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正月、久しぶりに我が家ではテレビがつけっぱなされていた。普段、私はほとんどテレビをつけない。ここ数年、ずっとそう。インターネットと新聞で、大概世間にはついていけるし、娯楽としては忙しくてほとんど見る時間が無し。子どもたちには、見たい(見せてもよさそうな)番組だけを録画しておいて、再生して終わったら消す、という具合にしている。テレビ嫌いか、といわれたら、「あんまり好きではない」と答えておこう。嫌いとは言い切れない理由あり。実は私は筋金入りの「テレビっ子」なのだ。ただし、テレビを見てきた量ではない。視聴時間で言えば、翌朝学校での話題についてける程度のいわゆる普通の家庭のテレビ接触率だったと思う。実は私の親はテレビ局勤務だった。だから、私は生まれてから、親元を離れるまで、テレビ局からいただいたお金で育った。それだけでは飽き足らず、自分もテレビ局に勤めることになった。テレビ局からの給料で一人暮らしをしていた。で、とどめに夫もテレビ局勤務。テレビ局からの給料で、日々生活している。まさに、家も、食べ物も、体もテレビ局がらみのお金で出来上がっている。そんなこんなで、私は普通の人よりかなり、テレビに近しい人間であることは間違いない。ドキュメンタリーを編集している父、たまにニュースを読むアナウンサーの後ろに映りこむ父。父の仕事のせいで、茶の間から見るテレビだけでなく、その向こう側、つまりは作る側の世界を意識せざるをえなかった。そして、寿司屋の息子が外でまずい寿司を食べられないように、必然的に、テレビ番組も「ちゃんと作られているものを選ぶ」というようになっていったような気がする。子どもの頃、父がテレビ局勤務といえば、「華やかな仕事だね」と毎回言われた。まだまだ、テレビが茶の間の支配力を持っていた時代世間の「ギョーカイ」のイメージは確かにそうだった。でも、私の中ではまったく違った。夜勤、泊まりを繰り返す父、そして結局は不眠症になり、製作の現場からも離れることになった。それでもなお、将来の進路を考える段になり、テレビ局で働くことを考えてしまった私。いわゆるギョーカイにあこがれていたのでは、もちろんない。まだ見ぬ世間の津々浦々に、人一倍の興味を押さえきれなかった若かりし自分と、「何かを伝える」ために存在する身近にあったテレビという世界。どうしても、そこが結びついてしまって、気がつくとテレビ局の片隅で働いていた。結局、番組制作のディレクターとしては、どこの局でも採用されず、とある番組の制作現場での種々の雑用をこなす仕事に就いた。番組はアジアの人々の生活を描き出すドキュメンタリー。初めて本格的な番組作りを目の当たりにして、それはもう楽しくてしょうがなかった。テレビ番組が作り上げられていく過程、それは右から左へただ伝えるということとはもちろんまったく異なるもので、それは、テレビという道具を使った、ひとつの「ものがたり」紡ぎともいえる作業だった。映像はその「ものがたり」を伝える道具で、見るものにいかにそれを伝えるか、にすべてが注がれる。そもそも、テレビとは見ている側からすれば、すべて架空のもの、しいて言えば「映像」としての実体しかない。ただ、その向こうに、確実に何か生々しい実体を感じられる、そこがテレビ番組の素晴らしいところ。そして、それを実現するための、気の遠くなるほどの作業。何かを伝えるための膨大な量の取材、検討に検討を重ねた編集その他の作業を真近で見て、「ああ、自分には気力、体力的に無理だな」と思った私。ただ、残念ながら、すべての番組が、そうであるかといえば、そうではないのは明らか。ほとんどの番組は、時間、予算、その他の多くの制約の中で、放送枠を埋めるべく、量産的に作られているものばかり。それでも、テレビならではの素晴らしい世界を見せてくれるものや、どこかの遠くの、決して出会うことがなかったであろう人からの、メッセージを伝えてくれる番組に出会うことは、確実にある。まあ、人の出会いと同じで、なかなかチャンスに恵まれるのも難しいのだけれど。というわけで、私にとって、テレビはつけっぱなして見るものでも、BGMとして流しておくものでも(もちろんそういう見方もアリだと思うけど)なくて、いい番組との出会い!がすべて。どうやって、それを見つけるか、それは視聴者にゆだねられているので、「賢い視聴者」にならなくては。それが、お世話になりっぱなしの、テレビへの恩返し?になるのかな。
