすぐにばれた、が後を引いた。店の二階で同棲を始めていた。
「同じ匂いの母と子だわ」
 母は笑っていた。
 その男と暮らすために二人分の慰謝料を払った。もう一銭も残っていなかった。
 女は出来の悪い男になぜかほれる。それは業の様なもの、この人を一人前にするのが私の務め。男と女は同じ似たものを選ばない、何所か欠けているものを愛というもので埋め合わせるからうまくいく、男は綺麗な水をほしがり、女は濁り水をきれいに変えようとするそんな性質を持っているからその溝を埋めるのに愛という接着剤がなくてはならない。それも言って見れば曖昧なものだったが。
 母のつるは東京から来ていた男の後を追っていなくなっていた。
 やんちゃな男は女を作った。亜紀も仕返しに客と浮気を重ねていた。
 冷たい流れの溝が出来ていた。が、別れなかった。亜紀は次第にこの人といたらこの人がダメになると思う様になった。慰謝料をそえて別れた。愚かなというかもしれないが、燃えられただけ生きたということを実感した。

 亜紀は表情も変えずに淡々と人が書いたセリフを読むように無表情だった。それは蘇るものを抑えた苦悶を表すまいとしているものだった。
「雄ちゃん、お願いがある、一度でいいから私と浮気して…」
 亜紀は女の性を欲しがった。

 伸ちゃんが高速で事故を起こして死んだという情報が届いた。助手席には女が乗っていたが即死だったという。
 いろいろな定年がある。雄吉は二人の友の死をどの様に受け入れればいいのか、老いとともに生き方を変えなくてはならない、それだけに流されるのではなく流れるそれは何をどうすればいいのか、どのように考えればいいのかを問われていると思った。

 人は還暦を過ぎてから死の準備をするのなら後の二十年を綺麗に生きようと考えるだろう。肉体の死があっても魂は存在し、その魂をつれて中有の旅へ出るのならば魂を綺麗にするのがその二十年か・・・。雄吉は死を考えないがこの後の生き方を何か今までと変わった生き方にしょうと考えるのだ。自堕落な生き方は辞めて体を清潔にし身繕いを正してと思うのだ。そのように生きるという指針があって他に何かが起こるとしたらそれを従順に受け止めなくてはならないと思った。仏門へはいることを考えたがそれだけの勇気はなかった。
 托鉢の僧になけなしの金を差し出しお腹が空いたら食べてくださいと言うこと、遍路の人たちに宿を貸す人たち、その総ては魂を清浄にする行為なのであった。そんな生き方に憧れることもあった。若い頃はなぜという疑問があったが今にしてそれを理解出来るのであった。
庭や家の中の掃除から取り掛かった。それは死の準備でなく定めを流れるためだった。
 雄吉は身の回りをこざっぱりさせた。何かが壊れ新しい自分が表れた様だった。自由を生きると言うことは難しいがそれを生きると決意した。自由に生きるためには自制心が必要であることを知った。雄吉はお日様と一緒に暮らすことを自分に課した。それが定めだという風に受けとめた。
 この数日雄吉は憑かれように自己変革を行った。悟りを開くというのではなく煩悩の中で定めを生きようとしたのだ。綺麗に生き素直に歩こうとしたのだった。それは老いの知恵だったのかも知れない。好奇も探求も追求するのではなく流れの中で解決しようとするものだった。好奇心も探求心も若かった頃と比べ薄れていくのが魂の浄化であった。
 日が落ちてその静寂の中に心の安らぎを知った。雨の音に命の鼓動を知った。風のざわめきに慈しみを知った。自然の中に人間の心があることを知ったのだった。綺麗に老いると言うことは自然のままに暮らすことだったのだ。雄吉は明日来る朝焼けに胸を張った。
定年まで定めに流され、その後の人生はおもいどおりに流れようという生き方が老いを生きると言うことではないかと思い始めた雄吉はすべてに解放されたように羽ばたこうとしていた。
やがて雄吉は妙子と子供をおいて姿を消すことになるのだが、それも老いた者の生き方の様に思えた。旅立ちであったのだ。現状に満足することができなくなった精神の次なる行為であったのだろう。現状のままでいいという思いより別次元の生き方を求める多感な心が頭をもたげてきたのだ。
雄吉にとってそれが妙子だからできることなのかもしれなかった。妙子との一年間の生活の中で拘束も約束もなく生きて互いが理解し相手の心情まで凌駕した精神が生まれていて認めあったということであった。

