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世の中には恫喝を加えることで、人心の掌握を
試みようとする人もいる。あれは、私に云わせれば、
短期的には従わせることが可能であろうけれど
長期的には人心の離反を指数関数的な速度で引き起こす、
不毛な選択である。
小学校低学年以下の乳幼児〜児童への躾の一環で行う
矯正プログラムはいざ知らず、それ以上の年齢であって自我や
理性の存在を「発見」した者には、矯正とは異なる
学修方法、アダルト・ラーニングを適用することができる。
この方法は個人、家族、地域社会、そして国際社会へと
拡張された自己愛が再度収縮していった、お年寄りにも
使っても良いだろう。彼らが誤ちをしたときは、
現役世代自らが教え、諭し、そして耐える必要が出てくるであろう。
それでもなお、人の失敗を論い、「矯正するしかない!」という
強迫観念に駆られて恫喝に走るよりは、遥かに健全といえるだろう。
他者が失敗したときは笑ってはいけない。何故ならば
その人は何かをしようとしたのだから。義憤に駆られて
大声で怒鳴りつけるのは、最悪の行動である。ましてや、
公衆の面前でそれをやろうものなら、傍観者からも
見限られることが予想されるのは、想像に難くない。
責任の所在がその人にあることが分かっているのであれば、
失敗そのものを糾弾することが不毛であることが容易にわかるはずだ。
ここで大事なことは、結果ではなく、そのようなことに至った
過程(プロセス)を重視して記述することに務めることである。
例えば、ある人が何か失敗したとしよう。その人に対して
「あの人はこんな失敗をした。だから、その人を矯正しなければならない!」と
脊髄反射的に反応するのではなく、
「あの人はこんな失敗をした。どうして、このような失敗をしたのだろうか。何か、環境に原因があるかもしれない」と考えを改めることである。
失敗の原因を個人に求めるのではなく外的な要因に求めることで、
あなたは何か、誤りに気づくであろう。その矛盾を克服しようと務めたとき、
世の中に存在する転換点を「発見」することも容易にできるであろう。
自省録の執筆動機について[1/ n](2024/01… 2024.01.06
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