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次男が朝日少年少女囲碁大会に出場しました。今回、初めて大阪府の代表を決める「代表決定戦」に出場することになりました。ハンデ無しの正真正銘実力勝負です。上位三位までが8月にある全国大会に出場できるのですが、惜しくも四位で終わりました。今日は、本当に忘れられない日になりました。準決勝に破れ、三位決定戦。決勝戦が先に終わってしまい、皆が見ている中での対局になりました。接戦でしたが、本人曰く「優勢だった」対局の終盤、突然頭を抱えた彼。盤面を見ても素人の私はわかりませんが、何かが起こったのは確か。そのまま、一瞬時間が凍りついたようになって、抑えられない彼の嗚咽が場内に響きました。ああ、なにかミスをしたんだなあ、ということは分かりました。そして、それがどうやら取り返しがつかないような物だということも、彼の様子から分かりました。囲碁は逆転の利くゲームですが、取り返しの付かない一手というのがあるみたいで、彼はその一手を見逃していたようです。彼の呼吸がおかしくなって、過呼吸のような気配。私は思わず「倒れるかも」と彼の側に駆け寄りそうになったのですが、夫に止められました。対局中は立ち入り禁止なのです。泣きじゃくる彼を抱きしめてやりたいけど、出来ないもどかしさ。時間だけが過ぎて、彼の泣き声が響きます。沢山の人がその様子をじっと見ています。私は居ても立ってもいられない気持ちで、とにかくそこに立っているだけで精一杯でした。対局はまだ終わっておらず、泣きながら彼は自分の負けをもう一度時間をかけて、ゆっくり確認します。相手の子は彼より年下でしたが、冷静に彼が盤面を読み終わるのを待っていました。もう一度確認しても、負けは負け。そこで「投了」といって自分で負けの合図を出します。持ち時間一人40分で、一局打つのに一時間から一時間半かかります。星の数ほどある手の中から、一手一手時間を使って先を読み、最善の一手を選んでいく。とにかく根気のいる作業を積み重ねて、ようやく勝利が手に入りそうだったのに、自分で終わりを告げないといけない、そのことが悔しくて、悔しくて、涙が止まりません。私も正直泣きそうでしたが、泣いたらもうそのままグチャグチャになってしまいそうだったので、必死に涙をこらえていました。ギャラリーの人が数人もらい泣きをしていました。絞りだすような声で投了して、碁石を片付けて、終わりの挨拶。二人で大会本部へ結果報告して、やっと私のところへ倒れこむように帰ってきました。その後、会場を出ても声を上げて泣くのを止められません。あまりにも大きな声なので、部屋を出ても会場まで届きそうでした。とりあえず、二人で非常階段に避難して、そこで思いっきり泣きました。「表彰式には出られない」といって、延々泣きます。私はまさに「掛ける言葉が見つからない」状態でひたすら背中をさすっていました。泣くだけ泣いて、やっと落ち着きました。そして自分から会場に戻りました。まだ表彰式は始まる気配はありません。全国大会は上位三人ですが、表彰は四位までしてくださるとのこと。出来れば、胸はって出てほしいなあと思っていたら、彼はスタスタ歩き出して、空いている席に向かって、一人さっきの対局をもう一度最初から打ちはじめました。切り替えの早さについていけない私。正直心の弱い私は、皆の見ている前で慟哭する息子をみて「こんなつらい勝負の世界に身を置く必要なんて無いよ」と思ってしまいました。もう彼は次のことを考えていて、「どうして負けたのか」をもう一度自分に突き付けていました。とても冷静に。その表情はとても大人びていて、自分の子どもなのに、自分の子に見えませんでした。そして、今度は負けた相手のところへ近づいていき何やら話をしています。どうやらさっきの試合を一緒に検討してくれと頼んでいるようでした。囲碁では「検討」といって対局が終わった後に、もう一度振り返りながら、もっといい手は無かったか、色々と検討をします。とにかく囲碁は打つ手の選択肢が多いので、後から検討すると、何通りもの打ち方、試合の展開の仕方があるのです。彼は、すっかり切り替えをして、この負けから何としてでも何かを掴もうとしているのが分かりました。悔しさを乗り越えて、前へ向かう気持ちの強さに、私はただただ感服するしかありませんでした。表彰式では、涙もすっかり乾いて、清々しい顔で賞状を受け取っていました。そして、負けた相手の子に「全国大会で頑張って」とエールを託していました。自分が10歳の時、彼と同じことが出来ただろうか…絶対無理です。負けたショックでそのまま帰ってしまうだろうなあ。彼は、私にはない「強さ」を持っている、そのことに驚きました。今日は彼にとって忘れられない一日になったことでしょう。そして、私も今日のことはいつかきっと思い出すだろうなと思って、こうして記しておきます。
2016年05月05日
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三月の震災の後から、普段見ないテレビをついついつけっぱなしにしたり、関東から避難してくる親戚、友人たちの生活を案じたり、原発についてあまりに自分が無知だったことを恥じ、今さらながら色々と調べたり。復興支援に自分が何ができるのか?「節電」というか、自分たちの生活のエネルギー源がこのままでいいのか?そもそも、関西で同じことが起こったとき、子どもたちを守れるのか?色んな課題、命題が明らかにされるのだけど、それらは、どれも不完全な答えしか見つからなくて、中途半端で、行動を起こしてみても、どれもしっくりいなくて、グルグル思考の螺旋を回るばかり。そんな時、実家から父の精神病とアルコール依存が悪化とSOS、その渦にもグルグル巻き込まれることとなり。ああ、疲れてるなあ・・・それにしても、これらの思考の迷路は出口があるのかな、と思っていたら、本当に目が回りました。4月2日朝、洗濯物を干し終えた途端、天井がものすごいスピードで回転して、頭も身体もついていけない。ゲーゲー吐き気もして、救急車を呼んでもらう。あまりのことに、頭は真っ白、手足もビリビリしびれてきて、正直死ぬかと思った。結局そのまま入院となりました。とにかく目も開けられないし、気持ち悪いし。それから三日間は遊園地のコーヒーカップに乗っているかのように回りっぱなし。メニエール病など、めまいの起こる病気は色々あるらしいが、めまいの強さなら、私の病気は「最上級」とのこと。三日間ほぼ寝たきりで、本当にきつかった。回転が収まってきたのはいいけど、今度はフラフラでベッドで起き上がるのもやっと。一体どうしてこんなことになったかというと、「前庭神経炎」という病気だった。三半規管にある前庭神経(平衡感覚を司る)が炎症を起こし、その機能を失ってしまう。そのため今まで当たり前だった平衡感覚を失ってしまったのだ。平衡感覚って言ったって、誰も普段は意識すらしていない、当たり前の感覚。平均台に乗ったり、遊園地の乗り物に乗ったときなどに、くらくら、よろよろと崩れて初めてその「感覚」に気づく程度の「当たり前」の感覚。だけど、それは見ている景色とそこに存在する自分の身体すべてを支配しているので、一旦失うとそれはもう大変。分かりやすく言うと、基本が「船の上」にいるようなふわふわ感で、その上で、自分の意識している視界、つまり見ようとするモノ、景色がいちいちとグラつくのだ。言葉で説明するのはとっても、難しい。私たちは普段、立つのも、歩くのも、テレビを見るのも、メールをするのも意識こそしていないが、視覚=目で見た情報と、身体の感覚=前庭神経の感知した感覚この二つをを上手く連動させて行っている。それがいちいち上手くいかない。結果どうなるかというと、船酔い、車酔いのように何をしても気分が悪くなってしまう。ようやく立てるようになったのが、入院6日目。そろそろと歩く練習をして、フラフラのまま約二週間でとりあえず退院。「前庭神経炎」と病名こそ付いたが、この病気実ははっきりと原因が分かってない。なので、薬もいわゆる対症療法的なものばかり。しかも、先生から通告されたのは「一度炎症を起こした(前庭)神経細胞は再生しない」ということ。ただ、それで絶望的かというと、人間は良く出来ているもので、失った片方の前庭神経の機能を脳が代替してくれるという。フラフラ、くらくらしたままリハビリを続けていれば、普通の生活に戻れますよ、と笑顔で言われた。ただ、その「脳が代替する」までの期間は1~数ヶ月となんともアバウトな説明。不安を残したまま、退院した。その後帰ってきて、二週間くらいは家の中で歩くのがやっと。何をしてもすぐに酔って気分が悪くなってしまう。一か月を過ぎた頃から、ようやく船酔いからは開放された。五月に入って、リハビリに外を歩いてみると、これまた軽いショック。家の中とは違って、外だと視界に入ってくるモノの距離感があまりにバラエティに富んでいるので、脳が追いついていかない。また、すぐにくらくら、フラフラしてしまう。この辺りから、「これ、本当に治るの??」という不安めいた思考が自分を支配するようになってきた。だって、正直すべての景色がフラフラくらくらしていたら、気分もつられてフラフラくらくらしてくる。現に、この病気の後遺症でうつ病になったり、精神が不安定になる人も多いという。そして、もれなく私も病院で安定剤をもらうことに。身体と心は連動していて、平衡感覚と同時に、心の安定も失われていく。でも、それと同時に、身体は自然と無くなったものを受け入れ、それを補完しようと変化していく。先生の言っていた「脳が機能を代替する」ということ。だから、少しずつだけど、フラフラくらくらしている景色に慣れていった。そう、フラフラくらくらが無くなるのではなくて、それに「慣れる」ことで普通の生活に戻れるのだ。そういえば、先生も「治る」とは言ってなかったな。「また車も乗れるようになりますよ」とか「普通の生活に戻れますよ」とか。倒れてもうすぐで三ヶ月、まだまだ疲れやすく、車も運転できないけど、何とかパソコンに向かって文書を打つことが出来るようになった。正直、この文面も休み休み書いているのだけど。病気になって、気づいたこと。倒れる前の自分は本当に忙しすぎた。後で振り返ってカレンダーを見たけど、予定がぎっしり。もうちょっと身の丈にあったスケジュールにしないとね。それから、入院してよかったこと。子どもたちが、随分成長していることが分かった。正直、めまいがあまりにひどくて、最初の数日は子どもたちのことをすっかり考えないでいた。上の子を産んで10年近く、育児という意味で、ここまですっかり子どものことから離れた時間は無かったかも。そして、入院期間中も、不思議と子どもたちのことが心配にならなかった。良い意味で。あの子達だったら、大丈夫だろうと。もちろん、祖母にすぐ来てもらったのも大きいが、春休み~新学期と不安定になるこの時期、家を留守にするのは忍びなかったけど、今回は不思議なくらい、子ども達のことを信用できた。実際、家の手伝いもちゃんとして、いつもと変わらぬ生活を送っていたよう。おまけに入院中に迎えた私の誕生日のために、手作りのケーキやフエルトの小物などを一生懸命作って、病院へ持ってきてくれた。40歳の誕生日を病院で迎えることになったが、思わぬプレゼントに忘れがたい誕生日となった。この入院は、子ども達の成長を、しっかり確認できたとっても良い機会となった。私の体調も、すっかり前のように戻るということは難しそうだけど、これはこれで、やっていくしかない。暑い夏を乗り切れるのか、少々不安だけど、ぼちぼちやっていこう。
