2006年03月12日
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落書無用
 むかし王献之《わうけんし》の書が世間に評判が出るに連れて、何とかして無償《たゞ》でそれを手に入れようといふ、虫の善《い》い事を考へる向《むき》が多く出来て来た。
 さういふ狡い輩《てあひ》のなかに、一人頓智のいゝ若者が居た。この若者もそれだけの才覚があつたら、美しい女を手に入れる方法でも考へたが良かつたらうに、世間並に王献之の書を手に入れようと夢中になつた。
 で、白い切り立ての紗《しや》で特別仕立の上《うは》つ張《ばり》のやうなものを栫《こしら》へ、それを着込んでにこにこもので王献之の許《とこ》へ着て往つた。王献之は熟々《つく/゛\》それを見てゐたが、
 「良《い》い紗だな。こんな奴へ一つ腕を揮《ふる》つて書いてみたら面白からうな。」
と独語《ひとりごと》のやうに言つた。
 若者はきさくに上つ張を脱いで、書家の前に投出した。
 「無けなしの銭《ぜに》で拵《こさ》へたんですが、貴方の事ならよござんす、一つ思ひ切り腕を揮ってみて下さい。」
 王献之は大喜びで、いきなり筆を取つて、草書楷書と手当り次第に好きな字を書き散らした。そして、

と言つて、そつと筆をさし置いた。側《そば》にゐた弟子の誰彼は舌打しながら凝《じつ》と見惚《みと》れてゐた。
 若者は手を出してその上《うは》つ被《ばり》をさつと掻《か》つ俊《さら》つたと思ふと、いきなり駆けだした。だが少し遅かつた。門を出る頃には、もう弟子の誰彼に追ひつかれて、上《うは》つ被《ばり》は滅茶々々に引《ひ》つ奪《たく》られ、若者の手には片袖一つしか残つてゐなかつた。若者がその片袖を売つて酒を飲
んだか、何《ど》うかといふ事は私の知つた事ではない。
 今、仙台の第二高等学校にゐる登張《とばり》竹風は、酒に酔ふと丶筆を執つて其辺《そこら》へ落書をする。障子であらうと、金屏風《きんぴやうぶ》であらうと一向|厭《いと》はないが、とりわけ女の長襦袢《ながじゆばん》へ書くのが好きらしい。昵懇《なじみ》芸者のなかには、偶《たま》には竹風の書いた長襦拌を、呉服屋の書出しなどと一緒に叮嚀に蔵《しま》ひ込んでるのもあると聞いてゐる。
 そんな事になつてはもう仕方が無い。国家は法律によつても、女の長襦袢を拙《まづ》い書画の酔興から保護しなければならぬ。





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最終更新日  2006年04月16日 21時15分18秒
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