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(ネットが極めて不安定!! 今のうちに書いちゃおう、)
今週の週報から、
体の声が聞こえる
自分の身体は自分の好きなようにすると言う者がいるが、思い違いもいいところだ。「生きているのはわたしではない、キリスト」なのです。
2013年6月2日 抜粋で
わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、 生きているのである。(ガラテヤ 2:20)
ならば「食べること」は、自分ではないキリストが食事するということです。
先日、 主のために食べる、主のために食べない で、
を見たけど、これの究極は、ローマ14:6 食べる人は主のために食べる。
神に感謝しているからです。
また、食べない人も、主のために食べない。
そして、神に感謝しているのです。
自分のために生きるのではなく、
主のために生きること、
これ、かっこいいんだけど、
自分的にはいまいちよくわからない、
自分のために生きているんでなかったら、
自分の存在価値そのものがないじゃん!?
ただ、 ソーは言うものの、 思うのは、
これまで、野口さんの本などを通して、
自分の”意識”がもたらす弊害が、かなりわかってきた、筋肉は意識で動くようにはできていない、
イメージによって、自動的に動くのだ、
随意筋、不随意筋という名称のいかがわしさよ!
(そんなものは最初からないのだ、)
体を、(意識によって)訓練すると言う
傲慢な発想をやめよ!
体に貞け、
特に、
上体ぶら下げ(前屈)の例え(意識を使わず、重さで)は、
体験できて、わかりやすかった、
そこから類推すると、
自分のために生きるとは、自分の意識で生きると、
読み替えてもいいのかもしれない、そもそも、自意識は自分のことしか考えないし、
そして、この意識に、
かなり問題があることが判明してくると、(野口さん流に言うなら、)
”からだに貞く”、 (あるいは、 ”重さに貞く”、)
と言う生き方があっていいのかも、
これは、先日の、同性結婚問題やら、
慰安婦問題を見るときに、欠かせない視点でもあると思う、ーー> 主体は誰なのか?
自意識で生きようとしたり、考えたりするのは、
ソー言うわけで、
主のために生きる、
(あるいは他者のために生きる)と言うのは、
自分的には、まだはっきりと肯定はできないものの、
どこか、調和がずれソーだな、 と言うのは感じるわけで、
主のために生きる、
とまでは行かないまでも、
”からだに貞く”と言う態度、姿勢は、
今後、強めていこうと思っている、
大師匠(野口さん)の要約の部分を再掲、
*先ほど、この”重さ”のところに、
”(神様の)愛”を入れて読み代えてみたのだけど、何気に、文章に違和感がなかったのは、
両者とも、目には見えないけれど、実在するが故かしら、
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