多重債務者の交差点

多重債務者の交差点

(16)S.弘の場合 


お礼奉公の形で配属先◯病院に4年、親元を離れて暮らしていました。
夢に描いた看護の世界は現実と違い、まさしく戦場でした。
お礼奉公をあと1年のこす頃、私は9つ違いの◯と知り合い、
平成7年4月10日20才の誕生日をまって入籍したのです。
当時、◯建設会社に勤める◯の収入は安定しており、
お金に関する問題は皆無でした。
周囲からみれば裕福にみえたのでしょうか、学生時代の◯から一本の電話がありました。
お金のことでしたが、私は二つ返事で10万円を貸したのです。
しかし約束は守れず5万円を残したまま音信不通となりました。
借りる人、貸す人、いろんな人生のなかで私たちの友情はやぶれ、
そして◯と同じ道がこの先、私にあったとは想像もしないことでした。

平成8年8月15日、夏真っ盛りのなかで長男、1年後の8月8日長女を生みました。
家計は不自由なく、
どうせならと、狭い二間のアパートを引き払い念願だった我が家を建てることにしたのです。
平成9年7月28日契約。
◯名義。
鹿児島県◯組合借入金1.800万円。
月の返済94.206円は順調でした。
でも誤算があったのです。
私は産後、2人の子がいては働けません。
家計のやりくりは少しずつほころび始めました。
こんな時、◯は◯建に不振を抱き退職、平成10年7月独立したのです。
屋号を長男の◯をとって◯建設としました。
それは2代に栄華、◯の夢と愛だったのです。
だが自己資金なしでの◯建設は火の車、仕事のない日が続いたのです。
経営者にもかかわらず数ヶ月もの無収入は家計を圧迫、食代にも事欠くようになりました。
マイホームと独立が両立しなかったのです。
働けない私が生活にこまり、
家庭と◯建設をたすけるため安易に消費者金融を考えることは当然です。
気がつけば、平成11年頃から始まった借金先は私名義だけで13社、
負債額488万円を超えるものでした。

現在、私名義488万円、夫名義2.200万円。
2人で月40万円の支払です。
1ヶ月の生活費25万円を足すと最低65万円なければやっていけません。
にもかかわらず◯建設からもらえる収入は20万円がいいとこです。
これでは生きていけません。
ポストに届く督促状、債権移管通告書、訴訟予告通知書の郵便物はものをいいませんが、
平成15年◯月24日、◯富士の大声による取立て、そして子供らは46時中、
債権者からの電話ベルに怯えノイローゼ状態になってしまったのです。
私らはいつもカーテンっを閉め扇風機もかけずジメジメした部屋でビクビクしています。
なんのためのマイホームだったんでしょうか。
夢と現実の狭間に立たされ、このままでは学校入学も危うく、もはや一家心中が胸をよぎります。
幼い次男を抱え仕事ができない私に月40万円支払のやりくりは絶不可能です。
◯建設を潰さずなんとか乗り切るために私だけ自己破産しかないのでは、が答でした。
もちろんこれで整理つくほど甘くないのは承知ですが、夫とは真剣に話し合った結果です。
これから先の全ては◯建設によりますが、
ともかく将来を見越しプラス思考のつもりで私は自己破産申立を決意しました。

(その後、彼女の安否が途絶え・・・・・)

  (16) S.弘の場合 終わり

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