「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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yuuの一人芝居
小説 春の空 1
春の空は霞がかかりぼんやりとしていて掴みどころがない・・・。
春の空
1
500系「のぞみ」は静かに滑るようにホームを離れていった。岡山の市街地の風景が雲のように流れ直ぐに視界から消えだしとらえる事が出来なくなったのは5分も経たない頃だった。
省三はしばらく流れゆく景色を見詰めていたが直ぐにあきた。始発の「のぞみ」に乗るには朝6時には起きなくてはならず昨夜中々眠りにつけなくて殆ど眠っていなかったのだった。「のぞみ」の中で目をつむり眠ろうとしたが陽射しは省三の目の中でまぶしく瞬いていた。
彼が倉敷に来たのは桜の花びらが開く前か後だったか、省三は憶えてなかった。美観地区の中にある国際ホテルのロビーで会った。
電話で何度か話したのだが、その内容はほとんど忘れているのだ。ただ、あう日時と場所は覚えていた。省三のことをどのような経緯で知ったかはわからなかった。たぶん演劇年鑑でも見たのだろうと思った。
昔の仲間の戸倉氏と倉敷市文化振興財団の演劇担当の麻生氏には東京の動きは伝えたのだった。二人には同席をして貰い話の筋を知ってもらった。
「全国の演劇人を集めて世界の演劇の発展と展開を考えているのだ。あなたに中国地方の運営委員をやって欲しいとお願いに来た」と彼は言った。
省三は演劇人といっても十全の演劇人ではなく小説を書く暇に戯曲を書いて公演をするという二股の生き方をしていた。劇団滑稽座は喜劇というのではなくなめらかに物事を考える劇団と言うことで作った。劇団員は子供たちからお年寄りまで五十数名いた。毎年芸文館ホールで倉敷の人たちの生きざまを公演していた。省三は地に着いたものだとうそぶいていたが周囲はどうであったかわからなかった。解ったとしてもそんなことはどうでもよかったのだ。公演することで演じた人たちが人間として少しでも前進してくれたらいいと思っていたのだった。
「それはどのようなことなのでしょう」
省三は尋ねた。
「演劇人会議を財団にする前にいろいろと話し合いをして決めなくてはならないことがたくさんあります。その会議に参加して発言してほしいということです」
彼は端正な顔の額に掛かる前髪をかきあげてそう言った。鋭い眼の中にやさしい光があった。その彼が日本の演出家の三本に入る人であることをのちに知った。
「のぞみ」の車窓から眺める風景はだんだんと変わっていた。意識的には何も感じていなかった。省三はまだ完全に病から解放されてはいなかったのだ。不安発作の恐怖を抱いて座席に座っているだけだった。病の身で閉塞感のある新幹線に乗り東京へ行っていることが不思議であった。背広の胸ポケットには安定剤が大事そうにしまわれていた。その薬が命の綱なのであった。
東京駅について、新宿の大久保へ行くには中央線に乗り換えなくてはならない、長い上り階段が行く手をさえぎるように立ちはだかっていた。省三はぜいぜいと荒い息をしながら上った。その時がちょうど東京駅の改築工事中でエスカレーターなど動いてはいなかったのだ。
大久保駅から地図を頼りにホテルの会場にたどり着いた時にはへとへとに疲れていた。集まった一人ひとりが挨拶をする。議題に入ったが何をどのように話されたのかまったく覚えてはいないのだ。省三はこの会議がすんだらどのようにして帰ろうかと、そのことばかり考えていた。
彼は黒いロングコートを人ごみの中になびかせて小走りのように歩くのだ。そのあとを省三達は懸命に追った。
会議の後食事をしようということになり少し賑やかな場所へと移動した。動悸が激しくなり全身が重たい荷物を持っているように感じられた。病を持っていたが何回か東京には出向いていた、時間を縛られることがなかったので休み休みでもよかったのだ。気楽な息抜きの旅のようなものであった。が、この会議はそうではなく時間との戦いのような切迫感が意識の中で省三を混乱にかえていた。そんな時には開き直るしかないということを省三は体験していた。
