「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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Supica's room
祈り
東京は雨になった。
雨粒が流れ星のように線を散りばめ、街の空はバラバラに刻まれ、ビルの灯は弾かれたように錯綜した。断末魔を上げるように地平線に沈みかけていた陽の光は瞬く間に雨雲に侵食され、かき消された。街を歩く人々は突然の夕立に驚き、建物の中へ駆け込んだ。電気を帯びた雨粒は互いに惹かれあい、地上へ到達するまでに巨大な塊となって降り注いでいる。彼らは彼らなりの音を持ち、存在を示すかのように、死の瞬間にその音を奏でる。「一瞬よりはいくらか長い間」、彼らの存在。
丸眼鏡の老人はいつものように窓辺に佇み、窓の向こうを眺めている。
音は次第に激しさを増し、街を埋め尽くしていった。縦横無尽に音は反射し、時には衝突し、街の騒音さえも奪い去って行った。人々はあまりの雨の量に言葉を忘れ、窓の向こうに起こりつつある、新たな景色を眺めずにはいられなかった。雨は言葉さえも刈り取って行ったのだ。
雨雲はしたたかな狡猾さを保持していた。人々が雨に目を奪われている間にも、雨雲は着々と計画を進め、月の光を既に摘み取っていた。それは彼にしてみればとても容易なことであった。暗澹たる深みを帯びた雨雲を止める者はもはや誰もいなくなったのだ。雨雲は再び勢いよく身体を震わせ、街の暗渠を溢れさせた。
東京の灯は、時折、訴えるように点滅し、空間に滲んでいった。そして堰を切ったように、所々で色の氾濫が起こり始めた。人の唯一の受動的機関である眼球に飛び込むそれらの色は、今まで保障されていた境界線を自ら切り取り、ペニスの拘束具を外された少年たちのように激しくまぐわっていた。雨は降り続ける。
祈り。男はひとり祈っている。果てしなき自らの無信仰さを嘆くように、そしてなにより自らに帰結される救いのために祈らずにはいられなかった。窓辺に跪き、降り注ぐ雨に向かって、そしてその向こうに鷹揚と佇む雨雲に向かって男は祈った。生温かい水に浸るような感覚の中で、男の身体は静かに侵されていった。
男は、何も拒まない。
男は、何も望まない。
ひたすら祈り続ける懺悔の中で、これまでの後悔の連続でしかなかった人生を回顧し、いくつもの慚愧の念を心の内側に宿しては、陋劣な自らの魂を蔑んだ。祈りの中に生まれる、真実の祈りのみが、男の傷ついた魂を春の暖かな風が身体を撫でるように救った。男は内なる神に向かって、ひたすら祈り続けたのである。それは、濁った光を放ち、混濁した色を持つ不確かな球を、清らかな川に一つ一つ丁寧に流すような作業だった。しかし、男は球を流すごとに、魂の肉がボロボロと零れてしまっている感覚をも覚えた。それでもなお、祈りは、やはり、「救い」であった。
皮膚の感覚が空間に溶け込んでいくのを男は感じた。綺麗に折りたためられた男の足は、次第に痺れるような痛痒を忘れ、床に太い感覚の根をはり、一体化した。男は一体化すると同時に、周りにある空間をも感覚化することができた。窓からの灯の光さえも雨に根こそぎ刈り取られた男の部屋には、全ての家具が壁の中へと身を潜めてしまったような存在無き静寂と、身体に纏わりつくような夏の湿気で溢れかえっていた。
