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朝日新聞を見ていたら、兵庫県版に、「兵庫県最低の山・唐船(からせん)山のシンボルマークが決まった」という記事が載っていた。 兵庫県最低峰の唐船山は、標高19メートル。「登山道の整備が進められている」と記事にはあって笑ってしまう。 家に帰って、少し検索してみたら、中々これは侮れない奥の深いテーマなのだった。 日本最低峰を巡って、熱い(?)戦いが繰り広げられている。知らなかった。これまでの「通説」を整理してみると・・。 天保山 大阪市 4,53メートル 地形図で日本一 日和山 仙台市 6,05メートル 元祖日本一 弁天山 徳島市 6,08メートル 自然の山で日本一 蘇鉄山 堺市 6,80メートル 一等三角点のある山で日本一 だそうだ。仙台の日和山を除いて、三つの山で「登頂証明書」が発行されている。 「あなたは海抜4,5メートルの日本一低い山・天保山の頂上をきわめました。よってその快挙を讃えあなたを『いちびり精神』の持ち主であることを証明いたします」天保山登山証明書。 これに較べれば、19メートルなんていうのは、「巨峰」に等しい。唐船山への登頂には、酸素マスクは必要ないだろうか。 でも、凄いですね。登頂記をアップしているその道の達人もいらっしゃいます。 ところが、・・「日本一低い山」として、秋田県大潟村が、「1995年6月3日の測量の日を記念して、山頂が海抜0メートルになるように大潟村が造り、ふもとからの高さが、富士山の標高の千分の一に当たる3,776メートル」にした「大潟富士」。 こういう情熱は私が特に愛するところなのであります。 こういった話になると必ず思い出すのが、『ウェールズの山』。 イングランドから、ウェールズの山「フュノン・ガルウ」を測量に来た二人の男たち。彼らは測量技師。測量の結果、「フュノン・ガルウ」は、標高299メートルで、「丘」という事になる。「山」であるためには、305メートルの標高が必要ということを知った村人たちは、「そんな事は許せねぇ」となり、「丘」を「山」にしようとする・・。 ヒュー・グラントが出ています。低予算。CGもないし、恐竜も出てこないし、隕石も衝突しないけれども、なんともいいお話。 腕のいい脚本家がいて、役者が良い芝居をしたら、はい、こんな映画ができました・・という作品。私は、このような想いのことを、オーウェルなら「愛国心」と表現するだろうなと思う。 「私が『愛国心』と言う場合、自分では世界中でいちばんよいものだとは信じるが、他人にまで押し付けようとは思わない、特定の地域と特定の生活様式に対する献身を意味する」『水晶の精神』ジョージ・オーウェル 平凡社ライブラリー さて、季節も良くなってきた。老後の楽しみとして、「百低山制覇」という目標を立ててみようかな。
2005.09.30
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勝った。とうとう勝った。優勝した。 いったん首位に立ったら一度も譲らずに優勝した。阪神ファン、別名「阪神不安」としては、最後の最後まで気を許せなかった。 九回、久保田登板、ワイルドピッチで一点献上。連打されて、バッター小久保。ホームランならスリーラン。あー、どないしょ。中日勝っとるし、もしも今日優勝できなかったら、甲子園では暴動が起きるかも。甲子園警察、兵庫県警だけでは押さえられずに、伊丹駐屯地から自衛隊の出動もありうるなー、なんてことを瞬時に考えていたら、ダブルプレー。ほっとして、あと一人・・と思っていたらまた打たれた。あほー、この間抜け、ピリッとせんやっちゃなー・・と思っていたら、最後のバッターがレフト金本へのライナー性飛球。終わった。 妻は鳥谷のティーシャツ着て応援した甲斐があったと言っている。 しかし、前回優勝は18年ぶり。次もそのくらいだろうと思っていたら、その2年後に優勝してしまった。 常勝球団、勝ってアタリマエ・・というどこぞの球団みたいになったらどうしよう。悲観的な世界観(というか阪神観)を持っている昔からのファンは肩身が狭くなるかもしれない。ここ2、3年でファンになった「強いタイガース大好き」のファンが勢力拡大してきたら困るな。 ま、とにかく今は、日本一を目指してほしい。 解説者が、巨人についてこんな事を言っていた。 「弱いからファンが応援しなくなったんじゃないんですよ。生え抜きの若い選手たちが頑張って、それでも勝てない、というなら、ファンは球場に足運んでくれますよ」と。 札束で各球団の四番を引っ張ってきた結果がこれだ。 阪神は、そんなことするんじゃねーぞ。 中日との競り合いも阪神を鍛えたのかと思う。私は、川上憲伸のファンでもあるので、川上、来期も頑張れよ! 古田も選手・監督として頑張れ! sun-chan様、来年もお互いに頑張って応援しましょうね。
2005.09.29
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サリィ・斎藤様の日記の中のカステラを見た途端に(それだけではないのはもちろんだが)、急に抹茶を点てて飲みたくなった。 下に降りていって、台所で湯を沸かし、好きな茶碗を出し、点てる。 窓を開けると、虫の声が聞こえてくる。秋の夜はこれでなくてはいけない。冷気も部屋の中に入ってくる。とてもゆったりとした、贅沢な気分になる。こういうのもいいものだ。 ○夜の茶も澄む如くなり虫の声
2005.09.28
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チャー様から廻ってきましたバトン。 沈思黙考、行住坐臥、神社仏閣、五里霧中・・、というわけで、以下に。 これは、『ヒトラー』です。いやー、よくできてましたね。学生の時から、こつこつヒトラー関係の本は読んできたのですが、このように映像化されると、なるほど・・と唸ってしまいました。ブルーノ・ガンツの演技が入魂の一作。 自分の子どもたちを睡眠薬で眠らせて、一人一人の口の中に青酸カリのカプセルを入れて、顎に手をそえて噛み砕かせるゲッベルス婦人の姿が、脳裏に浮びます。 文句なしに、『蛍の墓』。たしか、『トトロ』と併映でした。もうどうにもこうにもならないくらい涙が出てしまって、しばらく座っていました。 うーん、これはないですね。というか、なかったことにしたいと思って忘れているのかな・・。 『風と共に去りぬ』 マーガレット・ミッチェルの原作が素晴らしいこと+ヴィヴィアン・リーの美しさ+クラーク・ゲーブルの魅力+スケールの大きな描き方。 「Tommorow is another day」という最後のセリフ、「明日に望みを!」「明日は明日の風が吹くのだ」等々の訳がありますが、あの一言でピシッと締まりますね。 『カサブランカ』 イングリッド・バーグマン、ハンフリー・ボガードの魅力。 いいセリフも多いですね。「そんな昔のことは憶えちゃいない」「君の瞳に乾杯」。そして、忘れていけないのが、脇を固めた人たちのよさ。署長のクロード・レインズの二股膏薬ぶりがいい。ウェイターのザコールもいい雰囲気を出していますし、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が歌われるシーンもいい。 『七人の侍』 黒澤監督の傑作。豪雨の中の戦い。その中で死んでいく宮口精二ふんするストイックな侍。何度観てもハラハラしてしまうのはなぜなんでしょうか。次に何が起こるか知っているのに。三船敏郎、偉くなりすぎてからは面白くなかったけれど、このギラギラしている時が一番好きでした。 『独裁者』 えぬ・えち・けい で放映すると知った時、電気店に行って三時間ビデオを買い込んで、録画したことを思い出します。 彼の自伝を読むと、今では信じられないことですが、逆風の中での映画の撮影と公開であったようです。ラストの演説については賛否両論ありますが、私は素晴らしいと思います。天才が全力投球して作った映画だと思います。 英語の先生で、あの演説の暗唱に取り組んだ人もいたくらいです。 さて、選に漏れた映画たちが、「なぜだー」と私を取り囲み始めていますから、今日は早く寝ないと・・。
2005.09.28
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夕飯を食べながら毎日新聞の夕刊(05:9月27日)を読んでいたら、太刀魚の塩焼きを食べていた手が止まってしまい、記事の方に集中してしまった。 という記事で、二人の演劇人が取り上げられている。渡辺えり子さんと、永井愛さん。 特に、永井さんの『歌わせたい男たち』という作品に眼が行った。 記事の一部を紹介すると・・・。 『歌わせたい男たち』は、ある都立高校の卒業式の朝が舞台だ。国旗掲揚・国歌斉唱をめぐって、校長、教師たちがそれぞれの立場で対処を迫られている。ヒロインは、売れないシャンソン歌手から高校の音楽講師に転身したばかりの女性(戸田恵子)。『君が代』伴奏についてほとんど考えた事のない彼女が、反対派と推進派の教師たちにもみくちゃにされる。 永井は、この芝居を学園ドラマにも、政治劇にもしていない。ささやかな良心を持ちながら、現実の壁にぶちあたりオロオロする彼らの姿に私たち自身を見てしまう喜劇に仕立てている。 永井はこう語る。 「いつの間にか、『社会派』が蔑称となり、演劇は半径50メートルの個人の世界しか描かなくなってしまった。けれど、『日の丸・君が代』をめぐる学校現場は今、極限状態で、さまざまな人間ドラマが生まれている。劇作家として生きがいがあると、裁判を傍聴したり、取材も重ねました。喜劇として書けると思って舞台にしました」 もうこれは、観るしかない。検索。近畿では大阪公演、滋賀公演がある。 チケット・ぴあ、に電話を入れ、セブン・イレブンでチケットの購入。 私は世事に疎い人間で、こんなことはやったことがない。なんとかできるものですね。 11月23日、午後1時から、シアター・ドラマシティー。 今日は午後から休みを取って帰ったら、徹子の部屋に戸田さんが出演されていた。『歌わせたい・・』の公演の話は最後の30秒ほどだったのが残念。あまり宣伝臭くなるのは困るのかな。 観たらまた感想を載せます。
2005.09.28
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本屋に行って、岩波新書を三冊買った。『いまどきの「常識」』『多神教と一神教』『ジャンヌ・ダルク』。 『いまどきの「常識」』を、取りだめした番組をDVDにダビングする作業を行いながら読み進む。著者は、香山リカさん。たしか神戸芸工だと思っていたら、帝塚山の教授になっておられる。 彼女の元には、彼女が新聞や雑誌に書いた文章に対する抗議と批判の手紙がドサドサ来ているようだ。 「『平和』『平等』などきれいごとを言うな」 「この厳しい世界の現実が目に入らないのか」 「自虐的なことを言って国を売るのがそんなに楽しいか」 「日本人を侮辱するつもりなら、さっさとこの国から出て行け」 こんな手紙がドサドサ来たら、やってられないだろうな。ご飯が美味しくなくなるだろうな。しかし、彼女の文章を読んで、抗議や批判の手紙をしたためて、封筒に入れて、切手を貼って、郵便局まで出しに行く・・それですっきりするのかね。 小人閑居して不善を為す。 この本に対しても、批判と抗議の手紙が以前にも増してドサドサ行くんじゃないか、と思わせる書きっぷり。いいねえ。応援しなくっちゃ。 ベストセラーになった本とか、話題になったフレーズ、社会現象を取り上げて、「どっか、おかしくなってませんか?」と、疑問を呈するこの本が、「常識」とするのは、「マスコミなどで多数派と見えている見方、考え方」という意味だろうと思う。決して、いわゆる「常識」ではない。カッコつきであることに留意されたい。 ビックリするようなことが書いてある。 あるとき、侮蔑的な表現を使って私の批判を雑誌に書いた評論家と、実際に顔を合わせなければならない用事が生じた。私は間に立っている人に断りを伝えた。当然、相手も、「バカ」だと思っている人には会いたくないだろう、とも考えた。 しかしその評論家は「そんなにお怒りとは思っていなかった」と驚き、「ここはどうか一つお出でいただけませんか」と鄭重な依頼をしてきた。「それほど真剣に言ったつもりじゃないんだから、あまりマジに受け取らないでくれよ。お互い様じゃないか」ということなのだろうか。 テレビでは、「怒ること」「罵倒すること」「キレること」が、「芸」となっている。バラエティ番組で政治が語られる時、出席者は一斉に自分の「芸」を披露する。終わったら、一緒に焼肉でも食いに行って、談笑するんだろうな。 プロレスでも、「真剣にやっているように見せる」のも「芸」だろう。 しかし、香山さんが書き付けているこの例は、私にとったら、「異常」としか思えない。侮蔑的な表現を使って相手を貶めておきながら、なおかつ相手にそれを受け入れる「寛容さ」を期待する。名前が書いてないのは、「武士の情け」なのだろうが、なんという甘ったれた精神か。 この項は、「自分の周りはバカばかり」。 自分のことばかり語りたがる学生、自分に関係ないと判断すると何も受け付けなくなる若者、日本と北朝鮮の関係を「拉致事件の家族の悲しみ」という窓からしか見ようとしない人たち。 とにかく「泣ける話」を求める、それを売り物とする風潮。被害者への同情を語りながら、加害者にも人権があること、なぜそのような凶行に及ぶに至ったかを考えようともしない、無視しようとする風潮。「市中引き回し」ですからね。 以下、「お金は万能」では、臆面もなく、金儲け万歳!が語られる世相が、ベストセラー本や、竹中平蔵といった人の言葉を紹介するかたちで紹介されていくが、「タガが急速にゆるんだ」という著者の言葉は、実に適切である。 「まず第一に、女性が身も心も満たされて本当に幸せになっていくためには、うんと素敵な恋と沢山のお金が絶対に必要です。どちらか片方だけで幸せになっていくことはできません」「必要なのは、『絶対にお金持ちになる』と決めること」『愛されてお金持ちになる魔法の言葉』佐藤富雄・全日出版。30万部のベストセラー。 はいはい。 「男女平等は国を滅ぼす」「痛い目にあうのは『自己責任』」「テレビで言っていたから正しい」「国を愛さなければ国民にあらず」と続く。 読んでいて、空恐ろしい気持ちになる。ぼーっとしている間に、こんなことが進行している。以前だったら到底恥ずかしくて言えなかったことが堂々と語られている。それも、「脳科学の研究の成果」などというハッタリつきで。 人を騙すんだから、「忍者ハッタリ君」?・・失礼しました。 少年犯罪多発の原因は、母親が愛情のこもった手料理を作らなくなったことにあるそうです。自分磨きなんかしていると結婚への意欲が薄れるから百害あって一利なしですって。 男らしさとか女らしさなんて、生まれつきだって、知らなかったでしょう。いまや脳科学によって十分に証明されているそうですよ。 なにが、「脳科学」だよ、変換したら「NO科学」じゃねーか。あー、ばかばかしい。 という風に、根が上品な私が思わず悪態をつきたくなるという「えっ!」という発言がてんこ盛りになっております。 長くなったので最後に一つだけ。それは、九条を現実に合わせて変えろ!という意見について。 著者は、以下のように指摘する。 そもそも「現実」とはそれほど絶対的な価値を持ち、何よりも優先すべきものなのだろうか。出現してしまった「現実」の前には、、あらゆるものが声を失い、考えもルールもその現実に合わせるように変え続けなければならないとしたら、たとえもし、近い将来に憲法が改正されたとしても、また数年後には、新たな現実に合わせてそれを変えなければならなくなるのではないだろうか。 私も一言。「人を殺しちゃいかん」と刑法には書いてある。それでも、殺す奴がいる。これが現実なんだから、刑法なくせば、って言うか? 九条第二項で交戦権(戦場で人を殺してもお構いなし)を否認してきたから、殺さず、殺されずでこれたんじゃないのか。 「理想」を語ろうとする人間によく投げつけられる言葉。 「お前の家には便所はないのか!」 言い返し。 「てめえの家には便所しかないのか!一生しゃがんでろ!」※便所のことを語るときについ思い出してしまうこと。『タイタニック』の、ケイト・ウィンスレットという名前は、「ウォシュレット」に似ているということ。頭から離れないんですよ。
