歴史小説が好きな爺のHP,

歴史小説が好きな爺のHP,

戦国時代


1467年の応仁の乱発生時、あるいは1493年の明応の政変をその始期とし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて
室町幕府が名実ともに消滅するまでの時代を指す。

室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と
区分する事もある。幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と
呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、
領国内の土地・人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。
こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。


概要
応仁の乱以降を戦国時代と言う。慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が「戦争状態」にあったことではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。これを下克上という。様々な経歴の戦国大名が登場する。

それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で
行われた。そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に
質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で
「成功」を収めることができる経済成長期であったことが
時代を支えていた。

荘園制度に立脚した律令制が在地領主層である「武士」の台頭で
消滅したのと同じく、経済の急成長に伴い大量に発生した
新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を
通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した
時代でもあった。(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという
伝説がある。)

応仁の乱から明応の政変まで
「万人恐怖」の政治を行った足利義教が嘉吉の乱で無念の死を遂げると、
室町幕府の力は急速に衰えることとなった。
例えば、関東では将軍に刃向かう古河公方が興り、将軍が鎌倉公方として
派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった。

加賀でも大和でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも
徳政一揆が頻発する有様であった。 この最中に将軍の跡継ぎ争いが勃発、
これに山名氏・細川氏ら守護大名の権力争い・畠山氏・斯波氏の
跡継ぎ争いなどが加わり応仁の乱が起こった。

大内氏、若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした
争いが10年間続いた。この戦いは山名氏の衰微・大内ら西軍の
京都撤退など細川氏が勝利した形で終わったが、はっきりとした
勝利の結果は残らなかったため後々までに影響する。

更に戦中、細川氏が山名氏領国を混乱させるため武将を
送り込んだために争いの火種が各地でくすぶり続けた。

戦後も幕府の力はある程度残っており、1487年の将軍に敵対する
近江守護・六角高頼攻めには尾張・若狭など畿内近辺の諸大名が従い、
1492年の足利義材の河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。

この河内攻め最中の1493年4月に管領・細川政元が将軍廃立を行う
クーデターである明応の政変に成功し、実権は細川氏に移った。
将軍は各地の大名に身を寄せ頼る存在となった。細川氏も政元死後、
晴元と高国と二派に分裂して混迷を深める。

ここに中央政府の地方への求心力が失墜し、各地豪族は自ら力を蓄え、
或いは力ある存在に身を寄せる法なき時代に入ったのである。
この内、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名という。



明応の政変から信長登場前夜まで
この明応の政変とは、いわば将軍である足利義材を追放し
清晃(足利義視の子)を将軍としたことだったのだが、
これに足利義材が怒り、近畿諸国は足利義材派と
足利義澄派(細川政元派)とわかれることとなった。

専横を振るった細川政元も養子・細川澄之に
討たれ(1507年、永正四年のクーデター)、
細川家もまた細川澄元、細川高国と2派に分かれて
抗争することとなった(澄之は高国に討たれた)。

この間隙を突いて1509年に周防の大内義興が足利義尹(のちの足利義稙)
を奉じて上京した。高国は大内義興と組んで義尹を支持し、
澄元は義澄を支持し対立。

1511年に足利義澄が没すると、澄元方が劣勢となり、
澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず
1520年に阿波で没した。
1521年細川高国、足利義稙を追放し足利義晴(足利義澄の子)を
将軍に迎える。
1526年細川晴元(澄元の子)・足利義維を奉ずる柳本賢治と
細川高国の戦いが始まる。柳本賢治、京周辺を制圧する
1530年柳本賢治、暗殺される。
1531年播磨の浦上村宗と細川高国が天王寺に戦死、細川晴元が政権を握る
1543年細川氏綱、高国跡目と称し細川晴元と戦う
1547年三好長慶、細川晴元から離反し氏綱方となる
1548年三好長慶、細川晴元・足利義晴を追放する
1552年三好長慶、足利義藤(足利義輝)と和す。
1564年三好長慶没す。
1565年足利義輝、三好三人衆に暗殺される
1566年三好三人衆と松永久秀が対立し、畿内各地で抗争
1567年織田信長入京
以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏に移り、
続いて三好氏が政権を握った。