2011年06月25日
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「熟議」とはその名の通り、「熟考し討議する」ことの略。文部科学省が2010年に「熟議カケアイ」というサイトを開いたのが始まりらしい。今まで政策施策決定にあたり、識者による委員会などの意見を参考にしてきたが、もっと現場の意見を!ということでとりあえず教育の分野で実験的に試みられているという。サイトを見てみたが、実際どのくらい声がどんな風に反映されているのか、分かりづらく少々アヤシイのだが、教育に関する幾つかのテーマで、既に議論がなされていた。正直、ネット上での議論は興味のない私。ただ、今回は「リアル熟議」ということで、実際に人々がどこかで集い、話し合いをするというイベントを知った。テーマは「子ども達がイキイキする学校、コミュニティとは」というもの。開催場所が、以前から知っている小学校(といっても公立で無くフリースクールのような所)で、対象者が教育関係者から学生、保護者など幅広かったので、参加してみることにした。普段から、子どもの学校に出入りしたり、ファシリテーターとして色んな人の話を聞いたりしている中で、「学校」については色々と思うところがある。あんなことも、こんなことも、それはどうよ、ということも。色んな思いが自分の中でかなり溜まっていて、アウトプットする場が欲しかったのも事実。当日は定員50名の満員御礼。定員にあふれ、熟議には参加せずオブサーバーとして参加している人もいるほどだった。あらかじめ、5名から7名ほどのグループ分けがされていて、各グループにはファシリテーター(進行役)がつく。いつもは自分がファシリなので、自分の意見は封印!で話を進めるが、今回は参加者なので、思う存分話が出来る。言いたいことも聞きたいことも満載で、ワクワクしながらグループの話し合いが始まった。私のグループのメンバーは、私と、フリーライターをしているお母さん、公立中学の先生(なんとうちの近所の学校)、市会議員、フリースクールを立ち上げようとしている元高校の先生、と男女混合、年齢も幅広い面々。簡単な自己紹介のあと、とりあえず各々が「学校」やそれをとりまく「コミュニティ」について思うところと発表し合った。いわゆる問題提起だが、もうそこから参加者の意見が様々。私は「学級崩壊とそれに対する学校、保護者の対応」他には「諸外国における学校選択の幅広さとそれに対する、国、社会の柔軟さ」「多様性がみとめられず、思うような授業ができない現在の学校」「子どもの『教育・学び』に関心が持てないくくらい、親自身が生活に 困っている地域の現状」など。一通り意見をだして、ざっと風呂敷を広げたものの、本当に問題は多岐に渡っていて、どこから手をつけようか・・と目の前に張られたポストイットに目を通した。でも一見バラバラなようで、他人の書いたものを見ていると、自分の思いと交差する点が見えてくる。次第に、意見の糸はあちらからこちらへ、寄り道をしながらも途切れることなく紡がれていく。そうすると、最初意見を出した人とは別の人たちが、提起された問題を深めていく、という「深め合い」のような形になってきた。ファシリをしていると分かるが、特に誰かが話題を持っていってしまうという形にならない、対等で理想的な話し合いの場。与えられた時間はあっという間にすぎて、前半の話し合いが終了。出てきたワードは、「多様性」「既存の学校の限界」「子どもたちの自主性」「社会、大人たちの閉塞感」「事なかれ主義」などなど。後半は前半話し合ったワードについて、「私たちが具体的に出来ること」を模索していく。前半が終わったところで、ある程度くもの巣のように皆の意見は繋がれたのだけれど、まだまだ幅広く、散らかったまま。でも、会の最初にも説明されたとおり、何か結論を導きだすための「熟議」ではないとのこと。たしかに数時間でこのテーマを収束するのは不可能だろう。だから、発散とそれをどこまで深めるかというところまでで良いとのことだった。後半も色々な意見が出てくる。不思議なことに、ほんの数時間一緒に過ごしただけなのに、明らかにメンバーの距離感が縮まっている。最初接点が見出せるかな?と感じた、各々のバックグラウンドの違いは途中、共感や尊敬に変わり、「この人たちは『なんとかならないかな』で終わりたくない『何とかしたい』人たちなのかも・・」という親近感が場を温めていた。後半のテーマは、「学校や子ども達がイキイキとするために、私たちが出来ることは」というもの。前半で出た問題点に対する具体的な方法を探る。前向きで現実的なアイデアを出したい気持ちはあるものの、なかなか良い案は出てこない。それぞれ理想とするところはあるのだが、それを阻む現実が。「多種多様な子どもたちを認めてあげる教育がしたい」「子どもの自主性を尊重する教育を」⇒公立学校の教師一人に35から40といった多人数教育では限界が。「核家族化で孤立し視野が狭くなっている親たちの気軽な話し合いの場づくり」⇒これは私のやっている「親学習」なども有効か。でもなかなか普及していないのも現実。(もっと参加者を増やすために垣根の低いものが必要か)「生活そのものが苦しい親や地域への支援」⇒お金が必要。行政の範疇か。親の価値観も様々。私たちができること・・と考えていくと、そこに集まっているメンバーは既にその「何か」をしている人たちだったと気づく。公立学校の教師たちに余裕がないなら、もっともっと地域の人たちが学校に入って授業をしていけばいいのでは、という意見が出たが、私も小学校や高校の授業に参加してきたし、ファシリテーターをしている大学生も様々な職業を持った集団で中学校に出前授業をするという活動をしている。学校の選択支が少ないという話も出たが、メンバーの一人はこの4月に高校生対象のフリースクールを立ち上げるという。ちなみに、彼は元私立高校と塾の教師でまだ28歳。まだ20代の彼らが、具体的に出来ることをちゃんと見つけてやっている。私にはそのことが、今回一番の収穫になった。若い彼らの行動力に、とっても刺激を受けた。終了後、各グループの話し合いの結果を発表された。「まずは大人がイキイキとするために8時間以上は働かない!」「子どもたちに学びの場や機会を提供できる人たちが、自由に 情報交換できるインターネットのサイトを立ち上げる!」「子どもたちを指導するのではなく、見守る大人が大切」など、これは!!という妙案が出たわけではないが、実際に熱意、行動力のある方が多く集まっていることはわかり、何とかこの繋がりを今後に活かせないかという話で会は幕を閉じた。私としては、日ごろモヤモヤしていたことが話せて、とってもすっきり。そして何より若い人たちが、子ども達のために色んな行動を始めていることに触れることができて、とても心強かった。私たちのように、子を持つと、まず「自分の子」という狭い視野に立ってしまいがちだが、社会全体としての「子ども」というものが、いかに重要でまさに未来そのものだということは、誰も否定はできないだろう。大人も子ども、もどんどん息が詰まるような世の中になっているような気がしてならない。ファシリテーターの大学生が言っていた。「せっかく大学に入学したのに、『就活』一色で、何を学ぼうとか何がしたいのかとか全く見えなくて、ひどい閉塞感で潰れてしまいそうだった。」実際『就活』で上手くいかなくて自殺する大学生が増えているという。幸い彼女は休学して、色んな世界を見て随分視野が広がったと言う。社会が、親が、良い会社に就職することをゴールに子供たちを育てているのだとしたら・・・。考えるだけでオソロシイ。でも、周りを見回しても、小学校の塾通いなんかも、きっとそれが終着点なのだろう。本当にそれで大丈夫??私は声を大にして言いたい。「『就活』がゴール??そんなわけないやん!!」もっと世界は広し。人生は自由。そして、生きることはキビシイ!のだと。自分の子どもだけに、言ってても意味ない。さあ、自分に何ができるかなあ。せっかく色々な方面の人とお知り合いになれたので、私も微力ながら、自分で出来ることを広げていこう。そんな力が湧いてくる、とってもいい時間だった。参考までに、毎日新聞に載った当日の記事
2011年03月08日
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去年からはじめた「親学習」のファシリテーター。「親」について知る、学ぶワークなので、普段は子育て中のお母さんを対象にやることがほとんど(子育てサークルや幼稚園保育園、小学生の保護者など)。ただ、「親学習」というのは小学生から、中高生、妊婦さん、子育てを終えた「子育て支援期」の方まで、幅広い層対象にテキストが作られていて、それぞれの立場で、自分と周りの人との人間関係を考えることを目的としている。ということで、今回は地元の府立高校から、高校生対象のワーク依頼があった。家庭科の授業の中で「親学習」を行うのだという。実は依頼が来たのは私の母校。公立高校とはいえ、地元では有名な進学校であるため、生徒たちは「受験」を意識した勉強に偏りがち。そのことを危惧した家庭科の先生が、一年生を対象に、自分のライフスタイルについて考えてもらったり、地域の高齢者の方の話を聞いたり、子育て中の親子と触れ合う機会を持ったり、とにかく「実社会」を知るための授業を、様々な工夫の上に行っている。その授業の総まとめとして、私たちのやっている「親学習」を昨年から取り入れているという。公立高校の家庭科の授業を一コマまるきり私たちに任せてくれるという。教師でもない私に、こんなチャンス滅多にないこと。一年生8クラスを何人かいるファシリテーターで分担し、各自自分が担当する授業については、今まで彼らが学んできたことを踏まえてそれぞれが自由にワークを組み立てて良いということになった。私は以前からどうしてもやってみたいワークがあった。通称「卵のワーク」。小学生~これから親になる子育て準備期の人向けのワークで、参加者一人ひとりに卵を一個ずつ配って、それを赤ちゃんに見立ててもらう、という一風変わったワークだ。ファシリテーターの研修で、小学生を対象に行われている様子のビデオを見たことがあり、一度やってみたいと思っていた。ただ、私としては「卵のワーク」は初めて。そして、高校生相手というのも初めて。そもそも、イマドキの高校生がどんな感じかもさっぱり想像がつかない。いつも接しているのは幼稚園生や小学生ばかり。それに自分の高校時代を思い出せど、遥か遠い記憶であると共に、それは「高校生の目線からみた、高校生」で、客観性もなし。とりあえず、対象がイメージできないことには、ワークが組み立てられないので、依頼してくださった家庭科の先生に、今の生徒について色々リサーチしてみた。先生がおっしゃったのは、・全体的に幼い生徒が多い。・とくに男子があまり元気がない。・進学校のためか、そもそも家庭科に興味なし。・「指示待ち」な生徒が多い。などなど、どこかで聞いたような話が。ただ、私たちに「親学習」を依頼した先生は、ここ数年の生徒の様子や、それを取り巻く学校、親たちに明らかに危機感を抱いておられた。だからこそ、受験勉強ではない、生徒に必要な授業について色々模索し、試行錯誤されていた。部外者である私たちに授業を依頼されたのも、それが、生徒たちにとって新たな刺激になるのではと考えられたのだと思う。生徒が変わった、というのはおそらく正確ではない。