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【2015年12月7日 手術前日】入院。前日15時に入院。採血をしたくらいで、あとは部屋でまったり。手術前にお決まりの、剃毛&浣腸が無い。どちらもこの病院では必要ないとのことだった。(私が知る限りでは他のどの病院もこの2つは行っている)夕方麻酔担当医が部屋に来てくださった。私と同い年くらいの女医さん。この病院開院以来2000件以上の手術を、すべて一人で担当しているという。あの先生が信頼して任せている麻酔医というだけあって、こちらの目をみてとても丁寧に麻酔の流れを説明してくださった。こちらが気にしている首については、手術室に入ってから、私の持参したものを含め、何個か枕を試してみて決めましょうということになった。同意書にサインを求められたので、私がふざけて「二度と目覚めないかもしれませんという記述は無いのですね」と言うと「大丈夫、必ず目覚めます」と真っ直ぐこちらを見て仰った。後は特にすることもないまま、夕食の時間。食事は京都の病院らしく、おばんざいのような和食中心のおかずが、きちんと和食器に盛り付けられて出てきた。とても優しい味がして、「理想の病院食」だった。夜はもちろん寝付けず。睡眠薬をもらって眠る。【2015年12月8日 手術当日】手術当日。快晴。朝から慌ただしく準備が・・と思っていたが、私の手術は午後二時から。午前中は特にすることもない。朝から絶食かと思っていたが、思いの外朝食が出た。パン、フルーツ、ヨーグルトを美味しくいただく。普段あまり朝食を食べないので、食べようか一瞬迷ったが、その後のことを思うと、結果的に食べておいて良かった。【12時。手術二時間前】いよいよ準備。手術着に着替え、足には血栓予防のストッキングを履く。看護師さんが来て点滴の予定だったが、午前中の手術が伸びていて、私の手術が開始が遅れそうとのこと。どのくらいの遅れが出るのかまだ見えないので、随時報告に来ますと言われた。手術開始時間は一応の目安で、遅れる可能性もあるということは聞いていたので、特に問題なし。ただ、正直ここまで来たら早く終わってしまいたいというのが本音。手術立ち会いに来てくれた夫と、そわそわと上っ面な会話を交わす。やっぱり落ち着かない。【13時すぎ】看護師さんが部屋に来る。手術は更に伸びているので、とりあえずまだ水・お茶は飲んでもいいとのこと。【14時すぎ】看護師さん点滴を持って来室。とりあえず、点滴開始。でもまだ終了時間わからず、よって私の手術開始時間も未定とのこと。他人事だけど、午前中に手術している方のことが気になる。9時からスタートした手術。予定3時間として現時点で3時間近く遅れている。癒着が酷いのかなあ。それとも何かトラブルがあった?【15時半】看護師さん来室。「遅れているが、心配しないでいいですからね」と優しく伝えてくれる。私は流石に待ちくたびれて、イライラしてきた。おそらく17時ころのスタートになるという。3時間半の遅れ・・は想定してなかったなあ。でも、どうすることもできないので、イライラする気持ちを抑えるため、点滴刺したまま、廊下を手術着のままウロウロ歩く。ペラペラの手術着しか来てないので、寒い。そうこうするうちに両親が到着した。私がまだ病室にいることにびっくり。両親ともまた落ち着かない会話をするが、皆上の空。【16時45分】慌ただしくドアが開いて、麻酔の先生が入ってくる。手術着のまま頭にはキャップを被って、前の手術が終わったそのまんまの格好で私の病室に来てくれた。額は汗ばんで、頬は上気している。「遅くなってごめんなさいね。今準備をしているから、出来次第始めますね。前の手術が長くて、先生やスタッフが疲れて居ないか心配なさっているでしょう?スタッフ一丸となって気合を入れなおして手術するから大丈夫ですよ!」結局午前の手術は延びに延びて7時間を超えた。そのハードな手術を終え、そのままの足で病室に来てくれて私を励ましてくれた。その先生の笑顔に思わず涙が出た。待ちくたびれてイライラしていた自分を恥じた。プロって凄い。そして、この先生たちに手術してもらえる私はなんて幸せなんだろう。私はすっかり落ち着いて、手術の準備が整うのを待った。程なくして看護師さんが迎えに来てくれ、手術室に歩いて向かった。【17時半】手術室の入口で家族に笑顔で(笑顔のつもりだった)手を振って入室する。前室のようなところで、名前生年月日を確認して手術室に入る。手術は3回めだけど、今までで最も狭い手術室だった。過去に入った手術室はとにかく寒い所だったが、ここはそんなに寒くはなかった。看護師さんに促され、手術台に登る。ゆっくり横になると、背中が暖かい。手術台は裸で乗ることを想定して、暖かく保温されていた。緊張していた体が少しだけ緩んだ。麻酔の先生が枕を幾つか持ってきてくれて、順番に試す。高さ、首の位置などを細かに調整して、私は一番しっくりした枕を選んだ。「この枕にします」そう言ったら、すぐに酸素マスクを当てられた。「酸素が出ます」少し不思議な匂いがした。そして「麻酔が点滴から入りますね」と言われて、徐々に頭がクラクラ・・・そこで記憶は途切れた。目が覚めた時は病室だった。後から記録を見ると、正確には手術室で麻酔から覚めて受け答えしていたそうだが、そこは記憶にない。側に夫が居るように思ったので、「どうだった?」と聞くと「無事に終わって悪いところはなかった」よと言われた。時間を聞くと、「7時半」とのこと。結局私の手術は予定より早く終わって、2時間しか経っていなかった。後で知ったが、手術そのものは1時間で終わっていた。その後、看護師さんが「点滴に痛み止め入れますね」と言ったのを覚えている。後から家族に聞いたら、しつこいくらいに「悪いところはなかった?」と繰り返し聞いていたという。まだ眠るには早い時間だったと思うが、そもそも時間の感覚が狂っていたし、気怠くてぼーっとしていた。ただ、心配していた傷の痛みは大したことがなく、看護師さんが「座薬要りますか」と何度か聞いてきたが毎回断った。少し眠っては看護師さんが来て、検温する。痛みを聞かれるが、軽い生理痛くらい。試しに少し寝返りを打ってみたら、なんと寝返り出来た。枕元の時計で12時位。寝たのか寝てないのかよくわからない。でも不思議と気分は悪く無い。今まで手術の夜は熱と痛みでうなされて唸っているうちに朝、といった感じだったから随分と楽だ。看護師さんが「眠剤飲む?」と聞いてきたので、そのまま飲ませてもらう。そこから数時間寝た(と思う〕。【2015年12月9日 手術翌日】翌朝、6時に起床。と言ってもまだ手術から12時間も経っていない。看護師さんが、「起きられる?」と聞いてきたので、起きてみることにする。そのまま尿管も点滴も外してくれるという。帝王切開の時は3日ほど点滴挿しっぱなしで大変だったので、とてもうれしい。さすがに腹筋に力を入れるとお腹は痛いが、すっと起きられた。楽勝!とばかりに、そのまま手術着からパジャマに着替える。ベッド脇で立ち上がってみたけど、別にふらつくこともなくスムーズに着替えられる。トイレもそのまま行ってみる。やっぱり楽勝だった。「腹腔鏡手術を受ける方へ」の冊子に書いてあったが、術後の痛みは想像できる痛みを10として1から2、痛くても3から4と誠にその通り。傷の痛みは1か2で収まっていた。着替えて、朝食が出るまでに、喉が渇いたといったら、ゼリーとりんごジュースが出てきた。ごくごくと飲み干す。美味しい!朝食はおかゆ。和食器に入っているのが嬉しい。完食、と調子に乗っていたら、肩のあたりに違和感が。これも事前に聞いてはいたが、お腹に入れたガスが抜ける際に肩や横隔膜などに痛みが出るという。これが曲者で、この後数日はこの痛みとお腹の張りに苦しめられる事になった。痛みは筋肉痛を鋭くした感じ。今まで経験したことがない痛みだった。それでも傷口はほとんど痛まず。腹腔鏡手術のメリットを享受した。【2015年12月11日】夜診の終えた先生が手術の説明をしてくれるとのことで、部屋に向かった。希望すれば手術の映像を見ながら・・ということだったが、気分が悪くなりそうだったので、映像は見ないでで説明を聞いた。手術は予定通り、右側卵巣を摘出。万が一を考えて、お腹の中で卵巣を袋に入れた状態で取り出したので、のう腫の内容物がお腹に漏れだすこともなく、スムーズに摘出できた。術前に懸念されていたお腹の中の癒着は殆ど無く、過去二回の帝王切開術が大変丁寧に行われていたと思われるとのこと。ちなみにどこの病院で帝王切開をしたのか、わざわざ聞かれたくらいだった。取り出した腫瘍は先生が中味を見てみたところ特に悪性の所見はなかったとのことだった。病理検査に出しているので、その結果を持って確定診断となる。とりあえず、ほっとして涙が出た。そして同時に先生やスタッフの方に心から御礼を言った。そして、先生から言われた。「大きな病院で腹腔鏡手術をしている所は多いのに、このような小さな病院を わざわざ選ぶ患者さんは、病気について懸命に調べ、勉強する方ばかりです。 言い換えれば、そのように色々と調べる方はそれに伴う、悩み、不安に耐えうる力を 持っている方ということです。 回復したら、ここに辿り着いたそのパワーをどうか、 社会や次世代(子どもたち)のために使っってくださいね。」と。私が今感じている大きな感謝の気持ちは、これから周りに還元していってくださいね、ということだった。先生は先生で、ご自身が出来ることを最大限続けていかれる。最大限と書いたが、本当に先生は休みを取っていない。月曜から土曜までは診察と手術、日曜はその週に手術を受ける方への術前説明の日に充てられていた。看護師さん、受付の方、掃除の方、食事の調理師さん、誰もがプロフェッショナルで、丁寧で完璧な仕事をしている病院だった。私は、そのことにとても感銘を受けて、これからの自分に大きな力をもらった。私は人一倍気が小さくて、怖がり。なので、大した病気でもないのに、大騒ぎして、あーでもないこーでもないと、自ら不安を大きくするところがある。その上、疑い深いから中々先生を信用できず、あれこれ調べまくる。そして、調べてまた不安になる。この自作自演とも言える、面倒なドタバタをこんなに評価してもらえるとは。しかも、それは自分の弱点だと思っていたけれど、先生に言われると、それが何かに活かされるような気がしてきたから不思議。病室に戻る廊下で私は心から思った「この病院で手術して良かった。そして、これは自分にとって必要なことだったのだ」と。部屋を出る前、USBメモリを手渡された。手術を録画した映像が入っているという。「要らなかったら消して、普通に使って下さい」と先生は言った。私は見る勇気はなかったが、一つの記録として大切に取っておこうと思った。しかし、手術の映像を渡す先生って、なかなか珍しいと思う。どこに出してもらっても結構ですという先生の言葉に、手術に対する揺るぎない自信が伺える。【2015年12月13日】術後5日で無事退院。まだお腹は張っていて、普通のズボンは履けない。傷は力を入れると痛い。車の振動がお腹に響いた。傷は日にち薬だからしばらくは痛んでも仕方ない。腹腔鏡手術といっても手術は想像以上に体に負担をかけているから、年末年始はくれぐれもおとなしくしているように、と念を押された。【2015年12月28日】術後診察日。病理検査の結果は良性。術後の回復も順調とのこと。そこで、入院中のカルテと数々の検査結果、手術の記録(何時何分にどういうことをしたかという詳細な記録)麻酔の記録(術中の血圧、体温、使用薬剤とその量など詳細に書かれている)を渡された。通常患者には渡ることがないと思われる、その専門的な書類にびっくりした。私は物珍しさもあって、それら書類を食い入るように読んだ。今までの診察も今回の入院手術も、すべて患者がどのような医療行為を受けたかが、最大限分かるように情報開示されていた。その極めつけが手術の映像。私が「素晴らしいですね」と先生に伝えたら、「それでもまだまだ足りない、至らない所はあります」との先生の弁。この謙虚さ・・本当に医者の鑑の様な方だ。家に帰って、すっきりした気分で、一区切りにと、手術の映像を見てみることにした。感想は・・見ていてお腹が痛くなった。自分のお腹の中はあんまり見るものじゃ無いですね(笑)
2016年01月05日