2005.09.27
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給与年額 5000万円⇒1312万円 負担率 26.3% 3000 万円⇒609万円 負担率 20,3% 2000 万円⇒283万円 負担率 14,2% 1000 万円⇒ 49万円 負担率 4,9% 700 万円⇒ 18万円 負担率 2,6% 500 万円⇒ 6,5万円 負担率 1,3 「政治経済」の教科書に載っている「所得税の累進税率」の表だ。夫婦と子どもの二人の給与所得者の場合。 この表を少し説明した後に、「このような税制は良いと思うか?」と質問し、紙を配布する。良いと思う☆多く給料をもらった人が生活して行く上で問題なければそれで良いと思う。☆ビンボー人の代わりに金持ちが払ってくれたら良いとおもう。☆所得の格差がなくなるのなら良いと思う。☆自分が金持ちじゃないから。☆お金を持ってる人と持ってない人が同じ額を払ったら生活できなくなる人が出てくるから。☆少ない給料で高い税金を払うのはキツイと思う。☆金持ちは少々税金が上がっても困ることはないと思うから。☆裕福な人はお金を払ってもそんなに負担にはならないけれど、貧しい人はそうは言っておれないから。☆所得の高い人は貧しい人の税金も払ったら良いとおもう。税金を増やしても、所得の高い人はいい暮らしができると思う。☆貧乏人からしたら○。普通の人からしたら△。金持ちは×。でも、たいがい普通か貧乏人だ。私の家も金持ちじゃないから賛成。 反対☆がんばって、稼いだお金を税にとられるのは可哀想。☆自分が頑張って稼いだお金をそんなにも取られたら不公平な感じがする。そんだけ稼いでも、沢山とられたらもったいない。それだったら、ちょっとだけ稼いで、あんまりとられんとこ・・と思う気がする。☆頑張る気が無くなる。 分からない☆お金はあるところからとればいいが、でも、働けば働くほどお金を取られるって言うのも微妙。☆お金がない人にはいいだろうけれど、お金を持っている人にとったら嫌だろうと思う。☆貧乏人の場合はいいけれど、不平等だし。☆自分が頑張って仕事をしてお金を稼いでも、どんどんとられるなら損している気がする。でも、お金がない人から搾り取るのも・・。でも、累進課税がもっと高くなったらみな働く気とかなくしそう。 面白いなと思う。「がんばる気がなくなる」ほど稼げると思っているのだろうか。 貧乏人、普通、金持ちと分けて、私貧乏人だから賛成、という考え方は、「地に足がついている」といったらいいか。少なくとも、「自分はなにものであるか」という自覚はある。 一律20%という税率ならどうなるか・・という計算をさせてみよう。 続いて消費税。三択(上げる 下げる 現状維持)<上げる>☆老後が楽になる。☆上げて景気がよくなるなら上げても良いと思う。☆上げないと国の借金が増えるし、他の国はもっと高いから。<現状維持>☆上げるなら、必要最低限のもの(服や食品)の消費税はなくしてほしい。下がればいいけれど、それではいつまで経っても国の借金はゼロにならないし。☆下げてほしいけれど、一々面倒くさい。☆下げると国の借金が心配。キリのいい数字だから計算もしやすい。☆上げたら国民が困るし、下げたら国が困るから。☆消費税が小学生にとってどれだけ邪魔なものかおとなは分かっていないと思う。しかし、累進税率を上げるわけにもいかないし。☆消費税を下げて、これ以上、所得の高い人たちに頼るわけにはいかない。消費税を上げるのは貧しい人たちには苦しいと思うから。☆5%が我慢の限界だと思う。<下げる>☆国民にとって楽だから。☆高いと暮らしにくい。☆他の国がやってるように、生活に必要なものにかかる消費税はなくせばいい。車とかそういうものにかかる消費税は上げればいい。☆上げたほうがいいかもしれないが、政府が無駄使いしそうだから。でも、高齢化社会だからなー。☆消費税なしにしてほしい。☆3%のときは、「消費税いらんよ」と言ってくれた駄菓子屋さんもあったのに。5%になって消費税は取られるようになった。☆何でちっちゃな子どもまで税金を払うのか。 高校生は消費税についての知識をどこで得ているのだろうか。外国にはもっと高いところがある。生活必需品には課税しない国がある。そういった知識はどこから彼らに伝わるんだろう。 アメリカの消費税は中々面白い。州によって違いがあるし、生活必需品には課税しないし、新学期が始まる前は、100ドル以下の文房具は無税という州もある。 今の日本がどっちを向いて走ろうとしているのかを知るためには、「税」についての知識は欠かせないと思う。
2005.09.26
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「薮入り」という落語がある。幼い子どもが奉公に行く。里心がつく・・といって、働き始めた頃は家には帰らせてもらえない。辛いこと、苦しいことがあったら、声を殺して布団の中で泣く。 もう大丈夫となって、はじめて、「家に帰って、おとっつぁん、おっかさんに顔みせといで」という事になる。 さあ、大変なのは、帰ってくる息子を迎える親のほう。 朝早くから起き出して、そこいらヘンを掃除したり、何度も何度も同じことを訊ねる。 「今何時だ」 思ったように時間が経たないと、「時計の針を進めろ」なんてことになる。 「久しぶりに帰ってくるんだから、暖かい飯だよ。間違っても冷ご飯なんか食べさせちゃ駄目だよ」 「飯食ったら、近所のお湯屋に行くんだよ」 「それから、あそこに行って、ここに行って」 もう、はたから見ていると、気でもちがっちゃったんじゃないか・・てえくらい。 『私の寅さん』を観ていて、この噺を思い出した。 さくら夫婦が、長年お世話になったおいちゃんたち夫婦を旅行に招待する。出発しようか・・という前の日に寅さんが帰ってきて・・、いつもの騒動。 寅さんは不本意ながらの留守居役。 旅先からの電話を首を長くして待っていて、つい淋しさのあまりに愚痴も出る。 一転、今に帰ってくるぞという寅屋の家の中。寅さんは、源ちゃんと社長の助けを借りつつ、ご飯を用意し、お風呂を沸かして待っている。シャケも焼いて。 淋しがり屋で、自分勝手、見栄っ張りで、口が悪い。そんな寅さんだけれども、旅から帰ってきた人間の望むものはよく知っている。玄関をくぐった途端に、どんなセリフが口から出るかについても。旅先から帰ってくるプロだから。 ご飯、シャケ、おしんこ、気がついたときのさくらとおばちゃんの嬉しそうな顔。湯加減を見るフリをしながら、顔をあわせない寅さん。 「薮入りや何にも言わず泣き笑い」 山田監督の落語への愛情が、渥美清という役者を得て生まれたのが『寅さん』というのはもはや日本のジョーシキと断言していいかと思う今日この頃ですが、今回は特にこなれてます。 岸恵子さんは、さすが。なんというくっきり感か。画家という設定なのだが、土手で絵を描いているシーンなんか、彼女自身が絵ではないか。セーターと帽子が同じ柄だったな。 「インテリの女と便所のナメクジ」、腹を立てられる向きもあるかとは思いますが、なんとも秀逸で笑えます。ま、もっとも、すぐに「前言撤回」となりますが。 寅屋の茶の間の会話が中々隅に置けないのは、「人間は何のために生きているのか」といった深刻な問いがふっと提示され、それに対して茶の間ならではの解答が用意されているところだけれど、「芸術」というものが人間の生活に持っている意味を、無理をしないで教えてくれました。 寅さんのえらいところは、そういう人たちをとても大切に扱うことです。その動機は問わないとして。 岸さんの『ベラルーシの林檎』という本は、女優の余技といったものではない素晴らしいルポでしたが、生き方そのものが素敵な、そしてその素敵さが画面に出ていた作品でした。 「いいお友達でいましょうね」。何回聞いたセリフかな・・。身につまされました。
2005.09.25
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見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチヤした色の階調をひつそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまつて、カーンと冴えかへつていた。私は埃つぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ緊張してゐるような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。 変にくすぐつたい気持が街の上の私を頬笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだつたらどんなに面白いだらう。 私はこの想像を熱心に追求した。「さうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みぢんだらう」そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩ってゐる京極を下って行つた。 梶井基次郎が、檸檬を置いた京都河原町の丸善が店を閉めるという。10月10日に。 神戸の丸善も店を閉めたと聞いた。熱心な買い手ではなかったから、閉店を残念がる資格も何もないが、何度か店の前を通り、何度かは入り、本当にたまに本を買ったり、ちょっと洒落た封筒や便箋を買ったものとしては、残念だ。 本屋の経営が苦しいくらいのことは、いかに世間に疎い私でも知っているが、本を読まない人間が増えていることはいい事ではないだろうと肌で感じることは多い。 「本を捨てよ、街へ出よう」とは、本を読んだ人間のいう事だ。 よし、本を読まずとも、では、何をやっている? ケータイとネットか? それじゃあ、自分が馬鹿だという自覚もなくなるぞ。
2005.09.24
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『暮らしの手帖』を最初に手にとったときに、「?」と思った言葉が二つあったことを思い出す。「バタ」「スパゲチ」。その後、逆に、「バタ」と「スパゲチ」が、『手帖』なんだと思うようになった。 ちょっとした違いなんだが。 本屋をぶらぶらしていて、『星の王子さま』池澤夏樹訳・集英社文庫、を見つけた。家には、『星の王子さま』内藤濯訳・岩波書店、がある。ここに、図書館で借りた、『小さな王子さま』山崎庸一郎訳・みすず書房、が入る。あと、倉橋由美子訳を手にすれば、ほぼカンペキか。勢いで書いてしまったけれど、何がカンペキなんだか。 好き嫌い、合う・合わないっていうのは、ちょっとした言葉遣いの違いなんだと、三冊読み終えて思った。 好みからいえば、やはり挿絵はカラー版であってほしい。集英社文庫は、400円という定価では仕方ないが、モノクロだ。でも、ポケットには入る。 山崎訳・みすず書房版は、注が面白い。最初の頃に出てくるバラの花。ついたてをとりに行かせたり、別れる時は涙を見られたくない花は、妻のコンスエロとされているそうだが、写真が載っている。美形です。 あと、妹宛の手紙には、耳の長いキツネの可愛い絵が載っている。 「花は泣いているところを見られたくなかったのです。とても気位の高い花でしたから・・」山崎 「花がそういったのは、泣いている顔を王子さまに見せたくなかったからでした。それほど弱みを見せるのがきらいな花でした。」内藤 「彼女は泣くところを見られたくなかった。それが花の自尊心だった。」池澤 内藤訳の言葉遣いは独特のものがある。 終わり近くを一箇所引用してみる。 「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持ってけないの。重すぎるんだもの」 ぼくはだまっていました。 「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・」内藤 「わかってよ。ぼくの星はとても遠い。この身体は持っていけないんだ。重すぎるから」 ぼくはなにもいわなかった。 「古い殻を脱ぎ捨てるようなものなんだ。古い殻が悲しいわけないだろ・・」池澤 「わかるだろう。あそこは遠すぎるんだ。このからだはつれていけない。重すぎるからね」 私は黙っていました。 「でもこんなもの、脱ぎ捨てた古い抜け殻だよ。古い抜け殻なんて悲しくなんかないよ・・・」山崎 「持ってけないの」「かなしかないよ」。 「おとなは、だれも、はじめは子どもだった(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」内藤 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」内藤 「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」内藤 「君のバラをそんなにも大切なものにしたのは、きみがきみのバラのためにかけた時間だよ」山崎 「きみがバラのために費やした時間の分だけ、バラは君にとって大事なんだ」池澤 いい本をいい訳で読む。この贅沢さ。