細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在するが、
細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで
本来なら政権を執れるはずはないのだ。

ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。実際、この前後から
全国の戦国騒乱が本格化する。三好長慶は近畿周辺を征圧した強大な
軍事力をバックとして足利氏を追放する。

しかし三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、
結局4年で足利義輝に屈服することとなる。三好長慶の死後は
三好政権が迷走、松永久秀・興福寺・浅井長政らの協力を取り付けた
織田信長に簡単に京を明け渡す。この三好長慶から始まる三好政権を
堺幕府と呼ぶ人はある。



信長登場以後
1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことより
戦国時代の状況が一変する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、
天下人への道を歩み始める。彼が入京して最初にしたことは
大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたことである。

また、イエズス会のルイス・フロイスに京都居住・布教を
許している(1568年)など京都統治も行っている。

このころになると、信長の動きに関連して各地方も統一への道を歩み始める。北条氏、武田氏、長尾氏、今川氏、毛利氏などなど。
この全国の大名は信長派か反信長派に分かれて争うことになる。

将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山、本願寺、武田信玄、上杉謙信、
朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好三人衆、毛利輝元ら反信長派が
結集して信長包囲網を築き上げたが各個撃破を受け失敗、足利義昭は
京都を追われ(幕府という形態はこの後備後の鞆に細々と続く)た。

つづいて自らの利権を失うと恐れた本願寺も信長に反発、
全国の一向一揆を動員して10年間徹底的に抗戦した。織田信長は
これらの抵抗勢力にすべて勝ち、自らが本能寺に倒れる1582年までには
日本中央部を統一、天下統一を実質的に成し遂げた。

後継者である豊臣秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、
更には太閤検地、身分統制令、貨幣統一を達成して、
これまで各地ばらばらであった日本の全てを一つにまとめた。

徳川家康は関が原で諸大名の有無を言わさず配置換えを行い、
大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川家一統が日本の実質的支配者と
することを諸大名に徹底確認させる。一国一城令を行うことは
「もう戦争はしません」という諸大名の意思表示でもあった。

そして江戸時代中期、徳川家光が死去した後、幕府の武断主義から
文治主義への転換は武力による支配の終焉ともいえる。


戦国大名
戦国大名はそのほとんどが守護大名家出身か或いは有力国人出身者が多い。武田氏、大内氏、細川氏、上杉氏らは守護大名、長尾氏、三好氏、
長宗我部氏、神保氏、波多野氏らは守護代出身である。

これらは彼らが室町時代を通じて各地方に根拠を築いてきたためで、
各地方の中小豪族がお互いに争わないため彼らを自らの上に
戴いたのではあるまいか。

応仁の乱で地方に疎開して土着化した一条氏のような貴族もいる。
疎開して期間が短い間でも土佐全土に絶大な影響力を持ちえたのは
先ほどの理由と同様の故だろう。

さらには飛騨で三木氏がすでに滅んでいた貴種・姉小路氏を称し、
ただ中には突出したリーダーを持ちたくなかったのか、みなが同じ
立場で団結して外敵と当たった地域もある。

これを惣という。戦国時代当初は地域の中小豪族が団結して各地で
自立した例も散見される。1485年の山城国一揆や1488年の加賀一向一揆ではこうした中小の土豪らが団結して大権力者を追放したのではあるまいか。
この動きは近畿各国に波動を起こし丹波や山城国乙訓・讃岐などで
同様の動きが起こっている。

地方での中小豪族は自らの利権を守るべく守護大名や守護代などを
自分たちの盟主に掲げる。彼らは主君の権力強化を喜ばなかったから、
支配権確立を目指す戦国大名と彼らは常に緊張関係にあったとも言える。

この惣との主権戦いに勝利した主君が戦国大名として周囲に覇を
轟かせることになる。
戦国大名には低身分出身者もわずかながらいる。
大山崎の油売りと言われる斉藤道三が守護代の養子となり、
守護を追放して国主となるなどはその典型ともいえるだろう
(但し、現在ではこの国取は親子二代にわたって行われたといわれてる)。