2008年01月07日
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今年も明けました。気分を変えるため、ミクシィの日記からこちらに引越し。あんまり細々なので、いっそミクシィごと辞めようか、とも考えながら、やっぱり何とか踏みとどまり。ミクシィに誘われて2年近くになるのだけれど、ずーっと違和感が。記録としての「日記」も、それなりに必要だけど、やっぱり他の理由で、私は書きたい。だけど、それが出来ない。理由は自分では思い当たってる。いわゆる「日記」を書きたいと思う時はすんなりパソコンに向かえる。だけど、本当に書きたいことがある時は、これがうまくいかない。そして厄介なことにその「書きたい」気持ちの行き場は今のところ見つかっておらず、結果自分の中の引き出しがまた埋まる。何で書けないのか。つまりは、怖れから。書くことによって、誰かを確実に傷つけるんだろな、というそれ。そんなに恐ろしいことばかり(笑)、考えているわけではないのだが、小さな引っ掛かりが、幾日かの時間を経て自分の中で形を成してきたとき、やっぱりそれはある程度の強さを持つ反面、誰かを傷つける刺を持ってしまう。「傷つけたくないから」なんて、偽善的な言い訳だけど、実は私、話し言葉ではしょっちゅうそれをやっている。よく言う「余計な一言」というそれから、「正論は人を傷つける」あれまで。若い頃はやり逃げ!言いっぱなしだったが、やっぱり、この歳にもなると、抜き差しなら無いところへ足をつっこんでしまって泥仕合・・も経験した。この穴はからは、まだ抜けきっていないかも。情けないかな、ビクつく足元。そのくせに、傲慢な思考。言いたいのは「責任」ということ。ブログや、ミクシィのようなものでは、その辺は考えるほうが阿呆なんだろうけど。「そんなの関係なーい」世界だろうから。だから、やっぱり私には手紙やメールといった「責任の取れる範囲」で書きたいことを爆発させるのが向いているんだろうな。今までも手紙では名作多数あり。ただ、自分の中にそこをどうしても出たい、と思う何かがある。だから、やっぱりこうしてここにいる。新年早々何をごちゃごちゃ考えているんだろう。しかし、気分はそう悪くない年明けでした。
2008年01月03日
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久しぶりに、街中でたき火を見た。といっても田んぼ の中だったけれど。 高層マンション群に草木の焼ける匂い。 普段、漂わない匂いに、思わず「火事?」と見に行く人も。 ちょうど、下校時刻と重なって人だかりが出来ていた。 女の子たちは「臭ーい」とそそくさと退散。 案の定男の子たちは、本能のまま火の周りにわらわらと 集まってくる。 ぱちぱち燃える音、煙が目にしみて、鼻もツーん 燃える火の生き生きとした色。 子どもたちの五感にはとても刺激的で、息子たちも キャーキャー大喜び。 いつも山遊びのときに、たき火はするのだが、 整備された街中で見るたき火は、周りの何とも 溶け合わず、とても異質なものに見えた。 自分の中ではとても懐かしいはずその匂いが この街では、もう居場所をなくしつつある、 なんとも言えず寂寞とした気分に。 でも、よく見れば周りではしゃぐ子どもたちは、 もの珍しさというより、もっと素直に火を楽しん でいたので、なんだか救われた。 もうひとつ、あたたかいもの「こたつ」。 今年は息子の強いリクエストに応えて何年かぶり に「こたつ」を出した。 子どもの頃こたつにもぐった、その光景を思い出す。 狭くて、暑くて、くらくらするような、「赤」い 空間で、普段考えないような、とんでもない空想 にふけっていた。 はっきりとは思い出せないんだけど、とにかく 取り付かれたように、何度も何度ももぐってた。 残念ながら、今のこたつは赤くないんだな。 さらにもひとつあたたかいもの。 ぬか床。 専業主婦だし、ぬか漬けくらいは!と思いながら、 今まで何度も失敗していた。 子どもの世話でいっぱいでぬかまでお世話が 回らなかった、というのが言い訳。 何より、自分が大の漬物好きなので、なんとしてで も美味しいぬか漬けが食べたくて、今年こそ・・ でやっと納得いくぬか床になってきた。 家族にも好評だから、一応成功したのかな。 寒くなった夜の台所で一人ぬかをかき回す人妻。 それが、ほんのりあたたかい。 その人肌のようなぬくもりに、いっそうぬか床への 愛情が。 どうか、ちゃんとお世話するから、機嫌損ねないでちょうだいね。