「どうでもしてくれ…」
と省三は心の中で叫んで後を追ったのだった。
そのどうにでもなれという精神の開き直りが緊迫感を弛緩してくれていた。
これは省三にとってある種のリハビリになった。そんな会議に何回も出席するようになってだんだんと馴れたのか発作もなくなっていった。時には岡山駅のホームで行くのを嫌がるように軽い発作が起こったこともあった。
「演劇人会議運営委員」それが省三の肩書であった。
全国で活躍をする第一線級の演劇人、演出家の集まりの中にあって無名で実績のない省三は孤独な時間をやり過ごしていた。そんな経験の中彼がどうして呼ばれたかを思考した。西日本でただ一人の運営委員、といってもそのほかの会員を束ねるということもなく会議で財団にする協議に参加していたのだ。この会の後ろには文化庁の働きがあることをのちに知った。議決に対しての挙手が役目であった。会長の鈴木忠志さんには声をかけてもらいよくしてもらっていた。
鈴木忠志さんは出身の静岡市に芸術村を作る仕事を抱えていた。日本平の山の中に野外ホール、小劇場の有堂、それに立派な練習場を持っていた。静岡駅の東隣りにはグランシップ、その中には大中小の静岡芸術劇場を有し、三千人は入る展示ホールを備えるという豪華さであった。建設半ばのその建造物を何回も見学に行ったものであった。
そのころの省三は劇団滑稽座の公演を倉敷市芸文館ホールで上演していた。昔雑誌に書いた小説が倉敷新聞に連載、また、毎日新聞岡山版に「大風呂敷の中の小石」というコラムを連載していて大層忙しい生活をしていたのだ。
相変わらず演劇人会議は月一の割合で会議がもたれ、高田の馬場、銀座に通っていた。
静岡芸術劇場のオープニングには招待され盛大なセレモニーが催されてそのパーティーにも参加した。
鈴木忠志さんにとっては故郷に凱旋する、生まれは清水市だったので、錦を飾ったということになった。
そんな時、田辺康志さんから映画を手伝ってやってほしいとプロデューサーの永井正夫さんと鯉渕優さんを紹介された。二人は篠田正弘監督の「写楽」のプロデューサーで撮影の手伝いをしてほしいとのことだった。二人に会って人となりの良さを感じて手伝うことになった。この撮影には劇団滑稽座全体で名のある重要な役者のそばで演じることになった。ギャラの件は鯉渕優さんと話し合って決めた。
「写楽」の出演者は岩下志麻、真田広之、フランキー堺、河原崎長十郎、加藤治子、浜村純、葉月里緒菜、佐野史郎、片岡鶴太郎、竹中直人、六平直政、ほか多くの有名人が参加していた。二カ月間にわたる昼夜の撮影が続いた。五月とはいえその年は春が来るのが遅く山桜が咲き誇っていて深夜になると底冷えのする日々だった。劇団滑稽座も今田南、高井外、を筆頭に全員出演していた。その二ヶ月間は映画にかかりっきりで何もできなかった。
深夜の炊き出しのロケ弁が体を温かくしてくれほっとできる時間だった。
ライトに照らされた桜の枝から風にもてあそばれた花弁が時雨のように降りそそぎ舞っていた。
ロケの現場は広島県の福山市沼隈の山中を切り開き作られていた。そこには隣接してみろくの里という遊園地があった。そこから少し離れた山の中に映画のためだけに江戸の街並みを作ったものであった。大道具と美術係によって吉原の大門が作られ、遊郭の客を呼び込む格子窓が、そこには江戸時代の吉原が作られていった。芝居小屋、蔦谷の店、遊郭の座敷など一晩でいろいろと形を変えて現れていた。
かつらや衣装は本多劇場でかぶりきつけられた。本多劇場はその当時使われてなかった。個人のりとしたいいホールであった。それは山の中に取り残されたように建っていた。
撮影を終えて帰る車の窓からの風は紅潮し疲れた体をいたわるようにやさしく包んでくれるものであった。