また三好氏の執事であった松永久秀は京都の僧侶出身であったとも
言われている。信長の後継として天下統一を達成する豊臣秀吉自身が
足軽出身として有名であるが、彼は織田信長の配下であるから少し違う。


地域別

東北
東北地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある
一族が、そのまま戦国大名化したものが多い。例外は若狭武田氏末裔を
名乗る(実際は商人出身か?)蠣崎氏で、青函海峡沿いの中小豪族を
統一した。

南部氏より独立した津軽氏もまた例外に含まれよう。
ただ、彼(津軽為信)は古くより津軽地方を領有して南部氏に
謀殺された大浦氏の流れともされ、そういう意味では奪われた土地を
取り戻しただけとの見方もできる

東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、
当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、
15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は
永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。

篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、
平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗が奥州探題・
大崎らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

1542年には伊達氏父子が争いを起こし、血縁関係から奥羽を巻き込んだ
大乱(天文の乱)へ発展した。このため、伊達氏の求心力は低下、
最上氏など他勢力が跋扈することとなる。

1570年以降、最上義光、伊達政宗、南部晴政、安東愛季、津軽為信など
東北地方にも戦国大名と言える人物が登場する。
彼らは兵を率いて他を圧し、一大版図を築いた。そしてそのまま
豊臣秀吉の奥州仕置にて認められた。

一般的に安東氏が津軽・秋田県域、南部氏が東奥・南部地方(岩手県域)、奥州探題の大崎氏が現宮城県中央部、葛西氏が現宮城県石巻市より北部、
羽州探題最上氏が最上地方を、伊達氏が置賜・伊達郡を、芦名氏が
会津地方、二本松氏(畠山氏)・二階堂氏・石川氏・田村氏・白河氏が
それぞれ中通り(仙道)の1~2郡を、相馬氏・岩城氏が浜通り(海道)を
割拠した。

関東
初期の関東では鎌倉公方が衰えたために関東管領の扇谷上杉氏と
山内上杉氏が互いに覇権を争った。伊勢長氏(北条早雲)の子孫が
伊豆の堀越公方を滅ぼし北条氏を自称した。

この北条氏と上杉氏が関東の覇者を巡って戦い、1546年川越夜襲により
上杉氏の勢力が衰えた。1552年山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎を
頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが
関東を巡って争った。一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも
奪えなかった。

この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分した。やがて、
上杉謙信が死ぬと北条氏の勢力が拡大した。豊臣秀吉が惣無事令を
発すると奥州の伊達政宗・三河の徳川家康と同盟して対抗する。

しかし圧倒的な武力で海から山から迫り来る豊臣軍の前に
北条氏は降伏した。1590年8月に関東に移し替えとなった
徳川家康が江戸に入城した。


甲信越地方
甲斐も群雄割拠が起こっていたが、甲斐源氏の武田信虎が甲斐全土を
統一、勢いを駆って信濃侵略を企てるも、重臣たちが嫡子・晴信を擁して
クーデターを起こして信虎は追放された。この武田晴信は村上氏、
続いて長尾・上杉氏との相次ぐ苦闘の末、信濃経略に成功。

周辺諸国へ武威を誇った。1572年には強兵の徳川氏を三方ヶ原に破って
尾張に迫ったが、病に倒れた。跡を継いだ武田勝頼も連戦連勝で武田の
武威を保ったが、1575年三河長篠で織田信長の鉄砲に敗れると家運は傾き、1582年小山田信茂に叛かれ滅んだ。この武田遺臣が八王子に駐屯し
八王子千人同心となったという。

信濃は深志に小笠原氏、北信を村上氏、木曾を木曾氏、諏訪を諏訪氏、
東信を真田氏など中小大名が割拠していた。このため甲斐の武田氏に
各個撃破される形となって信濃統一を許した。

1582年武田氏が滅んで本能寺の変が起こると徳川氏が信濃に進出する。
そして徳川氏が関東に移ると信濃諸豪族(真田以外は)関東に移った。
しかし保科は将軍徳川秀忠の庶子が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で
九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。