子供が生まれるまでの何カ月かで雄吉はさまざまな考えを繰り替えしその行為を行ったのは確かであった。

釈迦が西行がたどった道を雄吉も歩きたかったということなのかも知れない。
それは雄吉にとって精神の苦悩を生きる旅立ちであった。
自分の生死を見つめ生きるために働くのではなく、生きるために奉仕する自我への挑戦だった。
そのような考えが生まれたのは妙子が自信に満ちた動作でお腹をせり出して歩く姿に己の姿を小さく感じたのか
もしれない。男として到底越えられないと思い至ったのかも知れない。

それから雄吉は身辺の整理を始めた。昔の武士がいつ死んでも恥辱を受けない生き方を見習おうとしていた。
 簡素に部屋の佇まいの中で何を考えていたのかを思った。
 まず老後に読もうと買いそろえた五千冊の蔵書の始末を考えなくてならなかった。若かったころ思った老後は本の中で過ご
そうということが空想の世界のものだと悟った。本の中にうずもれるということは精神的には充実感を味わったが、その重さ
につぶされる恐怖も感じた。本の中で遊ぶよりそれを知恵として社会で生かそうとしていたのかもしれない。

「ごめんなさい、聴いてほしい話があります」
 妙子が大きなお腹をせり出し大きな息を吐きながら言った。
 雄吉には妙子に対して引け目を感じていた。それは亜紀との関係だった。
「なんでしょう」
「亜紀から聞いた」
「何を・・・」
「私のこと」
「いいえ、何か言ってきたの…」
「何、そんなに、何か最近、うわの空で・・・」
「そんなこと・・・母子ともに元気かなって考えていた」
「いいよ、してくれても、むしろしてほしい」
「負担ではない」
「ない、寧ろうれしい」
「そうなんだ…」
「本当に亜紀から聞いていないの」
「聞いていない、何が問題なの」
「…私、嘘ついてた」
「え・・・」
「前の夫と別れたのは、私が全部悪かった」
「いいよ、そんな話・・・」
「やはり・・・」
「聞いていない」
「優しくしてくれて愛してくれた、とてもいい人だった、でも同じ物が共通するものが多くて相手の心が読め過ぎてい
た。愛を深められなかった。子供を造れば深められると単純に考えていた。そんなとき若い男と知り合った、心がときめいた。のめりこんでいく幸せに満足して何も考えらなくなっていった。そんなことを知っていても夫は何も言わずに見つめてくれていた。私は若い男によりおぼれていった」
「そんなことが・・・」
「君を愛しているから君の幸せを思って別れよう、と夫がいった」
「・・・」
「その言葉を聞いても何も感じない自分がいた」
「・・・」
「僕が悪いんだ、僕の精子に傷がついていて今のままでは子供が出来ないこともわかっている。そのことでなやんでいた、だから君の浮気を責められなかった。愛しすぎていたから・・・」
「・・・」
 雄吉には何も言えなかった。亜紀とのことが、その背信が胸を苦しくしていた。
「別れた、別れて夫をどれだけ愛しているかに気づいた…叱ってほしかった、殴ってでも奪ってほしかった、脳内麻薬症候群を治してほしかった・・・家庭を破滅させ、一人の人間の心をころしたのです・・・」
「・・・」
「そんな悪い女です、今まで嘘を言っていました。私は幸せになってはいけない女です」
 妙子はそこまで言って両眼に涙を浮かべ泣き伏した。
「いいよ、明日になったらわらって・・・」
「ありがとう、なんだか私ばかりが幸せを奪って…」
「わたしだって・・・」 
 雄吉はそこで言葉を飲んだ。