役者といっても脇を固めることが仕事なので何役もこなした。今田南は目明しに、大工に、本売り、歌舞伎役者になり、高井外は蔦谷で本を綴じる役、吉原の幇間を、歌舞伎役者の中町などを演じていた。省三もマネージァーをやりながら髷をかぶり遊郭の客を演じた。
この二ヶ月間は本当に楽しい未知の世界の扉を開いてくれた。劇団以外の人たちにもエキストラとして百人近く出てもらった。
芝居小屋の美術、書割描きの男、昔は歌舞伎の役者で舞台の上で足を怪我してピッコになったトンボと渾名される男を写楽に仕立てという物語であった。
倉敷から沼隈のみろくの里へ高速を使って毎日のように通った。毎日が楽しかった。見るものすべてが好奇心をふるわせてくれた。撮影現場の魅力に取りつかれた。
省三はその時、生きている実感を持った。
飯が食べられなくても映画が好きでこの現場にいたいというスタッフの心が理解できた。
それから二、三年のサイクルで「瀬戸内ムーンライトセレナーデ」「梟の城」「スパイゾルゲ」と篠田監督の作品に参加することになる。
TVドラマ「瀬戸内海航路殺人事件」
「チボリこうえん」のコマーシャルに二回出演した。
そのころから省三の舞台は映像的に変わっていくのだ。
撮影現場の影響か描くものにも変化が生じていた。暗転のしようが多くなり場面の転換もおのずと多くなった。
その作品が「あの瞳の輝き永遠に」の続編である「ふたたびひとみの輝きは」の台本と演出に変化が現れたのである。
劇団滑稽座は岡山県では由一の稽古場を所持していた。
家人の喫茶の隣に二十五坪の鉄筋二階建て、百人キャパの小ホールをスタジオとして使い練習場としても使った。
劇団員は、母子家庭の子、いじめられっ子、登校拒否の子、らを中心に五十名ほどいて毎週二回の練習が行われていた。柔軟体操に始まり発声練習、脚本の分析のための回し読みなどが繰り返されていた。
公演が近づくと連日の稽古になった。個の稽古場で作られて倉敷市芸文館大ホールで公演した数は五十作にも及んでいた。
劇団員の人間としての成長を考えた作品作りが繰替え返された。
省三は観客の数より公演を終えた後に出演者が人間として一歩でも成長してほしいために脚本を書き演じさせていた。練習の最中自作を書くことに精神を集中させていた。
この頃は病の事など忘れていたように思う。集中する緊張感がそうさせたのかも知れない。
その合間を縫って演劇人会議には参加していた。
財倉敷市文化振興財団の企画委員も務めていたのでその会議にも参加していた。
あわただしい日々を十年間少していたことになる。
新聞連載が終わり、子供たちも卒業したのを機に、省三は劇作家も演出家もすっぱりと辞めて遊び人になることになる。その間には演劇人会議は「財団法人舞台芸術財団演劇人会議」にして大きく成長する事になる。日本を代表する人達が一堂に会したものであった。また、日本劇作家協会からも身を引いた。著作権に関わる姿勢が背反のもとだった。
簡単に書いたがこの十年間は怒涛の十年間であった。だが、なぜか疲れると言う事はなかったむ。精神が充実していたからかも知れない。
この歳月の事は改めて稿を起そうと思っている。
野球少年から映画少年、そして、文学青年として作品を書いていたころ、何かの縁で戯曲を書くことになり小説と二股の人生を六十歳で終えたのである。
この事の経緯は五木寛之さんが書いた「林住期」の影響があったと言う事は否めない。
そのあとに、国民文化祭岡山の演劇公演の台本を書く、また青年たちに昔書いていたものに手を入れた作品で公演をさせたこともあった。
だがそれらは新しいものではなく、七十の古希に出版した「倉子城草紙」は書いていたものと新しく書いたものを加えたものである。この事については次の章で書き改めることにしたい。
「春の空」2続く・・・。
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