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めったに更新しないこのブロク。たまに書いたかと思えば、病気の話ばかり。長く付き合ってきた病気なので、ひとまずの区切りがついたところで記録しておこうと思う。【2013年10月】ことの始まりは約二年前。婦人科のがん検診の時に、右側の卵巣に見つかったのう腫。のう腫と言うのは卵巣に出来た腫瘍のこと。袋状になったもので、その中身が血液だったり脂肪だったり、様々な種類がある。その種類は多岐に及んでいて、卵巣という場所柄(ある意味iPS細胞の集まり的なところ)か、のう腫の中味が髪の毛だったり、歯であったりすることもあるらしい。一番最初に受診したのは地元の総合病院。エコー検査でのう腫を確認したところ、白いものが写っていた。診察室で先生が絵を書きながら説明した。先生の診断は「皮様性のう腫」ということで中味はおそらく、脂肪もしくは髪の毛、歯などとのこと。このタイプは大きくなることはあっても小さくなることは無いとのことで、いずれは手術になことが多いという。先生はとても気軽に「手術で取りましょうか?」という。看護師さんに「手術の空きって何時があるかな?」と、どんどん話を進める。私は全く先生のペースについていけず、必死で先生の話をストップして今この大きさでも手術する必要があるのかと食い下がった。何のことは無い「別に急ぐことはない」という。ちなみにどういう手術になるのかと聞くと、「二回帝王切開をしているので開腹手術になります」とのことだった。手術という言葉にショックを受けつつ、あまり納得行かないまま帰宅。で、いつもの通り疑い深く、調べ物大好きな私はそこから、病気の事、手術のことを調べ始めた。私の場合、調べると言うと割合で言えばネット6割、本雑誌など書籍が2割、人づての情報が2割くらいになる。これがどこかに偏るといけない。当たり前だが、情報量は圧倒的にネットが多い。ただ、真贋を見極めるのが大変。なので、先に本で大枠の知識を固めてから、ネットでの様々な情報を集めていく。その上で最も重要なのが、人づての情報だ。情報量は少なくても、信頼度が高い。それに、仮にそれが個人的な傾きを持った情報だとしても、その人をよく知っていたらその辺はこちらで修正して(例えば何でも大げさに言うタイプの人なら、そこを差し引いて)受け取る事ができる。今回も同世代の女の友人に相談してみたら、意外にも同じ病気の人が数人いた。中には既に手術した方も数人いて、その一人に「先生によっては開腹しなくても腹腔鏡手術ができるかもよ」と言われて、早速腹腔鏡手術の道を探ってみることにした。すると、どうやら過去に開腹手術をしていても、腹腔鏡手術は可能なことが分かった。この腹腔鏡手術というのはお腹に穴を開けて、カメラと器具を入れ、ガスでお腹をふくらませた空間の中で、カメラ頼りに手術をするというものだ。いわゆる開腹手術に代わる術式として多くの病院で普及していて、胃や腸、肝臓や胆囊そして婦人科などの領域で多く行われている。お腹を大きく切らなくていいので、術後の痛みが少なく、回復も早いという。ただ、術者の高い技量が必要らしく、それなりに多くの手術をこなしている、腕の良い先生を探さないといけないということがわかった。しかも、どのページにも書いてあるのが、過去に開腹手術をした人は、大抵の場合腹腔内が癒着を起こしているので、癒着がひどければ腹腔鏡手術から開腹手術へ術中に移行することが有るとの事だった。私の場合、一回目の帝王切開で、卵巣の一部を切除している。おそらく、何らかの癒着があってもおかしくない。ということは腹腔鏡手術のハードルは高いだろうな、と予想された。【2014年1月】その後色々とネットで調べて、婦人科の腹腔鏡手術をやっているという病院を幾つか見つけた。腹腔鏡手術を専門にやっている病院を受診し、そこでMRI検査を勧められ、検査の結果卵巣のう腫は最初に診断された「皮様のう腫」ではなく、『子宮内膜症』によるものだとわかった。そして、過去に帝王切開を複数回していても、腹腔鏡手術は可能だということが分かった。ただ私は手術する気分になれず、経過観察を続けた。【2014年2月】その後、また、知り合いに病状について相談する機会があった。すると、たまたまその方の友人二人が、最近京都の病院で腹腔鏡手術を受けたという。その先生がとても良い先生だったとのことで、その病院を受診してみることにした。京都烏丸にあるその病院は、細い通りにひっそりと町並みに馴染んで建っていた。後で知ったが、そこは京都で最初に出来た産婦人科医院だという。現在は建て直され新しい建物であったが、歴史のある病院らしい。院内はホテルのように高級感があり、受付の方、看護師さんが感じよくキビキビと仕事をしていた。予約をしていったにもかかわらず、かなり待つ事になったが、ゆったりとした待合室で静かに過ごすことが出来た。やっと呼ばれた診察室は待合室からドアを二回開けないと入れない、静かな部屋だった。婦人科の診察室で、カーテン一枚の仕切りで次に診察を待っている人に丸聞こえの状態で自分の話をしないといけないことが多々あった。病院というのはそういうものだからと割りきっていたけれど、婦人科という場所柄話しずらい内容の時もあり、もう少し配慮があればと思うことがあった。通された部屋は大きなテーブルを挟んで向こう側に、先生がパソコンを前に座っていた。開口一番「おまたせして申し訳ありません。」と頭を下げる先生。私は少し恐縮しながら、手前にある座り心地の良い椅子に腰を下ろした。先生はとても穏やかで、私が持っていったMRI画像を丁寧に見ながら説明をしてくださった。ひとしきり説明が終わったあと、「私が一方的に話してばかりで、申し訳ありません。何か、質問はありますか?」と仰った。いつもお医者様にこちらから質問をする時、先生が忙しそうだったり、急かされている様な雰囲気に負けたりで、タイミングを見つけるのに苦労することが多い。こちらの先生は、「さあどうぞ」と私に質問タイムをくださった。腹腔鏡手術についての不安、私の現状とどのくらい急ぐのかということ、その他細かなことを聞いて、その一つ一つに丁寧に答えていただいた。まだ手術に抵抗がある私の希望で、とりあえずは三ヶ月ごとの経過観察をすることになった。血液検査をして、特に投薬はなし。会計を済ませると。領収書と共に一枚のA4の紙を渡された。そこには今日診察で先生が説明したことと、今日行った血液検査の内容、結果が何時出るか、次回の診察はいつかなどが詳細に書かれてあり、文末に先生の手書きのサインがあった。この病院では毎回、診察の後にこのような紙を全員に渡しているのだ。その上で「いつでもご質問等ありましたら、お電話ください」と先生はおっしゃっている。このようなことは初めてだったので、いつも病院に行った時に残る「消化不良感」は全くなく、毎回気持ち良く診察室を出ることが出来た。こういうやり取りの中で、3ヶ月毎の経過観察と半年ごとのMRI検査を続けた。とても人気のある病院らしく毎回待ち時間も生じ、場合によっては先生が少しお疲れでやりとりが愛想のない時もあったが、先生に対する信頼感は段々と深くなっていった。【2015年3月】経過観察を続けていたが、残念ながら私ののう腫は段々と大きくなっていた。それと同時に、最初からエコーに写っていた白い影のことを先生が気にするようになってきた。卵巣のう腫はそのほとんどが良性であるが、なかには悪性のものが稀にある。途中から悪性に転化するものもあるという。普通、怪しきものは生検といって、直接その組織の一部を取って検査をすることが多いが、卵巣の場合、体の奥のほうにあるのでそれが難しい。そのために、私は半年ごとのMRI検査をし、血液検査で腫瘍マーカー値もチェックしてもらっていた。ただ、MRIも血液検査も「絶対に良性」と確定診断出来るものではないらしい。そういう不安要素に加え、のう腫の大きさが増していることも気になると先生が指摘した。また、先生の最近の経験上卵巣がんはとても増えているとの事だった。実際良性と判断して手術を行い、その後の病理検査で悪性であるとわかった患者さんがポツポツあるという。「そろそろ手術をしたほうがいいのでは」と薦められた。漢方薬を飲んだり、食事に気を使ったり、運動してみたり、一応あがいては見たが、のう腫は小さくなることはなかった。そして自覚症状(下腹部痛、腰痛)も少しずつひどくなってきて、自分の中では「手術は嫌だけど、今の先生だったら受けてもいいかな」という気持ちが徐々に芽生えてきた。【2015年7月】経過観察で受診。半年ごとのMRI検査の結果が帰ってきた。今までは「恐らく良性」との診断だったが、今回はのう腫の肥大もあるので、一度造影MRI(造影剤をつかって、腫瘍内の血流などを調べる)を勧めるというものだった。しかし、私は喘息の持病があるので造影MRIは行えない。先生はの診断は「手術しましょう」だった。あーついに来たか。しかも、今回先生は何時になくシビアな表情で、「○○医大を紹介します」と言った。「え?!先生が手術するんじゃないの??」私は混乱した。先生の意見としては、医大だと手術中に取ったのう腫を迅速判断して、悪性の所見があれば、必要に応じて反対側の卵巣、子宮などをそのまま取る手術が出来るとのことだった。私はようやく「この先生だったら、手術してもいい」と思えるようになってきたのに、別の病院を紹介するだなんて、とても受け入れられ無かった。普通はこういうのは先生の指示に従うのだろうけど、今まで築いた信頼関係か、はたまた、追い詰められた火事場の馬鹿力か、何時になく我儘な私がむくむくと立ち上がった。「今まで先生のところで手術可能と言われてきた状態と、今回とではどういう変化があったのか」「今の状態で先生のところで手術することは、リスクが大きいのか」「私は手術するなら先生がいいのですけど、いや、先生じゃなきゃ嫌なんですけど ここで手術していただくことは無理ですか」最後は駄々っ子のように、懇願していた。先生は一つ一つ穏やかに答えてくれた。「状態は大きくは変わらないが、最近の手術で良性→悪性という方が立て続けに続いて、 その方々は、別の病院で再手術ということになっているので、そのリスクを減らしてあげたかった」「今の状態で良性→悪性というパターンのリスクは最初から変わっていなくて2%程度」「もちろん私が手術することは可能です。ただ、悪性の場合は別の病院で再手術という可能性が 残るということです。」そういえば、色々な文献にも乗っているし、相談した医療関係者にも言われているが、40歳代の私のタイプの卵巣のう腫の悪性化は2%程度。それを低いと思うか高いと思うか。非常に難しい判断を迫られる。そのため、それを補完する形で、MRI検査や血液検査、エコー検査が行われるが、私の場合、なんらかの白い影が写っていることが先生の一番の気がかりだった。診察室で、黙りこんだ私。「先生が手術することは可能」という言葉が一番心に残った。私は珍しく強く決断をした。しかも短い時間で。「先生のところでやって下さい」。先生の提言を覆すという、思い切った行動に出た私。くるくると色んな不安はよぎるが、こんなに手術が嫌だという私が、体を預けてもいいと思える何かがこの病院、先生にはあった。毎回質問することに、嫌な顔せずそして包み隠さず答えてくれること。忙しい中、明らかに診察時間外になっているにもかかわらず、電話の返事をくださること。診察内容、検査結果を必ずコピーしてこちらに渡してくれること。先生の所作の一つ一つが、とても静かで丁寧なこと。無駄な検査、投薬を極力しないところ。看護師さんが皆穏やかで、キビキビとしていて、採血がとても上手なこと。病院が何時行っても塵一つなく、ピカピカに掃除されていること。手術内容を録画して、術後に渡してくれること。などが、疑い深い怖がりな私を納得させるに足りる要素だった。だって、意識のない中体の中をあちこち、切った貼ったされる・・誰だっていい訳はないでしょう。先生には「この人だったら」と思えるものがあったのだ。手術は10月8日に決まった。帰りに「腹腔鏡手術を受ける方へ」という冊子をもらう。A413枚に渡るその書類には、手術までの検査の流れ、準備物、入院中~手術当日~退院までの詳細なタイムスケジュールが書いてあった。検査、投薬なども細かに記されていて、どんな感じで事が進むのか手に取るようにわかる。そして、術後に起こりうることも詳細に書かれていて、その対応法まで記されていた。この冊子、手術までに何度目を通したことか。考えうる質問はほとんど網羅されていて、コレを読めば手術に関しては特に何も質問が浮かばないほどだった。完璧。【2015年9月】手術一ヶ月前の術前検査。心電図、レントゲン、血液検査、尿検査、止血検査などが行われる、予定だったが、当日私の首が悪化。動くこともできず、泣く泣く術前検査をキャンセルすると、残念ながら、手術自体も延期せざるを得ないとのこと。大きな病院なら融通も利くが、先生一人でやっている個人病院。その上患者さんが多く、先生は休みなしで毎日診察、手術をこなしているのを知っていた。泣く泣く手術は延期になり、12月8日が手術日になった。【2015年11月】今度は無事に術前検査を受けられた。検査諸々とは別に、詳しい問診があった。麻酔のための既往、体質に関するものと、手術に関する不安など何でも良いので言って下さいとのことだった。私は痛めている首が不安だと相談した。何故なら腹腔鏡手術はお腹にガスを入れる関係で、足を高く挙げる姿勢で長時間居なければいけない。それが首に負担になりはしないかということがとても不安だった。看護師さんはそのことを「できる限りケアしますので何でも言って下さい」と言ってくださった。術中の姿勢については麻酔医がきめ細やかに対応しますとのことだった。首については、若干の不安あり。ただ、手術についてはもう「お任せしよう」という大船に乗った気分で、手術までの日々を過ごした。
2015年12月18日