しばらくすると、男とは全く別の男が身体の中で目覚めるのを感じた。それは、いくつもの祈りからのポリフォニー的な集合体のようでもあった。男が「別の男」に気づくのと同時に、「別の男」はすぐさま行動を起こした。まず始めに胸の前に組まれていた両手を解いた。両の手は手の甲を見せたまま上がり、眼球の前で停まった。そして、ゆっくりと爪がひしゃげていった。終には床にぽとり、ぽとりと落ちてしまった。そこには身体の自律的自立が見られた。自らの身体が、自らの身体から独立して旅立っていくことを男は理解した。そこに、男は巣立ちを迎える子を見送る親のような気分を味わった。爪が落ちると、次は髪の毛がパラパラと堕ちていった。男の身体に細くなった髪の毛が散乱し、それを眼球のみが把握していた。男にはまだ完全に理解はできていない。しかし、「別の男」は行動を続ける。彼は男の身体の中で立ち上がり、男の内側を手のひらで優しく慰撫しながら観察した。「別の男」が臓器に触れる度に、男はひんやりとした氷柱を身体に当てられているような感覚を覚えた。「別の男」の指は愛撫のように身体を這い回り、脳の筋を駈け、性器を弄び、男はいつしかした。
男は懸命に祈りを続ける。自らの中に浮き彫りにされつつある、別の存在を男は無視することはできない。できることなら、今にでも身体をかきむしり、皮膚を滅茶苦茶に破いて、もう一人の首根っこを捕まえて身体の外へ引きずり出してやりたい。しかし、それはできない。
男は全てを受け入れる。
東京の雨は未だに降り続いている。窓の隙間からは雨の匂いが入り込み、男の額をじわりじわりと濡らしていく。パタパタとなっていた雨の軽い音は、小太鼓のような音へと変わり、激しく、無差別に特攻してくる。雄大な雨雲はさらに身体を増やし、街の全てを覆った。陽の光をこれほどまでに完全に奪われた人々は、もしかしたら明日がもう訪れないのかもしれない、という一抹の不安もよぎっていた。少なからずの者がそう思ったのは確かである。
雨雲の身体に一閃の光が瞬く。そして、大気を駆け巡り、高層ビルの避雷針に落ちた。数秒後に激しい落雷の音が街を震わせた。地面も微かに揺れた。
テレビの画面には、二十三区の大雨洪水警報が流れ、顔無きアナウンサーは落雷への注意を呼びかけている。視聴者は、これも、今までのように過ぎることに過ぎない、と思っていた。
その後も、落雷は続いた。一筋の光も見えない、完全なる闇に覆われた空が、その度に真っ白になった。無の景色の連続が、人々をさらに不安がらせたことは言うまでも無い。
男は雨の音の中で濡れていく自分の身体を眺めていた。濡れた股の間からは白い液体が溢れ、男の綺麗に剃られた足を伝い、地面へと流れていった。ぼんやりと幽かに揺らめく電灯の光が、唯一、男を加護するものだった。男は光の下で永い間、必死に祈り続けた。誰もいない町の中で、男は祈ったのだ。風は強く、激しい雨粒とともに何度も男に衝突した。凍りつくほどの冷たさを帯びたそれらの雫は、男の身体の根幹へと向けて、進行を続けた。男の魂は既に祈りと虚構と神によって満たされていた。
その頃、「別の男」は部屋の窓から雨を眺めていた。黒板消しで文字を消すように、東京の光は未だに無いものとされていた。「別の男」は窓に手を当てて、曇り始めたガラスを拭いた。水滴が付いた手からはポタポタと雫が堕ち、それは横たわっている男の身体に吸い込まれていった。男は安らかな眠りを続けながら、激しい歯ぎしりを繰り返していた。
「楽しいときは、ものすごく悲しいよ。」
「その裏と表の間にある反発する障壁みたいなものが魂なんじゃないのかなあ。」
「人と人との出逢いも、ことばも、すべて衝突。激しければ激しいほど、私たちは衝突し、それらの与える影響が強いほど、私たちの存在は色濃く残る。」
「歴史なんて、人々の涙痕。笑った言葉は空へと吸い込まれて何も残らないけれど、哀しい出来事はちゃんと地面に遺される。私たちはその道を歩むだけ。」