なぜなら、先生がおっしゃった「最近の生徒たちの気になる点」は私がいつもあちらこちらで見聞きする、子ども達の「気になる点」とほぼ同じだから。そして、そういう変化の原因の多くは、子どもたちを取り巻く環境であることは身をもって感じている。端的に言えば、子どもが能動的意志で自由に行動、試行錯誤しその結果を引き受ける機会が少ないということ。そして、親が確実に過保護、過干渉になっているということ先生が教えてくれたエピソードにぞっとなった。授業の選択科目を決めるのに、親に決めてもらったり、親の顔色を伺う生徒がいるという。ちょっと信じられない話。高校生なら自分で決めるのがあたりまえでしょ??もっと恐ろしいのは、親がしっかりしすぎていて「お母さんの言うとおりすればいい」と母親に依存しそれを快適と(つまりは反抗する気すらない)生徒がいるという。主に男子生徒らしい。ああ、末恐ろしい。そんな、前情報に不安を感じつつ、とにかく自分のワークを組み立てた。「卵のワーク」では、まず最初に一人ずつ卵を配り、その卵に顔を書いてもらい、名前を考えてもらう。それから、卵を手の中でしばらく温めてもらう。今日は卵を赤ちゃんだと思って接してくださいという説明をする。私のイメージでは、高校生にいきなり卵や赤ちゃんなどと言っても、「は?」という冷めた反応か、照れて卵と向き合えないか・・と思っていた。実際、そういう生徒は少数で、案外ワイワイと顔を書いたり名前をつけたり・・ある意味幼い反応。その後、二人一組になって、どちらかが仕事に行くという想定で、卵をもう一人に預けてもらう。しばらくして、卵を迎えに行ってももらい、今度は役割を交代。そのあと、グループごとに卵を手にしたときの気持ちや、預けた、預かったときの気持ちを話し合ってもらい、そこから「赤ちゃんと接するときに大切な事は何かを」想像してもらう。実はこの「卵のワーク」、途中で必ず卵を割る生徒が出る。(小学生などはあちこちで割れるらしいが)もちろん、その体験も必要なので、割れたらこちらはしめしめと思うのだけど。そして、予想通り、卵に感情移入できず、コロコロ転がし始める生徒。中には穴を開ける生徒。かと思えば、自分のひざ掛けで大切そうに卵を包み抱っこしている生徒。黙って、じっと大切そうに卵を温める生徒。本当に反応は千差万別で、「赤ちゃん」というワードを投げ掛けることで今おかれている親との関係もやはり影響してくる。「親がうざい」とワークシートに書いていた生徒は、最後までワークに入れずに居た。そういう、それそれが「卵という赤ちゃん」つまりは「壊れ易いもの=壊れたら二度ともとには戻らないもの」を手にすることで、ぼんやりでもいいから、もしかしたら「いのち」ってそんなものなのかなと感じて欲しいな、と。これから親になるというのも想像し難い。自分が親にそういう風に育ててきてもらったのかも、という方がまだ想像できるかな。とにかく、高校生にとっては「赤ちゃん」も、「自分のいのち」も、そしてそれを「守り育ててきた親」もわざわざ考えたり、感じたりすることは殆どないのだと思う。とにかくこのワークでは、手にした卵からなにかしら「感じて」もらうことが大切だと、色々考えて組み立てた。しかし、グループワークをして、それを皆に発表という形をとると分かると、生徒たちが何かしら、感じたことを文字にしてまとめるという作業が入る。そうすると、とんでもないことが起こった。「卵を手にして感じたこと」「卵がいなくなったときの気持ち」「赤ちゃんと接するときに大切なこと」ワークシートや模造紙に「書く」という作業を入れると、恐ろしいスピードで、生徒が文字を書き出した。卵を転がしていたり、放置していた子も、すらすら、さらさらと文字を走らす。「愛情が湧いた」「預かると責任を感じた」「言葉が通じないから、赤ちゃんが何を望んでいるのか 良く観察して、こちらが察してあげる必要がある」・・・などなど模範解答というべき答えがすらすらとでてくる。おいおい、君たちホントにそう思ってる??的な。行動と頭の中の恐るべき乖離があらわになった。確かにウチの高校は特殊といえば特殊で、沢山受験勉強をして入って来る生徒が多い超進学校。とにかく、「問い」⇒「解答」という流ればかり身体に染み込んでいる。鉛筆を持った途端、人が変わったように紙に文字を埋めていく様子を見て、「テストばっかりやってきたんだろうな」と思ってしまった。とにかく「頭」が育ち過ぎている子たちなんだろうな。そして「感じる」ということがおざなりにされてきたんだろうな。それを目の当たりにして・・・それでも、何かこの生徒たちの手の中に、心に残ればいいなあと、私なりにあまり押し付けがましくならない様に、ワークを進めた。最後は得意の「絵本読み聞かせ」で『いのちのまつり』という本を読んで(これが結構反応良かった)、普段あまり受けていないであろう刺激を与えるだけ与えて、教室を後にした。今回は初めてだったので、学校の教室の配置やいつもの家庭科の形式を踏まえていたので、幾つか制約があった。ただ、正直、この『卵のワーク』をイマドキの高校生に響かせることができるか、というと、かなり難しいものがあると思った。でも、「卵」という実物があるのだから、「頭で考えようとする」生徒たちには有効であるのも事実。今度は机を取っ払って、車座になって、「書く」作業はせずにやりたいなあなんて思っている。また、来年チャンスがあれば是非。
2011年02月14日
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一月の三連休、東京にいる夫の両親の「結婚40周年記念の会」に出席するために帰省をした。「結婚40周年」とはあまり聞きなれない数字。日本では結婚生活を祝うなら、金婚式(50年)のお祝いの方がメジャーだが、夫のお母さんがクリスチャンで、どうやらキリスト教においては「40」という数字がは特別な意味をもつとのことだった。実際、50年周年だと夫婦そろって元気に迎えられるかというと、年齢的にも難しいことが多い。だから、40周年というのは、なかなか良いタイミングではないかと思う。40年前にもキリスト教式で結婚式を行った二人なので、今回も神父様を招いて、「結婚40周年を祝うミサ」が行われた。ミサの中では「結婚更新」という言葉が使われていた。40年という区切りに、改めてお互いを夫婦としていくことの意思確認が行われた。「あなたは○○を妻とし続けることを誓いますか」「ハイ 誓います」というあの結婚式でおなじみのやり取りもなされ、さらには、もう一度指輪の交換まで行われた。(義母は指輪が外れずに、別の指輪を用意していたケド)正直、髪の白くなった二人がこうやって、多くの人に見守られ、もう一度「結婚式」のようなものをやると言う景色は初めて見たので、少々戸惑った。さすがにウエディングドレスなどは着ないので、華やかさはないが、40年という年月を重ねてきた二人が改めて「誓い合う」というのはとても静かな深い誓いに思えた。これから起こることなど何も知らないある意味「無知」な若い二人が交わすその誓いとは、随分重みが違うのだろうなと。お互いをよく「知らずに誓う」のと、色々「知って誓う」との違い。40年という年月の中には、お互いを知って、時にはぶつかり、それを「赦(ゆる)し」・・・という長い歴史を経てきたに違いない。ミサのあと皆で食事をし、落ち着いた頃に、夫(つまりは夫婦の息子)が作った「結婚40年を振り返るスライドショー」が上演された。夫はそういったことを生業としているので、技術的には難しいことではないだろうが、自分の親を主人公にというと、照れくさかったり、変に感情移入したりとかなり悪戦苦闘していた。あちこちから、それこそ埋もれていた写真たちを発掘し、整理し、デジタル処理をし、音楽に乗せて、40年の流れを構成していく。幸い、思っていた以上に多くの写真が出てきた。それらの中には、ちゃんと整理されずに袋に入ったままのものもあった。黄色く色褪せた写真。日付が消えてしまったもの。べっとりとくっついてしまって、はがすのに一苦労したものも。作業をしている脇でそれらの写真たちを見ていたら、なんともいえない気分になった。一枚一枚に降り積もる時間。「写真っていいなあ」。夫はそれこそ、音楽の選択や、写真たちをいかにストーリーとして見せるかということを試行錯誤していたが、私はもうその古い写真たちが持つ力に圧倒されて、申し訳ないけど「どうやって作ったって、いいものになるよ」なんて無責任なこと言っていた。それ位、その写真たちは多くを語っていた。その中で一枚、印象に残る写真があった。新婚当初の若い二人がささやかな新居のベランダで、同じ腕組みのポーズで立っている。誰が撮った写真なのか定かでないが、ちょっとおどけた空気や、普段着のリラックスした感じから、それが特別な日でないことがわかる。その「何気なさ」に、二人が新しい生活に見つけた喜びや、希望が息づいている。私は血の繋がった娘ではないが、「義理の親だから」とかいう親近感ではなくもっと普遍的な「しあわせ」がそこにはあった。なんともいえない愛おしい気分になる写真だった。20分ほどにまとめられた写真の数々を、集まった親族たちで笑い、時には目を潤ませながら見入った。息子が自分の親の歴史を振り返るなんて、正直どこか恥かしいような、照れくさいようなものに、なるのではと思ったが、そこはプロ。夫は仕事のように、とにかく客観的に「作品」にしていたので、杞憂に終わった。スライドショーの最後にお互いへのアンケートが少し紹介された。「好きなところ」「嫌いなところ」もちゃんと書かれていたが、その「嫌いなところ」を「何とか受け入れようとしている」という一文が「結婚」を物語っていたように思う。しかし、40年って長いなあ。写真だけでも膨大な数。そして、一枚一枚がその日その時は生々しい日常であったと思うと、今、日々を紡いでいくある意味地味な作業が、確実に未来のいつかに繋がっているんだなと実感することができた。
2011年01月11日
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2011年も明けました。「2011」とは二十世紀生まれにとっては、なんとも未来形な数字。それでも現実はいつもと変わりなく粛々と進んで行くのだけれど。昨年も色々と活動してきたけど、「忙しすぎる」ことの無いようにだんだんセーブする能力がついてきたみたいで、パンクすることはあんまりなかった。それでも、年末に急性副鼻腔炎に罹り、顔面痛と頭痛で元旦から休日診療に行くことに。初詣で引いたおみくじもひさびさの「凶」。幸先良い始まりではない新年なので、気を引き締めないとね。とりあえず、去年もずーっと体調がすっきりしない(それを「老化」と呼ぶのでしょうか)日々だったので、今年は重い腰を上げて、やっとちゃんとした運動をと思い一念発起。というたいそうなものでなないけれど、毎日ウォーキングすることにした。ウォーキングというよりは「めっちゃ早歩き」。気分としては、もうちょっとしたら「走り出しそう」な感じかな。でもジョギングとかにすると、続かないような気がするので、一応歩きにこだわった。荷物を持たないで、子どもたちも置いて一人で!ということにすると、とっても身が軽く、とにかく気分がいい。幸いウチの周りは坂道だらけなので、フツーに歩くだけでも結構な運動になる。基本、運動はあんまり好きではないけれど、歩くのだけは大好きなので、何とかつづけられそうかな、と。去年は「家計簿をちゃんとつけよう!」と決めて、今のところ続いている。一年に一つづつくらいなら、なんとかなるかなあ。「継続は力なり」。後はファシリテーターの仕事を今年はもう少し深めようかな。いつもは子育て中の母親対象にワークをすることが多いのだけれど、今年は高校生相手のワークにも参加することになった。縁あって母校にも行くことに。いまどきの高校生にも興味津々。伝えたいことも沢山。いつものワークとはまた違って、新しく組み立てないといけないので大変だけど、結構楽しみにしている。それにしても、自分の高校にこんな形で行くことになるなんて、ホント不思議な縁。子育ては、心配しなくてもいつも新たな課題が用意されている。今年は「手を抜いて、気を抜くな」。色んなことが自分たちで出来るようになってきた子ども達。私は一歩引いて、でもちゃんと見守っていてあげたい。その辺の距離感が難しいのだけれど。ブログももうちょっと更新できたらいいな。と、おみくじ「凶」の低め発進だけど、今年はゆっくり、じっくり「マイペース」で行くつもり。以上、新年の抱負でした。