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久しぶりに、私の近況報告。しつこいようですが、内容が「首」です。私、もしくは「首」に興味のない方には、大変退屈な文章となっておりますので、先に断っておきますね。今日は内容からして、いつもの「である調」ではなくて「ですます調」で書きます。昨年、夏の終わりに首を痛めてから、早6ヶ月が過ぎました。各方面色々とご心配をおかけして、本当に申し訳ありません。「スッキリ治ったー!」と報告したいと思い頑張っていますが、今のところまだ完治とは言いがたいです。整形外科のリハビリと、鍼灸院に通う日々です。どんな感じ?とよく聞かれます。動けるの?ランチくらいは誘っていい?と色々優しく推察してくださっている方々へ。首はじっとしていれば痛みはありません。動かすと、いわゆる首の可動域の半分くらいは動きます。例えば、普通の人は「右向いて」と言ったら、90度位は向けますよね。私はだいたい45度くらいでいっぱいいっぱいです。で、左に回す時、45度に届きそうになると、首から肩にかけて、痛みが走ります。激痛ではないです。ただ、その痛みは首を正面に戻しても、残ります。残る時間は15分位だったり、半日位だったり。その時の調子によります。今度は首を上下に動かしてみます。天井を見ると・・ほとんど見えません。うがいも、あと少しで出来そうで出来ない角度です。インフルエンザの時期にうがいが出来ないもどかしさ(笑)目薬は横になって点します。一応、軽いキスなら出来る角度です(余計なこと書きましたね)。今度は下を向いてみます。これは結構普通の角度まで動きます。この上下の動きはあとに痛みを残しません。こんな感じで、動きには色々制約があります。どうしても首が回らない分を体の動きでカバーしようとするため、多少ロボット的な動きになります。滑稽ですよね。あと、全体的に視野が狭くなっています。なので、家の中であちこち体をぶつけます。掃除も隅々まで行き届いていないでしょう。先日、久しぶりにパーマをかけようと思い立ちました。ただでさえひきこもり状態でクサクサしているので、気分転換にと。でも、そのためにはあのシャンプー台をクリアしなければなりません。いつもお願いしている美容師さんに電話で相談。「首を大きく後ろに反らすことが出来ないけど、やっぱりシャンプー台無理かな」「ちょっと試してみる」ありがたいことに、アシスタントさんを使って、終業後に色々シュミレーションをしてくださったみたいです。結局、私が実際に台に寝てみて大丈夫か確認してから・・ということで美容院へ行きました。普通のシャンプー台の首のところに、角度がつかないように首枕(タオルとビニール袋で手作りしてあった)をセットしてありました。ホントにありがたい。早速試しに寝てみました。「いけそう!」「じゃ、やってみるか、痛くなったらすぐに言ってな」「オッケー」とシャンプーが始まりました。お湯で頭全体を湿らせて・・・って「やっぱり痛いわ(笑)」と、一分も経たないうちに、シャンプー断念。せっかく色々準備してくださったのにね。本当にごめんなさい。どうやら、首の角度の問題ではなくて、頭が宙に浮くことで首に頭の重さがかかることが問題のようでした。頭も支えるシャンプー台(洗いにくいよね)を開発してくれとも言えず、しばらくはドライカットのみで行くことにしました。あと、首の動きで、よくあるのがいわゆる「首をかしげる仕草」。若い子がやると可愛いヤツです。これも、ほとんど動きません。痛いのです。首はかしげなくても生きていけそうなので、無理はしていません。最終段階として、首をぐるぐる回す運動、はもちろんまだ無理です。恐怖感があり、試すことも出来ていません。リハビリの先生には、「動かさないと、筋肉が固まるから動かして、でも、痛みが残るようなら無理はしないで」と言われています。なので、基本は動かそうとしています。でも、大概の動きで痛みが残ってしまいます。その辺を打破できないかと、昨年末から鍼灸院に行っています。もともと鍼は大好きでしたが、今の症状に適しているかわからなかったので整形の先生に相談したら、「ぜひ行ってみて」と言われました。私の場合、首の深いところの筋肉が固まってしまっているので、そこを治療できる先生を色々探しました。結局鍼灸院だけで、6軒回りました。(一回だけ行ったのも入れて)今のところに落ち着いてようやく2ヶ月が過ぎました。可動域が広がりだしたのは、鍼灸を初めてからなので、やはり鍼灸の力はすごいと思います。あと、それとは関係なしに、天候、気圧の影響を多大に受けます。雨の降りだす前、ひどく冷えた朝、とにかく悪化します。これはおそらく首が自律神経に大きく関わっているということだと思います。とにかく、普通の怪我のように、日にち薬でスイスイとは行きません。首が複雑構造なのが原因のようです。レントゲンもMRIもとりましたが、整形の先生ですら、具体的に私の症状がどこから来ているのかが特定出来ないのです。「恐らくこの辺を痛めているのだろう」とか、そんな言い方です。それくらい私でもわかります。鍼灸の先生もたくさんの体に触れてきているだろうけど、やっぱり「手探り」感を否めません。それくらい、首は複雑なのだそうです。そんなに、大切なところを痛めてしまった。しかも、わざわざ、治療にと行った整体で。ちゃんと知識があれば防げたような気がすることに、いつまでたっても、後悔の念が薄れません。情けないですが。数年前に前庭神経炎を患って、歩けなくなった時もそうでしたが、病気や怪我は、人生にとってマイナスといえばマイナスですが、必ず、何かプラスも与えてくれます。人に甘えることが苦手な私が、ほぼ強制的に毎日毎日誰かに甘えっぱなしの生活を強いられます。申し訳ない気持ちで、卑屈になってく自分。「ありがとう」を素直に言えば良いのに。でも、意地を張っていても、一向に症状も良くならないし、長期戦の様相。もう、あちこちに、素直に甘えるしかない状況に追い込まれました。実母が病気がちなこともあって、結果として義母に甘えっぱなしになりました。そりゃ遠慮もします。気も遣います。でも、仕方ないのです。家事が出来ないのですから。義母は本当に良くしてくださいました。もともと仲の良い嫁姑でしたが、今回のことで更に距離が縮まりました。私も義母の前で泣いたし、義母も私のために涙を流してくださいました。本当の親子になれたような気がします。家族には本当に助けられました。一緒に心配して、一緒に闘ってもらいました。家族だから、当たり前・・だとは思えません。他人行儀に、心からお礼を言いたい気分です。症状は三歩進んで二歩下がる、の繰り返し。この「二歩下がる」の時に、心が折れるのです。でも、子どもたちもいるから、わめき散らしたいのに、それが出来ない。とにかく我慢する。それでも、こぼれ出る時も多々ありました。折れそうになる気持ちを立て直すのは本当に大変です。自力ではほぼ不可能。そこが本当に弱い私。いつもそう。だから、他力にすがるのです。これもいつもそう。たくさんの友人たちからの、励ましや、メール、手書きの手紙だったり、電話だったり。お菓子や本が送られてきたり、家まで来てくれた形跡があったり。あえて、しんどいだろうからと、連絡を控えてくれている・・それもまた嬉しかった。とにかく、首を痛める?!というわかりにくい事態に対して、精一杯の想像力を働かせて色んな方法で私を励ましてくれる人たちの言葉が、気持ちが本当に力になりました。感謝しかありません。首は自分で治すしかないけど、傾いた心は他人の力でもとに戻るのです。こういう経験が、また私を動かします。今度は私が気持ちを温めてあげたい。大したことは出来ないけど、少しでも誰かの心の温度を上げることができたらいいな、と体が動く範囲で、また色んな活動を再開していけたらいいなと思います。それにしても、首は大切。人の話を聞くにしても、ウンウンと首を振らないと、聞いているよって気持ちが伝わらないでしょ。運転するにも、首が後ろ向かないと駐車できない。とりあえず、駐車場が狭いところはなるべく避け、どうしても停めないと行けない時は体ごとひねって、面白い動きで駐車しています。首は自律神経にも大きく影響していて、食欲がなくなったり、不眠にもなります。ダメだとわかっていても睡眠薬、激増してます。私は自分の首、実は結構好きでした。どんなに高いタートルネックにも埋まらない、細くて長い首(笑)。でも、今はこの首取り替えてほしい気分です。悲しいかな、それくらい、違和感がある。最初の問いにもどりますが、ランチくらいは出来ます。夜も調子よければ出られます。ただ、天候、気圧なのか、「痛い日」があります。痛い日はたいてい首肩もガチガチに凝ります。笑顔が作れなくなるくらい。なので、当日キャンセルもあり得ます。こんな感じで良ければ、皆様遠慮無く誘ってくださいね。では、とにもかくにも、皆様首は大切に。
2015年03月11日
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小学校で読み聞かせのボランティアをして、今年で五年目。毎回自分で選んだ本を読んで、子どもたちと楽しい時間を共有している。元々絵本が好きなので、今まではいわゆる絵を見せながら読む、「絵本の読み聞かせ」をしてきたが、そろそろ新しいことにチャレンジしようと思い、今年はいわゆる「朗読」をしてみようと思い立った。ちょうど先月、「読み聞かせ講座」なるものがあり、もう一度読み聞かせの基礎を見直す機会があった。そこで、最後の質問コーナーで「朗読にチャレンジする予定だが、絵本と違って、何か気をつけることはありますか?」と先生に質問してみた。今までは、お話だけでなく、素敵な「絵」という子どもにとってこれ以上ない情報源があったので、読み手の表現力はそこまで必要とされていなかったかもしれない。子どもは感覚的にまず絵から入るので、絵をバックに私の読むお話が流れているという状態で、絵の力を借りていることが多かった。でも、朗読となると、もちろん絵がないので、絵に頼ることが出来ない。おはなしを伝える手段は私の声のみ。先生は最初に「ご自分の声は好きですか?」と質問された。この私、ハイと言えなかった。いつも鼻声だし、女性にしては低い声だし。「まずはご自信の声を好きになってくださいね」と言われてはっとした。いつも読んでいて思うことは、まず第一に私自身がその絵本を好きであること、それが子どもたちにお話を伝えるときに、とても重要なのだ。だから、図らずも朗読するということで、自分の声と向き合うことになった。不満はあるけど、この声で表現していくしかないんだろうな。一応最終目標として自分の声を好きになれるように、ということも願って。私のもう一つの不安は、朗読する人と子どもたちの距離感だった。いつもは絵本の絵に、私も子どもたちも注目することで、いっぺんに一つになれた。でも、今回は私は本に目を落とし、子どもたちは・・・一体どこ見て話を聞くんだろう?朗読者と、聞く人との間になんとなく、気まずいような空間ができやしないかな、とそのことが、不安になった。先生のアドバイスは、朗読といっても、要所要所で、読み手の顔を見るんですよ、との事。絵本でもそう、字を追いながら、子どもたちの目を見るその瞬間が私は大好きで、子どもたちの目がきらきらしているとこっちまで、うきうきしてくる。そっか、そんなに難しく考えなくても良かったのだと、ようやく合点がいった。絵は読み手、聞き手がそれぞれの頭の中に自由に描く。ただ、それだけのこと。あとは、その絵を描くための情報を私がしっかりと伝えればいい。ということで、最初から長編も厳しいので、時間内にさらっと読める短編を探した。先生お勧めの本「木曜日はあそびの日」(グリパリ作 岩波少年文庫)の中から、一足の靴というお話を選んだ。一足の夫婦の靴(右足が夫で左足が妻)が主人公で、その靴を買った婦人の日常と、靴の世界が交錯するファンタジー。とにかくその靴の夫婦が仲良しで、彼らの会話(夜の戸棚の中で繰り広げられる)と人間界の会話のちぐはぐさが可笑しい、短いながらも楽しいお話だ。長さもゆっくり読んでも15分以内で終わる、ちょうどいい長さ。あとは、読み方の問題。とにかく会話が多いので、登場人物が混乱しないように、声の高低、大小を駆使して何とか会話が目に浮かぶようにした。よく、絵本なんかでも、演劇さながらに声色を使って演じ分ける方がいるのだけれど、一応読み聞かせの世界では、それはご法度(紙芝居は別)。必要最小限の演出で、後は聞き手の想像力に任せる。それが、読み聞かせの極意ともいえるかも。こちらが派手にやればやるほど、子どもたちは楽しむだろろうけど、受け身になる。今の子どもたちは、ゲームにテレビに日々刺激的な映像に触れているから、言葉から想像する力はきっと弱くなっているのだと思う。だからこそ、言葉に耳を傾けるという時間がとても大切なんだと(私は)思っている。とにかく初めてのことなので、いつも以上に念入りに練習を重ね、今日は息子のクラスである5年3組で読んできた。本から顔を上げるポイントまで決めておいて、途中何度も子どもたちの顔を見た。あちこち余所見して聞いてるだろうな、と高をくくっていたら、なんと子どもたちは読んでる私の顔をじっと見ていた。だから、どこを向いてもたいてい子どもたちと目があった。読み進んでいくと、一人の女の子がじっと自分の上靴を見つめて、動かしているのが目に入った。私たちの知らないところで、会話をしている靴たちの世界(もちろんファンタジーだけど)にすっと入っているのがわかって、正直やった!と心の中でガッツポーズ。途中幾度か子どもたちが声を上げて笑う場面もあり、あっという間に読み聞かせが終わった。絵本より、ずっと難しいかなとは思っていたけど、むしろ冷静に子どもたちの心の中を確認しながら話が進められて、正直楽しかった。まだまだ読みたい本で長編なのもあるので、今年は少しずつチャレンジしていこう。読み聞かせ講座の中で、先生が最後におっしゃったのは「言葉の力を信じたい」。この歳にもなると、言葉の持つ力だけでなく、むしろその薄さ、儚さ、もっといえばいい加減さなどという、言葉の限界なんかも嫌というほど味わってきて、最近の私はもう「言葉は信用ならん」とまで思ったりもしていて。でも、やっぱり言葉でないと伝わらないものもあるし、言葉にしなくてはいけない時もある。おはなしが言葉に乗って、子どもたちの中で生き生きと動き出したとき、やっぱりその言葉の力には、参りましたというしかない。何を隠そう、こうした思いをまたつらつらと書きつづっている私は、やっぱり言葉の力を信じてるんだろうな。