2008年01月01日
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息子の3回目の運動会が終わった。 一学期からいろいろと準備、練習を重ね、 ようやくお披露目の会。 なんだか、幼稚園の運動会は 結局、親のための運動会、というような 気がしていて、正直どうなんだろう、と思っていた。 ただ、二学期に入り、家でも踊りやら、組体操やら 練習している息子がとにかく「早く見てほしい!」 と毎日うるさいので、当日は期待しつつ会場へ。 最近、ぐんと背も伸びて、たまには幼い表情も見せる ものの、少年の顔つきになってきた長男。 青空の下、どの種目も一生懸命取り組んでいた。 先生の指導も、年長組みはかなり熱心みたいなので、 「やらされている」んじゃないかな、と心配していた。 でも、彼はそのひとつひとつをなんとか「自分のもの」 にしようとがんばってきたんだな ということが、ビシバシ伝わってくる。 そして、それは私たち親から離れた世界で成長した 自分を「どうだ!」とばかりに見せ付けるものだった。 まあ、こっちはなにをどうやっていても、やっぱり いとおしく、ただただ感動していたのでした。 と、息子に刺激されてか、 7月から細々はじめたガムラン、 なんと、11月に練習場所である大学の学園祭での コンサート出演があるのだが、それに一曲参加する ことに。 まだ、数回しか通っていないので、不安だらけで 練習に参加したら、やっぱり、「目的」を持った 練習は、緊張感もあり、楽しくもあり。 学生時代、没頭した吹奏楽の練習を思い出しながら、 普段使わない頭と感覚をフル稼働。 少ない練習で、なんとか自分のものにしないと、 これは息子にも格好がつかない。 今度は、息子の前でママが練習の成果を披露。 はたして、うまくいくのやら。
2008年01月01日
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友人にお誘いを受けて 「誕生学」のセミナーに行ってきた。 誕生学とは私も初めて耳にしたのだけれど、 子どもと大人向けの「いのちのお話」と いうことで、ちょうど年長さん向けの回が あったので、参加してきた。 (参考:日本誕生学協会ホームページ http://www.tanjo.org ) まずは、子ども向けのお話。 「おへそ」を導入に、お母さん、おばあ ちゃんと繋がってきたこと、 そして、小さないのちの出発点から 出産までの道のり。 絵や人形を使ってのお話が終わると 出産のビデオ(そんなにハードでは ないけれど、ちゃんと写ってました)。 特別な話ではないんだけれど、子どもの 目線で穏やかに話しはすすめられる。 うちの子はとにかく最初から興味津々で 一番前に陣取って先生にかぶりつき。 弟の妊娠出産を見てきたから、大体の流れは 理解していたみたいだけど、一点彼がつまづいたところが・・。 「おなかの中でしっかり大きくなった赤ちゃん さあいよいよ、あかちゃんがどうやってでて くるのかな。」 息子「知ってるー!おなか切って出てくるねん」。 そう、息子は逆子で、私の卵巣のう腫の 手術も兼ねていたので帝王切開で生まれて きたのだ。おなかの傷も見ているから 息子はそれがあたりまえだと思っている。 彼がどの程度それでショックを受けたかは、 その時点ではわからなかったけど、 「いのちの道」(産道)を通ってでてくる、 というその後の説明のときは若干無口に なっていた。 先生は、「いのちの道」を通ってでてくる のが難しい赤ちゃんもいて、その子たちは おなかに窓を開けてもらってでてくるのよ、 とも説明してくれて、自分はそのケースだと いうこともちゃんと理解。 「おなかに窓を開ける」っていう表現が とても素敵だなと思いながら私は息子の 背中を見ていた。 