2011年01月06日
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先日とあるブログにて紹介されていた、「『普通がいい』という病」 泉谷閑示著(講談社新書)を読んだ。面白くてあっという間に読み終えて、二度読み。今年読んだ本の中でもダントツ一位。もちろん今まで読んだ本の中でもかなり上位にくるかな。私たち自身、そして社会が「普通」だと思っているもの。正確に言えばそれぞれの「頭」がそう認識しているものがいかにあやふやか。そして、そもそも「自分」の中にあると思っている「頭」や「心」「体」はどんな仕組みで成り立っているのか。それらが、非常に分かりやすく説明され、その上でもう一度「自分とは何か」を謙虚にでも希望をもって考えられる内容になっている。もちろん、今までも数々の偉人賢人たちが、いろんなアプローチで同じようなことを語っている。数々の宗教や、詩人や、思想家、哲学者、文学者、心理学者・・・私も断片的にそれらに触れ、いちいち感化されてきた。そして、この本には、その国も時代も人種も異なる人々の言葉が非常に的確に引用されている。そのことが、この本が語ることの普遍性をより高めているのは確かだ。そして、私にとっては、まるで、頭の中にあった数々のメモが綺麗に整理され、一冊の本に綴じられたように感じる、不思議な体験だった。基本となるのは、『(以下本文より)たとえるなら、「心=体」という先住民族に、(頭)という移民がやってきていつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。本来人間の中心は「心=体」の方なのだということを、「頭」はわきまえる必要があるます。「心=体」は「頭」などがおよびもつかない深い知恵を備えているものです。しかし、それがあまりにも桁外れにすごい能力であるために、「頭」にはそのすごさが分からない。単に気まぐれデタラメとしか理解できない。それで「頭」は「心=体」が劣ったものだと誤解している。その結果「頭」が思い上がって「心=体」をコントロールすべきものだと考え、このような独裁体制が作られれしまったのです。』という現代人に対する警鐘。養老猛司さんや、私がいつも読んでいる篠先生のブログ(子育ての観点からそのことを書いていらっしゃいます)など「心=体」の感覚を取り戻すことが大切だと説いている方も実際には多いのだが、現実社会はもう随分と長い間「頭独裁時代」に入ってしまっているような気がする。そもそも「頭」とは「心=体」(これ切り離せません)とは何か。それぞれの役割、関係をもう一度丁寧に紐解いていくうち、「そもそも『普通』とは何か」とか「感情とは何か」といった手垢にまみれた私たちの概念が、もう一度洗濯されて、すっかり元の色を取り戻してくるのだ。読んでいて、そこがとても気持ちが良い。そして、さらには「愛と欲望とは」「生と死とは」といった、深い深い話へと話は広がっていく。(この辺のことはまた後日書こうかな)思えば、若かりし頃の自分。何事も「頭」のコントロールで、何とかなる、してみせるとそりゃもう必死だった。もちろん、そんなことは到底無理で、闘えば闘うほどボロボロになっていく。でも、おかしなもので、そういう一見無謀な闘いも、突き詰めてみれば思わぬところへ辿りつくもので、闘い敗れてフラフラの体に宿ったのが小さな命。このブログをはじめようと思ったのも、自分の人生がそこから面白い位に急転回を見せたからだ。自分の身に起こった妊娠、出産が、すべて、自分の意思とはかけ離れたところで、絶妙に、かつ完全に行われていくことを体験。それらは本当に「素晴らしい」と言うしかないシステムで、そこで自分の奥にはっきりと見えてきたものがあった。「頭」で考えていることはどうやらアヤシイ。もっと、早くに気づけばよかったんだけど。そして、その目覚めた感覚で実際に「普通」に子育てすることは、非常に困難だった。育児書に書いてあること、病院で言われたこと、保健所で言われることすべてが疑わしい。現に、子どもと向き合って疑問が生じたとき調べれば調べるほど、あちこちにバラバラの答えが返ってくる。最終的には「子育てに正解はないからね」なんて言われる。それでいて、世界中どこでも子どもは大人へ育っていっているではないか。グルグル回って、気がつけば「子どもは自ら育つ」という自然の摂理に立ち戻っていた。そして、日々出会う小さな選択には、自分の「感覚」を信じるしかないのだと、腑に落ちた。そこからの私のはいかにして、「頭」を賢い手下として手馴づけるかを考えた。私の「何でも疑ってかかり⇒調べ物癖」は正解さがしのためではなく、日々迫ってくる「普通」に対する自分の「感覚」を研ぎ澄ますための道具となった。特に子育ての場合、自分に沢山の経験があるわけでもない。気がつけば「人の子育ての話を聞く」という仕事についていたのも、自分にとっては、色んな「直観」の精度をあげるのにとても有効である。(「直観」も良くある「学説」や「理論」と同じくらい?ハズれるしね)そういうわけで、私の場合、今のところ子育てに関してはかなり動物的?ともいえる「直観」優勢で色んな選択がなされている。で、今のところだけど、子育てに関する「普通」とは決別したことで、かなりの悩みは減ったような気がする。とはいえ、周りはまだまだ「普通」で動いている世の中。そいう「普通」とも折り合いをつけていかなければならないのも事実。そんなとき「頭」で仕入れた「情報」は結構使える。先日息子が水ぼうそうに罹った。ウチは予防接種をしていないので、普通に熱がでて、発疹も全身に。なので、完治するのに学校を一週間近く休んだ。同じクラスで同時期に発症した子ども達は、予防接種を打っていたり、病院から出される抗ウイルス剤を飲むのが「普通」なので、学校も2から3日休むだけで治る。長く休む息子を心配して「大丈夫ですか」と担任の先生が電話をくれた。もちろん、「大丈夫です」と。この場合、「抗ウイルス剤」を飲むのが今では一般的=「普通」となっている。ただ、私の感覚として、必要でない予防接種や薬に頼ることにどうしても違和感がある。ここではっきりしておくが、私は「予防接種を否定している」のでもなく、「抗ウイルス剤」を否定しているのでもない。正直「自分の子を見ていて、水ぼうそうくらい薬無くても治る」という勘が働くだけのことであって、これが正解という理屈があるわけでない。実際、「予防接種が有効か」とか「薬にも副作用がある」ということをさまざまな情報を調べてみれば分かるが、こういう医学に関する疑問は、キリがないくらい、双方の主張がそれなりに展開されている。そしてどれも、全世界、全ケースについて調べることは不可能なので、どこまで行っても不完全な情報でしかない。ただ、薬を飲むのが「普通」と思っている先生に「飲ませてません」というと即座に「何故」という雰囲気が押し寄せてくる。これが「普通」の怖いところ。そこで、「親の勘です」とでも言えたらいいんだけど、これまた先生が「??」となるのが見え見えなので、どこかで仕入れた「抗ウイルス剤がこんなに使われているのは日本だけで、アメリカなどでは『その副作用と効果を天秤にかけて、必要と思われる子どもにだけ使うように』と注意がなされている薬なんですよ。」と答えておいた。するとこれまた「欧米諸国のやっていることは、『普通』そんなにおかしくは無いはず」という「普通」派の方には(これがアジアだとか言ったら、すぐに疑うクセにね)とても有効だったようで、「お母さん良く知ってらっしゃいますね」と感心されたりして。あくまで、断っておくが、私は「アメリカ医療信仰派」ではございません。こういう情報を、「普通」社会と折り合いをつけていくための道具としているだけ。でも、このやり方、相手も傷つけないし、とっても有効。ちょっと話がそれたが、様々な経験も、色んな知識もその「直観」の精度を高めるために上手に使う。「心=体」という偉大なものに、「頭」は謙虚について行き、見捨てられないように良い仕事をしなくちゃね。そう思えば、「情報にふりまわされる」ということにはならないと思う。「頭」と「心=体」は仲良くできるのが、一番いい状態であるにちがいないし。興味ある方は、是非ご一読を。(私と著者とは何の関係もございません)
2010年12月28日
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先日書いた学級崩壊とは直接関係無いが、懇談会のときに、担任代理になった先生が言った言葉が気になった。「もう、なんでもかんでも『先生やって~』なので、ホントに大変なんです」つまりは「先生ー 消しゴム忘れた」「先生ー ○○ちゃんが泣いてる」「先生ー 作り方わからへんから教えて」と一日中子どもたちが先生に助けを求めるらしい。実はこの話、最近あちこちで耳にする。教師をやっている友人や、子どものスポーツ指導員の方や放課後児童活動のボランティアをされている方などなど。ちょっとトラブルがあったり、不具合があるとすぐに「何とかして」と大人に頼ってくる。消しゴムが無ければ、友達に借りるとか、半分分けてもらうとか。泣いてる子が居たら、理由を聞いてみたんだろうか。周りの子が上手く出来ていて、自分が上手くいかないのなら人と比べてみてどこがおかしいのか、探ってみたのだろうか。やり方を聞いてみたんだろうか、いわゆる試行錯誤はしたのだろうか?人に聞く前に、まだまだ出来ることがあるだろうに。この傾向、実は子どもだけではない。今年は住んでいる地区の自治会の役員をしている。毎月一度の役員会に寄せられる、小さな苦情。「隣の庭の植木が伸びてきて、自分の敷地に入ってきている」とか、「夜窓を開けてテレビを見る音が大きくて、うるさい」とか「子どもが道路でボール遊びをしていて危ない」とか。「自治会の役員さん何とかしてー」って、子どもが「先生ー何とかしてー」と全く同レベル。隣の木が伸びてじゃまなら、直接言えばいいのでは。テレビの音もそう。子どもも気になれば自分で注意すればいいでしょ。何でそれが出来ないの???そういう小さなトラブルに対して、ちゃんと自分で考え、コミュニケーションをとり、解決していくと言うことが出来ないのだ。そういうトラブルこそ、ちゃんと対応すれば、前よりもっと親しくなれたり、自分が逆の立場になったときに気遣いが出来たりもするのに。自治会も学校や幼稚園の保護者の会でも、とにかく、「義務は果たさず、権利ばかり主張」する輩の多いこと。面倒な役は引き受けたがらないくせに、ちょっとした不手際や文句ばかり。とにかく「受け身」な人の多いこと。そして、「自分で考えない」人の多いこと。