少し時間を過ごして、雄吉の心の有様を語った。

「いいかい」
「ご勝手に…」
「すまない」
「いいえ、おたがいさまよ」
「そうなんだ」
「私を一人にしないで宝物をおいてってくれるんだから・・・」
「ありがたいね」
「もう、湿っぽい。歳とって一人で生きる勇気のある人の後を引き継ぐのだもの・・・」
「湿っぽい・・・」
「明日になったらわらう」
「いいね、それ・・・」

 雄吉は久しぶりに自宅へ帰った。まだそこは手つかずのままだった。その空間は何か空々しいものだった。寝室で横になって天井を眺めていた。シミが見えた、それは心のシミのようにも思えた。汚れたことが人間として成長なのかと問った。何も知らない世界の物語のように感じられた。世間知らずという言葉が心を支配していた。知らなくてはならなかったがさけていたところもあった。生きていく中でいろんなことが交錯してその中で平等ではない生き方をしていた。雄吉は亜紀と妙子を自分の鏡として見ていた。そこには男にとって相いれないものがあるが、その部分は男にもあると思えた。男と女とは分かり合えない川が流れていてそれを渡るのには愛するという櫂がいる、がいくら漕いでもうずまらない、その努力する愛があることでバランスが取れて生きていけるのかという考えが浮かんでいた。男は川でそこで汚れたものを洗濯するのが女、いやそれは逆なのか・・・。
 人は生きる為に自分の心を偽るものだということは承知していた。
 亜紀と妙子、は正直に生きていた。性欲は男より女の方がはるかに強かった、そうでなくては人類はここまで人口を増やし文明も築けなかったことだろう。そんな考えの中雄吉は疲れて眠った。

 日を変えて二人の友の墓に参った。妻の父母の、そして友の、人は死ぬるのだという実感を再び持った。死を平然と受け入れる雄吉がいた。それはこれからを見据えて生きる目的が生まれたといえた。
 世間では年寄りの生き方を問う問題も多くなっていた。それは死ぬことを恐れ過ぎただ生き続けたいという思いから出る利己的なわがままだった。目的もなくただ生きることへの憧憬のように思えた。目的もなく…。雄吉は呆然と立ち尽くしていた。

 あくる日、彼は正装して図書館を訪ねた。本の寄贈の手続きはどのようにすればいいかの相談だった。前もって電話を入れてこのような用件で伺わせていただくとアポを取っていた。
 この町の中央公園のそばに図書館はあった。来た事はなかった。その空間はなぜか居心地のいいものとして感じていた。窓の明かりを欲しがる蛾のように年寄りたちがむしゃぶるように読書をしていた。それはそく生きるため、その目的を捜す行為のように思えた。本棚に並ぶ本の背表紙を見ていて何か安堵が生まれていた。このたくさんの中に自分のこれからを指し示し答えをくれるものがあるということを願った。
 窓際の椅子に腰を掛けてガラス越しに庭の立ち木を眺めた。少しの間意識は過去の自分へとフラッシュバクㇰしていた。今までの雄吉の生きてきた過去が再現されていた。その事実を正面から受け止めた。そうすることがこれからの生き方を作るうえで欠かせないと感じていた。

「今日はすいません、時間をいただいて・・・」
 雄吉は少し年増の書士に丁寧な言葉を投げた。
「いいえ、どのようなご本をお探しでしょうか、私の知っている知識でその手助けをさせて頂きます」
「定年退職したら読もうと思って五千冊の本を用意いたしました。が読む気にはなれませんでした。それを寄贈したいのですが」
「そんなにもですか、それは…」
「一人で読むには・・・」
「何もそんなに買い求められなくてここに来てくだされば、たくさんのお仲間の人がいて、読みながら交歓できますし、そのほうが・・・」
「来てみてわかりました、あの貪るようにして読めるのは同じ思いの人がいるからだと言うことがわかりました」
「何か迷っておられますか…」
「はい」
「私たちはここにいて、このたくさんの本の中から生きる喜びと悲しみ、辛さ、苦しみを感じ取り緩和していただきたくてその手助けをする、させて頂いています。わたくしたちのような図書館の書士はそれも仕事だと思っております」
「ありがとうございます、心を洗濯するような本がありますか」
「まあ、そんな表現は、初めて聞きました。環境を変える、そんなご本がいいかもしれません。おすすめは、円通寺にてご修行をなさいました、良寛禅師と仲良しになられたら…まあ、わたくしも…」
「良寛さんのですか…」
「思いつめたときには、何かの参考になるかもしれません」
 そんな会話の中に一つの光を見た。
 良寛さんを書いた本を何冊も借りた。
 読み耽った。精神を開放することの重要性が心に生まれていた。