男から零れ堕ちた爪の破片から、小さな赤子が十匹生まれた。彼らは泣くこともせず、当たり前のように立ち上がり、「別の男」を取り囲んだ。「別の男」からはそれらに気づく様子も、気にかける様子もまったくうかがえない。どこかからアブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。雨音からも独立した、甲高い夏の音が男の耳へと滑りこんでいく。十匹の赤子は男に向かってお辞儀をした。それは、生贄のために頭を差し出す儀式のようだった。「別の男」はそれらを始めて一瞥し、ゆっくりと部屋の奥の方へと振り返った。そして、「別の男」は雨に濡れた片手をおもむろにあげ、左目の前へと持っていき、眼球と眼窩の間に指を入れて、左目をくりぬいた。
電灯の光の下、男は跪いた。左目を必死に抑え、容赦のない量の雨に打ちひしがれていた。男は忘れかけていた空っぽな祈りの空っぽな言葉を幾度も叫び、空虚な眼窩を何度も指で探った。左目は完全に無くなっていた。そして、男は虚妄でしかない言葉の祈りを叫んだことに気づいた。その瞬間、男の魂にまっ黒な気味の悪い不明瞭な透明感を持つ液体が、注ぎ込まれた。男の中で行われていた「球を還す業」は終わりを告げ、その穢れ無き清流は、あっという間に死の川へと変貌した。男は球を投げ捨て、やはり、空っぽの祈りの言葉を叫んだ。それだけしか、男にできることは無かった。言葉は全て、川へと流されていった。
雨雲は地平線までも支配したわけではなかった。地上と空の間にはオレンジ色の靄が浮かび、煙のような幻が漂っていた。綻びが見え始めたのである。落雷は数を増し、空は何度もまっ白に光った。そこには無が溢れていた。その瞬間的な無をいくらか長く見つめようと、人々は窓を見つめていた。そして、人々は自身が他人と同じように空の何もかも吸い込んでしまいそうな雨雲の一点に目を奪われてしまっていることに、気づかなかった。人々が見つめる先には、さらなる深みを帯びた得体のしれない闇があった。そこにあるのは貪婪なる虚構だった。雨雲は、綻びを気にすることなく、盛んに雨を落とした。まるで彼の存在はそれのみであることを理解しているように。
敬虔なる祈りを捨て去った男は、ひとり空っぽの魂の中へと入って行った。そこには雨は降っていない。顔の無い神なる存在が犇めいているだけである。ただ、それはもはや救いではない。
「別の男」は赤子の頭を一人一人優しく撫でていた。爪の無い手で、頭から浮き出る血管をなぞりながら、時には首筋をも撫で、赤子を確認していた。赤子はぴくりとも動かなかった。ただ彼らは頭を「別の男」に向けて固まっているだけである。彼らの線がはっきりと付いた小さな腕は胸の前で交差され、両の手は握り合っている。眼球の浮き出た瞼はしっかりと閉じられ、口も真一文字に閉じられている。「別の男」は十回の愛撫を丁寧にやり遂げた。舐めるような指使いは、赤子の肌をぐにゃぐにゃにほぐした。そして、「別の男」はポケットからライターを取り出し、赤子の堅く握られた両の手に火を点けた。始めは赤子の胸の前でランタンのように淡く光り、その後、真っ赤な炎を噴き出して、一瞬にして赤子を包み込んだ。赤子はその間も微動だにせず、炎が燃え尽きると、灰の塊となってその場に崩れ落ちた。「別の男」はその行為を先ほどと同じように十回繰り返し、赤子の灰を新聞紙にかき集めた。赤子のいた床には焦げひとつ無かった。
窓が激しく叩かれた。「別の男」は振り返り、窓を叩いているのが雹であることに気づいた。彼らはラッパを持った突撃隊のように辺りに音を轟かせながら、男の部屋に目がけて飛び込んできた。空間を切り裂くような音が何度も起こり、その度に窓のガラスに皹が入った。「別の男」は窓と灰の間に立ち、窓に弾かれる雹を見つめた。雨はいつの間に雹に変わったのだろうか。
顔の無い神々は男に向かって言葉を投げかけた。彼らの口は一度も動くことなく、迷い込んだ子羊に近い男に向かって彼らは言葉を投げかけたのだ。神々は互いに祈りの言葉を言い合い、互いを敬い、互いを卑下した。恐れおののいた男は神々の足元で、再び言葉を叫び始めた。そうして、光が男を包んだ。