2012年06月11日
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今年も恒例の?母校(高校)でのワークに行ってきた。ウチの高校では家庭科の授業で親学習を取り入れていて、部外者である私たちに一コマ授業をさせてくれる。家庭科の先生たちの「出来るだけ実社会のことを知ってほしい」という願いから実現できた授業。私にとっては、仕事としてだけではなく、母親としても貴重な体験になっている。昨年は卵のワークをした。今年は別のアプローチでと通常のテキストを使って「自分と親」について改めて考えてもらうワークを行った。高校一年生つまりは16歳の思春期真っ只中の生徒に直球で「親」とぶつけても、いったいどうなんだろう。でも、身近すぎて普段は考えることもないだろうと思って、強制的にならないように向き合ってもらった。いつも通り、エピソードの親子のやり取り(帰りが遅くなった子どもに親が注意する場面)をグループで読んでもらい気づいたことをシェアしてもらう。「遅くなるときは、ちゃんと連絡するように」と子どもの話を聞かずに一方的に注意する親に、「貴方なら親にどういう風に返事しますか」と聞いてみたら、大体の生徒は「わかったよ」とか「次から気をつけるよ」とかその場しのぎの返答を。「ほんとに納得してる?」と聞いてみたら、やっぱり本心は『うるさいなあ』とか『べつに、おしゃべりしてただけやん』とか腹には思ってるよーと表情が緩んだ。でも、あえて本心は話さず、衝突を避けたいのだという。まあ、自分の子どものころを振り返ってみても、その頃だと、真正面から親と向き合ってたかというと、そうでもないし。「わかってもらえない」自分は、寂しくもあり、でもどこか「自分だけの『自分』な気がして頼もしくもあり。そういう年頃なんだなあと。自分が親の立場で考えると、寂しい気もするし、もっとぶつかりたい気もする。でもまだまだ「自分製造中」の中途半端な彼らだからこそ、逃げたり甘えたりの中途半端も認めてあげないといけないのかもなあ、って。たまたま去年に高校の同窓会があって、皆でアルバムをめくったり、懐かしい映像を見たりしたけど、自分が「高校生」だった頃って、正直はっきり思い出せない。とにかくどうしようもなく何かに夢中だったり、理由もなく可笑しくて、楽しかったり。不必要なほど、自信がなくなったり。漠然とした不安をその場しのぎでも誤魔化したり。かなり、カラフルであることは確かだけど、どこにもはっきりとした焦点を結ばなくて、キラキラしている。出来ればたまにしか開けたくないような、宝箱みたい。確かに、目の前に居た高校生たちは、子どもでもなく、大人でもなく。その中途半端さには、全く気づいていない。もちろんその時期しかない輝きにも。でも、そのままでいいよ。最後に短い時間だけど、私自身の「親」との距離が、高校を卒業して22年経った今どんな風に変わったかを話した。普段はファシリテーターが自分のことを話すことはないのだけど、授業としては経験談、体験談は貴重だという事で。「卒業生です」、と自己紹介したので、その辺のおばさんよりは親近感を持って聞いてもらえたかな。皆しんとして耳を傾けてくれた。私も高校生の頃は親に背を向けていた事や、その後も大きく変わる親との距離、今はとても小さく頼りなくなった親についての気持ちを話した。今はわからなくても、どこかでまた思い出してくれたらいいかな。ただ、ひとつだけ気になったことが。今回、うちの高校には「文理コース」なるものが新設されたらしく、(受験的に言えばそちらの方が、偏差値が高いらしい)私は普通コースのクラスと、文理コースのクラスと両方に入ったのだけど、明らかな違いが。文理の生徒たちの方が、なんと言うか「斜に」構えていて、ワークもサクサクこなすのだけれど、次の授業の単語テストの内職も見事な手さばきで同時進行。でも、悪びれもせず、私たちのワークにもそれはそれで参加してくれている。器用でり、どこか冷めてもいて。先生に聞けば、一年生の時点で、受験する大学や学科が決まってる子が多くて、受験に関係ない授業に手を抜く生徒が多いと。それって、どうなんだろう。私が好きだった、勉強もクラブも行事も全力投球!な校風が変わってしまわないかと少しだけ不安になりつつ、母校を後にした。来年も機会あれば、またワークできるといいな。
2012年02月13日
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4月に発病して4カ月。体調は日に日に良くなり、日常生活はほぼ普通に行っている。ただ、見ている景色は倒れる前のそれと同じではなく、視線や姿勢を動かしたときの、違和感、浮遊感はちゃんと残っている。だだ、それに随分慣れてしまったので、もうこの景色が普段の景色となっている。全く寝たきりだったのが3日間。4日目に身体を起こしてみようとして、起きられないあのショック。一週間でやっとそろそろ歩き出したものの、まるで生まれたての子羊?みたいによろよろ。窓の外を行き交うお見舞いの人たちを見て、正直「あんなふうに普通に歩けるようになるんだろうか」と心底自分を疑ったあの絶望感。うちに帰ってきて、何とか室内は歩けるものの、とにかく船酔いのように気分が悪く、動いてはすぐに横になる日々。一ヶ月が経ってそろそろ外を散歩しようと、表に出ると、開けた視界に脳が混乱して、歩くのがとても怖かった。そして、それからしばらくは一進一退の病状に先が見えず、鬱のような状態に。やっと見つけためまいの専門医の書いたリハビリ本に私の身に起こっていることがすべて肯定してあって、ようやく気持ちが落ち着いた。「治る」のではなくて「慣れる」のだということに気づいて、とにかくリハビリに打ち込む。そうこうしているうちに、「何時になったら元に戻る?」という焦りより、「これはこれで出来ることをやっていけばよい」という現状受け入れの状態までやっと辿りついた。その頃から、気分がふさぐこともなくなったかな。ざっと4ヶ月を振り返ると、こんな感じ。私の病気はあまりポピュラーではなかったし、「平衡感覚」という普段は意識さえすることのないものが侵されるという、私自身も始めての体験だったので、私の内面や見ている景色、そして身体が感じていることを言葉で説明するのにいつも苦労した。そして、いつも伝わらないもどかしさが募った。残念ながら病気の原因ははっきり分かっていないので、「どうしてこんなことになったのか?」を自問しても答えは出ない。(もちろん忙しすぎたとかストレスがあったとか思い当たることは あるけど)ただ、「病気になったことにどんな意味があるんだろう?」という疑問には自分なりに答えを見つけたい気分になっている。このブログをはじめた頃にも書いているが、若い頃は、自分の人生、身の回りで起こっていることを「自らコントロールしよう」ということに躍起になっていた。病気(そしてもしかしたら災害なんかも)はある日突然自分に降りかかってくる。たいていの場合、それは自分の意思とは関係なく。で、誰もが最初は受け身にオロオロとするばかりなのだけれども、あるところまで行くと、必ず折り返し点というか、気持ちの切り替わるポイントが来る。その切り替わるまでの時間が、とても大切なんだと思う。嘆きや落胆に浸っている時間はたっぷりと必要。時に的外れな言葉であっても、周りの励ましもやっぱり必要。そして抱えている自分の気持ちがどうやったって、自分のモノでしかないという「孤独」もちゃんと引き受けなければならない。(解って欲しいとという甘えももちろんあるけど)その上で、満ちた潮が引くように、すーっと気持ちの圧が下がっていく時がある。私の場合何がきっかけだったか、はっきりとは思い出せないのだけど、義務感でやっていた夜の散歩(暗やみに慣れるため)の途中、風に吹かれて歩いているそのことが、とっても幸せに思えた。不意にやってきたその瞬間は、やっぱり力づくではなくて思いどうりにならない現状への「降伏」からもたらされた。これが結構快感なのだけど。「あるがまま」を受け入れる事は難しい。欲望だったり、向上心だったり、生きる力だったり人は自分で目の前の景色を変えることが出来るのも事実。ただ、どこを歩いていても、どんな風に生きていても、避けようのないことが降りかかることはあって、「そのこと」を受け入れないといけない時がある。震災で多くのものを失った人は沢山いるし、私の病気なんて本当にちっぽけな事なんだけど、「受け入れるというのは実は結構な快感である」それを知ることが出来た、というのが今回の病気になった意味ではないかな。と自分勝手に結論付けてみたのでした。
2011年08月03日
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近頃のワタシ、・近所の農産物直売所にハマッている。 最近のお気に入りは無花果(いちじく)。生で食べたり、ジャムにしたり。 ここだけは野菜が全く高騰してない。・秋は週末イベントだらけ。 学校の行事に、稲刈り、あちこちで開催される様々なイベント。 毎週どこかへ出没してる。・髪型がここ二年位ずーっと変わってない(ロング)。・もう随分と長い間、ぐっすり眠れてない(寝つきが悪い、途中覚醒する)。 そのため、あちこちコリコリしているので、鍼灸院通い。もぐさの匂いを プンプンさせて歩いてる。・あまりにも、疲れやすいなと思っていたら、また貧血。鉄剤飲む様に言われる。 しかし、鉄が足りないから、鉄剤って、根本的解決になってないような 気がしてならない。 ・漢方薬も飲んでる。(不眠、貧血)・幼稚園の行き返りの「ママの井戸端会議」をパスする日が多い。 ・子どもたちに「手」が掛からなくなってきた。 勝手に外へ遊びに行ってくれたり、お留守番してくれたり、お手伝いしてくれたり。 (相変わらず、子育ての「気」は抜けないけど。)・そのせいか、夕食が一品増えてるような気がする。・乳がん検診に引っかかって、半年ごとの経過観察。・近しい友人が今年出産ラッシュ。・目がコンタクトを拒絶する日が多い。・あちこち、子育て講座に参加。日々の育児を振り返る。 振り返れば振り返るほど、子どもたちには非はなく、 すべては私の問題だということが分かる。・「フジファブリック」というバンドのCDをほぼ毎日聴いてる。 昨年ボーカルの志村君が亡くなってから、聴き出したが、 彼のファンになってしまった。 長年の奥田民生氏熱がついに醒めてしまったのか、単なる浮気なのか まだ見極められずにいる。 ・ジーパンばかりだったけど、スカート履く様に子供に言われ、 最近スカートの割合高し。・仕事はファシリテーターとイベントレポート記事作成を少しずつ。 どちらも、評判は良い。 ・最近つくづく、自分の耳と鼻が敏感なことが、あまり喜ばしいと 思えなくなってきた。 聞こえてほしく無いこと、臭いたく無いものが増えてきた。と、こうやって書くと、大した近況ではないなー。だから、日々の徒然をブログに書く気にはなれないのだけど。一応、リクエストがあったので、お答えしてみました。今年もあと数ヶ月。平穏に暮らせたらいいなあ。
2010年10月14日
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9日で、39歳の誕生日を迎えた。さすがに、この歳になると、誕生日にわくわくしたり、そわそわしたりしなくなる。それでも、忘れず誕生日を祝ってくれる家族や、友人知人たちのおかげで、何かのけじめの日であることは感じずにはいられない。「今まで生きて来られた事に感謝やね」。いや、ホントよくここまで生きて来られたなあと、自分でも思う。思い出せばきりがない、ピンチの数々。卒論下書きとその資料が入った鞄を、ゲームセンターで盗られたり。深夜にタクシーに飛び乗ったが、所持金が足りず、途中から運転手さんの好意で目的地まで送ってもらったり。睡眠薬を気前よく飲みすぎて、一週間ほど寝たきりだったり。弱ってる時におみくじを引いたら、「生死」という欄(「病気」とか「縁談」とかの並びに)があって、そこに「十中八九死す」と書いてあったり。突然の胸の痛みと呼吸困難で倒れ、そのまま救急車で運ばれたり。妊娠してるとも気づかず、妊娠初期に「飲んではいけない薬」を飲んでしまってたり。帝王切開の手術中に麻酔が効かず「先生、痛いんですけどおお!!」と訴えたり。木枯らし吹き荒む中、ひとり八王子家庭裁判所に調停に通ったり。その他にも、車に轢かれかかったり、飲んで記憶なくしたりとか。いつも、もう駄目だ・・と思ってもどこかから救いの手が。「神様のおかげ」とか思ってたけど、よくよく紐解けばそこにはいつも誰か人の目、人の手があったように思う。39(サンキュー)ということで、やっぱり今年の誕生日は「感謝」の日ということにしよう。あまりに、当たり前すぎて、でもホントに「感謝」出来てるかと言われれば、出来てない。だから、わざわざこの言葉に引っかかるんだろうなあ。お世話になった、数々の人たちへの感謝だけではない。一番忘れがちな先祖代々私へ命を繋いでくれた人たちへの感謝。その一人ひとりにぎゅっと濃い人生が詰まっていると思うと、とても心強い。そして、あたりまえずぎて、お礼すら言っていない近しい家族。どれをとっても、ちゃんと「感謝」の念を持ってるかと言われれば、持ってはいるけど、普段はついつい奥の方へ。これらをどうやって伝えたり、自分の人生に活かしたり、そんなことが今の自分に大切なのかなって。とりあえず、これを読んでいる貴方。「本当にありがとうございました」本当に、本当にね。まだまだ、懲りない私ですが、これからもよろしくなり。あれ、今日はどうしたん??って言われそうだけど。そんな39歳の誕生日でした。