大人はもう手遅れとして、子どもたちが「先生ー先生ー」と自分から動かなくなってしまったのは、どう考えても子どもたちのせいではない。「受け身で、自分で考えない」大人を見ているから?きっとそれだけではない。子どもたちは「受け身で自分で考えなくていい」ように育てられている。良くある小学生の一日。朝、母親にに起こされ、出された朝ごはんを食べ、「早く用意して」と促され学校へ。学校では、「ノート出して」、「二列にならんで」、「静かにしなさい」・・すべて先生の指示によって行動し、帰ってきては、「宿題やりなさい」と指示され、その後すぐに「習い事の時間よ」と習い事へ。そこでも、習い事の先生に言われたことをやり、帰ってきて、ご飯を食べ、テレビを見て、「お風呂入りなさい」「歯を磨きなさい」「もう寝なさい」と指示されベッドへ。見事に誰かの指示、ばかりで生活している。子どもたちが、自分で決め、自分で考え、好きなように出来る時間って学校での休み時間と帰ってから、習い事に行ってないときに出来る自由な遊び時間のみ。そして、子どもたちの聖域ともいえる自由な時間ですら、「廊下は走ってはいけません」「道で遊んではいけません」「危ない場所へ行ってはいけません」「公園の花はちぎってはいけません」と大人の干渉が入る。もちろん、子どもはバイタリティがあるから、おそらく大人の目を盗んで好き勝手な事を何とかしているのだろうと思う。でも、自分たちの子どもの頃と比べたら・・・自由度は雲泥の差。私は特に自然の多い大らかな土地で育ったわけではない。でも、好き勝手に人のうちの塀を登っていたし、線路にも上がっていたし、公園の水道を噴水みたいにして遊んでいたし、商店の裏で野良犬餌付けして飼ってたし。どれも、今の子には許されざる行動なんだなあ。(正直私は許してあげたいけど)子どもたちが、心配なほど受け身で、自ら試行錯誤する意志が萎えているのは、ことごとく子どものそういう時間を大人が奪っているんじゃないかなって。子育てをしていると分かるが、子どもたちが唯一自由な意思を持って「自主的」にやるものが「遊び」なのである。「遊びなさい」って指示したこと一回もないものね。そして、本来ならその自由な「遊び」の時間に、子どもたちは自分で決め、自分で考え、その結果を自分で引き受け、成功し、失敗し間違い、学び・・・と大きく成長するのに。その大切な時間がいかに少なく、ないがしろにされているか。そうこうしているうちに、またその子どもたちも大人になって「何とかしてくれー」ばかり言う、「受け身で自分で考えない」大人になるのです。ああ、恐ろしや。
2010年12月14日
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「学級崩壊」とは誰が付けたかすごいネーミングだけど、学校の教室内で、子どもたちの私語が多かったり、立ち歩いたりで授業に入ることが出来ない状態のことをさす。どうやら息子(3年生)のクラスが「学級崩壊してるらしい」という噂が。噂を聞いた数日前、息子がぐったり疲れて帰ってきた。聞くと6時間ある授業のうち、半分くらいが授業にならなかったと。チャイムが鳴っても席に着かない子がいたり、注意する先生に暴言を吐いて激しく反抗する子が居たり、クラス全体に私語が多かったり。もう「先生の言うこと」を聞こうという雰囲気がなくなっているとのこと。その日息子は皆に何度も「静かにしろや!」と叫び、すっかり疲れてしまったらしい。一学期に行った参観などで「すこしザワついているクラスだなあ」とは思っていた。担任の先生はまじめすぎる位堅い感じの新卒二年目の女の先生。一体何時からそんなことになったのだろう。時を同じくして親たちの間でも、「どうやらウチのクラスが・・・」と噂があっという間に広がった。そしてその噂の中で「学級崩壊」という単語が使われるようになっていった。それでも子どもたちからの情報は不確かだろうし、噂はたいてい大きくなって広がる。だから、この目で確かめてみようと思った。私はボランティアで時々学校へ足を運ぶ。そのついでに息子のクラス様子を伺ったりしてみたが、どうやら授業に入れていないのは本当らしかった。教室の前に担任以外の先生が二人出たり入ったりしている。どう見ても物々しい雰囲気だ。そうこうしているうちに、翌週ついに担任の先生が学校を休んでしまった。一週間がすぎ、ようやく代理の先生が出した学級通信に「担任は体調が悪いのでしばらく休みます」とたった一行連絡があった。そこには、授業が出来なくなっている状態について、全く何の説明もなかった。私は子どもたちから聞いていること、そして親たちが噂していることについて、ちゃんと説明してください、と学校へ言いにいった。なぜなら、子どもたちがそういう態度を取るというのは、先生と子どもたちだけの問題ではないと思ったから。どうしようもない状態になっているのなら、親は親で一緒にこの問題に向き合いますよという姿勢を示したいのもあった。でも、その後も学校側からは何の連絡も無いまままた2週間。全校の参観、懇談があったので、さすがにそこでは何かしらの説明があるだろうと期待しつつ、学校へ出向いた。噂話に不安を抱いていた保護者も多かったのだろう。ウチのクラスは普段よりもたくさんの保護者が参観、懇談会に参加した。最初に校長先生が来て、担任の不在でご心配をおかけして申し訳ありませんと謝罪があった。そして、来週から担任は学校に来れるようになったが、まだ体調が不十分なので、代理のベテラン教師がしばらくは授業を行い、徐々に引継ぎをしていくとのこと。それだけ言って校長先生は教室を出た。その後、担任代理の先生が「3年生はいわゆる”ギャングエイジ”で、言うことを聞かなくなってきている。しかし、それは成長の過程でもあるので、たびたび起こる子どもたち同士の揉め事を皆でしっかり話し合って解決していくことで、成長できたら」との当たり障りのない話があった。ただ、肝心の「授業が出来ない状態にまでなっていた」という事についての説明が全く無い。あきれたと言うか、なにかそこまでして「隠さなければならないこと」があるのかそんな気すらした。そして、保護者のほうに質問された「他に何かありますか」と。は??何かあるに決まってるから、こんなにたくさんの保護者が来ているんじゃないの!何とか怒りを飲み込んで、とりあえずここに居る、ほとんどの保護者が気になっている、「授業に入れない状態」ということが、どういう状態だったのか、そのことについてちゃんと話をしたい、と私が切り出した。こちらが想像している以上に、その代理の先生は多くを知らないようだった。なので、結果的に、保護者の方が口々に「こんな話を聞いた」、とか「あんなことがあったらしい」とか情報を提供した。口々にでた母親たちの意見を総合すると、子どもたち(特に男子)が先生に対して不信感を抱いていたらしい。それは、小学生らしい「喧嘩の仲裁で先生がメソメソ泣く女子をひいきする」といった、そんなに根深いものではなかった。ただ、少しずつずれていった先生との関係が、時間を掛けて「授業に協力しない」という反抗の姿に変わっていったようだ。では何でこうなってしまったんだろう。先生と子どもたちとの間に、コミュニケーションの基本となる信頼関係が築けていない。もちろん、そこに先生の力量が問われているのも事実だが、私は今回の問題に対する、学校全体の雰囲気にその原因があるような気がした。担任が学校を休んで3週間。「体調不良」とだけ伝えられた子どもたちは、一体何を考えたのだろう。授業を邪魔した子どもたち、先生に暴言を吐いた子どもたち。そのことと「先生が休んだ」ことがどれくらい関係したのか、学校がなんとなく「体調不良」という曖昧な言葉でそれをぼやかした為、子どもたちも今回のことをそれぞれが「何となく」とらえるしかなかった。もちろん3年生にもなれば、子どもたちも勘がいいだろうから、自分たちのしたことと、先生の「体調不良」が繋がっているということは感じているのかもしれない。ただ、クラスでちゃんとした話し合いが持たれなかったり、学校側が保護者にも結局なんの説明もしなかった、そういう姿勢がこういった人間関係のトラブルに対する「人間としての姿勢」として、子どもに伝わったのも事実だ。子どもたちは、不満があるなら親に言わずにもっともっと先生にぶつければいい。先生は三週間もの間、休んでどんな気持ちだったか、ごまかさず子どもたちに正直に話せばいい。そういう「人と人との真剣な向き合い」がなされずに、どうやって信頼関係が築けよう。担任の先生がまだ2年目で難しいなら、第三者である他の先生を挟んで子どもたちと先生が話し合うことなどはできなかったんだろうか。そして、学校と保護者もどうしてもっと本音で話し合うことが出来いんだろうか。結局、3週間の休暇の後、担任の先生は戻ってくることになった。ただ、まだ授業の引継ぎその他不安もあるので、しばらくは代理で入った先生と二人体制で行くと言う。私は、懇談会の最後に念を押した。「先生と子どもたちの間にわだかまりがあるのは、どうやら事実らしいので戻ってこられるなら、その辺りを一度しっかり話し合ってはどうでしょうかでないと、また同じことの繰り返しになると思います。」と。そしてその話し合いもどうやら持たれないまま、現在に至る。息子に聞いてみた。最近のクラスの状態は?「殆ど先生がいつも二人いるので、前のようにざわついては居ない」では先生と皆は仲直りしたのかな?「前よりは仲良くなってるけど、なんか中途半端な感じ」今は先生が常に二人居る厳戒体制で授業がされている。結果として静かに授業が進んではいるのでそれで一件落着??なんだろうか。どうも腑に落ちない。学級崩壊にせよ、なんにせよ、トラブルが起きたということはそこで仕切り直せば前より深い関係を築ける良いチャンスだと思う。(これも懇談会で言ったけど)。「先生と子どもたち」「学校と保護者」どれもがガッツリ向き合うことを恐れているとしか思えない。これが、今の学校なのですね。
2010年11月28日