で、その後出産のビデオ。 帰り道、来るだろうなあ、と思ったら、 やはり質問。 「何で僕は窓からでてきたん?」 これには、ちゃんと事実を説明。 そういう赤ちゃんが沢山いることも告げた。 で、ぽつりと「『いのちの道』通りたかったな」。 これには、私も胸がチクリとした。 何を隠そう私もそのとき「『いのちの道』 通らせてあげたかったな」と心の中で一瞬 シンクロしてしまった。 人間ってばホント欲張り。 子どもが出来にくいと言われていたことも、 彼を授かったことで、価値観が一変したことも、出産と手術が一度で済んだことも、 いつの間にか記憶の奥のほうに追いやってた。 恥ずかしい。 うちに帰って、まだ興奮冷めやらぬ息子は 旦那にも、聞いてきたことを一通り説明。 それでもまだ、「いのちの道」が気になる ようなので、 「今からでも遅くない、いのちの道やって みる?」と提案。 相変わらずノリのいい息子をシーツにくるみ 子宮の中を再現。子どもって布にくるむと とっても喜ぶ。 で、その大きな包みを股に挟んで、 「さあ行くよ」と狭くなった股の間から 産み落としましたわ。 途中、さらに股を締めて、「ほらうまく 回転しないと出られないよ」、 とかかなり時間を使ったので、それなりに 汗だくになって息子は産まれました。 現在6歳になる息子。 ちょっと早いかなあ、と思ったけど、 想像以上に興味をもち、理解もしてくれた。 まだ、余計な知識がないから、素直に聞けた のかもしれない。 私もいろいろなことを話すことで、自分を 振り返ることができた。 誕生学では「自己肯定感」を持てない 子が多い昨今、「いのちの話」をちゃんと 知ることで、自分自身が生まれてきたことを 前向きに受け入れることができるという。 「自己肯定感」を持つ、そのことは本当に 大切で、でもとても難しい。 自分自身のことを考えても、家族、友人 そして出会ってきた沢山の人たちの力を 少しずつ借りて、やっと最近持てているかな と思えるようになった。 ただ、その基礎となる部分は親が与えて やるのが一番近道(もちろんそれに代わる人 でも可能だと思うが)だろうから、今回の 経験はとてもよい機会になったと思う。 それにしても、子育ての道のりは長い。 時々、ふと気が遠くなるときがある。 そういう時、また「いのちの話」を思い出す んだろうな。
2008年01月01日
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7月から細々とはじめたガムラン。 月一回の日曜のオープンな体験ガムランに 参加して三回目。毎回楽しくて二時間 あっという間に過ぎる。 今までに聴いたことはあれど、演奏するのは 初めて。 楽器はシンプルな打楽器ばかりで、 とりあえず座って簡単な楽譜のようなものを 頼りに叩くと、それなりに音は出る。 みんなで合奏すると、響きが重なって いわゆる「ガムラン」になり心地よい。 はじめはそれだけで、とりあえず満足。 三回参加して、少しだが、その輪郭が 見えてきた。 私はいわゆる西洋音楽(ピアノとか吹奏楽 とか)をやってきたが、それらとは 「音楽の成り立ち」が根本的に違う。 便宜的に楽譜のようなものは使ったりするが 基本は耳で聞いて、目で見て曲を掴む。 普通、西洋音楽はまず楽譜ありきで、その 楽譜の解釈や演奏方法などが表現者に ゆだねられている。 ガムランの場合、曲の骨組みとなる、きわめて シンプルなメロディがあって、それをひたすらに繰り返す。 繰り返す上で、テンポがかわったり、細かな 装飾的な旋律が入ったり、骨組みは変えない ままに、曲がどんどん広がっていく。 だから、聴いていて、ただの繰り返しには 決して聴こえない。 また、その広げ方が、いかにもインドネシア的 なのだ。 指揮者はいないので、曲を引っ張っていく 先導係のような楽器がいる。 太鼓だったり、弦だったり。 それらを指針に数種類の楽器がそれぞれの 間の空気を介して、曲を広げていく。 広げていくというか、伸ばしていくというか はたまた飾っていくというか。 そしてその広がりには枠がないのだ。 ジャズの即興ともまた、少し違う。 演奏者同士の目に見えない大きなゆらぎ が曲を作っていく感じ。 