2005.09.23
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今日も一日暑い日だった。もう、こうなってくると、どうでもいいや・・といった趣となる。 授業をすべて終えて職員室に下りてきたら、「先生~」という声が、近くから聞こえてきた。ま、周り中、「先生」だらけなんだが、二人の女の子がこっちへやってくる。三年前の卒業生二人だ。 変わってないなー。こういう時に、私は本人も忘れているようなことを咄嗟に思い出して口にしてしまう。 「駅の階段で足滑らしたりしてへんか?」 「???」 「ほら、駅の階段で足滑らして、こけそうになったけど、両手にケーキの箱持ってたから、それを守って、おしりで、どんどんどん・・って尻餅つきながら下までおちて行った・・って言ってたやろ」 「えーっ、それ私とちゃうしー」※本人が後で認めた。 ひとりは演劇部の部長を勤めてくれた生徒で、本当によく頑張ってくれた。成績もよく、無遅刻無欠席だったけれど、家庭の事情で就職を希望、某化粧品会社を受けたけれど落とされた。 その後、ブティックでバイトを続け、つい最近、正社員になったという。これは本当に嬉しい報告だ。 新入部員が入って、部が復活した・・という話をする。発表会の日も教えて、日が空いていたら来てな・・ということにする。 片方は、音大の三回生。ピアノ科。駅の階段落ちた子。 「私、最近、自分でみんなと違うなー、私変わってんねんなー、思うようになってん」 「何を今ごろ言うてんねん。そんなん昔からやんか。・・でも、あのクラスはヘンな奴ばっかしやったから、自分が変わってるって気づかずにすんだんやわ」 「そうかなー」 「そうやでー」 おっとりした、人とワンテンポずれたところのある子だったけれど、妙に頑固なところがあって、言い出したらきかない・・というところがあった。ピアノのこともそうだった。 ちょっと洒落た喫茶店やスナックなんかで、ピアノの生演奏を聞かせてくれる店がある。友達と組んで、ミニ・コンサートをやるという手もある。発表の機会をどんどん持ってほしい。時間が合えば、聞きに行くで・・という話しになる。 音楽の世界は、本当に狭き門だ。 みんなどうしてるかなぁ。すでに母になったものが五人ほどいる。父になったヤツもいるだろうな。 職員会議があるので、ここでおしまい。また時間があったら、お茶のみに行こう・・と約束する。 職員会議で、次年度の教育実習生のリストが出てきた。偶然だけれど、さっきまで話していた二人と同じ学年の生徒が二人その中にいた。 ひとりは英語。ひとりは社会。日本史希望・・、ん?あいつと日本史?ん???ど-もイメージが重ならない。バスケット小僧・・という印象しかないのだが。 でも、来年が楽しみだ。こういう時だけ、「早く来年にならないかな」とワクワクしてしまう。
2005.09.22
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「落語てえものは、聞いていて決して害になるもんじゃない。落語くらいためになるもんはありませんよ。落語を聞いていると、自然と人間のカドがとれて、やわらかになってくる。やわらかになってくれば、いうまでもなく人とのあたりがよくなって、ものごとが丸くおさまる。夫婦の仲だってよくなるし、家の中も明るくほがらかになる。このせちがらい世の中をたのしく生きぬくためには、もってこいのものなんですよ。 外交なんかにしても、気短で、怒りっぽい、むやみに人と衝突するような人間だったら、うまく成功したためしがない。あたしがよくいうんですが、あの浅野内匠頭という人が、自分の短慮のためにああいうことをやらかしてしまった。あの人が落語でも聞いていて、おつな人だったらあんなバカらしいことはしない。吉良上野介というじいさんがなんといおうが、『ああそうですか、そうですか』てな具合に、ほめたりおだてたりして、なんとかその場をゴマかしていれば、無事にすんだんじゃないでしょうか。」 『なめくじ艦隊』ちくま文庫。 ご存知、五代目古今亭志ん生師匠の、聞き書き半生記の一節。落語の効用・・とでも名づけますか。 こういう述懐に接すると、深く深く反省させられますね。ああ、余裕がない。 怒るべきところと、のんびり構えるところとのメリハリが必要ってことでしょうか。 今晩は、追悼のために、『火焔太鼓』でも聞くこととしましょう。 本名、美濃部孝蔵、1973年の今日、東京、西日暮里の自宅で心筋梗塞で亡くなりました。83歳。いま、12チャンネルで師匠のことを山本監督が語るという番組を放映しております。
2005.09.21
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阿片戦争後に締結された南京条約によって、中国は五つの港を開港し、貿易を独占していた「公行」とよばれる独占商人の制度を廃止し、自由貿易がとにかく実現している。 ところが1856年になって、イギリスは清と再び戦争を始めている。これがアロー戦争といわれるものだが、その原因は、自由貿易が実現したにもかかわらず、思ったほど貿易額が伸びていない事に対するイギリス側の不満があった・・と説明されている。 つまり、イギリスは、「どこかで誰かが邪魔をしている」との疑いを持ち、その「邪魔者」を取り除くために、16年後に再び戦争をおっぱじめたという事になる。 その結果結ばれた北京条約では、開港地は、長江流域にまで広がり、キリスト教布教の自由、外国人の国内旅行の自由も認められ、阿片貿易も公認されている。 しかし、貿易額が伸びなかったのは、別のところに理由があった。その事にイギリス側が気づかなかっただけである。 彼らは、中国に、ピアノを持ち込んだ。ナイフとフォークを持ち込んだ。極めつけは、「ナイト・キャップ」、つまり、夜寝るときに髪形が崩れないように、寝癖がつかないように被る帽子ですね。『クリスマス・キャロル』などを見ると、スクルージが被っている。 こんなものがなぜ売れるのか? そしてもう一つ。阿片貿易が、中国人の懐から金を奪い、彼らがイギリスの工業製品を買うための余裕も奪っていることに気づかなかった。 気づいた途端に、阿片貿易は禁止されているが。 モノが売れないのは、そのモノ自身に問題がある。 「クローズアップ現代」で、「杉並区における扶桑社教科書採択」の件を取り上げていた。他教科の教科書採択に於いては、現場の教師の声が反映されている。しかし、こと歴史の教科書となると、現場教師の中では最低の支持しかない教科書が、「教育委員の権限」で採択されている。 扶桑社の歴史教科書は、全国では0,4%の採択率であった。 現場の教師たちから教科書を選ぶ権限を取り上げて、教育委員が、「はい、これ」と押し付ける。この不思議さ。 授業をするのは誰なんだ? 現場の教師から、はっきりと「欠陥商品」と太鼓判を押された教科書が0,4%の採択に止まったのはなんとも慶賀すべきことである(0,4%地域の生徒諸君と先生方には同情する)。 ただ、扶桑社教科書を推す人たちは、考えるだろう。「どこかに邪魔しているやつがいる」。そう、現場の教師が邪魔しているのだ。 ますます、現場の教師の声が届かない採択方法が取り入れられるかもしれない。「教育委員の権限」とやらの錦の御旗の元で。 教育委員のやるべきことは沢山ある。地域で子供たちはどう成長しているのか。学校の施設は老朽化していないか。子どもたちは本当にのびのびと勉強ができているのか。 なぜ教科書採択だけにこんなに力を入れるのか? 現場の声の「追認」。結構じゃないか。それで、学習環境、授業がスムーズに展開するなら。 「教科書をおしえる」のではなく、「教科書でおしえる」のだ、という言葉があるが、どちらにしても教科書は軽視できない。それを私たち現場の教師は日々使っている。 「ここもマチガイ」「こんな事実はない」と一々訂正せねばならない教科書を持たされる生徒の身になることだ。
2005.09.20
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高峰秀子の『わたしの渡世日記』下巻 に、『浮雲』で共演した森雅之のことが書いてある。 「いつも受身でだらしがなくて、そのくせちょっとインテリで、主人公であるゆき子をはじめ、次ぎ次ぎと女を破滅させるほどの魅力を持った男・・。そのヌエの様な富岡に、森雅之はなりきっていた。台詞は少なく、どこがどうという芝居もなく、そのくせズッシリとした存在感と手応えを感じさせる俳優など、そうやたらといるものではない。」 「おなかが少し張り出した」森と、「フランスのチーズ太り」を残していた彼女とは協定を結ぶ。 「徹底的に痩せる事。ナイショでビフテキなど食べないこと。仕事中の昼食はいっしょに食べる事。」 「昼休みのサイレンが鳴ると、二人はそろって撮影所のすじ向かいのレストランへゆく。鮭一切れとご飯一杯。あるいはスープと野菜サラダ。あるいはゆで卵一個とバターなしのトースト・・。お互いにジロリジロリと牽制しながら食べるのである。二人は見る見るうちに痩せた。撮影も半ば頃に、私はセットの中で台詞を言いながら、何度も貧血を起こしてひっくり返りそうになった。」 成瀬巳喜男のことも書いてある。 「寡黙というよりも、イジのわるいほど喋らない人である。仕事中も、カラリと陽性の木下恵介とは違って、良いんだか悪いんだか、面白いんだか面白くないんだか、サッパリ分からない人である。たまに発する短い言葉を頼りに、その裏の裏まで想像し、理解し、行動しなければならない『シンドイ人』である。私は彼から演技らしい演技をつけられたおぼえがない。」 所々に、幸せだった南方での生活のカットが挿入されている。それが見事に現在の惨めさと対応している。 森雅之は、常にバリッとした服装をしている。それは、金に困っているだろうなと推察できる時でも変わらない。若い女房に逃げられた加東大介が、無精ひげをはやしたなりをかまわぬ風采で出てくるのとはこれまた対照的である。 それにしても、この男は、自分の行動半径に入ってくる女には手当たり次第にちょっかいをかけているのか、飲み屋のおねーちゃんにまで酔った紛れにキスをしている。で、女たちは彼に魅かれていく。まさしくこれは森雅之しかできない役で、優しそうで優しくない、惚れていそうで惚れていない、いつ死んでもいいかな・・といった雰囲気を漂わせながら、死なない・・という危険な男だ。 分かれてもいいかな、分かれないといけないかな・・と思ったときに、岡田茉莉子が出てきたりして思わず対抗意識を燃やしてしまって分かれる機会を逸してしまう。 唯一不自然なのは、結構簡単に転居先を捜し当ててしまうところだが、これがないと、ドラマが成立しないからよしとしよう。 しかし、森雅之、富岡は、本当は誰が好きだったんだろう。 屋久島でひとりで死んでいったゆき子は、最後は幸せになったと思いたい。誰にも見取られる事のない死だったにしても、鹿児島の旅館で寝付いたときに親身な看病を受け、彼は最後は彼女だけのものとなったのだから。 ただ、富岡と冗談交じりの話をし、彼が山へと出発する。その後、ガラス戸越しに、千石規子と森雅之が何事かを話していることで、彼女は何を思ったか、というところだけが気になって仕方ない。あそこで、「あっ、また女に手を出す病気が出た」と思ったとしたら、なんとも浮ばれない。あのカットの意味は何だろう。二人の業の深さか? サリィ斎藤様の「世界最強の腐れ縁映画」を堪能してしまった二時間でした。
2005.09.19
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今日は、親戚の十七回忌の法要。少し遅れて席に着くと、お坊さんの説教が始まっていた。 途中から聞いたのだが、信心のないもの、葬儀や法要をないがしろにするもの、散骨などを行うものを罵り、そういうものとは付き合わないほうがいいとの言葉に、唖然としてしまう。 私は二親の葬儀については、その意志を尊重してきちんとやろうと思っているが、自分については、葬儀は簡素に、戒名は不必要、散骨で・・と思っている。生まれ方は選べないが、死と、その後のことについては選べる。ほっといてくれ。 法要が終わって後の会食の際は、ちゃんと故人をしのぶ話をしなさいだの、席順は上座から年長者の順で、年長者の言葉には耳を傾けて・・・と説教は続く。ウルサイ。よほど、常識のない集団に見えるのか。これもほっといてくれ。 しかし、こういう、「ほっといてくれ」系統の話を自分もしているんだろうな・・と思うと、嫌になる。人の振り見て我が振りなおせ・・昔の人はいいことを言い残している。 さて、場所を移して会食となる。 アタリマエのように、故人の思い出が語られる。そして、近況。料理の話題。 私の近くでの話題に、「魚の皮の好き嫌い」というのが出る。 「娘が鯖の皮が大好きで、皮から食べるんや。息子のほうは、皮も血合も全部残して、身のところだけしか食べへんのに、なんでこうも違いがあるんかなぁ。」 私はといえば、魚の皮は大好物で、鮭の皮などは、食べない人のものをいただくくらい。上の娘はさらに徹底していて、目玉を好む。鯛の兜煮の目玉なんぞ、一々、もらい歩いているくらい。 妻と、下の娘はそうでもない。私と上の娘はこの点は共通。ここら辺はどうなっているのだろうか。遺伝か?育ちか?謎だ。
2005.09.19
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夕食後、家族で月見としゃれ込む。雨が降っていないからか、月の色はやや赤っぽい。 「ルナ・ロッサ」というやつか。 昔は、娯楽が少なかったんか知らんけど、「お月見や」言うて、人がもっと道路に出ていて、いろんな話してたなぁ、とは妻の思い出。 海岸のほうへと足を向ける。高層マンションをバックにした月、こんもりとした高台の松を背景にした芝居の書割みたいな月、立て込んだ家々の間から顔を覗かせている月。 穏やかな気持ちになって歩く。月は「狂気」の象徴でもあるが、私のような人間には逆に鎮静効果もあると見える。 海岸線の漁師町を抜けて、沖合いの人工島へとつづく橋を、ゆっくりと歩く。下を漁船が通らねばならないから中央部が高くなっている。その一番高くなっているところまで歩いて、しばし腰を下ろして月を眺める。子犬が、これも夕食後の散歩なのか、前をトコトコ歩いて通り過ぎる。 帰りに、少し高いところから見よう、という事になり、市営住宅の最上階までエレベーターで上がって、踊り場で月見。中々いいスポットだ。来年また来よう。◎様々の想いの集う月見かな◎犬の仔も小首かしげて月見かな 帰って、一風呂浴びて、水出し煎茶と月見ダンゴを楽しむ。我ながら、金のかからん人間だなぁ・・。