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「人に言えない秘密ありますか」。ネットでの某調査によると、約4割が「墓場まで持っていきたい秘密がある」とか。それが、多いか少ないかなんとも判断しようがないけど。私も40近くになって、さすがに「秘密」が重たくなってきてね・・・って、私の場合、自分の「秘密」でなくて、他人の「秘密」なんだけど。なぜだか分からないけど、私の所には「秘密」が集まる。女の子にしては、口が堅そうに見えるのか、それとも、大概の話にあんまり驚きそうにないように見えるのか。「これは絶対誰にも言わないでね!」って前置きで、とんでもない秘密が次々と舞い込んで来る。おそらく自分一人で抱えているのが苦しくて、打ち明けたくなったのだろう。人の話を聞いたり相談に乗ったり・・というのは得意な方なので、そういう話が来るのも仕方ないけど。もう「相談」というレベルではなくて、ただただ聞くしかないようなトンデモナイ「秘密」が次々と私のところへ集まってくる。人の秘密とはいえ、さすがに私も重たくなってきて、いっそぶちまけて・・・なんてしませんよ。そりゃ私だって、下世話な人間なので、そういう話が嫌いではない。でも、それが親しい人であればある程、聞いた後、気持ちが重ーくなるのも事実。ただ、決まって打ち明けた本人は少しは元気になるから、「秘密」を聞いたことに意味はあったかな、と思う。どんな「秘密」かって。そりゃ秘密だから教えられないけど。個人特定できないように、すこし捏造して披露すると。「実は隠し子が居る」(これ、聞いた時、思わず声出してしまった)とか、「旦那に内緒で家を出つもり、だからお金貸して」とか。「浮気の証拠を着々と集めてる」とか「兄は病死でなくて、自殺した」とかまだまだあるけど、書けない。一番多いのは、男女のこと、その他お金のことや病気のことなどなど。ちょっと間違えば「土曜サスペンス劇場」みたいな世界は案外、日常のそこら辺に転がっているのかも。見事に集まった色んな「秘密」を並べて、横からじっと見てみる。親しい人からのものだから、ついつい甘くはなってしまうけれど、どれも、起こるべくしてというより、まっすぐに、道を進もうとしている人たちがほんのちょっとだけ、ずれてしまっただけなんだなって。明らかな悪意があったり、「いかにも」って言う人は一人もいない。「秘密」の裏にある話をよくよく聞けば、悲しいような運命すらある。その証拠に、その「秘密」は確かに今も「秘密」のままで、皆それを抱えたまま、日々の暮らしをまたコツコツとまじめに積み重ねている。決してやけを起こさずにね。苦しくなって、私に打ち明けたってことは、そこに「罪」の意識も感じているからで、それなりに、秘密に似合うだけの苦しみも引き受けてるんじゃないかなとも思ったりして。幸か不幸か、私も打ち明けてもらった沢山の「秘密」たちから、色々と学ばせてもらっている。その一方で、「隠すような秘密なんて、ございません」という人も結構居る。調査では6割近く?!それは、それでまた立派。色んなものと、ちゃんと闘ってきたんだろうな。で、貴女はどうなのよ、って言われそうだけど。そこのところは「秘密」にしておきますっ。ちなみに、私はまだまだキャパがあるので、どうしてもって方は、まだ「秘密」受け付けてますよ。
2010年09月18日
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昨年の新型インフルエンザ騒動のときに、暇に任せて、お家でビオトープを作ろう!と小さな池を作った。ビオトープとは聞こえがいいが、要するにそこらの池のように、「ほったらかし」「自然の生態系のまま」の池のことである。小さなプラ船(左官屋さんがコンクリートなどを混ぜるプラスチックの四角い容器)に田んぼの泥や、岩、水草などをレイアウトして、生き物を入れるだけ。だから、餌はやらないし、エアーポンプもつけないし。弱肉強食そのままだし。昨年5月から一年ちょっと。越冬できずにメダカはほとんどが☆になった。ヌマエビは卵が残っていたらしく、春先から増え始めた。ただ、このビオトープ、夏場に蚊が産卵するとボウフラだらけになるので、それを食べてくれるメダカが必要だ。昨年は田んぼで捕まえてきたが、数を減らしてしまったので、今年はホームセンターでクロメダカ(在来種)を買ってきて何とか殖やそうということになった。ちょうど、実家で古い火鉢を見つけたので、それをビオトープ2号にすることにした。陶器に睡蓮はとっても似合う。ここに金魚を入れたら素敵かも・・と目論む。その後、トンボが沢山やってきて、ビオトープ一号に次々と産卵。あっと間にヤゴだらけになる。ヤゴは肉食なので、当然メダカも狙われる。ちょっとした緊迫状態。メダカも必死で逃げるので、思ったほど捕まらない。結果、餌不足でヤゴは淘汰され、私が確認できたところでは、トンボは二羽が羽化した。(おそらくシオカラトンボ)エビは相変わらず順調に増え、脱皮を繰り返しながら成長する。脱皮後の殻が透き通っていて、なんとも綺麗。メダカもいつの間にかどこかに卵を産み、小さな稚魚が泳ぐようになった。稚魚は数を減らしながらも(おそらく共食い?)精鋭たちが生き残り、今のところ人間で言えば、中学生くらい?の大きさになるものもでてきた。夏休みに入り、川で捕まえてきたメダカ、ドンコ、ヨシノボリ、カワニナなどどんどん仲間が増える。夏祭りの金魚、出目金も火鉢に投入。調子に乗って、ビオトープ3号も製作。(1号と同じくプラ船)先日田舎で捕まえたどじょうも仲間入りし、今のところ3つの池に、メダカ、ヌマエビ、ヤゴ、ドンコ、ヨシノボリ、カワニナ、坂巻貝、金魚、どじょうが生息している。そして、それら生き物たちと一緒に暮らしているのが睡蓮、水草、藻、浮き草といった水生植物だ。光合成によって酸素を供給し、魚たちの餌となり、産卵場所となり、隠れ家になり、と生き物たちには欠かせない。あと、忘れてはならないのが、バクテリア、プランクトンといった微生物。「自然のまま」と放置しているのだけど、恐ろしく水質が良いのは彼らのおかげ。バクテリア、プランクトンたちが雑菌を食べるので、水が臭くなることもない。いわゆる水換えもせず、時々雨水を足すくらいでOK。見た目は地味なビオトープだけど、色んな自然の営みがぎゅっと凝縮されていて大きな一つの生き物のよう。毎日、じっと池を覗く。夏祭りの金魚は半分近くが逝ったが、その他は元気に泳いでいる。出目金はとっても臆病ですぐに睡蓮の葉の下に隠れる。日当たりが良すぎると、とろろのような藻が増えすぎるので、少し取り除いてやる。メダカの稚魚が日に日に大きくなっていく。時々メダカが群れて泳ぐので「メダカの学校」みたいで微笑ましい。やっぱり、火鉢に金魚はよく似合う。見ているだけで、とっても癒される。心配なのはこの暑さ。すだれなどで日除けしているけど、水温が上がる。さて、あと少し、残暑をなんとか乗り越えてくれるだろうか。
2010年08月18日
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ゴールデンウイークに、夫の祖母が住んでいる山口へ行ってきた。瀬戸内の小さな田舎町に91歳で一人暮らし。白髪に痩せた体で、いわゆる昔話に出てくるおばあさんの風体になってきた。親戚の居るところへ移り住むのも、ホームに入るのも拒み、地域のヘルパーさんや、月に一、二度通ってくる息子夫婦に見守られて自力で生活している。洗濯は手洗い、風呂は五右衛門風呂を自分で焚いている。自分でその生活がいい!と言って聞かないので、周りがそれを尊重している。一年ぶりに訪ねたが、前回訪れた時と殆ど何も変わっていない。広い敷地にある母屋は普段使わず、離れの二部屋が生活空間。台所とその続きの和室で一日のほとんどを過ごしているようだ。ちゃぶ台に座椅子を置いて、専らそこでテレビを見ているか、何かを読んでいる。「私には『活字』があるから」と言って、いわゆる人付き合いは極力しない。おそらく近所からも、とっつきにくい人と思われているのだろう。本人もそれをわかって、「それでいい」と。読んでいるのは新聞、それに文芸春秋、家庭画報などの雑誌類。毎日、毎月決まって届くそれらを、きっと隅々まで静かに目を通しているのだろう。バックナンバーが整然と並べられていた。机の上には、新聞と老眼鏡。そしてお茶のセット一式。隣の小机には、庭の草花がこじんまりと活けられている。台所には使い古された道具が、綺麗に手入れがされ片付けてある。食事の支度をするのに、祖母のいつも使っている冷蔵庫を開けた。小さな冷蔵庫に最低限の食料。保存容器にはきちんと取った「だし」が入れてある。半分になったきゅうり。小さな魚の切り身。どれもきっちりラップをして、ちょこんと冷蔵庫に並んでいた。週に一度訪ねてくる訪問販売の商店から少しずつ、必要なものだけを買い、それらを大切に食べているのだろう。冷蔵庫を見ただけで、どんな食生活なのかすぐにわかった。いわゆるお出かけもすることがない。祖父が亡くなって30年近く、一度の入院以外、毎日途切れることなくそんな日々を積み重ねている。祖母が日々触れている物たち、それらの並ぶ風景、どこを切り取ってみても、「心乱れた」形跡がない。日々の生活の所作の一つ一つが、規則正しく、とても慎ましやかに行われている。静かな時間のなかで、「心穏やか」に暮らしているのだろう。隣の家とは少し距離があり、前は畑、裏は山、空は満天の星。夜は本当に周りから隔絶されたように静かだ。私にとっては、怖くてむしろ落ち着かないくらい。ここで、一人明かりを灯して、一体どんなことを考えているんだろう。とても失礼だけど、「一体どんなことが楽しくて生きているんだろう」という疑問が浮かんだ。私たちが普段生きているような生活のペースとは、まるで違う。そして、何より、91年も齢を重ねるということの意味が、私にはまるでわからない。だから、想像しようにも、とっかかりすら掴めない。私たちの想像する個人の楽しみ、なんてものは祖母の日々の行動からすると、おそらく「活字を読むこと」ぐらいしか見つからない。でも、それが生き甲斐と言うほどの楽しみではないだろう。他には・・・探してみるけどなかなか見つからない。孫やひ孫の顔を見ること?でも、頻繁に訪ねてくるわけでもないし、そもそも、祖母の方から「顔を見せに来い」と言ったこともない。いわゆる長男の嫁だから、「家を守る」ということに誇りを持っているんだろうか。でも、それだけで30年も一人暮らしができる??考えても、考えてもピンとこない。夕食後、デザートを差し入れに祖母の部屋へ行った。そこで、二人きりでしばらく話をした。血の繋がった孫ではないけれど、祖母は私に気を許してくれているようで、ざっくばらんに色んなことを話してくれる。毎回話してくれることは、「子どもが男の子でよかったねえ(祖母も息子が二人)」「私は近所の人たちとは、話が合わないのよ」「私には『活字』があるからね」などなど。そして、今回は91歳にもなったことについて、「もう十分すぎるくらい十分」と。私に気を遣っているのか、いわゆる「愚痴」のような、ネガティブなことは一言も言わない。でも、血の繋がった家族にも、「一人暮らしが、大変だ」とか「体が不自由だ」とか助けを請うようなことは、言っていないようだ。息子夫婦や私たちは、やはり見てわかる肉体の老いやどんなに頑張っても管理しきれない大きな屋敷から考えて、祖母に頼まれてではなく、自主的に様子を見に行っている。そういう形になっていること、そのことがまさに祖母のプライドというか心の支えになっているのは確かだ。そして、その「十分すぎるくらい十分」といったときの表情で、私ははっとした。私たちが想像するような、「個人の幸せ」みたいなものをもうさすがに求めてはいないんだろうなあ、ということ。そういうと仙人みたいだけど、あの暮らしはある意味現代の仙人。当たり前だけど、死ぬまで生きなくてはならない。そこに、生き甲斐だのなんだの、ぐちゃぐちゃ理由付けをする必要がない、もはやそういうところに居るのではないか。命があるから、生きてる。それはもう祖母の個人的な「命」ではなくて、あの土地で何代も何代も生きてきた沢山の先祖から、たまに訪ねてくる、小さなひ孫たちまで、しっかりと続いている、ひとつの大きな「命」。そこにすべてを委ねているかのよう。私たちはといえば、やっぱり命はまず「自分の命」であり、それが満たされなければ、すぐに不平を言い、生き甲斐や楽しみなどを、必死で求め、やっと子を持っても、まだ自分とその子の「命」にしがみつき。そりゃ、いろいろと大変な訳で。「どんなことを楽しみにして生きてるんだろう」なんて、愚問だったな。反省。91歳まで、遥か遠く感じる。でも、もしかしたら、この私を悩ます「私の命」が少しずつ「大きな命」に変わっていく、それが老いることだとしたら、それはそれで、歳をとるのも怖くはないのかな、なんて、祖母に会って感じた。
2010年05月10日