これは言葉ではとても伝えにくく、私も まだまだ掴めた訳ではなくて、 なんとなくそんな感じかなあ、とわかり 始めたところ。 ただ、言えることは、今までやってきた音楽 とは全く異なる、ということ。 おそらく、それは、インドネシアの人々が持つ 物事の捉え方、作り方によるものだろうし、 そもそもガムランという音楽が彼らの 生活の中でどういう場所にあるのか、という ことと深く関係しているのだろう。 そうすると、この音楽、実は奥がとてもとても 深そう。ゆっくりだけれど、ずぶずぶとその 魅力に取り付かれつつある私。 かつて訪れたあの地に、すっかり魅了された 記憶が蘇ってくる。 ゆるくて、優しくて、逞しい南国。 たまには、日常忘れて逃避しても許されるかな。
2008年01月01日
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朝晩は涼しくなって、すっかり秋の気配。 今日は夏休みにキャンプ場で捕まえたクワガタ が死んでしまい、息子と小さなお墓を作った。ちょっと寂しい夏の終わりの儀式。でも夏を越して身長が1.5センチ伸びた息子の背中は、それなりに逞しく、ちびも一人の人間らしく「意志」を持って親にぶつかってくるので、 親は感傷に浸っている暇なんかないんだな。 川遊び、虫取り、花火にカキ氷・・。 子どもたちのおかげで、これぞ夏!という 夏休みだった。 今年は旅行らしい旅行はしなかったけど、 私と旦那のそれぞれの親の実家へ帰省した。 滋賀と山口の家。どちらも築百年以上たった 古い家なので、子どもたちはそれだけで 物珍しく興奮気味。 走り回れる続きの広い和室、いろんな道具の 転がった納屋、ひんやりした蔵。もう子ども たちにとってはパラダイス。 なかでも、一番楽しんだのは五右衛門風呂。 子どものころ祖父と一緒に風呂焚きをした 記憶が蘇って懐かしかった。 ずっと変わらない景色を見ると、それとは 対照的にどんどん変化する自分自身に 気づく。 自分も子どものころは、田舎の祖父母の うちに帰省するのが楽しくてしょうがなかった。 でも、子ども心に、古い家がどことなく 「ぞーっと」怖かった。 仏壇のある部屋で眠るのもなんだかどきどき した。 それもいつしか思春期ごろになると、 古い家そのものに興味がなくなって、どちらか というと帰省も面倒なものに。古い家の不便さ を不快とも感じたり。 大人になると、今度は古い家どころか、 とにかく新しくてきれいな家に魅かれる。 便利で、新しくて、スタイリッシュなことに とても価値があるように思える。 そして、親になってまたこの家の佇まいの ひとつひとつに、家族の景色を重ね、 その「かけがえのない」価値に気づく。 ずいぶんと勝手な人の心と、変わらずそれを 見守り続けてきた大きな家。 「家」というものは、本当はそういうものな のかもしれない。 ただ、悔しいことに、その家を守ることが とても難しくなっている。 滋賀の家は住人であった祖母をなくし、 普段は空き家。山口の家も、88歳の旦那の 祖母が一人でそこを守っているが高齢ゆえ それもそろそろ難しくなってきた。 そして、なんとも歯がゆいけれど、私たち 世代にその家をキープするほどの余裕はなし。 形はなくなっても、家が見守ってきたものを 自分たちがちゃんと残したいなと思う。 どうしたらいいのか・・考えております。
2008年01月01日
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とある家庭の事情で、ずーっと忙しかったのですが、 今日は久しぶりに休日を楽しもうと。 とはいっても、雨。 ちょうど吹田の民族学博物館で 「世界のイイ音きかせます」というイベントが。 民博は昔から大好きなところで、いつかは子どもも 連れて行こうと思っていたので久しぶりに訪れた。 黒川紀章設計の存在感たっぷりの建築物。 雨もまたいい。 そして、聴こえてくる異国のメロディー。 子どもそっちのけで、ひさしぶりに自分が のめりこんでいった。 莫大な展示物はいつ行ってもやっぱり一つ一つ 遠くの誰かと繋がっているような気がして いとおしい。 生活に根ざした造形。土臭さと美しさが 混ざったそれらは、生きるものすべてが 平等に生み出せる芸術だ。 