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武官と武士の違い


一般に「武芸に通じ、戦闘を職業とする軍人、あるいは兵法家のこと」
とされるが、それだけでは平安時代以前の律令体制下の「武官」
との違いがはっきりしない。

例えば、武人として名高い征夷大将軍の坂上田村麻呂は、
すぐれた武官だが、武士とはいえない。また、中国や朝鮮の
「武人」たちとの違いも見えてこない。中国や朝鮮には「武人」
は存在したが、日本の「武士」に似た者は存在しなかった。

時代的にいえば、武士と言える存在は平安時代中期の10世紀に登場する。
つまり、それ以前の武に従事した者は武官ではあるが武士ではないと
いうわけである。

では、武官と武士の違いとは何か。
簡単にいえば、武官は官人として武装しており、律令官制の中で
訓練を受けた常勤の公務員的存在であるのに対して、武士は10世紀に
成立した新式の武芸を家芸とし、武装を朝廷や国衙から公認された
「下級貴族」、「下級官人」、「有力者の家人」からなる人々であって
律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではなかった。

ただし、官人として武に携わることを本分とした武装集団ではあった。
また単に私的に武装する者は武士と認識されなかった。
この点が歴史学において十分解明されていなかった時期には武士を
国家の統制外で私的に武装する暴力団的なものと見る見方もあった。

ただし、武装集団である武士社会の行動原理に、現代社会ではヤクザなどの暴力団組織に特徴的に認められる行動原理が無視できないほど共通しているのも確かである。

軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、
律令制機構内で養成された官人から様々な家芸を継承する実務官人の
「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の王朝国家体制であった。そして軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。

王朝国家体制では四位、五位どまりの受領に任命されるクラスの
実務官人である下級貴族を諸大夫(しょだいぶ)と、上級貴族や諸大夫に
仕える六位どまりの技能官人や家人を侍(さむらい)と呼び、
彼らが行政実務を担っていた。

武芸の実務、技能官人たる武士もこの両身分にまたがっており、
在京の清和源氏や桓武平氏などの軍事貴族が諸大夫身分、
大多数の在地武士が侍身分であった。地域社会においては国衙に
君臨する受領が諸大夫身分であり、それに仕えて支配者層を形成したのが
侍身分であった。

こうした事情は武士の発生時期から数世紀下る17世紀初頭の日葡辞書に、「さむらい」は貴人を意味し、「ぶし」は軍人を意味すると区別して
記載されていることにもその一端が現れている。

よく言われるように貴族に仕える存在として認識された武士を侍と呼んだと言うより、上層武士を除く大多数の武士が侍身分の一角を形成したと言った方が正確であろう。

また、武士などの諸大夫、侍クラスの家の家芸は親から子へ幼少時からの
英才教育で伝えられると共に、能力を見込んだ者を弟子や郎党にして伝授し、優秀であれば養子に迎えた。武士と公認される家もこのようにして
増加していったと考えられる。

いわば、国家から免許を受けた軍事下請企業家こそが武士の実像であった。そして、朝廷や国衙は必要に応じて武士の家に属する者を召集して紛争の収拾などに当たったのである。


武士の起源
武士の起源については、従来は新興地方領主層が自衛の必要から武装した
面を重視する説が主流であったが、近年は清和源氏や桓武平氏のような
軍事貴族や下級官人層から構成される戦士身分が起源であり、
彼らが平安後期の荘園公領制成立期から荘園領主や国衙と結びついて
所領経営者として発展していったとみる説が有力である。

平安時代、朝廷の地方支配が筆頭国司である受領に権力を集中する
体制に移行すると、受領の収奪に対する富豪百姓層の武装襲撃が
頻発するようになった。当初は受領たちは東北制圧戦争に伴って
各地に捕囚として抑留された蝦夷集団、すなわち俘囚を騎馬襲撃戦を
得意とする私兵として鎮圧に当たった。しかし俘囚と在地社会の
軋轢が激しくなると彼らは東北に帰還させられたと考えられている。

それに替わって、俘囚を私兵として治安維持活動の実戦に参加したことのある受領経験者やその子弟で、中央の出世コースからはずれ、受領になりうる諸大夫層からも転落した者達が、地域紛争の鎮圧に登用された。

おりしも宇多天皇、醍醐天皇が菅原道真や藤原時平らを登用して行った
国政改革により全国的な騒乱状況が生じていた。彼らは諸大夫層への
復帰を賭け、蝦夷の戦術に改良を施して、大鎧と毛抜型太刀を身につけ
長弓を操るエリート騎馬戦士として活躍し、最初の武芸の家としての
公認を受けた。

藤原秀郷や藤原純友、平高望、源経基らがこの第一世代目の武士と考えられ、彼らは在地において従来の富豪百姓層(田堵負名)と同様に
大規模な公田請作を国衙と契約することで軍人としての経済基盤を
与えられた。

しかし勲功への処遇の不満や、国衙側が彼等の新興軍人としての誇りを
踏みにじるような徴税収奪に走ったり、彼らが軍人としての自負から
地域紛争に介入したときの対応を誤ったりしたことをきっかけに起きたのが、藤原純友や平高望の孫の平将門らによる反乱、承平天慶の乱であった。

この反乱は朝廷の勲功認定を目的に全国から集結した武士たちによって
鎮圧され、武芸の家、すなわち、武士として公認された家系は
承平天慶勲功者子孫でほぼ定まり、貴族の家としての家業となり、
武家としての清和源氏や桓武平氏、秀郷流藤原氏もこの時に確定した。

この時点ではまだ武士の経済基盤は公田請作経営で所領経営者ではなかった。しかし11世紀半ばに荘園の一円化が進み、諸国の荘園公領間で
武力紛争が頻発するようになると、荘園及び公領である郡、郷、
保の徴税、警察、裁判責任者としての荘司、郡司、郷司、保司に
軍事紛争に対応できる武士が任命されることが多くなり、
これらを領地とする所領経営者としての武士が成立したのである



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