2005.09.18
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11時過ぎてから書くテーマは、私の場合、これしかない。見終わった「寅さん」。 浅丘ルリ子さん。四作品に登場し、最終の第48作目にも登場する、松岡リリー役。 それにしても、これまでの作品のマドンナ像の大転換。夜中に酔っ払って寅屋の皆様をたたき起こし、寅さんに「ね、ね、今すぐ旅に出ようよ」と迫り、寅さんを、「もう列車がないよ」「みんな疲れて寝てるんだから」と語る常識人に引き戻すマドンナですよ。 寅さんは帰る家があるけど、リリーはほんとの旅ガラス。母親は金をせびるだけ。歯が痛い‥と言いつつも、しっかり金を巻き上げる母親の姿に、うまいなぁ・・と思ってみていたら、往年の名脇役とのこと、納得。あの上目遣いの、こすっからそうなところなんて絶品でした。 東京駅で、チビに何か買って・・と言って財布を出すけど五百円しか入っていない。さくらが、その財布にお金を入れてやる。おい、逆なんだよ、逆だよ。なんか、せつなくなるシーン。 ラスト、前回は二日でへたばった酪農農家へと足を向ける寅さん。寅さんは、本当に地に足をつけて地道に働いている人への尊敬の心は、人一倍あるのだけれど、いかんせん、身体の構造は、落語に出てくる「若旦那」風になっているから、こと志に反してへたってしまう。 これまでの作品の中で一番長続きしたのは、豆腐屋さんでしたっけ。跡取りになってたら、定住生活も夢ではなかったけれど、シリーズはそこで終幕を迎えるわけで、そこが難しいところですね。 寅さんも、「わかっちゃいるけど・・」なんだなぁ。
2005.09.17
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『自己責任社会』について。今日は二つの例を挙げてみる。 まず、老後が不安で、手持ちのお金を何とか増やそうと思っているおじいちゃんのこと。 ひとり暮らしのおじいちゃんのところへ電話が入ってきた。若い娘さんの声で、「有利な投資のお話なんですが、一度お話を聞いてもらえませんか」とすがるような調子。おじいちゃんは、つい可哀想になって、明日はあいてる、と約束する。 やってきた娘さんは、おじいちゃんが食べてそのままにしておいたカップヌードルのカップを見て、「おじいちゃん、いつもこんなものばかり食べてるの?私、明日も来るから、お弁当作ってきてあげる」と言って、世間話をして帰っていった。 次の日、やってきた娘さんは、なかなか契約が取れない話などを交えながら、おじいちゃんの話を相槌を打ちながら良く聞いてくれた。もちろん、彼女が持ってきてくれた可愛いお弁当箱には、手作りの栄養たっぷりのおかずが一杯入っていた。 三日目も、部屋の掃除をしたり、おじいちゃんの肩を揉んであげたりしながらすごす彼女に、心配になったおじいちゃんは、電話で聞いた投資の話を切り出した。彼女は、いま、お金を預けてくれたら、短期間でびっくりするくらい増えるのよ、私はまだ勉強中だけど、うちの会社には、日本中から、お金儲けの天才みたいな人たちが集まっているの。おじいちゃんと話していて、私、小さな時におじいちゃんを亡くしたから、おじいちゃんが私のおじいちゃんみたいに思えてきて・・、だから、おじいちゃんのために、お金を増やしてあげたいの。 一週間経ったら電話するね、と言った彼女に虎の子の2000万円を預けたおじいちゃんは、一週間経っても電話がないので、何かあったのかな・・と心配しながら、彼女が置いて行ってくれたパンフレットに載っていた会社の電話番号に電話をした。 その番号は現在使用されておりません・・。詐欺に引っかかった事に気がついたのはその後だった。 さて、君たちの近くに、こんなおじいちゃんがいたら、どう言ってあげる? 「もうだまされたらアカンで」 「警察に行ったほうがいい」 「まあ、ええ勉強になったんとちゃうん」 「独りで決めたのが悪い、誰かに相談すればよかったのに」 「そんな話を信じたらアカンで」 「とられたもんはもう戻らない。私らと一緒に住もうよ」 「世の中そんなに美味しい話はないわなー」 「何でお金を払う前に相談してくれなかったん」 「どんだけ親切にされても見ず知らずの人にお金を渡すべきじゃなかった。相手が悪いけど、信用したおじいちゃんも悪い」 「捕まえて返してもらおう」 「もうちょっと考えてからのほうが良かったね」 「ぜったい、責めたり、けなしたりしない。おじいちゃんは、淋しかったからそういう優しい振りした人にだまされたんやから」 「気にせんでええよ。犯人は見つかるから」 紙を回収して読み上げてから、話す。 詐欺に引っかかったおじいちゃんの手記にこんな事が書いてあった。 「途中からおかしい、思ったんや。そんなにうまい話はないし。ほんでも、ええな、思った。親身になって話し聞いてくれたし、短い間やったけど、あんなに親切にされたことなんかなかったもんな。」 家族に迷惑かけんように、ぽっくり死にたい・・いうて、お寺におまいりするお年よりも増えてる。「ぽっくり寺」って流行ってんねんで。 夏休み、つい開放的な気持ちになってしまって、夜遅くなってしまった。短いスカートにタンクトップという格好で夜道を駅から家まで歩いていたら、街灯のないくらい所で、数人の男に乱暴されてしまった。ぼろぼろになって家に帰った。 こんな時に、絶対言ってほしくない言葉。 こんな時は、こう言ってほしいという言葉は?☆「大丈夫」って言われたら余計に嫌かも。警察とかには行きたくない。☆「そんなカッコしてるからやろー」★★★★★★★★★★★★★★★★★ ★★★★★☆自分が悪い、と言ってほしくない。☆こんなに遅くまで遊んでるからや。☆そんなん自業自得や。☆なにしてんの! ※私の友達が、親に、「汚れた娘なんかいらん」って言われてて、本当に可哀想やった。親としてサイテイ。☆ああすればよかったのに・・とかの後悔の言葉。☆親には知られたくない。 ☆「こわかったんやなー」☆「命が無事でよかったわ」☆「無事に帰って来れてよかった」☆何も聞かずに慰めてほしい。☆「心配せんでええで」☆「犯人見つけてボコボコにしたる」とかの力強い言葉。 強姦は、なかなか表に出ない。 痴漢もそうだ。なのに、「女にスキがあった」と言い立て、大阪府知事のタコの一件のときには「声をたてればよかった」と言った女の評論家がいた。女のカッコウしているだけの女というのがいる。 いい加減に、『被害者よりも加害者のほうが悪いんだろ』というアタリマエのところへ帰ったらどうだ。 「自己責任社会」という言葉が頻繁に使われ始める以前から、「被害者が責められる」という事はあった。しかし、高遠さんたちが非難を受けたイラク人質事件のあたりから、その色彩が強くなっていった。 傷ついている被害者をさらに叩く・・という「あさましさ」は、どこから来ているのか。さらにその「あさましさ」を「自己責任」という包装紙で包んだのは誰なのか? 具体的な例を挙げて考えていく時に、「自己責任」という言葉の持つ、「適用範囲」「限界」が分かってくるのではないか。 何でもかんでも「自己責任」。産前産後に「自己責任」。笑わすんじゃないよ。 「自己責任」を言う二世政治家は、自分の親と違う選挙区から立候補してみろよ。親の七光りで御託を並べるな。 もう少し、具体に即して考えを深めていこう。 来週は、火~木が授業だけど、政経は一時間も抜けない。トホホ・・。これも「天の声」かなー。
2005.09.17
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『魔女の宅急便』を見た。 こういった作品を見ていると、ますます、「最近の宮崎さんの作品にはもうついていけないな」と思う。テーマとか、そういったことではなくて、画面の「スピード」についていけない。 『ハウル』で、最初のほうの空中を浮遊するシーンは、映画館で見ながら、思わず声を出してしまいそうなくらい心地よかった。しかし、その後の映像の「スピード」には、もうついていけなかった。 『魔女宅』『天空の城ラピュタ』は、スピードが丁度だ。『トトロ』『紅の豚』『ナウシカ』、みんな、「私の身体の持っているスピード許容量」内。 街の掃除を仕事としているオジサンからデッキブラシを借り受けて、精神を集中して舞い上がっていくキキ。コントロールできずにあっちへふらふら、こっちにふらふら。 アッ、パンツが見える、かぼちゃパンツだけど・・・かなんか思いながら見る。何度も見たシーンに、なぜか心の中で、「よかった」と拍手をしている。 ユーミンの歌も丁度いい。 デッキブラシはキキご愛用となった。テレビの画面を見ながら、おじさんは自慢げに言う、「俺のブラシだぞ」。街を歩く幼い子が、キキの服と同じものを着て・・・、こういう遊びにも満ちている。 これからどうなっていくんだろう、宮崎アニメ。
2005.09.16
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「自己責任社会」というテーマで授業。 教科書では、パソコンソフトのインストールの際も、自己責任が問われる・・と書いてある。という言葉も出てくる。 「自己責任社会」ってどんな社会なのか? 自由に選択はできる。しかし、結果については責任を負わねばならない社会。 現在の私の行動が、将来の私の状態を決めてしまう社会。 例えばね、といいつつ、教室内を歩き回って、「ほら、ノートとってない人がいるやんか。とるのもとらないのも、選択できるけれど、授業がわからなくなって欠点取ったら、それはあなたの責任ですよ、いうことやね」、と言う。 「授業中、ウツラウツラしてて、聞いてない。これも『選択』やな。でも、その結果はとってもらうで、いうのも『自己責任』やね」。 なんと、ノートを取り出したり、しゃっきりしだしたヤツの多いこと。可愛いなぁ。・・・あんまり、もたなかったけど。 こういった社会は、はたして「いい社会」と言えるのか?○頑張らなかった人がいい暮らしができるなら、頑張る意味がなくなってしまうが、過ちを犯した人も、そこから助け出そうとする社会であってほしいと思う。頑張らなかった人も救えて、頑張った人にはより一層の恩恵が在るような社会が良いと思います。○頑張らない人がいい生活ができないのはアタリマエだと思う。○今の時代はそうなったほうが良いと思う。○責任なさ過ぎても、ありすぎてもいや。○勝ち組と負け組みを決めるのは嫌だ。○そんな息苦しい社会は嫌だ。○いくら頑張ってもいい暮らしができない人もいるはずだ。それか現実だと思う。○みんな平等な社会がいい。○一杯責任を取らされるのは嫌だ。○自分の選択には責任を持たねばならないと思う。○それで良いと思う、人のせいにしていたら、みんなだらだら暮らすようになる。○自分で責任を取るというのは良いと思う。そうじゃないと社会に出て行けない。自分で責任を取れない人が増えているから、「今の若者は・・」とか言われそうだ。○いい悪いよりも、そういう社会はアタリマエと思うけれど、いつまでも自分の失敗が続くと言うのは嫌だ。○何事も自分次第っていい感じ。頑張れば結果はついてくる。○それが本当は正しいと思うけれど、やっぱり都合が悪い事の責任は取りたくない。自由と責任がワンセットという事に初めて気がついた。○自分の事くらい自分で決めたい。自分が責任取らなくて誰が取るのか?○生きてく上で自分に甘く生きていたらいつかは身を滅ぼす。責任取らないのはただの逃げだ。 一般的に論じると、やはりこうなる。「自分の行動に責任を持たないといけない」という事は、正しい。しかし、その責任の取らされ方には限度はないのか。で、もう少し具体的にしてみる。A『貧乏な人は努力が足りない」 B『成績が悪い人は努力が足りない」という考えかたについて。A ○違うと思う。努力したからと言って良い仕事に就けるとは限らない。○努力しても報われない社会だから、違うと思う。○努力しなければ金は入らない。○貧乏人のほうが苦労している。○働いても時給が安いこともアル。○一生懸命働いても貧乏な人はいる。○生まれつきお金持ちの人もいる。努力とかだけではない。○親が貧乏だったら仕方ない。○頑張っても限界はあるし、もともと良い家柄に生まれたら、自然と金持になれる。貧富の差はとりあえずそこからでてきそうだ。○働きたくても働けない人もいるんだから。○代々お金持ちのところもあるし、逆の事もある。努力してもどうにもならない事はある。○生まれがよければ努力は関係ない。○仕事が足りない。それでは努力はできない。 ここから先の展開は、「累進課税の税率の変化」という資料で説明する予定。 累進課税は、所得の再分配という面を持ち、大金持ちも大貧民も平準化する機能を持つ。しかし、累進税率が下がると、金持ちは益々金持ちになる、という結果をもたらす事となる。 累進課税の最高税率は導入当初は88%だったというが、その後、下がり続けて、現在は、50%になっていると思う。B○こつこつ頑張れば成績は伸びると思う。○勉強したら頭は良くなると思う。○自分が勉強してないから欠点を取る。自分の責任。○もともと頭の作りもあるかもしれないけれど、やっぱり勉強したら少しは良い点とれるけど、やらなかったぼろぼろだから。○努力してもわからないことはアル。持って生まれた才能というものもあるだろうし。○努力しても中々結果が出ない人もいる。○努力しても全然頭に入らない人というのもいるのではないか。○サボっていてもできる人はいる。努力してもできない人もいる。 私の勤務している高校に入ってくる生徒は、「成績の関係で」、ここしか入れなかった、という生徒が多い。自己評価は総じて低い。だから、やらせてみて、励まして、「やれる」という実感を持たせながら、三年間を過ごす。 しかし、まだまだ、「頑張ったらできるんだ」という経験を自分のものにしている生徒は少ない。「努力しても駄目なものは駄目」というのは、実感ではあるのだろうが。ここの壁をなんとか突破したい。 「個人の努力」が重要である事は、アタリマエだ。しかし、それはすべてなのか?努力すれば何でもかなうのか?個人の努力の有無にすべては解消できるのか? そして、「スタートライン」は、平等なのか?
2005.09.16
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サソリが、また同じ人の家から見つかったという。ニシキヘビが捨ててあったり、イグアナが木にしがみついていたり、琵琶湖にピラニアがいたり。排水溝にワニがいた・・と言うニュースもあった。 さて、サソリだ。印象的な「サソリ」。 なんといっても『銀河鉄道の夜』のサソリ。 昔バルドラの野原に一匹のサソリがいて、小さな虫なんか殺して食べていたんですって。するとある日、イタチに見つかって食べられそうになり、逃げたら井戸に落ちてしまった。溺れ始めたサソリは、お祈りをした。 ああ、わたしはいままでいくつもの命をとったかわからない。そしてその私がこんどイタチにとられようとしたときはあんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなことになってしまった。ああ、なんにもあてにならない。どうして私は、私の身体をイタチに黙ってくれてやらなかったんだろう。 そしたらイタチも一日生き延びたろうに。どうか神様、私の心をご覧下さい。こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私の身体をおつかいくださいって言ったというの。 そしたらいつかサソリは自分の体が真っ赤な美しい火になって燃えて夜の闇を照らしているのをみたって。いまでも燃えているって。 後、開高健が紹介しているインドシナの「民話」。 カエルとサソリが河を渡ろうとしていた。サソリがカエルに言った。 「おぶって渡してくれよ。俺、泳げないんだ。」 カエルが言った。 「やだよ。刺されたら死んじゃうよ。」 サソリが言った。 「馬鹿だなぁ。君を刺したら、俺も溺れてしまうよ。」 カエルはサソリをおぶって河の真ん中あたりまで行った。その時、サソリはカエルを刺した。 カエルは言った。 「サソリ君、何をするんだ、君も死ぬんだぞ。」 サソリが沈みながら言った。 「これがインドシナなんだよ。」 最初に目にしたときから、ずっと心の片隅に残っている。
2005.09.15
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下着メーカー「トリンプ」の社長が、自分のブログで、「私は渡辺淳一さんの『愛の流刑地』のファンです」と書いたために反発を買って、批判的なコメントが集中、ブログは閉鎖され、ついでに、もう一つのブロクで弁解を掲載したらそちらも叩かれという記事が載っていた。 これを見つけたのは娘なのだが、見て笑ってしまった。 『愛の流刑地』って、人気ブログの上のほうに出ている。 渡辺淳一さんの作品で私が強く印象に残っているのは、日本初の女医・荻野吟子を取り上げた作品『花埋み』。その後、『ひとひらの雪』も途中まで読んだが、放り出してしまった。 だから、大人気となった『失楽園』も、読んでいない。第一、『失楽園』とはなんだ!という反感のほうが先に来て、読むどころじゃなかった。 もっと、医学に取材した小説を書いてほしいところだけれど、もうあのような地味な世界には帰らないのだろうか。 社長がブログを持つことは流行のようだが、自分の書くことは企業のイメージと一体化しているという意識はあるのかな? トリンプの社長として書いたら、それはもう「私人」ではない。
2005.09.14
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新聞を見ると、改憲賛成議員が多数を占める国会の状況のようだ。 焦点になっている第九条。第一項を変えろという意見はあまりない。アタリマエだ。「これは侵略戦争だ」と公言して戦争を始めた国は二十世紀になってからはない。すべて、「国の安全を守る」という大義名分がある戦争だ。だから、手をつける必要はない。 問題は第二項の交戦権、そして、自衛隊をはっきり「軍隊」としてしまう事の是非。 これについても、訊ねてみた。 ○自衛隊を軍隊とする。○「交戦権」(戦争で人を殺しても罪にならないこと)を認める。 以上のように憲法を変えよう、という考えについての生徒たちの意見。☆断固拒否する。戦争を肯定する事で今の日本がよくなるのか。戦争なんかして日本の一般国民は喜ぶのか。交戦権を認めると人を殺す事をなんとも思わない人も出てきそうだし。戦争での被害については第二次大戦でよく知っているのではないのか。☆平和憲法なしで平和は語れない。☆戦争反対、税金がもったいない。アメリカのために戦うのは嫌だ。☆軍になったらアレコレ理屈をつけて実力を試そうとすると思う。自衛隊はレスキュー隊とか、人を助けるために働けばいい。そうすれば戦闘訓練なんかいらない。☆軍があっても損することはない。戦争になるんだったら交戦権は必要だ。☆どのような理由で変えようとしているかがわかりません。☆一度犯した過ちを繰り返さないように定めたのが憲法九条なのに、変えてしまったらまた同じことの繰り返しとなる。戦争をすることが前提となっているのがいや。☆結局、戦争し易くするために変えるんじゃないか。戦争をしないで今まで来ているし、他の国の戦争の様子を見ていたらいいもんじゃない。戦争なんかしても意味はない。☆人を殺して罪にならないのはおかしいけれど、国民のために命を張ってくれているんだから必要ではないか。☆世の中が変わってきているからかえる必要はある。☆戦争に関わるのは許せない。人殺しはどんな状況でも人殺しだ。☆戦争をしないといっていた日本の信頼が崩れるから駄目だと思う。☆交戦権なんか認めたら、日本の治安が悪くなる。☆今の日本は外国になめられているから、自分の国を守るためなら良いとおもう。☆戦争になったら、相手を殺さないと殺されてしまう。 彼らの意見は、基本的なところで、「当事者性」を帯びている。何かあった時に、自分たちは貧乏くじを引く側だ・・という意識がある。 これが、「エリート校」だったらどんな結果が出てくるか、興味があるところだ。 ここいらへんは、「自分は絶対に安全」「戦場に行く気遣いのない」二世、三世議員で満ち満ちた国会とは違うところだろう。 マイケル・ムーアが、『華氏911』で、上院議員に、「あなたの息子さんをイラクに送りませんか?」と問いかけて、誰も応えようとしなかったシーンを思い出した。 改憲議論を注視したい。
2005.09.13
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『政治・経済』教科書の中に、という項目がある。きょうはまず、そのまま質問してみた(紙に書いてもらった)。これは空振り。具体的には出てこない。ただ、その中に、という一枚があり、さらに紙を配る。 色々出てきた。○貧富の差がない☆☆☆☆ ○平和な国☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ ○住みやすい国 ○汚職などがない国 ○貧困がない国 ○環境に優しい国 ○犯罪のない国 ○景気のいい国☆☆ 「国民の意見一人一人とは言わないけれど、ちゃんと代表の人が意見を聞いてくれて、それを政治に取り入れる国」☆☆ 「みなが法律に縛られず、でも悪い事をしない国」「みんなが平等に暮らせる国。人間味のある暖かい国」「景気がよくて犯罪が少ない。安心して暮らせる国」「みんなが暮らしやすい国。たとえば老人とか外国人とか、障害者の人とか」「政治家が勝手な事をしない国」「戦争をしない、というか、他国を攻撃しようとしない国」☆☆「沖縄みたいな国」「必要なところにお金が使われる、若者が楽しい国」「景気がよくて、ほとんどの人が経済的に楽になり、生き生きとして生活できるような国」「みんなが平等に暮らせる、<勝ち組>とかない国」「衣食住が十分満たされ、人が生きていけるだけのお金がある。安全で平等な国」「消費税とか上がらない国」「老後が安定している国」「浮浪者のいない、リストラとか消費税のない国」「景気がよくて失業者がいなくて、法律がしっかりしていて、物価が安く犯罪が少ない国」 大半が、現実の陰画となっている。しかし、理想というものは、「こうあってほしい」というものはそうなのだろう。高校生の寝言、かもしれないが、自分が今日、紙に書き付けたことを忘れないでいて、どうしたらこれが実現できるかという事に思いをめぐらすことは、「政治」というものを考える切り口になりはしまいか。 平等、貧富の差が少ない、平和、そのようなものに価値を見出している姿はきわめて真っ当なものではないだろうか。
2005.09.13
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土曜日の学習会で、神戸の女子高に勤務している先生から、印象的な報告があったので、忘れないうちに書き留めておこう。 最近、南アフリカのアパルトヘイトの事をやったんだけど、はっきり、白人用、有色人種用と、トイレなんかが分けられてたの・・と説明した後で、日本人は、どっちだったと思う?と訊ねて、意見を言わせた後で、実は、「白人用」の方に入れたの・・と言うと、生徒たち、「やったー!」って言ってニコニコしてるのね。 もう10年以上前かな、同じようにアパルトヘイトの事をやった時に、「実は、日本人は、白人用の方に入れたの」と言うと、生徒たちは、ものすごく複雑な表情をしていたことを思い出して・・。 「名誉白人」という分類に対する屈託のなさ。それがどうした?と言われそうだが、何か引っかかるものがある。 二世議員などに見られる、「自分が恵まれている」という事に対する屈託のなさも。「親の七光り」を、「ラッキー!」と受け取る軽さにも。
2005.09.12
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「総合」の時間に、少しだけ時間をとって、以下のように話した後で、文章を書いてもらった。 選挙の結果は、自民党の大勝という事になりました。自民党と公明党、つまり与党の議席は三分の二を超えました。これは、憲法改正も行える議席数ですが、さて、このような選挙結果について、自分の思うところを書いてみてください。 以下、幾つかの意見を紹介します。全員高三。(1) 政治のことは、まったくと言っていいほどわかりません。私のような人が投票した人の中にもいたんじゃないかと思います。郵政民営化の意味も知らないで投票した人も絶対いると思います。 それに、結果的には国の借金だって減る事はないし、ましてやこれで国民が裕福になる気もしません。むしろ郵政に携わっていた人がかわいそうだと思う。このまま憲法を悪く変えられても、国民(投票した人)に、異議を唱える資格はないと思います。まぁ、かく言う私も政治について深く知ろうとしない愚か者ですが。 (2) また小泉か・・って思った。奴なら憲法第九条(だったっけー)を改悪しそうな気がする。戦争できるように・・とか。勝手な妄想やけど、これは正直やめてほしい。(3) 今回の選挙は、注目度も高く、自民党の分裂もあって、すごかった。自民党のみで過半数を得て、民主党は惨敗だった。郵政民営化などといっているが、小泉マジックだと思った。民営化に反対していた議員はほとんどが落選している。全国的に見ても、自民党に属していたら当確なんかと思うほどの歴史的な圧勝だったと、報道番組を見て思った。 しかし、民営化がそんなにいいものか、疑問に思う。「郵便局」という言葉もなくなる可能性がある。これから政治が面白くなりそうだ。(4) 郵政民営化になるのは別に良いと思う。でも憲法第九条をなくしたりするのはよくないと思う。(5) 私はこの結果について不満です。小泉さんはいつまで経っても自衛隊を撤退させないからです。となると日本でもテロが起きる可能性が高くなる。郵便局がどーのこーのよりも、国民あっての日本だと思う(6) 自民党の人が多く当選したことで新しい法律が作られて日本が変わっていくと思うから、良かったのではないか。(7) 圧倒的に自民党が多く、自民党は人気があるんだなと思いました。 全部で14人ほどの集団です。別に「高校生を代表する声」ではありません。たまたま私が教えている生徒たちが、こんな事を考えています、というだけのことです。 「高校生の政治教育」というテーマで、これまで真剣に考えてこなかったな・・と思っている。それは、私の「政治的信条」を押し付けることではないことは自明の事だが、「主権者としての高校生」に相応しい「政治的教養」とは何なのか? 政治経済で、それに近い事をやろうとしているのだが、走りながら考える・・といういつものパターンになりそうだ。進歩がない。
2005.09.12
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選挙の「結果」なるものが、投票終了直後に発表された。 自民党300議席。大勝利の予想。 教師になって30年、私は、自民党の先生方が罵詈雑言を投げつける「戦後教育」に携わってきた。その「戦後教育」が、自民党に300議席を与えた事をどう考えれば良いのか。 結局、自分の実践はどうだったのかというところに私の思考は還る事になる。教育がすべてを決定するなどという傲慢な事は考えていないし、そういう意味で言っているのではない。 「事実に基づいてものを見る」「自分の思いを先立ててはいけない」。こんな「簡単」なこともできていない。社会科の授業の中で、世界史、日本史、現代社会、政治経済、地理、自分が何を教えてきたか。 自分たちの生活と切れたところで、歴史を教えていなかったか。 入試で世界史を取る生徒たちにはこれは教えておかないといけないから・・という逃げ口上で、単なる用語の解説に終始していなかったか。 「時代の変動」といったことについても、自然現象のような教え方をしていなかったか。「気がついたらこんなんなってて」といった風に教えた覚えはないのだが、「歴史を動かしていくエネルギーはどこにあるのか」について、事実に基づいて、生徒たちの意識に沿ったかたちで、腹に落ちるように、納得がいくように教えられなければ、同じ事だ。「ナンデカわからんけど、こないなっとってん」でおしまい。 江戸時代の次は明治、次は大正、そして昭和、平成、この順番がわかってないことには話にならない。しかし、年号が変わるのとは違う変わり方を日本の社会がしていく、それはなぜなのか、それについて学ぶ事がなぜ大切なのか。 それについてのきちんとした知識を欠いたままで、今を生きる事はどのようなマイナスを背負う事になるのか。 きちんと教えていない教師は、生徒にどんなマイナスを背負わせる事になるのか。 いま、私は、おそらく、「選挙結果に示された日本国民の多数の意志」なるものから、限りなく遠くにいるという実感がある。 自民党に多数を与えた国民の判断は間違っていると私は考えている。しかし、その「間違った判断」の片棒を担いでいるのは私だという実感がある。 ぼちぼちやるしかないけれど、勉強のしなおしだな。