北陸
越後を上杉(長尾)氏、加賀を加賀一向一揆、能登を畠山氏、
越前を朝倉氏等が支配していた。戦国時代当初に蓮如が布教をした関係で
北陸は一向一揆王国を形成、いずれの国もこの勢力の扱いに苦慮した。

一向一揆を退けた朝倉氏が本拠に京の貴族を迎えるなど栄華を極め、
やがて織田信長と天下を巡って争うが、1573年戦い利あらず滅亡する。
加賀一向一揆は守護・富樫氏を追放して100年間の自治を行うが、
本願寺当主が織田信長と石山戦争を起こすと、これに参戦、
内紛が起こった。朝倉氏滅亡後、一時は越前をも支配するが、
結局は信長軍に併呑された。しかし、この後も大小の抵抗はあったらしい。

能登は守護の畠山氏が遊佐氏や長氏らの重臣たちに助けられて
国威を保った。しかし、上杉謙信が西上の軍を起こしたため家中が
内紛を起こし、上杉氏の軍門に下った。 越中は越後の長尾・上杉氏が
度々侵攻した。しかし神保氏、椎名氏などの地元豪族の反発は長く続いた。


東海
駿河に今川、遠江に斯波氏、三河に松平氏、尾張も斯波氏、
美濃に土岐氏が一国一円割拠していた。斯波氏は越前を朝倉氏の
離反で失ったため尾張に本拠を構えた。

この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れ、京都での政争にも敗れると
力を失い、遠江は今川の侵攻に任され、尾張は守護代・織田氏の
傀儡的存在となる。

松平氏は松平清康の時代に版図を雄飛させるが、1535年守山崩れによって
清康が家臣に殺されると松平氏は今川氏の陣門に下った。
今川氏は今川氏親・今川義元が勢力を伸ばした。甲斐の武田氏・
関東の北条氏と三国同盟(善徳寺同盟)を結ぶとさらに西進した。

しかし、織田氏に鉄槌を下すため尾張に出兵したところ、田楽狭間で
織田軍の奇襲を受け戦死、今川氏は衰えた。美濃の土岐氏は内部争いが
展開され、その隙を突いて長井道利が主君を追放して美濃国主となった。

斎藤道三である。尾張は下守護代の郡奉行出身の織田信長が上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主に収まる。彼は今川義元を桶狭間に戦死させると
三河の松平氏と結ぶ。そして、美濃攻略に着手、5年の歳月をかけて
美濃を奪うと美濃・稲葉山城に本拠を置いて天下の経営に乗り出した。

一方、三河の松平元康は織田信長の攻略戦に手勢を率いて支援する。
甲斐の武田氏が今川氏を滅ぼし1573年三方ヶ原の戦いで徳川・織田両軍を
撃破するも信玄の死で武田軍の西進が頓挫した。1575年長篠の戦に
織田・徳川軍が鉄砲の力を利用して武田騎馬隊を破ると1582年徳川軍は
武田領の遠江、駿河を得た。本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である
甲信に侵攻、我が物とした。のち、1590年豊臣秀吉により天下が定まると、彼より関東移封を命ぜられたため家康は関東の江戸を本拠とした。


近畿
初期の畿内においては将軍・足利氏と管領・細川氏との抗争が
繰り広げられた。ただし、この抗争は大内氏などを主体とする
地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。

細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという
名目で、近江の六角氏による介入が強まった。近江においては、
佐々木氏の分家である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競ったが、
京極氏は支配下にあった国人の浅井氏によって実権を奪われ、
以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。

基本的には各国とも室町幕府の定めた守護大名が、
そのまま戦国大名化したケースが多い。
彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、
例えば、紀伊の守護大名の畠山氏などは本願寺一揆によって
その地位を追われるなど、非常に弱い立場でしかなかった。

但馬の山名氏、丹後の一色氏、若狭の武田氏などは周辺の諸勢力に
国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を
生き抜いた。

先に述べた足利氏や細川氏の内紛は六角氏や赤松氏・浦上氏・畠山氏・
筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、
本格的な騒乱は三好氏が政権を握ってからとなる。