一部の人間たちを対象に作られてきたものとは違う。 立派に普遍を物語っている。 今日は「イイ音きかせて」くれるイベントだったので、 玄関ホールでインドネシアのガムランの体験コーナーが。 これまた子どもそっちのけで自分が楽器に吸い寄せられる。 「インドネシア」といえば、学生時代私は 「インドネシアと日本の関係」を学ぶ ゆるゆる「インドネシアゼミ」に在籍していた。 で、二週間余り、その国を訪れたこともある。 だから、ガムランを聴くだけで体がゆるゆるになって しまう。 体験コーナーながら、私があまりに本格的に演奏して しまったので、結果合奏のようになり、その演奏で インドネシア舞踊も始まってしまい。。。 至福のひと時でした。 ふと気がつけば長男の冷たい視線(私の演奏には余り興味なし)。 そういえば、彼が演奏してみたいといっていた メインの音階のある楽器を私が取り上げてしまったんだ。 大人気ない。 旦那は次男を寝かしつけ、戻ってきたら、人だかりの中 メインで演奏している私をみて唖然。 ごめん。 久しぶりに、自分が抑えられなかった。 ということで、すっかりガムランの火がついてしまって、 今日演奏していたガムラングループに問い合わせ。 来月くらいから、細々でも始めようかな、ということに なってしまいました。
2008年01月01日
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休日出かけっぱなしの五月がやっと終わろうとしている。 最後の日曜も文句なしの晴天で、鶴見緑地で 「共生・共走マラソン大会」に参加してきた。 といっても、私は応援(歩くの大好きなくせに、 走るの嫌いなんです)夫と、こども二人が参加。 普通のマラソンとは違い、朝九時から夕方五時まで 走りっぱなしの大会。 とはいっても団体で参加するので、チームのうち 誰かが走っていればOK。 タイムを競うものではなくて、八時間ずっとコースを ランナーが走る横で、いろんな催しをやっている ちょっとしたお祭りのような大会でした。 「共生・共走」の名のとおり、老若男女、それから 障害のある人なんかも一緒に走っていて、とっても 参加しやすいものだったので、五歳、一歳の息子も ちょうどいいやと参加してみた。 実は夫の唯一の趣味でもある「走ること」を子どもに 見せて「たまには格好いいお父さん」を目指せ的な 魂胆もあったりして。。 うちの夫は「サッカー、野球」といった定番スポーツ が得意なわけで無し、かといってアウトドア派でもなし。 子どもたちと外で戯れて欲しいのに、ちょうどいい 取っ掛かりがなくて、本人も(私も)もどかしく 思っていたのだけれど、ここへ来て「走る」というのが なんとか使えないかと彼なりに思ったようだ。 まだまだ小さい子に「走る」という地味かつ地道な 世界の楽しさは到底理解できないだろうと思っていたけど、 意外にお兄ちゃんが才能を発揮。 五歳のくせに、すごいタイムで1.2キロ×2周を走りきり 周りの運動不足の大人を軽くかわしていた。 「走っててしんどくないの?!」と聞いてみたら、 「どんどん胸のところがばたばたしてきて、ぎゅうぎゅう になるけど、もっと早く走ると気持ちよくなるねん」 とのこと。 ランナーズハイですか。もしかして。 もっと走りたいと懇願していたけど、 幼い体に無理させたくないので、とりあえずは二周で 今回は終了。 パパ喜んでいたけど、私はまだ幼い子どもが 「走る喜び」をわかったとはとても思えなくて ちょっと複雑・・。 ただ、今回は「沢山の人が楽しそうに走り続ける」という 稀有なイベントだったので、入り口としてはよかったのかも しれないな。
2008年01月01日