2005.09.11
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夜、歴史教育者協議会(略称 歴教協)の例会に参加。社会科の、特に歴史分野の教師の研究会で、例会はもう三十年続いている。高齢化は進む一方だが。 四月に職場に復帰して以降、それまでやっていたことから全部手を引いていたのだけれど、このところ、少しづつカムバックしている。七月から、もう三十年続けている地域のオバ様たちとの勉強会も再開したし、今度の例会参加も久しぶり。 夏休みの間の活動報告を各自が行う。と、言っても、結果的に独演会になってしまった・ A氏は、阪神間の有名私学の教師。なんともエネルギッシュな人で、「夏の間にこんな事をやった」という報告も、立て板に水道。 阪神間の平和展・戦争展の会場ほぼすべてを廻った事。万葉集の歌碑巡り、勤務校の戦中の校友会雑誌を発掘してきて編集したこと。などなど。 阪大が主催した現場教師を招待しての三日間のゼミ形式の学習会に参加したこと。これは興味があった。第一線の研究者が、先端的な研究を難しく語る。 20世紀論、服装とジェンダー、東南アジアの歴史区分論・・。 大学の先生たちにとって、優秀な生徒を確保することは、いまや死活問題となっているようだ。 入試科目の変更も進みつつある。理系の科目は、国立の医学部の場合など生物・物理・化学の三つに戻りつつある。社会の場合も、遠からず二つに戻る可能性が強い。現在は、日本史を選択したら世界史は学べない・・となっているが、二つとなると、選択性は廃止の方向に向うだろう。現に、A氏の学校では、「選択」の幅を狭めて、必修に戻りつつある。 中学から入学してくる生徒たちの学力(これは定義が難しいが)は、年々低下している。考えること自体が面倒くさい、という生徒も増えている。ここらで、腰をすえて、「どうするか」を考えておかないと、持たないところに差し掛かっている。「3A-A=3」と答えた生徒がいて・・・との報告もあって、一同のけぞる。そら、Aをとるんだから、3が残る・・と考えるんだろうが。 「中学校ン時に、勉強わかった?」と質問して、「わからんかった」と答える生徒たちに、「高校入ったら、勉強わかるようになろな」と、言える教師になるように腹をくくらないとアカンなと思う。 来月は、自分の授業の報告をすることになる。少しづつ、少しづつ元に戻していこう。焦らないで。
2005.09.10
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邦題で、気になる作品を観てしまった。衛星映画劇場。 若き日のジェイムス・メイスンの『邪魔者は消せ』。 原題は、『Oddman out』。(1947年 イギリス キャロル・リード) IRAらしき組織に属する数人が銀行強盗を決行するが、逃げ遅れたジョニー(メイスン演じる)が、警備員と揉み合いとなり撃たれて負傷するが、相手を撃ち殺してしまう。車に乗って逃走するが、カーブで転げ落ち、そのまま居場所を転転として行く・・という作品。 このジョニーという男が、「誰でもみんな知っている・・」(これは月光仮面の歌だが)という有名人。浮浪児たちも知っているし、転がり込んだバーのバーテンも知ってる、馬車の御者も知ってる。 でも、みんな厄介者扱いする。まっすぐに彼を愛し、共に死ぬのは、キャサリン・ライアンだけ。 観終わって、これは違うぞ・・と思った。『邪魔者は消せ』という「積極的な」ものではない。もっと消極的でそれだけに陰湿な感じがする。 瀕死の男を、自分の都合だけで取り扱う。金づる、モデル・・・。何にも知らないで介抱しようとして家に連れてきたご婦人方たちが一番マトモか。 oddman out を『ジーニアス英和』でひくと、「残り鬼」とか「仲間はずれ」「のけもの」と書いてある。こちらのほうがいい。 でも、「残り鬼」といってもわからないだろうから、『鬼は外』・・余計にわからなくなる。 『邪魔者』だけでもいいんだけど、インパクトに欠けるかな。『のけ者』がいいんだけどなぁ。 以下、どうでもいいこと。☆ラストあたりで、ジョニーの怪我を手当てする男(医学部出身)、手塚さんの作品に登場するスカンク草井に似ている。草井のモデルは、リチャード・ウィドマークだそうだけれど。 ☆「レギュラー」という漫才コンビのネタ。「うちはーうち よそはーよそ」。なんか心に残ってしまった。
2005.09.09
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嵐山光三郎の『追悼の達人』と『文人悪食』の両方に林芙美子が出てくる。 「芙美子と同棲していた若い詩人野村吉哉は、『放浪記』が出版されると『私は昔、若気のいたりから林某女と同棲していた事がありますが、同女が、その時のことをこの頃嘘八百をならべて書いております。私は大変迷惑しています』という声明書を書いてあちこちへ郵送した。 野村にしてみれば、小説のモデルにされていらだちがあったろう。芙美子は、野村と同棲する前に暮らしていた新劇俳優田辺若男のことが忘れられず、夜中に目をさますと、突然、『若男、若男』と叫びながら野村にすがりついて泣き出すので野村としても面白くない。 野村は芙美子と別れてからも、芙美子を追い、いろいろないやがらせをした。雑誌に『俺が淋病になったら逃げていったあいつ』と書くかと思うと、『俺に淋病をうつしたあいつ』とも書いた。」『追悼の達人』新潮文庫 p461 映画は映画だ。 出てくる俳優が豪華でいい。母に田中絹代。ずっと芙美子を陰になり日向になり支え続ける男に加東大介。最初の恋人が中谷昇。その恋人草笛光子。次の恋人が宝田明。友人が伊藤雄之助。土建屋の親方に多々良純。カフェの客の学生に草野大悟がいたな。これを観ているだけで幸せになれる。 26歳で書いた『放浪記』で一挙に売れっ子になるまでが中心をなしている。それにしても、成瀬作品にはどうしてこうも、箸にも棒にもかからない男が出てくるのか。そしてその描き方が何でこんなに印象的なのか。 草笛光子を連れ込んだ中谷昇は、芙美子の事を「女中」と言い捨てるが、彼女が部屋に入ってくると、もうオタオタしてしまって、なんとかその場を取り繕おうとする。悪者になりたくないという男のいやらしさが透けて見える。 大口叩いて芙美子を追い出した宝田明が、彼女が働いているカフェに来る。何にもいわずに入ってきて、灰皿からシケモクをとり、芙美子に一箱もらう。おなか減ってない、焼き飯ならあるわよ、と言われて、弱々しげに、うん、という。 あー、もう、ジンマシンが出るほど情けない男だが、その一挙手一投足を綺麗に思い出せるという事は、それほど印象が強かったという事だ。 高峰秀子。八の字眉毛の田舎者、生活力は旺盛、愚痴をこぼしていても仕方ない、時にはライバルを蹴落としてでも這い上がろうという林芙美子を演じていた。 こんな高峰秀子は見た事がなかった。 『放浪記』は、まだ読んでいない。中学の時、『風琴と魚の町』を読んだきり、彼女の作品は読んでいない。読んでみよう。 「林芙美子の小説は、女性の生き方を問う作業であった。晩年の昭和二十四年から書きはじめた『浮雲』は、その集大成とも言うべき作品だ。芙美子の文体はわかりやすくて、生活感がこもっている。実体験に根ざした女の本音があり、多くの女性の心をとらえた。」 と『文人悪食』(新潮文庫 p420)で嵐山が評する『浮雲』で、高峰秀子は今度はどんな姿を見せてくれるのか、楽しみだ。 ☆役名と、俳優さんの名前がごっちゃになっていますが、お許しください。
2005.09.09
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特攻隊員の作った川柳を読んだ。 特攻へ新聞記者の美辞麗句 今日もまた全機還らず月が冴え 父母恋し彼女恋しと雲に告げ 黙送の中を静かに特攻機 アメリカと戦ふ奴がジャズが好き 痛かろういや痛くないと議論なり 雨降って今日一日を生きのびる 勝敗はわれらの知ったことでなし 生きるとは良いものと気がつく三日前 この句を詠んだ青年たちは、23歳。特攻隊というものについて考える時に、忘れてはならない句であると思う。 戦前、戦中、戦後の川柳について、田邊聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』中公文庫 全三冊 がある。
2005.09.08
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「第九条において、いっさいの戦力および軍備をもつことを禁止したとしても、このことは、わが国が、独立の主権国として、その固有の自衛権自体までも放棄したものと解すべきでない事は当然である。 しかし、自衛権を保有し、これを行使することは、ただちに軍事力による自衛に直結しなければならないものではない。 すなわち、まず、国家の安全保障(それは究極的には国民各人の生命、身体、財産などその生活の安全を守ることに他ならない)というものは、いうまでもなく、その国の国内の政治、経済、社会の諸問題や、外交、国際情勢といった国際問題と無関係であるはずがなく、むしろ、これらの諸問題の総合的な視野に立ってはじめてその目的を達成できるものである。 そして、一国の安全保障が確保される何よりも重要な基礎は、その国民の一人一人が、確固とした平和への決意と共に、国の平和問題を正しく認識、理解し、たえず独善と偏狭を排して近隣諸国の公正と信義を信頼しつつ、社会体制の異同を越えて、これらと友好を保ち、そして、前記した国内、国際諸問題を考慮しながら、安全保障の方法を正しく判断して、国民全体が相協力していくこと以外にはありえないことは多言を要しない」 以上に引用したのは、『憲法を変えて戦争へ行こう という国にしないための18人の発言』という岩波書店のパンフレット(476円)で、作家の松本侑子さんが引用されている長沼ナイキ訴訟・札幌地方裁判所判決の一部だ。 自衛とは軍事力なり、という立場からは、何が生まれるか。 軍事力をになう軍隊を強化し、もしも戦死するような事でもあれば遺徳を顕彰し、遺族には相応の生活資金を支給する。学校教育においても、「愛国心」を涵養し、一旦緩急あれば義勇公に奉じ・・という精神を養わねばならないという事になりはしないか。 兵器産業は隆盛を極め、戦争による新兵器のテストは必要不可欠のものとなるのではないか。 そして、これはおそらくポイントになると思うのだが、国民の間の経済的格差は大きければ大きいほどいいのではないか。でないと、誰が好んで軍隊に入る? 国防の最前線は、もっぱら、社会の底辺部分から供給されるというシステムになるだろう。 軍は、その人々に学歴を与え、教育を施し、除隊した後の仕事の世話もするようになるだろう。生き残ればの話だが。 金と社会的地位を兼ね備えた層が、絶対に足を踏み入れないフィールドがこうして出来上がる。 では、「自衛というのは、軍事力だけに限られるものでなし」という立場は、どのような社会を必要とするか。 それは、経済的格差の少ない社会をまず前提とする。 個々人の生活の中に、国の自衛につながる要素が必ずある、と想定することは、間違っていないと思う。「独善と偏狭を排し」というだけでも、努力を要する点ではないか。 「社会体制の異同を超えて友好を結ぶ」ことも、私たちの生活の中に入りつつある事ではないか。旅行先での様々な体験を通じての友好関係を個人的に取り結ぶ事も、各地に散在している「○○友好協会」の活動も、ずいぶんと活発なものとなっている。うちの姉でもホストファミリーを引き受けて、もう何組もお世話した・・と聞いてびっくりしたのは、少し前の話。うちの家にも、マレーシアからお客様に来ていただいたことがある。イスラムの風習がよく分かった。 国際的な知識も、マスコミだけではなくインターネットなどを通じて私たちの中に日々流れ込んでいる。要は、それに対して自覚的になるかどうかというだけではないか。 これは、「おまかせ国防主義」ではない。「誰かが考えてくれる国防主義」(そんな言い方があるか?)でもない。 「私の国防主義」「国防のために一肌脱ぎましょう主義」と言っていいのではないか。 いま、ずっと以前に読んだマージャンの本の言葉を思い出した。著者は五味康祐。 「汝の敵に愛されよ。」 「国防」というものの一側面を的確に表現していないかな。 札幌地裁判決は、9月7日(1973年)。今から32年前の今日のこと。
2005.09.07