彼らは領国の阿波を始め、讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、山城、丹波、
大和などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。しかしいずれの
国も完全な統治はできなかったようだ。


中国
安芸では国全体の豪族が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、毛利元就が集団のリーダーとなり戦国大名化した。
初期は大内義隆と尼子晴久との対立があった。毛利元就は尼子氏を
裏切り大内氏についたため尼子晴久が吉田郡山城へ向けて進軍。

毛利元就は大内氏に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する。(吉田郡山城の戦い)大内氏の内部争いによって大内義隆が死亡。

陶氏が力を持つが毛利氏に攻められ滅亡する。出雲国においても
尼子氏も尼子晴久の死亡によって衰え毛利氏に攻められ難攻不落と
讃えられていた月山富田城(現;島根県安来市)に篭城するが
兵糧攻めにあい開城した。これにより毛利氏は中国の覇者となる。

織田信長の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると三木城、鳥取城、
高松城が次々と落とされたが、本能寺の変が起き命拾いした。
その後毛利氏は豊臣氏の配下となり四国征伐、九州征伐、
小田原征伐などで活躍し、毛利輝元が五大老まで就任するが
豊臣秀吉が死ぬと徳川家康と石田三成が対立し関ヶ原の戦いが起こり
毛利氏は西軍についたため周防、長門の二か国の36万9000石になった。

このほかの主要戦国大名としては周防の大内氏(義興)、
出雲の尼子氏(経久)、備前の浦上氏(村宗)、同じく備前の
宇喜多氏(直家)などがいる。大内義興は勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7カ国に覇を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて
上洛をも成し遂げた。

尼子経久は守護代ながら富田城を奪って守護を追放、戦国大名化した。
これも最盛期には9カ国に武威を轟かせる。前述の大内氏と何度か
交戦するも決着が着かなかった。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨・備前・美作を奪う。

零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。
宇喜多直家はその浦上氏の重臣。浦上氏が晴宗の代に入ると離反、
備前を手中にした。時代を読む目があった人物のようで、羽柴秀吉が
播磨姫路城に入ると降伏、自分の嫡子を秀吉に人質にするなどした。



四国
東四国(阿波・讃岐)は近畿に近いだけでなく、
細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。

しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦まで
ほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。 阿波は細川氏が支配した。
のち撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は
江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には勝端城が
阿波統治拠点となった。

讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の
一存を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として
勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。

西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると
彼らは織田氏へなびくようになる。

伊予は守護の河野氏が中予、宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を
割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と
近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、
一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。

しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。
土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護と称した豪族が
土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と仰いだ。

一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。
のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親・長宗我部元親が
七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして信長の協力を得て
四国を統一した。

淡路は守護・細川氏が統治していたようだ。
のち、秀吉の四国征伐のため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。
戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、
伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。


九州
鎌倉時代、筑前・肥前・豊前は少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後は大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏と九州の統括体制がなされていた。

戦国時代当初3氏は権益を守るべく、諸国の豪族は自立するべく、
戦いが展開していった。 しかし、少弐氏の勢力が南朝に味方したために
衰えていたために、宗像氏や麻生氏など筑前・豊前の諸大名は大内氏の
影響を受けた。

少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、
逆に大内氏の前に滅ぼされた。この大内氏が陶氏によって滅ぼされると
肥前は自立、筑前・豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした
毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを
展開する。

大友氏は豊後を拠点に筑後・肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を
滅ぼすと、これを支援、豊前・筑前をも得た。また大友義鎮は同時に
キリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。

しかし島津氏との耳川の合戦で大敗、家臣の離反が相次いで急速に衰えた。肥前では竜造寺氏が勢力を拡大、竜造寺隆信の代になってほんの一時期、
大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が
戦死すると急速に衰え、やがて鍋島直茂が替わった。島津氏の
戦国時代は一族との争いで始まった。

しかし島津忠良の子・島津貴久が本家を継ぐと薩摩・大隅・日向三州
統一を達成、大友宗麟との耳川の合戦で大勝利を収めると九州統一戦を
開始した。残すは筑前・豊前のみというところで羽柴秀吉の中央軍の
介入が始まり、降伏した。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: