マイケル・ウオルツアーという人の論によれば「正しい戦争と不正な戦争がある」そうです。戦争は全て悪、と思っていた私はびっくり。それによれば、始めた根拠と戦いかた。たとえ戦争といえどもやっていけないことがある、と。
☆ウォルツァーの『正しい戦争不正な戦争』は、図書館にはありませんでしたが、『国を愛するという事』という本の中に、彼の文章がありますから、借りて読んでみます。
彼は、「戦争がある」という現実の中で、戦争であろうとやっていいことと悪いことがあるという事を考えたいのでしょうか?(推測)
ただ、第一次世界大戦が終了した時点で、戦争が引き起こす惨禍が、それによって獲得できたものと比べてあまりに大きすぎるという点から「戦争の違法化」が進みます。「パリ不戦条約」です。「国際紛争解決の手段として戦争に訴えない」という九条第一項の原理はここにあり、日本も批准しています。
一方で、それでも起こりうる戦争に対処するために「戦時国際法」の整備も進められていきます。刀折れ矢尽きた時点で降伏して捕虜となる、そして捕虜を人道的に扱い、捕虜のために支出した金額は停戦ののちに相殺することもその一項で、「戦陣訓」は、その点からも道に外れたものであり、御当人が捕虜となるという二重の恥を曝したわけです。
たとえば、武器に関しても、対人地雷、生物化学兵器の使用禁止など広範にわたっています。
また、「空戦法規」のなかの「軍用機」の規定は、以下のようになっています。「軍用機は全方位から視認できる軍用の外部表式と単一の国籍を有し、軍人が操縦する航空機であり、これだけに交戦権の行使が容認される。非軍用機は交戦権が認められず、どのような敵対行為も禁止される。空襲は非戦闘員保護の観点から軍事目標、すなわちその破壊が交戦国に明確に軍事的利益をもたらす目標に限定される」
となると、昨今話題となっている「無人爆撃機」は、明白な国際法違反という事になります。また、東京大空襲のような無差別爆撃も国際法違反となります。ウォルツァーが、自国のそのような行動を告発しているのかどうか見てみたいと思っています。戦争自体を違法とする流れの中で、「戦時国際法」という呼称も、「国際人道法」と変更されるという動きもあるようです。
ウォルツァーの本を読んでみなければわかりませんが、戦争の裏側、実態を見れば、それが「勝利」を目的としている以上、「正しさ」にこだわる点で必ず矛盾が生じるように思います。
東洋的には「戦わずして勝つ」という言葉があり、それが最高のリーダーの証、とされています。
明治から昭和という時代、こうした倫理観が西欧化の波におされて流された。まさに激動の時代においてこそ、倫理は思考の柱になるべきだった。にもかかわらず、経済成長のみを目標にして、軍部の台頭を許してしまった。
そして、根拠のない戦争で、国民のみならず他国にも甚大な被害を与えてしまった。
東京裁判の理不尽さは、この倫理なき戦争に対する断罪、ということでしょうか。
☆「闘わずして勝つ」を最上としているのは『孫子』ですが、そのなかに、御存じであると思いますが「敵を知り、己を知らば百戦危からず」という一文があります。そして、「敵を知らず、己をしらざれば戦うごとに危うし」と続きます。
希望的観測を積み重ね、それまでの「勝利体験」のみにおぼれ、本当の意味で「総力戦」を研究しなかった結果があの惨敗であり、サイパン陥落の時点で降伏をしていればまだましだったものをその後も無謀な戦いを続けて兵を餓死させ、無差別爆撃で民間人から多数の死者をだし、沖縄戦という悲惨な状況を生み出した。広島も長崎も、満州移民の人たちの悲劇もなかったでしょう。
で、決断も出来ないような愚将達を「昭和殉難者」として靖国に祀る。そこに議員が参拝する。そういう議員に投票し、多数派を与える。よくよく反省も何もない健忘症の国民です。
東京裁判の理不尽さは、勝者のやったこと(原爆の使用、都市への無差別爆撃等)を裁きの対象としなかった点に尽きると思います。ただ、そのことによって日本軍のやったことが免罪されるとは思いません。
「国民は手をこまねき首を垂れるのみ」という一文は、原発再開、消費税率の引き上げにおいて、さらに自衛権問題において、じらされているいまの状況とかぶります。
なにかの亡霊にとりつかれているのは、米中露だけではなさそうです。
それは、 (2014.11.09 11:08:32)
☆新聞のていたらくは目を覆うばかりです。ここにも反省のなさを感じます。マスコミの中枢にいる人たちが政府要人と何度も会食をしていることが報じられています。御用機関紙となり下がるのももっともでしょうか。
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MoMo太郎009さん
つるひめ2004さんComments