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『我が闘争』は、蜂起に失敗したヒトラーが獄中で書いた本だ。国家に対する反逆罪であったにも拘らず、刑は軽く、本を書く便宜まで与えられたという事は、当時の政府がいかにヒトラーのような右派に甘かったかを示している。 この本の中で最も多く引用されるのは、「大衆の心理」についての部分だ。 「大衆の心理は、すべて中途半端で力の弱いものには動かされない。女と同じである。女の精神的な感覚は、抽象的な理性に基づいて定められるよりも、むしろ、自分の足らないところを補ってくれる力に対する、定義しがたい、感情的な憧れによって定められる。それゆえに、女は弱い男を自由に動かすよりも、強い男に屈従する事を好む。 それと同じに、大衆もまた、頭の低い人間よりも支配者を好み、自由主義的な自由の承認で満足させられるよりも、むしろ他の教義の共存を認めないような教義に満足を感じる。」 石原慎太郎を支持する人々は、彼がその愚かさを罵倒する大衆である。 小泉「刺客」作戦は、彼の断固たる決意をテレビの画面を通じて広く知らしめた。同時に、「有名人」の立候補は、世間の注目を集めた。少し前まで、「政治なんかバカのやること」と切って捨てていたホリエモンも、その発言の責任は問われない。 「政治は母の愛」とのたもうた料理評論家も、その知名度を買われている。 政治家は、いよいよ知名度があれば「誰でもできる職業」となったようだ。 「大衆は、自由を与えられても、それを利用していかに事を始めたらよいかわからないし、かえって見棄てられたと感じ易いものである。 自分たちが精神的なテロ行為を受けているということも、自分たちの人間としての自由が腹のたつほど踏みにじられているということも、大衆は意識していない。 彼らはこの全教義のうちに含まれる精神錯乱に少しも気づかないのだ。」 小泉首相は、「民営化」によって郵便局の職員30万人は公務員でなくなるので、国の負担が減ると連日訴えている。しかし、そういっている彼が、郵便局は以前から独立採算制をとっており、給料は事業収入から支給されており、税金は使われていない事を知らないわけはない。なにせ、郵政大臣だったんだから。 知ってて平気で嘘をつく。 その演説に対してニコニコ笑いながら手を振っている人々の姿は、まさに、小泉演説に含まれる「精神錯乱」に気がつかない人たちなのだ。 おそらく、小泉氏が最も嫌っているのは自分の演説に手を振るような人間なんだろうな。 「大衆の摂取能力は極めて限られたもので、その理解は少なく、その代わり忘却は大きい。このような事実から、効果的な宣伝はすべて、ごく少数の要点に限定すべきであり、スローガン式の宣伝を利用し、望む内容を現わすのにただ一言で最後的なものをはっきり示しうるようなしなければならない。」 小泉首相は一時、「一言主(ひとことぬし)」と言われたことがある。彼の言葉は短く、その短さによって世間の喝采を浴びた。 「感動した!」 「自民党をぶっ壊す!」 そして現在の、「改革を止めるな!」。 現代の宣伝理論が、ヒトラーの『我が闘争』から多くのものを得ていることはもはや言うまでもないが、よほど優秀な広告代理店をつけたものだと思う。 「此の世に一大変革を起こさせる推進力は、いつの時代でも、大衆を支配している科学的認識の中にあるよりも、むしろ大衆の心をつかんでいる狂信の中に強く存在し、往々、大衆を前進へと狩り立てるヒステリーの中に強く潜んでいる。」 1937年に始まった日中戦争が、「勝てる戦争」であったにも拘らず泥沼化したとき、日本国民は閉塞感にとらわれ、対米英開戦が発表され、真珠湾の戦果が発表された時、国民は一種の「スカッとした感じ」を味わったという。 今回の選挙に関する新聞報道に、この「スカッとした感じ」との感想を述べている人がいることを目にしたときに、上に書いたことを思い出した。 開戦のニュースを聞いたとき、日本の前途を案じた人の数は、現在公表されている日記などを読む限りではごく少なかったといえるだろう。大半の人々は、「スカッとした感じ」にとらえられた。その数年後、日本国民がどんな体験をしたかは語るまでもない。 戦前、国民は、「革新」を語った近衛を支持した。「昭和維新」を語った軍を支持した。もう一度、その愚を繰り返すのか。 『我が闘争』のこの部分は、何度も読んできたが、今回ほど切実に読んだときはなかった。これを不幸といわずになんといえば良いのか。
2005.09.06
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成瀬巳喜男監督の『めし』を見た。1951年の作品。私が二歳の時だ。スクリーンに出てくる風景が懐かしい。ボンネット・バス。バスガイド。舗装の行き届いていない道。ビンボくさい町並み。 上原謙と原節子の夫婦。そこへやってきた若い娘が、二人の生活を引っ掻き回す。その生き方も、喋り方も、無神経さも、すべて当時の「典型的な若い人」ということなのだろうか。 ちゃっかりしていて打算的、自分の持っている若さでぐいぐい「大人たち」を押し捲っている。 戦後すぐの時期に、漫画の中で「今の若者」として作り上げられたのが、『サザエさん』のカツオ君だと思うのだが、常に「若いもの」は、異質なものとして捉えられているのかな・・と思っていたら、後半になって出てくる小林桂樹の若者はちょっとタイプが違う。結婚している、いないという差ではないだろう。 成瀬三喜男という人は、「いまどきの若者」というステレオタイプを作って、ハイおしまい・・という人ではなさそうだ。 小林桂樹もそうだけど、杉村春子、長岡輝子の若き日の姿を見ることが出来るのも嬉しい限りだ。 経済観念に乏しく、家事は妻に任せっぱなし、いやな事からは逃れたい・・という上原謙の姿を見ながら、独りで見ていて良かった・・と思った。横に妻がいたらうるさかっただろうな。 それにしても、原節子は良い。私如きが、今ごろ何をいうかと言われそうだけど、いいものはいい。『わが青春に悔いなし』『東京物語』しか見ていないで言うけれど。 これからの作品が楽しみだ。じっくり見よう。 どうでもいいことだが、「みきお」と入れて変換すると、ちゃんと「巳喜男」と出る。こういう設定をする人の中にもファンがいるのかな? 関係ないですかね。
2005.09.05
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今日は、久しぶりに大河ドラマを見た。壇ノ浦の戦いだから。 以前(05年5月26日)「みんないい人大河ドラマ」という題で、壇ノ浦の戦いで、義経は自ら船頭を射殺せという命令を出すかどうかを見てみたいと書いた。 自ら、何のためらいもなく命令していた。 しかし、それ以外は、不満だらけだった。なぜこんなに簡単に処理してしまうのか。 いま、「処理」と書いたけれど、まさに「処理」としか言いようがない。 『平家物語』の中の壇ノ浦は、こんなに簡単なものか?なぜ、『平家』を忠実になぞらないのか?『平家』のこの箇所は、その価値と力は十分にあるはずなのに。 話は少々ずれるが(いつもですが)、ソ連版『戦争と平和』を観たときに、映画がトルストイの作品をそっくりなぞっている箇所があることに感動したことがある。 軍旗を持って部隊の先頭を進むアンドレイが、銃弾に倒れる。トルストイは、確かこう書いていたはずだ。 「アンドレイの上には、青い空が広がっていた」。 この時に、カメラは上を向き、スクリーンには青い空が広がっていった。 これぐらいのことはやってほしかった。 ニ回に分けて描いても罰は当たらないぞ。 芳一の琵琶を聞きたさに迷って出た平家の怨霊たちの悔しさとやるせなさは、ついに画面からは伝わってこなかった。阿部寛は知盛を好演していたが。 女たちが熊手で引き揚げられるシーンもなかった。 あれもなかった、これもなかったと、愚痴ばかりになるが、こんなに軽く扱われるとは思わなかった。 ただ、船から飛び込む女たちに対して、飛びこむな!、やめろ!と叫ぶ義経の姿が、大戦末期、サイパン島のバンザイクリフから次々と飛び込む女性たちに対して必死で、「飛び込むな!」とマイクで叫んでいたアメリカ兵の姿が重なってきた。
2005.09.04
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CAIN様の日記を読ませていただき、[常識]ということばについて書いて見たくなった。 「レスビアン」の語源が、レスボス島にある、というのは常識でしょうか?という部分。 実は昨日、「世界一受けたい授業」というなんとも大げさなタイトルの番組を見ていて、ふっとそのことを考えたところだったので。 象とねずみで生きている時間が違うとか、ハツカネズミの心臓の鼓動とかには、ビックリ。脳の反応速度の違いで、縞々の背景の前を黒い四角と白い四角が同時に動いていってもずれて見える・・とかにもビックリした。 最後の、遺伝子型で違うダイエット法・・というところも面白かった。眼からウロコ。 あまりビックリできなかったのが、「日本史」。 新しい発見や発掘で歴史はどんどん書き換えられているという事に、スタジオの皆さんたちがビックリしておられたのが(ビックリして見せるのもお約束かも)、私には逆にビックリだった。 「足利尊氏の肖像」「源頼朝の肖像」と信じられていた絵に対して、疑問が提出されていて・・という話題は、もう十年位前からのこと。 出雲大社が48メートルあったらしいというのも、すでに数年前の発掘で明らかになったことで、NHKでも取り上げられた。 ペリー艦隊を庶民が見物に行った・・ということ、パニックじゃなくて、フィーバーだったというのもその通り。測量するために上陸した水兵たちと交流までしている。 これは、『トリビア』でもそうで、私なんぞがひっくり返って驚くことでも、その道の方にとっては「常識」なのでありますよ。 たとえば、以前、「剣道の試合でガッツポーズをしたために失格になった選手がいた」というネタがあって、驚いたものだが、剣道部の顧問に聞いたら、「そんなん知らんのか」という反応だった。知らないで悪かったね。 逆に、「古代オリンピックでは、選手はみんな全裸で走っていた」なんてのには、「え、こんなん常識じゃないのか」と思ってしまう。 だから、講演会で、「みなさまご存知のように」などと演者が言うと、ははぁ、この人は自分が知ってることはみんな知ってると決めてかかってるんだな・・と、ややひねくれて考える。 自分が知ってることはみんな知ってると思い込む。自分が知らないことはみんな知らないと思い込む。 そこから、「おまえは、常識ってもんがない奴だな」という言葉や、さらに進むと、「そんなことをいうヤツは非国民だ」なんてことになってしまうのかな・・。 論理の飛躍があるけれど。 アメリカは独立すべきだ、との主張をパンフレットにしたトマス・ペインの「コモン・センス」。これは、「常識」と訳される。しかし、「共通感覚」「共通認識」という訳し方もある。私は後者の方が、押し付けがましくなくていいかなと思う。 「常識」という言葉は、なんにしても、プレッシャーを伴う言葉だな。 メンバーズクラブの会員証みたいなところもあるし。
2005.09.04
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午前中、クラブ。少し広いところで、台本を持って動きを工夫したり、照明や音響の「キッカケ」を考える。 廊下を歩いていたら、蝉が死んでいた。転がっている遺体を手に取ると、案に相違してまだ生きていた。かすかに身体を震わせ、脚を動かしている。 稽古を見ている間に、そばにおいてしみじみ眺めるが、自然の造型というものは、なぜこんなに美しいんだろう。特にその羽根の美しさ。 私が持っていた蝉に気がついて、生徒の一人が言い出した。 「なぁなぁ、昨日、蝉食べてた番組見た?」 「探偵ナイトスクープ」。おじさんもちゃんと見ているんだよ。沖縄ではよく食べるようで、どこかの商店街で取材をしていたら、結構、「食べるよ」という人がいる。 依頼者四人と共に蝉取りに行って、何匹か捕まえて、羽をむしってフライパンで炒って食べる。泣き叫ぶ蝉。その声もなんのその、みんな調理をして食べたい、とのたまう。 そのために沖縄まで来たんだから。 感想。 「おいしい」「何か・・エビみたいな味がする」。 依頼者は、「タレントの川平慈英さんが、何かの番組で「蝉は食べますよ。チョコの味がする」と言っていたので食べてみたいと思ったんです」と言っていた。 ただし、職場の沖縄出身の人に、「沖縄では蝉を食べるのか?」と訊ねたら、「そんなもんは食べん!」と怒られたというから、沖縄でも、「悪食」の部類なんだろう。 『奇食珍食』小泉武夫 中公文庫 には、蝉を食べる話が出てくる。小泉さんの飛騨生まれの友人。「ずば抜けて旨かった」味が忘れられず、夏になると蝉を取るためだけに帰省して食べているという。 食べ方。 「生きたままを竹串に連刺しし、囲炉裏の火の上に並べると、先ずペラペラと羽が燃える。次にこれに醤油をつけて焼き、焦げそうになった時、こんどはこれを味醂醤油につけてから、照り焼き気味に焼き上げて食べるのである。香ばしい味がしたが、油蝉だけは独特の臭みがあったような記憶がある。」p20 番組でも、クマゼミが良いと言っていた。 食べる話はこれくらいで。 「蝉羽」といえば、「極めて薄いものや軽いものの喩え」、「蝉紗」といえば、「せみの羽のように薄いきれ」とある。夏ももう終わり。◎ふと踏んで蝉の骸(むくろ)の堅さかな
2005.09.03
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図書館に行って、書棚を眺めていたら、『世にも美しい数学入門』藤原正彦・小川洋子 ちくまプリマー新書 という本が、「読んで」とウインクしてきたので、手にとって少し読み、借り出して全部読んでしまった。 私が、この私が、数学の本を読んでしまった・・。 とまあ、世界の終わりみたいな書き方をしているけれど、面白かった。それも意外だった。 でも、面白くてアタリマエの本なのですね。かたや日本を代表する数学者で、父・新田次郎、母・藤原てい、という家庭で成長した藤原正彦さん。 こなた、『博士の愛した数式』という作品の著者である小川洋子さん。 面白くないわけがない。 「ハミルトンという数学者なんかは、十九歳の時にキャサリンという娘に初恋をして、失恋した。でもずっと思い続けるんですよ。 そして二十六年経ってから、彼女の家のあったところを訪ねる。その時にはもう廃屋になっていた。中に入ると、彼女が二十六年前に立っていた床に黄昏の光が当たっているんですね。 ハミルトンは、そこにひざまずいて口づけをする。 余程変態というかね。でも、数学者としてはよく分かるんですよ。」 藤原氏は言う。恋愛への執着、持続力も、数学に対するそれも同じなのだ、と。 しかしなんだな。変態だからと言って数学者になれるとは限らない。数学者も、全員変態とは・・・???? どーなんだろう。私の周りの数学関係の人は変わった人が多い。 変人の集まりである理科には負けるけど。 閑話休題。 数学は美しい、と断言する氏は、同時に、数学は、役に立たないから素晴らしい、とも言う。ただ、この「役に立たない」は、クセモノで、「美しい数学ほどあとになって役に立つ時がくる」ことが語られる伏線となっている。 いいですね。役に立たない。 役に立つ事ばっかり考えてると、かえって役に立たなくなるというパラドックスは重要だと思う。 江夏の背番号28が「完全数」ということが出てくる。 「完全数」とは、「約数を全部足すと自分自身になる数字」のこと。知らなんだ。 28の約数は、1、2、4、7、14。全部足すと、28! あと、「素数」。ああ、そういえば・・というのや、えっ、そうだったの・・という感想までごちゃ混ぜ。 パイの不思議も面白かった。牌の不思議には散々翻弄されたが。 でも、ずっと読んでいって、最後に来たときに、懐かしくて、「これだっ!」と心の中で叫んだ(何せ職員室で読んでいたので)部分があった。 「一所懸命考えて、補助線を発見して、一気にゴニャゴニャしていたのがパシッといく、あの喜びは比較にならないものです。それが数学をやる人の喜びです。」 そうだ。そうなんだ。中学校の時に私は数学は好きだったんだ。その「好き」の理由の最大のものは、このスッキリ感だったんだ。思い出した。 で、高校に入って最初の中間テストで零点を取って、一気にキライになったんだ。 なーんだ。キライになって損したな。実は数学っていいヤツだったんだ、という事を発見した良い本でした。