2010年04月12日
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世間をお騒がせしているとおり、私の住んでいるI市も一躍有名になってしまった。今週は学校、幼稚園なども一週間休校。地元のドラッグストアではマスクは売り切れ。この子どもの多い街でも公園ですらひっそり。店もいつもより人気が少ない。なんだか、ちょっと不気味。でも、静かで落ち着くのも事実。私は正直、公園でちょこっと遊ばせるくらいええやん、と思っていたのだが、この子どもの多い街。子どもが皆出てきたら、公園だって人だかり。ということは、うちの庭か、どこか他の場所か。お友達誘って・・とか思ったけど、そんな雰囲気でもない。ということで、近所の子と家の前でちょこっと遊ばせる以外は、べったり親子三人の時間となる。さてさて、何をしよう。この非日常な感じ、なんだかわくわくしてきた。時間も使うし子どもは喜ぶし、一番お手軽なのは「手作り」もの。とりあえず、「パン」や「餃子」など作ってわいわい。あと、創作もの。新聞敷いて、工作資材(ガラクタ)と画用紙、画材を与えて後はお好きなように。でもやっぱり、「外に出たい」と。とりあえず庭で家庭菜園の世話。そして砂場で砂遊び。そんなこんなで、一応子どもたち飽きずに遊んでる。(あ、勉強忘れてた!)庭で作業していて、ふと思い出した。そういえば、前からやりたかったことが。そうそう、庭に小さなビオトープ(自然生態系のある池)を作ろう!計画があった。この際、それをやってしまおう。というわけで、マスクしてホームセンター(外出してるやんか)でプラ船(左官の人がコンクリート混ぜる入れ物)や水草、などを購入。幸いうちにはカルキ抜きしなくていい雨水がたっぷりあるので、それと庭になぜか転がっている大きな石を組み合わせて少し高低差のある池をレイアウト。水草を植えて、藻類も浮かべて。周り静かなのに、うちだけ庭で異常に盛り上がる。なぜかこの一連の作業がとっても楽しい。「池」を作るってわくわくする。理由なんかない。本能的に。で池ができたら、そりゃ生き物。ということで、またこそこそと人のいない田んぼへいって、メダカ(許可もらってマス)を取りに。田んぼの泥も生物の宝庫なのでバケツで持って帰る。近くの公園の池でも、エビ、小魚(ハゼ類?)をゲット。沢山動植物とは接触してるけど、人とは接触してないからいいでしょ??ということで、うちに「池」ができた。小さな四角い池だけど、なんだか見てるだけで癒される。これから、この池のなかで、どんなミクロのドラマが繰り広げられるのだろう。気がつけば、また一番興奮しているのは私。ところで、来週からは一体どうなるんだろう。近所のママたちもそれが気になる。働くママにとっては死活問題。感染者じわじわ増えているから(きっと明るみに出ていない感染者莫大だと思う)、学校再開したらあっという間に広がるんだろうなあ。でも、このまま休校続けるのも、実際無理。もうこれは避けられないんだよね。しかし「新型インフルエンザ」(旧姓 豚インフルエンザ)なんて命名するからなぜか怖がるんだけど。専門家いわく、いつものインフルエンザと「ほぼ同じ」。皆免疫持ってないし、ワクチンもまだだから、そもそも防ぎようがないのでは。かかるときはかかるし、大丈夫ならラッキーだったと。そうやって受け入れるしか、方法ないのでは。皆してウィルスと闘ってるのが、どうしても滑稽に見える。共存するしかないのにね。だって、タミフルだろうが、リレンザだろうが、消毒液だろうがウィルスを全滅させることは不可能なんだから。共存とはつまり、いつものインフルエンザと同じということ。熱が出たら休み、タミフル飲みたい人は飲み。それ以上に何がありますか?専門家の方々。もちろん、予防できる限りはするけれど、「毒性が弱い」というのは付き合える相手だというメッセージなのでは。私、もう新しいウィルスと付き合う覚悟出来てる。皆もそうだと思うんだけど、違うかな??
2009年05月19日
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ぽかぽか休日。いつものように子どもたちと近くの公園へ。お昼を食べてまったりしていたら、なにやら遠くに人だかりが。ときおり、「わー」とか「おおー」とか聞こえてくるので、子どもたちも我慢できずに走っていった。芝生にできた小さな人だかりの真ん中で、小柄なお兄さんが大道芸をしていた。息子たちは大人の隙間からするすると最前列へいってちょこんと座っている。やっぱり子どもには大人気で、沢山の家族連れが集まっていた。私はちょっとだけ後ろから、腕組してじっと見ていた。小さなボールを三つ、四つ、五つと増やしていくお手玉のようなジャグリング。わかり易いけれど、逆に難しさはあんまり伝わってこない。つぎに、ビデオテープ大の箱を三つから四つ左右の手で挟んで箱を移動させるもの。箱の一番小さい面で挟むので、相当難しそう。これも、難度の割には地味な芸なので、子どもたちの反応はイマイチ。その日は、まるで夏のような暑さで、全身黒ずくめのお兄さんはすでに汗びっしょりになっていた。次に棒についた紐でまわす「中国ゴマ」(茶碗を二つ底同士くっつけたようなもの)が始まった。勢いをつけて、空高く放り投げる。予想を遥かに超えて、高く上がるコマ。大きめの木の高さを軽々超えていた。「おおー」あがる歓声。このあたりから、お客さんを掴みだして、人だかりの輪が一つにまとまってきた。公園なので、あちこちから人が集まってきて、お兄さんの周りは、360度お客さんが囲んでいる。いわゆる「マジックショー」なら、タネと仕掛けの関係でこうやって全方位的に見られることもないだろう。そこは、大道芸。どこからみても、もちろんタネも仕掛けもない。実際、コマをキャッチするところで、一回失敗。「演出かな」とちらっと思ったけど、まとまってきた場の雰囲気から考えて、そのタイミングでわざわざ失敗させる必要もないだろう。間髪いれず再挑戦して、大技を成功させた。そのとき、ふとウン十年前に高校の卒業旅行で見た「上海雑技団」の公演を思い出した。公演といっても、テーマパークの片隅でやっている、小ぢんまりとしたショーだった。薄暗い仮設のテントの中、歩き疲れた私たちは休憩がてら、その演技を見ていた。お客さんもまだら、特に司会などもなくて、淡々と演技が続けられていた。玉乗りや様々なバランス芸。いわゆるテレビでやっている「中国雑技団」でおなじみのショーだった。そして、おそらく最後の演目として、これもまたおなじみの人間タワーが始まった。寝そべって両足を挙げた体格のいい男性。その足のうえに、板。その上にコロコロ転がる円筒。その上にまた板。その上に逆立ち。その上に、ハシゴ。その上に・・・。とバランスにバランスを重ねて、小柄な子どもたちが上へ上へと登って行く。それがそれが。途中で失敗するのだ。「がちゃーん」と大きな音をたてて。そのたび、板やら、ハシゴやらが舞台に投げ出される。その音があまりに大きいので、だらだらと見ていた私たちも心配になってきて、気がつけば舞台に釘付けになっていた。はっきりいって、テレビでみるそれは、そんなに失敗しない。それが「中国雑技団」のはず。演出?と思ったけど、高校生の私の目で見て、それは「わざと」のようには見えなかった。数回の失敗を繰り返しても、まだ演技は続く。なんの説明も、司会もないので、演技者と観客はただ無言でその成功を祈るようになった。そして、とうとうタワーが完成した。数少ない観客から、拍手が沸いた。その遠い記憶と、目の前の大道芸人のお兄さんが重なった。その時私の頭に浮かんだ言葉。「晒す(さらす)」。その時、その瞬間の自分を「晒す」。360度囲まれたその輪の真ん中で、自分を晒す。逃げ場のない空間で、自分の一部となっている「芸」を晒す。そのパワーに胸が震えた。とうとう最後の演目、火の着いた、たいまつをジャグリングするという荒技になった。そこでお兄さん「この技、一人ではできませーん、どなたか手伝ってもらえませんか」と。私、真っ先に手を挙げる。で「おねーさん!お願いします」、とご指名。息子たちも大喜び。まず、低めの台に円筒を横たえてゴロゴロ転がす。その上に板を置く。とりあえずは板の上に立って、バランスを取るのだが、そこまでもなかなか難しい。左右の足で絶えずぐらぐらバランスを取りながら、少し安定してきたところで、私が火のついたたいまつを渡す。私の役は燃え盛るたいまつを3本、持って渡すだけだが、「熱いので」と分厚い手袋を渡された。確かに熱いし、かなり重い。何とかお兄さん、バランスとれてきたので、「おねーさんお願いします」といわれ一本ずつたいまつを渡した。熱い。とにかく熱いんですけど。想像以上に熱いたいまつを渡そうとしたお兄さんを見てびっくり。頭の先から、足の先まで、汗びっしょり。どこかの池にはまって出てきた人みたい。その状態で、三本の火のついたたいまつをぐるぐると回し、観客の大歓声の中、演技終了。終わったあとお礼にと小さな人形をもらった。「とってもよかったです!」と声をかけると、演技中とは打って変わって無口な恥かしがりのお兄さん。でもね、私、ちょっと感動したんだ。「本物だ」って思って。そうやって、自分を人(それも不特定の)の前で晒す、ということで生計を立てる生き方がある。もちろん、仕事をしていたって、家庭にいたって、自分を晒さずにはいられない時だってある。ただ、対象はもう少し限定的だし、逃げ場もそれなりにあるような気がする。たとえ、その限られた時間にせよ、自分のそのままを「晒す」。そこには、大きな覚悟というか、真剣さが確かにあって、日々の小さな闘いの中、生きている私たちに力をくれた。のんびりとした休日の午後。小さな感動をもらって、また観客はばらばらと公園へと散って行った。
2009年04月17日
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一年間書いてきた、彩都のコラムも今回が最後になった。引っ越してすぐに始めて、新しい生活をする上で、毎月一回立ち止まって、街に関わることを書くというのはとっても楽しいことだった。やはり、なにかお題というか、切り口が決まっていると文章は書きやすい。幸い、各方面?からなかなか評判もよかったので、一年書き終えられてほっとしている。実は、来月からは、街のイベントのリポートみたいなのを書くことになった。こちらは今までより不定期で、且つ、住民向けの会員専門サイトになる。だから、広く一般の方に読まれるという訳ではないのだけれど。この春から、下の子が幼稚園に行くので、念願の「一人の時間」を得ることができる。毎日数時間ではあるけれど。はてさて、この時間をどうやって有意義に過ごそうか。思案中。キーワードは「広げる」「学ぶ」「書く」かなあ。今まで自分と子どもの狭い濃い世界にどっぷりつかっていたので、もう少し、視線を遠くに移して、色んなものを見てみたい。結果、人間関係も広がるだろうし。「学びたいこと」も沢山。手っ取り早いところでは、読みたかった本をどんどん読んでいこうと思う。あとは、「書く」こと。アウトプットの場所をもっと探して、もっともっと自由に気持ちよく書けるようになりたい。春のこの不安定な気候は落ち着かなくてそわそわする。昔っから何故かこの季節は色々なことが起こって、忘れられない思い出が沢山。生暖かい空気や、変わりやすい空が色んなことを思い出させて、胸がうずく。今年は、下の子が手を離れることに、一抹の寂しさが。子育ての蜜月は終わってしまうんだろうか。もちろん、これからも沢山の楽しい時間はあるだろうけど。べったり、ぴったり、すりすりのこのなんとも甘い時間が終わるのが正直サミシイ。それにしても、男の子の3歳位って、本当にかわいい。上の子のときも、ラブラブだったけど。ええい。春だもの。新しい一歩踏み出さないとね。ああ、でもやっぱりキュんとするわ、この季節。では、最後の彩都コラム、行ってみよー。「一周年」http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年03月27日
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「万博公園の森」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年03月12日