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先日、久しぶりにタクシーに乗る機会があった。行き先を告げたあと、運転手さん主導であれこれ世間話をした。道が余りに混んでいたので、そこから道路事情や、車の増加、マンション乱立、ひいては運転マナーの話と論議が白熱。タクシーの運転手さんは毎日多くのお客さんとそういう「世間話」を重ねているから、角界の最新情報や裏事情など(もちろん怪しいのもあるけど)、かなり話が濃い。目的地に着いてしまって、話が尻切れトンボになったが、結構スッキリした。「その場限り」だから好きなことを言えるというのが、世間話のいいところ。私は生まれも育ちも大阪だが、5年ほど東京に住んでいたことがある。その後、大阪に戻って一番に感じたことは、大阪の人が、「かなり、馴れ馴れしく話しかけてくること」だった。公園で、お店で、ちょっとしたことをきっかけに、話かけてくる。大阪に戻った翌日、マンション下の公園で子どもを遊ばせていたら、新顔と認識されたのかすぐに話しかけられた。東京に居た頃なら、「お子さんはおいくつですか?」とか「お家はどこですか?」とか、初対面の人にはまず丁寧語で話しかけるのが一般的。でも、大阪は違う。「昨日引越しのトラック止まってたなあ」「どこから来たん?」「この辺、同い年ぐらいの子多いで~」とまるで旧知の友達かのように馴れ馴れしい。関西人の私でも、久しぶりのその感じにちょっと面食らった。たとえば、お店などでちょっとした行列が出来ているとする。ちゃんとした一列になっていればいいが、自然発生的な列の場合、それを無視して、あやふやに並ぶ人がいたり、別の列が出来始めたり。お客さんの間に、気まずい雰囲気が流れることがある。東京ではそういう場合、かなりの確立で、皆がなかなか口を開かない。気まずいような空気は流れているのだが、黙って大人しく並んでいる。そうこうしているうち、見かねた誰かが店員を呼んできて、整理させる、とそういう解決の仕方が多い。で、大阪だと・・・、かなりの確立で、「そこ列と違いますで」とか「私先に並んでますわ」とかお客さん同士の会話がなされることが多い。そして、その延長で「この店前はこんなに混んでへんかったのになあ」「そうや、近くのスーパーが潰れたからちゃうか」「もっと『ここから並んでください』とか書いといてくれたらいいのになあ」とか世間話のようなものが展開されたりする。そして、それはそんなに珍しいことはない。その場限り、空間を共有しているだけの、見ず知らずの他人がこれまたその場限りの会話をする。これは、大阪(特に下町)だとかなり普通のことのよう。昔勤めていた会社の同僚の奥さん(東京出身)が、初めて大阪で暮らし始めた時、「もう大阪なんて嫌!」と旦那に泣いて訴えたことがあった。彼女は東京のかなりいいトコのお嬢さんだったらしく、見知らぬ土地での初めての生活や、大阪特有の馴れ馴れしさにどうしても馴染めずにいたという。ある日、彼女がスーパーで買い物をしていたところ、レジで並んでいると、後ろに居た大阪のオバちゃんに買い物カゴを覗かれ、「あんたとこ、今晩すき焼きか~。景気ええなあ、うちら長いこと牛肉も買うてへんわ」と言われたらしい。彼女は勝手にカゴを覗かれたショックと、その畳み掛けるような大阪弁に何も言うことが出来ず、半泣きで帰ってきたという。たしかに、デリカシーなく勝手に人の買い物カゴを覗き、初対面の人に向かって、ある種非難めいた語調で話しかけるなんて、彼女には考えられなかったのかもしれない。ただ、大阪出身の私から言わせれば、それくらいのことは「ありうる会話」なのである。ちなみに、正解を言えば、大阪で見知らぬオバちゃんにそういう風に話しかけられたら、「そんなんうちとこも、すき焼きなんて、いつも豚やん。 今日は特価や、チラシはいってたで」とか「そやねん、今日は結婚記念日やから、贅沢さしてもらうわ」とか切り返せばいい。まあ、それをいきなりしろといわれても無理な話で、例の同僚の奥様はついには大阪が合わないと言って、東京へ帰ってしまったらしい。これは、極端な話だが、大阪に「かなり馴れ馴れしく話しかける文化」があるのは確かなようだ。それでも、私の子どもの頃に比べれば、そういうその場限りの「世間話」は大阪でも減っているような気がする。ウチの母なんかそういう「世間話」が大好きで、八百屋のおっちゃんや、配達に来た酒屋のおっちゃんと長々と話していた。そして、必ずその延長で私たちこどもにも、大人たちは馴れ馴れしく話しかけてきたものだ。そういう会話の中で、子どもは親ではない大人を知っていったものだ。子どもを狙った犯罪も多いので、「見知らぬ人には警戒するように!」と言わざるを得ない。公園などで、こっちが声をかけたら、明らかに警戒している子どもも居たりする。なんだか、寂しいなあ。馴れ馴れしい大阪の文化、もっと良いほうに活かせたらなあ、と思うのである。
2010年03月29日
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去年は本当に忙しかった、とこのブログでも書いた。半ば勢いでそのまま年を越えようとしていたが、さすがに年末年始、何かおかしいなあと違和感が。体と心が「休みたい」と言ってる。日々、それをなだめ、すかしながら活動していたら、とうとう糸がぷつんと切れた。三学期が始まり、子どもたちを送り出した途端、動けなくなってしまった。眠い、そして頭が痛い。まぶたが強制的に降りてくる感じ。この感じ、久しぶり。洗濯物を干そうとするけど、目がチカチカする。いつもなら、一番気分のいい時間なのに。そのままベッドに倒れこんで眠った。それから一週間くらいそんな日が続く。昼間の眠気と頭痛。私は普段あまり頭痛しないので、これが一番こたえた。夜も何度も目が覚めて、熟睡できない。常用している睡眠導入剤では太刀打ちできないようになってきたので、仕方無しに病院へ。先生いわく、「うつ」になりかけてる状態なので、ここはひたすら休める限り休みましょう。襲ってくる眠気にどこまでも従ってみて、とのこと。自分でもこの感じは昔(随分前だけど)よく陥っていたので寝ればいいということは知ってる。実際、一人のときは、ひたすら何時間でも寝ていた。週末、ただただ寝て過ごすことも良くあった。それで、いつの間にか復活できるのだ。先生も、「主婦だし休めるでしょう」って。どうしても休めないもの以外は全部止めてしまってくださいと。とりあえず、去年からはじめている活動の類はキャンセルし、新しく予定を入れないようにする。それ以外の、日々の家事、育児については・・・これがなかなか手ごわい。「どうしても休めないもの」って・・・朝起こして幼稚園、小学校へ送り出すこと、幼稚園のお迎えは、休めない。というか、子どもが居ない時間をまず確保しないことには。それ以外、家の掃除洗濯、食事の用意などなど、いわゆる家事はやらなくても・・・??毎日、宅配弁当って訳にもいかず、洗濯も一日休むだけで、すごい量が溜まるし。掃除もずっとしなかったら、想像するだけで、怖い。そして、それらを全部家族や他人?に任せられるかというと実際無理。なんだかとっても休みにくい。一日くらいなら「完全オフ」しても何とかなりそうだけど、今私が欲してる休息はそんなもんじゃないのがわかる。結局、毎日少しずつ休む!という形しか無理だと気づく。とにかく、新しい予定を入れないように・・・と思いながら学校、幼稚園の行事はやっぱり行ってやりたい、とか、親が手術、入院するからもそのサポートしないと・・・、と決して私個人の贅沢ではないんだけど、「人の面倒も看たいな」という欲求が。きっと本当はそれらも含めてキャンセルしないと休んだことにならないんだと思う。だけど、どうしてもどうしてもそれが出来ない。そんな訳で、日々自分の調子が横ばいか右肩上がりになってるかだけをチェックして、これ以上悪くならないように、ということに気をつけ、「休みながら、働く」ということを続け・・・気がつけば三月になってしまった。ある意味綱渡り的なやり方だけど、そもそもの自分のやり方、働き方に問題があったような気もするので、「少しずつ広範囲にわたって手を抜く」というのは、自分が少し変われるチャンスかという気もする。何事も程よい加減つまりは「いい加減」を身に着けないと。よく「長女体質」とか言われるけど、やっぱりどこか本当の自分より「頑張って」背伸びしてる。周りには「しっかりしてる」とか「活動的」とか「前向き」とか言われる。で、本当は「面倒くさがり」で「いろいろ大ざっぱ」で、「小心者」の自分も結構なボリュームで存在する。周りから見た私と、自分が見てる私。そのバランスがとっても悪い。なんとか上手く統合できないものかな。しかし、人間変わるってホント難しいもの。今回はかなり時間かかりそう。。。
2010年03月03日
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今年も、いつものように暮れようとしてる。クリスマスに、大掃除、お正月準備と特に省略することも無く粛々と新しい年を迎える。当たり前だが、年々一年間の「体感」は短くなって行き、去年の大晦日がつい昨日のよう。その代わり、今年一年の出来事が圧縮されていて記憶が頼りない。先日、とある集まりで、それぞれが「今年の重大(10大?)ニュース」について発表する機会があった。何を話そうか記憶を手繰り寄せるけど、今年はたやすく引っかかる「大物」のニュースがない。しばらく考えて、その「大きなニュースが無い」ことが一番のニュースかな、と答えた。思えば毎年毎年、引越ししたり、子供が生まれたり、別居したり??同居したり心身ともに疲れることばかりのこの数年。今年は案外平和だったなあと。今年は下の子が幼稚園に入ったので、一人の時間がもてるようになった。そのせいで、欲張ってチョコチョコあちこちに顔を出すようになったら、思いの他忙しくなってしまって、パソコンに向かう時間すらなくなり・・。一個一個の活動は小さなものなんだけど、あちこち手出しすぎたかなと今は反省。今年継続的にやったこと。・月に1~2校、市内の小学校で親学習のワークショップ(ファシリテーターとして)・そのワークショップの準備のため、同じく月1~2回は打ち合わせ・月一で、サークル(母親同士の勉強会みたいなの)に参加、そのうち 数ヶ月に一回は、幹事としてテーマ決め、資料の用意なども・月一で小学校で読み聞かせボランティア・読み聞かせボランティアの有志で、「パネルシアター(人形劇みたいなの)」 の立ち上げ。人形制作から、演目の練習、発表のため、月2~3回は学校へ・放課後クラブのボランティア(不定期、月1くらい)・月一でPTA向け家庭教育学級に参加・子育て連続講座に参加(月2回×3ヶ月程度)・彩都リポーターとして、イベント取材とリポート(不定期)・月一で子どもと一緒にひと山プレイパークへ(山遊びの会)・月一でガムラン(インドネシアの民族音楽)の練習、年1~2回は コンサートに出演。パンフレットに原稿寄稿・内観に出会い、なわて内観研究所へ通う(不定期)他にもあったような気がするけど・・。それぞれ、月一とか大した回数ではないけど、カレンダーはあっという間に埋まった。忙し過ぎて体を壊すと、しばらくお休み。そして、また元気になると、上記のペースで再開。それを繰り返しているうち、あっという間に一年が過ぎた。どの活動もとても楽しく、自分にとってはやりがいのあるものばかり。だから、うまく削れない。でも、来年はもう少し的を絞って、それらを深めるのもいいかなと思う。それにしても、認めたくないけど、最近歳をとったなあ、と感じることしきり。一番は体力の低下。今年は子どもの病気をことごとくもらって、いつも私が一番ひどい。新型インフルエンザも、もれなくいただきました。疲れも一日寝たくらいでは、すっきりしなかったり。そして、記憶力の低下。過ぎたこと、これからのこと、どっちも覚えられない。思い出せない。昔は手帳要らずの女(予定も出来事も日付ともにばっちり記憶してた)のに、今じゃあ、あちこちでダブルブッキングしたり、ちょっとした買い物が覚えられなかったり。やばいんじゃないの。これ。一応ビジュアルの老化は、ぎりぎりのとこで食い止めてるつもり、なんだけど。。。今年、38歳になりましたが、これってどうなんだろう。でも、今年は生きてて良かった、と思うことが。大好きだったバンド(ユニコーン)が再結成して16年ぶりにコンサートに行けましたよ。目の幅の涙流して。おっさんになった彼らは、私たちに郷愁を与えるためにやってきたのではなくて、16年経った今だから出来る新しい音楽を引っさげて私たちを魅了してくれたよ。やっぱ生きてて、それぞれが音楽続けててよかっただろって。ホントかっこいいおっさん達。その他にも、何年ぶりだかに友人に会うことが出来たりとか、ずっとずっと長い間、言えなかったことを、人に伝えたり。曲がりなりにも生きててよかった、と思うことが多々あった。なので、様々な衰えはあるけど、歳を重ねるのはいいことだなと無理なく思えるようになったかな、という一年だった。不惑の40歳まであと一年ちょっと。噂では、女40歳は何かが、すっかりと変わるらしいんですが。期待していいのかな。
