2006年03月14日
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山葵《わさぴ》
 洋画家の岡野栄氏が学習院の同僚松木愛重博士などと一緒に房州に往つたことがあつた。亜米利加の女が巴里《パリー》を天国だと思つてゐるやうに、東京の画家《ゑかき》や文学者は、天国は房州にあるとでも思つてゐると見えて暇と金さへあれば直ぐに房州へ出かける。
 岡野氏はその前房州へ往つた折、うまい松魚《かつを》を食はされたが、生憎《あひにく》山葵が無くて困つた事を思ひ出して、出がけに出入《でいり》の八百屋から山葵をしこたま取寄せる事を忘れなかつた。
 「那地《あつち》へ着いたら松魚のうまいのを鱈腹《たらふく》食はせるぞ。」
 岡野氏は山葵の風呂敷包を叩きくかう言つて自慢さうに笑つたものだ。
 その日|勝浦《かつうら》に着くが早いか、亭主を呼ぴ出して直ぐ、
 「松魚を。」
と言つたが、亭主は閾際《しきゐぎは》にかいつくばつて、
 「折角ですが、もう一週間ばかしも不漁続《しけつど》きだもんで。」

 岡野氏等は房州のやうな天国に松魚の捕《と》れない法はない筈だと、ぶつ/\呟《ぼや》きながら次の天津《あまづ》をさして発《た》つた。だが、悪い時には悪いもので、海は華族学校の先生達に当てつけたやうに、松魚といつては一|尾《ぴき》も網に上《のば》せなかつた。
 「去年山村耕花がやつて来た時にも緇《まら》ばかし喰《く》はされたと聞いたつけが……」
 岡野氏等はこんな事を話し合ひながら、馬鈴薯《じやがいも》の煮たの許《ばか》し頬張つた。言ふ迄もなく馬鈴薯《じやがいも》は畑に出来るものなのだ。
 岡野氏は馬鈴薯《じやがいも》で一杯になつた腹を抱へて、 「だが、山葵を何《ど》うしたもんだらうて。」
と皆の顔を見た。すると、一行の誰かが先年農科大学の池野成一郎博士が欧洲へ往《ゆ》く時、アルプス登山は草鞋《わらぢ》に限るといつて、五十足ばかり用意して往つたが、草鞋は一向役に立たず、色々持て余した末、諸方の博物館へ日本の履《くつ》だといつて一足づつ寄贈した事を話した。そして岡野氏の山葵もその儘《まゝ》宿屋に寄附したらよからうと附足《つけた》した。
 お蔭で天津の宿屋の裏畑には近頃山葵が芽を出しかけてゐる。結構な事だが、房州のやうな画家《ゑかき》の天国には、少し辛過ぎるかも知れない。





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最終更新日  2006年04月16日 21時56分53秒
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