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5月11日午後一時頃、大阪府茨木市のマンション駐車場で、 寝ている子どもを抱っこした主婦が、強風にあおられた 自転車に接触し、転倒。 両手を塞がれていたため、顔面よりコンクリート舗装された 地面に着地した。 すぐに自宅近くの北摂病院へ搬送され、幸い顎打撲、擦傷、 下唇裂傷(縫合の必要なし)で自宅療養中とのこと。 尚、抱っこされていた子どもにケガはなかった模様。 痛かったー。 「ああ、こける!」っと思っても、両手は塞がれていて、 とっさに上半身をひねり、子どもを背面へ、 顔だけは行き場がなく、そのまま地面へ。 自分の体重+子どもの体重が、全て顔面にかかる。 ひえー。 かなり流血したので、もっとひどい怪我かと思ったけど、 何とか、いかりや長介並みの唇と、アントニオ猪木並みの 下あごで収まった。 そして、不幸中の幸い、息子は無傷だった。母強し。 女優は顔が命だけど、最近は色モノから母親役まで、 何でもこなしているので、何とか大丈夫でしょう。 しかし、今年年女の厄年。 ツイてないこと多いから、早いうち厄除けでもいっとこ。 そうそう、痛い話で思い出したが、 昨年割れたガラスコップを処理していたときに 人差し指を切って、なんと傷のなかに、ちいさーい ガラス破片が入ったまま、傷が塞がってしまいました。 治ってるはずなのに、なんだかチクチクしたので、 病院へ行ったら、ちいさな破片が。 ガラスゆえ、取り除くには周りの皮膚ごとゴッソリいかないと 無理といわれ、そのときベビーも小さかったので あまり麻酔も使いたくないな、とこれまた痛い話しを されたので、「とりあえずそのまま様子を見て、うまくいけ ば周りの皮膚がガラスを包んで痛みが治まる」という恐ろしく 楽観的な診断で家に帰ってきた。 「あの、破片が血管を回りまわって心臓へ、なんてことは まさかないでしょうねえ」と確認したら、 笑って「ありえません」と医者が太鼓判押すので、 しぶしぶ帰ってきた。 それから、一年余り、いつの間にか破片は気にならなく なってる。 恐るべし人体の適応力。 そういうわけで、私の右人差し指にはガラス破片入った まま。 以上、痛い話し2つでした。 お粗末。
2008年01月01日
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ノーバディーズパーフェクト(完璧な親なんていない) という育児支援?のプログラムに参加してきた。 市の広報に載っていたもので、無料。最近は 「子育て支援」という名の親向けの講座なんかも かなり増えてきた。 NPは講座というより、親たちが自分たちで行う グループワークのようなもの。 決まったテーマなどは無く、話し合う内容も、その方法も 大部分を参加者にゆだねられている。 ただ、全体の進行をサポートしてくれるファシリテーター (カナダで始まったプログラムなので、英語が多い)が二名 いてくれて、グループワークの形式や、時間の管理はしてくれる。 とはいえ、どんな人たちが参加してくるのか、全く わからない。 初対面の11人が昨日集まった。 市の広報を見て、「完璧な親なんていない」という タイトルも見て、一人で(友達誘ってじゃなくて)電話して のこのこやってくるようなお母さん達。 というところで、なんというかある種の共通な空気。 「子育てで悩んでいる」「いまいち心開ける仲間が居ない」 「でもなんとかしたい」。 その辺をそれぞれ胸に秘めつつ、お互いを知るためのゲーム 形式ワーク(話し合い)が続く。 それぞれ、子どもは保育室に預け、久々に子どもではなくて 「自分自身」のことを考える。 それくらい、日々は「子どものこと」漬けになっていることに 気づく。 単純に楽しかった。 私は元々一人で行動するのも、初対面のひとも平気なほう なんだけど、やはりそのような類の人々が集まってきていて 初日からとても活発なやり取りがなされてた。 皆で決めたルール。 「本音で話す」「ヒトの話は最後まで聞く」「秘密厳守(笑)」 今後取り上げたいテーマとして、 「子どもの叱り方」「食育」といった子育てモノから 「自分の親との関係」といった心の傷モノ、 そしては「夫とのヤバくなってる関係」なんて面白そうなもの も出てきて、果たしてどのあたりまで話ができるのか。 ちょっと楽しみになってきた。 私はネタは十分あるので、どこでも参戦できそう。ぐふ。
2008年01月01日