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原題は「In the Shadow of the Moon」という映画「ザ ムーン」に行ってきた。アメリカのアポロ計画(なぜに今?)にまつわるドキュメンタリーでNASAの蔵出し映像(本当によく録ってるわ)と現在の宇宙飛行士たちへのインタビューで構成されている。息子と二人で見に行ってきた。映画は「ポニョ」以来かな。時の大統領ケネディの掲げた「月へ人を送る計画」。単なる科学技術の挑戦というよりは、もっと色々なものが渦巻く。冷戦時代のソ連との力関係、そして、ベトナム戦争が泥沼化する中で国民をまとめるための施策としての意味合い。何より、アメリカがまだ「輝けるアメリカ」だった頃の映像になんだか、私でも懐かしさを覚えた。その辺から、何で今この映画なんだかがわかってきたような・・・。息子はただ単に芽生えてきた「宇宙」「天体」への興味などから画面に真剣に見入っている。訓練の様子、いちいちに国中が歓喜、高揚する空気。事故、そして、打ち上げの恐ろしい轟音。コンピューターを使わず、人の手の試行錯誤から生まれてくる機体。すさまじい時間とパワーと、それを後押しする「人々」の力。普段なかなか見えない「国」というものがそこにははっきりと存在していた。悲しいかな、戦争でも起こらない限り、私たちは「国」というものを見失う。あ、だからオリンピックがあるんだったね。アメリカのそして、ひいては人類の希望を載せて飛び立つロケット。そこには、どうしてもそこへ向かわなければならない、人の悲しい性を見たような気がした。どんなに時間を費やしても、脆い鎖ですべてがつながれているようなシステム。それをどこかで知りながらも、やはり飛ばずにいはいられない。そして、成功したときの、アメリカのみならず、全世界の歓喜。それと、対照的な荒涼とした月の風景。漆黒の宇宙と、真っ白な月の大地。「美しい」と形容もされるが、私にはやはり「踏み入れてはならない地」に見えた。実際そう語った宇宙飛行士もいた。ただ、遠くに見える地球は、紛れもなく美しい。そして、それもやはりどこか脆く壊れやすいもののように見えた。科学も進歩し始めたら止まることができない。いや、本当は止まったっていいのに。やっぱり、人間はわかってない。ただ、おろおろしながらも、その怖さを打ち破るべく必死で生きてる。「月へ行ったのはウソでは?」なんて噂が何年か前にタブロイド紙を賑わせていたけど、そんなことはどうでもいい。数々の映像の持つ力は、やっぱりすごい。それが本当であれ嘘であれ、それぞれの目で確かめるしかない。映画にはちゃんと映っていたような気がする、その光も影もね。
2009年02月02日
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「彩都 花の話」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2009年01月06日
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2008年が終わった。一昨年よりは、少しはパソコンに向かう時間がふえたが、相変わらず細々としか書くことはできなかった。引越しによって、新しい生活が始まったので、それに適応しているうちに一年が終わった。子どもが成長するにつれ、色々行動範囲が増えたので、親子で楽しい時間を沢山共有できたように思う。なんだかとても忙しかった秋、反動で沈んだ12月。それでも、クリスマスは子どもたちとあれやこれやと楽しみ、大掃除、お正月の準備をとつつがなく事を運ぼうとしていた矢先、実家の父がやってくれた。おせち準備のために、実家へ行くと、そこに救急車が。ヤな予感。そばに居た近所の人に、「はしごから落ちた」と聞いて、救急車のドアをノックした。やはり父だった。幸い意識はあったが、そのまま救急病院へ。残念ながら、脳内で出血が見られ、そのまま入院することになった。外傷性くも膜下出血とのこと。手術の必要はなかったが、出血量はかなりあったようで、今後のさまざまな後遺症が説明された。とりあえず、帰ってきて、おせちなどを作ってはみるものの、正月な気分はどこかへ行ってしまった。そうこうしているうちに、年が明けてしまった。しばらく父の入院は続きそうだが、こちらはこちらで新しい年をはじめるしかない。今年は、春から下の息子が幼稚園に入るため、やっと自分の時間を少しもてるようになる、ということだけが決まっている。その時間の使い道などは、未定。仕事、その他何か新しいことをはじめることはできるのだが、はっきりと「これ!」と思えるものは見つかっていない。でも、なんとなく楽しみにしているのも事実。子どもがようやく手を離れたら・・・と思ったら、忍び寄る親の老い。人生うまい具合に、飽きさせないストーリーが用意されている。うちの場合、父は今回のことに限らず、病気のデパートのようにさまざまな持病を抱えている。そして、去年秋には母の頭に腫瘍が見つかった。その治療も、今後必要になってくるだろう。病気、そしてゆくゆくは介護という形で親とかかわっていく日が確実に近づいてきた。そして、こともあろうに、頼りになる妹一家の海外転勤!の話。逃げ場なし。あ、別に逃げるつもりはないのだが、明らかに私の「宿題」の締め切りが近づいてきた。それは、子育て中にむくむくと顔をだした、自分の親への「感情」。これから、親と向き合っていく前に、なんらか収まりをつけておかないといけないのはわかっている。そして、それはこれからの自分の子育てにも、大きな影響を与えるんだろうなあ。しかし、気が重い。新年早々、テンションが低くてどうかと思うが、客観的に見れば、色々な意味で、自分が楽になれるチャンスなのかも、しれない。でっかい石がどーんと自分の前に鎮座している。いつからこんなに重たくなってしまったのか、思い出せない。でも、その存在だけは嫌でも感じずにはいられなかった。いっそ背負って歩こうか。ひょいと乗り越えていこうか。見えないくらい遠くへ飛んでいけるかな。今年もまた、「先の見えぬ」お正月。でも、いつものことなので、ちょっと笑えるよ。
2009年01月05日
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「私の街の研究所」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年11月27日
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「実りの秋」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年10月28日
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「自転車生活」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年10月01日
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「恵みの雨水」アップしました。http://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年08月21日
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夏休み前半も終わり。それにしても暑い。例年恒例の山口と滋賀の田舎への帰省と、ちびっ子キャンプ。川遊び、プールに虫取り、花火大会と子どもたち中心に夏は過ぎていく。 宿題帳ページめくれる 風が来る プールのあとの にぎりめし 白いパンツの子どもが眠る そいつは誰だ 死ぬほど遊ぶ 夏休みの子ども へちま揺れる 夢が揺れてる 揺れながら 夏を生きる(矢野顕子・糸井重里 「GHILDREN IN THE SUMMER」)この曲がずっと頭の中で鳴ってる。大人はバテてる。子どもは死ぬほど遊ぶ。まぶしい日差しに、確実に私は老化しているんだろうけど(笑)、子どもはビシバシ成長している。特に下の息子は普段居ないお兄ちゃんが家にいるので、お兄ちゃんについていこうと、めきめき力をつけている。ママはついて来るなと、お兄ちゃんたちについていって、街のどこかへ消えていく。上の子のときはまだ三歳になったばかりの息子には、いつも私が付き添っていた。でも、下の子は、お兄ちゃんもいるし、近所のお姉ちゃんたちもいるし、喜んで私から離れて遊んでいる。正直私は、迷子にならないか、車に轢かれないか、そわそわで何度も二階から姿を探すけど・・。最後は神に祈るのみ。「無事に帰ってきますように」。子育ては、自分が手を掛け、目を配っているときのほうが、肉体的には大変だけど、いざ、親から離れだすと、今度は手の届かないもどかしさから、精神的に大変。私は、やっぱり怖がりだし、心配性。どーんと構えていられる肝っ玉かあさんには程遠い。信じて待っていてあげれば、一回りずつ大きくなって帰ってきてくれる。だけど、車に犯罪に・・子どもにはあまり優しくない世間。だから、最後は祈るしかない。 聞きなれぬ 方言(ことば)を使う いとこたち 汚れた足を洗う水 泣き虫 弱虫 カブト虫 そいつは僕だ 死ぬほど遊ぶ 夏休みの子ども 秋がくれば みんなが帰る 泣きながら 夏を止める 夏を生きる 子どもたちよ 存分に夏を楽しんでね。かあさんは、ヨレヨレだけど、やっぱり楽しいよ。さあ、後半はお楽しみ、沖縄旅行。沖縄の海、やんばるの森へ。南国の血が騒ぐわ。子連れだと、一体どうなることやら。
2008年08月10日
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「虫、虫、虫。」更新してます。以下よりhttp://www.e3110.com/resident/colum15.cfm
2008年07月23日
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引っ越しから3ヶ月。ようやく荷物も片付き、新しい生活がスムーズに回るようになってきた。そこで、かねてから計画していた、ちょっとしたことを実行へ移すことに。それは、生ごみの堆肥化。狭いながらも庭のある家に引っ越したので、自分ちで生ゴミを処理できたら・・と。うまく堆肥にすることができれば、それをうちにある小さな菜園に撒いて、そこでできた野菜料理を料理して、出たゴミをまた堆肥に。小さい循環をうちのなかで作ってしまおうという魂胆。正確にいえば、食べた野菜を消化し排泄したもの(失礼)を肥料にして・・・というのが完全な循環なんだけど、さすがに肥溜めをうちに作る勇気が持てず、とりあえずは庭で生ゴミをなんとかできないかと考えた。主婦としては、とにかく生ゴミの分だけでも、ごみを減らせるし、子ども達は、形あるものが土へ帰っていく様子に触れることができるし。まさに一石二鳥。堆肥化するにあたって、例によっていろいろ調べてみた。電気などを使わずに自然の作用で堆肥にできるものを探していたら、「ミミズコンポスト」というその名のとおりミミズくんにがんばってもらう方法を紹介した本を見つけた。虫博士の息子は大喜びしそうだ。ただ、大量のミミズをいっぺんに愛せるだろうか、と自問してみると、やっぱり一歩が出ない。となると、いわゆる微生物の類の力を借りて食物を分解、堆肥化させるものが有力に。そこで、一番気になったのが、「ダンボールコンポスト」というもの。構造はいたってシンプル。ダンボールに、微生物棲家となる基材(炭の粉とピートモスというおがくずのようなもの)を入れ、そこに毎日生ゴミを投入して混ぜていくだけ。本当にそれだけで??早速テキストなるものを取り寄せた。要は特別な菌や何かを投入するのではなく、生ゴミに元から付着している菌や微生物たちにとって、最適な環境を保持してやると、結果的に生ゴミの分解が効率よくなされるということらしい。それが、たった一つのダンボールの中で行われるとしたら・・・考えただけでワクワクしてきた。というわけで、早速トライ。みかん箱ほどのダンボールに材料入れて混ぜて、通気がいい台の上に乗せるだけ。手伝ってくれた息子は、ダンボールに顔を書いて、「ダンちゃん」と命名。これから毎日生ゴミを食べていただくうちの新しい家族となった。後は毎日出た生ゴミを投入してはかき混ぜるだけ。実際、入れてから数日はうんともすんとも。ただ、一週間を過ぎた頃から、活動?が始まるのでいよいよ検温を。検温、つまり購入した温度計をつかって、「ダンちゃん」の体温をはかると、分解が進んでいるか確認できるのだ。上手くいっていると温度があがる。確かに手を当ててみても、ほんわり暖かい。そう、「ダンちゃん」は生きてる!んだ。それに、カロリーの高いもの(甘いものとか油ものとか)を与えると温度は上昇して(50度!とかにもなるらしい)気温が低かったり、野菜が多かったりだと低めらしい。今のところ、ダンちゃん高熱はだしていないが、健康的に毎日をすごしてくれている。カビや臭いが気になってきたら、カロリー高めの生ゴミで温度をあげればまた、調子がよくなるという。熱出して病気を治すのね。今のところ、懸念されていた臭いもほとんどない。テキストには、臭いませんと書いてあったが、実は少々疑っていた。虫除けのTシャツカバーのおかげで、今のところ虫も発生していない。雨がかからなければ、ベランダでもOKだそう。ということは、マンションでもできるということ。大体3ヶ月は持つらしい。その間、毎日毎日500グラムくらいの生ゴミなら食べ続けられるそう。果たして結果はどうなることやら。後日報告を。
2008年06月23日