雨雲の深奥なる一点は、妊婦のように膨らみ、何かを産み落としそうであった。人々はそこを凝視していた。全ての視線が、引力に引きつけられるように、そこに集中していた。
人々の眼は眩んだ。強い光が、空だけでなく、全ての空間を真っ白にした。眼を焼き尽くすような瞬光は、雨の音も、匂いも、感触も、消し去った。まるで、そこの「時」だけあからさまに無かったことにするように。しかし、実際にはその瞬間は確実に存在し、たった一つ、現象が起こっていた。光が降り注いだとき、「別の男」の窓ガラスは一面粉々に崩壊し、無数の破片は身体へと突き刺さった。そして、「別の男」の身体が吹き飛ばされるのと同時に、一羽の鳩が灰の中から起き上がり、真っ白な窓の向こうへと飛び去っていった。
「完全なる人間像は自由主義に許されるの。」とアキは言った。強い汗の臭いを含んだ黄ばんだTシャツを洗濯機に放り込んで、私はアキのいるリビングへと振り返った。アキはコーヒーカップをスプーンでくるくる回し、どこか遠くを見るような眼でテレビを観ていた。私は残りの汚れた衣類と洗剤を入れて、ボタンを押し、来た道を戻ってアキの隣に座った。
「完全なる人間像は自由主義には許されない。完全なる人間像が許されるのは、固定化された社会だけだ。共産主義とか社会主義とかね。」と私は言った。
「なら自由主義のこの国の中で、何になるかわからない私は何になればいいの。もう一人の私をひたすら真似して、完全なる私になればいいのかしら。どうしたらいいかわからないの。」
「気にする事ないさ。大学に入ってやりたいことが決まっているやつなんて一握りだけ。大学なんて惰性と、義務感に溢れた施設でしかない。適当に授業でて、適当に単位もらえて、適当に就職できたやつらが勝ち組で、なんだか分らないけど真面目に考え腐ってしまったやつらが負け組。」
彼女はスプーンを止めて、両手を祈りのように顔の前で組んだ。そして、両腕の間に顔を埋めた。
「違うの。そんな状況的なことを言っているわけではないの。本当に、何をすればいいのか分からないのよ。何をする気も起きないの。ただ、私はひたすら祈りたいだけなの。それも、特定の神様とか、偶像とか、現人神様とかにではなくてね、私の魂に向かって祈りを高めてみたい。そんな祈りのことを考えているとね、大学の授業に出るよりも、遥かに大切なことが、祈る時間が、共にどこかへ流れ去ってしまっているみたいで、とても哀しいの。私はもう前にも進めないし、後ろにも下がれない。だから、そんなとき、完全なる人間像があったらとても楽だなあ、って思ったの。」とアキは言った。
「本当の祈りってのは金にならないからね。」と私は言った。ただ、それしか言うべき言葉が無かった。思いつきで発せられた言葉は簡単に壁へと吸い込まれていった。
「祈りの職業も、やっぱりお金が無いとやってはいけないものね。でも、そんな団体に入って無意味な禁欲をするのも酷くばかばかしいわ。だって、何一つやってはいけないことを我慢して生きてきた人のする純粋な祈りよりも、道なき人生を無理やり歩んできた悪人の祈りの方が、とても高潔で高いレヴェルにいるような気がする。だから、祈りだけをしたいわけでもないの。私が今したいのはね、高い祈りに通じるほどの苦しみを、浴びるように味わいたいのよ。それは、物理的な苦しみって言うよりも、ものすごく内面的な痛みを感じたい。ただ、それがどうすれば良いのかわからなのよ。苦しみってとても受動的なものでしょ。司法試験に向けて勉強する苦しみっていう類ではなくて、祈ることによって苦しみ、同時に祈ることによって救われたい。」
アキは顔をあげて、こちらを見た。綺麗にセットされたボブに近い髪型が少し崩れている。少し釣り上った大きな目には溢れんばかりのどうしようもない思いをいっぱいに詰め て、私ではない誰かを見ている。
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