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滋賀県南東部にある蒲生郡日野町に私の父の実家がある。 (奇妙な実家ついては、ブログに詳細あり http://plaza.rakuten.co.jp/amakara4946/diary/200606050000/) この日野町の年最大の行事が「日野祭り」である。 毎年五月三日にあるこの祭り、子どもの頃は親と一緒に 帰省していたのだが、ここ二十数年祭りに顔出してない ことに気づき、今年はひさびさに帰省した。 だから、祭りの記憶はすべて二十数年もの。 ぼんやり思い出しながら車で久しぶりの父の実家へ 向かう。 近江商人発祥の地といわれる日野町。 かつての繁栄の名残か、田舎町ながら、 静かで美しい町並みを残している。 遅ればせながら観光開発もされてきたのか、祭りに 向けて明らかに地元の人とは思えない、観光客が ぞろぞろ歩いている。 昔は見られなかった光景だ。 渋滞で大幅に遅れながらも、懐かしい父の実家へ着いた。 祖父母はとうに亡くなっているから、今は父の兄夫婦が 住んでいる。そして、相変わらず迎えてくれる座敷に並んだ 御馳走たち。 子どもの頃はそれだけで楽しくて、大皿に並んだ御馳走を つまみ食いしては従姉妹たちと座敷を走り回っていた。 とりあえず、腹ごしらえして、祭りへ繰り出す。 町のあちらこちらで、「曳山(ひきやま」と呼ばれる 飾りをつけた車が、お囃子の人たちを乗せてメイン会場 の綿向神社へとむかう。 曳山は町ごとに維持、管理され、古いものだと200年も 大切に使われている。 一つ一つ赴きがあって、変な派手さは無いがこじんまりした 祇園祭りといったところだろうか。 曳山の高さが微妙で、ところどころ電線に絡まりそうに なりながら、何とか昔のリズムで神社へと町を練り歩く。 綿向神社がまたとても素敵なところで、そこに総勢16基の 曳山が集合すると、ある種完璧な景色が出来上がる。 景色だけでなく、お囃子の音も。日本人のセンスって ホント素晴らしいと再確認。 子どもの頃のお祭りの記憶といえば、曳山を引く人の見慣れ ない装束だったり、出店に売られている色とりどりの 「ニッキ水」の輝きだったり、父や祖父たちの酔っ払いの 怒鳴り声だったり。とても断片的でなにかがクローズアップ されているものばかりだったけど、大人になってから祭りを 見ると、必死で祭りを運営する町の人々だったり、荘厳な 景色だったりで随分と自分の視点が変わったことに気づく。 そして、初めて祭りをみた息子が釘付けになったのが、 曳山の方向転換。太い柱のような木と、いくつかの 車止め、木製のジャッキのようなものを組み合わせて 何人もの人が何百年と代わらぬ方法で手際よく曳山を 90度回転させる。 車輪のきしむ音と共に息子の記憶に焼きついたはず。 二十数年ぶりだったけど、ホント素敵な祭りだったと 初めて気づきました。 それにしても、雨女健在で、降水確率0%のところに 一時土砂降りを降らせてしまいました。 ああ、おそろしや。
2008年01月01日
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久々に歯医者にいったら、案の定親知らずが ちょっと虫歯になりかけているとの指摘。 とっても中途半端な生え方で、簡単に抜けないので 口腔外科を紹介される。 幸い、とてもいい先生で、説明も丁寧。そして、 何より先生の雰囲気が、私をとてもリラックスさせた。 帰ってネットで調べたら、なんとすごい経歴の先生 だったことが判明。 今日、抜歯してきた。 麻酔→切開→歯を半分削る→残った根っこを抜く →洗浄→縫合 なんとすべて終わって、たったの十五分。 麻酔されているが、途中経過を説明されているので、 今どのあたりまできているのか手に取るように解る。 冷たい実況中継のような感じではなく、 「ここまできたからもうすぐ終わるよ」と安心感 を与えるための、絶妙な声掛け。 てきぱきと仕事をこなす医者に、私は弱い。 で、終了後の説明の頃には、うっとり先生を好きに なってしまっている。ぐふ。 そういえば、胃カメラを飲んだときも、 緊張と不安でがちがちだった私のハートを さらっていった先生がいたなあ。 腕も最高。もう一回飲みたいと思わせるカメラさばき。 胃カメラというこの上ないハズカシイ出会いでなければ よかったんだけど。 ああ、抜いたところが痛い。 でも、なんだか悪くないわ。
2008年01月01日
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