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今日、息子が学校からプリントを持って帰ってきた。タイトルは「保護者の皆様へお願い」。通常より大きなフォントでしかも太字だったので何事かと目をひいた。おそらく全校児童の保護者向けと思われる。その内容は「最近、児童たちのことで地域の方からお願いのお電話や、お手紙がありました。児童が下校の際に、・家の前にある敷石をばらまく。・カーポートの鎖で遊んで、カーポートの屋根が ゆがんでしまった。・花壇の花をぬく。・木の葉っぱをちぎりながら歩き捨てる。・玄関前の置物が壊されていた。・ポストを覗く。・ピンポンダッシュする。などをして迷惑をかけている。地域の方や、保護者がやっているところを見たら注意しているが、よくならない。そこで、(ここから囲み線があり、最重要!と強調)『どうしてこのようなことをしてはいけないのか。相手の方の立場に立って一つ一つお子様に丁寧にわかりやすく、お話していただければと思います。』学校での教育活動(道徳、学級会)では限界があるので、家庭でのご協力が必要です。」とのこと。ひと通り読んで、疑問だらけ。とりあえず、学校が一番強調しているのは、子どもに「どうしてこのようなことをしてはいけないのか」を一つ一つ丁寧にわからせてください、という部分。つまりは、そういう行為が相手をどのような気持ちにさせるか、を理解すればもうしないのでは、ということだが、そもそも、保護者や、学校がいくら丁寧に説いても子どもにそれが伝わるんだろうか。そもそも、そういうものは言われて(お説教で)理解するものではないはず。そして、私が一番ひっかかるのが、このプリント(つまりは学校側のお考え)には「なぜ子どもたちがそういうことをするのか」という視点が一切ないこと。子ども達が間違ったことをしているので、大人がそれを間違いだと教えなければ、の一方通行。そんなんで、子ども達が耳を傾けるはずがない。私は息子に、こういう行為をしたことがあるかと聞いたらしていないというので、じゃあ、こういうことする子は何ですると思う?と聞いたら即座に「面白いから」と言った。そのとおり。面白いと思えることを、そのままするのが子ども。いわゆる「いたずら」なんだと思う。「いたずら」なんて太古の昔からある子供の特権、みたいなもので、私からすれば、どれも自分がやってきたことばかり。社会生活で他人に迷惑をかけてはいけない、ということは、いわば、こういういたずらを通して、徐々に理解していくのではないかとさえ思う。では、どうして、今回のプリントのように、大事になってしまうのか。ひとつは、そういう「いたずら」に対する社会や大人の許容度が狭くなってしまったこと。子供たちを地域みんなで育ててやろう、という周りの大人の余裕がないから、すぐにこうやって学校へ苦情を持っていく。そして、もう一つ考えられるのが、子供たちと周りの大人とのコミュニケーションの問題。現にいたずらは現行犯で見つかっており、注意をしたとのこと。でも、改善されていない。普通、大人に見つかってこっぴどく叱られたら、子供はバカじゃないので同じことは二度しない。「注意をした」ときに、その表情、口調から「とても困っている」ということが子供に伝わっていない可能性がある。大人の表現力の問題か、それとも言われた子供たちが、それを感じ取るだけの感受性がない場合か。ここまで、事が深刻だとは思いたくないけれど。伝わっていない、というところに、そもそもの信頼関係が希薄だということは否めないだろう。それから、もう一つ、危惧されるのは、子供たちが、それを「迷惑行為」だとわかってやっている場合。これこそ、「なぜ子供たちがそういうことをするのか」という視点がないと全く見過ごされてしまう。今の子供たちは、学校、そして塾、習い事の生活のなかで、どんなに、窮屈な思いをしているか考えてあげているんだろうか。子ども達の自由な遊び場だって、どんなに限られているか。たくさんのストレスを抱えているということを、親達もわかっているはず。そんな中で、ストレスのはけ口として、いたずらがされていてもおかしくはない。だとしたら、このプリントにある「一つ一つ丁寧に、わかりやすく、お話しすること」は全く無意味である。どんなに、子供の心から遠い行為であるか。「なぜそういうことをするのか」。大人だったら、自分の子供をみて、自分の子供時代を思い出して、少しでも想像できるはず。そして、子供だって子供の言い分があるはず。そういう視点全くゼロのプリントを前に、暗澹とした気分になった。でもさあ、いいじゃん。いたずら。もっともっとやって、もっともっと叱られたらいいよ。そんな風に思ってる私は、学校からみたら、とんでもないのかな。**************************************************************ちょうど、今日私がもやもやしたことと、関連する知人のブログ記事があったので、以下にリンクを載せます。興味あるかたは、ぜひ読んでみてください。(この方のブログは、子育てされている方みんなに読んでもらいたいくらいです。)森の声さんのブログ子どもを支配しないでください(2008.5.29)
2008年05月29日
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引越し先は新しい街、彩都というところなのですが、開発している、阪急グループのサイト(しゃれではないです)の「入居者コラム」をこの春から書くことになりました(小遣い稼ぎに?!)。ちと、よそ行きに書いてますが。暇な方は、こちらも覗いてみてください。http://www.e3110.com/入居者コラム(匿名)の誰だかは、探してみてください。読めばわかるでしょう。きっと。
2008年05月08日
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人生5度目の引越しがあと二日に迫った。とんでもなく忙しいはずなのに、あえて現実逃避。もともと、環境の変化などにとてつもなく弱い私は、三月四月は落ち着かない。卒業、入学を繰り返していた頃も、いつも前の環境に未練たらたらで、なんだか不安定だった。今回は、完全自己都合の引越しなんだけど、それでもいざ動く段になって、「引っ越したくないなあ」とずるずる引っ張る心の動きにかき乱される。こういうときは何にも考えず、作業すればいいのにね。いつも離れるときになって、その環境が素敵に見えてくる。これって、なんだかずるいんだよね。きっと。でも、もう一人の自分はちゃんとわかっていて、これから待っているいろんな出会いをしっかり楽しみにしてたりもする。きっと、全国で沢山のひとが、こうやって心のなかで綱引きしてるんだろうなあ。不安と期待。あの時も、ずっと前のあの日も離れるときにそこをとても大切に思えた。やっぱりこれって幸せなことなんだろうなあ。それにしても、そわそわ落ち着かない。がんばって荷造りせねば。
2008年03月16日
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巷では、エコが大流行。とにかく、エコがつくとその商品は売れるらしい。電化製品でも、投資信託でも。スーパーではエコバッグはかなりの普及率。あちこちで、おしゃれなエコバッグが売っている。エコ=環境にやさしいということに、いつしか「かっこよさ」「おしゃれさ」がちゃっかり加味されている。もちろん、環境を破壊することよりは、かっこいいし、おしゃれかもしれないけれど。明らかに、商業戦略である。そして、そういうエコな生活をして、地球環境を持続していこうという生活スタイル=ロハスがこれまた大流行。こちらも、雑誌などの影響で、「おしゃれ」で「かっこいい」イメージが。このロハスという言葉、いったいどこから来たかと思えばアメリカのビジネスコンセプトだった。ロハスな事業を立ち上げるための、方向付けだったのだ。確かに、今地球がおかれている状況からすれば、正しい流れに沿った「ビジネス」のやり方だと思う。だから、急速に世界に広がっていった。私自身はといえば、スーパーにはエコバッグを持っていくし、せっけんでお洗濯、重曹でお掃除するし、有機野菜に玄米の、添加物の一切ない食事をつくり、フリーマーケットを活用し・・と一見ロハスな生活と思いきや、休みごとに車を乗り回し、どうしても落ちない子供服の汚れについ合成洗剤に手を伸ばし、たまにはマクドナルドでも食事し、やっぱりエアコンをつけ、その程度なのである。やはり、本当にロハスな生活をしようと思えば、田舎へ引越し、畑を耕し、食べたごみを堆肥にし、車には乗らず、日本家屋に住み、エアコンはつけず・・とたちまち、実現不可能な生活になってしまう。実現不可能と書いたが、おそらく、本当は実現可能だ。実際そういう生活をしている人もいる。ただ、そういう人の生活はきっと、ロハスな雑誌に載っているような、おしゃれでかっこいいものではなく、もっと、地味で土臭いでもあたたかいものなんだろうな。結局は「捨てるものを捨て、変えるものを変えれば」実現可能なんだ。そこに、すべてはかかっている。つまりは、生活スタイルどころか、生き方そのものを変えなくては。ロハスというのは、それがビジネスコンセプトであるので、消費対象を変えているだけで、本当は何にも捨てていないのである。ある意味、今の私達にとっては易しいことしか突きつけていない。なのに、ロハスな生活やってます!的な満足感が前に出て、本当のところから、目をそらしているような気がしてならない。本当に問われているのは、地球、環境のことを考えて「捨てられますか、変えられますか」と。こっちは、かなり厳しい。おそらく、ほとんどの人がこの質問から目をそらしているか、逃げ回っている。だけど、そうしないと本当は地球には優しくできないんだろうな。きっと、入り口は捨てることだろうが、いざ捨ててしまえば拾うどころか得るものが沢山あるのだろう。それより、何よりこの地球がどんなに美しく、貴重なものであるかはちゃんと知っているはずなのに。頭ではわかっていながら、なかなか一歩が踏み出せない。高度経済期の物質的豊かさで育った、ひ弱な私達。ああ、かっこ悪い。とりあえず、私にできることは、まだまだ変われない、かっこ悪い自分を認識することくらいかな。そして、地球の偉大さや、怖さに触れるたび、ちゃんと自分に問い続けるしかないんだよね。
2008年03月01日
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たまには、フツーの日記を。今日は朝から、幼稚園の謝恩会のお手伝い。うちの幼稚園には「謝恩会」というものがある。卒園時に親が先生への感謝の気持ちをこめて、いろいろと趣向を凝らした宴を企画する。昨年までは、それこそ、「出し物」のような親自作自演の劇なども行われており、そのために、何日もかけて企画、構成、練習をするという恐ろしいパワーが注がれていたようだ。ただ、「エスカレート」しすぎたことを理由に、今年からは企画ものは外注(ちなみに今年は風船太郎さんのバルーンパフォーマンス)にする、ということになった。そもそも、こういう会は他の園では、行われているのだろうか。それより、そもそもこういう会は必要なんだろうか。必要なら、どうすれば「感謝の意」は伝わるんだろうか。行事を運営する、各クラスの委員(小学校で言うPTA役員)さんたちの集まりでは、きっとそういうことは論議されないんだろう。何年も行われてきた、慣例となった行事を根本から見直すといった大胆な意見は、女の人ばかりの集まりでは、まず、出ない。あ、ここからまた、私の「女の集団嫌い」節だな。そういう、言ったことにより、具体的責任が生じる類の発言は、ほとんどの幼稚園ママはしない。俗に言う「言いだしっぺ」にはなりたくないからだ。だから、慣例、と慣習に則って、その慣例慣習には抽象的な批判はきっちりしながら、核心へは決して批判は向けず、大きなゆるい流れに沿って、物事を運ぶ。このママたちの間に横たわる「大きなゆるい流れ」はいったい誰が作っているのかが、はっきりとわからない仕組みになっているのだが、そのくせ、「大きく」て大概のママたちを呑み込んでいく。私は、どうしてもその流れにうまく乗れず、いつも気がつけば波打ち際で、見事な波乗りをこなすママたちを、協力的でもなく、かといって冷ややかでもなく見ている。時々、我慢ならなくなると、強引に船など持ち出して、何人かのママを乗せて勝手な航海に出たりもするのだが。もちろん、小さい船ながら、船長は自分とちゃんと名乗り出て。少なくとも、発生源の見えない「大きなゆるい流れ」を作り出すことは、とてもじゃないけど私にはできない。話を戻そう。今日は、謝恩会のプログラム表を作る作業のお手伝いを要請されて(強制ではなくて)、行って来た。色画用紙を折って、葉書を挟むきれいにカラー印刷された葉書には似顔絵ソフトを使った各担任の似顔絵。表紙にはパンチ式のカッターで均一に切り抜かれた、花や葉をのりで貼る作業。葉の向き、花の位置はきっちり指定で。表紙の子供の名前も、パソコンでシールにしてある。どこかの披露宴のプログラムのように、きっちりと均一で立派なプログラムが、人数分出来上がった。どこかの印刷屋に発注したような、仕事の正確さ。確かに、切ったり、貼ったり、はさんだり、たくさんの手作業を介してできたものだったけど、残念ながら、「心のこもった」ものには見えなかった。そして、その仕上がりが、異様なまでにきちんとしていたのが、私にはどうしてもどうしても、違和感が残った。「何のために」あのプログラムをみて、先生たちはおそらく「すごーい」と確実に言うだろう。でも、そのために??謝恩会って。感謝の気持ちを伝える会なのでは。感謝の気持ちってどうしたら、伝わるんだろう。心のスタート点をうやむやにすると到達するものも、ぼんやりとしたものになってしまう。沢山のママ達で一人ひとりの気持ちはバラバラで、だからこそまとめるのは難しいんだろうけど、その一人ひとりが自分の中の気持ちをちゃんと確認してから行動にでないと、なんだかもったいない。出来上がったものが、あまりにも立派だったので、その時間と労力をもっと違う力に変えられたら・・と思ってしまう。やっぱり、私の偏見でしょうか。なんだかヤな日記。でも、いいこと一つ。息子がサッカーで生涯初ゴール。それも2得点。二年近くかかって、やっとこさ。とにかく、ボールに対する執着心がなくて、いわゆる闘争心もなくて、いつ見てもサッカーしているというより、勝手にグランドに降りてきた試合を見ているサポーターのように、ボールとともにあっちへ走り、こっちへ走り。それって、サッカー?と親の私は思ってしまうのだけど、本人曰く「楽しい」から、まあそれでいいかと思っていた。でも、何で急に2得点??一応訳を聞いてみた。やっぱり、急に闘争心が芽生えたわけではなくて、彼曰く「先回り」を思いついたらしい。それで、「先回り」を実践したら、簡単に2得点取れたと。まあ、そういうレベルのお遊戯幼稚園サッカーだということだけど。ちょうど、ケーキを焼いていたので、初ゴールのお祝いにしてろうそくを立てて、ふーっとやってもらった。いい顔。それで、今日一日はめでたしめでたし。以上、フツーの日記でした。