2005.09.02
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世界史の授業、最初は、アヘン戦争。 『アヘン戦争』について、知られている事は、以下の事ぐらいだろう。 イギリスは中国から大量の茶を輸入していたが、産業革命で生産の伸びた綿製品は中国では売れず、大量の銀が流出した。 この赤字貿易改善の為に、イギリスは綿製品をインドに売りつけ、インド産のアヘンを中国に輸出した。この結果、中国から大量の銀が流出したため、清は林則徐を広州に派遣して取り締まりに当たらせた。彼はアヘンを没収して廃棄し、今後アヘン貿易を行わないという誓約をイギリス商人に迫った。 アヘン貿易についてはイギリス国内でも批判が強かったが、イギリス政府は自由貿易の実現を唱えて軍隊を派遣、1840年にアヘン戦争となった。 『詳説 世界史』山川出版 この戦争についての最も詳しい本は、陳舜臣さんの『阿片戦争』(講談社文庫)だ。 この本を読んで初めて知った事がある。林則徐は、阿片の取締りを行う前に、イギリスの新聞を取り寄せて翻訳させ、イギリス国内でもアヘン貿易に関しては異論があり、没収措置をとっても戦争にまでは至らないだろうという見通しを立てていたという事だ。 彼は決して闇雲に没収し廃棄したのではなかった。 彼の見通しが外れてしまったのは、イギリス政府が、アヘン云々ではなく「自国民保護」という錦の御旗を押し立てて戦端を開くに至った事だった。 イギリスにおける議論は以下の通り。 パーマストン外相 「清国における英国国民は暴行を受けている。英国の財産は没収された。そして英国政府の代表者は侮辱され、監禁された。 これらの不法行為は、英国をしてその要求が容れられるまで清国と戦わざるをえないようにした。然るに反対者は、政府は阿片貿易について非難さるべきだとか、川鼻で軍事行動をおこして戦争を開始した責任を取るべきだなどと論じておられる。」 与党・マコウレー 「エリオット氏は、包囲された商館のバルコニーに高々と英国旗を掲揚する事を命じた。 その国旗を見て、死せる人々の心もたちまちよみがえった。なぜならそれは、彼らに、敗北も降伏も屈辱も知らぬ国に自分たちが属している事を想起させたからである。」 野党・グラッドストン 「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的な不名誉となる戦争を、私はかつて知らないし、読んだ事もない。今私と意見を異にする紳士は、広東において栄光に満ちてひるがえる英国旗に言及された。 その旗は、悪名高い禁制品の密輸を保護するためにひるがえったのである。 現在中国の沿岸に掲揚されているようにしかその旗がひるがえらないとしたら、我々はまさにそれを見ただけで恐怖を覚え、戦慄せざるをえないであろう。」 票決の結果は、賛成271票、反対262票、僅か9票の小差で戦費支出は承認された。 「邦人保護」の名目で、日本は中国に派兵、現地の日本人会も,政府に派兵を強く働きかけた。これは、阿片戦争の100年後の話だ。 同じような事はもう一つ繰り返されている。 「(支那)事変当時、日本で喰いつめた一旗組が,中国の奥地に流れ込んで,阿片の密売に従事しているものが多かった。彼らは治外法権を盾に日の丸の国旗を掲げて公然と阿片を売っているのである。だから中国人のうちには、日の丸の旗を見て、これが阿片の商標だと間違えているものが少なくなかった。 時々日本の国旗陵辱事件が起こり、外交問題に発展する事があったが、良く調べてみると、中国人はそれを国旗とは知らず、阿片の商標だと思っていたという、まったく笑い話のような滑稽談さえあった。」『日中アヘン戦争』江口圭一 岩波新書 p180 今度は、日の丸の旗が、阿片貿易の為にひるがえったのである。 違うところは、イギリスでは有力な反対論があったところ。日本では反対論などなく、戦後、日本が国策として中国にアヘンを密輸していた事は秘匿されていた事であろう。 イギリスは、中国の扉をこじ開けて、自由貿易を実現するという戦争目的を、「英国民保護」という大義名分で覆って実現した。南京条約を見ればわかる。 ブッシュ大統領は、フセイン政権打倒、石油利権確保という目的を、イラクの大量破壊兵器によってアメリカの安全が脅かされている、と、危機意識を煽って開戦を正当化した。 開戦となったときに、私は授業中に断言した。 「大量破壊兵器はない。アメリカは、イラクが大量破壊兵器を百パーセント持っていないという確証をつかんだから、イラク国内に侵攻した。もしも、侵攻した米兵に対して大量破壊兵器が使用されて多数の死者が出た場合、大統領は責任を問われる。」 なかった。以上は、半分自慢話。 カテリーナが荒らしまわった地域の救援に、イラクに派兵されている州兵達を引き戻せ、という声が出ているという。アタリマエでないかい。 これは、神の声だよ、ブッシュ君。君に聞く耳があればだが。
2005.09.02
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「政経」の当面のテーマは、「IT社会」と設定している。キャッシュカードの問題から入っていったのだが、次は、「いまさら・・」といわれそうなテーマ。 自分の名前入りで書いた文章と、匿名で書いた文章の問題。 自分でブログを開いたり、インターネットの掲示板に書き込みをしたり、他人様のブログに書き込みしたりする時には、大抵が匿名だ。 授業中に書く文章は、普通は実名入り。同一人物が書いた文章であるにもかかわらず、違う場合がある。意識的に変えている人もいる。 メールを使ったイジメが発覚した時に、その文言のひどさに絶句すると同時に、「えっ、この文章、あの子が書いたの・・」という事は、学校現場では最近よくあること。 私は、パソコンを触り始めて、掲示板への書き込みを始めた時、匿名で書いた自分の文章に驚いた。書いた本人がびっくりしているというのもなんとも間抜けな話なのだが、「この文章は私の書いたものではない」という実感があった。 普段使わないような汚い言葉で罵っている自分がいた。文章が暴走している。 その時以来、匿名で書いても、実名で書いているのと同じ気持ちで書こうと努力している。それじゃあ、実名で書けばいいじゃないか・・となるのだけれども、そこはそれ、・・・ご理解ください。 私の場合、長い間、「私が書いた文章は一種類」という世界で暮らしてきた。だから、匿名で書く、という経験をした時に、飛び出してきた文章に対して即座に、「これは違う!」と反応できた。 今の子どもたちはどうなんだろう?かなり初期の段階から、実名と匿名を両方使うという経験を積み重ねている。 匿名で書き込みをした事のある生徒たちに聞いてみたいことがある。 実名で書いた文章と、匿名で書いた文章と、どちらが「本当のあなたの」文章ですか?ということ。 今の社会は、「本当の私」が存在するという前提で動いている。「本当の私」は、一人しかいないという前提で動いている。 キャッシュカードの本人確認もそうだ。行為についての「責任」を問えるのも、行為を行った人物と、責任を取れる人物とが同一であるという前提で成り立っている。 だからこそ、「心神喪失」とか、「乖離」については、責任が問えないという事になってくる。 こんなテーマに始めて切り込んだのは、スティーヴンスン『ジキル博士とハイド氏』ではないかな。人格者として知られ、世間の人たちの尊敬を集めているジキル博士は、実は人に言えないような欲望を心の中に抱えており、それを思う存分果たすために容貌を劇的に変化させる薬を開発してハイド氏に変身する。 ハイド氏は、薬を飲むことでジキル博士に戻る事ができたが、徐々にコントロールが効かなくなってくる。つまり、ちょっと気を抜くと、ハイド氏が出現する・・というハメになってしまう。では、ジキル博士はこの事態にどう対処したか・・・という小説。 実名と匿名、どちらが書きやすいのか?実名と匿名、どちらの文章が本当のあなたの文章なのか? 生徒たちがどう答えてくれるのか楽しみだ。あ、でも、授業中に書く「実名」の文章に、「本音」が出てくるかな・・。
2005.09.02
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生徒の書いてきた脚本の読みあわせをした時に、あれっと思うことがあった。 筋自体は、「ありがち」で、あるクラブが舞台。「やめたい」と言い出した部員がいて、みんなで彼女を説得し、再びみんなで頑張って・・という結末。 読み終わったあとで、雑談に入った時、本を書いた生徒がポツリと言った。 「そう言えば、中学校の時、『やめたい』って言った子がいたけどとめなかったなぁ」。 すると、「あ、私も」という声。 これはどういうことなんだろうか。そういう体験を持っている子が、「やめたいという部員をみんなで引き止める」という設定の芝居を書くとは。 「他人の人生に関わりたくない。関わってほしくもない」と思っているけれど、自分がもしも、「やめる」って言った時に、他の部員たちが何も言ってくれなかったら、それはそれで淋しいんじゃないか。 それとも単純に、今風漫画の筋をなぞっただけか? 「でも」と言った生徒がいた。 「私は、『やめたい』って相談のメールが来たから、『やめたらあかん』って返したけど」。 メールなんだ。 一人がやめたいと言い出した。後の三人はどうするか?全員揃って、「やめるな」と説得するというよりも、「やめれば」という者もいていいんじやないか。「やめるな」って熱く語る(松岡修三みたいに)者もいるだろう。どう言っていいかわからなくておろおろする者もいるだろう・・。 さて、どんな風に直して書いてくるか?楽しみだ。 そう言えば、言ってたな・ 「みんな、いい案があったらメールで送ってきて!」
2005.09.01
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『キャッシュカードが危ない』柳田邦男 文藝春秋 を読む。 「政経」で、「情報は市民社会をどう変えるか」という項目を教えるため。ここでは、「著作権問題」という切り口も、違法画像、迷惑メール、出会い系の問題(「トリビア」で、「お坊さん専用の出会い系サイトがある」というのがあって、緊張してみていたらとてもマジメなものだった)、色々とある。 その一つが、キャッシュカード。これを、「自己責任」という言葉とクロスさせたらどうなるか。 本人の不注意でカードを紛失し、ついでにカードに暗証番号をメモしていた・・といったケースではない、スキミングや盗難にあって引き出された、それも不自然なほどの回数に分けてだったり、深夜といった時間帯でも、日本の銀行は補填はしないできた。 この本を読んで初めて知ったのだが、南アフリカでも、イギリスでもアメリカでも、補填がアタリマエという事だ。 ※南アフリカでも・・というのは正直驚いた。しかし考えてみれば、それがまともなのだ。 カードでの引き出し、銀行の窓口だけでなくコンビニでも引き出せるという状態を作っておきながら、顧客のことを考えなかった。対策が遅れた原因を著者は以下のように指摘する。(1)被害の事実と続発する実態を、各銀行とも秘密にして、銀行内でも業界全体としても、失敗の原因と対策に取り組まなかったこと。(2)犯罪者側の技術の進歩に対して、銀行の問題意識も対応策も、警察の捜査体制も、すべてが追いついていけない状態になっている。それほど、銀行や警察は事態を甘く見ていた。(3)システムの欠陥を利用者の注意(カードの紛失、盗難への注意や暗証番号の決め方)でカバーしようとし、生じた被害についてはすべて利用者の「自己責任」にしてきたこと。 特に悪質なのが、大蔵省が1987年になって、電子マネー時代をみすえて消費者保護を含む法制整備を進めようとしたところ、カードの安全などは各銀行が利用者との約款で決めれば良いと銀行業界の代表が猛烈に反対して法制化を潰したという経過だ。 これによって、欧米の銀行との差がついた。 ロンドンの投資関係の銀行で要職にあった女性のコメントをまとめて紹介しよう。 「日本の銀行は、「カスタマーサービスの向上」って言うけれど、意味合いがずれてる。お客様を並ばせないでソファーに座らせることが「カスタマーサービス」の根本じゃないんですよ。 お金がなくなったときに、どっちに責任があるかをハッキリさせることが、「カスタマーサービス」じゃないかしら。 数年前に、預金通帳盗まれて、印鑑を偽造されて預金が下ろされるという事件が多発したけれど、銀行は、「通帳の管理が悪い」と、ショックを受けている被害者に追い討ちをかける。 銀行がお金を預かっているんだから、簡単な印鑑の偽造くらいでお金を盗まれるなんてのは銀行の責任ですよ。銀行を信用してお金を預けてるんだから、それを守るのは銀行の責任よ。 日本のカード犯罪についての記事を読んでいると、銀行は自分が預かっているお金が盗まれたにもかかわらず、あまりにも当事者意識に欠けてますね。」 被害の実態、銀行の対応、警察の対応が、これでもかというくらい実例を挙げて紹介してある。その大半は、開いた口がふさがらないようなものばかり。 「警察はこういうんですよ、「あんたはお金を盗られていないよ。盗られたのはプラスチックのカード四枚だよ。お金を盗られたのは銀行だから、銀行に被害届けをだしてもらえ」って。 それで銀行にそう言ったら、「何を警察は馬鹿なことを言ってるんですか。ウチは、ATMに本物のカードと暗証番号を入れた人にきちんと払いましたよ。どこがいけないんですか」って。」 銀行に補填を要求してもとりあってくれない。別れ際に質問した。 「あなたの銀行の経営理念はなんですか?」 担当者は、「お客様の立場を一番に考えて行動する企業です」と言ってから、「ちょっと笑った」そうだ。 ちなみに、この本では、金融機関は、また警察も、すべて実名で記してある。 銀行のこの態度。それを受け入れた政府。 こんな「民」に、虎の子の金を任せられるのか?
2005.09.01
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