2009年12月31日
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すっかり、ご無沙汰のブログ。あっという間に季節も巡っている。あんまりにも更新されないので、「大丈夫?」かとメールくれた友達さえ。大丈夫、生きてます。現実界が忙しく、ゆっくりパソコンへ向かえなかっただけでした。春から、下の子が幼稚園に行きだしたので、念願の「おひとりさま」の時間ができた。正直に言うと、「やっと自由な時間が」と思う反面、手持ち無沙汰というか、寂しくなるのが怖くて、色々と新しい活動を春からはじめることに。今まで自分の子育てのことばっかりだったので、もう少し顔を上げて、地域の子育て、他人の子育てなどに関わってみようと。それはもちろん自分の子育てに返ってくるものでもあるし。自分が子育て中に受けた「親学習」というグループワークがあって、それのファシリテーターの研修を受けてみた。今年は見習いということで、市内の小学校の保護者向けのワークに春から参加している。「親学習」という名前は硬いんだけど、平たく言うと、「子育て井戸端会議」。それで、ファシリテーターは話の交通整理役。毎回、ひとつのテーマ(「しつけ」や「子育て中の自分の時間のとり方」や「見守るということ」など)に沿って話し合いをするんだけど、基本的にそれぞれの個人的な子育ての上での、意見の交換になる。友達同士ではなく、顔見知りか初対面の人たちが、短い時間のなかでリラックスして話ができるように、サポートするのがファシリテーターの役目。当然、話し合いからは一歩引いたところで、全体を見て聞いて進めていく。6から8人くらいの少人数で行うのだが、決して強制せず、かといって、誰かだけが主導権を取って話さないようにし、話が深まりそうなキーワードが出たらそれを広げ・・・と実は結構難しい。それでも、女性はさすが日ごろから井戸端会議には長けていて、毎回それなりに話が盛り上がる。最初控えめだった方が、思いがけず、皆をうならす一言を言ったり。普段溜め込んでいる、姑との同居のストレスが一気に爆発したり。普段立ち止まって考えないことを、ちょっと立ち止まるだけで、そこらへんの育児書には載っていそうなことはどんどん出てくる。ほとんどは、「そうそう」と思いながら「普段はできてないよなあ」ということばかり。でも、わかっちゃいることをわざわざ取り出して、言葉にしてみることに結構意味があるような気がする。参加者各々の事情によって、その日の話し合いのどこが「響く」のかは違うけれど、それぞれがそれぞれの「気づき」を持って帰ってくれればそれが理想なんだけど。実際は皆が満足して帰ることは難しいんだろうけど、終わったあとのアンケートを読むと、かなり好評。やはり、普段の井戸端会議では、近所の人間関係だったり、お互いの価値観の違いだったり、人目だったり、色んなことを気にしながら話をしている。だから、参加自由、でそこでの話の秘守を約束されたある意味特殊な時間をわざわざつくることで、皆が解放されて、色んな本音がでてくる。皆子育ての中でそういう時間を欲してるのだなあと気づかされてた。一見部外者のようなファシリテーターも、実はその話し合いの中で毎回沢山の「気づき」をもらえる。それは、新たな発見だけではなくて、「ああ、みんなも同じなんだなあ」という子育ての上での連帯感みたいなものも。まだまだ、ファシリテーターとしては駆け出しだけど、自分のためにも継続してやっていこうかな。
2009年10月15日
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2009年01月29日
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私には二つ下の妹がいる。現在、同じ市内に住み(去年までは同じマンションに住んでいた!)、私と同じく二人の子どもの育児をしている。そんな彼女の旦那様に、辞令が出た。海外異動しかも、「ギリシャ」だと。外資系の商社勤めだったので、海外勤務の可能性はあったが、よりによって、ギリシャとは。「ギリシャ神話、オリンピック、白い壁、青い海・・・」以上。それくらいしか浮かばない、縁もゆかりもない土地。旅行でもかすったこともなかった。しかし、サラリーマンは会社の命令に背くこともできず、今年の夏、発つことになった。寂しくなるなあ、と同時に、私には残された両親のことが頭をよぎる。「頼りになる親」→から「いづれ面倒をみることになる親」へ確実にシフトしつつある親のことで、正直少し気が重くなった。実は妹は私よりは両親と良好な関係を築いていて、特に母親とはしょっちゅうメールや電話をやりとりし、話もあう良くある「姉妹のような親子」。私は、それを横目で見つつ、イマイチ入れないでいる見かけ「しっかりものの長女」。そう、しっかりなのは見かけ倒しで、私はいつからか、両親と距離を置くようになった。書くと長いストーリーになるので割愛するが、高校生くらいからだろうか、私は明らかに家庭より、学校や外の世界に重きを置くようになった。それは、その年頃なら当たり前のことなのだろうが、私の場合、父と母を取り巻く不穏な空気の「交通整理役」に疲れていたことが主な理由だった。そして、社会人になって二年目、貯金も少しまとまったので、家を出て一人暮らしをはじめた。心のなかに、親から「逃げた」感覚があったのは否めない。普通の自立とまたそれは少し違うように思えた。不思議なことに、同じ屋根の下で育った妹には、そういう空気がなかった。彼女は当たり前のように、親との距離感は変わらないまま、結婚、出産をした。私から見れば、少々親離れ子離れができないでいるようにも見える位だった。ギリシャ行きが決まって、何が一番不安かと聞いてみたら、「今まで親と離れたことがないから、それが不安」だと。私が「弱っていく親を看るのが自分だけになるのが気が重い」と言うと、お互い「あらそうなの」と笑うしかなかった。ここだけ見ると、どこまでも私が親不孝ものになるのだが、それは否定しない。正直な気持ちがそうなのだから。私は思わず言った。「ギリシャに行くのが私で、イバラキに残るのが妹だったらよかったのにね」。そうすれば、あっちもこっちも丸く収まるのでは。でも、人生そう甘くはない。たっぷり課題のある方へ道は用意されている。要はそれを「越えなさい」ということ。わかっちゃいるけど、気が重い。でも、人生前に進むしかないんだな。
2009年01月15日
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「ただいまー!」。小学生の息子は毎日帰ってくると、ランドセルを玄関に投げ飛ばす。私はそれを拾って、ぎゅうぎゅうの教科書やノートに挟まれている「連絡袋」なるものを探して抜き取る。そして、その中身をチェック。その連絡袋には宿題のプリント、学校からのお知らせのプリント類そして先生との連絡帳(そこに宿題や翌日の持ち物も書いてある)が入っている。私は毎日それらをチェックするのだが、最近プリント類に混じって、ぺラっとしたメモ書きのような紙が入るようになった。そこには覚えたての息子の字でなにやらちまちまと短い文章らしきものが書いてある。よく見てみると、タイトルと本文から構成されている。しげしげ読んでみると、それは小さな詩のようなものだった。私 「これ何?」息子「自由帳に書いてハサミで切ってん」私 「宿題?」息子「ちがう」私 「先生が書けって言ったの?」息子「休み時間に書いてん」どうやら、休み時間に自由帳に絵を描くのがはやっているらしく、息子も絵を描いていたのだが、ふと思いついて覚えたてのひらがな達で文章を書いてみたらしい。親バカながらそれが一応文章としてなんとか成立していたので、ほめてやったら、気を良くしたのか翌日からほぼ毎日、ぺラっとした自由帳の切れ端が連絡袋に入るようになった。自分の名前くらいは幼稚園の時から書いてはいたが、学校に入るまでは、ほとんど文章を書くということはしていなかった。ただ、本だけは大好きで、ひらがなもほとんどまともに書けないくせに、読むのだけは、漢字のルビさえふってあれば、大概のものを読みこなしていた。で、人生で初めて文章を書くということを覚えたのだ。口はそれなりに、達者な息子だけど、やっぱり文字を使うといつもとは違った言葉が出てくる。産まれたてのような文章を毎日持って帰ってきてくれることが、密かな私の楽しみにもなってきた。私がこうやってコネくりまわして書いた文章とはまったく違って、さらりと、でもちょっとどきりとした、あっけないような文章。まだまだ、自己表現とまでは到底いかないけれど、誰にも強制されず、本人も楽しんで毎日書いているようだ。いったいいつ書いているのか聞いてみたら、お昼休みだという。給食が終わって、友達同士ふざけたり、片付けをしている子がいたり。そんな喧騒のなか、一人自由帳に向かって鉛筆を走らせている息子。息子らしいといえば、らしいのだが、母親がこうやって何かしら言葉をつむいでいるのを知ってか知らぬか、変なところが似てしまったなあとなんだかくすぐったい。とにかく、母親としては、息子が生み出してきたものは宝物。毎日せっせとスクラップしている。調子にのってブログにしてみたので(もちろん息子も了承済み)興味ある方は、どうぞごらんください。って喜ぶのはジジババくらいかな。やすみじかんのひとりごと
2008年07月02日
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登録終了。しかしまあ、年々面倒なことが増える増える。でも、うまい具合にオイシイことも年々グレードアップ。だから生きることはやめられません。頭の引き出しの中、そろそろ窮屈になってきた。少しずつ、整理していかないと。まあ、そのための道具ですね。ここは。はじまりはじまり。
2006年02月27日
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