2008年02月20日
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携帯電話を失くした。 おおよその紛失経路は予想がついているので、 明日捜索するつもり。 携帯をなくしたのは、初めてではない。 手馴れたもので、とりあえず電波を止めてもらう。 連絡さえすれば(しつこい位本人確認されるけど) 電波を止めたり、また再開したりは電話一本で出来る。 しかし、またやってしまったか。 思い返せば、財布なんて10回以上落としている。 昔、営業の仕事をしていた頃は、公衆電話(当時携帯なかったのね) に手帳や名刺ホルダー忘れまくり。 主婦の今も、子どもを3回も迷子に。 中には「紛失技」とも呼ぶべき 「車に乗る時に、車の屋根にかばんを載せ、そのまま 発進して、カーブにて振り落とす」や、 「朝のゴミ出し時に、家の鍵をゴミと一緒にゴミ置き場へ 投げ入れる(ただし本人気づかず)」 といった荒技もある。 酷いところでは「超大型ショッピングセンターで子ども 見失い、サービスセンターで店員に『店舗の全出入り口 封鎖しろ』と食って掛かり事件」まで起こしている。 これは、もう病気の域に達していると思う。 これだけ多いと、失くした後のあちこちの手続きはお手の物。 だけど、何かを無くしたが、まだ見つかっていないときの このなんともいえない宙ぶらりんな気持ちは 何度経験しても、馴れっこない。 「きっと見つかるって(天使のささやき)」。 「けけけ、悪いヤツに見つかってオモチャにされてるぜ( 悪魔くん反撃)」。 頭の中で、「見つかる⇔見つからない」を行ったり来たり。 自己嫌悪のなか悶々と過ごすしかない。 ただ、自慢じゃないけど(いや自慢だなコレは)歴代の数々の 遺失物はただひとつを除いて、すべて持ち主のところへ 帰ってきてる。 もしかしてこれってすごいことなんじゃないかしら。 しかも、そのただひとつの帰ってこなかったものは 私のものではなくて、大学時代のゼミの「共用財布」 (こんな私に会計させた皆が悪い)だったりして。 自分の財布は全部出てきてる。自慢にならないか。 毎回失くす度にものの大切さを痛感し、見つかるたび世の中は捨てたモンじゃないなと、感謝の気持ちでいっぱいになる。なのに、なぜ繰り返すんだろう。 私はぱっと見しっかりしてそうに見られるが、実は 何かに集中するとあっという間に周りを見失う。 つまり、まず「平常心」を失くす。その結果、何かモノが無くなる。 今日はたかが子どものクリスマス会だったけど、 一応実行委員として、全体の進行係。 ちょっと頑張りすぎていたのかもしれない。ばたばた走りまわっている間に、どこかで携帯は置き去りに。という訳で、結局は心の問題みたい。「慌てず、焦らず・・・」これは、なかなか克服できそうにないな。とはいえ、今までの恐るべき強運を信じて 自分を励ましながら、携帯の無い夜を悶々と過ごしてる。どうか、見つかりますように。
2006年12月14日
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ひさしぶりに、日曜に一人の時間ができた。 いつもなら、整体に行ったり用事を済ましたり。 貴重な時間だから有効に使おうと、ついついジタバタ とあっという間に使い切ってしまう。 今日はゆっくりしたいな。疲れてるし。 そしたら、どうしても行きたかったパン屋さんが 頭に浮かんだ。大好きなパン屋の匂いに癒されたい一心で 電車に乗って淡路へ。 そこは昔暮らしていた土地だったが、 何の用事もなくそこへ行くのはもしかしたら初めてかも しれない。 とりあえず、パンを買って歩く。 ただ、散歩をするなんてとても贅沢な気がした。 子どもが居ないから、よそ見しまくりでで歩ける。 元々、看板だの、人んちだの覗きながら歩くのが趣味? だったから、なんだか久しぶりに水を得た魚のように ふらふら道も決めず歩く。 当時から大阪市内のかなりごちゃごちゃした治安の悪いところ だという自覚はあった。でも、こうやって日曜の昼下がりに歩くとその街の荒み具合は、隠すベールすらなくて、生々しく 目に飛び込んで来る。 不法駐輪された自転車が道をふさいでる。 子どもが意地悪したのかと思うくらい、不規則にぐちゃぐちゃ。ムキになるくらい格闘してそこをなんとか通過する。 すると、今度は足元でぐにょ。なにかを踏んづけた。 道端にマナーなく出されたゴミ(日曜に収集するはずないだろ)から梨の皮がはみ出てて腐ってる。踏んづけてそのまま 歩く。あちこちの、お店から出た匂いが混ざってなんだか臭い。十月の清清しい風をかき消すくらい。 どうやら、この街は久しぶりの私を優しく迎えて くれそうにはないな、とあきらめる。 そういえば、パンを食べられそうなきれいな公園は この街にはないことに気付く。どこもカラスと浮浪者だらけ。 こうなったら、パンをかじりながら、かっかっと歩いてやる。 歩きながら食べるという、行儀の悪さはもうむしろ適切な くらいこの街には似合ってる。 商店街も、パン屋以外は一軒も魅力的な店はない。 明らかにまずそうなギョーザを、これでもかという くらい不潔そうな台に載せて、恐ろしいほどの安値で 売っている。そして、汚い紙に汚い字で「おいしい餃子」と 書いてある。やっぱり売る気はあるんだ。強引な感じ。 どのみせも、陳列にセンスがないのに、通りにはわがまま なくらいはみ出し気味。 そう、売りたいずうずうしさは満点なのだ。 一軒一軒目を凝らしてみると、そのなんともいえない 迫力にちょっと怖さまで感じる。 店だけでなく、前から歩いてくるお客たちも、次々に変。 髪型も、服もありえない組み合わせ。 どの人も、最新のモードからはかけ離れたファッション。 もう見れば見るほど変。 それでも共通して「自分では決して変だとは思っていない」オーラが出ている。 そして、何故か、みんな急いでちゃんと目的地へ 向かって歩いている。私の何倍ものスピードで。 ある意味圧倒される。 何の目的もなく、部外者気取りで歩くと、面白いくらい 街が自分に迫ってきた。 あれ、ちょっとまてよ、数年前は自分もこの街に住んでいたはず。そのときは、汚さも、臭いもそしてこの、なんともいえない街のエネルギーも不思議とそんなに気にならなかった。 それどころか、きっと私もこの街に同化していたに違いない。 どこか不安で、アンバランスで、でも必死だった自分が この街を早足で歩いていた。 なんだか哀しいような、恥ずかしいような気分になる。 「生きていくのはそりゃきれいごとだけでは済まされまへんわ」。 その街はそう言って確かに生きていた。 久しぶりに歩いて、懐かしさに浸ろうなんて期待した私が アホでした。
2006年10月19日
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もう半年くらいになるだろうか。毎日、水槽を見るたびドキドキする。「今日こそ動いていないのでは・・」でも、何とかゆっくり泳いでる。最後のほうは病気が進行して、シッポが半分くらいになったり、ヒレが変形したり。薬も何度か入れたけど、なかなか病気には太刀打ちできず。それでも、必死で餌を食べにくる姿に最近では感動すら覚えたり。二年ほど前の夏祭り、3歳になったばかりの息子が初めてやった金魚すくい。針金と薄々の半紙で作った網に「ずるいくらい破けやすい」という先入観がない息子は見事に網を水にどぼっとつけ、普通の金魚と出目金を二匹いっぺんにすくいあげた。大人ならありえない豪快さ。入水した角度とスピードが奇跡的にマッチして、網も何とか破れず。そんな、金魚すくいデビューの記念すべき金魚たち。どうせそんなに持たないだろうと思いつつ水槽とポンプを買ってきて飼い始めた。案の定普通の金魚は数日で昇天。でも、出目金は快調に環境に適応していった。一年を過ぎたころから、黒かった体が白くなりだして慌てて投薬などの治療もしてみたが、みるみる弱っていった。ああ、やっぱりだめかな、と思いだしてから、それからが長かった。こちらの想像を遥かにこえる頑張りで半年以上生き延びた。だから、私は死んだ出目金をみて思わず「ご苦労様」となんだかほっとしたくらい。さあ、このことを、息子に言わなくては。友達が遊びに来ていてどうやらまだ気づいていない。お友達が帰った後、「金魚しんじゃったよ」と告げる。水槽に駆け寄り、じーっと見つめる。・・・沈黙。それから、さらに長い沈黙・・・。(昨年末にかわいがってもらっていた、曾祖母が亡くなったので)「おおばあと同じ天国に行ったから、お祈りしてあげようね」と言って私が手を合わせたら、息子も同じように。「おおばあと一緒に天国で見ていて・・ね・・っク、 ヒック(その後、号泣)」私が抱きしめると、火がついたように泣きじゃくる。慟哭。4歳の子がこんなに?おそらく、曾祖母のときは、「死」の意味がぼんやりとしかわからなかったのだろう。その後半年を経て、曾祖母と二度と会えないという、「死」の不可逆性みたいなものを4歳ながらも理解し始めていたのだろうか。彼にとっては、タイムリーに響きすぎたようで、なかなか泣き止まなかった。「お墓作ってあげようね」とか「おおばあが天国でまたお世話してくれるよ」とか建設的なことを言ってあげて、ようやく少し落ち着いてきた。何とか泣き止んだかなと思い、私が家事を始めると、うちの電子ピアノから自動演奏の音楽が。「ちゃんちゃーんちゃららー」なんとショパンの「別れの曲」。その曲がお別れの曲だよ、ということは以前に説明したことはあるけど、今それはあまりに似合いすぎていて、ミュージカルみたいで恥ずかしいわ、と振り向くと、ピアノの前に座った息子が再度大泣き。が、今度はちょっと様子が違うぞ。なんか、酔ってるぞ、この坊主。4歳でそのシチュエーションに酔うっていうのも、どうかと思いながら、気持ちよさそうなので、そっとしておく。散々悲しむ自分に浸った挙句、すっきりしたように、自動演奏のスイッチを切る息子。その後は、何も無かったように、また遊び始める。面白いくらい、くるくると変わる気持ち。金魚の死が息子の心を大きく揺らしてる。子どもの心の軌跡は自由なそしてちょっと不安定な曲線。でも、それはキレイで見ていて飽きないよ。
2006年05月24日
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めったにテレビは見ないんだけど、昼間ふとテレビをつけた。何故か「激白!戸塚(ヨットスクールのね)氏生出演」の最中で、司会者の獏(大和田ね)が声を震わせてる。なんだか不穏な空気。平日の昼間に何をやっとるんじゃ。しかし。しばしそのまま見ていた。ワイドショーの一コーナーで「教育とは何か」という恐ろしく大きなテーマに手を出している。案の定、質疑はかみ合わず、話の行き先も広がる一方。いい加減だなあ。。。よくよく聞いていると、戸塚氏が壮大な教育論はじめた。基本的に論理の展開が乱暴なのだが、ところどころまともなことも言っている。「私がしたいのは教育の中でも『徳育』なのです」 「理性を教えるのです。理性ははじめから備わってはいま せん」「理性が最初から備わっていると考えるのが(西洋的)合理主義です」 「人が目指すべき人格は東洋哲学の中にははっきりとあって それを教えるのです。(そこで体罰が必要らしい)」 獏を含む回りの方々は、それに「価値観の多様化」で対抗し、融通の利かないたった一つの方法論を押しとうする戸塚氏を責めていた。ただ、今の教育が目指してきた「個の尊重」や、「多様化」が行き詰っているのも認めている。おそらく「多様性を認める」ということは、非常に難しいことなのだ。なぜなら、現実の社会にはそれらを受け止める余裕がない。その窮屈な社会の中で、それぞれが、認められるべき行き先を決め、それらが尊重されるというのは、実はとても厳しく難しいこと。自由を享受するということは、そういうことなのに、その強さをもった人間を形成する教育はなされていない。だから、行き先すら決められない人の多いことよ。その人たちが、明白なあるひとつの答えを持ったものに、惹かれるのは、ある意味当然だと思う。宗教もそのひとつ。戸塚氏はいわゆる「東洋哲学」を説いていた。戦前の思想じゃん、と言えばそれまでだが、戦前の人はそれはそれで、立派に生きていた。過剰な体罰は明らかに間違っているが、彼には、ひとつの思想とそれに伴う行動がある。人間とはほんとうにわがままだ。「自由は享受したいけれど、よりどころは欲しい」と願う。「自由」が欲しいなら、闘い続けるしかない。「よりどころ」が欲しいなら、ある程度自分を殺さねばならない。難しい。。。あれ、これってワイドショーではなかったか。誰一人、上手くまとめることができないまま、「ハイCMです」といい加減にコーナー終わり。おいおい。昼間から、考えされられました。
2006年05月02日
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