生涯身を立つるに懶く(ものうく)
       騰騰天真に任す
       嚢中三升の米
       炉辺一束の薪(いっそくのたきぎ)
       誰か問はん迷語の跡
       何ぞ知らん名利の塵
       夜雨草庵の裡(うち)
       双脚等間に伸ばす (良寛)

 何も望むものはない、総てを自然に任し、貯えとしては三升の米だけでいい、それに囲炉裏に焼べる 薪が一束あればいい、みんなが色々と私の事を問うが、名を成すとは塵のようなもので大したこと はない、夜の雨を遮ってくれる小さないほりがあればいい、そこで両足を伸ばす事が出来れば何もいらない。

雄吉はハローワークに出向いた。たくさんの求人票を眺めて、保育園の監視のボランティアを選んだ。
 良寛さんも子供の中に精神の自由を見つけていた。
 これからその中で新しく生き方を見つけることを願った。
 無邪気にはしゃぎ思うままに行動する、その自由のなかに雄吉は遊びたいと思った。

 雄吉は保育園の誰もいない園庭に立つ姿を想像していた。

「妙子の話みんな嘘だから、その気持ちしっかり受け止めてあげて、そんな悲しい愛も女は持っているし、それを語る強さも持っているの。雄ちゃんは振り向かず生きてあげることが妙子に返す男の純情だということを感じて」

 雄吉は悪戯っぽく笑うしかなかった。
 雄吉は子供たちの歓声の中に立ち両の手をあげて、
「馬鹿野郎―――」






あとがきに変えて
 古希の時に、
「倉子城物語 倉子城草紙」を出版して五年の歳月が通り過ぎている。
 歳を取るということは何かおもちゃが必要であることを感じた。
 戯曲を書くのをやめてもう十五年になる、が、何かしなくては退屈でしょうがない、世界、日本の歴史、世界の宗教、文明の遺跡などに興味がありその方面のことをつぶさに眺めていた。
 そんな中で、「砂漠の燈台」を書き始めていた。これほど時間をかけた作品はない。爾来、私は速筆な方で構想がまとまれば一晩で書き上げたものだが、やはり歳なのか、それに書き進めているうちに新しい発見をしてついついそれをどのように入れ込むかという問題もあって、書き始めて、気分のいい時には書き進めることが出来るが、自律神経失調症に左右され何か月を費やした。
 この物語は一人の女性の心の成長を日本の文明と重ねて書いた。人様に読んでいただくためではなく私がこのような物語が読みたいと書き進めたものです。
 そして、三十歳で書いた「天使の子守唄」を添えさせてもらった。老人の性を問いました。
 「麗老」は定年をした男がいかに生きるのかを一面的な視点で書きたかった。綺麗に老いる、それはどういう性質のものか、真実などあるわけもないことを承知していた。少し遊び心を入れて重たいテーマを軽く書こうとした。老いという側面を多少なりとも書けていればと思いたい。書いた後、私には弁解の余地などないことを承知しています。読まれた方がなんだーと思われてもそれについて煩労をする勇気もない。こんな生きかた、があってもいいとご寛容に理解していただければ、書いた甲斐があったというもの、書き手のいい逃れは一切しません。
本にするつもりはありませんでした、が、草稿の原稿を読んだ人から本にしてという要望が多くあった。その人たちに後押しされて出版することにした。貧しい知識の中に出来上がったものをと思うけれど開き直っています。
この作品集を出版するに至って「幻冬舎」の編集者下平駿也さんに多大なる支援を頂きましたことを御礼申し上げます。

                                            今田  東




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