2-63 ありがとう、先輩



ベッドの上から、有芯は下に落ちている自分のジーンズに手を伸ばした。ポケットの中で携帯が鳴っているのだ。

心配した母親が電話してきたのかと思ったが、見るとエミからだったので彼はサイレントボタンを押すと携帯を放り投げ、隣で実家に電話している朝子を背中から抱き締めた。有芯が唇で髪を掻き分け舌でうなじをなぞると、腕に抱いている朝子の素肌がぴくりと震えた。

「今日、いちひとを泊めてあげて。・・・・・ごめんなさい。体調が悪いの。・・・お願いします」

朝子が電話を切るなり、有芯は彼女にキスをし、2人はベッドに倒れこんだ。彼女の手から携帯が落ち、その手が九州にいた頃から更に伸びた有芯の髪を梳く。

「・・・朝子」

有芯は心の中の未練がましい気持ちを必死に振り切ろうと、夢中で朝子を求めた。何度も何度も飽きるほど抱き合って、浴びるほどキスし合って、そして―――俺は朝子を忘れればいい。それが俺たちの終着点なんだ。

「・・・そんなにがっつかなくても、大丈夫よ。私・・・どこにも行かないから」

朝子の言葉に、有芯は答えることができなかった。

俺はそんな優しい嘘なんていらない。

「有芯、朝まで、一緒にいて。・・・・・お願い」

朝になったら、お前は家へ帰っていくんじゃないか―――。

有芯は欲望のまま動く獣のように、ただひたすら朝子を突き続けた。

またあの日のように、一人取り残されるのだと思うと寂しくて悲しくて仕方がなかった。

朝子を嫌いになってしまいたいと思う。憎んで憎んで、忘れられればいいとも思う。

それなのに、自分の身体に必死でしがみついてくる朝子が、抱いても抱いても愛しくて大切で仕方がない。嫌いになんて―――忘れるなんて、俺にはまだできない。

しかしそれでも・・・俺は。

セックスの後、朝子を抱き締めながら、有芯はふと思った。そういえば今日の朝子はどこか変だ。子供をとても大事にしているはずなのに、預けて俺の側にいるなんて。

しかし有芯は考え直した。・・・いや。以前も朝子は俺に会うために子供を預けて九州に来たじゃないか。別に不思議がるほどのことでもないか・・・。

彼の腕の中で乱れた呼吸を整えながら、朝子が言った。

「・・・・・ごめんね」

「何で謝るんだ?」

「・・・だって・・・引き止めちゃって」

有芯は朝子の汗ばんだ肩を強く抱き締めた。「良かったよ」

「え・・・?」

「お前を最後に抱けてよかった」

「・・・・・最、後」

朝子は有芯の言葉を反芻し目の前が真っ暗になるのを感じたが、必死に自分を納得させた。違うわ、有芯は私を愛してくれているもの。最後なんて、そんなのあるわけない―――。

そんな朝子の心中を知らずに、有芯は朝子を見据えゆっくりと言った。

「やっと決心がついた。俺、劇団をやろうと思うんだ」

朝子は思ってもみなかった言葉に唖然とした。「劇団・・・・・」

「夢の第一歩、ってとこかな。今までよりもっと貧乏になるけど、俺、辛くはないから」

そう言う有芯は、朝子が見たこともないほどすっきりした顔立ちをしていて、朝子は知らずにその横顔に見入っていた。

「それから・・・・・これ」

有芯は朝子の手に、小さな金属片を乗せた。それは、九州で有芯と朝子を結びつけたあの三日月ピアスだった。

有芯は苦笑した。「すごく遅くなったけど・・・返しとく。いつまでも10年前の女に縛られている場合じゃないからな」

朝子は手のひらで光るピアスを凝視したまま、すぐには言葉が出なかった。言葉よりも先に泣き出しそうだった。しかし、彼が高校時代、どれだけ演劇を愛していたかを、彼女は誰よりもよく知っていた。応援してあげなくちゃ。私は・・・・・私は、有芯の先輩だもの・・・・・。

朝子はにっこり笑った。なるべく明るく、有芯の重荷にならないように。

「そっかぁ。頑張ってよ、有芯! 挫折なんかしたら承知しないから!!」

「ああ。・・・先輩もな!」

有芯は微笑んだ。ありがとう、先輩。笑ってくれて。

幸せになってくれ。そうなれば俺は本当に前を向ける―――。




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